1954年7月21日のジュネーブ協定により、2年後1956年7月に南北両ベトナムで自由選挙を行い統一を図ることになりました。ホーチミンの下で固い結束を誇る北ベトナムに対して、フランスという強力な後ろ盾を失ったパオ・ダイを元首とするベトナム国はすっかり力を失い南ベトナムは混乱状態になっていました。そこで親米派で反共主義者であるベトナム国首相ゴ・ディン・ジェム(アイキャッチと画像の人)を担ぎ出して、1955年10月26日ゴ・ディン・ジエムを初代大統領とするベトナム共和国を成立させました。
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亀仙人2ベトナム国からベトナム共和国へ
1954年7月21日のジュネーブ協定により、2年後の1956年7月に南北ベトナムで国民投票を行い、南北どちらに統一するか決めることになりました。ベトナム全土の共産化を阻止したいアメリカとしては、2年後の投票までに南ベトナムの政情を安定させる必要がありました。
そこで熱心なカトリック教徒で反共主義者のゴ・ディン・ジェムを、当時南ベトナムを支配していたベトナム国の皇帝バオ・ダイのもとにおくり、首相に就任させ政治改革を行わせることにしました。
ゴ・ディン・ジェム
ゴ・ディン・ジェム、後のベトナム共和国初代大統領
出典 ウィキペディア
ゴ・ディン・ジェムは1901年1月3日、ベトナム北中部のクアンビン省で生まれました。彼の父親の呉廷可(ゴ・ディン・カ)は阮朝(げんちょう)の高級官吏、尚書(しょうしょ、日本の太政官に当たる)を務めていました。呉廷可の一族は熱心なカトリック信者でありゴ・ディン・ジェムは彼の9人兄弟の3男として誕生しました。兄のゴ・ディン・トゥックは後にフエの大司教を務めています。
ベトナム・クアンビン省の位置
1921年、ゴ・ディン・ジェムはハノイにあるハウボー学校(行政官養成学校)を首席で卒業し、阮朝の官僚としてスターを切りました。
その後も順調に昇進を続け、1929年にはビントゥアン省の知事に任命されました。
1932年、長年フランスに留学していた阮朝のバオ・ダイ帝(保大帝)が帰国し、翌1933年4月8日にバオダイ帝はフランスからの自立を図り、学会および行政府から5人の新しい閣僚を任命しました。このときゴ・ディン・ジェムは阮朝の内務大臣に指名されました。
バオダイ(本名グエン・フク・ヴィン・トゥイ)
出典 ウィキペディア
1932年ベトナムに帰国した当時のバオダイ帝
出典 ウィキペディア
ゴ・ディン・ジェムは行政改革委員会の委員長として、フランス保護領政府に対して規模の縮小(例えばベトナムの税金はすべてフランス保護両政府が集め、阮朝の経費はフランスから渡されていました)と、旧来の中国式の官僚制度を西洋式の統治制度に変えるよう進言しました。しかし、この提案はフランスの怒りを買うと皇帝の地位を失うことを恐れたバオダイ帝に受け入れられませんでした。
1933年7月12日、ゴ・ディン・ジェムはバオダイ帝を「フランスの手にある道具に過ぎない」と非難し、内務大臣の地位を辞任しました。
大臣を辞任した後、ゴ・ディン・ジェムは故郷のフエに戻り一般人として暮らしていました。
その後、日本に亡命中のクオン・デ王子を密かに支援し、ベトナムに新政府を立てる運動に加わりました。
1945年3月9日、1944年8月に行われた連合軍のパリ解放により日本と協力関係にあったフランスのヴィシー政権が崩壊したことで、当時インドシナに駐留していた日本第38軍がフランス総督府を襲い、フランスに代わりインドシナの支配権を握りました(明号作戦)。
インドシナを支配することになった日本ですが、ラオスとカンボジアの独立は認めましたがねベトナムに対してはフランスの傀儡国家である阮朝に変わって、阮朝の元皇帝バオダイを立て、1945年3月11日ベトナム帝国を設立しました。このときゴ・ディン・ジェムはベトナム帝国の首相になるように誘われましたが、断ってしまいました。
1945年8月15日<日本はポツダム宣言の受諾を表明し、第2次世界大戦は終了しました。2日後の8月17日、ホーチミンに指導されたベトミンが全土で総蜂起(ベトナム8月革命)を起こし、8月30日フエにいたバオダイ帝は「退位勅書」を発してベトナム帝国皇帝の退位を宣言しました。これにより長く続いていた阮朝は終わり、ベトナム民主共和国の独立宣言が出されました。退位した元皇帝のバオダイ(本名グエン フック ビン トゥイ)は、ホーチミンの要請により、最高顧問としてベトナム民主共和国の政権に加わることになりました。
1945年9月、ホー・チ・ミン大統領とともにベトナム民主共和国の最高顧問として就任したバオ・ダイ。
左、ベトナム民主共和国大統領ホー・チ・ミン。右、元ベトナム帝国皇帝バオ・ダイ
