なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

ロシア革命 その2 ロシア内戦と、ソビエト社会主義共和国連邦の樹立まで

time 2018/08/02

ロシア革命 その2 ロシア内戦と、ソビエト社会主義共和国連邦の樹立まで

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亀仙人2

10月革命

議会制民主主義の破壊と、独裁政治の始まり

コルニーロフの反乱

レーニン率いるボルシェビキが武装蜂起が出来るようになったのは、7月18日に軍の最高司令官になったコルニ―ロフが起こした反乱がきっかけでした。

この反乱を抑えるため、臨時政府のケレンスキーは、トロツキーの組織した赤衛隊に大量の武器を供与しました。

これによりレーニンのボルシェビキは、革命を起こすのに十分な軍隊と、豊富な武器を手に入れました。

コロニーロフの反乱までの記事は、こちらをご覧ください ↓

ロシア革命 その1 ロシア革命の目的は、第1次世界大戦から撤退することでした。

10月革命前夜

赤衛隊が勢力が増すことを恐れたケレンスキーは、兵士・労働者の武装解除と、首都防衛隊のボルシェビキ化を阻止しようとしましたが、失敗してしまいます。

そこで、首都ベトログラードををドイツ軍に明け渡して、ボルシェビキ陣営を壊滅させ、首都をモスクワに移転する計画を立てました。

10月6日、この首都移転計画が新聞にスッパ抜かれたため、大衆の怒りを買い、支持を失いました。

ケレンスキー攻勢の失敗で、ブルジョワから見放されていたケレンスキーの臨時政府は、すべての支持基盤を失い孤立してしまいます。

この様子を潜伏先のフィンランドで見ていたレーニンは、9月末にペトログラードに戻り、ボルシェビキ中央委員会に早急な武装蜂起を説きました。

トロツキーもレーニンの武装蜂起に賛成しましたが、革命に正当性を持たせるため、3つの案を持っていました。

第1に、こちらから攻勢をかけるのではなく、防御を持って対抗すること。つまり、臨時政府の攻撃から、労働者や兵士のソヴィエトを守るために戦ったという立場をとること。

第2に、ソヴィエトを守る戦いであるから、戦いの主体は党やその他の組織ではなく、あくまでソヴィエトが主体であること。

第3に、武装蜂起の日は、10月末に予定されている全ロシア労兵ソヴィエト大会の直前に行うこと。これにより権力打倒からソヴィエト大会の流れを作ることにより、権力奪取の体裁を整えることが出来ます。

第2の問題は、都合よく臨時政府が提供してくれました。首都守備隊を厄介払いしたい臨時政府は、首都にいる軍隊を前線に配備することを決めました。当時ソヴェエトの議長であったトロツキーは、軍司令部と掛け合い留守になった首都を守るため、ソヴィエトの赤衛隊を使った革命防衛委員会の設置を認めさせました。

この委員会は農民の支持を集めていた左派エスエル党も入れ、10月12日に軍事革命委員会と名前を変え、武装蜂起の時の司令部となります。

10月10日、レーニンの要請でボルシェビキ党中央委員会が開かれました。この委員会で武装蜂起の方針が決定され、10月16日の拡大中央委員会でも認められました。

トロツキーは「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説し、武装蜂起の方針を認めました。

ロシアの各部隊は相次いでペトログラード・ソヴィエトに対する支持を表明し、ソヴィエトの指示に従うことを決めました。

10月革命

10月24日、臨時政府に忠実な士官学校の生徒が、ボリシェヴィキの新聞『ラボーチー・プーチ』『ソルダート』の印刷所を占拠しました。

これをきっかけに、10月革命がおこります。

臨時政府のケレンスキーは、軍事革命委員会幹部を全員逮捕するよう命令を出し、志願兵に機関銃を配り武装し始めました。

臨時政府の在る冬宮の防衛のために、戦争で夫を亡くした婦人を中心に編成された女性大隊が、招集されました。

ロシア女性部隊 出典 歴ログ -世界史専門ブログ-

レーニンは武装蜂起を早急に実行するよう、ボルシェビキ中央委員会に手紙を届けます。

10月24日深夜、ボルシェビキ中央委員会は議論ばかりして動かないため、レーニン自身が司令部に乗り込んで陣頭指揮を執りました。

26日午前1時半には、兵舎から武装した兵士が出動し、工場からは武装した労働者が路上に出てきました。武装蜂起が始まったのです。

臨時政府側の兵士は、寝返って赤衛軍により、武装解除されました。赤衛軍は瞬く間に、発電所、電信局、橋、鉄道の駅などの重要諸点を確保し、26日朝には、臨時政府のある冬宮を包囲しました。

