1887年からベトナムは、ラオス・カンボジアと共にフランス領インドシナとしてフランスの支配下(植民地)になっていました。
第2次世界大戦後の1945年9月2日、長いことベトナムの独立運動を続けていたホー・チ・ミンが独立宣言を発表してベトナム民主共和国が誕生します。
しかし、ベトナムの植民地化を狙うフランス軍がベトナムに進駐して、第1次インドシナ戦争が始まりました。
その後もベトナムの共産化を阻止すべくアメリカが軍を派遣してベトナム戦争が始まり、ベトナムが本当に独立できたのは1976年7月2日にベトナム社会主義共和国が成立し、ベトナム全体を統一してからのことでした。
アイキャッチ画像の写真は ベトナム民主共和国初代 国家主席のホー・チ・ミン
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亀仙人2ベトナムの歴史
第2次世界大戦終戦まで
古代
ベトナム北部、中国との国境近くのランソン省タムハイにあるタムクエン洞窟で約40~30万年前の旧石器時代の地層から原人の歯が発見されたことで、この頃から人が住んでいたとされています。
文郎国
1万年ぐらい前の新石器時代から農耕が行われ、各地に大規模な集落が生まれました。紀元前8~7世紀にかけて、これらの各部族を統一して文郎国(ヴァンラン国, Văn Lang、紀元前2879年~紀元前258年)が生まれました。
文郎国の推定領域(黄色)
緑色は文郎国を滅ぼした蜀泮(トゥクファン)の治めていた南崗国
出典 ウィキペディア
甌雒(アウラク, Âu Lạc) – (前257年 – 前207年)
もと中国古蜀の王族である蜀泮(トゥクファン)が、古蜀が秦に滅ぼされた後、流浪の末に現在の中国の四川省からベトナム北部のデルタ地帯に到達し、山岳地の甌越(英語版)地域(現在のベトナム最北部および中国南部の一部)とこれより南部の雒越(らくえつ、現在のベトナム北部にある紅河デルタ)を統合して建国した。
南越国(ナムベト国, 趙朝, 趙氏南越国, Nam Việt, Triệu) – (前207年 – 前111年)
秦が項羽によって滅ぼされた後、秦の元官僚 である漢人の趙佗が、紀元前207年、秦滅亡の混乱に乗じて、番禺県に建国した国。
南越国の領域(紫色の部分)
出典ウィキペディア
北属期(漢から唐までの中国王朝支配期) – (前111年- 938年)
秦が滅んで劉邦が新たに漢(前漢)を起こしました。7代目の皇帝武帝の時に最盛期を迎え匈奴を抑えて聖域まで勢力を伸ばすとともに、南の南越国を領土に加え新たに日南郡を置き、漢の国土としました(紀元前111年)。
この時から呉権(ゴ・クエン)が呉朝を建国した939年まで(前漢から唐の時代)まで中国王朝に支配されていた時代を、北属期と言います。
武帝時代の前漢の領域
出典 中国小史『黄河の水』
徴 姉妹(ちょう しまい、ハイ・バ・チュン、ベトナム語:Hai Bà Trưng / 婆徵)の反乱(40年~42年)
劉邦の起こした漢(前漢)は一度王莽による簒奪され新朝となりましたが、光武帝(こうぶてい)こと劉秀(りゅうしゅう、紀元前6年 – 57年)よって滅ぼされ漢(後漢)が再興されました。しかしこの戦役で戦費がかさんだ為、国民に重税が掛けられてしまいました。
この重税に対して交趾郡に住む首長の娘、徴 姉妹が後漢に対して反乱を起こしました。この反乱はわずか3年で鎮圧されてしまいましたが、大国に対して独立を勝ち取った英雄として現在でも、ベトナムで祀られています。
スイティエン公園のハイ・バ・チュン像
出典ウィキペディア
