1953年7月27日、朝鮮戦争が停戦を迎えたことで、共産主義の拡大を恐れるアメリカは、インドシナ戦争をしているフランスに対して大規模な援助を与えました。フランスもインドシナ戦争での戦費の増大や国民の反対のため、インドシナからの撤退を考え始めました。
戦後の和平交渉を有利に進めるため、フランスはべトミン軍に対して大規模な作戦(ディエンビエンフーの戦い)を、実施します。
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亀仙人2ディエンビエンフーの戦い
1953年1月べトミン軍はタイピン・ホアビンに進出し南への補給路を確保して海岸沿いに南への進出を始め、4月にはベトナム中部のフエ、ダナン、クイニョンを占領します。
1953年4月8日、べトミン軍はナサンを経由して、ラオス国内のサムヌアに進出しました。フランス軍は急遽ラオスの首都ヴィエンチャンに本部を置き、ジャール平原に空挺部隊を降下させて防戦しました。この戦いは5月末雨期に入り、べトミン軍の補給が困難になったことから、べトミン軍がサムヌアに撤退して終わりました。これは、海岸沿いに進軍するべトミン軍を助ける目的がありました。
1953年5月の中部ベトナム
1953年の終わりまでにベトナム北部ではフランス軍は守勢に回り、紅河デルタ地帯を支配するだけになってしまいました。ベトナムの共産化を恐れるアメリカはフランス植民地軍を強化するために、大々的な経済援助を行います。
第1次インドシナ戦争開戦から1953年末までの8年間に、アメリカがフランスに対して行った経済援助は27億ドルでしたが、1954年には1年間だけで13億ドルの経済援助を行いました。
ナヴァール計画
1953年5月7日、アメリカの合意の下、フランスはアンリ・ナヴァール将軍をインドシナに派遣してフランス遠征軍の最高司令官に任命しました。
1953年9月28日、タイム誌の表紙アンリ・ナハリ・ナヴァール
出典 Wikipedia
アンリ・ナヴァールは、のべトミン軍を殲滅するために、2段階の計画を練ります。
- 1954年末までに、フランスの傀儡国家であるベトナム国の軍隊を増強して、ベトナム南部(コーチシナ)と中央部(アンナン)からべトミング軍を追い出し、支配を確立します。
- ベトナム中部と南部を平定した後、全軍をベトナム北部(トンキン)に移動してべトミン軍に大打撃を与え、和平交渉を有利に進めます。
アンリ・ナヴァールは1953年以前には84個大隊のベトナム国軍を増員して、1954年末には2倍の168大隊29,9000名に増やしました。これにフランス軍14,6000名を足すと44,5000名となり、当時のべトミン軍25,2000名をはるかに上回っていました。
さらにアメリカはフランス軍に対して、360機の航空機、1400台の戦車と装甲車、 390隻の軍艦と軍用船、1,6000両の軍用車両を支援していました。ですからフランス軍は正面からべトミン軍と戦えば、楽勝になるはずでした。
これに対してべトミン軍は、ベトナム北部や中央高地、フランス軍に接するラオスやカンボジアの山岳地帯でゲリラ戦を展開しました。山岳地帯の戦いのため、フランス軍は機動力が使えず、さらに広範囲でゲリラと戦うため戦力の分散を強いられてしまい、膠着状態に陥ってしまいました。
1954年の戦争の地図:オレンジ=ベトミンの支配下にある地域。紫=フランスの支配下にある地域。白い点はべトミン軍ゲリラとの戦闘のエリア。上部の赤い楕円で囲まれた場所がディエンビエンフー。
出典 Wikipedia
カストール作戦
1953年11月20日~22日
