なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

なぜ、ドイツの大衆は、ヒトラーを選んでしまったのか その2

time 2019/08/13

なぜ、ドイツの大衆は、ヒトラーを選んでしまったのか その2

ヒトラーが独裁者になった裏には、大勢の大衆がワイマール憲法のもとでヒトラー率いるナチ党に投票したことが挙げられます。

では、なぜドイツの大衆はヒトラーに投票したのでしょうか?

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亀仙人2

ドイツ国会選挙に見るドイツ大衆の動向(前編)

1919年ドイツ国民議会選挙

1919年1月19日 投票率82.7%

第1党 社会民主党165議席(得票率37.9%)
第2党 中央党91議席(得票率19.7%)
第3党 ドイツ民主党75議席(得票率18.6%)

第一次世界大戦とドイツ革命を経て成立したヴァイマル共和国が初めて行った選挙。ドイツの選挙でははじめて比例代表制を採用、女性参政権も認められました。

この選挙では、共産党が議会政治反対の立場から選挙ボイコット運動を展開しましたが投票率82.7%を確保しました。

この選挙で、ヴァイマル共和政を擁護するヴァイマル連合(ドイツ社会民主党、中央党、ドイツ民主党)が76.2%の票を集めて大勝しました。

このことからドイツ国民は、明らかに「革命」でも「労働者政権」でもなく、「議会制統治」を選択してたことがわかります。

この選挙後ドイツはヴェルサイユ条約に調印し、ラインラントへの連合軍駐屯、陸軍は10万人を上限とするなどの軍備の制限、植民地とエルザス=ロートリンゲン、上シュレージエンなどの割譲、ザール地方の国際連盟による管理化、ダンツィヒ(現・グダニスク)の自由都市化などの領土削減を認めさせられました。

また経済面でも連合国側の管理機関がドイツに設置される事になり、飛行機の開発・民間航空も禁止された。そして戦争責任はドイツにあることが定められた。中でもドイツを苦しめる事になるのが、多額になるとみられる賠償金でした。

第1次世界大戦終了時にさえ、ドイツ国内に外国軍の侵入を許さなかったドイツに対して、ドイツ国民の多くは一方的な戦争責任の押し付けに屈辱を感じてワイマール政府に反対するようになりました。

戦時中に大量発行された戦時公債の償還、軍人の復員費などの膨大な出費、そして産業の停滞による税収減が政府の財政を圧迫するようになりました。

政府は紙幣の増発を行うことで対処しようとしたため、次第にインフレーションが進んでいきます。

インフレと不況は国民生活の困窮と混乱を招き、左派勢力によるストライキや暴動が頻発しました。それらに対して政府は軍を出動させ鎮圧しました。これによりドイツ国民は、さらに政府に対して反感を強めるようになります。

1920年ドイツ国会選挙

1920年6月6日

第1党 ドイツ社会民主党 (SPD)   102議席(得票率21.7%)
第2党 ドイツ独立社会民主党 (USPD)   84議席(得票率17.9%)
第3党 ドイツ国家人民党 (DNVP)   71議席(得票率15.1%)
第4党 ドイツ人民党 (DVP)   65 議席(得票率13.9%)
第5党 中央党 (Zentrum)  64議席 (得票率13.6% )
第6党 ドイツ民主党 (DDP)   39議席 (得票率8.3%)

第8党 ドイツ共産党 (KPD) 4議席(得票率2.1%)

ヴァイマル共和政を擁護する与党であるドイツ社会民主党、中央党、ドイツ民主党はいずれも大きく没落し、プロレタリア(労働者階級)独裁を唱えるドイツ独立社会民主党、帝政復古の立場の立場を取るドイツ国家人民党 やドイツ人民党 頑張って大きく票を伸ばしました。

ドイツ共産党もこの選挙から参加し、4議席(得票率2.1%)を獲得しました。

ドイツ社会民主党(SPD)

は、大きく凋落したドイツ民主党 (DDP)を見限ったため、ドイツ人民党 (DVP) と中央党 (Zentrum)の3党によるコンスタンティン・フェーレンバッハ内閣が成立しました。

賠償金への不満

1921年3月から行われたロンドン会議において、賠償金の金額は1320億金マルク、具体的には毎年20億マルクと輸出額の26%を30年間支払う方式による返済が定められた。フェーレンバッハは受諾不可能として辞職し、かわって就任したヨーゼフ・ヴィルトのもとで受諾された。

