なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

テレビ映画 「ヒトラー 第2部 独裁者の台頭」 ヒトラーが独裁者となった手口

time 2018/09/09

テレビ映画 「ヒトラー 第2部 独裁者の台頭」 ヒトラーが独裁者となった手口

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亀仙人2

テレビ映画 「ヒトラー 第2部 独裁者の台頭」

2003年 アメリカ・カナダ

「第1部 我が闘争」でミュンヘン一揆に失敗したヒトラーが、再び政界に復帰して首相になるまでと、独裁体制を築き上げるまでの過程を映画を通して、書いてみます。

以前、自民党の麻生太郎氏が「真似したらどうかね」と言っていた、ヒトラーが独裁者になる「ナチスの手口」についても解説してます。

 

第1番目にミュンヘン一揆後に合法的に政権を確保するため、政界に復帰するまでの過程と、ヒトラーに絡む二人の女性、姪のゲリと、ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンについて書きます。

第2番目に国会に進出して、首相になるまで。

第3番目に書くのは、全権委任法を制定し、大統領職と首相を統合した「総統」になるまでです。

ヒトラー誕生からミュンヘン一揆まではこちらをご覧ください ↓

テレビ映画 「ヒトラー 第1部 我が闘争」ヒトラーの名が、ドイツ全土に知られるようになるまで

ミュンヘン一揆後のヒトラーと二人の女性

ミュンヘン一揆の失敗により、ナチ党はバイエルン州を含む全ドイツでの活動を禁止されました。

ヒトラーは武力によるクーデターでは、政権をとる前に投獄されたり等で政治生命を絶たれる恐れがあるため、合法的に政権を奪う方向に考えを改めました。

ナチ党の元幹部たちは地方ごとに偽装団体を立ち上げ、活動を続けます。

ランツベルク刑務所でヒトラーが受けた「城塞禁固刑」とは、名誉系ともいわれ受刑者の名誉を奪うことなく行われる禁固刑で、政治犯や決闘で人を傷つけた罪人などに対して執行されました。その場合懲役は免除され、刑務所内の出入りは自由で、面会や飲食も自由という、監獄とは思えない環境です。

ヒトラーは、この監獄で同じ政治犯として投獄されているルドルフ・ヘスを秘書として使い、「我が闘争」(アイキャッチ画像の写真)を口実筆記させて執筆していました。

この時使用したタイプライターや紙はワーグナーの義理の娘ヴィニフレート・ワーグナーが差し入れしていました。

ヴィニフレート・ワーグナー。出典ウィキペディア

ワーグナーの息子ジークフリートと結婚し、1930年ジークフリートが心臓発作で亡くなると、ワーグナー家の当主となり、バイロイト音楽祭を主催したりしていました。ワーグナーは反ユダヤ主義を掲げており、ヒトラーもワーグナーのオペラに心酔していて、ナチス党大会の入場行進曲などに、ワーグナーの曲を採用したりしています。

また演説する時の派手なポーズは、ワーグナーのオペラを参考にしたと言われています。

映画では、エルンストはヒトラーが収監されている機会を利用して、妻とアメリカに亡命しようと、計画していました。そこへ刑務所にいるヒトラーから電話が来て会いに行きました。

ヒトラーに渡米の許可を求めましたが、断られてしまいます。そしてヒトラーが書いている本の出版を手伝うように、言いつけられました。

 

ミュンヘン一揆でヒトラーと共にデモの先頭に立ったルーデンドルフですが、無罪となり北ドイツに勢力を持つアルブレヒト・フォン・グレーフェが率いるドイツ民族自由党に賓客として寄せていました。

ドイツ民族自由党はナチス党と同じく反ユダヤ主義、反共産主義を掲げ、南に勢力を持つナチス党と、友党の関係にありました。ミュンヘン一揆には、党首グレーフェをはじめ党の幹部も参加していました。

