2024/09/20
1946年12月19日から第1次インドシナ戦争が始まりました。当初フランスは、満足な武器もないべトミン(ベトナム独立同盟会)相手の戦いで数週間で、ベトナムを制圧できると思っていました。しかし、べトミンの執拗な戦いで8年もの泥沼状態に引き込まれ、最終的には1954年に行われたディエンビエンフーの戦いで敗れ、ベトナムから撤退しました。
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亀仙人2ディエンビエンフーの戦いまで
第1次インドシナ戦争と、アメリカ相手のベトナム戦争で人民軍を指揮して活躍したのが、ヴォー・グエン・ザップでした。
ヴォー・グエン・ザップ
(ベトナム語: Võ Nguyên Giáp、1911年8月25日 – 2013年10月4日)
ベトナムの軍人・政治家
軍人としてホー・チ・ミンと共にべトミン創設から関わり、第1次インドシナ戦争でフランス軍に勝ち、つぎのベトナム戦争でもアメリカ軍を撤退させ、ベトナム統一に大きく貢献しました。
アイキャッチに使用した画像は、第一次インドシナ戦争の頃のヴォー・グエン・ザップ(1954年5月11日撮影)
出典ウィキペディア
ベトナム独立運動の活動家であった父の影響から、1924年、当時の首都フエの国学(国立リセ)に入学したものの学生運動に参加して、退学、逮捕、懲役を受けていまいます。その後インドシナ共産党に入党し反政府デモに参加したことで再び2年の懲役刑を受けてしまいます。
出所後の1933年、インドシナ大学(現ベトナム国家大学ハノイ校)に入学し、法律・政治・経済について学びました。しかし、行政審査官の試験に落ち法律家の道を閉ざされてしまい、卒業後はハノイ市内にあるタンドン学校の歴史教師として勤めます。この間にもベトナム独立のために活動し、また孫氏やナポレオン・ボナパルト、トーマス・エドワード・ロレンス(通称アラビアのロレンス、著省に「知恵の七柱」がある)について研究し、戦術や戦略の知識を得ました。
1939年フランスがドイツに敗れたことで、フランス植民地当局が共産党を禁止したためザップは中国共産党を頼って中国に亡命し、ここでホー・チ・ミンと出会いました。
1941年ホー・チ・ミンと共にベトナム北部のカオバンに戻り、第一回ベトミン全省代表大会が開催され、他の地区への運動拡大方針が決定されると、ザップはレ・ティエト・フン (Le Thiet Hung) と共に南進の責任者となった。第二次世界大戦下の1944年に、ベトナム解放軍の前身である武装宣伝隊を組織し、1945年の八月革命時の権力奪取の際、重要な役割を果たした。
武装宣伝隊結成式の写真。左端の男がヴォー・グエン・ザップ。この時の隊員はわずか34人でした。
出典 Wikipedia
この後、外交・政治面ではホー・チ・ミンが受け持ち、ヴォー・グエン・ザップが戦闘・軍事面を受け持つ二人三脚で、フランスとアメリカと戦いベトナム統一を果たしました。
レア作戦 1947年10月7日~11月8日
1946年12月19日以来、フランスはハノイ、ハイフォンから中国国境の街のランソン、カオバン(べトミン発足の地)を抑えて来ました。この間もフランス極東遠征軍はべトミンのゲリラ戦に悩まされていました。
ホー・チ・ミンやヴォー・グエン・ザップ達べトミン幹部は、ハノイを脱出した後カオバン市に本部を置きゲリラ戦を指揮していました。
フランスはバックガン市を奇襲し、べトミン幹部を捕らえる作戦を立てました。
まず、ランソンに居る10個師団(約1万5千人)をカオバンに移送して中国との国境を固め、べトミンの退路を断ちました。
10月7日、1100名の空挺部隊がバックガン市に降下して市の占領に成功しましたが、肝心のべトミン幹部は逃げられてしまいました。
更にカオバンからバックガンに向かっていたフランス軍も道路に仕掛けられたいた地雷や、ゲリラ戦などでバックガン市に到着したのが10月13日になってしまいました。このためべトミンに包囲されていた空挺部隊を助け出すことが出来たのは10月16日となり、大きな犠牲を出していまいました。