引用ウィキペディア

この賠償金は当時ドイツの支払い能力を超えていたため、スムーズに支払えず怒ったフランスは1923年1月11日からベルギーと共にドイツ屈指の工業地帯であるルール地方の占領しました。これはルール炭鉱の石炭を賠償金の代わりにあてるためです。

ドイツ政府は、鉱工業従事者にストライキやサボタージュを呼びかける「消極的抵抗」で対抗しました。この消極的抵抗は当初ドイツ国内で熱狂的に支持されたが、ドイツ産業の心臓部であるルール地方の停止は経済に重大な影響を与えました。

その上、政府の命令でストライキをした鉱工業者への補償金を支払うため紙幣を増刷したため、ハイパーインフレを起こしてしまいます。

価値のなくなった札束を積んで遊ぶ子供たち

出典 ナチス全体主義への道 

この為労働者の28%が完全失業者となり、42%が不完全就労状態となり、社会不安がますます進みました。

その収拾のために1923年8月にはドイツ人民党(DVP)のグスタフ・シュトレーゼマンを首相とし、人民党、中央党(Zentrum)、ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ民主党(DDP)、バイエルン人民党(BVP)など広範な政党が与党となる大連合政権が樹立されました。

この社会不安を背景として、ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党が1923年11月8日ミュンヘン一揆を起こしました。

このハイパーインフレは、銀行家ヒャルマル・シャハトがライヒ通貨委員となり、ドイツレンテ銀行(Deutsche Rentenbank, Renteは地代の意)を設立した。ドイツレンテ銀行は国内の土地に対して設定した地代請求権(土地の価値そのものではないことに注意)を本位として11月15日にレンテンマルクを発行して収まります。

1924年5月国会議員選挙

1924年5月4日 得票率77.42%

第1党 ドイツ社会民主党 (SPD) 100議席(得票率20.52%)
第2党 ドイツ国家人民党 (DNVP) 95議席(得票率19.45%)
第3党 中央党 (Zentrum) 65議席(得票率13.37%)
第4党 ドイツ共産党 (KPD) 62議席(得票率12.61%)
第5党 ドイツ人民党 (DVP) 45議席(得票率9.20%)
第6党 国家社会主義自由党 (NSFP) 32議席(得票率6.55%)
(ドイツ民族自由党と旧ナチ党勢力)

国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチ党)は当時党活動を禁止されていたので、ドイツ民族自由党とともに国家社会主義自由党(NSFP)という偽装政党を創設して選挙戦に臨みました。

この選挙期間中の1924年4月9日に、ドイツ賠償問題のドーズ委員会とマッケンナ委員会は国際連盟賠償委員会に報告書を提出し、4月11日に国連賠償委員会がこれを承認しました(ドーズ案)。

ドーズ案とは

ドイツの賠償金不払いをめぐって、フランスとペルギーがドイツのルール地方を占領したため、ドイツでハイパーインフレが起こり、政治、社会、経済が大混乱となりました。

これを見かねて、アメリカのカルビン・クーリッジ大統領がドーズを委員長とする特別委員会を成立させ、新賠償方式が作られました。

チャールズ・ドーズ(右)とアメリカ大統領カルビン・クーリッジ

出典 ウィキペディア

その新たな賠償方式がアメリカの C.ドーズの原案によるドーズ案で,賠償の総額と支払期間には触れず,向う5ヵ年間の支払年額のみを定めた。第1年目の 1924年は 10億金マルク,第5年目以後は 25億金マルクとして,ドイツ経済の繁栄に応じて増額するというもので、徐々に賠償金を取り立てようとしました。

ドーズ案の成立は、ドイツへの外資流入の道を開き、これによってドイツに流入した巨額の外資、とくにアメリカ資本は、相対的安定期のドイツ経済の再建と合理化に寄与しました。

ドイツ政府はこのドーズ案を受諾する方針を示したが、これにより選挙戦の争点は一気にドーズ案への賛否となりました。

左翼野党の社民党はドーズ案を容認しました。

右翼野党の国家人民党はドーズ案を「第二のヴェルサイユ条約」として激しく批判し、国家社会主義自由党(ドイツ民族自由党と旧ナチ党勢力)も共産党もドーズ案には反対を表明した。