漢の光武帝は、ヴエトナムの反抗を漢の支配の恨幹をゆるがす重大な挑戦とみた。老将馬援(マ・ユアン)を伏波将軍として派遣した。馬援将軍は八〇〇〇人の正規軍と中国南部で徴兵した一万二〇〇〇人の民兵を動員、進撃した。ヴェトナムに入ると、戦略拠点のランバックの高地に布陣した。四二年四月、雨期が到来した。猛薯と湿気のために漢軍の攻撃はとまってしまった。乾期がはじまるのを待っていた。馬援は「悪疫が流行り、猛暑は堪えがたい。暑さのためにハイタカ(小さなタカ)が落ちるのを見た」と語ったという。ところが、漢軍と対峠している間に、ヴェトナム側の貉将たちが戦意を失った。だらけ切った中で離反が相次ぎ、チュン姉妹がいどんだ戦闘は大敗を喫した。数千の兵が捕虜となり首を切られた。チュン姉妹は故郷のメリンに撤退したが、この年の末、馬援の侵攻によってついに捕まる。翌四三年一月、二人の首は塩漬けにされて首都の洛陽に送られた。ヴェトナムでの伝承では、二人は戦場で死んだ、馬援に斬られた、馬援に首をはねられた、病死した、雲の中に消えていったなどいろいろな最期が語られている。しかし、もっとも信じられているのは、追いつめられたチュン姉妹は手をたずさえて川に飛び込んだという説である。太守の悪政に端を発したチュン姉妹の反乱はわずか三年間の独立を得ただけで悲劇的結末を告げた。民衆はチュン姉妹の死を悲しみ、祠が建てられた。ハイ・バ・チュンの抵抗はヴェトナム初めての独立であったとして、きわめて高く評価され、独立運動の指導者というイメージがつくられ、悲劇の主人公であると同時に民族の英雄として尊敬されている。
引用 小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史』中公新書 43頁
独立王朝時代(928年~1945年)
呉朝(ごちょう、ベトナム語:Nhà Ngô / 家吳、939年 – 968年)
中国で唐が滅んだあとの五代十国時代に呉権(ゴ・クエン)よって建国されました。
呉朝の位置
出典ウィキペディア
この後勢力を南に伸ばしながら、最後の王朝である阮朝までベトナム人による王朝が続きます。
阮朝(グエンちょう、げんちょう、ベトナム語:Nhà Nguyễn / 家阮 1802年~1945年)
ベトナム最後の王朝。領土は現在のベトナム社会主義共和国と同じ。
阮朝の位置(1838年)
色のついた部分
出典ウィキペディア
18世紀末黎(れい)朝(レ朝)を滅ぼした西山党(タイソン党)の革命政権と対抗した阮福映(グエン・フク・アイン)が1802年に国内を統一して年号を嘉隆(かりゅう)と定めたのち、国号を越南(ベトナム)と改め、06年に皇帝(世祖嘉隆帝)に即位して創立した。
引用コトバンク
1885年6月9日に中国の清とフランスの間で結ばれた天津条約で、ベトナムの宋主権が清からフランスに移り、フランス領インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジア)の一部となりトンキン・アンナン・コーチシナに分けられフランスの植民地となりましたが、阮朝は傀儡政権となって存続していました。
フランス領インドシナ
出典ウィキペディア
ホー・チ・ミンとベトナム民主共和国の成立
ホー・チ・ミン
(胡 志明、ベトナム語:Hồ Chí Minh / 胡志明 , 1890年5月19日 – 1969年9月2日)
少年時代から植民地だったベトナムの独立を目指して戦った、ベトナム建国の父と言われる政治家。ベトナム共産党の創立者で、ベトナム民主共和国初代国家主席、ベトナム労働党中央委員会主席。
1911年ヨーロッパに渡り,1917年からフランスを拠点にしてグエン・アイ・クォク (阮愛国) の名で植民地解放運動に従事。 1920年フランス共産党創立に参加して共産党員となる。写真家の助手となりながらバリで反植民地主義の新聞「Le Paria ル・バリア」を発行して、植民地の独立を訴えます。
フランス時代のグエン・アイ・クオック(ホー・チ・ミン)
出典ウィキペディア