バルチック艦隊もペトログラードに集結し、巡洋艦アウローラ(オーロラ)号がネヴァ川に入り、冬宮を砲撃する準備に入ります。

鉄道の駅を抑えたことで、臨時政府を助けるため向かっていた軍隊は、途中で止まってしまいました。

ケレンスキーは近くのアメリカ大使館から自動車を調達し、星条旗をつけた車で脱出しました。

冬宮に残っていた閣僚と軍隊は、革命軍の説得を受け26日未明投降し、閣僚は逮捕されました。

トロツキーの予定通り、蜂起と並行して第2回全国労働者・兵士代表ソヴィエト大会が開かれました。冬宮占領を待ち、大会は権力のソヴィエトへの移行を宣言しました。

10月27日、大会は全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案する「平和に関する布告」、地主からの土地の没収を宣言する「土地に関する布告」を採択し、新しい政府としてレーニンを議長とする「人民委員会議」を設立しました。

この武装蜂起の犠牲者は、双方合わせて10名であり、ほぼ無血革命に近い大成功を収めました。

モスクワでは10月25日にポルシェヴィキを支持する軍事革命委員会が設立されました。しかしそこにメンシェヴィキも入ったため、武装蜂起する決断が遅れ、翌日になってやっと準備に取り掛かる有様でした。

26日には臨時政府を支持する社会保安委員会が作られ、前線からボルシェビキの革命を支持する軍隊の到着を遅らせ、その間に市内の重要諸点を確保しました。

臨時政府はペトログラードが落ちた今、モスクワに首都を移し、ケレンスキー政権の復活を目指して、必死の抗戦を始めました。

10月27日には武力衝突が起こり、戦いは1週間続きました。

始めは臨時政府側が有利に戦いを進めていましたが、周辺から軍事革命委員会目指して軍隊が到着して、形勢が逆転しました。

11月3日軍事革命委員会は、「モスクワ労兵ソヴィエトが全市を制圧した」との宣言を出します。

ペトログラードと違って、モスクワでの戦いで1000名もの死傷者が出ました。

議会制民主主義の終焉と、独裁政権の始まり

2月革命以来の約束である憲法制定会議の選挙が11月12日から3日間行われました。

最終的な得票率は、農民の強い支持を持つエスエルが、39.6%410議席を獲得して第1党となりレーニン率いるボリシェヴィキは24.0%175議席で第2党になってしまいました。

翌年1月5日に開かれた憲法制定会議では、「すべての権力を憲法制定会議へ」のスローガンを持つエスエルが主導権を握り、レーニンのポルシェヴィキの出したソヴィエト権力の承認を要求する決議案を否決しました。

政権を失うことを恐れたレーニンは、強硬手段を打ち出しました。

1月6日午前5時、それまで審議を続けていた議会に対して、「警備員が疲れた」との理由で、一旦閉会させました。夕方になって戻ってきた議員たちは、議場の入り口が閉鎖されていて、中に入れませんでした。この憲法制定会議は人民委員会により、解散されてしまいます。

1月10日、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国(後のソビエト社会主義共和国連邦とは別)が成立し、ロシアは世界初の共産主義国家になりました。

ロシアの人々が望んでいた、国民投票による議会制民主主義は開会初日で消滅し、単独政権による一党独裁の政治になってしまいました。

ここで、レーニンが強硬手段を取らず、議会制民主主義の道を承認していたら、後の世界は違っていたでしょう。

ブレスト=リトフスク条約

スターリンは戦争の早期終結のため、トロツキーを外務人民委員(外務大臣)に任命して交渉に当たらせます。

10月革命と同時に旧ロシア帝国領であったウクライナでは、臨時政府派とポルシェヴィキ派が軍事衝突を起こしました。当時ウクライナで最大の勢力を持っていた中央ラーダ(議会)派はポルシェヴィキ派と加担して、臨時政府派を一掃しました。その後ポルシェヴィキ派の暴力的な体質を嫌って、中央ラーダは11月20日、ウクライナ人民共和国の成立を宣言しました。