5月4日の総選挙の結果は、ドーズ案に反対した極右と極左の大勝となった。国家人民党が65議席から96議席へ躍進。10議席獲得した農村リスト(Landliste)と合流して国会の第一党となった。共産党も17議席から一気に62議席へ躍進。ナチ党の偽装政党である国家社会主義自由党も初挑戦にして32議席を獲得した。

ドーズ案に賛成した与党と社民党は軒並み得票率を落とした。特に社民党は改選直前の議席171議席を100議席に落とす大敗を喫した。ブルジョワ政党では人民党と民主党も大きな打撃を受け、人民党は議席の三分の一を失って45議席、民主党は28議席しか取れなかった。

引用ウィキペディア

このことは政治や経済が混乱し、国民生活が困難になるとドイツの大衆は急激な政策変更を求めて、極右や極左政党に投票する傾向があることが分かります。

1924年12月ドイツ国会選挙

1924年12月7日  投票率(78.76%)

第1党 ドイツ社会民主党 (SPD) 131議席(得票率26.02%)
第2党 ドイツ国家人民党 (DNVP) 103議席(得票率20.49%)
第3党 中央党 (Zentrum) 69議席(得票率13.60%)
第4党 ドイツ人民党 (DVP) 51議席(得票率10.07%)
第5党 ドイツ共産党 (KPD) 45議席(得票率8.94%)

第8党 国家社会主義自由運動 (NSFB) 14議席(得票率3.00%)
(ドイツ民族自由党と旧ナチ党勢力)

5月4日の選挙で中央党、人民党、民主党、バイエルン人民党が連立して成立したヴィルヘルム・マルクス内閣に対して、強硬保守の国家人民党や国家自由主義党、極左の共産党が勢力を伸ばしたため政権運営が不安定になってしまいました。

これを解消するためヴィルヘルム・マルクス内閣は、国会の勢力を変えるためにこの選挙を行いました。

選挙の結果、中道3党の中央党、人民党、民主党も議席を伸ばしましたが、この3党だけでは政権を作れないため、1925年1月15日に国家人民党・人民党・中央党・バイエルン人民党を与党とするルター内閣が創設されました。

この選挙では共産党と国家社会主義自由運動(ミュンヘン一揆の失敗で禁止されていた旧ナチ党勢力とドイツ民族自由党の合同政党)が、ともに議席を大きく減らしました。

1928年ドイツ国会選挙

1928年5月20日 投票率75.60%

第1党 ドイツ社会民主党 (SPD) 153議席(得票率29.76%)
第2党 ドイツ国家人民党 (DNVP) 73議席(得票率14.25%)
第3党 中央党 (Zentrum) 61議席 (得票率12.07%)
第4党 ドイツ共産党 (KPD) 54議席(得票率10.62%)

第9党 国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP) 12議席(得票率2.63%)

1924年の選挙から今回の選挙まで、大きな出来事が2つありました。

戦後の賠償金問題に対してドーズ案を受け入れたことにより、賠償金の支払い額が減り、国内の景気が大きく回復し、さらにアメリカからの資本投入も相まって、失業率も5パーセントまで落ち、『黄金の20代』と言われる好景気になったことです。

もう一つが、1925年の大統領選挙で、第1次世界大戦の参謀総長であるヒンデンブルクがドイツ大統領に選ばれまれたことです。

ヒンデンブルクとは何者か

後にヒトラーを首相に指名するパウル・フォン・ヒンデンブルクは、プロイセンの土地貴族(ユンカー)の系譜をひく保守派を代表する大物で、公然たる君主主義者です。

プロイセン時代にはビスマルクが主導した「ドイツ統一戦争」に、プロイセン陸軍将校として従軍しました。

パウル・フォン・ヒンデンブルク

出典ウィキペディア

第1次世界大戦緒戦のロシアを相手に戦ったタンネンベルクの戦いでは、司令官として参謀長のルーデンドルフと共に戦い勝利を収めました。

タンネンベルクの戦いのヒンデンブルクとルーデンドルフ

出典ウィキペディア

戦争中の1916年にルーデンドルフ将軍と共に軍部独裁を樹立し、「勝利の講和」に向けて国民総動員体制の構築に力をふるいました。

戦後、ワイマール共和国議会の戦争責任調査委員会に召喚されたとき、ドイツ帝国の責任を真っ向から否定し、国内の反戦平和主義者・労働者運動・ユダヤ人の「背後からの一突き(裏切り)」によって敗れたのだと述べています。