ルーデンドルフは旧ナチス党の党員とドイツ民族自由党を合体させて、国家社会主義自由運動を立ち上げました。

ヒトラーが刑務所に収監されていた1924年5月4日に行われたドイツ総選挙で国家社会主義運動は32名の議席を確保し、ルーデンドルフ自身も国会議員となりました。

またナチス党と同じく非合法化された突撃隊ですが、早めに出獄を許されたレームによりフロントバン(前線団)と名前を変え、ヒトラー、ルーデンドルフ、グレーフェに忠誠を誓う独立した軍事組織になりました。

このようにドイツ北部では、旧ナチス党は路線変更に成功し、ヒトラーの望む通り国会に議席を確保できました。

ルーデンドルフは獄中にヒトラーを訪ね、近況を報告するとともに、次の大統領選に出馬する意向を伝えます。

一方バイエルン州をはじめとするドイツ南部では、ナチス党の機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』の編集長アルフレート・ローゼンベルクがヒトラーから党の指導を一任されていましたが、こちらは内部対立が激しく、まとまった活動はできませんでした。

1924年7月7日にヒトラーは、著書の執筆を理由として「国家社会主義運動の指導者を辞任して、刑期が終わるまで一切の政治活動から手を引く」ことを発表しました。

1924年12月20日、ヒトラーは仮釈放が認められ、ランツベルク刑務所から釈放されました。

ヒトラーと二人の女性

出所後もヒトラーは政界に戻らず、ドイツ オーバーザルツベルクにある別荘で、執筆を続けていました。そこにヒトラーの異母姉に当たるアンゲラ・ヒトラーが、身の回りの世話をするため16歳になる娘ゲリを連れてやってきました。

天真爛漫で活発なゲリをヒトラーは大変気に入り、母親と共に一緒に住むようになります。

ゲリ・ラウバル 出典ウィキペディア

ヒトラーが政界に復帰した時、ゲリも一緒にミュンヘンに住むようになります。始めは喜んでいたゲリですが、ヒトラーはどこに行くにもゲリを連れていき、政治集会など興味のないゲリは辟易してしまいます。

ヒトラーが有名になるにつれ、常にヒトラーやヒトラーの部下の監視が付き、トラー専属の運転手や、オーストリア人の画家との恋も反対されました。更にヒトラーが留守の時は、アパートから外出するのも禁止されました。

1931年9月17日、ヒトラーが留守にしていたミュンヘンのアパートで、ゲリは拳銃自殺します。

映画ではヒトラーから逃げようとして捕まったゲリに、こう言っています。

「君のような犬が居た。誰が飼い主か分からず何度も家出した。

檻に入れても逃げ出し、殴ったら噛みついてきた。

鎖につなぐと窒息したよ。

愚かな犬だ。」

ゲリの自殺は大きなスキャンダルとなり、ナチスの幹部はそれを取り消すのに走り回りました。またヒトラーも大きく落ち込んで、政界からの引退を口にするほどでした。

また、”死んだ生き物を食べるのは嫌だ”と言って、以後肉類を口にすることはなく、菜食主義に徹するようになります。

ゲリの死後、ヒトラーの状態を心配した専属カメラマンのハインリヒ・ホフマンは、店でモデル兼店員として働いていた当時19歳のエヴァ・ブラウンを紹介しました。

ヒトラーは、”結婚すると女性票を失う”として、結婚を拒否したため生涯ヒトラーの愛人として暮らします。

エヴァ・ブラウン 出典ウィキペディア

ゲリの自殺に懲りたヒトラーは、エヴァが知人と会食や、外にピクニックに行くことなどを認めました。またほかの男性との交際も許しましたが、エヴァはこれを拒否しました。

戦争が近づくにつれ、ヒトラーがエヴァのもとに来ることが少なくなり、寂しさに耐えかねたエヴァは、1度目は拳銃で、2度目は睡眠薬による自殺を試みています。

エヴァがヒトラーの愛人であるという事実は秘密にされ、知っているのは限られた側近だけでした。

エヴァは、ヒトラーがベルリンの地下壕で自殺する前日、結婚式を挙げて正式の妻となりました。

二人の写真を見ると、ヒトラーは整った顔立ちの人よりも、どこか泥臭い田舎娘といった感じの娘が好きだったみたいです。

ランツベルク刑務所から釈放されたヒトラーは、クリスマスにエルンストの家を訪問しました。刑務所に拘留中世話になったヘレナに、お礼を言うためでした。エルンストはオーストリアに逃亡している間に、ヒトラーとヘレナが親密な間柄になっていたことを知ります。