11月8日、フランス側6000人、べトミン9000人の犠牲者を出して作戦は終了しました。
黒の矢印がフランス軍、赤の矢印がベトミン軍
レア参戦終了後、フランス軍はサンチュー作戦(1947年11月20日~12月22日)を発動して紅河デルタ東側の中国国境を固めました。そのためべトミンは北部山岳地帯に追い込まれてしまいました。
開戦当時のべトミンの武器は、第2次世界大戦当時にフランスや日本から鹵獲した小銃や機関銃しかありませんでした。
ベトナム軍の参謀総長の1947年3月9日付けの「国家兵器レビュー報告書1947」によると、この時点での軍の装備全体は、26,018丁のライフルと1,522丁のあらゆる種類の機関銃で構成されていた。つまり、9万人近くの人々のうち、銃を持った武装率は1/3に達していないということです。
引用 Wikipedia
また戦車や装甲車、自走砲等、戦闘車両はフランス軍800台、戦闘機や輸送機などの航空機はフランス側450機であったのに対して、べトミンは共に何も持っていなかった。
足りない分は戦闘で死んだ兵士から奪ったり、マシェットと呼ぶ「山刀」やナイフ、弓、槍、自家製の手榴弾などを使用していました。
アメリカのガーバー製マシェット
出典ウィキペディア
三腕爆弾(ベトナム語Bom_ba_càng 日本名刺突爆雷)
三腕爆弾はべトミンが戦車を破壊するために使用した特攻兵器。旧日本軍が使用した刺突爆雷をまねて作られ、対戦車砲を持たないため、戦車を破壊するために使われました。
刺殺爆雷の仕組み
出典 土と油
先端をロート状に窪ませた火薬を後部から爆発させると、爆発のエネルギーと熱い金属粒子が集中的に前方に発射されます(モンロー/ノイマン効果)。これを利用して、厚い装甲板を貫通させることが出来ます。
前方に突き出た3本の棒は、撃針ではなく装甲板との距離を保つものです。使い方は弾頭の後部に竹や木の棒を指し、相手に突き刺し撃針を作動させます。もちろん使用した兵士も爆発の影響で死んでしまいますので、一種の特攻兵器です。
構造と攻撃方法。米軍のマニュアルから
出典ウィキペディア
三腕爆弾を持ったべトミン兵士
出典 Wikipedia
ハノイ市のホアンキエム湖畔に立つ「祖国が生きるために死ぬことを決意した人」の記念碑。左側の女の人は手にマシェットを持ち真ん中の男性は三腕爆弾を持っている。
出典 LANG VIET
1948年6月14日、フランスは香港に亡命していた阮朝最後の皇帝バオ・ダイを担ぎ出して傀儡国家であるベトナム国を樹立します。それまでサイゴンを中心としていたコーチシナ共和国は、ベトナム国に編入されます。
新しく成立したベトナム国は、反共主義を掲げホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国に対してベトナム全土の領有を宣言しましたが、フランス軍が支配するハノイ、ハイフォン、フエ、ダナン、ニャチャン、サイゴン(現ホーチミン市)だけで、農村地帯の大部分はべトミンの支配下にありました。
武器不足で近代装備を持つフランス軍に苦戦していたべトミン軍でしたが、1950年直前に大きな変化がありました。
1949年暮れ、中国の国共内戦に勝利した中華人民共和国が、中華民国軍から鹵獲した武器をべトミンに流し始めたのです。
これにより、べトミンは中国との国境の街ラオカイを奪還しました。ラオカイは中国内部と鉄道が通じており、より大量の兵器がべトミン軍に流れます。
1950年1月18日には中華人民共和国が、続いて1月31日ソ連もベトナム民主共和国を承認します。それにより、ソ連が満州国を支配はしていた日本軍から鹵獲した武器の他、対空機関砲などの近代化された兵器も送られてきました。これら大量に送られた来た兵器は、べトミンだけではなく国境を超えてラオスのパテトラオ、カンボジアのクメール・イサラ等の反フランス組織にも流れました。
アメリカの援助開始
