なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

ベトナム戦争 その5 ケネディ大統領とジエム政権の崩壊

time 2024/08/09

ベトナム戦争 その5 ケネディ大統領とジエム政権の崩壊

アメリカがジエム大統領に期待していたのは、北ベトナムに対抗できるように、民主主義的な選挙を行い、議会を開設し、憲法を定めて共産主義勢力に打ち勝つことのできる挙国統一の自由主義国家を作ることでした。

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亀仙人2

なぜ資金面でも、軍事面でも優位に立っていたジエム政権が崩壊したのか。

下の地図は1954年におけるへトミンの支配した地域(オレンジ色の部分)を示した地図です。ベトナム国の首都であるサイゴン近くまで、支配されているのがわかります。

1954年ジュネーブ協定直前のベトミンの勢力範囲を示した地図: オレンジ = ベトミン支配下の地域。紫 = フランス支配下の地域。白点線 = ベトミンゲリラの野営地および戦闘地域。

赤い丸で囲まれた地域が、フランスが大敗したディエンビエンフーの場所。

出典 Wikipedia

 

南ベトナムのメコンデルタ付近に飛び地状態でベトミンの占領地がありますが、これはフランスが植民地時代に大きな収益を上げていたコーチシナ地方を独立させ、フランスの傀儡政権であるコーチシナ共和国を成立させていたためです。そのためベトナム戦争でも、この地域の支配をめぐって共産党勢力と、南ベトナムの間で激しい戦いが続きました。

コーチシナ共和国 (黄色の部分)

出典 ウィキペディア

 

1954年4月26日から、スイスのジュネーブに関係国の代表が集まり、インドシナ戦争の休戦を協議するジュネーブ和平会談が開催されました。

初めフランスは会談の条件を有利にするため、引き延ばしを図りましたが1954年5月7日ディエンビエンフーの戦いで大敗北し、フランスの戦闘継続が難しくなってしまいました。

1954年6月19日、ディエンビエンフーの敗北を受けそれまでインドシナ戦争継続路線を支持していたラニエル内閣に変わり急進派のピエール・マンデス=フランスが新たに内閣を作りました。マンデス=フランスは就任演説でインドシナ戦争を30日以内に終わらせることを宣言し、実現できなかった場合は辞任することを公約しました。

マンデス=フランスは北ベトナムのホーチミンと休戦協議を開始する一方、北ベナンムを支援している中国の周恩来首相、ソ連のヴャチェスラフ・モロトフ、ソ連外相とも停戦に向けて交渉を繰り広げました。

1954年7月7日、ベトナム国国家元首のバオ・ダイはアメリカの意を受けて、反共政治家のゴ・ディン・ジエムを新首相として任命しました。これはいままでベトナム国を援助し続けてきたフランスに変わって、アメリカが援助を受け持つことを意味しました。

これに慌てたのが、中国の周恩来首相でした。中国は前年の7月まで朝鮮戦争でアメリカと戦って、大きな犠牲を払っていました。ここで変にアメリカを刺激して、アメリカのベトナムに対して全面介入を招き、再びアメリカと戦うことを避けたいと考えました。そこで周恩来首相はホー・チミンに対して、ここで無理にベトナム全土の統一を狙うより、いったん引き下がってベトナムを2つに分け、ベトナム国との停戦を結ぶように説得しました。ホー・チミンも中国の援助がなければ、アメリカを相手にベトナム統一の戦いを続けることが不可能であることを分かっていたため、この説得を受け入れました。

1954年7月21日マンデス=フランスの公約より1日遅れで、インドシナ3国の停戦協定が成立しました。

ラオスとカンボジアは独立を認められ、それぞれの国にいる外国の軍隊は引き上げる。

ベトナムに関しては

ベトナムは北緯17度線を暫定軍事境界線都市、ベトナム人民軍(ベトミン)は北の部分に、フランス連合軍は南の部分に集結する。
8月初めまでに一切の軍事行動は停止させる。
以後、いずれの地域も軍事同盟に参加したり、軍事力の増強を求めたりしない。
300日間にわたって、ゾーン内の住民は自由に移動できる。
停戦を監視するため、カナダ、ポーランド、インドが議長を務める国際監視委員会を設立する。
1956年7月に国際監視委員会の元、双方の住民による自由な秘密投票によりどちらの地域を選ぶか、総選挙を行う(これは会議の署名されていない最終宣言にのみ記録された)。