一方反ヒトラーの新聞記者ゲルリッヒは、「我が闘争」を読み反ユダヤ主義者であるヒトラーの危険性を記事に書こうとしましたが、ヒトラーの人気が落ちたことにより、社主に止められてしまいました。

1925年2月16日、ナチス党の再編成が許可されたが、翌2月27日「ビュルガーブロイケラー」で行われた再結成党集会で、ヒトラーの演説はは4000人の観衆を集めたため、州政府から1年間の演説禁止処置を受けました。

この演説の直後、2月25日ヴァイマル共和国のエーベルト大統領が急死したため、3月29日に大統領選挙が行われ、ナチス党が推すルーデンドルフが出馬しました。

しかし、彼は得票率1.1%しか得られず最下位で落選します。これによりヒトラーは北部連合の顔ともいえる最大のライバル、ルーデンドルフの政治生命を絶つことが出来ました。

大統領選挙は過半数を獲得した候補がいなかったため、再投票が行われ右派連合(これにナチ党も参加)の推すヒンデンブルグが大統領に選ばれます。

ナチ党の国会進出

1926年2月14日、映画ではなぜかミュンヘンになっていますが、実際はドイツバイエルン州の旧都バンベルクでナチ党の幹部会議が行われました。

この会議で、ルーデンドルフと共に国家社会主義自由運動を立ち上げた、シュトラッサ―率いる北部派と、ミュンヘン派の対立を「指導者ヒトラー」の指導者原理により一本化して、ヒトラーの独裁体制を確立しました。

また政策により合法的に政権を奪うことを目的とするヒトラーと、今まで通り暴力による革命を目指す突撃隊のレームとで意見が分かれ、レームは突撃隊の隊長を辞任して、政治の世界から身を引きました。

突撃隊はレームから、各地の大管区長の指揮下に入ります。また突撃隊からヒトラーの身辺警護のため親衛隊(SS)ができたのもこの頃です。

グレゴール・シュトラッサー

ナチ党がミュンヘン一揆の失敗により禁止された時期にナチ党の偽装政党「国家社会主義自由運動」で頭角を現し、ナチ党再結党後に党首アドルフ・ヒトラーより北部ドイツのナチ党の再建を任された。その後、党中央で宣伝全国指導者や組織全国指導者を務めた。写真と文章 引用ウィキペディア

また北部でナチ党の拡大に成功し、国会に議員を送り込ませたシュトラッサ―は、党中央の宣伝全国指導者や組織全国指導者に任命されました。今まで体制打倒を叫んでばかりいたナチ党を、具体的な政策提言を持つ政党に替え、政権を担うのにふさわしい政党にしました。

また彼は、ナチ医師同盟、ナチ経営者同盟、ナチ夫人団、ヒトラー・ユーゲント等数々の組織を作り、広くドイツ国民からの支持を固め、国民政党としてのナチ党を作り上げました。

また、シュトラッサーのもとで秘書をしていたゲッペルズは、弁舌の才能を買われ、それまで400人のナチ党員しかいないベルリンに大管区長として送り込まれました。

ヨーゼフ・ゲッベルス

「プロパガンダの天才」「小さなドクトル」と称され、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握と、政権下のドイツの体制維持に辣腕を発揮した。政権下では第3代宣伝全国指導者、初代国民啓蒙・宣伝大臣を務めた。写真と文章 引用ウィキペディア