背後の一突き伝説の戯画。シャイデマンとエルツベルガーが兵士の背中を刺そうとしている。

シャイデマン(左)は1928年のドイツ革命のときに、国会議事堂前に押し寄せたデモ隊に向かって「古く腐った帝政は崩壊した。新しきドイツの共和国、万歳!」と共和国樹立の宣言を行った人物、後にドイツ初の首相となる。

エルツベルガー(右)は、第一次世界大戦における連合国との休戦協定にドイツ首席全権として調印。ヴァイマル共和国初期に財務相を務めました。

出典 ウィキペディア

当時は「皇帝は去ったが、将軍は残った」と言われる時代で、帝政期の権威主義的な行動様式、思想信条を保持する者は官僚、軍部、財界などの社会上層部に多く存在していました。

彼等は立憲君主制を理想の政治形態と考え、労働者運動の指導者が政権をとるワイマール共和国の政治システムに反対していました。

1925年の大統領選で選ばれたヒンデんブルクに対して、本気で共和制を守る意思があるか疑問視されていました。

しかし、この後も政党の離合集散が相次いだために政権は不安定であり、ルター、第二次マルクスと短命の内閣が続いた。しかし右派の期待を集めていたヒンデンブルクが憲法を遵守する姿勢をとったため、いずれの政変の際も議院内閣制は守られました。

保守・右翼たちの期待に反し、就任から数年間のヒンデンブルクは穏健であった。国家人民党などから「売国奴」と罵られていたグスタフ・シュトレーゼマン外相(ドイツ人民党)を庇護し、国外でのドイツの地位を高めることに成功しました。

 

外交面ではいわゆる「シュトレーゼマン外交」により、ドイツの国際的地位は回復しつつあった。1925年10月にはロカルノ条約が締結され、ヨーロッパにおける安全保障体制、「ロカルノ体制」が成立した。1926年4月24日には独ソ両国の不可侵と局外中立を定めたベルリン条約が締結され、9月10日には国際連盟への加盟が満場一致で承認され、常任理事国となった。さらにラインラントに置かれていた占領軍も一部撤兵し、民間航空の復活と飛行機製造も許可された。

引用 ウィキペディア

この様にドイツ国内外で発展する状態では、変革を主張するナチ党に投票する人はなく、12議席(得票率2.63%)と大きく後退してしまいます。

しかし、この好景気は1929年10月24日アメリカのウォール街で起きた株価大暴落をきっかけとして世界恐慌が起き、ドイツの経済が破綻し、600万人にも及ぶ失業者が生まれる事態になり、この混乱に乗じてナチ党が大きく支持を伸ばし始めます。再軍備の道をつけること。

 

1930年ドイツ国会選挙

1930年9月14日 投票率81.95%

第1党 ドイツ社会民主党 (SPD) 143議席(得票率24.53%)
第2党 国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP) 107議席(得票率18.25%)
第3党 ドイツ共産党 (KPD) 77議席(得票率13.13%)
第4党 中央党 (Zentrum) 68議席(得票率11.81%)
第5党 ドイツ国家人民党 (DNVP) 41議席(7.03%)

この選挙で国家社会主義ドイツ労働者党 (ナチ党) は前回の12議席から107議席と大きく躍進しました。またドイツ共産党も54議席から77議席と票を伸ばしています。

ナチ党と共産党が議席を伸ばした2つの原因

一つは倍賞金問題に関するヤング案です。

ヤング案とは

第1次世界大戦後にドーズ案を修正して成立した第2次ドイツ賠償支払い案。 1929年2月 11日パリで開催され,アメリカの O.ヤングを委員長とする賠償調査会において決定されたので,ヤング案と呼ばれる。この調査会の報告は同年8月と 30年3月ハーグ会議で一部修正のうえ承認され,30年9月1日発効した。内容は,賠償総額 1210億ライヒスマルク,59ヵ年の年賦,支払い完了年は 1988年というもので,国際為替の安定とドイツ・マルクと他国の通貨の兌換の容易化をはかり,ドイツ経済に対する外国支配を停止した。