合意はベトナム民主共和国、中華人民共和国、ソ連、フランス、イギリスが署名するも、アメリカは第6条の総選挙の項の署名は拒否し、ベトナム国は合意の署名はしませんでした。

北ベトナムはベトミンの兵士は引き上げたものの。2年後の総選挙に備えて、10万名とみられるベトナム労働党の政治局員を一般人に紛れて配置していました。

ジュネーブ協定により2つに分けられたベトナム。

出典 ウィキペディア

 

共産党の支配に反対する北ベトナムのカトリック教徒、知識人、実業家、地主、反共産主義民主主義者、中流階級の人々は、「自由の道作戦」を利用してベトナム南部に移住しました。その数は80万人から1000万人とみられています。

北部住民に南部への移住を促すプロパガンダポスター 。

タイトル:「共産主義を避けるには南部へ行け」。

下部キャプション:「南部の同胞は北部の兄弟姉妹を両手を広げて歓迎している。」

出典 Wikipedia

首相に就任した当時のゴ・ディン・ジエムには、何の政治的権力や支持基盤がありませんでした。

そのため首相就任から半年もたたない1954年9月20日、ベトナム国軍参謀総長のグエン・バン・ヒン将軍によるクーデター計画が明らかになりました。ジエム首相の顧問である米軍事顧問団のエドワード・ランズテール将軍はグエン・バン・ヒン将軍の部下達に賄賂を送り休暇や、フィリピンで勝利しつつある共産ゲリラ組織フクバラハップとの視察に(ランズテールはベトナムに来る前、フィリピンでフクバラハップとのゲリラ戦に戦い勝利に導きました)誘い、クーデターの実行を防ぐことに成功しました(グエン・バン・ヒン将軍は参謀総長のため、直接指揮できる実戦部隊を持っていませんでした)。

1955年3月にベトナムで警察権を握るビン・スエンとの戦いが始まりました。ビン・スエンはサイゴンの中華人街チョロン地区でカジノや売春宿を経営していた他、麻薬の密売や密貿易で大きな利益を上げていました。ビン・スエンはこの利益を元にヨーロッパで遊び歩いていたバオダイの遊興費を肩代わりすることを条件に、ベトナムでの警察権を買い取っていました。

このためジエム首相はビン・スエンの資金源であるチョロン地区のカジノを閉鎖し、陸軍空挺部隊にビン・スエンの本拠地であるサイゴンの警察本部を襲わせました。

これに対してビン・スエンは私兵を率いて。大統領官邸を包囲しました。このとき大統領顧問のランズテールはかって訓練していたベトナム国軍を率いて、サイゴンでの激しい市街戦を行い、ビン・ハエン一派をサイゴンから追放することに成功しました。

1955年10月23日、軍の統括権とベトナムの警察権を手に入れた、ジエム首相はベトナムの元首の座をめぐって、国民投票を行いました。この選挙でゴ・ディン・ジェムは98.91%の得票を獲得して国家元首となりました。

ただこの選挙は有権者の数を上回る投票があったことから、不正が行われその不正を操作したのが、顧問のランズテールだと見られています。

エドワード・ランズテール 1963年

アメリカ空軍の将校を務める傍らCIAのエージェントとして軍事顧問団の一員となり、ベトナム国軍の兵士達の訓練をしていました。

またゴ・ディン・ジエムの顧問として、1954年9月のグエン・バン・ヒン将軍のクーデターや、1955年3月のバイ・ビエンとの戦いでゴ・ディン・ジェムを勝利に導きました。

1955年10月に行われたベトナムの元首を決める国民投票では裏工作を行い、ゴ・ディン・ジエムを勝利させ大統領に就任させました。

もし彼がいなかったら、ジエム政権によるベトナム共和国は誕生しなかったと言われています。

出典 ウィキペディア

ここまでの詳しい経緯は、こちらをご覧ください ↓

ベトナム戦争 その2 ケネディ大統領とジエム政権 1961年~1962年

ベトナム共和国の成立とジェム政権

国家元首を決める総選挙から3日後の1955年10月26日、新たに国家元首となったゴ・ディン・ジエムは国名をベトナム共和国と改め、初代大統領に就任しました。

1954年7月7日の首相就任からわずか1年足らずで、フランスの傀儡政権であるベトナム国に代わって、より民主的な(当時はそう思われてしました)ベトナム共和国を建設し、その初代大統領に就任したゴ・ディン・ジエムに対してアメリカから賞賛の声が上がり、北のベトナム民主共和国との戦いに期待が集まりました。