ナヴァール計画で、大兵力と機動力を駆使してベトナム南部と中央部のべトミン軍を殲滅する予定のフランス軍は、ベトナムからラオス、カンボジアまで広がるべトミン軍のゲリラ活動によって戦力の分散を強いられてしまいました。
これはべトミン軍も同じで、べトミン軍の主力があるベトナム北部からラオス、カンボジアで活躍するゲリラ部隊を支援する物資の補給が重要になってきます。
そこでフランス軍は、ベトナム北部からラオス北部のムオンクアに通じる補給路の入り口にあたるディエンビエンフーに要塞を設け、取り返しに来たべトミン軍を一挙に粉砕する計画を立てました。
ディエンビエンフーはラオスとの国境に近いムオンタイン渓谷にある長さ約20km、幅約5kmの盆地のやや北側の位置にあります。ディエンビエンフーには旧日本軍が使用していた滑走路があり、フランスはこの滑走路を中心に陣地を築きました。
司令官にはクリスティアン・ド・カストリ (Christian de Castries) 大佐が任命されました。
ディエンビエンフーは、ベトナム北部とラオス国内を結ぶ2本の道路の内ムオンクアに通じる道があり(もう一本はナサンとサムヌアとを結ぶ道)、戦略上重要な地点でした。
ディエンビエンフーには旧日本軍が使用していた滑走路があり、フランス軍はハノイとハイフォンから飛行機を使用して物資や人員を補給しました。
べトミン軍は、東と南からディエンビエンフーへの補給路を遮断しながら進撃します(緑色の矢印)。
出典 Wikipedia
1953年11月20日、3個空挺大隊が2回に分けて降下し現地のべトミン軍と交戦しました。さらに21日には後続の3個の空挺部隊も降下し、25日には滑走路を確保し、整備も進んで使用できるようにしました。
滑走路が使用できることで輸送機による空輸が可能となり、陣地を建設し最終的には歩兵17個大隊、砲兵3個大隊、1万6千名にも及ぶ兵力が投入された。司令官にはクリスティアン・ド・カストリ大佐が就きました。これらの部隊には分解して空輸された10両のM24軽戦車の他、24門の105㎜榴弾砲、4門の155㎜榴弾砲も含まれていました。
使用した航空機は、輸送機として100機のC-47ダコタと16機のアメリカのC-119フライングボックスカーが使用されました。
C-119から降下するフランス空挺部隊
出典 Wikipedia
またべトミン軍を攻撃するために、48機のB-26マローダー爆撃機、 F6Fヘルキャット、F8Fベアキャット、F4Uコルセアを含む227機の攻撃機が使用されました。
フランス軍は、滑走路を中心とした3キロの圏内に女性の名前(ベアトリス・フランソワーズ等)を付けた陣地を構築しました。
1954年3月15日、開戦時のディエンビエンフーの陣地
出典 Wikipedia
基本的に陣地は小高い丘の上に築かれ、周囲の村や林を焼き払って展望を良くしてありました。
イザベル陣地だけが離れていたのは、そばに予備の滑走路があった為です。
フランス側の予想では、盆地を取り囲む山岳地帯に有効な輸送手段を持たないべトミン軍は、射程の長い大型の大砲を持ち込めず携帯性に優れた迫撃砲か無反動砲だけであり、陣地に設置した大口径の榴弾砲や、爆撃機や戦闘機の攻撃で十分対処できるはずでした。
べトミン軍は第304歩兵師団、第308歩兵師団、第312歩兵師団、第316歩兵師団、第351工砲師団、計7万人で攻撃します。これはディエンビエンフーに居る、フランス軍の約3.5倍に当たります。
このうち第316師団はディエンビエンフーに向かう途中、後ろから襲われないよう、ライチャウにあるフランス軍の陣地を攻撃し、1953年12月20日、ライチャウのフランス守備隊2.100名の内、ディエンビエンフーにたどり着けたのは180名ほどでした。
