なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

ヒトラーその1 ヒトラーが独裁者になるまでの過程

time 2018/10/01

ヒトラーその1 ヒトラーが独裁者になるまでの過程

以前自民党の麻生太郎氏がこう発言していました。

ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。

引用 朝日新聞 DIGITAL

本当にそうなのか、これから見てみます。

ワイマール憲法とは

第一次世界大戦の末期の1918年10月、ドイツ海軍の無謀な出撃命令をに反対して、キール軍港の水兵反乱が起きると、その動きはたちまちに全国に広がり、各地で労働者と兵士が連帯して各地で革命(11月革命)が起こりました。ベルリンではこの革命により、11月9日にそれまで戦争に協力してきたドイツ社会民主党も戦争中止と、皇帝の退位を認めざるを無くなりヴィルヘルム2世はオランダに亡命して、ドイツの帝政は崩壊し、代わりにドイツ共和国が成立しました。

11月11日、社会民主党を中心に人民代表委員会が結成され、連合国との間に休戦協定を結び、第1次世界大戦が終了しました。

1919年8月11日のドイツのワイマールの国民議会でワイマール憲法を制定し、ドイツ共和国はワイマール共和国と呼ばれるようになります。

ワイマール憲法は、直接選挙による大統領の強大な権限,直接民主制の大幅な採用,社会的基本権の保障,所有権の制限などを特色とする、当時きわめて民主的な憲法でした。

この時期ドイツは共和制国家でしたが、旧ドイツ帝国時代の権力者が、まだ大きな影響力を持っていました。

共和国政府(ベルリン)の権限を強めようとする中央集権派に対して、地方(各州)の主権を取り戻そうとする分立派・分権派とが対立していました。

またドイツはカール・マルクスを生んだ国から、労働者を中心に共産党が大きな力を持っています。

このようにドイツには、旧帝国時代からの保守派、新しく台頭してきた資本家、商店主や自営農家を中心とする中間層、そして労働者など、それぞれの階級を代表する大小幾つもの政党が出てきます。

この中に、ヒトラーが率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス・ナチ党)がありました。

1923年1月11日、フランス・ベルギーがベルサイユ条約で定めた第次世界大戦のドイツ賠償金の支払いが滞ったことから、ルール地方を占領しました。両国の狙いはルール地方で生産される石炭を、賠償金の代わりに没収するというものでした。

これに対してドイツ政府は石炭や鉄道の労働者にストライキを呼びかけ、労働者を支援するため彼らの賃金を支払いました。

このため大量の紙幣を発行したため、ハイパーインフレが起こりドイツ国内は混乱に陥ります。

このような情勢の中、ヒトラーは共和国政府の打倒を唱え、ミュンヘンで武力蜂起(ミュンヘン一揆)しましたが、失敗して投獄されてしまいます。

ここまでの経過は、こちらの映画の解説に詳しく書いておきました ↓

テレビ映画 「ヒトラー 第1部 我が闘争」ヒトラーの名が、ドイツ全土に知られるようになるまで

この後、ヒトラーは武力ではなく、合法的に権力を奪取する方向に変更します。

ドイツのハイパーインフレは、ヒトラーのミュンヘン一揆直前に新しく発行されたレンテンマルクが導入されたことにより鎮静化され、ドイツ経済は回復しました。

1924年から1929年にかけてワイマール共和国議会は、社会民主党を中心に、カトリックの中央党、自由主義者・インテリ層の民主党、保守中道の人民党が「大連合政権」を作り、比較的安定した政治を行っていました。

1929年10月ニューヨークで起きた株価大暴落による世界大恐慌は、回復途上のドイツを襲い多くの企業が倒産し、街には失業者があふれ、ドイツは再び混乱状態に陥りました。

1930年代になると、ワイマール共和国議会はそれぞれの政党が分立して主張したため、何も決まらなくなり議会としての機能を失ってしまいます。

この時のドイツ大統領は、第1次世界大戦後期に参謀本部総長だったパウル・フォン・ヒンデンブルク(アイキャッ画像でヒトラーの左に立っている人)でした。彼は第1次世界大戦緒戦のタンネンべルクの戦いでロシア軍を破って英雄になりました。

世界恐慌の中、政府は次々と新しい政策を打ち出し、国会に提出しましたが、前に述べたようにスムーズな国会審議が出来ず暗礁に乗り上げます。

〈ワイマール憲法〉

第四十八条

(一)ラント(ワイマール共和国を構成する各州)が共和国の憲法又は法律によって課せられた義務を履行しないとき、共和国大統領は、武力を持って義務を履行させることが出来る。