ベルリンに送り込まれたゲッベルズは、突撃隊を利用して共産党員やユダヤ人と衝突を起こさせ、新聞に報道されることで世間の注目を集めるようにしました。

さらに得意の弁舌でもって共産党やユダヤ人が、いかにドイツに不利益をもたらしていることを訴え、ナチ党への支持を集めることに成功します。

この功績によりゲッベルズは宣伝相になり、エルンストも報道担当官となり、海外新聞局長となります。

1929年、ニューヨークの株価大暴落から始まった世界大恐慌は、1923年のハイパーインフレから立ち直り、回復途上にあるドイツ経済に大打撃を与えました。

これにより都市部の労働者たちは、反資本主義を唱えるドイツ共産党が勢力を伸ばしたため、ナチ党はまだ組織化されていない農村部に、突破口を求めました。

シュトラッサ―の指導で農政局が作られ、大学で農学・畜産学を収めたヴァルター・ダレが局長となります。ダレの元、各地域ごとに土地と農業を守るために農学の専門家を送り、農業指導に当たらせました。彼らは指導した農民を全国農村同盟の会員に組み込み、ナチ党の支持者に替えます。

こうした活動が実を結び、1928年5月20日に行われた国会議員の選挙で12人しか当選しなかったのが、1930年9月14日の選挙では18.25%の得票率で107人の当選者を出し、国会で社会民主党に次ぐ第2位の議員数を得て、ナチ党の躍進が始まりました。

また都市部の労働者を中心に票を獲得した共産党も、13.13%の得票率を得て77人の議席を取り、第3党になります。

都市部で急激に勢力を伸ばした共産党の私兵「赤色戦線」と、ナチ党の突撃隊は度々暴力事件を起こし、抑えることが出来なくなったヒトラーは、レームを呼び戻しました。

1932年2月25日にヒトラーは、党幹部ヴィルヘルム・フリックの手配により、ブラウンシュヴァイク自由州のベルリン駐在州公使館付参事官となりました。これは名目上のことであり、公務員に自動的に与えられるドイツ国籍を取得するためのものでした。ドイツ国籍を取得したヒトラーは、1932年のドイツ大統領選挙に出馬します。

ヴィルヘルム・フリック 出典ウィキペディア

ヴィルヘルム・フリックはヒトラーが首相になると内務大臣に任命され、「全権委任法」(ヒトラーが独裁者になるための法律)や「ニュルンベルク法」(ユダヤ人迫害のもとになった法律)を制定しました。

エルンストはこれを祝いましたが、ゲルリッヒはヒトラーの大統領当選を阻止するための記事を書き続けました。そのためゲルリッヒは社主にクビを言い渡されてしまいます。しかし、彼はあきらめずに自分で新聞を発行するための活動を始めました。

1932年3月に行われた大統領選でヒトラーは、決選投票で53%の票を集めた現役のヒンデンブルグ大統領に次ぐ、36.7%の票を集めましたが、落選してしまいます。

この当時のドイツ大統領には、首相・閣僚の任命権、国会の解散権、非常時の緊急処置権という大きな権力がありました。ヒトラーはこの権力が欲しかったのです。

しかし、大統領選に落選したことによりヒトラーは、次の大統領選が行われる7年後まで大統領になることはできません。そこで彼は首相となり、大統領を操ろうと考えます。

ヒンデンブルク大統領は、自身多くの農地を所有する貴族であり、第1次世界大戦でドイツ軍参謀総長を務め国民の英雄として人望を集めておりました。更に、かって軍需産業を取り仕切っていたことから、財界にも大きな影響力を持っていました。

そこでヒンデンブルク大統領は、共産党を代表とする左派勢力を抑えるため、極右政党のナチ党を率いるヒトラーに副首相の地位を約束して、取り込もうとしました。

しかし、ヒトラーは首相の地位を求め、ヒンデンブルク大統領の申し出を拒否します。

ヒトラーの首相就任まで

ヒトラーは首相の座を確保するため、国会で第1党としての議席数を狙い強制的に国会を解散させ、総選挙に臨みます。

1932年7月31日の総選挙でナチ党は37.3%の得票率と230人の議員を当選させ第1党の地位を確保しましたが、共産党も14.32%で89議席と大きく勢力を伸ばしました。