ジエム政権を支えた兄弟達

ジエム大統領の父親ゴ・ディン・カは12人の子どもをもうけましたが、幼児期の3人の子を失い清澄だ北野は男の子6名、女の子3名の9人だけでした。

そのうち長男のゴ・ディン・コイは父親と同じく阮朝の官吏でしたが、終戦後フランスに味方して戦ったため、1945年ベトミンに捕まり殺されてしまいました。

ゴ ・ディン ・コイ、1946年

出典 Wikipedia

 

ゴ・ディン・ジエムは首相となり政権を握りましたが、海外にいることが多かったため、ベトナム国内に彼を助ける人が居ませんでした。そのためジエム大統領は、彼の兄弟を中心とした極端な一族支配を続けることになります。

ゴ・ディン・トゥック

ゴ・ディン・トゥックは現地用の官吏ゴ・ディン・カの二男として1897年101月6日ベトナム(当時はフランス領インドネシア)のフエで生まれました。基礎教育を受けた後12歳でアンニンの小神学校(10代の少年達を教育するための神学校)に入り、8年後にフエの大神学校に移り、2年後の1919年11月、ウジェーヌ・アリーズ・リー司教によりローマの教皇庁立グレゴリアン大学に留学しました。グレゴリアン大学で哲学博士、神学博士、文学士の資格を取った後パリのソルボンフ大学で教鞭をとっています。1925年12月20日、ローマで司祭(神父)に叙階(任命)されました。

1929年、ゴ・ディン・トゥクはベトナムに戻り、フー・スアン神学校の教授や、私立のカトリック学校(ティエン フ校)の校長を務める傍ら、カトリックの布教に努めました。

1938年1月8日、サイゴン近くのビンロン、チャビン、ベンチェの3つの省にサイゴン教区から独立した新たな教区を設立するために、新たに使徒座代理区(管区)をベトナムに設立し、ゴ・ディン・トゥク神父を新しい教区の代理使徒司教(称号サイシナ司教)に任命しました。

ビンロン、チャビン、ベンチェの位置
Google Mapより

1938年5月4日、フエにあるフーカム大聖堂で叙階式が行われ、ゴ・ディン・トゥクはベトナムで3番目となる司教となりました。
1938年6月23日、ゴ・ディン・トゥク司教は正式に設置されたビンロン教区を受領し、以後23年間にわたってカトリックの布教と教区建設のために働きました。

 

1938年のトゥック司教

出典 Wikipedia

1960年11月2日、トゥックはヨハネ23世教皇によってフエ大司教に任命されました。ベトナム人が3つある大司教地区(他の2つはサイゴンとハノイ)の大司教となったのは、彼が初めてでした。

1963年11月のクーデター当時、ゴ・ディン・トゥクはローマで行われていた第二バチカン公会議に出席のためベトナムを離れており、難を逃れることができました。

第二次バチカン公会議が終わっても、ゴ・ディン・トゥクはベトナムへの帰国を認められず、海外での亡命生活を送りました。

ゴ・ディン・ジエムの首相就任の直後、ジュネーブー協定が結ばれてベトナムは南と北に分かれ、北側の共産党支配を嫌って多くの難民達(約80万人とみられています)がベトナム南部にやってきました。その多くがカトリック教徒でした。ゴ・ディン・トゥク司教は彼らを救済すべくジエム大統領に掛け合い、彼らをメコンデルタ地区に移住させ食料や住居、農具、住宅資材を提供し、灌漑用水路を掘り、堤防を築き、沼地を浚渫して彼らの生活を安定させました。

しかし、北からの難民に割り当てられた土地は、1955年から始まった土地政策によって地元の貧農や小作人に与えられる土地だっため、カトリック教徒やジエム大統領への反発が強まり、ベトミン支配を望む下地が作られました。

また土地改革では、教会の支配する土地には何の制限も設けられず、税金もかからないためベトナムから撤退したフランス人が持っていたゴム農園や農地、都市部の不動産を手に入れ大不動産王になっています。