引用 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

これは賠償金の支払い期限が長くなることを意味しており、国家人民党、鉄兜団や全国農村連盟、ナチ党はヤング案は「子孫に屈辱を残すものだ」として反発し、特にナチ党は全国的に過激な活動を行い、一挙に名をあげました。

2つ目は議会政治の崩壊です

実はヒトラーより前に独裁政治を行っていた人が居ました。その人は誰あろう、ヒンデンブルク大統領です。

1928年まで好調だったドイツ経済も、アメリカ発の世界大恐慌の影響で一気に減速し、1929年末には失業者が200万人、1930年末には400万人以上にも上り、経済は停滞しました。この影響で企業からの税収がおおきく減ったうえに失業者の増大で、失業保険に支払いが膨大な額になりました。

この為失業保険料を値上げしようとしましたが、労働組合などの反対により実現できませんでした。ヘルマン・ミュラー(社民党)連立内閣が定めた失業保険政策は社民党の党内合意を得られず、ミュラー内閣は1930年3月27日に総辞職することとなった。

ヒンデンブルク大統領は、社民党を打破し、保守・右翼からの支持を回復するためにも議会(≒社民党)に拘束されない国家人民党と中央党の連立政権の誕生を望むようになりました。

そのため中央党議員団の財政政策スポークスマンであり、ヤング案成立に貢献した、ハインリヒ・ブリューニングを首相に任命しました。

1930年7月、ブリューニング政府は増税とデフレを基調とする財政再建案を国会に提出しましたが、反対多数で否決されてしまいます。このためヒンデンブルク大統領は、この法案を大統領緊急令として交付しました。

すると野党第1党の社会民主党は、直ちにこの大統領緊急令を廃止する動議を提出し、僅差で可決します。

これに対して大統領は大統領権限により、国会を解散し、そののち、この大統領緊急令に若干の修正を施して再び交付しました。

どうしてこのようなことが出来たのかと言うと、ワイマール憲法では大統領には次の3つの権限が与えられていたからです。

  1. 首相、閣僚の任命権(ワイマール憲法 第53条)
  2. 国会の解散権(ワイマール憲法 第25条)
  3. 非常時の緊急処置権(ワイマール憲法 第48条)

3番目の緊急処置権に基づいて発せられるのが、大統領緊急令です。

ドイツ大統領に与えられた緊急処置権とはどのようなものか、ワイマール憲法第48条を見てみます。

<ワイマール憲法第48条>

○もしも、国家が混乱に陥り、国家責務である公共の安全・秩序の確保に失敗した場合には、ドイツ国大統領は、憲法または国法に則り、政府機能の回復を命令することが出来る。
その場合、軍隊等を回復行使に使用することが出来る。

○もしも、ドイツ国内に於いて公共の安全及び秩序が 深刻な妨害または脅威にさらされている場合、ドイツ国大統領は公的な安全を回復するために、必要な手段を取り、命令することができる。その場合、必要があるならば、軍隊の支援を得ることが出来る。
また、この目的の為に以下の条文に列挙される基本的人権の一部または全部を一時的に中断(停止)することができる。
第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第 117条(通信の秘密)、第118条(意思表明の自由)、第123条(集会の自由)、第124条(結社の自由)及び第153条(所得軒の補償)。

○ドイツ国大統領は、この条文の第一段落又は第二段落の規定に基づき発せられた総ての措置を、直ちに、国会に対して通知(コミュニケート)しなければならない。
これらの措置は、国会の要求がある場合には、廃止されなければならない

○もし遅延することが危険を助長するのであるならば、各省庁は自身の担当領域の範囲で、第二段落に記載された一時的措置をとりことが出来る。ただし、ドイツ国大統領又はドイツ国会から要求がある場合は、これらの措置は廃止されなければならない。

○本条の詳細な規則については法律でこれを定める。

引用 止揚末節画竜天睛

この緊急処置権は、非常に強い力を持っています。

緊急処置権に実施に対して必要であるならば軍の出動を認めている点と、基本盾人権の一部、または全部を停止できる点です。

この場合大統領緊急令ははじめ国会で否決されましたが、ヒンデンブルク大統領は憲法で定められた権限により国会を解散させ、反対する国会が無くなった時点で、ふたたび大統領緊急令を公布しました。