(二)ドイツ国内において、公共の安全及び秩序に著しい障害が生じ、又はその恐れがあるときは、共和国大統領は、公共の安全及び秩序を回復させるために必要な処置をとることができ、必要な場合は、武装兵力を用いて介入することができる。この目的のために、共和国大統領は、第百十四条(人身の自由)、第百十五条(住居の不可侵)、第百十七条(通信の秘密)、第百十八条(意見表明の自由)、第百二十三条(集会の自由)、第百二十四条(結社の自由)、及び第百五十三条(所有権の補償)に定められた基本権の全部又は一部を暫定的に停止することができる。

(三)共和国大統領は、本条第一項又は第二項に基づいてとられた処置につき、遅滞なく国会に報告しなければならない。これらの処置は、国会の要求があれば、廃止されなければならない。

(四)危険が切迫している場合、ラント(ワイマール共和国を構成する各州)政府はその領域において、第二項に定められているような態様の暫定的処置を講ずることができる。共和国大統領又は国会の要求があれば、これらの処置は廃止されなければならない。

(五)詳細な規定は国会の制定する法律によって定めるものとする。

出典 集英社新書 ナチスの「手口」と緊急事態条項 26頁から28頁

そのため政府は大統領に頼んで、上のワイマール憲法第48条の第2項に決められた大統領緊急令を出してもらい、政局を乗り越えました。

この大統領緊急令は、1930年に5件、1931年44件、1932年66件と増え続け、大統領の権限は強くなり、議会の存在が薄れていきます。

1932年3月ヒトラーは、この大統領権限を狙って大統領選に立候補しましたが、2位となりヒンデンブルグ大統領に敗れてしまいます。

大統領の任期が7年と長いため、ヒトラーは首相の座を狙い、国会で第1党となるため選挙戦でナチ党の議席を増やす作戦に出ます。

1932年7月31日に行われたドイツ国会選挙で、ナチ党は得票率37.27パーセント、230議席を確保し第1党になりましたが、ヒンデンブルク大統領はヒトラーに副首相のポストを示しましたが、ヒトラーはこれを蹴り、さらなる議席の獲得を目指し、再び国会議員選挙の実施に出ます。

1932年11月6日に行われた選挙でナチ党は第1党の地位を確保したものの、得票率33.09パーセント、議席数196議席と大きく後退しました。また第2党の社会民主党も得票率を1.15パーセント減らし、議席数も121議席と12議席減らしました。

この選挙で大きく伸びたのが第3党の共産党で得票率19.86パーセント100議席を確保しました。

共に議会制民主主義を否定するナチ党と共産党が組むと、議員定数584の過半数(292)を超える296の議席となるため、ヒンデンブルク大統領はヒトラーに対して、保守派との連立政権を作ることを条件に、1933年1月30日ヒトラーを首相に任命しました。

首相就任から2日後の1933年2月1日、ヒトラーは国会での過半数を狙い、ヒンデンブルク大統領を動かし議会を解散させます。

1933年2月4日にヒトラーは「ドイツ国民保護のための大統領緊急令」をヒンデンブルク大統領に発令させて集会や新聞を制限し、政党への寄付を禁止して野党の行動の自由を奪いました。

さらに、1933年2月27日に起きた国会議事堂放火事件をオランダの共産党員マリヌス・ファン・デア・ルッペの単独犯としヒトラーは、「共産主義者による叛乱の始まり」と主張して、この日のうちに国会と地方の共産党議員および公務員への逮捕命令が出され、共産党系新聞はすべて発行停止としました。

翌日には、ヒトラーは閣議で「民族と国家の保護のための大統領令」と「ドイツ民族への裏切りと反逆的策動に対する大統領令 」の二つの緊急大統領令制定を提案しました。これにより、言論・報道・集会および結社の自由、通信の秘密は制限され、令状によらない逮捕・「保護拘禁」が可能となりました。

この結果3000人以上の共産党員・ドイツ社会民主党員が逮捕・拘束されました。

このようにヒトラーは野党に対する選挙妨害を行いましたが、3月5日の選挙結果でナチ党は得票率43.9パーセント、議席数288議席を得て大躍進しましたが、全議員数647議席の過半数を得ることはできませんでした。

ここまでヒトラーは権力を伸ばすために、一つ一つヒンデンブルグ大統領に頼んで必要な法案を大統領令という形で布告してもらっていました。

ここで麻生太郎氏の発言を見てみます。

『ヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ』

本当にそうだろうか?。国民に選ばれた議会の審議なしで、自分の党に有利な、且つ他の党にとっては不利な法律を作り、多数の票を獲得してもそれが本当に民主的な選挙といえるのだろうか。民主主義の大原則『自由と平等』を破る法律の下で勝利したことが、民主主義的な選挙で選ばれた勝利といえるのだろうか。