これに対して、3月になるとアメリカとイギリスがバオダイのベトナム国を承認しました。これにより、ベトナム国内の戦争は資本主義と共産主義の戦いという冷戦を反映した状態になりました。5月には、アメリカのトルーマン大統領が苦戦している現地のフランス軍に、軍事援助3000万ドル、経済援助2300万ドルの実施を発表しました。6月には、6月にはグレーブス・アースキン少将の調査団が派遣され、10月、フランシス・ブレリンク准将率いる軍事顧問団が派遣されました。
1949年には先のレア作戦やその後のゲリラ戦で負傷した兵士からや、フランス兵によるミーチャック村虐殺事件(1947年11月29日、フランス軍がミーチャック村で女性や子供を中心に300人余りを虐殺した事件)などの話が広まると、フランス国内で反戦運動が広まり、これを受けてフランス政府は1949年末にフランス国内で徴収したフランス正規軍のベトナム派兵を中止しました。
これ以後ベトナムで戦うフランス軍は、ベトナム、ラオス、カンボジアから兵を徴集したり、フランスの志願兵やドイツ人やイタリア人からなる外人部隊、モロッコやアルジェリア、セネガル等、フランスの植民地から集めた兵士を中心に戦うことになります。
この間にヴォー・グエン・ザップは、ベトミンをゲリラ戦中心の部隊から最新の兵器を備えた近代的な正規軍に変える訓練をしていました。
RC4(植民地道4号線)の戦い
1950年9月30日~10月18日
ハノイからの鉄道が通じているランソンから北のカオバンまで、中国との国境にそって植民地道4号線が通っています。カオバンはべトミン発祥の地であるとともに、中国からの武器の重要な搬入路でもありました。また、フランスにとっても、北部のカオバンに補給物資を送る重要な道となっています。
1947年のレア作戦で負けたべトミン軍は、フランス軍に対してゲリラ戦を仕掛け、1948年9月2日、べトミン軍は100台からなるフランス軍輸送部隊を襲い、負傷者4名を残し全滅させました(カオバン攻防戦)。
これ以後フランス軍は道路沿いの各地に哨所やランソンを始め、チャナム、タトケ、ドンケ、カオバンに要塞を設け、防御を固めました。
1950年5月25日、2500名のべトミン軍がドンケ要塞を攻撃して奪い、ランソンとカオバン間の補給路を遮断しました。
しかし、2日後の5月27日フランスは大規模な空挺部隊を送り、ドンケ要塞は再びフランスの支配するところとなります。
赤い矢印がベトミン軍の攻撃路、
黒の矢印がフランス軍の退却路。
茶色の道が植民地道4号線
1950年9月16日、2000人のべトミン軍がドンケ要塞を攻撃しました。この時ドンケ要塞の守備していたのは300人余りの外人部隊でした。2日間の戦闘の末、要塞から逃げられたのは12名で、残りは140名の捕虜を除き、戦死か行方不明になってしました。
9月17日フランス軍は外人部隊の第1パラシュート大隊を降下させましたが、べトミン軍の大部隊が向かっているとの情報を得て、カオバンに避難させます。1週間後に降下部隊はカオバンに到着し、カオバンの守備兵2500人と合流しました。
カオバンの孤立を恐れたフランス領インドシナの最高司令官であるマルセル・カルペンティエ将軍は、重機類を捨て至急ランソンに撤退するよう命令しました。
9月30日、フランズ軍はランソンに撤退する際、道を塞いでいるドンケ要塞を奪還するため、先行部隊2500人がカオバンを出発しました。
しかし、ヴォー・グエン・ザップ率いる1万人のべトミン軍が到着し、ドンケ要塞への道を塞ぎました。仕方なく先行部隊は、ドンケ要塞を西に迂回し、後続部隊を待つことにしました。10月2日にカオバンを出発した後続部隊が合流できたのは10月5日になってしまいました。これは後続部隊が命令に反し、大砲などの重機類を持って移動したためです。
この間にさらにべトミン軍3万人が到着し、フランス軍は完全に包囲、殲滅されて、無事ランソンに到着できたのは700名でした。
ドンケでの戦いを視察しているホーチミン
出典 Wikipedia
10月17日、べトミンの大部隊が迫ってきたため、フランス軍はランソンを放棄してハノイに向かって撤退しました。