べトミン軍は人海戦術で、攻撃開始の3月までに105㎜榴弾砲40門、75㎜山砲20門、120㎜迫撃砲20門、37㎜高射砲36門、12.7㎜対空機関銃100丁などを周囲の山の上に運び上げました。
これらの運搬路は、偵察機から見つからないように山林によってカモフラージュされていました。また兵士の多くは昼間は休んで、夜に移動しました。
大砲をロープで引き上げる引き上げるべトミン軍。
それでもダメな場合は砲身や砲架、車輪などに分解して運びました。
大砲の砲身部分を担いで運ぶ、べトミン兵
出典 vietkon.blog
大活躍した自転車部隊。1台で約200~300㎏の荷物を運び計2万台が動員されました。いざという時には彼等も戦闘に参加します。
山の上に運ばれた大砲は、敵の偵察機に見つからないよう、カムフラージュされました。
出典 vietkon.blog
1954年1月から3月の総攻撃にかけて、何度か小競り合いや爆撃が繰り返されましたが、べトミン軍の大砲はうまく隠されていて、被害はほとんど受けませんでした。
第1回べトミン軍の総攻撃
1954年3月13日17時05分~3月17日
ディエンビエンフー要塞の北部にある3つの陣地(ベアトリス、ガブリエル、アンネ・マリ―)は小高い丘の上に作られ、地下の掩蔽壕や塹壕で囲み、迫撃砲や機関銃火炎放射器などを設置しました。その外側は幅100mに及ぶ鉄条網で囲まれています。丘の周辺の樹木や民家はすべて破壊され、見晴らしがよくなるようにしていました。
ベアトリスの戦い
1954年3月13日夕方、霧が発生しているとの現地司令官からの連絡で、べトミン軍のヴォー、グエン・ザップ総司令官は、フランス軍陣地ベアトリスの攻撃を命じました。
3月13日午後17時、命令と同時に隠し持っていた40門の105㎜榴弾砲が、滑走路とベアトリス陣地に砲撃を始めました。重砲による攻撃を予想していなかったフランス軍陣地は防御が完全でなく、指揮官のゴーシェ中佐は最初の砲撃で戦死してしまい、フランス軍の統制が乱れました。
滑走路では7機の戦闘機が離陸を始めましたが、最初の1機が地上を離れた瞬間に撃ち落され、残りの6機は離陸中に滑走路上で破壊されてしまいました。このため滑走路は使用不可能となりました。
1954年3月13日、ベアトリス陣地の戦い
夜の闇と霧の中、砲撃を突いて手りゅう弾を持ったべトミン兵が敵の塹壕に投げ続け、22時30分ベアトリス陣地を陥落させました。
この戦いでフランスの守備隊750名の内、死傷者300名、捕虜200名を出しました。攻撃に当たったべトミン軍は1500名の内、戦死120名、不使用者200名でした。
1954年3月13日から17日の戦い
出典 Wikipedia
この時使用していた手榴弾はソビエトのRGD-33手榴弾もとにベトナムで作られ、有効範囲は5~25mでした。このため投げた後、身を隠すことなく近くの敵を倒すことが出来ました。ふつう使われている丸形の手榴弾は爆発後破片が飛び散り有効範囲が100~200mあるため、投げた後自分も身を隠す必要があります。
ソビエト製RGD-33手榴弾。
出典 ウィキペディア
手榴弾を作っているベトナム女性たち
出典 vietkon.blog
2つの手榴弾の違いは、こちらの動画に詳しく載っています ↓
翌朝3月14日の朝8時から正午にかけて、両軍とも戦死した遺体の収容のため一時休戦しました。
ガブリエルの戦い
3月14日16時45分、ガブリエル陣地に対してべトミン軍の砲撃が始まりました。フランス軍はC-47輸送機から一晩中照明弾を落とし、視界を確保しました。
べトミン軍は大雨の中フランス軍陣地から700mの近くまで大量の迫撃砲を運びむ、3月15日3時30分一斉砲撃を開始しました。この砲撃は最初の部隊がフランス軍陣地内に到達した、3時55分に停止されました。