交渉を任されたトロツキーは、1917年12月3日から、ソヴィエトと中央同盟軍の間で停戦交渉をして、12月17日から戦闘停止が有効になりました。

穀倉地帯のウクライナを失うことを恐れたソヴィエトは、12月17日中央ラーダに対して最後通牒を突きつけ、ウクライナ・ソヴィエト戦争が始まりました。

この直後の12月20日、ソヴィエト政権に反対する勢力を取り締まるため秘密警察「オフラナ」解体して、レーニンの提案による「反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会(略称チェーカー)」を設立して、反革命分子の取り締まりに当たります。詳しくは次の章に書いておきます。

12月22日、ソヴィエトと中央同盟国との交渉が始まり、ソヴィエト側が「賠償金や領土併合なしの和平」を要求したのに対して、同盟国側は1914年から1916年の間に占領した、ポーランド、リトアニア、西ラトビアの領土を要求して、物別れに終わりました。

交渉に当たったトロツキーは、時間を稼ぐことによってドイツ国内で革命がおこり、交渉を有利に進めることを狙っていました。

12月25日にはウクライナ第2の都市ハルキウにおいてポルシェヴィキ派のウクライナ人民共和国の成立が宣言され、同時にソヴィエト軍がウクライナ領内に侵攻して、1月初旬までには東ウクライナの大半を占領しました。

一方、中央ラーダ側は同盟国軍と同盟国側と独自に交渉を重ね、1918年2月9日講和条約を結び、ドイツ=オーストリア軍が中央ラーダ軍と共に、ボリシェヴィキ軍と戦うことになりました。ウクライナは同盟国軍の軍事協力の見返りに、100万トンの穀物を提供します。

2月10日、ソヴィエト側代表団のトロツキーは、交渉の一方的な打ち切りを宣言しました。

1918年3月までに喪失したロシアの領土。出典ウィキペディア

この少し前、ソヴィエト側は1月28日に戦争は終わったと宣言して、前線の兵士を故郷に戻し始めていました。

2月18日、中央同盟国側は、和平交渉の決裂に応じてソヴィエトとの休戦を破棄して、ウクライナ軍と共にソヴィエト領内に進攻しました。

中央同盟軍は大した抵抗も受けず、1週間で240㌔も前進しました。この攻勢で中央同盟軍は、北はバルト海沿岸地域から、南は北海に面したウクライナ全土を占領しました。

レーニンは、攻勢はもっと激しいものになるとみて、ドイツの要求を受け入れるべきと主張し、中央委員会で賛成7、反対5の僅差で可決され、1918年3月3日ボリシェヴィキはブレスト=リトフスク条約に調印しました。

これでかねてから約束していた、「戦争の停止」は実現しましたが、大きな代償を払うことになります。

条約によってロシアは第一次世界大戦から正式に離脱し、さらにフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ及び、トルコとの国境付近のアルダハン、カルス、バトゥミに対するすべての権利を放棄しました。

これによりソヴィエトは人口の34%、耕地の32%、工場の54%、炭鉱の89%を失い、60億マルク(3億ルーブル)の賠償金を支払うという大きな代償を払いました。

ロシア内戦

大きな犠牲を払いましたが、レーニンの「戦争集結」の目標は達成出来ました。もう一つの目標「すべての権力をソヴィエトへ」は、革命後のロシアを暗黒の世界へ導くことになりました。

チェーカー

1月5日に開かれた憲法制定会議を解散して、ソヴィエトが権力を集中したことは、当然他の勢力の反発を呼ぶことになります。そのためレーニンは、秘密警察「オフラナ」を解体して、新たに「反革命・怠業(サボタージュ)・投機行為撲滅、全ロシア非常委員会(略称チェーカー、後のKGB)」を設立して、ソヴィエト政権に敵対する勢力の取り締まりに乗り出しました。

帝政ロシアの秘密警察

1866年、ロシア皇帝アレクサンドル二世の暗殺未遂事件をきっかけとして、「ロシア帝国内務省警察部警備局(略称オフラナ)」が設立されました。

1887年3月、レーニン(本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ)の兄アレクサンドル・イリイチ・ウリヤノフが当時のロシア皇帝アレクサンドル三世の暗殺計画に加わった容疑で逮捕され、絞首刑となりました。これ以後、弟のレーニンは秘密警察オフラナの監視対象となります。

これを機に、マルクス主義運動家として活動しはじめたレーニンは、1895年に労働者階級解放闘争ペテルブルク同盟を結成するが、12月7日に逮捕・投獄され、1897年にシベリアに流刑され、エニセイ県ミヌシンスクの近くのシュシェンスコエ村に追放されました。