10月18日全ての戦闘が終わり、べトミン軍はカオバンからランソンに至る中国との国境地帯を支配します。
この後べトミン軍は、首都ハノイの奪還を目指します。
ド・ラトルラインの戦い
12月17日、第2次世界大戦でドイツ軍をオーストラリアまで追い詰め英雄となったジャン・ド・ラトル・ド・タシニ将軍が極東遠征軍団司令官に就任しました。タシニ将軍は紅河三角地帯の頂点に位置する3つの都市、ハノイ、ハイフォン、ナムデンを守るため、900ヵ所の要塞を繋ぐ防衛線(ド・ラトルライン)を築きました。
ド・ラトルライン(赤い線)
この間にべトミン軍のヴォー・グエン・ザップは、それまで連隊(約2000名)単位で動いていた軍を、5つの師団(約1万名)にまとめ命令系統の簡素化を図りました。
⓵ビンイェンの戦い
1951年1月13日~17日
ビンイェンはハノイの北西30マイル(約50km)にある都市で、フランスは3つの軍団(1軍団は3000名)でここを守っていました。ここが破られると、一直線でハノイまで達します。
1月13日、べトミン側は、第308師団(1師団1万名)が北2マイルの位置にあるフランス軍の前哨基地を襲いました。救援のためフランス第3軍が駆けつけると、今度はべトミン軍第312師団が横から攻撃をかけ第3軍は退路を断たれてしまいます。全滅の危機に見舞われましたが、第3軍はビンイェンに戻ることが出来ました。知らせを聞いたタシニ将軍は予備の第2軍を率いて、ハノイからビンイェンに向かいました。また第1軍を第3軍と合流させます。
1月14日、フランス第1軍と第3軍は、べトミン第308師団に攻撃をかけ、前哨基地を奪い返しました。
1日置いて1月16日、べトミン第308師団が再び攻撃をかけると、タシニ将軍は空軍を呼び、ナパーム弾による空爆を行い、敵を撃退します。後のベトナム戦争で盛んに使われることになった、ナパーム弾の最初の使用例となりました、
ナパーム弾による爆撃
出典 SPUTNIK 日本
しかし、1月16日深夜になると、べトミン第308師団は第312師団を伴って攻撃してきました。フランス軍は予備の第2軍も加えて防戦します。
夜が明けるとタシニ将軍は大規模なナパーム弾による空爆を行い、昼にはべトミン軍の撃退に成功しました。
この戦いでべトミン軍は約8000名の死傷者を出し、フランス軍の死傷者は行方不明を含め800名ほどでした(フランス側発表)。
⓶マケオの戦い
1951年3月23日~28日
べトミン軍は、フランス軍にとって補給物資の陸揚げ港のあるハイフォン攻撃を狙い、その防御基地のあるマオケに攻撃を仕掛けます。マオケは古くからの炭鉱町であり、約400名のモロッコ植民地軍が要塞化した教会を中心に守っていました。
これに対してべトミング軍のヴォー・グエン・ザップは、先のビンイェンの戦いで大きく兵力を落とした第308師団と第312師団を再編成し,11000名で攻撃を仕掛けました。人数から言えばべトミン側が絶対有利でしたが、そうなりませんでした。
ハイフォン港から川を遡って、3隻の駆逐艦が戦いに参加したのです。さらに第6植民地パラシュート大隊が降下し、さらに空軍のB-26爆撃機と戦闘機のF6F ヘルキャッツも空から攻撃をかけます。
この為べトミン軍は得意とする市街地での白兵戦に持ち込めず、3000名の死傷者を出し撤退しました。フランス側の死傷者は190名でした(フランス側発表)。
⓷デイ川の戦い
1951年5月30日~6月18日
5月29日深夜、べトミン軍2万人が紅河支流デイ川のデルタ地帯に位置する4つの都市(プーリー、ニンビン、゜フアットズィエム、ナムデン)に一斉攻撃をかけ市街戦に持ち込みました。フランス側も歩兵3個大隊、2個空挺大隊、海軍強襲部隊、計2万人を出して応戦しましたが、今までと違い砲撃や空爆を使えず、戦いは膠着状態となりました。
この戦いの緒戦に、タシニ―将軍の息子ベルナール・ラトレ・ド・タシニ―中尉が戦死しました。
6月6日フランス極東遠征軍が、べトミン軍の補給路を遮断したことでべトミン軍は徐々に後退し、雨期が始まった6月18日には完全に撤退しました。この戦いでべトミン軍の犠牲者は9000名に上り、フランス側は死者107名、負傷者289名、行方不明189名となっています(フランス側発表)。