ゴ・ディン・トゥクが政権に加わったったことで、軍や公務員の昇進、ビジネスの許可や税制面においてカトリック教徒が優遇され、他の宗教との対立が高まってしまいました。

ゴ・ディン・ジェム

ゴ・ディン・ジエム 1957年

出典 Wikipedia

ゴ・ディン・カの三男がゴ・ディン・ジェム大統領になります。大統領になっても信頼できる側近に恵まれないため、すべての決済を彼一人で行うこととなり多忙を極め、めったに人前に出ず、生涯独身で過ごし酒も飲まないため、まるで僧院の修道僧の様だと言われました。

ゴ・ディン・ヌー

四男がゴ・ディン・ヌーになります。

ゴ・ディン・ヌー、1963年9月、ザロン宮殿にて。

出典 Wikipedia

ゴ・ディン・ヌーと言えば、秘密警察を使って国内の共産党員のみならず、政府に批判的な人や、カトリックに対立した仏教徒を弾圧して、ジエム政権を崩壊させたことで有名です。

この秘密警察は、かつてサイゴンでカジノや売春、アヘンの密売などで大金を得たバイ・ビエンが南ベトナムの元首であるバオ・ダイから警察権を買い取り、バイ・ビエンの商売敵や、商売に反対した者を消す殺人部隊(行動委員会)を引き継いだものです。

このあたりの詳しい情報はこちらをご覧ください ↓

ベトナム戦争 その1アメリカの登場と、ベトナム共和国(ジエム政権)の成立

ゴ・ディン・ヌーが引き就いたのは秘密警察だけではありませんでした。

1955年1月、警察権を握るバイ・ビエンの資金源を絶つため、カジノと売春宿の経営を禁止しました。

バイ・ビエンとの戦いが終了した後、ゴ・ディン・ヌーはサイゴンのチュ論地区にある、カジノや売春宿を再開してしまいました。

さらに麻薬の密売にも手を出し、ラオスから運ばれてくるアヘンを精製して、ヘロインを作り(アヘンをヘロインに精製すると。純度が高まり質量が五分の一になる)一部を国内に流し、多くはフランスのマルセイユのギャングに流れ、そしてアメリカのマフィアに密輸されました。

これにより多くの資金を手に入れることとなり、彼の餅諜報機関や秘密警察の活動資金となりました。

このカジノ経営とアヘンの密貿易は、1963年11月のクーデターでジエム政権が崩壊した後も政権を担った代々の将軍達に引き継がれ、正式に終了したのは1975年4月のサイゴン陥落でベトナム共和国が崩壊した後でした。

1954年7月ゴ・ディン・ジェムはバオダイ帝によってベトナム国の首相に任命された直後の、1954年8月8日ゴ・ディン・ジェムをリーダーに、弟のゴ・ディン・ヌーを書記長とする新しい政党、カンラオ党を立ち上げました。カンラオ党は人間の尊厳理論(フランスの哲学者エマニュエル・ムニエの個人主義にカトリックや儒教の教えをミックスして、ゴ・ディン・ヌーが作り出した理論ですが、実は何を言っているのかよく分かっていません)を元に、リーダーのゴ・ディン・ジエムに絶対的な忠誠を誓う人々の集まりです。

カンラオ党は党員に忠誠を誓わせる代わりに、軍や政府要員の就職、昇進を優遇しました。そのため1955年党の発足当時の党員は1万人でしたが、4年後には150万人となりジエム政権を支える重要な柱となりました。

マダム・ヌー(トラン・レ・スアン)

ゴ・ディン・ジエムの兄弟ではありませんが、ジエム政権の崩壊に大きく関わったのがゴ・ディン・ヌーの妻マダム・ヌー(トラン・レ・スアン)です。

1950年代のマダム・ヌー

出典 Wikipedia

生涯独身であったジエム大統領にとって、弟ゴ・ディン・ヌーの妻トラン・レ・スアン(ヌー夫人)が事実上のファースト・レディーとしての役割を担っていました。

トラン・レ・スアンはジエム大統領の兄トゥック司教や夫のゴ・ディン・ヌーとともに大統領顧問として独立宮殿に住み、ベトナムの政務一切を取り仕切っていました。

彼女はアメリカの援助金を横領して豪華な別荘を3軒も建て宝飾品を買いあさり、軍用輸送機で香港まで買い物や美容整形に通っていました。

夫のゴ・ディン・ヌーが裏でカジノ経営やアヘンの密売をしていることを知りながら、道徳法や宗教法、集会法などを制定して、ダンス、ボクシング、闘鶏、避妊、離婚、精霊信仰などすべて禁止し、葬式や結婚式まで許可制にしました。ベトナム国内にいる米軍兵士からは、ダンスが禁止されたことに不満の声が上がりましたが、「踊りたいアメリカ人は香港に行けばよい」と言っていました。