これに対して憲法違反ではないかとの声が上がりましたが、ワイマール憲法第48条には

○本条の詳細な規則については法律でこれを定める。

とあります。

しかし、緊急処置令を実施するのに必要な法律が定められていませんでした。つまり、何が「公共の安全及び秩序への著しい障害」になるか、そして何が「必要な処置」かは、大統領の考え方次第で、どうにでもできるということです。

これは、大統領に議会に制約されない権限を与えてしまうのでヴァイマル憲法の問題点とされていましたが、まさにそれが実行され、ヴァイマル共和政の議会政治の終わりを意味します。

大統領緊急令が国会で審議された法律に代わるもの、法律代替命令だとすると、首相が大統領を動かして緊急令を公布できれば、首相は国会の意志と無関係に国政に当たることが出来ます。

ヒトラーは、これに目を付けたのでした。

 

何百万人もの失業者が出る大不況にもかかわらず、権力争いに終始し、挙句の果てに増税を決めた中央政府に対して、労働組合を核とする共産党と、組織外の労働者、中小の商店主や工場主、小規模な自営農家の支持を集めたナチ党が、選挙で大きく票を伸ばしたのは当然と言えます。

1932年7月ドイツ国会選挙

1932年7月31日 投票率84.06%

第1党 国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP) 230議席(得票率37.27%)
第2党 ドイツ社会民主党 (SPD) 133議席(得票率21.58%)
第3党 ドイツ共産党 (KPD) 89議席(得票率14.32%)

この選挙で、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチ党)が大躍進し、第1党となった選挙です。

前回の選挙からの出来事

パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が国会に基づかずに任免する「大統領内閣」の最初の首相だったハインリヒ・ブリューニングとその内閣の国防相であるヴィルヘルム・グレーナーは、ナチ党と対立を深め、1932年4月13日にはヒンデンブルク大統領に突撃隊禁止命令(政治団体構成員が公の場で制服を着用することの禁止)を出させたが、効果は薄く、4月23日に各州で行われた地方選挙でナチ党はバイエルン州を除く全ての州議会で第一党に躍進した。

ヒンデンブルク大統領の側近でキングメーカーとして暗躍していたクルト・フォン・シュライヒャー中将はブリューニング内閣を見限り、ナチ党との連携を模索するようになった。1932年4月28日と5月3日にシュライヒャーとナチ党党首アドルフ・ヒトラーが秘密裏に会見。二人はブリューニング内閣を倒閣し、その後に擁立される新内閣で突撃隊禁止命令を解除し、国会も解散するのでそれまでナチ党は新内閣への攻撃を控えるという密約を結んだ。この密約に基づき、シュライヒャーは5月13日にグレーナーを失脚に追い込み、ついで5月30日にはヒンデンブルク大統領にブリューニングを罷免させた。そして6月1日にもフランツ・フォン・パーペンを新たな大統領内閣の首相に擁立した。

パーペンとシュライヒャーは密約通り6月4日にも国会を解散し、6月16日には突撃隊禁止命令を解除した。

引用ウィキペディア

それまで、ヒトラーのことを「ボヘミアの伍長」と呼んで問題にもしていなかったヒンデンブルク大統領でしたが、1932年4月の大統領選挙でヒンデンブルク大統領の得票率53.10%に次ぐ、36.70%の得票率を得たヒトラーを無視できなくなり。ヒトラーとの連携を考えるようになりました。

7月20日にパーペン首相は、プロイセン州の命令違反を理由にプロイセン・クーデター(Preußenschlag)を起こし、プロイセン州政府内の「ヴァイマル共和国派」「反ナチ派」「左翼」を根こそぎ一掃しました。

7月31日に行われた国会選挙でナチ党が第1党となった為、ヒンデンブルク大統領はヒトラーを副首相としてパーペン内閣に迎え入れることを決意しました。

8月13日ヒンデンブルク大統領はヒトラーと会見して、副首相のポストを提供する旨を伝えました。しかし、ヒトラーはこの申し出を断ります。ヒトラーが望んでいたのは「全面的な指導者」、つまり首相の椅子だけでした。

9月12日の本会議で共産党議員エルンスト・トルグラーがパーペン内閣不信任案を提出しました。ナチ党はこれに賛成票を投じ、共産党などの賛成で内閣不信任案を可決させました。これに対抗して、ヒンデンブルク大統領は大統領権限で、国会を解散させ、次の選挙に臨みました。