出典 Wikipedia
1946年1月6日、元バオダイ帝は本名のビントゥイの名前でベトナム民主共和国の初代国会議員に選出されました。
1946年3月16日、ビントゥイ(元バオダイ帝)は中国を訪問するベトナム民主共和国の代表団に加わり、重慶を訪問しました。その後3月18日代表団を離れ、イギリスの植民地であった香港に亡命しました。
香港亡命後も、ベトナム民主共和国政府はバオダイに対して生活費を送り続けていましたが、元々派手な生活が好きなバオダイは、カジノやクラブなどで放蕩三昧な生活を続けたため、財産を使い果たしてしまいました。
そこに目をつけたのがフランス情報機関で、フランスはバオダイに対して毎月5000香港ドルの提供を持ちかけました。
バオダイはこの申し出を受け、ベトナム民主共和国政府に「最高顧問」の職を辞任する手紙を送りました。
フランスからの豊富な資金を受けたバオダイは再び放蕩三昧の生活に戻りました。
第1次インドシナ戦争
第2次世界大戦後、ポツダム宣言で認められた通り、フランス軍が再統治のためベトナムに進駐してきました。第2次世界大戦中ドイツに占領されていたフランスは、国土復興のためベトナムの再植民地化を図り、独立宣言を出していたベトナム民主共和国軍と対立しました。
1946年11月20日、ベトナム北部でベトミン(ベトナム民主共和国軍)に渡すガソリンを積んだジャンク船(現地の人が使用する大型帆船)を拿捕、沈没させました。
ジャンク船
出典 世界史の窓
これが元で、ハイフォン港で、フランスとベトミンの戦いが始まり、11月28日フランス軍がハイフォン占領しました。
フランス軍はさらに進軍を続け、12月19日にはベトナム民主共和国の首都ハノイに到達し、ベトに無政府に対してハノイの明け渡しを求めました。12月20日、ホーチミンはハノイを去るに当たって、ラジオで
われわれは平和を切望し妥協を重ねてきたが、妥協を重ねれば重ねるほどフランスはわが国を征服しようとしている。われわれは犠牲を辞さない。われわれは奴隷とはならない。すべての老若男女に訴える。主義主張、政治性向、民族を問わず、立ち上がり、フランス植民地主義と戦い、国を救おう。
引用 ウィキペディア
との声明を流し、第1次インドシナ戦争が始まりました。
ベトナム国
1945年9月2日日本が降伏文書に調印し休戦協定が結ばれると、ポツダム宣言によりベトナムでは北緯16度線を境に、南部はイギリス軍、北部は蒋介石の中華民国軍が旧宗主国であるフランス軍が進駐するまで、旧日本軍の武装解除や連合国捕虜の解放およびその支援に当たることになりました。
同じ日ホーチミン率いるベトナム民主共和国が独立宣言を出し、ベトナム全土の領有を主張し、ベトナム南部でイギリス軍と小競り合いを起こしました。
進駐してきたイギリス軍は解放したフランス軍も入れても戦力が足りず、武装解除する予定の旧日本軍も加わり、ベトナム民主共和国軍(ベトミン)と戦いました(マスタードム作戦)。
詳しくはこちらをご覧ください ↓
ベトナム北部では別の問題が起きていました。
北部では、旧日本軍の武装解除のために、中華民国は18万人もの軍隊を送ってきました。しかもその全員が中国本土で毛沢東率いる共産党軍と対立している、反共産主義者たちです。
当然ながら彼らは、ベトナム共産党主体のベトナム民主共和国に対して攻撃を始めました。
困り果てたホーチミンはフランス軍に対して、ベトナム北部への進駐を認める声明を出しました。ポツダム宣言では中華民国軍は日本軍の武装解除が終わり、フランスが進駐した後は中華民国軍はベトナムから撤退することになっていたからです。
1946年2月28日、フランスは中華民国とホー・サントニー協定を結び、中国でのフランス租借権放棄・雲南鉄道の中国譲渡・ハイフォン港の関税自由化と引き換えに国民党軍は4月以降ベトナム北部から順次撤退することになりました。
1946年3月6日、フランス共和国政府代表のジャン・サントニーとベトナム民主共和国政府代表のホー・チ・ミンおよびブー・ホン・カーンの間で仏越予備協定が調印されました。
協定の主な内容は次の通りです。
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フランス政府は、ベトナム民主共和国を、独自の政府、議会、軍隊、財政を持つインドシナ連邦内およびフランス連合内の自由国として認めます。
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ベトナム民主共和国政府は、日本人の武装解除の任務を遂行するため、 20万人の中国国民党軍に代わって1万5千人のフランス軍を北に派遣することに同意した。フランスは5年以内に全軍を撤退させ、毎年3,000人の軍隊を撤退させると約束した。