偽善に満ちた彼女に対して多くのベトナム人は、「ヌー夫人」と呼ばず、軽蔑を込めた意味で結婚前の本名「トラン・レ・スアン」と呼んでいました。

1963年の仏教徒危機の時、仏教徒との対立を収めるためジエム大統領が仏教機の掲揚や被害者に対する賠償金の支払いを始めるなど譲歩する姿勢を見せると、ジエム大統領に向かって「裏切り者、クラゲ(骨なしの意味)」と呼んで非難しました。

さらに抗議のため僧呂のチク、クァン・ドクが焼身自殺を行った際、「あんなのは僧呂のバーベキューに過ぎない」と発言し、かえって仏教徒危機をあおり立ててしまいました。

1963年11月2日、クーデターでジエム大統領が殺されたことを知ったケネディ大統領はトラン・レ・スアンに対して怒りを込めこう言っています。

「あのクソ女、彼女に責任がある…あの女が鼻を突っ込んで、あそこの状況を沸騰させたんだ…」

引用 Wikipedia

トラン・レ・スアン(マダム・ヌー)に関する詳しいベトナムのサイトがありました。↓

Petro Times『トラン・レ・スアン – 権力の興亡 – 愛』

 

ゴ・ディン・カン

ゴ・ディン・カの5男がゴ・ディン・カンとなります。

若い頃のゴ・ディン・カン

出典 Wikipedia 

実はゴ・ディン・カンの生年月日について、フエのフーカム大聖堂に保管されている洗礼書によると1910年11月1日になっていますが、兄のゴ・ディン・ヌーが生まれたのが、1910年10月7日なので早くても1911年末には生まれていたと考えられています。

1907年父のゴ・ディン・カは宮廷の官吏を引退しましたが、土地と屋敷を持っていたためカンは親と一緒にフエで暮らしていました。

カンもゴ一族同様にペラリン・フエ神学校に通わせられましたが3年生の時、頭ににこぶし大の出来物ができ化膿したため、学校を休学しました。治療後も学校に戻らず、両親の元で暮らしていました。1923年父のゴ・ディン・カが亡くなった後も母の元で釣りや闘鶏、園芸などをして暮らしていました。見かねた姉や兄たちが忠告しても聞かず、相変わらず母の世話をして暮らし続けました。

1955年10月26日、ジエムが大統領に就任すると、母親はジエムを呼び出し

「カンは学歴はないけれど長年私に付き添い、世話をしてくれました。その彼に報いるためにも、彼を何かの役目に就けてください。」

と頼みました。ジエム大統領は母親の願いを聞き、カンを中部地域の顧問に任命しました。

ベトナム中部の支配権を得たカンは兄のゴ・ディン・ヌーに習い秘密警察と私兵を組織し、かってカンを馬鹿にした人々を殺し始めました。

やがて組織を強化したカンは1959年から始まった共産主義を非難し根絶する政策(法律10-59)が始まると、キャンペーンの

「共産主義者を見逃すよりは、例え間違いであっても殺したしまった方がよい。」

をそのまま実行し、共産主義者のみならずジエム政権に反対した人や、批判した人たちまでも共産主義者と見なし、殺してしまいました。

このためカンは中部地域の暴君として知られるようになります。

1960年、北ベトナム(ベトナム民主共和国)がベトナム南部での武力闘争を決意し、南ベトナムの農村地帯にゲリラ部隊を送り込みました。

これに対してカンは民兵を組織し、150名単位の部隊を共産主義者に支配された村々に送り込みました。各村に送り込まれた兵士達は、昼間は村人達と一緒に農作業を手伝い、夜は各農家に分散して食事をとり寝泊まりしました。このため送り込まれた共産ゲリラ達は、村人に紛れることが困難となりました。また村人達も共産ゲリラを匿ったり支援しているのがばれると、一家皆殺しとなるため共産ゲリラを支持するものが居なくなりました。

