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亀仙人2ロシア革命
第1次ロシア革命(1905年)
日露戦争たけなわの1905年1月9日ロシア帝国の首都サンクトペテルブルグで、「日露戦争の中止」、「憲法の制定」、「基本的人権の確立」を掲げて皇帝に直訴する請願行進が行われた。
6万人ともいわれる行進参加者に対して、軍隊は発砲によって対応し、多数の死傷者がでました(血の日曜日事件)。
このことは全国に広まり、黒海艦隊の戦艦「ポチョムキン」の水兵が反乱を起こしましたが鎮圧されてしまいました。その半年後には、ウクライナの水兵が防護巡洋艦オチャーコフで反乱を起こしましたが鎮圧されます。
これにより皇帝崇拝の意識は薄まり、ロシア中央から離れたセヴァストーポリやオデッサなど黒海沿岸諸都市やキエフなどで、反政府運動のデモが各地で勃発しました。
これをロシア第一革命といいます。
これを機に、ロシア各地で労働者の評議会(ソビエト)が結成されます。
革命はロシア皇帝ニコライ二世が10月17日、十月勅令で、ドゥーマ(国会)の開設と憲法制定を発表して沈静化ししました。
ドゥーマの開設に当たって自由主義者たちは、立憲民主党(カデット)や10月17日同盟を結成して参加しました。
一方社会主義者たちは、都市の労働者を主体とするロシア民主労働党が結成されましたが、方針の違いからレーニン率いるボリシェビキとプレハーノフらのメンシェビキに分裂していました。
農村部では社会民主党(エスエル)が勢力を伸ばしていました。
しかしこれらの社会主義政党は、革命分子として官憲の弾圧を受け、ドゥーマには参加でないか、エスエルのように自ら選挙を放棄しました。
ロシアでは民主的な政治が行われたように見えますが、実際は旧来通りの貴族や知識人が中心で、一般大衆は参加していませんでした。
第1次世界大戦とロシア
第1次世界大戦がはじまる7月末になっても、ロシア軍の最高司令官は決まっていませんでした。皇帝ニコライ二世はみずから最高司令官になるつもりでしたが、戦いに負けた場合、皇帝の身に危険が及ぶことを恐れた大臣会議によって止められてしましました。
そこで3世代前の皇帝ニコライ一世の孫であるニコライ・ニコラエヴッチ大公が最高司令官に就任しました。
しかし、ニコライ大公は日露戦争にも従軍しておらず、実戦経験はありませんでした。
怪僧ラスプーチン
ラスプーチン 1916年
出典ウィキペディア
ニコライ二世には4人の皇女と1人の皇太子がおりましたが、末っ子のアレクセイ皇太子は当時不治の病と言われた血友病(出血しても血が固まらないで流れ続ける病気)でした。
1907年4月、ミリツァ大公妃とアナスタシア大公妃の紹介で、祈祷師ラスプーチンが宮殿に呼ばれ、彼が帰投を捧げると翌日にアレクセイ皇太子の発作が治まり症状が改善しました。
これによりラスプーチンは、皇帝夫妻から「われらの友」「聖なる男」と呼ばれ、度々宮殿に出入りして、やがて政治にも口を出すようになりました。
1915年8月、ロシア軍がガリツィアでドイツ・オーストリアの連越え軍に破られると、ニコライ二世はニコライ大公を更迭して、9月5日に自ら最高司令官に就任しました。
これには皇帝一族に取り入っていた、ラスプーチンの助言があったといわれます。
これまで何の戦争経験がない皇帝が直接指揮を執ることで、ロシア軍は優れたリーダーや戦術もなく、戦いつけることらなりました。
また敗戦の責任が直接最高司令官である皇帝に及び、ニコライ二世は退位を迫られることになります。
二月革命(1917年)
第1次世界大戦が長期化し、前線では食料や武器弾薬の不足、戦っても負け続けていることにより、厭戦気分が蔓延し、指揮官が亡くなるとわざと敵側に投降して捕虜になったり、前線から脱走して故郷に帰る兵士が続出するようになりました。
また、後方では農民の多くが戦場に駆り出されたため、労働者不足により農産物の供給は激減しました。
更に食料や石炭などの生活必需品が、軍隊に優先的に供給されたため、不足がちになります。
1917年初頭からロシア西部に大雪が降り、鉄道の輸送が滞りがちになりました。
そのため、よりいっそう食糧不足や物価が高騰にして、首都サンクトペテルブルグの住民にとって生活の苦しみが増し、社会不安が広がっていました。