3月15日午前6時30分、べトミン軍がフランス軍陣地の上に『勝利の旗』をたて、戦闘は終了しました。
フランス軍は午前4時に現地から応援の依頼を受け、午前5時30分5両の戦車と1000人の応援部隊送りましたが、現地に到着した時には中央の司令部が占領された後でした。
この戦いでの犠牲者は、フランス軍が2000名の内約1000名、べトミン軍は不明ながら3000名の内、数百名が犠牲になったと見られて居ます。
アンネ・マリー
ディエンビエンフーがあるムオンタイン渓谷の盆地は、タイ族の住民が多く住んでいました。この陣地を守っていた部隊は、近隣のソンラやギアロが集めてきたタイ族で編成された第3タイ大隊でした。彼等は3月13日から15日にかけての戦いで、堅く守られていたはずのベアトリスとガブリエルの陣地が陥落したのを、目の当たりにました。
3月16日べトミン軍はアンネ・マリー陣地に居るタイ人に向かって、『明日(3月17日正午)の攻撃開始の前までに、戦闘を辞めてそれぞれの村に帰るよう』スピーカーで呼びかけました。
3月17日朝になると、陣地に居たタイ人たちが一斉に逃げ出し、残ったフランス軍兵士も仕方なく、陣地から撤退しました。そのためべトミン軍は戦うことなく、アンネ・マリー陣地を手に入れることが出来ました。
べトミン軍は4日間の戦いで、ディエンビエンフー要塞の北部にある3つの陣地を陥落しました。
この戦いの後、総司令官のヴォー・グエン・ザップは、人海戦術による総攻撃を改め、塹壕やトンネルを掘り、確実に敵の陣地に近づく作戦に切り替えました。それは隠れる場所のないところでの一斉突撃により、機関銃や迫撃砲の攻撃で多数の犠牲者が出たためでした。
また滑走路の使用を妨害するため、絶え間なく砲撃を続け、着陸しようとする航空機は、べトミン軍の対空砲火により被害を受けるようになりました。
第2回べトミン軍の総攻撃
1954年3月30日~4月30日
次の作戦に備えて、べトミン軍は士官から一兵卒に至るまで手にシャベルを持ち、フランス軍陣地を取り囲むように何本もの塹壕を作りました。
塹壕を掘っているべトミン軍兵士
砲弾が飛びこむのを防ぐため、幅は極端に狭く(50㎝ぐらい)高さは人間の背丈ほどです。また、砲弾が飛び込んでも被害が広がらないようにように、曲がりくねっています。
鉄条網や敵陣地の近くでは、トンネルを掘って進みました。
出典 vietkon.blog
フランス軍も迫撃砲などで対処しましたが、塹壕を掘りながら近づてい来るべトミン軍を防げませんでした。近いところでは目と鼻の先、数メートルの所まで、べトミン軍の塹壕が造られました。
3月30日べトミン軍第312師団がドミニクの第1、第2陣地を占領、同じ日にエリアーヌの第1、第2陣地もべトミン軍第316師団によって占領されました。さらにユゲットの第7陣地も、べトミン軍第308師団の攻撃を受けましたが、防御に成功します。
1954年3月末のディエンビエンフー中央部
出典 Wikipedia
3月31日深夜からフランス軍は予備兵力を投入して、ドミニクの第1陣地、エリアーヌの第2陣地の奪還に成功しました。しかし、予備兵力を使い果たしたフランス軍は、べトミン軍の再度の攻撃でドミニクの第1陣地、エリアーヌの第2陣地を奪われてしまいました。
しかし、この戦いでべトミン軍側も1個連隊が壊滅するほどの大きな被害を受けてしまいました。
ここから先は、両者とも塹壕を隔てての持久戦に突入しました。
戦いが大きく変わったのは4月22日、べトミン軍が滑走路わきにあるユゲットの第1陣地と第6陣地を陥落させてからです。これにより細々と続けられていた、輸送機による空輸が完全に止まってしまいました。