この3つの戦いで歩兵同士の戦いではべトミン軍は互角の戦いが出来ましたが、戦車や大砲、航空機、艦船を使用した近代的な戦いで弱いことが分かりました。
この戦いの後、タシニ―将軍は息子が戦死したことと、持病の癌が悪化したため、10月3日一時フランス本国に戻りました。
ホアビンの戦い
1951年11月10日~1952年2月25日
ホアビンはハノイの西に在り、ハノイ攻撃のための物資集積所があるとともに、南ベトナム南部に通じる輸送路の拠点でもありました。
11月10日、フランスに帰国したタシニ―将軍の代理となったサラン将軍は北方にあるギアロをパラシュート部隊で奪取し、その後南方のホアビンに向かいました。これによりホアビンは完全に孤立してしまいます。
11月15日、サラン将軍はホアビンを攻略し、再びハノイに戻ったタシニ―将軍も「これからベトナム人は、フランス軍が選んだ場所での戦いを強いられるようになった。」と述べています。
11月19日タシニ―将軍は癌が悪化したため、再びフランスに帰国し、翌年の1952年1月11日パリの陸軍病院で亡くなりました。
11月15日、フランス軍がボアビンを占領すると、べトミン軍は奪回を決め、12月10日ホアビンに2万人の兵を送りました。その後もべトミン軍は攻撃を繰り返し、1月30日サラン将軍はホアビン撤退を決意しました。
その後も戦いは続き、2月25日、今度はべトミン軍が北部からの補給路を遮断されたためホアビンから撤退し、フランス軍5000名、べトミン軍9000名の死傷者を出して戦いは終わりました。
1951年3月3日、ベトミンはインドシナ共産党の別の統一戦線組織であったリエンベト(ベトナム国民連合会)と合同して「リエンベト戦線」となったが、その後も一般には「ベトミン」と呼ばれ続けている。そして、3月11日、ラオスとカンボジアの共産党勢力と合流してインドシナ民族統一解放戦線を結成します。これにより、これによりべトミン軍はラオスとカンボジアにも進出し、旧仏領インドシナ全体で独立の機運が高まります。
これに対抗するため、フランスの傀儡国家であるバオダイを首班とするベトナム国でも、国軍の創設が必要とされ7月に徴兵が開始され、10月に国軍が創設されました。
ここにきてフランス本国でも戦費の負担が大きな問題となってきました。1946年が始まった5年間での戦費は3080億フラン(約5兆6500億円)となり、フランスはベトナムからの撤退を考えるようになりました。
インドシナ半島に共産党勢力が拡大するのを防ぐため、アメリカはフランスに対して、1951年から1952年にかけて3億3千万ドルの資金援助を与えました。これは、この期間にかかった戦争の費用の20%に当たります。
ロレーヌ作戦
1952年10月29日~11月14日
1951年初頭から始まった戦いで、べトミンは大幅に人員を減らし、北ベトナム東部の山岳地帯に撤退しました。
1952年10月、フランス軍はボーに沿って進軍して、ベトナム北部にある中国との重要な補給基地であるラオカイ西部近くのライチァウまで進出します。これによりべトミン軍はベトナム中央部から南部への補給路を絶たれ、必要な物資は一旦中国を通ってからラオスに送ることになりました。
1952年10月15日、べトミン軍308師団が、フランス軍の前哨基地であるギアローに攻撃をかけました。
これに対して、フランス軍は第6植民地空挺大隊をギアロの北にあるトゥールに降下させ、ボー川への撤退を支援しました。
10月17日、ギアローはべトミン軍により陥落してしまいます。
10月29日、フランス軍はダー川への圧力を減らすため、ハノイとイェンバイの間(フート地区)にあるべトミン軍の補給基地の占領を狙ってロレーヌ作戦を発動しました。
ロレーヌ作戦はフランス連合軍がこれまでで最大の3万人の部隊が動員されせました。さらに戦車や砲兵隊、空軍の航空支援も導入されました。