1932年11月ドイツ国会選挙

1932年11月6日 投票率80.58%

第1党 国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP) 196議席(得票率33.09%)
第2党 ドイツ社会民主党 (SPD) 121議席(得票率20.43%)
第3党 ドイツ共産党 (KPD) 100議席(得票率16.86%)
第4党 中央党 (Zentrum)  70議席(得票率11.93%)
第5党 ドイツ国家人民党 (DNVP) 51議席(得票率8.34%)

 

前回の選挙から4か月後に行われたドイツ国会選挙の結果、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチ党)は第一党を維持したものの、前回選挙に比べて得票も200万票減らし、得票率も33.1%に後退した(前回選挙は37.3%)。議席は34議席減って196議席となりました。

選挙の最大の勝者となったのはドイツ共産党(KPD)だった。得票率を2.5%も増加させた。今や共産党は社民党に迫る議席を100議席を保有する大政党となりました。

国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の支持率が下がったのは、前回の国会で反共主義を掲げるナチ党が、共産党と手を組んで内閣不信任案を可決させたことが、ヒトラー支持者の反発を呼んだものと見られます。

またナチ党に投票した人たちも、前回の選挙で第1党となったのにかかわらず、ヒトラーが首相に就けなかったこに失望して、離れて行ったのもあります。

国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)と共産党の議席を合わせると、全議席584議席の過半数を超える296議席となるため、この2党を共に敵に回しての政権運営は困難な状況となりました。

ヒトラーの首相就任

選挙後首相のパーペンはナチ党を含む各党に政府への協力を申し出ましたが、拒否されてしまいます。

1320年12月1日、ヒンデンブルク・シュライヒャー・パーペンの三者会談が行われました。

シュライヒャーはパーペンの代わりに自分が首相になり、社会民主党やナチ党の一部を切り崩すことで事態を治めることを提案しました。

ヒンデンブルクはこの案を受け入れ。パーペンに代わってシュライヒャーを首相に任命します。

首相になったシュライヒャーは、ナチ党のナンバー2であるグレゴール・シュトラッサーに副首相として入閣を打診しました。

シュトラッサーはヒトラーのミュンヘン一揆後、地方の一政党にすぎなかったナチ党の組織を作り直し、全国展開を成功させた実績があります。

度重なる選挙で党内の資金が枯渇しているのを心配していたシュトラッサーは、ナチ党の人気を取り戻すためには、首相以外のポストでもナチ党員を入閣させる必要があると考えシュライヒャーの案を党内に持ち帰りました。

12月5日にホテル・カイザーホーフで開かれた幹部会でこの提案を披露したところ、かつての部下であるゲッベルスをはじめとする幹部からヒトラーを裏切ったと猛反発を受けた。ヒトラーもシュトラッサーの行動を「党内分裂行動」と猛批判し、ショックを受けたシュトラッサーは12月7日に党の役職をすべて辞任しました。

ナチス左派の領袖であり、組織を仕切ってきた古参幹部シュトラッサーの離脱はナチ党にとって大きな衝撃であり、シュトラッサーの出方次第ではナチ党が分裂する可能性も高く、ナチ党は結党以来最大の分裂の危機を迎えます。

しかし、シュトラッサーはシュライヒャーの望んでいた、党内の支持勢力を糾合してヒトラーに対抗する道を選ばず辞任したため、党の分裂は回避されました。

一方ヒトラーも、元首相のパーペンに近づき、パーペンを副首相にして内閣の運営を任せるかわりに、ヒンデンブルクに自分を首相に指名するよう働きかけることを、頼みました。

パーペンは、共産党が政権をとったら地位や財産を失う大企業主や元貴族などの政財界の大物を動員して、ヒトラーを首相にする嘆願書をヒンデンブルクに提出させました。また、かってから仲のよかったヒンデンブルクの息子オスカーにも働きかけ、翌年の1月22日、リッベントロップの別荘でヒトラーとオスカーの極秘会談が行われました。この会談でオスカーはヒトラーの首相就任を認めました。