1923年、ソビエト連邦に渡り、コミンテルン第5回大会でアジア担当の常任委員に選出された。
1930年にイギリス領香港でそれまでに組織されていた3つの共産主義組織の代表を集め、それらを統一したベトナム共産党(間もなくインドシナ共産党と改称)を創立した。
1940年5月、第2次世界大戦が始まりナチスドイツがフランスに侵攻し、敗北したフランスは6月22日独仏休戦協定を結び、それまで副首相だったフィリップ・ペタン元帥を大統領とするフランス国が成立しました。フランス国の首都がフランス中部の都市ヴィシーに置かれたことからフランス国はヴィシー政権と呼ばれます。
日本は1937年7月7日から、蔣 介石が総統を務める中華民国と戦争状態になりました(日中戦争)。これに対して、イギリス・アメリカ・ソ連が中華民国に軍事援助を行いました。このため日本は各国の援助を断ち切るため、インドシナ半島に侵攻します。
主な援蔣ルート(蒋介石を援助するためのルート)
- 香港ルート 当時イギリスの植民地であった香港から補給するルート。1930年に広州を日本軍が占領して遮断した。
- 仏印ルート 親ドイツ派のヴィシー政権が成立した後の1940年9月、日本軍がベトナム北部の進駐をフランスに認めさせ遮断した。
- ソ連ルート 1941年に独ソ戦が開始されると、ソ連はドイツとの戦いに全力を傾けるため、日本と日ソ中立条約を結び中華民国の援助から手を引いた。
- ビルマルート 1941年の太平洋戦争開戦後間もなく、日本は援蔣ルートの遮断を目指してビルマに進駐した。しかし、参加した日本兵のほとんどが死亡した史上最悪の作戦と言われるインパール作戦の失敗などで、1945年の終戦直前まで戦い続けることになりました。
1940年5月ドイツ軍のフランス侵攻でパリが陥落して6月17日のヴィシー政権が樹立樹立しました。1940年9月23日、日本はヴィシー政権との協定をもとにベトナム北部に進駐して、3か所の飛行場と港湾の利用権及びベトナム国内の移動の自由を認めさせ、援蔣ルートや中華民国の攻撃を開始しました。
軍事面では日本が主導権を握りましたが、現地の統治は今まで通りフランスに任せました。
1941年2月、ホー・チ・ミンは第2次世界大戦でフランスがドイツに占領されたのを受けて、30年ぶりに故郷ベトナムに戻り、8月にベトナム独立のための統一戦線組織「ベトナム独立同盟会」(通称ベトミン)を組織してその主席に就任した。
1941年7月、日本軍はさらなる資源と食料の確保を狙ってベトナム南部まで勢力を伸ばし、ベトナム独立を目的とするべトミンと対立するようになりました。
南ベトナムの進駐は、アジア地域における日本の勢力が増すことを恐れるアメリカの態度を硬化させ、在米日本資産の凍結(7月25日)、対日石油輸出の全面禁止(8月1日)などの経済制裁に踏み切り、イギリス、オランダもこれに倣った。その後も日米間の交渉が行われましたが、1941年11月26日、日米交渉に先立ちアメリカのハル国務長官か覚書が渡されました覚書(通称ハル・ノート)が渡されました。
その中に日本軍の中国および仏領インドシナからの全面撤兵要求、蒋介石の中華民国国民政府以外の中国における政府、政権(満州国)の否認などが盛り込まれていることから、日本側は事実上の最後通牒とみなし、開戦を決意して1941年12月8日の真珠湾攻撃を開始し太平洋戦争が始まりました。
1944年6月6日、連合国軍が北フランスに上陸(ノルマンディー上陸作戦)して、1944年8月25日ヴィシー政権は崩壊してしまいました。
1945年3月9日午後10時、日本は明号作戦(三・九クーデター)を行い勝利した日本軍が総督府を掌握、元フランス領インドシナを完全な支配下に収めました。
