なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

第1次世界大戦 1916年

time 2018/06/25

第1次世界大戦 1916年

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亀仙人2

第1次世界大戦 1916年


大量殺戮と、和平への模索 

1916年は消耗戦の考えが広まり、「ヴェルダンの戦い」、「ブルシーロフ攻勢」、「ソンムの戦い」で攻守双方に大きな被害者が出て、フランス、オーストリア、ロシアはこれ以後前線で積極的に攻撃することが出来なくなりました。

海では第1次世界大戦唯一の海上での戦い「ユトランド沖海戦」が行われました。

長引く戦争と、多くの犠牲者により、わずかながら講和を求める動きが出始めます。

消耗戦への歩み

ドイツ軍の参謀総長ファルケイハインは、前年の戦いの経験から、防御側がはるかに優位であることを、発見しました。

相手に攻撃され陣地を奪われても、防御側は後方からすぐ予備役や物資を送り突破された場所を塞ぎ対処できるで、相手にとって前線の突破は難しくなります。

攻撃側は前進するのに従って補給線が伸び、物資や兵員の輸送が戦力の維持が困難になってきます。

ファルケンハインは塹壕戦を一種の攻城戦と考えました。一気に攻め落とすことが出来ないのなら、回復不可能なほど敵を消耗させ追い込むことが必要です。

彼は消耗戦の相手にフランスを選びます。

こうして1916年2月21日、「ヴェルダンの戦い」が始まりました。

「ヴェルダンの戦い」の詳しい説明はこちら ↓

解説 「ヴェルダンの戦い」この戦いから大規模な消耗戦が始まりました。 

この戦いでフランス軍は36万2千人にともいわれる死傷者を出し、開戦以来250万人にとなり、フランス軍に士気の低下がみられ、後のニヴェル攻勢での反乱につながります。

この点ではファルケンハインの計算通りでしたが、作戦に参加したヴィルヘルム皇太子は消耗戦の考えを理解せず、自らフランス軍に向かって攻撃を仕掛けたためドイツ軍も33万6千人近い死傷者を出し、責任を問われてファルケンハインは参謀総長を辞任しました。

ドイツ軍の圧力に耐えかねたフランス軍は、イギリストロシアに対してドイツと新しい戦線を開き、ドイツ軍をそちらに回して負担を軽減するように頼みました。

その結果、イギリス軍はソンムでドイツに対して攻撃を仕掛けます。

ソンムの戦いの説明はこちら ↓

1916年 ソンムの戦い 戦い初日だけでイギリス軍は、戦死者19,240名、負傷者57,470名の損害を出してしまいました。

この戦いでイギリス軍62万4千人、ドイツ軍42万人の兵士が犠牲になりました。

同じくロシアは南西軍司令官ブルシーロフが、ドイツに攻勢をかけます。

ブルシーロフ攻勢の説明はこちら ↓

 

解説 1916年 ロシア軍最後の大攻勢 「ブルシーロフ攻勢」

 

この年連合国で最大の最大の成功を収めた戦いでしたが、ロシア軍は死傷者・行方不明合わせて約50万人、ドイツ軍も死傷者約35万人出します。

特に被害の大きかったオーストリア=ハンガリー軍は死傷者108万人の他、捕虜41万人を出し一国の軍隊としての機能を失い、残った兵士たちはドイツ軍に編入されてしまいました。

海の戦い

1916年ファルケンハインはアメリカの参戦を招いたとしても、イギリスの国力を弱めるため、無制限潜水艦作戦の実施を要求していました。

それに対してイギリス艦隊はスカパー・フローを根拠地として、北海全域を封鎖していました。

この時点でイギリス海軍の主力艦は41隻で、ドイツ海軍の主力艦22隻を大きく上回っていました。

このためドイツ海軍はイギリス北部のスカパー・フローにまで艦隊を出撃させ、イギリス海軍と戦えるほどの戦力はありませんでした。

そこでドイツ大洋艦隊率いるシェア中将は、イギリス艦隊との全面対決を避け、艦隊から遊離させた部隊をドイツ大洋艦隊に誘導させて殲滅させる計画を立てました。

この計画に基づいて、ドイツのヒッパ―中将率いる偵察艦隊が、イギリスのビーティー中将指揮下の巡洋戦艦部隊を本隊に誘導すべき出発します。

しかし、ドイツ海軍の暗号無線を解読したイギリス艦隊は、全艦隊をヒッパ―中将の巡洋戦艦隊の後を追うように出港させました。

ユトランド沖海戦の解説はこちらから ↓

 

解説 「ユトランド沖海戦」 第1次世界大戦で唯一の主力艦同士の戦い。前編 「ドッガー・バンク海戦」

この戦いでドイツ海軍は勝利したものの、戦える主要艦隊は10隻となり、24隻が戦闘可能なイギリス艦隊に対して対抗する力は無くなりました。

イギリス艦隊は相変わらず北海を封鎖し続け、ドイツは翌1917年潜水艦無差別攻撃を再開します。

和平への動き

1916年、各国での大規模な戦いにもかかわらず、犠牲者は増えるばかりであり、国民に食糧問題など多大な犠牲を強いらせてきました。

その割には、勝利どころか戦争が終わる兆しも見えず、人々の間に平和を求める動きが始まります。

オーストリア
1916年11月21日、皇帝フランツ・ヨーゼフが崩御しました。

長い間帝国を率いてきた老皇帝の死とともに、多民族帝国の求心力は失われてしまいます。

老皇帝の孫で新たに皇帝の座についたカールは、即位の後で

「痛ましいほどに失われた平和の祝福を、世の臣民に取り戻すために、できる限りのことをする。」

と宣言し、実行に移します。彼はフランス・ブルボン家の流れをくむ妃を通じて、フランスと和平への道を探り始めました。

ドイツ

戦争によるコストは各国を苦しめ、ドイツにおいてもそれは同じでありました。

1916年12月ドイツのベートマン首相は、唯一の打開策は和平交渉だと考え、カイザーに和平交渉を献言しました。カイザーはこの提案を受け入れ、軍部と苦心の調整の末ベートマンの講和への覚書は12月12日に発せられました。

仲介役を求められたアメリカのウィルソン大統領と教皇は各国に講和条件の提示を求めましたが、まだ負けたわけではなく、ドイツに領土を侵略された状態での講和は応じられないとして、連合国に拒否されてしまいました。

 

 

 

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