麻生氏もヒトラーも大きな考え違いをしています。それは民主主義の大原則『自由と平等』の反する法律の下で行われた選挙でも、法律に違反していなければ(合法的)、それは大多数の票を獲得した民主的な選挙で選ばれた代表ということです。

ヒトラーはこのように考え、議会を無視して法律を作り、合法的に政治を行い暴走していきます。

選挙直後の3月7日、ヒトラーは閣議で憲法の範囲を超える権力を手に入れるため「全権委任法」の制定することを表明します。

全権委任法

前文:国会(ライヒスターク)は以下の法律を議決し、憲法変更的立法の必要の満たされたのを確認した後、帝国参議院の同意を得てここにこれを公布する。

1・ドイツ国の法律は、憲法に規定されている手続き以外に、ドイツ政府によっても制定されうる。本条は、憲法85条第2項および第87条に対しても適用される。

2・ドイツ政府によって制定された法律は、国会および上院の制度そのものにかかわるものでない限り、憲法に違反することができる。ただし、大統領の権限はなんら変わることはない。

3・ドイツ政府によって定められた法律は、首相によって作成され、官報を通じて公布される。特殊な規定がない限り、公布の翌日からその効力を有する。憲法68条から第77条は、政府によって制定された法律の適用を受けない。

4・ドイツ国と外国との条約も、本法の有効期間においては、立法に関わる諸機関の合意を必要としない。政府はこうした条約の履行に必要な法律を発布する。

5・本法は公布の日を以て発効する。本法は1937年4月1日と現政府が他の政府に交代した場合、いずれか早い方の日に失効する。

要旨をまとめると、以下のようになる。

第一条は、立法権を国会に代わって政府(ヒトラー内閣)に与えたものである。
第二条は、政府立法が憲法に優越し得る(違背し得る)ことを定めたものである。この条文には国会・帝国参議院・大統領の権限に関する留保事項が存在しているが、法学者ウルリヒ・ショイナー(ドイツ語版)らは留保事項は従来の憲法でなく、将来制定される憲法に基づくものであると解釈し、制限は極めて限定されたものだと解釈している。
第三条は、大統領にかわって首相(アドルフ・ヒトラー)が法令認証権を得たことを示す。
第四条は、外国との条約を成立させる際、議会の承認が必要ではないことを確認したものである。
第五条は、この法律が時限立法であったことを示す。全権委任法の成立には中道政党である中央党の賛成が必要であったが、この規定は中央党が賛成へ傾く一因になった。
またこの法律には、従来の授権法には存在した、国会に対する通告義務、国会による政府措置の破棄権限の条項が存在しないなど、従来の授権法と比べても異質な立法であり、新たな憲法体制への道を開く、暫定憲法ともよべる法律であった。
引用ウィキペディア

実質的に憲法修正に当たる全権委任法の制定には、憲法改正と同じく国会議員の3分の2以上が出席し、出席議員の3分の2以上の賛成が必要でした。

そのため3月9日にヒトラーは共産党を非合法化し、その議席(81議席)をはく奪することにより、総議席数が647から566と減りナチ党は単独過半数を獲得できました。

ただ、議席数を減らしても全権委任法に反対する政党が一斉に欠席してしまうと、議員数の3分の2以上を確保できなくなります。

そこでナチスは連立与党の国家人民党、鉄兜団などの協力で議院運営規則の修正法案を同時に提出しました。これは議長(当時の議長はナチ党のゲッベルズでした)の承認しない欠席は出席したとみなすものでした。これにより反対党の欠席で、審議が出来なくなることを防げるようになりました。

3月23日には国家人民党と中央党の協力を得て新国会で、賛成444、反対94、欠席28と全権委任法を可決させ、首相に立法権を与え、議会と大統領の権力は完全に形骸化しました。

1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領が在任のまま死去すると、ヒトラーは自ら「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を発効させ国家元首である大統領の職務を首相の職務と合体させ、さらに「指導者兼首相  であるアドルフ・ヒトラー」個人に大統領の職能を移し、新たに制定した総統に就任しました。

こうしてヒトラー個人による独裁政治が始まります。

全権委任法制定から、ヒトラー総統誕生までの詳しい経緯は、こちらり映画解説の後半に詳しく書いてあります。 ↓

テレビ映画 「ヒトラー 第2部 独裁者の台頭」 ヒトラーが独裁者となった手口

 

 

 

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