オスカーとヒトラーの会見の情報はすぐさまシュライヒャーにも知られたが、彼に残された手段は限られていた。シュライヒャーはヒンデンブルクに国会の停止と軍部による独裁政権樹立を提案しました。しかしヒンデンブルクは拒否し、しかもこの提案は外部に漏洩し、社会民主党や中央党から『憲法違反』『人民の敵』と罵られる始末です。

1月28日、シュライヒャーは最後の手段として国会の解散をヒンデンブルクに持ちかけましたが、ヒンデンブルクはこれを拒否し、シュライヒャーは首相を辞任しました。

翌1月29日、ヒンデンブルクはパーペンを通して首相就任をヒトラーに伝え、ヒトラーもこれを了承しました。

ヒトラー内閣の誕生です。

ヒトラーは約束通りパーペンを副首相にし、内務大臣にナチ党のフリックと無任所大臣としてゲーリングを就任させることだけを求め、後の閣僚に関しては全てパーペンに任せました。

また、施政一般に対しては、副首相フランツ・フォン・パーペンの承認がなければ大統領はこれを裁可しないとの条件が付されていた。


1933年1月30日のヒトラー内閣の閣僚。前列左からゲーリング無任所大臣(ナチ党)、ヒトラー首相、その隣が副首相となったパーペン。後列左からクロージク財務大臣、フリック内務大臣(ナチ党)、ブロンベルク国防大臣、フーゲンベルク経済・農業食糧大臣

出典ウィキペディア

 

 1933年1月30日の夜ブランデンブルク門前で、ヒトラーの首相就任を祝い、松明行進を行う突撃隊。

出典ウィキペディア

ヒトラーの首相就任については、「熱狂的なドイツ大衆の支持で、国会の過半数を取りヒトラーが首相に就任した」と言われていますが、これは間違いです。

この時点での国会におけるナチ党の得票率は33.09%に過ぎず、国民の3分の2はヒトラーを支持していませんでした。

皆が描くオープンカーに乗ったヒトラーを大勢の群衆が取り囲んでいる映像は、ヒトラーが独裁者となった後の経済改革で、失業者対策が成功したからでのことです。

なぜ、ヒンデンブルクは、ヒトラーを首相に指名したのか?

1932年11月の国会選挙で、議席を減らしたナチ党に対して、16.8%
100議席と大きく躍進した、共産党は財界に対して大きな脅威となりました。

もし、共産主義国家が誕生すると、企業は全て没収され国営企業となってしまいます。

このためヒンデンブルク大統領は、パーペンと協力してヒトラーを政権に雇い入れ、用が済めば大統領権限を使用して、放り出せばよいと考えていました。

ヒトラー内閣は首相こそヒトラーであるものの、閣僚はパーペンが選定した。ナチ党員の入閣はヴィルヘルム・フリックとゲーリングの2名のみであった。さらに内務大臣であるフリックには警察の管理権が無いという弱体ぶりで、またゲーリングは無任所大臣にすぎなかった。このため外部の観測では実権がパーペンのものであると見られていた。パーペン自身もそのつもりであり、「われわれは彼を雇ったのさ」「わたしはヒンデンブルクに信頼されている。二ヶ月もしないうちに、ヒトラーは隅っこのほうに追いやられてきいきい泣いているだろう」と語っている。

引用 ウィキペディア

確かにヒトラーには国政を担当した経験がなく、官僚との強いパイプもありませんでした。政治に明るいパーペンの力を借りなければ、何もできない状態でした。

ヒンデンブルクがヒトラーを利用してやろうとしたことは、

  1. ワイマール憲法が定める議会制民主主義に終止符を打つこと。
  2. 伸長著しい共産党など急進的な左派勢力を押さえつけること。
  3. 強いドイツを内外に印象付け、

これはヒトラーの主張と重なります。

この3つをヒトラーの力を借りてやり遂げられれば、後は大統領権限を使ってヒトラーを失脚させればよいと考えていました。

しかし、ヒトラーの方が1枚上手でした。

首相就任後初の閣議でヒトラーは、共産党を無理に抑え込みゼネストが起こり、軍を導入するすることになる事態だけは避けたいとと説明し、最善の策は国会を解散し、次の選挙で政府が過半数をとることだと主張しました。

パーペンとヒンデンブルクは国民による新政権の承認の必要性ということから、選挙を承認し、2月1日にヒトラーの要請でヒンデンブルク大統領は国会を解散しました。

 

 

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