1917年3月(ロシア暦2月)ロシアの首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルグ)で「パンをよこせ」との婦人デモが起こり、これに市民や鎮圧しようとした首都防衛軍までも加わり、3日後には「皇帝の退位」や「戦争反対」を求める、大規模な反政府デモになりました。
また皇帝退位の要求には、アレクサンドラ皇后が敵国ドイツのヘッセン公国出身だったことや、怪僧ラスプーチン(ラスプーチンは前年12月反感を持つ貴族や皇族により、暗殺されました)を重用したことも、影響していました。
この混乱を収拾するため前線に出ていた皇帝ニコライ二世は、急遽首都サンクトペテルブルグに戻ろうとしましたが、反乱軍により列車が止められてしまいました。
ドゥーマ(国会)の解散を皇帝から命じられた議長のロジャンコは、革命以前の国会議員12名からなる国会臨時委員会を設け臨時政府を設立しました。
この臨時政府は、正式な総選挙が実施されるまでの仮の政府でした。ロシア国民は、民主的な選挙により、憲法制定会議を招集し、議会制民主主義の国が出来ることを望んでいました。
臨時政府は立憲民主党の議員を中心に運営され、帝政時代の行政組織を引き継いでいました。そのため民衆の人気は、ありませんでした。
デモに参加した労働者や兵士たちは、メンシェビキの呼びかけに応じて評議会(ソヴィエト)を結成して、権力と対抗しようとしました。議長には国会臨時委員会メンバーのニコライ・チヘイゼを議長に、同じく国会臨時委員会メンバーで改革派の有力者とされていた社会革命党メンシェビキ派の国会議員ケレンスキーを副議長に選びました。
臨時政府は民衆の人気を得るために、ケレンスキーを入閣させます。ケレンスキーは、法相として臨時政府に参加しました。
この時期、ケレンスキーの率いるメンシェビキは、政治経験が豊富なブルジョアが政権につくべきとして、臨時政府を支持していました。
実際にデモに参加して、帝政を崩壊させた労働者や兵士たちに、ブルジョア中心の臨時政府に対して、不満が発生します。
3月12日、流刑地からペトログラードら帰還したスターリンも、臨時政府を支持しました。
臨時政府は多くの軍司令官の支持を受け、1917年3月15日皇帝ニコライ二世に退位と譲位を要求しました。
翌3月16日ニコライ二世は退位し、弟ミハイルに譲位しようとしたが、ミハイルはこれを拒否したため、ロマノフ王朝は崩壊してしまいます。
退位した皇帝ニコライ二世は、西シベリアのトポリスクで幽閉されていましたが、1918年7月17日、皇帝一家全員が銃殺されました。
臨時政府は連合国との連携を重視して、戦争継続を決めました。
これは戦争を継続することにより、戦勝国の一員となって、利益を得ようとするものでした。
これに対して、ソビエト(労働者や兵士の代表による評議会)は一般大衆を中心とした政治改革と、戦争の即時停止を訴え、大勢の支持を受け臨時政府と対立するようになり、二重権力の状態となった。
4月テーゼ
この革命を見て、ドイツはスイスに亡命していたレーニンをロシアに送り込みさらに活動資金を提供し、革命を後押ししました。ロシア国内を混乱させ、戦争を有利に進めようとしたのです。
1917年4月3日、スイスからロシアに帰国したレーニンは、4月テーゼを発表し、臨時政府との対決、即時停戦の実施、ソビエトへの権力集中を計り、「すべての権力をソビエトへ」と「戦争の即時停止」を訴え、ボルシェビキの支持を得ました。
2月革命は、工場労働者や兵士に寄った成し遂げられたもので、戦争から利益を得ているブルジョワジー主体の臨時政府を倒して、政権を奪い返そうという過激なものでした。
四月テーゼの内容は以下の通り。
1「革命的祖国防衛主義」の名の下に帝国主義戦争を続けることに反対する。
2現在はプロレタリアートが権力をブルジョアジーに渡した革命の最初の段階からプロレタリアートと貧農の手に権力を渡す第二の段階への過渡。
3臨時政府をいっさい支持しない。
4全国家権力を労働者代表ソヴィエトに移す必要を宣伝する。
5議会制共和国ではなく、労働者・雇農・農民代表ソヴィエトの共和国。警察、軍隊、官僚の廃止。
6土地を国有化し、土地の処理を地区の雇農・農民代表ソヴィエトにゆだねる。
7全銀行の統合と労働者代表ソヴィエトによる統制を実施する。