国会で第1党の地位を確保したヒトラーは、ヒンデンブルク大統領に対して、再び首相の座を要求しました。

しかし、この時もヒンデンブルク大統領は、ヒトラーの首相任命を拒否します。

1932年9月12日、新国会が開かれると、第1党となったナチ党は共産党と共闘してパーペン内閣不信任案を提出します。

ナチ党と共産党が手を結ぶと過半数を超え、不信任案が可決されるのを恐れたパーペン首相は、ヒンデンブルク大統領に働きかけ、国会を解散させました。

1932年11月6日の国会議員選挙では、ナチ党は前回の選挙から間もない為選挙資金が不足したことと、共産党と組んで内閣不信任案を出したことから33.09%と大きく支持率を落とし、議席も196と減らしました。しか、第1党の位置は確保します。

反対に共産党は支持率6.86%となり、念願の100議席を得ることが出来ました。

再び首相の座を要求したヒトラーに対して、ヒンデンブルク大統領は軍人時代から友人であるシュライヒャーの意見を取り入れ、当時ナチ党の副司令官であり、ナチ党躍進の大立者シュトラッサーを副首相に指名して、ナチ党の内部分裂を狙いました。

ヒンデンブルク大統領は、それまでの首相パーペンに替えてシュライヒャーを新しく首相に任命して実行に移しました。

1932年12月5日、話を受けたシュトラッサーはナチ党の幹部会でこの提案を披露したところ、かねてコンビを組んでいたゲッベルズをはじめナチ党の主な幹部からヒトラーを裏切ったとして、猛反発を受けました。

ヒトラーも猛烈に怒り、すべての党役職を奪い、党から離脱させます。

こうして、ナチ党を分裂させるヒンデンブルク大統領の試みは、失敗してしまいました。

一方ヒトラーは首相を解任させられたパーペンと手を結び、右翼勢力を結集してヒトラーを首相にした暁には、パーペンを副首相に任命して内閣を彼に任せるとの密約を結びます。

度重なる解散で、国会が正常に機能できなくなることを恐れたヒンデンブルク大統領は、1933年1月30日保守派と連立政権を作ることを条件に、ヒトラーを首相に任命します。

新しく結成されたヒトラー内閣は、保守派と協調して政権を運営するための無任所大臣ゲッベルズと、内務大臣フリックだけを入閣させ、残りの大臣9人の任命は副首相のパーペンに任せました。

このため外部の観測では実権がパーペンのものであると見られていた。パーペン自身もそのつもりであり、「われわれは彼を雇ったのさ」「わたしはヒンデンブルクに信頼されている。二ヶ月もしないうちに、ヒトラーは隅っこのほうに追いやられてきいきい泣いているだろう」と語っている。

この部分 引用ウィキペディア

しかし、2か月後にこの考えが大きな間違いであることを思い知らされます。

首相官邸前で、ヒトラーの首相就任を祝う人たち 出典ウィキペディア

反ナチスの新聞記者ゲルリッヒは独自に「ストレート・パス(真っすぐな道)」と名付けた新聞を発行して、ヒトラーの台頭に抵抗を続けます。

例えば、レームを首班とする突撃隊が秘密裏に武力による革命(第2革命)を計画していることをスッパ抜きました。

驚いたヒンデンブルク大統領は、戒厳令を発令して、国軍を使って突撃隊と戦うことをヒトラーに伝えました。

ヒトラーはレームを無任所大臣に任命して、後に述べる「補助警察」を組織させ政府の一員とします。

首相から独裁者までのナチスの手口

2013年7月28日、都内で行われたシンポジウムで麻生太郎副大臣がこう発言しています。

ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。

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そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。