これ以後はパラシュートによる物資の投下に頼ることになりますが、低く飛ぶとべトミン軍の対空砲火で撃ち落とされてしまい、高く飛ぶと風に流されて大切な物資がべトミン軍側に流されてしまいます。それよりも困ったことは、戦死者や負傷者を送り出すことが、出来なくなったことです。ちょうど雨期に当たり、負傷者は水浸しになった塹壕の中で、死を待つだけになってしまいました。
撃ち落とされたフランス軍機
出典 vietkon.blog
風に流されてべトミン軍側に流された物資の中で、一番助かったのは大砲の砲弾で、この戦いを通じて5500発以上の砲弾がべトミン軍に渡りました。当時べトミン軍が使用していた大砲は、中国の共産党軍がアメリカの援助を受けていた国民党軍から鹵獲した105㎜砲で、フランス軍側もアメリカからの軍事援助で同じ大砲を使っていました。
第3回べトミン軍の最終攻撃
1954年5月1日~5月7日
A1の丘の戦い(エリアーヌの第10陣地近く)
A1の丘には古い屋敷がありましたが、旧日本軍はこの屋敷を接収し、地下にあった石づくりのワイン貯蔵庫を強化して司令部として使用していました。
その後小屋敷は取り壊され、地下の貯蔵庫は上に土をかぶされ、外部との接続は、屋敷を取り壊した際に残った石材やレンガを使用した、丈夫なトンネルで接続されました。
4月初めのべトミン軍による第2回目の総攻撃で砲撃を受けましたが、大した被害を受けず残っていました。
上から見たA1の丘。 A1の丘は長さ200m、幅80m地上49mの丘です。
右側にあるすり鉢状の窪みが、指揮所のあった場所。指揮所を取り囲む塹壕が見える。
左側の中央にある黒く細長い部分は、指揮所に続くトンネルの入り口。
べトミン軍は指揮所の真下までトンネルを掘り、1トンの爆薬を仕掛けて爆破しました。
出典 dienbien tv
そのためべトミン軍は指揮所の地下にトンネルを掘り、地下に爆厚物を仕掛け爆破する計画を立て、4月20日からトンネルを掘り始めました。
1954年5月1日べトミン軍第312師団と第316師団がフランス軍の東側、第308師団が西側から総攻撃を開始しました。5月1日夜にはエリアーヌ第1陣地が陥落し、2日夜にはドミニク第3陣地、ユゲット第5陣地も陥落しました。4日夜にはクロディーヌ第4陣地も陥落します。
5月6日20時30分、A1の丘で仕掛けた爆破が成功して、5月7日朝にはエリアーヌ第1、第4、第10陣地が陥落しました。
google mapからの画像
A1の丘からフランス軍のディエンビエンフー陣地の総司令部まで、ナムロム川をはさんで数百メートルの距離です。
A1の丘を制圧した後べトミン軍は全軍をあげて、フランス軍のディエンビエンフー陣地総司令部を攻撃しました。
1954年5月7日午後5時30分、フランス軍総司令部は陥落し、55日間にわたるディエンビエンフーの戦いは終了しました。
この戦いにおける被害者は、ウィキペディアによると
べトミン軍 戦死 8,000名 負傷者 15,000名
フランス軍 戦死 2,293名 負傷者 5,195名 捕虜 11,721名
でした。
捕虜収容所に向かうフランス兵。
出典 Wikipedia
フランス軍捕虜の内7.708名が囚われの身で死亡しました。死亡の原因は主食がニョクナム(ヌクマム、魚醤)で味付けした握り飯のため、栄養失調や病気で死んだとされています。2004年にベトナムで作られた映画『インドシナ激戦史1954 〜要塞ディエン・ビエン〜』を見ると、ディエンビエンフーで戦ったべトミン軍兵士の食事も、同じニョクナムで味付けされた握り飯だけでした。ただ、量は十分にあったようです。
ジュネーブ協定
1953年3月5日、ソ連のスターリンが死亡したことで東西両陣営間の緊張を緩和しようとの動きがへ始まりました。