1905年1月9日第一次ロシア革命勃発後、首相に就任したピョートル・ストルイピンはオフラナを活用して、革命家や反政府主義者を次々と絞首台に送りました。

1911年9月14日、テロ鎮圧に成果を上げたストルイピンは、無政府主義者ドミトリー・ポグロフによって暗殺されました。

オフラナは、10月革命後レーニンによって解散されるまで、活動を続けていました。

秘密警察チェーカーの初代議長には、フェリックス・ジェルジンスキーが就任しました。彼は革命以前のオフラナから、諜報員や密告者を引き継ぎ広大な情報網を張り巡らし、血の粛清を実行する部隊の活動を始めます。

ペトログラードの市庁舎の片隅で始まったチェーカーは、1918年モスクワに遷都しとき、モスクワのジェルジンスキー街2番地に本部を持ち、やがて4万人の部隊を持つようになります。この建物は現在もKGB本部として使われています。

レーニンが採ったこの処置は、憲法制定会議で圧倒的多数を占めたエスエル党があると、ポルシェヴィキの独裁政権を維持できないと見たからです。

この道は、反対者を血祭りにあげて言論の自由を奪い、国民を弾圧する道でもありました。

ロシア内戦

ブレスト=リトフスク条約の調印が行われた3日後の、1918年3月6日ポルシェヴィキ党大会が行われ、党名を「共産党」に変更する決議が行われ、ロシアは正式に共産主義国なります。

ところが3月9日、共産主義革命の拡大を恐れるイギリスが、ドイツ軍の侵略から軍需物資を守るとの口実で、ムルマンスクを占領しました。

3月11日、ソヴィエト政府首班のレーニンは外国軍の首都侵略を恐れて、首都をペトログラードから、モスクワに移しました。旧ロシア帝国の要塞だったクレムリン宮殿が、ロシア共産党本部となり、これ以後ロシア政府の中心となりました。

首都移転から10日後の3月21日に、ソヴィエトが前線を防衛する意思がないことを見抜いたドイツ軍が、東部戦線で大攻勢をかけてきました。

更に4月13日、かねてから極東で勢力の拡大を狙っていた日本が、居留民保護を理由にウラジオストックに上陸してきました。

橙 – ボリシェヴィキの統治地域(1918年11月) 青 – 白軍の最大進出ライン 赤 – 1921年の前線 出典ウィキペディア

ブレスト=リトフスク条約後、軍事人民委員、及び最高革命軍事会議議長に就任したトロツキーは、それまでにあった赤衛隊を基に作られた「労働者・農民赤軍(労農赤軍)」の強化に乗り出しました。

それまで志願制だった兵士を徴兵制に替えて増員しましたが、彼らを指揮する司令官が居ませんでした。そこで旧帝政ロシア軍の将校を活用して、激しい軍旗を敷きます。ところが新しく採用した将校のほとんどが、旧ロシア帝国軍の軍人だったため新政権の考えと相いれない思想の持ち主でした。そこで司令官1人につき二人の政治委員(コミサール)をつけて監視しました。

こうして誕生した赤軍は、すぐに激しい内戦にさらされることになります。

ロニーロフの反乱で司令官をしていたデニーキンが南のウクライナから、黒海艦隊の司令長官でシベリアで独立政権の樹立を目指していたコルチャークが西から、ソヴィエト政府に対して戦いを挑んできました。これら旧ロシア軍の反革命軍は白軍と呼ばれます。

また共産主義革命の拡大を防ぐための干渉軍は、北のアルハンゲリスクでイギリス・フランス・アメリカが、南の黒海方面は、イギリス・フランス・トルコが、捕虜となっていたチェコ軍団を助けるという名目で日本とアメリカが極東から進出してきました。

チェコ軍団とは

第1次世界大戦当時、チェコスロバキアはオーストリア=ハンガリー帝国の一員でした。

このため、チェコスロバキアから多くの兵士がロシアと戦うため、動員されました。ところがかねてからチェコスロバキアの独立を唱えていた多くの兵士は、自らロシア軍に投降して捕虜になります。

ロシア軍はこうした兵士を集め、義勇部隊を組織して東部戦線に投入しました。

1917年7月のガリツィア攻勢において、チェコスロバキア旅団は、ゾボロヴァ地区の戦線を突破し、3千人以上の捕虜を獲得するなど大活躍します。

その後もチェコスロバキア人部隊は拡大を続け、ドイツとの講和直前の1918年1月には、5万人の師団を構成するまでになりました。

1918年3月3日、ボリシェヴィキはブレスト=リトフスク条約でドイツと単独講和しました。

パリにあったチェコ国民評議会 (チェコ臨時政府)はフランスと締結を結び、ロシアに取り残されているチェコ軍団を、フランス軍に編入して、シベリア鉄道でウラジオストックに送りそこからフランスに移動することにしました。