8社会的生産と生産物の分配にたいする労働者代表ソヴィエトによる統制。
9党大会の召集、党綱領の改訂、党名の共産党への変更。
10社会排外主義と「中央派」に反対する新しいインターナショナルの創設。
引用 ウィキペディア
7月蜂起
7月1日、臨時政府は連合国との戦争継続の約束を果たすため、東部戦線において「ケレンスキー攻勢」と呼ばれる大規模な作戦を実施しました。これが、臨時政府の命取りになりました。
前線を守っていたオーストリア軍は敗退し、ロシア軍は30㌔ほど前進しました。
ところが買っていたはずのロシア軍が、内部から崩壊し始めます。戦争に参加した兵士たちにとっては、戦争の勝ち負けより戦争終結が悲願になっていました。そのため勝手に戦線から離脱した、ロシア軍が崩壊したのです。
このため、駆け付けたドイツ軍の反撃にあい、大きな損害を出してしまいました。にもかかわらず連合国側をさらなる攻勢を要求して、7月16日ガリツィアで新たな戦いを始めます。
同じ7月16日、ペトログラード近郊に駐屯していて、前線への移動を命令された機関銃兵第一連隊の兵士による自発的なデモが発生しました。
このデモは、モスクワ連隊、パブロフスキー連隊(近衛歩兵第一連隊)、擲弾兵並びに第一予備連隊の兵士も賛同して、これらの部隊は、「すべての権力をソヴィエトへ!」の言葉をスローガンにしてデモ行進を行ないました。
臨時政府およびソヴィエト中央はデモ禁止令を出して、デモの中止を呼びかけましたが、無視されてしまいます。
7月17日、兵士らの武装デモをきっかけに起きたデモは、新たに水兵や労働者を加えて50万人規模まで膨れ上がり、「すべての権力をソヴィエトへ!」をスローガンに武装デモが展開されました。
首都ペトログラードでは、政府側兵士と、デモ隊側兵士との間に散発的ながら銃撃戦が行われました。
4月テーゼ以来、武装蜂起による革命を呼びかけていたレーニンですが、武装蜂起には時期尚早であるとして、平和的なデモにするよう呼びかけました。
臨時政府側は、レーニンの信用を無くそうとして。彼がドイツ側のスパイ(実際レーニンは、ドイツから100万ルーブル約45億円相当の活動資金をもらっていた)である証拠を流します。
7月18日、北部戦線から駆け付けた有力な部隊が首都ペトログラートに到着して、デモは鎮圧されました・
臨時政府は、暴動の背後にボルシェビキが居たと疑い、幹部は逮捕されたり、国外逃亡を余儀なくされました。
レーニンも、ドイツから活動資金をもらっていたことが発覚して、一時フィンランドに逃亡ました。
コロニーロフの反乱
7月蜂起の終わり頃の7月18日に、軍の最高司令官に任命されたラーヴル・コルニ―ホフは2月革命以後に獲得された兵士の権利を制限し、「有害分子」などの追放を政府に要求し、二月革命以前の状態に戻すことを画策して、保守派の支持を集めました。
8月24日、コルニーロフは軍をペトログラードへ進軍させ革命派の武装解除とソビエトの解散を命じました。
翌25日には、政府に対しても全権力の移譲を要求しました。
反革命勢力が盛り返してきたので、臨時政府はレーニンを呼び戻し、兵士に人気のあるボルシェビキの力を借りることにします。
この時、シベリアから脱走してアメリカに渡っていたトロツキーが帰国し、デモに参加した群衆を組織して赤衛隊を作ります。
ペトログラードに接近した反乱軍の兵士たちは、ソヴィエトを支持する労働者や兵士の説得を受け、将校の命令に従わなくなり、反乱軍は一発の銃弾も撃つことなく解体し、コルニーロフの反乱は失敗に終わりました。
10月革命
ソビエト内部では、コルニーロフの反乱以後ボリシェヴィキへ支持が高まりました。
これを受けて、レーニンは武装蜂起の方針を決定し、軍事革命委員会の委員長にトロツキーを起用して準備を始めました。
1917年11月7日(ロシア歴10月)レーニンの指導で武装蜂起したボルシェビキは臨時政府を倒し、翌日全ロシア=ソビエト会議を招集してソビエト政権を樹立を宣言した。
翌12月ソビエトはドイツと休戦し、1918年3月ドイツとソビエトはブレスト=リトフスク条約を結び戦争はドイツのロシアの戦いは終結しました。
ドイツの目論見は成功し、東部戦線の軍を西部戦線に回すことが出来、開戦以来初めて動員数で連合軍を上回ることとなりました。
10月革命から、ソビエト社会主義共和国連邦の樹立までの解説はこちらをご覧ください ↓