フランス軍は、ハノイの北にあるトゥエンクアンに空挺部隊を降下させ、べトミン軍の補給路を遮断しました。これに対してべトミン軍308部隊はフランス軍との直接対決を避け、部隊を撤退させます。
フランス軍はイェンバイまで軍を進め、そこから南下してフート(11月5日)とプードーン(11月9日)、プーイェン(11月14日)を占拠しました。
イェンバイ、フート地区
しかし、イェンバイからの道は山間地を流れる紅河に沿って通じている為、道がぬかるみ、戦車やトラックなどの通行が困難となり、補給が出来ないことと、べトミンのゲリラが活躍したことにより、11月14日作戦は中止されました。
この戦いの死傷者と行方不明者は、フランス側1200名、べトミン側3600名でした。
ナサンの戦い
1952年11月23日~12月2日
ナサンの戦いは、後のディエンビエンフーの戦いのもとになった戦いです。
ナサンはダー川沿いに展開しているふにーランス極東遠征軍の中心地ソンラから少し南にある村です。ここには1000メートルの滑走路があり、フランス軍は11月の初めから物資を空輸し、極東遠征軍を集め強固な要塞を築きました。
11月22日深夜べトミン軍は第312師団、第308師団、第316師団で攻撃を開始しました。
これに対して1万5千名のフランス軍は滑走路を中心に、ハリネズミの防御と呼ばれる全周囲防御陣地で対処しました。
全周囲防御陣地は滑走路を中心に6個の砲台を築き、その周りを9個の陣地で取り囲み、どの方向から襲われても全ての大砲で対処できるようにしました。そのほかには、120㎜は迫撃砲4門と81㎜迫撃砲6門があります。
また、陣地の外側には8ヵ所の前哨基地を設け、どこから敵が襲ってくるか分かるようにします。この前哨基地も砲撃の範囲内にあります。
日本の自衛隊で使用されせているフランス・トムソン-ブラーント社が開発した120㎜迫撃砲 RT。日本では豊和工業がライセンス生産している。
最大射程距離は、13000m。
出典ウィキペディア
11月23日20時、偵察のため第8陣地(下の図の赤い矢印)を攻撃しましたが、周囲の陣地からの支援で撃退されてしまいます。それ以後11月30日まで亭幸のため様々な陣地を攻撃しました。
ナサンの全周囲防御陣地(ハリネズミの防御)
出典 Wikipedia
11月30日20時、べトミン軍は9個大隊で前哨基地の第22基地と第24基地(緑の矢印)を攻め、第22基地では9時間の攻撃で隊員255名の内飛行場まで逃げられたのは1個分隊だけでした。第24基地は3時間の攻撃の後、降伏しました。
12月1日夜明け前、司令官のバレス大佐は反撃を開始して、7時間の戦いの末、奪われた第22と第24の前哨基地を取り戻しました。
同じ12月1日午後9時、べトミン軍は第21と第24前哨基地(青の矢印)から初めて、全軍でフランス軍陣地に向かって攻撃を開始しました。
この戦いで一晩中、空軍のC-47が照明弾を落とし、爆撃機B-26やF6F ヘルキャットが爆弾やナパーム弾で地上軍を助けました。地上では夜通し砲撃を続けました。
12月2日べトミン軍は3000~6000名の死傷者を出して撤退しました。フランス側の死傷者は2個大隊分の約1000名でした。
1953年の世界の情勢
1953年1月20日、アメリカのアイゼンハワー大統領が就任しました。また、3月5日にソ連のスターリンが亡くなりました。
朝鮮戦争停戦
アイゼンハワー大統領は朝鮮戦争の終結を目指し、北朝鮮を支援していた毛沢東と協議を始めました。毛沢東もスターリンが死亡したことで停戦に同意して、1953年7月27日、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれました。
当時は「冷戦」のさなかであり、アイゼンハワー政権を支えたニクソン副大統領とジョン・フォスター・ダレス国務長官は、共産主義との戦いを指揮、拡大し、朝鮮戦争が一段落したことで、次の目標としてインドシナ半島に注意が向けられました。
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