1918年4月からチェコ軍団はベンザに集合して、順次移動を開始しました。

5月14日移動途中の一部隊は、シベリア鉄道沿線のチェリャビンスクですれちがったドイツ・オーストリア軍の俘虜部隊 (彼らとは遺恨の間柄であった) との間で小競り合いを起こしてしまいます。

チェコスロヴァキア軍団が反革命勢力と結託することを警戒していたソヴェト権力は軍団の武装解除を要求したが、チェリャビンスクの部隊はそれを拒絶し、5月25日、ソヴェト権力に対して武力蜂起しました。

日本とアメリカは「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という名目で、ウラジオストックから干渉軍をロシアに送ります。

シベリア鉄道 出典 ロシア革命の貨幣史

シベリア鉄道を移動中のチェコ軍団は、瞬く間にベンザからイルクーツクまでの鉄道と沿線を支配し、最終的には、エカテリノダールから80キロのところにある黒海沿線の街ノヴォ・ニコラエフスカ(ノヴォロシースク)からウラジオストックまで影響を及ぼします。

ニコライ二世一家の最後

1917年3月22日、皇帝の地位を失ったニコライ二世は、、ペトログラート南郊のツァールスコエ・セローのアレクサンドロフスキー宮殿で、家族や侍従たちとともに自宅軟禁状態に置かれました。

臨時政府内の穏健派は、イギリスにニコライ二世一家の受け入れを極秘に打電しましたが、断られてしまいました。

1917年8月、臨時政府のケレンスキーは革命の混乱から皇室一家を守るという名目で西シベリアのトボルクに避難させました。

ここでは元知事の邸宅を借り、快適な生活を送っていました。

10月革命がおこり、権力を握ったポルシェヴィキ政権は、ニコライ二世をモスクワで裁判にかけることを決定しました。

西シベリアからモスクワに向かう途中、一家はエカテリンブルクにあるイパチェフ館で幽閉されてしまいました。

一家が幽閉されていたイパチェフ館。高い塀に囲まれている。 出典ウィキペディア

1918年7月17日午前2時33分、チェコ軍団の決起により白軍がエカテリンブルグに迫った為、皇帝が反乱軍の手に渡ることを恐れたポルシェヴィキ政権により、元皇帝一家全員7人女中1人、料理人2人、一家の専属医1人と共に、射殺されてしまいました。

ソヴィエトは「ニコライ二世のみが処刑されたが、家族は安全な場所にいる」と発表して、一家全員を射殺したことを、伏せ続けてきました。

ソ連崩壊後の1994年、森の中で発見された遺体がDNA鑑定の結果本人たちと確認され、2000年8月、ニコライ二世はロシア正教会において家族や他のロシア革命時の犠牲者とともに聖人として埋葬されました。

ソヴィエト政府が「家族は安全な場所にいる」と発表したため、末娘のアナスタシア姫だけはロシア革命後も生き延びて、どこかに潜んでいるとの噂が立ち、アナスタリア伝説が生まれ、数多くの書物や映画が作られました。

アナスタリア伝説をもとに作られた映画です ↓

ニコライ2世の第4皇女アナスタシアの映画「追想」

こちらはアナスタシア伝説をもとに製作されたアニメ映画です ↓

映画(アニメ)アナスタシア ロシア皇帝ニコライ2世の第4皇女アナスタシア伝説をもとに作られました。

戦時共産主義

レーニンは地主や資本家など、搾取する者のいない、平等な労働者の国を作ろうと呼びかけ、10月革命をなし遂げました。工場を国有化し、土地を分配して万民平等なユートピアを作るはずでした。

10月革命後出された2つの布告のうち「平和に対する布告」は多大な代償を払いドイツとブレスト=リトフスク条約を締結して、不十分ながら達成しました。

もう一つの布告「土地に関する布告」は、「あらゆる地主的土地私有は無賠償で即時廃止される。」とし、それらの土地と家畜類、建物とともに、憲法制定会議が開かれるまで郷区土地委員会と農民代表郡ソヴィエトの管理に委ねられる、とされました。