フランス領インドシナを支配することになった日本は、ラオスとカンボジアを独立させ、ベトナムではフランスの傀儡政権である阮朝を廃止して新たに元阮朝の保大(バオ・ダイ)帝を立て、ベトナム帝国を設立しました。
同じアジア人である日本がフランスの統治を駆逐したことによって喜んでいたベトナムでしたが、敗戦間近で日本本国を始め占領地で極端な食料難であったため、ベトナムで大量の食糧を徴発し、多くの餓死者(1945年ベトナム飢饉)を出したことにより、かえって大きな反発を産んでしまいました。
アメリカは、日本軍に対して抵抗運動を続けているべトミンに目を付け、OSS(CIAの前身)を通じてべトミンに武器、通信機器、医療支援、アドバイス、訓練を提供しました。しかし、本格的な活動に入る前に予想より早く日本軍は降伏してしまいました。
1945年OSSのメンバーと一緒のホー・チ・ミン(左から3番目の白シャツと半ズボン姿)、一人置いて白のスーツを着ているのはヴォー・グエン・ジャップ(後のベトナム人民軍最高司令官)。
出典 WikipediA
1945年8月15日、植民地時代からのフランスに変わりベトナムを占領していた大日本帝国がポツダム宣言の受諾をして降伏すると、8月17日本国の命令によりすべての日本軍が戦闘停止したことにより、ベトナムは無政府状態となりました。
8月16日、ホー・チ・ミンは国民会議を招集して臨時政府となるベトナム民族解放委員会を選出して、ベトミン(ベトナム独立同盟)を中心とした民衆蜂起を訴えました(ベトナム八月革命)。
翌8月17日、ベトナム帝国(日本によって作られた傀儡政権、もと阮朝)首相のチャン・チョン・キムがハノイ市民劇場前広場で「独立を与えた日本は敗れたが、ベトナムは心を一つにして我々の政権を築こう」と訴える集会を開いたが、べトミンはこの集会を乗っ取り、ベトナムの独立を訴えました。
8月19日、ハノイでべトミンの大会巣参加者による大規模なデモが発生して、市庁舎や日本軍が手放した保安隊や警察署など政府機関を次々と占拠し、ハノイ・クーデターが成功します。
8月20日、阮朝の都である旧都フエの王宮にいたベトナム帝国皇帝のバオ・ダイに対して、ベトミン革命軍事委員会が退位を要求、24日、ベトナム帝国バオ・ダイ帝が退位して143年続いた阮朝(グエン王朝)は滅亡しました。
8月25日にはサイゴン(現ホーチミン市)で駅、中央郵便局、発電所などがべトミンに占拠されました。
8月26日べトミン軍はハノイに入城し、28日にはベトナム民主共和国臨時政府が樹立されました。
8月29日の臨時政府の構成を見ると、首相兼外相がホー・チ・ミン、内相にボー・グェン・ザップ、国防相にチュー・バン・タン、財政相にファム・バン・タンなど共産党員やべトミンの要因が要職を占めていましたが、カトリック、民主党、無党派の人たちも16あるポストのうち7つのポストについてしました。
これを見るとホー・チ・ミンは共産党の勢力拡大よりも、ベトナムの独立を優先していたことが分かります。日本政府がポツダム宣言に調印した9月2日ホー・チ・ミンはハノイ市内の大広場で大衆集会を開催し、正式にベトナム民主共和国の独立を宣言し、初代主席となりました。
日本軍憲兵隊
8月15日以降、日本軍第38軍は降伏に備えて待機していたが、一部部隊や軍人はベトミンなどに武器を引渡したり或いは個人単位で合流したり、武器の引渡しを拒否した部隊との間では小競り合いが発生した。事態を憂慮した第38軍とインドシナ植民地行政当局は、フランス本国より国家憲兵隊が到着するまでの間、日本軍憲兵隊による取り締まりを実施させた。引用ウィキペディア
第2次世界大戦終戦からフランスのベトナム再支配
まで
ベトナム南部、マスタードム作戦(1945年9月13日~1946年3月30日)