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フランスは、ベトナム民主共和国との統一についてコーチシナで住民投票を実施することに同意した。
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両国は停戦を実施し、軍隊を現在の位置に留めて、将来のインドシナ政権、ベトナム民主共和国と諸外国との外交関係、経済的・文化的利益について交渉した。
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フランス軍はベトナム人民軍の支援と訓練を担当します。
引用 wikipedia
3月18日、フランスはこの合意により、ベトミンや中華民国国民軍と戦うことなしに、ベトナム北部に軍を駐留させることができました。
この予備協定は交渉に当たった両者による法的枠組みを決めたものに過ぎず、公式の法的文書ではないため、フランス外務省は、双方の間に公式の条約が締結されるまで批准していません。
1946年4月19日から5月11日まで、7月に行われるフォンテンブロー会談の準備のため、ベトナム南部の避暑地ダラットでベトナム、フランス両国の代表団による予備会談が行われました。
しかしベトナムの完全独立を願うベトナム民主共和国側と、ベトナムの再植民地化を目論むフランスとの間で同意はできませんでした。
1946年5月31日、ホーチミンはフォンテーヌブローで行われる本調印のための会議に出席するため政府代表団とともに、バリに向けて出発しました。
3月6日の予備協定により、北部ベトナムに駐留したフランスでしたが、南部ベトナムのコーチシナ地方がベトナム民主共和国に併合されるのを防ぐため、フランス政府はベトナム人協力者を擁立しコーチシナ協商委員会を組織し、委員会にベトナムとの統一反対を決議させ、1946年3月26日にコーチシナ共和国臨時政府を樹立させました。ホーチミン一行がパリに向かって出発した翌日の6月1日にフランスの保護国としてコーチシナ共和国を樹立しました。
コーチシナ共和国の領域
出典 ウィキペディア
コーチシナ地方はメコンデルタ地帯にあり、古くから水田による米の栽培が盛んでした。フランス植民地になってからは、ゴムの大規模プラナテーションが発達し、ここで生産される米とゴムはベトナム経済を支える大切な輸出品となりました。
また、タイ、ラオス、ビルマ(ミャンマー)の国境地帯(黄金の三角地帯、ゴールデン・トライアングル)で栽培されたケシの実から作られる阿片の売買でも仏領インドシナ全体の三分の一に及ぶ収益を上げていました。
そのため植民地維持を狙うフランスとしては、コーチシナ地方は絶対に手放したくない地域でした。
フォンテーヌブロー会議の舞台となった、
フランスのセーヌ・エ・マルヌ県のフォンテーヌブロー城
出典 Wikipedia
1946年7月6日から始まったフォンテーヌブロー会議ですが、開始早々から2つの点でベトナム側とフランス側で大きく見解が分かれました。
その1が、ベトナム民主主義共和国の自治権は認めるが、あくまで旧フランス植民地が加入しているフランス連合内に留めたいフランス側と、フランスからの完全独立を求めるベトナム側。
その2が、トンキン・アンナン・コーチシナを含むベトナム全土の統一を望むベトナム側に対して、6月1日に樹立したコーチシナ共和国を除いた2地域に限定したいフランス側。
この2つの点で、最後まで意見が合わず、9月10日にフォンテーヌブロー会議は協定不成立のまま終了しました。
この後駐留していたフランス軍が、ベトナム民主共和国の首都であるハノイを占領し、第1次インドシナ戦争が始まったのは先に書いた通りです。
1947年5月、民族主義や反共産主義の政党及びカソリックや仏教、ベトナム南部に勢力を持つ新興宗教団体が協力して統一国民戦線が結成され、香港を訪れた代表団はバオダイと面会し、中央政府を樹立してベトナムの独立についてフランスと交渉するよう説得しました。
また香港で亡命生活しているバオダイに資金を提供してきたフランスも、ベトナムに帰国するよう求めました。
1947年12月7日ハイフォン港に隣接するハロン湾に停泊するフランス軍艦上で、バオダイとフランスは交渉してフランス連合内でベトナム国家を樹立することに合意し、ハロン湾予備条約に署名しました。しかし、この条約では新国家の国旗と、国歌が定められただけで具体的な内容が何も決められていなかったため、ゴ・ディン・ジェムやバオダイを支持していた統一国民戦線から非難されてしまいました。
パオダイは味方だと思っていた統一国民戦線から批判されたことでフランスとの交渉を打ち切り、ヨーロッパに旅立ってしまいました。