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憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。引用 朝日新聞 DIGITAL

途中略していますが、全文も上のリンク先で読めます。

では、本当に民主的な手口でヒトラーが独裁者になったのか、見てみましょう。

首相就任から2日後の1933年2月2日、ヒトラーは国会で過半数の議席を得るため、ヒンデンブルク大統領に国会解散の大統領令を出してもらい、国会を解散させます。

次の総選挙は3月5日に定めました。

2月4日、「ドイツ民族保護のための大統領令」がヒンデンブルクから出され政府により、集会・デモ・政党機関紙が統制され、政党への寄付が禁止されることになりました。ただ、政権に就いたナチ党の選挙運動は、政府の広報活動として行われたため、この規制外となります。

一番喜んだのはナチ党の選挙運動の指揮を執った党宣伝全国指導者ヨーゼフ・ゲッベルスで、政権に就いたナチ党は国家組織や国庫を使っての選挙戦を展開できるようになりました。彼は日記にこう書いています。

「我々は国家組織を動員できるようになったので運動は容易である。新聞とラジオは意のままである。我々は政治宣伝の傑作を創るつもりだ。金は有り余っている」

当時ドイツのラジオ局は政府の管理下にあった為、野党のころのヒトラーはラジオを使えませんでした。しかし、この選挙からヒトラーの演説がラジオで全国放送されるようになりました。

2月6日、ヒトラーはヒンデンブルク大統領に「プロイセン州における秩序ある政府状態を確立するための大統領令」を出させ、プロイセン州は国家弁務官となるパーペンの指揮下に置かれることになりました。

ヒトラーは無任所大臣のゲーリングを州内務相に就任させ、プロイセン州の警察権を握らせました。このプロイセン州の警察は後にゲシュタポ(秘密警察)となり、全国にその組織を広めます。

ゲーリングは州警察に「突撃隊、親衛隊、鉄兜団(退役軍人の団体)への敵意を示すような行動を避ける」ことと「国家に敵意を持つ組織には断固として対処し、銃の使用をためらわない」ように通達しました。

プロイセン州はドイツ全土の3分の2を占め、さらに首都ベルリンをも擁していたので、この地で野党の選挙活動の締め付けは大きな意味を持ちます。

これを先例として国家弁務官は他の州にも相次いで置かれ、州の独立は失われていきます。これは国家による州の強制的同一化の始まりでした。

2月21日には大量の「政治犯」の取り締まりで不足する警察官を補強するため、突撃隊、親衛隊、鉄兜団の団員5万名に銃の所持を許可して『補助警察』として雇い入れ、さらに規制を強化します。これは大量の失業者を抱え、不満を漏らしていた突撃隊を懐柔する目的もありました。この「補助警察」の制度はドイツ全土に広がり、団員も50万人に広がります。

国会議事堂放火事件

投票日間近の2月27日、ドイツ国会議事堂が、何者かに放火され炎上する事件が起こります。

炎上する国会議事堂 出典ウィキペディア

すぐ、現場にいたオランダ人共産主義者リヌス・ファン・デア・ルッベが逮捕されました。

翌日、ヒトラーはこの放火を共産党による国家転覆の陰謀と決めつけ、ヒンデンブルク大統領を動かし、「国民と国家の保護のための大統領令(議事堂炎上令)」と呼ばれる緊急令を出します。