1953年7月27日、朝鮮戦争で共産主義陣営を主導してきた毛沢東も金日成の望みをとり入れ、北朝鮮・中国両軍と国連軍との間で休戦協定が結ばれました。
続いて1954年1月25日から2月18日にかけて米・英・仏・ソの各国外相で会議が行われ、4か国で占領していたドイツとオーストリアの問題が話し合われました。この会議では、両国が中立国となればソ連は撤退するとの提案が出され、これにより1955年オーストリアは永世中立国の宣言を出し、ソ連が撤退して独立が認められました。ただドイツに関しては中立の合意が得られませんでした。
この後イギリスのアンソニー・エデン外相によって、進行中のインドシナ半島についての和平会議を1954年4月にジュネーブで開くことが決定しました。
1954年4月26日、スイスのジュネーブにフランス、アメリカ合衆国、イギリス、ベトナム国、カンボジア、ラオス王国、ベトナム民主共和国(ヴェトミン)、ソビエト連邦、中華人民共和国の代表が集まり、インドシナ和平会談が開始されました。
しかし始まってすぐ、会議は自由主義陣営と共産主義陣営との間の対立で、足踏み状態となりました。
ジュネーブ会議
出典 Wikipedia
1954年5月7日ディエンビエンフーの戦いでフランスが大敗したことから、6月18日フランスの植民地政策を進めていたラニエル政権が崩壊し、新たに植民地政策に対して反対し続けていたピエール・マンデス・フランスが首相に就任しました。マンデス・フランスは1カ月以内にインドシナ半島からの撤退を公約し、その実行を推し進めました。
ソ連も社会主義のマンデス政権を強化するために、フランスのベトナムからの撤兵を成功させたいと考えていました。
ベトナムと国境を接している中国も、このまま紛争が続きフランスを援助しているアメリカと直接対決することは避けたいと思っていました。
べトミン軍も、ディエンビエンフーの戦いでフランス軍にも負けないぐらいの大きな損失を出しており、ハノイまで一挙に攻め込むのは不可能な状態でした。
そして何より、インドシナ半島の共産化を何としても抑え込みたいアメリカの支援を受けているベトナム国(南ベトナム)と戦うのは無理でした。
ベトナム南部の大半を支配できていたベトナム民主共和国(北ベトナム)でしたが、ソ連と中国の忠告を受け、北緯17度線に沿って設けられた軍事境界線以南に展開していたべトミン軍を引き上げ、ベトナム南部の統治はベトナム国が行うことに同意しました。
またラオスとカンボジアの独立が認められたことから、ラオスとカンボジアの独立支援のため両国に入っていたべトミン軍も引き上げることになりました。
フランス軍もベトナム、ラオス、カンボジアから撤退することにしました
ベトナム全土の統一を願っていたベトナム民主共和国でしたが、2年後の1956年7月にベトナム統一を問う国民投票を行うことで決着しました。
1954年7月21日会議は
1.インドシナ諸国(ベトナム、カンボジア、ラオス)の独立
停戦と停戦監視団の派遣
2.ベトミン軍の南ベトナムからの撤退とフランス軍の北ベトナム、カンボジア、ラオスからの撤退
3.ベトナムを17度線で南北に分離し、撤退したベトミン軍とフランス軍の勢力を再編成した上で、1956年7月に自由選挙を行い統一を図る事で合意し、和平協定が成立しました。
協定の結果、分断されたベトナム
出典 ウィキペディア
しかし、参加国の内アメリカとベトナム国はこの決定に調印しませんでした。
この為1956年7月に行われる筈だった統一のための自由選挙は行われず、ベトナム民主共和国はベトナム統一を目指し、南ベトナムとその援助をしているアメリカと戦うことになりました。
第1次インドネシア戦争に関係する記事はこちら ↓
フランス軍が撤退した後、アメリカが南ベトナムで影響力を強化した経緯についてはこちらをご覧ください ↓