バオダイとしては香港でカジノ通いをしている享楽的な生活に慣れきってしまったため、いまさら国王になり戦争中のベトナムに戻ってホーチミンのべトミン軍と戦う気はなかったと思われます。
1948年1月、フランスの高等弁務官(インドシナ総督)E.ボラールはスイスのジュネーブでバオダイと会見し、ベトナムに戻るよう説得しました。
バオダイは新たに設立するべトナム国民国家について、更に詳しい内容を補足しない限り帰国しないと宣言し、フランスやモナコで外遊を続けました。
1948年5月27日、コーチシナ共和国首相のグエン・バン・スアンはフラナス領のトンキンとアンナンを含むベトナム暫定中央政府を設立しました。かってバオダイに中央政府樹立を持ちかけた、ベトナム統一国民戦線もこれを支持しました。
1948年6月5日、バオダイはハロン湾に停泊しているフランス軍艦で、フランス高等弁務官ポラール及びベトナム暫定中央政府を立ち上げたグエン・バン・スアンと共に、ベトナム国民政府樹立について会談しました。この会談で フランスはベトナムの独立を承認し、ベトナムはフランス連合に参加します。ベトナムはフランスの利益を尊重し、民主主義原則の尊重を確保し、内政や経済組織の必要がある場合にはフランスのコンサルタントや技術者を優先的に活用する。政府樹立後、ベトナム代表はフランスと交渉し、文化的、外交的、軍事的、経済的、財政的、技術的な協定に署名することになりました(ハロン湾条約)。
これにより、かってベトナム民主主義共和国の首都であるハノイにおいてベトナム中央政府が成立しました。初代首相にはコーチシナ自治共和国元首相のグエン・バン・スアンが就任しました。
1948年6月14日、フランスはバオダイをベトナム国家元首として正式に承認しました。これによりベトナム臨時中央政府の首相はバオダイが就任し、グエン・バン・スアンは副首相となりました。
また植民地を失いたくないフランス人は、フランス高等弁務官ポラールの決定に反対し、コーチシナを他の2地域から切り離し、もとの植民地に戻すよう要求しました。
バオダイは再びヨーロッパに戻り、フランスがコーチシナの植民地体制を破棄し、ベトナムに戻さない場合はベトナムに帰国しないと伝えました。
1949年3月8日、フランス大統領ヴァンサン・オリオルとバオ・ダイ元皇帝はエリゼ協定に署名し、バオ・ダイを首長とするベトナム国と呼ばれるベトナム政府をフランス連合内に樹立した。バオ・ダイはフランスにコーチンシナをベトナム国に 引き渡すよう要請し、フランスはこの要請を受け入れた。
1949年4月23日、コーチシナではコチンシナは16人のフランス議員と48人のベトナム議員を選出する国民議会選挙を開始した。この国会は「コーチンシナ共和国」を終わらせてベトナムと統一することを決議しました。
1949年4月24日、バオダイは帰国しました。
1949年5月22日、フランス国民議会はコーチシナをベトナム国に併合することを、正式に承認しました。
1949年7月1日、首相令第1-CP号に基づきベトナム国家臨時政府(通称ベトナム国、国会と憲法を持たないため臨時政府となります)が設立され、バオ・ダイを国家元首に、グエン・バン・スアン中将を首相兼国務大臣に任命した。首都は元コーチシナ共和国の首都であるサイゴンにおきました。政体としてはバオダイが全権力を握る絶対王政でしたが、実際にはフランス高等弁務官が事務所がベトナム国の財政、貿易、軍事、外交政策を管理しました。
ここで世界の情勢が大きく変わってきました。
1949年10月1日、中国本土で長いこと蒋介石が率いる国民党軍と戦ってきた毛沢東の共産党軍が勝利を確実なものとして、共産主義国家、中華人民共和国の建国を北京で宣言しました。
1950年1月、中華人民共和国がベトナム民主共和国の国家承認を行い、武器援助を約束しました。続いてソビエト連邦も承認し、同じく武器援助を始めます。その1週間後、アメリカとイギリスはバオダイのベトナム国の国家承認をしました。
中国から送られてきた武器は、それまで戦ってきた国民党軍から鹵獲したもので、当時国民党軍はアメリカから大量の武器を供給されていたので、それまでゲリラ戦を主体としてしたべトミン軍は、最新のアメリカ製兵器を装備する近代的な部隊と変貌しました。
1950年6月25日、ソ連の援助を受けていた朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)が、38度線を超え朝鮮半島南部に侵攻して朝鮮戦争が始まりました。
共産主義勢力の拡大を恐れたアメリカは、ベトナムに対して1000万ドルの資金援助と、1億5000万ドル相当の軍事援助を行いました。アメリカによるベトナム介入の始まりです。
第2次世界大戦後のゴ・ディン・ジェム