こうして没収された土地は、農民に均等に分配されました。農民への土地の均等な配分は、社会革命党(エスエル)が早くから主張していたもので、その要求を容れたものであった。続いて「土地基本法大綱」、「土地社会化基本法」を成立させ、自分の労働によって土地を耕作するものには均等に分配され、農民は平準化することとなったのです。

ところがロシア内戦のさなか、1918年、春から初夏にかけてロシアは深刻な食糧危機に見舞われました。ソヴィエト政権は豊かになった農民が食料を隠し持っているとみて、それを強制的に取り上げる政策をとります。

1958年5月9日、食糧独裁令(穀物ストックを隠匿し投機の対象としている農村ブルジョアジーとの闘争にかんして非常全権を食糧人民委員に付与する布告)を承認して、食糧徴発部隊を農村に派遣して巨星的に穀物や畜産物を徴収しました。種もみまでも持っていかれ、農村にも飢えが広まります。

レーニンは農民を富農・中農・貧農に分け、富農とみなされた農民を見せしめのために絞首刑にして、全穀物を没収しました。

かって、ボルシェヴィキ政権は農民に土地を分け与えました。しかし、共産党と名前を変えた今、農民から食料を奪うようになりました。

このため農民たちは各地でゲリラ戦を展開して、食糧徴発隊を襲うようになりました。彼らは赤軍や白軍に対して、緑軍と呼ばれます。農民たちによる反乱が始まったのです。

しかし政権側はこれらを徹底域に弾圧しため、餓えにより500万人の農民が死亡しました。

ロシア内戦は、1920年11月14日、反乱軍最後の将軍コサックのウランゲリが、残存兵力を船に乗せてクリミアからトルコに向かい終了しました。

ロシアに進出していた各国の干渉軍も、1920年には日本を除き(日本は1922年)撤退しました。

クロンシュタットの反乱

1921年2月28日~3月17日にかけて、ペトログラード近くのバルチック艦隊のあるクロンシュタット港で、水兵たちが「戦時共産主義」に反対して、大反乱を起こしました。

水兵たちの大半は農民出身であり、家族からカラポルシェヴィキが穀物ゃ家畜を根こそぎ持っていたことに腹を立てているところに、4日前にペトログラードの労働者がストを起こしたところ、2500人以上の労働者が銃撃を受けたことに抗議して、「言論、集会の自由や、農業や家内工業における統制の解除、すべての政治犯の釈放、すべての勤労人民の配給量の平等化などを要求する15項目の決議」をスローガンに蜂起しました。

クロンシュタット港の水兵たちは、これまでポルシェヴィキ政権を支えてきた大切な柱でしたが、トロツキーは赤軍を指示して、同じ赤軍の水兵に対して鎮圧部隊を送りました。

これにより2103人の水兵が死刑となり、6459人が投獄されました。さらに約8000人の水兵が、フィンランドに亡命したといわれます。

新経済主義(ネップ)

第1次世界大戦とロシア革命後のロシア内戦とで工業生産は戦前の14%、穀物生産は革命前の7400万トンから3000万トンに落ち込みました。

クロンシュタット出の水兵の反乱の最中(1921年3月8日~3月16日)に行われた第0回ロシア共産党大会で、レーニンが提唱する「新経済政策(ネップ)」が満場一致で採択されました。

これにより農民は現物税(22年からは一律10%)を支払った残りの穀物を自由市場で販売することが認められ、小企業の私的営業の自由が与えられて労働者の雇用、商取引が認められました。

市場主義経済を導入した新経済政策により、1925年にはロシア経済は、1913年の第1次世界大戦前の水準まで戻すことが出来ました。

しかし、経済の自由化により、政治結社の自由、言論出版の自由、宗教の自由化を求める声が上がり始めました。

これに対してレーニンは、徹底的に弾圧して答えます。

1922年2月、教会の資産没収と破壊を定め、これに応じない協会は破壊され、聖職者は逮捕・処刑されました。

されに1922年5月には、ロシアの浄化を目指し、反革命的な思想を持つ、芸術家や大学教授を国外に追放します。

経済には自由化を認める一方、思想的には弾圧を加え独裁政治を強化します。

ソビエト社会主義共和国連邦樹立

1922年12月には第1回ソビエト連邦全連邦ソビエト大会が開催され、12月30日にロシア連邦共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア社会主義ソビエト共和国、ザカフカース連邦の4国が平等な立場で加盟するとしたソビエト社会主義共和国連邦の樹立を宣言する「連邦結成条約」が調印されました。

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