1945年7月17日から8月21日にかけて行われたポツダム会談により、「インドシナは、北緯16度線を境に、北は中華民国軍、南はイギリス軍が進駐して、約6万のインドシナ駐留日本軍を武装解除してフランス軍に引き継ぎ、インドシナの独立を認めない」と決定された。これによりフランスは相変わらずインドシナの領有を認められ、ベトナム統一を果たしたべトミン軍は反乱軍となります。
連合国一般命令第1号(1945年9月2日公布)に基づき、同年8月末には北部ベトナムに盧漢将軍率いる中国の国民党軍18万人規模の部隊が進駐、南部ベトナムには9月12日にルイス・マウントバッテン卿率いる英印軍の第一陣が上陸しそれぞれ日本軍の武装解除に着手しました。
ベトナム南部
9月13日、第20師団長ダグラス・グレイシー少将が2万人の英印軍(イギリス領インド軍)を率いてサイゴンに到着しました。しかし、当時のサイゴンはべトミン軍がかろうじて権力を掌握している状態でしたが、行政システムは崩壊していて、殺人や暴動が頻発していました。
9月19日、連合国委員会(占領行政当局)はベトミン臨時政府と会談を行った後、全ての新聞の廃刊、臨時政府による建物およびその他の資産の没収の禁止、全ての市民集会・デモ行進・武器携行の禁止、夜間外出禁止令の施行を定めた宣言を発表します。
また夜間外出禁止令の施行などのため、残っていた日本兵を再武装して治安維持に当たらせました。
グレイシー将軍による最初の布告をサイゴン市街に張り出す日本兵。グレイシーがインドシナ半島南部における英仏日軍および警察、その他の武装組織の指揮権を引き継ぎ、治安に関して責任を負う旨が宣言されている。この布告は3ヶ国語(英、仏、越)で行われた(1945年9月)
出典ウィキペディア
9月22日、フランス軍捕虜が解放され、再武装して治安維持に参加しました。ところがベトミンから奪還した政府庁舎をフランス軍へと引き渡したところ、フランスの再植民地化に反対するべトミン軍に奪われ、多くのフランス兵が捕虜となってしまいました。
9月23日、これに怒ったフランス軍やフランスの民間人がべトミンに対して報復攻撃を行い、べトミンとみられる者を無差別に殺害してしまいます。これによりサイゴンからはべトミンが排除され、市内の大部分がフランスの支配下に置かれました。
9月24日べトミンの呼びかけによって、サイゴンで大規模なゼネストが行われ水や電気の供給が停止した。
9月25日、ベトミンや反植民地主義の民兵によるサイゴン北部の攻撃でフランス人を中心とするヨーロッパ人の虐殺が行われ、サイゴン市内の中央市場や、タンソンニャット飛行場への攻撃が開始され、本格的な武力衝突が始まりました。
この時以降、初めは治安維持が目的であった日本兵も、第2次世界大戦で敵対していたイギリスやフランスと一緒に、フランスからの独立を唱えるべトミンと戦うという異様な事態となりました。この時べトミンからの呼びかけに応じた600名余りの日本兵が脱走し、ベトナム独立のためにベトナム人と共に戦うことになりました。
この事件のきっかけとなった9月23日は、現在でもベトナムでは「南部抗戦の日」として、ベトナム人の不屈の精神を象徴する日とされています。
10月になるとフランス軍もサイゴンに到着し始め、イギリス軍と共にサイゴンの治安のために戦い始めます。
グレムリン・タスクフォース
10月になるとサイゴンの周囲はべトミンに包囲され、物資や人員の輸送が重要になってきました。しかし、連合国には十分な期待や燃料がありませんでした。そこでタンソンニャット飛行場に残されていた日本軍作戦機と燃料、それと元日本軍の操縦士や整備士を集め航空隊を創設します。この航空隊はグレムリン・タスクフォース(Gremlin Task Force)と名付けられ、H・F・マクナブ少佐を指揮官とし、機体のマークをイギリス空軍の「蛇の目」マークに書き換えて、偵察及び人や物資の空輸に使われました。
グレムリン・タスクフォースで使用された三菱の一〇〇式輸送機(キ57)