第2次世界大戦後ゴ・ディン・ジェムは元バオダイ帝(バオダイは一時ホーチミンの下で、最高顧問や国会議員を務めていた)の補佐官をしていましたが、バオダイが香港に亡命したため故郷に帰り、知り合いで民族主義者のべトミン指導者たちにホーチミンを捨てて、自分たちとベトナム独立のために戦うよう説得していました。当時のべトミンは全員が共産主義者ではなく、フランスの植民地政策に反対して、ベトナム人による独立を目指す民族主義者も大勢いました。
1949年、彼は兄のゴ・ディン・トゥク司教と弟のゴ・ディン・ヌーとともにカトリック社会党を設立し、ベトナム人によるベトナムの独立を訴えました。しかしこのことにより、ベトナム全土の支配を狙うべトミンと、ベトナムの再植民地化を企てていたフランスの両方から狙われることになりました。
1950年彼はべトミンから暗殺されそうになり、日本に逃げ元阮朝のを立ててベトナム民族の独立運動をしようとしましたが、1951年4 月 6 日、クオン・デ王子は東京で肝臓癌のため亡くなりました。
同時に連合国最高司令官(GHQ)ダグラス・マッカーサー将軍に、ベトナム独立の支援を求めましたが、丁度朝鮮戦争が始まった時であり無視されてしまいました。
その後1951年から2年間にわたり、アメリカのニュージャージー州のレイクウッド神学校とニューヨーク州のオシニング神学校で学ぶ傍ら、現地のカトリック教会の大立て者、フランシス・スペルマン 枢機卿の仲介によりアメリカの政府要人と会うことが出来ました。ゴ・ディン・ジェムはアイゼンハワー大統領には会えませんでしたが、次の大統領となるジョン・F・ケネディ上院議員(彼もカソリック教徒でした)、後の駐日大使マイク・マンスフィールド上院議員、ベトナム独立を渋るフランスを批判していたウォルター・ジャッド下院議員、ウィリアム・ダグラス最高裁判事、戦略活動局の初代長官ウィリアム・ドノバンなどに逢いベトナムの独立支援を訴えることが出来ました。
1953年1月20日、朝鮮戦争の早期解決を公約にしていたドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワーがアメリカ大統領に就任しました。
ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワー大統領
1959年5月
出典 ウィキペディア
1953年7月27日、アイゼンハワー大統領は公約通り、「最終的な平和解決が成立するまで朝鮮における戦争行為とあらゆる武力行使の完全な停止を保証する」朝鮮戦争の休戦協定を成立させました。
しかしこれは中国とソ連による、ベトナム民主共和国軍(ベトミン)への武器援助を活発化させ、北ベトナムにいるフランス軍を圧迫させることになりました。
これに対して、アイゼンハワー大統領、ニクソン副大統領(後のアメリカ大統領)、ダレス国務長官の3人はそろってもしベトナムが共産化してしまうと隣国のラオスとカンボジアも共産国となり、やがてインドシナ半島全体が共産化の波にのまれて、その影響はインドネシアやインドにも及ぶと訴え(ドミノ理論)、インドシナで戦っているフランス軍への軍事支援の増額を決定しました。
ドミノ理論のイメージ
中国から始まった共産化は、放っておくと東南アジア全体に広がる恐れがあるため、ベトナムで食い止めなくてはならないとして、アメリカ軍のベトナム介入の正当性を説明するたとえとして用いられました。
出典 ウィキペディア
アメリカ政府はフランス軍を強化するために、1953年だけでフランス軍の軍事費の78%に当たる13億ドルもの軍事援助と、ベトナム国軍を訓練するための軍事顧問団400名の派遣を決断しました。
ディエンビエンフーの戦い
1953年11月、ベトミンの武装強化に対してフランス軍は中国との国境に近い盆地ディエンビエンフーに、一大要塞を築いて周囲のベトミン軍をおびき出し殲滅させる作戦を立てました。
ディエンビエンフーには旧日本軍が使用していた滑走路があり、フランすぐ区は空軍力を駆使して、大砲や戦車を運び入れ総勢2万人の大要塞を作り上げました。
フランス軍の目論見では、輸送手段の乏しいベトミンは、重い大砲を山を越えて運ぶことは不可能であり、携帯型の迫撃砲やロケット砲による攻撃には対応できると考えていました。
ところがベトミン側は何ヶ月もかけて人海戦術で分解した大砲を、要塞を囲む山の上に運び上げていました。
1954年3月13日、要塞を囲む山々からベトミン軍の一斉砲撃が始まりました。山の上にいるベトミン軍からは要塞の様子はよく見えますが、下からは森に隠されている大砲に位置がよくわかりませんでした。そのため一方的に撃たれてしまいました。
また肝心の空輸も低く飛んだり着陸しようとすると、運び上げた高射砲や対空機銃に撃たれてしまうため、高空からの落下傘で投下するしかなく、その多くはベトミンの手に渡ってしまいました。