さらに夜間パトロールを行い、夜出歩いている人を見つけると、片っ端から殺してしまいました。

こうして派遣された村の平定が済むと、民兵達は新たな村に行き、同じように村人に交じって活動しました。このようなことを中部地域で何カ所にも渡って行った結果、中部地域での共産ゲリラの活動は完全に抑え込まれ、ベトナム南部で起こった戦略村の支配をめぐって共産ゲリラとの激しい戦いに比べ、遙かに平穏な状態を保つことに成功しました。これには現地に派遣されたアメリカ軍事顧問団から、賞賛されました。

さらに特産のシナモンの販売や、米の販売(一部は北ベトナムに密輸)を独占し、アメリカからの援助金の分配をめぐり、役人や業者からの賄賂を受け取ることで巨万の富を築きあげました。

1963年5月4日フエの大司教で、ジェム大統領の兄であるゴ・ディン・トゥックの司祭任命25周年を祝う式典がフエで行われました。

この式典の開催をめぐって、フエの住民は仏教徒であっても寄付を求められたり、カトリックの象徴であるバチカン旗の掲揚を強制されました。

式典が終わりフエの仏教徒達は5月8日の釈迦の誕生会(ヴェーサーカー祭)に向かってバチカンの旗を下げ、代わりに仏教徒の旗を掲げました。

5月6日、カンの部下の軍や警察が掲げられている仏教旗を取り外し、押収しました。

5月8日ヴェーサーカー祭当日、仏教旗掲載禁止に対する抗議集会が行われ3000人の人々がフエのラジオ局前に集まりました。この人々に対しカンは銃撃を命じ、9人の命が奪われました。

このあたりの詳しい説明はこちらをご覧ください ↓

ベトナム戦争 その3 ケネディ大統領とジエム政権の崩壊 1963年仏教徒危機

この事件は瞬く間に南ベトナムに広がり、軍部の中には民衆の支持を失ったジエム政権に対するクーデター計画が始まりました。

アメリカ政府は秘密裏にこのクーデター計画を支持し、1963年11月1日から2日にかけてのクーデターでジエム大統領と弟のゴ・ディン・ヌーの2人は射殺され、ジエム政権は終わりを迎えました。

1963年11月のクーデターについての詳しい解説はこちら ↓

ベトナム戦争 その4 ケネディ大統領とジエム政権の崩壊 1963年11月1日の軍事クーデター

クーデター後の11月5日、カンはフエのアメリカ領事館に行き、亡命を求めました。しかし。アメリカはカンの亡命を認めずCIAのルシアン・コーネンによって革命政府に引き渡されました、

1964年4月22日ゴ・ディム・カンは革命裁判所によって死刑判決を受け、1964年5月9日カンは処刑されました。

ゴ・ディン・ルエン

ゴ・ディン・ルエン

出典 Wikipedia

ジエム大統領の末弟でゴ・ディン・カの6男がゴ・ディン・ルエンです。

ジエム大統領はルエンを駐英大使に任命したため、1963年11月のクーデター発生当時はイギリスに居たため殺害さるのを免れました。

ルエンもゴ一族の例に漏れず、大使を務める傍ら為替操作をして大金を貯めていました。

 

ゴ・ディン・ヌーの妻トラン・レ・スアンはクーデターが起きた時、ジエム政権への支援を求めてアメリカで遊説していたため、無事でした。

アメリカへの亡命をするかどうか聞かれた時

「夫とその兄弟を殺すような国には、居たくありません。」

と答え、ローマに居たゴ・ディン・トゥック大司教のもとに身を寄せ、その後フランスに亡命しました。

アメリカの経済援助

アメリカ政府はゴ・ディン・ジエムを経済面で支えるため、1955年から1960年にかけて年平均二億ドルの経済援助を行いました。

1955年1月からアメリカはフランスに代わって、本格的に南ベトナムへの経済援助を開始しました。その金額は約二億ドルで、国民一人あたり1万五千円、1家族4人とすると六万円になり当時のベトナム家族の年収の二倍になります。

ただ経済援助を与える前に、フランスから「ドルを与えれば、腐敗と汚職の燃料を与えるだけだ。」と忠告を受けていました。

そのため商品輸入計画(CIP)と呼ばれる独特なプロクラムを設け、経済援助のドルが直接ベトナム政府に渡らない方法をとりました。

その方法は、援助の米ドルを南ベトナムの財務省に渡します。アメリカの製品の輸入を希望する業者には輸入許可書が与えられ、許可を受けた業者は公定の交換ルート1ドル=35ドン(ドンは南ベトナムの通貨単位)の半分である2ドル=35ドンを国庫に納め、財務省からドルを購入します。

