1917年は、第1次世界大戦が大きく変わった年です。2月にロシアで2月革命が起き、長く続いたロマノフ王朝が崩壊し、ロシアの人々は戦争からの撤退を決め、ドイツと講和条約を結ぶ方向にかじを取ります。
それまで中立の立場をとっていたアメリカは、第1次世界大戦に参入しました。
その中、フランスでは新たに司令官となったニヴェルが、ドイツに反撃を開始しました。
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亀仙人2ニヴェル攻勢(1917年4月16日~5月9日)
ヴェルダンの戦いからニヴェル攻勢まで
ヴェルダンの戦いの解説はこちら ↓
この戦いで防戦一方のペタンから指揮を受け継いだニヴェルは、イギリスがソンムの戦いを始め、ロシアがブルシーロフ攻勢をかけたおかげで、ドイツ軍がヴェルダンに戦力を集中できなくなり、ヴェルダンからドイツ軍を追い返すことに成功しました。
ソンムの戦いの解説はこちら ↓
1916年 ソンムの戦い 戦い初日だけでイギリス軍は、戦死者19,240名、負傷者57,470名の損害を出してしまいました。
ブルシーロフ攻勢の解説はこちら ↓
ニヴェル攻勢までのフランスの動き
フランスでは、開戦以来フランス軍を率いてドイツと戦ってきた、ジョフルですがドイツの侵攻を食い止めた後、ヴェルダンの戦いやソンムの戦いで多数の死傷者を出したわりに、ドイツ軍を追い返すことが出来なかったため、1916年12月13日、フランス軍元帥に任命され、戦場から遠ざけられてしまいます。
ジョゼフ・ジョフル(あだ名は パパ・ジョフル)1914年
出典 ウィキペディア
12月12日、ジョゼフ・ジョフルに変わってフランス陸軍総司令官になったのが、ロベール・ニヴェルです。
彼はヴェルダンの戦いで防戦一方のペタンに変わり、1916年5月ヴェルダン防衛軍司令官となり、ドイツ軍に攻撃をかけます。
フランス軍は12月15日からの攻勢で、ヴォー堡塁など多くの失地を回復し、12月中旬終わりまでの短期間に、ドイツ軍に占領された全地域を取り戻しました。
この時採用されたのが、歩兵の突撃に合わせ終始その前面に弾幕を張る「移動弾幕射撃」でした。
ロベール・ニヴェル
出典 ウィキペディア
僅か十日余りの短期間で、1916年2月から12月まで続いた戦いに終止符を打ったことで、ニヴェルは
「私は勝利の秘密を知っている!!!」 「48時間以内にフランスに勝利をもたらす!!!」
と豪語して、次の攻勢の準備に入ります。これまで130万人もの大きな被害を出したわりに、ドイツ軍をフランスの国土から追い払うことが出来なかったフランスは、この言葉を信じ、春からの行われる戦いの準備に入りました。
しかし、ニヴェルが勝ったのは、次の述べるようにファルケン・ハインの後を継いだルーデンドルフが戦力保持のため、新たな攻勢をかけるのを禁止したためでした。
この勘違いから、後にフランス軍に決定的なダメージを受けることになります。
ニヴェル攻勢までのドイツの動き
1916年8月29日、ヴェルダンの戦いとソンムの戦いで多数の犠牲者を出しながら、目に見える効果を出せなかった参謀総長ファルケン・ハインは新たな参謀総長ヒンデンブルクと第1補給官(後の参謀次長)のルーデンドルフと交代しました。
新しく交代した二人は、ソンムの戦いとヴェルダンの戦いの視察を行いました。そして余りのひどさに愕然とします。