このため1954年5月7日、フランス軍は戦死者2293名、負傷者5195名、ベトミン軍への捕虜11721名を出し降伏しました。
ディエンビエンフーの戦いの詳しい解説はこちらに書いてあります ↓
ディエンビエンフー陥落のニュースを受けて、フランス本国ではお金ばかりかかる割には、大して成果も上げられず多くの犠牲者を出すフランス軍のインドシナ派遣に反対する声が大きくなりました。
1954年6月19日、1950年から一貫してフランスの植民地政策に反対していたマンデス=フランスが、首相に就任しました。マンデス=フランスは就任演説で30日以内にインドシナ戦争を終結し、フランス軍を撤退させることを宣言しました。
これに驚いたのがアメリカでした。1954年4月26日からスイスのジュネーブで関係各国が集まって、インドシナ和平会議が始まっていたのです。
ホーチミン率いるベトナム民主共和国に対して、フランスとともに支援していたベトナム国の国家主席であるバオダイは、政務はすべてフランス高等弁務官事務所に任せて、本人はヨーロッパ各地で遊び歩き、地中海沿岸のカンヌでは「カジノの皇帝」「ナイトクラブの皇帝』と呼ばれるほどのプレーボーイぶりを発揮していました。このままフランスがベトナムから撤退してしまうと、共産主義のベトナム民主共和国に対抗するために建国した肝心のベトナム国が、崩壊してしまいます。
1954年6月16日、バオダイ国家主席はフランスでゴ・ディン・ジェムと会談して、新たな政府に完全なる政治的・軍事的な権力を持たせることを条件に、首相になるためベトナムに帰国するよう説得しました。
1954年7月7日、ゴ・ディン・ジェムはこの条件をのみ、ベトナム国の首相に就任しました。
2週間後の1954年7月21日、スイスのジュネーブで開かれていたインドシナ和平会議は、
- インドシナ諸国(ベトナム、カンボジア、ラオス)の独立
- 停戦と停戦監視団の派遣
- ベトミン軍の南ベトナムからの撤退とフランス軍の北ベトナム、カンボジア、ラオスからの撤退
- ベトナムを17度線で南北に分離し、撤退したベトミン軍とフランス軍の勢力を再編成した上で、1956年7月に自由選挙を行い統一を図る
ことで合意に達し、ジュネーブ協定が成立しました。
ベトナム共和国の誕生
ゴ・ディン・ジエムの首相就任
ゴ・ディン・ジェムは過去数回にわたり国家元首バオダイからの首相就任要請を断ったため(民族主義者のジェムは、フランスの傀儡政権であるバオダイ政府への参加を嫌っていました)、首相になったものの政権内部に何も政治的基盤を持っていませんでした。
またバオダイを始めとする政府首脳たちも。政治はフランスのインドシナ総督府に任せっきりになっていたため、親フランス派が多く、フランスからの完全独立を目指すジェム首相に対して反感を持っていました。
それは軍部も同じで、ベトナム国軍がフランス軍によって創設されたことで、ジェム首相に対して非協力的でした。
ベトナム国民の8割が仏教徒であり、さらに信者100万人を超す新興宗教カオダイ教(高台教)やホアハオ教(道和好)もそれぞれに私兵を持っており、カトリック教徒のジェム首相に反発していました。
1954年7月のジュネーブ会議によってベトナムが南北に分かれた後、300日間のベトナム南北間の移動が認められていたため、共産主義のベトナム民主共和国による迫害を逃れて90万人ものカトリック教徒たちが難民として、同じカトリック教徒のジエム首相の保護を求めてベトナム南部に非難してきました。
ゴ・ディン・ジェム首相は彼らが強い反共産主義者であることから、食料や住居農具を提供してメコンデルタ西部の肥沃で人口の少ない地区へ移住させたり、灌漑用水や堤防の建設などの公共事業に積極的に採用して、生活の安泰を図りました。これらの行いはベトナム北部から逃げてきたカトリック教徒だけでなく、ベトナム南部に住んでいたカトリック教徒にも好感を持たれ、ジェム政権を支える強力な支持団体となりました。その反面。ほかの宗教を信じている信者たちの反発を招くことになりました。
アメリカは1956年7月に行われる南北ベシナムの再統一選挙に対して、ゴ・ディン・ジェム首相が北のベトナム民主共和国間に対抗できる強力な反共産主義国家を樹立し、国会を選挙し、憲法を起草し、自由世界に属する民主主義的な政府の設立を求めました。
グエン・バン・ヒン将軍によるクーデター計画
1954年9月初旬、フランスからの影響力を減らそうと考えていたジエム首相は、ベトナム国軍創設から参加している参謀総長のグエン・バン・ヒン将軍(彼はフランス国籍を持っており、1936年フランス空軍に入り、ドイツによるフランス占領からは、自由フランス軍の空軍パイロットとしてドイツと戦った英雄でした)の更迭を考えていました。ジェム首相は、グエン・バン・ヒン将軍に6ヶ月の海外視察を命じました。ジエム首相は、この間にグエン・バン・ヒン将軍に変わる新たな参謀総長を任命して、軍を掌握する予定でした。