同じく三菱 キ21 九七式重爆撃機、横腹に見られるマークがイギリス空軍のものに変えられている。
11月に仏領インドシナ高等弁務官兼仏軍司令官ジョルジュ・ティエリ・ダルジャンリュー海軍中将が到着すると、イギリス軍は段階的に日本軍の武装解除を進めるとともに、支配地域をフランスに受け渡しました。
フランス軍が強化されるにつれ、べトミンは全面的な抗争から小規模なゲリラ戦に戦法を変えていきました。
1946年2月末までにイギリス軍は一部を残し撤退を完了し、武装解除された日本兵はサンジャック捕虜収容所にて、帰国を待つこととなりました。
1946年3月30日にかけてイギリスは撤退を完了し、マスタードム作戦は終了しました。
こうしてベトナム南部は、フランスの支配下に置かれることになりました。
反面フランスの支配を許すことになったべトミン内部では共産党の支配を高めるため、フランスやイギリス、日本などに協力した国粋主義的な勢力やカトリック教徒などを粛正し始めました。1946年から1948年にかけ、数万の人々が処刑されたと見られて居ます。
ベトナム北部
1945年末までには北緯16度線南部のベトナムでは、フランス軍が統治を再開し、ベトナム独立を求めるべトミンとのゲリラ戦が始まりました。ベトナムの共産党が農民から圧倒的な支持を受けることになったのは訳があります。
ベトナムの農業
紅河(またはホン川)がトンキン湾に面する部分にできた大きな三角州は紅河デルタと言われ、豊かな土壌と推理に恵まれていたため古代から稲の二期作が行われていた。
このためベトナムの人口がこの部分に集まり、ベトナムはこの地域を中心に発達してきました。現在でも北ベトナムを代表する大都市ハノイ市とハイフォン市がこの地域にあります。
紅河デルタ(ベトナム)の位置
出典ウィキペディア
フランスによる植民地時代には、人口の2パーセントの地主が全耕作地の52.1パーセントを持ち、自作農の持つ耕地が36パーセントであった為、農民の59.2%は小作人として地主や自作農に雇われて、50%に及ぶ地租を取られていました。1945年フランスから統治権を受け継いだ日本は、終戦間近の食糧難のためベトナムでとれる稲の大部分を強制的に買い上げて国外に持っていたため、終戦までの短い期間に200万人もの餓死者を出してしまいました。
1945年9月2日に独立宣言を出したベトナム民主共和国は、農民に対してフランスや『反動的越奸』(ヴェトナム人の反動分子)の持っていた土地を農民に分け与えたほか、地租を半分の25%に下げ多くの農民の支持を受けました。この方針はベトナム戦争終了まで続けられ、べトミン・ベトコンが農村部で勢力を持ち続けられる元となりました。
北部ベトナムの問題
ベトナム北部に進駐した中華民国(国民党)軍は、大きな問題を抱えていました。
1937年に始まった日中戦争では、敵対していた中国共産党軍と共に日本軍と戦っていました(第2次国共合作)が、1945年8月15日、日本が降伏すると同時に再び敵対するようになってしまいました。
戦時中に中国に武器などを支援していたアメリカの仲介により、1945年8月28日中国共産党の毛沢東と中国国民党の代表の蒋介石が会談を行いました。
43日間にわたる協議を経て、双方は10月10日に「政府と中共代表の会談紀要」に署名した。その日付から「双十協定」と呼ばれている。
重慶会談で祝杯をあげる蔣介石(右)と毛沢東(左)
主な内容は、
- 平和的な建国の基本方針を承認し、一切の紛争は対話によって解決することに同意する。
- 長期に渡って協力し、あくまで内戦を避け、独立し自由で富強な新しい中国を建設し、徹底的な三民主義を実行する。
- 訓政体制を速やかに終わらせ、憲政を実施する。
- 速やかに政治協商会議を開き、国民大会やその他の問題の協議を行った後に新憲法を新たに制定する。