この時点で40~50万人のドイツ軍の犠牲者が出ましたが、戦略的には何も得ていないことでした。ファルケン・ハインの目論見ではフランス軍に多大な犠牲者を与え、フランスの戦意をなくして講和に持ち込むはずでしたが、フランス軍を助けるためイギリスが徴兵制を導入し、新たな兵士を送り込むようになり、この計画は崩れてしまいました。
ここでルーデンドルフは今までの方針を変え、フランスやロシアから奪った土地を守り抜き、ドイツ優利のうちに連合国と講和を結ぶことを目的とします。
そのためルーデンドルフは兵士の無駄な損失を防ぐため、好機と判断した場合を除き攻撃を禁止し、防御に専念するよう命じました。さらに防御線が突破された場合は、無駄な抵抗をせずに後退する戦術を取りました。このためフランスのニヴェルは、ヴェルダンの戦いで勝つことが出来ました。
1916年9月中旬には、アラスとソアソンを結ぶ突出部の後方に強固な塹壕戦(ヒンデンブルク線)を築き、突出部を放棄して兵士を退却させて守りを固めました。
第1次世界大戦の舞台となったフランスの土地は、薄い表土の下は石灰岩の岩石で出来ています。フランスやイギリス軍の塹壕は、よく見られるようなtrencht(溝)と呼ばれるただの溝です。しかし、ドイツ軍は柔らかいこの石灰岩を3~9m掘り下げて掩蔽壕(えんぺいごう)を作り、砲撃から兵士を守るようにしました。
イギリスの国力を奪うため、これまでアメリカの参戦を招くとして中止していた無制限潜水艦作戦を復活させ(1917年2月)、イギリスが海外から原材料や食料を輸入できなくしました。
予想通り1917年4月アメリカはドイツに宣戦布告し、第1次世界大戦に参戦しました。ルーデンドルフは、当時のアメリカ陸軍は20万人ほどの規模なので、ここから徴兵制を敷き、兵士を訓練してヨーロッパに送り込むまで2年はかかると読んでいました。
1917年2月にはヒンデンブルク線が完成して、ドイツは2月9日から3月20日までアルベリッヒ作戦を発動してヒンデンブルク線の撤退を完了しました。ドイツ軍は撤退にするのにあたって、通過した村々を破壊し、地雷やブービートラップ(爆薬などを仕掛けた罠)を仕掛け、井戸には毒薬を入れ果樹園の木を切り倒すなど暴虐の限りを尽くしました。
アルベリッヒ作戦におけるドイツ軍の撤退を示す地図。
左下の1916年1月7日の位置から右上の赤線で示したヒンデンブルク線まで撤退した。上部の都市はアラス。
同じく1917年2月ロシアで2月革命が起こると、ルーデンドルフはロシア内部を混乱させるため、スイスに亡命していた過激派革命家のレーニンに活動資金を与え、妻と仲間32名を封印列車に乗せ、ロシアに送り込みました。この試みは大成功し、権力を握ったレーニンは1918年3月3日ドイツとブレスト=リトフスク条約を結び、第1次世界大戦から脱落しました。
ロシア革命についての詳しい説明は、こちらをご覧ください ↓
ドイツはこのように長期的な視野に立って、作戦を練っていました。
1917年、フランスとイギリスの計画
1917年、フランスのニヴェルはシュマン・デ・ダムに潜んでいるドイツ軍を撃破して、一挙にドイツ軍の後ろに出て、挟み撃ちにする計画を立てます。
先ずイギリス軍が、ソンムの戦いの舞台となった、アラスから南のロアまでの間で、ドイツ軍に攻撃を仕掛ける。
これと同時に、フランス軍はロワからノアイヨンの間で攻撃する。
こうしてドイツ軍の主力が西側に集まったところで、ニヴェルはフランス軍主力を率いて、48時間以内に手薄になったシュマン・デ・ダムの丘を越え、ドイツ軍を挟み撃ちにして、殲滅させる計画でした。