1954年9月20日、それを知ったグエン・バン・ヒン将軍はクーデターを起こすことを計画しました。当時のジェム政権には、軍のクーデターに対抗できる武装組織は何もありませんでした。そこでアメリカはベトナム駐在のドナルド・ヒース大使を通じて、グエン・バン・ヒン将軍に、クーデターを起こせば軍事援助を打ち切ると通告しました。またダレス国務長官はフランスに飛び、マンデス=フランス仏首相にジェム政権を支持するように訴えました。その裏でアメリカの軍事顧問エドワード・ランズデールは、グエン・バン・ヒン将軍の部下たちに賄賂を送り、海外視察や休暇を取るよう働きかけました。
そのため孤立状態になったグエン・バン・ヒン将軍は、フランスに出国しました。1954年12月1日、グエン・バン・ヒンの後任として、ル・ヴァン・ティ少将をベトナム国軍参謀総長に任命しました。
グエン・バン・ヒン将軍はフランスに戻りフランス空軍に再入隊して、最終的には少将まで進級してフランス空軍長官になりました。
1955年バイ・ビエンとの戦い
1954年11月、アメリカ政府はドナルド・ヒース大使に代わり、朝鮮戦争でアメリカ陸軍参謀長官を務めたジョーゼフ・ロートン・コリンズを特命大使として送り、ベトナム国軍の強化を図りました。
1955年1月1日、それまでベトナムに援助していたフランスが援助を打ち切り、代わりにアメリカが直接援助することにより、アメリカの影響力が大きくなりました。
首相のゴ・ディン・ジェムも国内の治安維持のため、軍部だけではなく警察権も握る必要を感じていました。しかし、肝心の警察権はサイゴン市内の中華街チョロン地区でアジアで二番目に大きいと言われる大規模なカジノ(カジノ グラン モンド)を経営するほか、売春宿の経営や、タイ、ラオス、ビルマ(ミャンマー)の国境地帯(黄金の三角地帯、ゴールデン・トライアングル)で製造され、メコン川で運ばれた麻薬をシチリアのマフィアに密売するなどして大金を稼いでいたギャング団のボス、バイ・ビエンの手に握られていました。
実はアヘンの製造はフランス植民地時代から行われていて、大きな利益をフランスにもたらしていました。
フランス植民地時代、サイゴンの中心地第1区にあったアヘン工場。
門の上と馬車にはManufacture d’Opium(アヘン製造所)と書かれています。
この工場はインドシナ全体の予算の 1/3 から 1/2 を供給していました。
出典 Wikipedia
1953年、自宅でのインタビューに応じた時のバイ・ビエン。
出典 Wikipedia
バイ・ビエンがバオダイと初めて会ったのが1949年でそれ以後急速に親しくなり、地中海沿岸のカジノに出入りし遊興費の不足に悩むバオダイに資金援助をする代わりに、警察権を手に入れていました。また彼の施設兵団ビンスエン軍をバオダイを警護する部隊の1つとして提供していました。
警察権を手に入れたバイ・ビエンは秘密警察・スパイ・情報提供者を駆使して150人からなる行動委員会(2~3名で行動してバイ・ビエンの活動に競合したり反対した者を消す殺人部隊)を設け、さらに勢力を伸ばしました。
1955年1月ジエム首相は、バイ・ビエンの資金源を絶つため、サイゴンにあるカジノと売春宿を閉鎖しました。
1955年3月4日、バイ・ビエンは新興宗教のカオダイ教とホアハオ教(この二つの教団は、ベトミンの攻撃から教区を守るためフランス軍により武器と資金の提供を受け、私設軍団を設けていました。フランスが援助を打ち切った後は、バイ・ビエンが資金を供給していました。)を誘って国家統一戦線を設立し、1955年3月26日までに国家統一戦線の代表を閣僚として参加させるように要求しました。熱心なカソリック教徒であるゴ・ディン・ジェム首相は、異教徒やギャングを政権内に入れるはずはなく、この要求を拒否しました。
新興宗教の代表と会うバイ・ビエン。
左からバイ・ビエン、ファム・コン・タック(カオダイ教)、ナム・ルア(ホアハオ教)
出典 Wikipedia
要求を拒否されたバイ・ビエンの指揮するビンスエン軍は、1955年3月29日から30日の夜にかけて、サイゴン市内の国軍参謀本部、警察署、大統領官邸に手榴弾や、81㎜砲で攻撃をしました。
この出来事でビンスエン軍の兵士5名が戦死、鎮圧に当たった政府軍にも5名の戦死者と、31名の負傷者が出ました。
この出来事を受け、かねてからジエム首相の政治力の弱さを批判していたコリンズ特命大使はラスク国務長官に対して、ゴ・ディン・ジェムに対して辞任を勧告するよう提案しました。