これにより,政府は言論・報道・集会および結社の自由、通信の秘密は制限出来、令状によらない逮捕・「保護拘禁」が可能となりました。

これによって共産党の国会議員をはじめ、約5000名に及ぶ左翼の運動家たちが、逮捕されました。

1933年3月5日の総選挙で、ナチ党は288人の議員を当選させましたが、ヒトラーの思いと反対に、得票率は43.91%と過半数を獲得できませんでした。

共産党は激しい選挙妨害を受け81議席と19議席減らしましたが、得票率12.3%を得て第3党の地位を確保しました。

過半数の議席を確保できなかったヒトラーが独裁者になるまでは、次に書きます。

全権委任法

今までヒトラーは政治を行うのに必要な法律は、ヒンデンブルク大統領に頼んで大統領令を発令してもらっていました。

法律を作るのに、いちいち大統領にお伺いを立てなくてはならず、もし大統領の同意が得られない場合は、法律そのものが出来ません。

そこでヒトラー自身が法律を制定できるようにするのが、全権委任法なのです。

全権委任法(正式には”民族および国家の危難を除去するための法律”)とは、憲法改正によらず大統領権限を侵さない限り、国会審議を経ることなくヒトラーに自由に法律の制定を認め、向こう4年間ヒトラーに「白紙委任状」を認めるという前代未聞の法律です。

ただ、憲法修正を意味するこの法案を可決するためには、議員総数の2/3以上の出席を得た上で、出席議員の2/3以上の賛成を必要とます。

下に、3月5日の総選挙で得た各党の議席数と議席占有率を載せておきました。

一番問題なのは、ナチ党に反対している「ドイツ社会民主党」と「共産党」の存在です。この両党の議席占有率を足すと32%となり、両党が議会を欠席し、これに同調する議員が15名以上出ると、全議員の3分の2以上の議員の出席が得られなくなり、審議不能となってしまいます。

全権委任法採決の状況

政党 議席数 議席占有率 賛成投票 反対投票 欠席
逮捕・拘禁 病気 逃亡
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス) 288 45 % 288 0 0 0 0
ドイツ国家人民党 52 8 % 52 0 0 0 0
中央党 73 11 % 72 0 0 0 1
バイエルン人民党 19 3 % 19 0 0 0 0
ドイツ国家党 5 0.8 % 5 0 0 0 0
キリスト教社会人民運動 4 0.6 % 4 0 0 0 0
ドイツ人民党 2 0.3 % 1 0 0 1 0
ドイツ農民党 2 0.3 % 2 0 0 0 0
ドイツ農民連盟 1 0.2 % 1 0 0 0 0
ドイツ社会民主党 120 19 % 0 94 26 0 0
共産党(議席剥奪) 81 13 %
総計 647 100 % 444 94 26 1 1

出典 第二次世界大戦資料館

そこでナチスの手口の発動です。国会議事堂炎上事件後成立した「議事堂炎上令」を適用して、共産党議員を逮捕し、その議員資格を剥奪します。

これで議員総数は、647名から566名になり、更に、ドイツ社会民主党の議員26名を逮捕・拘禁したため出席できる議員数は540名に減ります。

これにより、ドイツ社会民主党の議員と中央党の議員全員が欠席しても、総議員数の3分の2以上の議員が出席することになりました。

しかし、ナチ党と連立しているドイツ国家人民党の議員を合わせた数は、340名となり議員占有率は63%で3分の2以上の議席数を確保できません。

ヒトラーは中央党の党首ルートヴィヒ・カースに対して賛成票を投じるよう求めました。ルートヴィヒ・カースは反対しても結局ヒトラーが強引に法案を成立すると考えて、賛成票を投じることに同意しました。

1933年3月23日、議場で全権委任法への賛成を要求するアドルフ・ヒトラー 出典ウィキペディア

1933年3月23日、国会議事堂が火事で焼失したため、臨時の議事堂となったクロル・オペラハウスでの審議の結果、賛成441票、反対94票の圧倒的多数で全権委任法は成立しました。

この全権委任法は大きく5条の条文からなりますが、特に問題になるのは第2条です。

全権委任法第2条条文

ドイツ政府によって制定された法律は、国会および上院の制度そのものにかかわるものでない限り、憲法に違反することができる。ただし、大統領の権限はなんら変わることはない。

これによりヒトラーは、憲法に縛られることがなく、自由に法律を作ることが出来ます。ヒトラー自身の考え方、思想が新しい憲法となるのです。これが全権委任法がナチス憲法と言われる由来です。