しかし、イギリス軍のロバートソン参謀総長やヘイグ海外派遣軍総司令官は、この計画に疑問を呈しました。しかし、1916年12月にイギリス首相に就任したロイド・ジョージは、ソンムの戦いで多くの死傷者を出したため、イギリス海外派遣軍を全く信用していませんでした。
このためフランスに駐屯していたイギリス軍は、フランス軍総司令官ニヴェルの指揮下に置かれ、ソンムの攻撃に参加することになります。
1917年、アラスの戦いとニヴェル攻勢の地図
ところが参戦実施前の2月から4月にかけて、戦闘予定地域のドイツ軍は、新たに作られた堅固なヒンデンブルクラインに、退却してしまいました。
イギリスのヘイグはこれを怪しみ、ドイツ軍は我々の攻撃を空振りさせ、後方に作った防御戦で防ぐつもりだろうと予測し、攻撃目標をヒンデンブルク線から外れた、ランスとアラスの間にしました。
一方フランスのニヴェルは
「もし私にドイツ軍を指揮させたとしても、これほどフランス軍に都合の良い命令はできないだろう。」
と喜び、シュマン・デ・ダムの攻撃に全力を注ぎます。
しかし、ドイツは前線の部隊を整理したことで、後方の守りを一層強固にすることが出来ました。
アラスの戦い(1917年4月9日~4月12日)
3月20日からヴィミ―リッジへの事前砲撃でイギリス軍の攻撃を察知したルーデンドルフは、第1の防御線から約24km離れた敵の砲弾の届かない場所に、第2の防御線を用意してしました。
ヴィミ―リッジは、アラスとランスの真ん中にある高さ145メートルの丘で、頂上からは戦場となるドゥエー平野を一望できます。
1917年4月9日午前5時30分、イギリス軍はアラスで攻撃を開始しました。3月20日からの事前砲撃で、ドイツ軍の砲台や塹壕がほぼ破壊されたていため、攻撃に当たったカナダ軍団は、夕方にはヴィミーリッジの頂上を確保しました。
ヴィミーリッジからの眺め、前に見えるのは麓にあるヴィミーの町
1917年4月
出典 Wikipedia
ヴィミーリッジ占領後、イギリス軍は突破口を開くため攻撃を仕掛けましたが、後方に控えていたドイツ軍予備隊によって失敗し、4月12日戦闘は終了しました。
しかし、ドイツ軍は戦争終了までヴィミ―リッジを取り返すことはできませんでした。
こに戦闘でイギリス軍は18万8千人の死傷者を出し、ドイツ軍は12万~13万人の損害を受けました。
しかし、ドイツ予備軍をヒンデンブルク線北部に引き付ける役目は、成功しました。
ニヴェル攻勢(1917年4月16日~5月9日)
ニヴェル攻勢の対象となったシュマン・デ・ダムは、長さ80km高さ200mの尾根で、中世から石灰岩の採石場となっており、地下には採石場跡の洞窟がたくさんあります。
ここを守っていたドイツ軍は、捕虜となったフランスの特務総長が持っていた文書によって、あらかじめニヴェル攻勢の詳細を手に入れていました。
ドイツ軍は、この洞窟を利用して作戦開始の4月16日までに、フランス軍の攻撃に備えて防備を固め、強固な地下要塞を作り上げていました。
このため、1週間に及ぶフランス軍の予備砲撃も役に立ちませんでした。
ドラゴン洞窟の内部。地下14mまで掘られたこの洞窟では、地下水が湧きだしており、最大600人の収容が可能。
ドラゴン洞窟のドラゴンは、洞窟に作られた多くの入り口から迫ってくるフランス兵に対して、機関銃や大砲が火を噴いたことで名付けられました。
出典 Wikipedia
地下の採石場に続く階段
ニヴェルの言っていた
「私は勝利の秘密を知っている!!!」 「48時間以内にフランスに勝利をもたらす!!!」
とは、どんなものかは