業者は手にしたドルで、アメリカから欲しい物品を購入して、ベトナム国内で販売する仕組みでした。

南ベトナム政府は業者が米ドルを購入した代金を公務員や兵士の給料、活動費や業務の拡張に充てられました。また、アメリカ間商品を輸入する際にかけられた輸入関税も大きな財源となります。

 

朝鮮戦争後の韓国でも同様に経済援助が行われましたが、当時の大統領朴正煕(パク・チョンヒ)は援助金を使ってダムや発電所、製鉄所を建設し、道路の整備を行い、経済発展の基礎を作りました。これにより約30年間『漢江(ハンガン)の奇跡』と呼ばれる経済成長を遂げ、世界の最貧国から一挙にG20に入る先進国の一員になりました。韓国の企業サムスン電子や現代自動車、LGエレクトロニクスは世界的に活躍しています。

 

中華民国(台湾)でもアメリカの援助を受けた蔣 介石(しょう かいせき)総統も発電所、製鉄所、国立銀行を建設して経済の基盤を作り、米ドルに交換したときの財源を使い、大地主から土地を買い取り、それを貧農や小作人に分け農業従事者の生活を安定させました。一方土地を手放した地主には、土地を売った金を産業に投資するよう進めました。そのため台湾には簡単な玩具や電化製品、衣料品を製造する工場がたくさんでき、その製品は主にアメリカに輸出されました。さらに新たな技術の習得や製品開発のための投資を援助することにより、台湾製や韓国製の電化家電がアメリカに流れ、アメリカ間家電大手GEは一般家電の製造を取りやめました。

1981年IBMからパーソナルコンピーター(IBM PC)が発売されると、IBM PC互換機を製造し、本家IBMの製品よりも安価、高性能、高機能のため瞬く間に世界中に普及し、IBMはパソコンの製造販売を取りやめました。その後もパソコンを中心に技術開発に取り組み、現在ではハイテク・電子工学・IT産業などの分野では世界の最先端を走っています。

台湾の1人当たり実質GDPは非常に高く、2009年は日本を上回り、2023年は日本の1.4倍程度となっています。

 

両国とも南ベトナムのジエム大統領と同じく独裁体制を築いていましたが、ジエム政権はアメリカの経済援助をどの様に利用していたのでしょうか。

アメリカからの主な輸入品は、金やダイヤモンドなどの宝飾品、高級ウィスキーなどアルコール飲料、自動車やバイク、冷蔵庫やオーディオシステムなどの贅沢品であり、これらの高級消費財は都市部で暮らす中流階級の拡大に効果がありましたが、国内の経済発展にプラスになりませんでした。

この経済援助で上げた収益の大部分は軍事費に充てられ、その3/4はジエム政権を守るための治安維持の活動費に使われました。

ベトナム国民の8割を占める農民達にとって、経済援助の効果は及ばず都市部で生活する富裕層との格差が広がり、ジエム政権に対する反感が広がることになりました。

経済援助本来の目的は、国内の産業を発展させ国民の生活を豊かにし、それにより政権への支持を高めることでしたが、ジエム大統領は真逆のことをしてしまいました。

これまで書いてきたように、ジエム政権の特徴は

ゴ一族による政権支配

カトリック教徒やカンラオ党員優先の政治体制

極端な反政府分子への弾圧

何事も賄賂で決まる。腐敗した政治

により、国民の不満が高まり、政権への支持を失ったことが大きな理由です。

それにしてもジエム大統領は、自身の政権の利益を守るためや、一部の支持者の利益のため、次が次へと多くの国民から嫌われることをやっていて、自分の身が危なくなると思っていなかったのでしょうか。

北ベトナム、ハノイの労働党(共産党)も放っておけば国民の不満が高まり、何もしなくても勝手にジエム政権は崩壊するとみて、南ベトナムでは政治・宣伝活動を主体として、武力闘争を禁じていました。

の時期の南ベトナム国内の混乱に乗じて、北ベトナムではホーチミンルートの整備を行い、一部ではトラックが使用できるようになり、輸送量が大きく増加しました。

 

クーデター後の南ベトナムについてはこちらをご覧ください ↓

ベトナム戦争 その4 ケネディ大統領とジエム政権の崩壊 1963年11月1日の軍事クーデター

 

 

 

 

 

 

 

 

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