ヒトラーが首相に就任してから、たった2か月後のことでした。

ヒトラーは、大きく独裁者への道を踏み出し始めます。

この後の6月21日、社会民主党の活動が禁止され、財産も没収された。この頃から他の政党も「自己解散」の道を選び、ドイツ国家党(6月28日)、中央党(7月3日)、バイエルン人民党・ドイツ人民党(7月7日)が次々と消滅した。7月14日には「政党新設禁止法」が発行されたことにより、ナチ党以外の政党は無くなりました。

長いナイフの夜

ナチ党の一党独裁が確立した1933年8月、かねてレームと対立していたゲーリングは「補助警察隊」を解散させ、そのほかの州もこれに倣ったため、約50万人の団員が職を失いました。

ヒトラーは突撃隊を準国軍にさせ、フランスやポーランドとの国境警備に当たらせました。

1934年春になると突撃隊に、元共産党員や、ヒトラーに除名された元ナチ党のNo.2だったシュトラッサーを支持する者など反ヒトラーの立場をとる人が集まり団員の数が200万人の規模になります。

レームは突撃隊をドイツ国防軍として認めるよう要求しましたが、ドイツ国軍は突撃隊は無頼の徒としてみており、これを拒否します。

ヒトラーはレームに突撃隊を解散させるよう要求しましたが、レームは隊員を裏切ることはできないとして、これを拒否しました。

1934年6月30日、ヒトラーはバイエルンのヴィースゼーのサナトリウムに滞在していたレームのもとに赴き、部屋で寝ていたたレームを起こし、逮捕しました。牢に入れられたレームに拳銃が与えられ、ヒトラーが10分以内に自殺することを望んでいると告げられた。レームは拳銃の使用を拒否し、「この卑劣な仕事はアドルフが自分でやるべきだ」と言った。10分が過ぎ、独房の扉が開いて銃弾が撃ち込まれ、レームは射殺されました。
そのころSA幹部150名がベルリンでゲーリングによって逮捕され、士官学校倉庫に監禁され、射殺された。

これと同時に、ナチ党の分裂を謀った元首相のシュライヒャーや副首相の地位を約束され、話に乗ったナチ党No・2のシュトラッサ―、ミュンヘン一揆の時裏切った元バイエルン州提督グスタフ・フォン・カールも殺されました。

これらの粛清は7月3日に公布された「国家緊急防衛の諸措置に関する法律」によって、合法とされました。

この大規模な粛清は『長いナイフの夜』と呼ばれます。

映画では、かねてからナチス反対の新聞を発行していたフリッツ・ゲルリッヒも、収容先のダッハウ強制収容所で殺されました。

しかしこれで、ヒトラーが全権力を握った訳ではありませんでした。

ヒトラーの上にはヒンデンブルク大統領がおり、彼には議会の解散権、首相の任命権、大統領令を発布できる権利を持っていました。

もし、大統領がヒトラーから首相の座を取り上げたら、すべては水の泡となります。

1934年8月2日「長いナイフの夜」から1か月後、ヒンデンブルク大統領が在任のまま死去します。ヒトラーは直ちに「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を発効させ国家元首である大統領の職務を首相の職務と合体させます。

大統領と首相を兼ねたヒトラーは、新しい名称「総統」と呼ぶように国民に求めました。

これによりヒトラーは完全な独裁者となりました。

エルンストは、ヒトラーから夫婦で海外旅行をする許可をもらい、アメリカに亡命しました。

エルンストの学友であり、キャバレーの経営をしていてユダヤ人のフリードリッヒもアメリカに逃れ永住します。

映画の終わりに文字が流れます。

第2次世界大戦の犠牲者は5000万人。

そのうち軍人が2000万人。

一般市民が2300万人。

ヒトラーによって虐殺されたユダヤ人が600万人。

残り100万人が、ジプシー・反体制派・エホバの証人・同性愛者などです。

虐殺された700万人のうち、150万人以上が子供でした。

 

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