ラスク国務長官は1950年ゴ・ディン・ジェムがアメリカに滞在していたとき親しかったマイク・マンスフィールド上院議員に相談したところ、共産主義のベトミンと戦い、植民地時代からのフランスの勢力を一掃するためには、強烈な反共主義者で、フランスの傀儡国家の首班であるカオダイと対立していたゴ・ディン・ジェム以外には居ないとの答えを得ました。
その答えどおり、当時ベトナムの政治家はすべてフランスとつながりを持っていました。ダレス国務長官はコリンズ特命大使にディエム氏への支援を続けるよう指示しました。
その間もビンスエン軍によるテロ攻撃は続き、4月2日にはチョクアンの参謀本部が攻撃され。国軍監察総監室が砲撃を受けました。
4月20日には、政府軍将校5人を含む30人が誘拐され、行方不明となりました。
同じ日、国軍のマイ・フ・スアン大佐の私邸もビンスエン軍によって襲撃されています。
これに対してジエム首相は、アメリカの軍事顧問エドワード・ランズデールの支援を受け国軍を率いて、バイ・ビエンの権力の源であるサイゴンの中央警察署を襲撃しました。ビンスエン軍と突撃警察部隊は撤退しましたが、部隊の一部は降伏しました。
撤退したビンスエン軍はサイゴンのチョロン地区を中心に、国軍と市街戦を繰り返しましたが、5月3日圧倒的な国軍の火力に押され、30隻の漁船を含む52隻の船を使ってサイゴン川を下り河口近くのルンサックの森林地帯に逃げ込み、5月5日サイゴンでの戦いは終了しました。
この戦いで政府側は死者88名、592名を出しましたが、ビンスエン軍は3500名の兵士と、サイゴン市の警察官の半数以上を失いました。
ホーチミン市(当時のサイゴン)とルンサックの位置(赤い丸の部分)
カンザーの森のローレン川とヴァムサット川の合流点
ビンスエン軍は、このような森の中に潜んで抵抗運動を続けました。
出典 Wikipedia
これによりジエム首相は警察権を取り戻し、アメリカの確固たる信頼を勝ち取りました。
ジエム首相は1955年9月21日から、ルンサックの森に残るビンスエン軍の残党約1500名を殲滅するため、歩兵大隊6、砲兵大隊1、ベトナム国家海軍から多数の砲艦や輸送船、さらに海兵大隊1が参加する大規模な作戦を開始しました。
現地での戦闘は、偵察機の指示に従って河川から海軍が砲撃し、その後歩兵が上陸する形で行われ、数的に優位に立つ政府軍によって昼夜に関わらず攻撃を行いました、開始早々バイ・ビエンは数名の幹部を連れカンボジアに逃亡したため指揮官を失ったビンスエン軍の兵士が次々と投降(1420名)したため、ビンスエン軍は壊滅しました。
カンボジアに逃げたバイ・ビエンは、フランスに亡命しました。
この後もビン・スエン派の残党は活発な活動を続け、サイゴンの歓楽街も繁栄を続けてベトナム戦争の終焉まで混沌とした地下社会を形成する。なお、映画『ディア・ハンター』に登場するロシアンルーレット場は存在したとされ、日本人でも数人が見たとする証言がある。
引用 ウィキペディア
ベトナム共和国の成立
下の表は1955年10月23日に、ベトナム国の元皇帝であるバオダイが唱える君主制国家と、ベトナム国の元首相ゴ・ディン・ジェムが主張する民主的な共和制国家のどちらを選ぶかの国民投票が行われました。投票は字の読めない人でもできるように、投票所でジエムの絵が描かれた赤い色の紙と、バオダイの絵が描かれた緑色の紙が渡され、どちらかの紙を投票箱に入れる形で行われました。
その結果、ゴ・ディン。ジエムを元首とする共和制を選んだ人は
得票数 5,721,735票 得票率 98.91%
バオダイを国家元首とする君主制を選んだ人は
得票数 63,017票 得票率 1.09%
となり、圧倒的勝利でゴ・ディン。ジエムを元首とする共和制が選ばれました。
この選挙で共和制国家を主張するゴ・ディン・ジェムが得票率98.91%をとり、ゴ・ディン・ジェムは反対派を一掃して「ベトナム共和国」の初代大統領に就任しました。
しかしこの投票は下に記したように、登録した有権者の数を遙かに超える投票数があり(投票率108.42%)明らかな不正選挙でした。民主的な政治を訴えて大統領となったゴ・ディン・ジェムであったが、政治の中枢は自分の一族で占め、民主化推進のため、アメリカから送られた高額の援助金も、ほとんど自分たちだけで使用していました。
そんな彼らでしたが、初めのうちは共産化した北ベトナムの迫害から逃げてきた90万人のキリスト教徒を保護したり(ゴ・ディン・ジェムは熱心なカトリック信者でした)、北から送られてきたベトミンの宣伝員を逮捕したりして、一応アメリカの期待に応えてきました。
ここからの話は、次の投降に期待してください。
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