端的に言えば「砲撃の後ろで歩兵が匍匐前進をする。砲撃の距離をどんどん長くし、それに合わせ歩兵も匍匐前進をしつつ進軍、このまま敵陣地まで味方の砲撃の弾幕で歩兵を守り、強襲する」というものである。
しかし、これは完全に机上の論理であった。当時の技術ではそこまで精密な砲射撃ができず、砲弾が匍匐前進する味方歩兵の頭上に落ちてくる例が散見された。さらに当たり前であるが匍匐前進で進む予定の地面は味方の猛烈な砲撃弾幕によりクレーターだらけであり、これが進軍を阻むことになった。折しも雪がまだ解けておらず天候も悪かったため、凍えるため匍匐することもできず、また悪天候とクレーターで走ることもできなかった。
引用 ウィキペディア
でした。
さらに攻撃のために用意した132両のシュナイダー戦車もぬかるみや砲弾痕の穴にはまって動きが取れなくなったところを狙われ、52両が撃破されてしまいました。
シュナイダー戦車
イギリスの菱型戦車に比べて、速度を出すために軽量に作られています。
そのため装甲が薄くなり、ドイツ軍の7.62㎜徹甲弾が側面のガソリンタンクを貫通すると1発で火災を起こし、フランス軍の乗員から「自動発火式棺桶」と言われ嫌われました。
1917年4月16日から始まったニヴェル攻勢は、48時間で敵陣を突破するどころかほとんど前進できないまま、攻撃初日だけで12万人の死傷者を出し、5月9日までに累計18万7千人の死傷者が出たところで、ポアンカレ仏大統領によって作戦は停止されました。
ドイツ軍もこの戦いで16万3千人の死傷者を出し、若干の土地を奪われました。
フランス軍兵士の反乱
「48時間以内にフランスに勝利をもたらす」 との言葉を信じて、ニヴェル攻勢に参加した兵士たちは、以前の戦いと同じように鉄条網に阻まれ、ドイツ軍の機関銃によって多くの犠牲者を出してしまいました。
戦闘に参加した兵士たちは、失望し、裏切られたと思い、開戦以来3年にわたって、同じやり方でドイツ軍に勝つことが出来ずいる上官の言葉を信じることが出来なくなりました。
5月3日、突撃命令に従わない部隊が出て、この動きはアッという間にフランス軍全体の3分の2に当たる68個師団に広がりました。
彼等には何の政治的背景はなく、無傷のドイツ軍に対して攻撃し、何の戦果も得ず犬死することに反抗しただけで、国土を守るためにドイツ軍の攻撃に対する防御は、しっかりと行っていました。
事態を重く見たフランス政府は、5月16日ニヴェルを更迭して、ヴェルダンの戦いで兵士たちに人気のあるペタンを、後任に据えました。
新たに任務に着いたペタンは、短い期間のうちにフランス全師団の間を回り、第1戦に勤務する兵士たちの話を聞いて回りました。
これによって
「ペタンは、現場の苦しみを分かっている。ペタンなら無茶な作戦はしないだろう。」
となり、信頼の回復に成功しました。
ペタンは兵士たちの意見をとり入れ、、余分な戦力を前線から戻し、食事と共に、スポーツや巡回映画等のレクリエーションをを充実させました。
4か月ごとの休暇制度を採り入れ、専用列車で休暇の兵士を運ぶようにしました。
この様にしてフランス軍の士気が回復するようにして、後は、アメリカ軍が前線に出るのと、戦車の台数が揃うまで待つことにしました。
ペタンは兵士の待遇を改善する一方、軍の規律を守るため、反乱に参加した兵士約10万人を逮捕し、軍法会議にかけ、432人に死刑宣告をしました。そのうち実際に銃殺されたのは55人でした。
フランス軍の反乱は固く秘匿され、ドイツ軍はフランス軍を攻撃する格好の好機を、逃がすことになりました。
たぶんこの事件を題材とした映画があります。解説はこちら ↓