- 中国共産党は蔣介石主席と南京国民政府が中国の合法的な指導者の地位にあることを承認し、南京国民政府は中国共産党が合法的な政党であることを承認する。
引用ウィキペディア
会談を始めるにあたって、中国共産党軍と国民党軍は停戦することになっていました。しかし重慶会談で共産党の立場を強化するために、1945年9月10日から10月12日にかけて中国山西省上党地区(現長治市)内で共産党軍が国民党軍に戦いを仕掛け、国民党軍の11個師団(3万5千人)が全滅してしまう軍事衝突(上党戦役)が起こりました。
そのようなわけで、ベトナム北部に入った国民党軍は日本軍の武装解除の他に、インドシナ共産党を母体とするベトナム民主共和国を潰しにかかりました。また中国軍の進駐と共に、亡命していたベトナム国民党や同盟会などの反共の民族主義者も帰ってきました。
1945年11月11日、ホー・チ・ミンは社会主義の実現より国家統一を優先して、インドネシア共産党を解散してべトミンと合流しました。
1946年1月6日ベトナム最初の総選挙が行われ、ホー・チ・ミンは初代大統領となります。
1946年3月2日、ベトナム最初の国会が開かれ、同盟会やベトナム国民党を含めた「民族連合と抵抗の連合政府」が成立しました。
これに先立ちベトナムの統治を狙うフランスは、1946年2月28日中華民国とホー・サントニー協定を結び、中国でのフランス租借権放棄・雲南鉄道の中国譲渡・ハイフォン港自由化と引き換えに国民党軍は4月以降順次撤退しました。
1946年3月6日、ベトナム民主共和国大統領ホー・チ・ミンとフランスの特使ジャン・サンテニーとの間で予備協定が結ばれ、トンキンとアンナンの自治を認められたベトナム民主共和国は、フランス連合内の自由国として独立を認められる代わりに、フランスはハノイとハイフォンを含む紅河デルタ地帯に1万5千人のフランス軍駐留を許すことになりました。ベトナム南部コーチシナとの統一については、国民投票を行って決めることにしました。(ハノイ暫定協定)。
ホー・チ・ミンはこれにより、戦うことなく18万人に及ぶ中華民国軍の国外退去が出来ることになりました。ホー・チ・ミンはこの間に独立に必要な軍備を整え、フランスは北部ベトナムを侵略するのに必要なハイフォン港とハノイを支配するつもりでした。
1946年3月18日、フランスは予備協定に基づきハノイに軍を進駐させました。
この予備協定は交渉に当たった両者による法的枠組みを決めたものに過ぎず、公式の法的文書ではないため、フランス外務省は、双方の間に公式の条約が締結されるまで批准していません。
1946年4月19日から5月11日まで、7月に行われるフォンテンブロー会談の準備のため、ベトナム南部の避暑地ダラットでベトナム、フランス両国の代表団による予備会談が行われました。
しかしベトナムの完全独立を願うベトナム民主共和国側と、ベトナムの再植民地化を目論むフランスとの間で同意はできませんでした。
ダラットの位置。ダラットは南部山岳地帯にある古くからの避暑地で、バオ・ダイの夏の離宮がありました。
1946年5月31日、ホー・チ・ミンを始めとするベトナム代表団は7月から行われるフォンテーヌブロー会談に出席するためフランスに向かいました。
1946年3月6日の予備協定により、北部ベトナムに駐留したフランスでしたが、南部ベトナムのコーチシナ地方がベトナム民主共和国に併合されるのを防ぐため、フランス政府はベトナム人協力者を擁立しコーチシナ協商委員会を組織し、委員会にベトナムとの統一反対を決議させ、1946年3月26日にコーチシナ共和国臨時政府を樹立させました。ホーチミン一行がパリに向かって出発した翌日の6月1日にフランスの保護国としてコーチシナ共和国を樹立しました。
コーチシナ共和国の領域
出典 ウィキペディア
コーチシナ地方はメコンデルタ地帯にあり、古くから水田による米の栽培が盛んでした。フランス植民地になってからは、ゴムの大規模プラナテーションが発達し、ここで生産される米とゴムはベトナム経済を支える大切な輸出品となりました。
また、タイ、ラオス、ビルマ(ミャンマー)の国境地帯(黄金の三角地帯、ゴールデン・トライアングル)で栽培されたケシの実から作られる阿片の売買でも仏領インドシナ全体の三分の一に及ぶ収益を上げていました。
フランス植民地時代のサイゴンのアヘン工場(Manufacture d’Opium)。この工場はインドシナ全体の予算の 1/3 から 1/2 を供給していました。
出典 Wikipedia
そのため植民地維持を狙うフランスとしては、コーチシナ地方は絶対に手放したくない地域でした。
これはベトナム民主共和国政府から3月6日の予備協定違反だと抗議されましたが、フランスは住民投票が行われるまでの、臨時政府だと主張しました。
同じ6月1日、べトミンは独立戦争の長期化を予想して、近代戦の知識と上級幹部養成のために義勇軍としてべトミンに加わった旧日本軍人を教官とする士官学校を設立しました(クァンガイ陸軍中学)。
6月中頃ホー・チ・ミン一行がフランスに着いたとき、フランスは第2次世界大戦終戦後の臨時政府から、第4共和政に移る最中で新しい憲法作成に向かって国会選挙が繰り返されていて、交渉相手となるフランス政府が決まっていませんでした。
1946年7月6日から9月10日にかけて、フランスのフォンテンブローでベトナムとフランスの代表団との間でベトナムの独立についての会談が行われました。
南北ベトナムの統一とフランスからの完全独立を願うホー・チ・ミン側と、戦後復興のためには植民地としてのインドシナ(特に6月1日に独立させたコーチシナ共和国)を手放したくないフランス側と間で意見の一致が見られず会談は決裂してしまいました。
1946年11月初め、フランスはハイフォン港の税関本部を占領しました。
11月20日、フランスは税関の目を潜り抜けべトミンに渡すための燃料を積んだジャンク船を攻撃し、沈没させました。これに対してベトナムの国家警備隊はフランス人に対して反撃しました。
翌11月21日、フランスはべトミン軍に対してハイフォンから撤退し、都市をフランスに明け渡すように要求しました。
11月23日ベトナム政府はフランスの要求を拒否します。
ジャンク船
出典 世界史の窓
フランス軍のピエール・ルイ・デベス大佐は、ベトナム人にハイフォンのチャイナタウンから出て武器を置くように求める最後通告を送りました。しかし、応答がないためデベス大佐はフランスの軍艦に都市の砲撃を命じました。その後フランス軍は上陸を開始しベトナム政府本部を攻撃しました。この戦いは11月28日べトミンがハイフォンから撤退するまで続き、6000人以上の民間人が犠牲となります。
フランス軍は次々と紅河デルタ地帯の都市を攻略し、12月19日にはハノイに達してベトナム政府に対して、ハノイの明け渡しを要求しました。
1946年12月20日、べトミンは戦闘の末ハノイを明け渡し、農村や山地に撤退します。ホー・チ・ミンはハノイを去る最後にラジオを通して、全ベトナム国民にフランス軍との戦いを呼びかけました。
われわれは平和を切望し妥協を重ねてきたが、妥協を重ねれば重ねるほどフランスはわが国を征服しようとしている。われわれは犠牲を辞さない。われわれは奴隷とはならない。すべての老若男女に訴える。主義主張、政治性向、民族を問わず、立ち上がり、フランス植民地主義と戦い、国を救おう—ホー・チミン抗戦声明
引用ウィキペディア
こうして、8年間にわたって行われた第1次インドシナ戦争が始まりました。
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