2024/09/20
ドイツとの講和条件については、第一次世界大戦で国内が戦場になってしまったフランスは、ドイツに対して厳しい条件を出してきました。それに対してアメリカとイギリスはあまりにも激しい制裁は、かえってドイツ国民の反発を招くとして、反対しました。
結局フランスの欲望が通り、ヴェルサイユ条約はドイツにとって屈辱的な内容となりました。しかし、この条約は英米の予想通りドイツ国民の反発を招き、それを利用してヒトラーが台頭し、第二次世界大戦が始まってしまったのです。
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亀仙人2ドイツとの講和条約作成
前回までの話しはこちら ↓
パリ講和会議での各国の立場
アメリカ
従来の戦争では、戦勝国が敗戦国に対して領土の割譲や多額の賠償金を得て潤う反面、負けた側は復讐を誓って次の戦いの準備をします。そして次の戦いが始まるのです。
そしてウィルソン大統領が唱えたのが、「無賠償」「無併合」による「勝者なき講和」です。多くの兵士が死に、多額の戦費を掛けて戦争に勝っても、何も得られないどころか、場合によっては相手に与えた損害の補償金を支払わなくなってしまい、大損してしまいます。戦争をしても割に合わない状況を作り出してしまえば、誰も戦争をしようはとしないだろうと、考えたわけです。
この考えに基づいてアメリカのウィルソン大統領は、ドイツと交わした14ヶ条の平和原則に則した講和条件を実現することを重視しました。
14ヶ条の平和原則
1. 講和交渉の公開・秘密外交の廃止
2.海洋(公海)の自由
3.関税障壁の撤廃(平等な通商関係の樹立)
4.軍備縮小
5.植民地の公正な処置
6.ロシアからの撤兵とロシアの政体の自由選択
7.ベルギーの主権回復
8.アルザス=ロレーヌのフランスへの返還
9.イタリア国境の再調整
10.オーストリア=ハンガリー帝国内の民族自治
11.バルカン諸国の独立の保障
12.オスマン帝国支配下の民族の自治の保障
13.ポーランドの独立
14.国際平和機構の設立
そして彼が何よりも望んでいたのは、戦争を防止するための国際機関(国際連盟)の設置で、ドイツとの講和条件はこの国際連盟の規約に従って決定すべきと主張しました。
フランス
フランスのクレマンソー首相は、第一次世界大戦で西部戦線の戦闘がフランス国内で行われ大きな被害を受けたため、彼は2度とフランスに侵攻させないため、徹底的にドイツを軍事的、戦略的、経済的に弱体化させることを狙っていました。
そのためウィルソン大統領の唱える14ヶ条に基づく「「無賠償」「無併合」「民族自立」を骨子とした講和条約には強く反対していました。
イギリス
イギリスは海上覇権を維持するため、公海の自由航行とドイツ海軍の無力化を狙っていました。
フランスの要求に対しては、フランスが強大化することを恐れ、ウィルソン大統領と共にフランスの要求を抑える側の回ります。
ロシア革命がドイツ国内に普及することを防ぐ意味でも、必要以上にドイツを弱体化することに反対していました。
イタリア
イタリアは第一次世界大戦開戦当時ドイツやオーストリアと三国協商を結んでおり、本来ならば協商国側に付くべきでしたが、第一次世界大戦はドイツとオーストリアによる侵略戦争であるとして、中立の立場をとっていました。
そのためドイツはイタリアの参戦を促すため、オーストリア領の南チロル地方をイタリアに渡すよう説得しましたが、オーストリアはこれを拒否してしまいました。
反対にイギリスは戦争に勝った場合、南チロルとトリエステの領有を認める提案を出してきました。両地方ともイギリスの領土ではないので、大盤振る舞いです。
イタリアはこの提案に乗り、1915年4月26日イギリスと秘密協定(ロンドン条約)を結び、5月23日オーストリアに宣戦布告を行い協商国(連合国)に付いて戦いました。
戦後十四ヶ条の平和原則の秘密外交の廃止により、ロンドン条約は破棄されましたが、南チロルとトリエステ地方の領有は認められました。ただトリエステ半島の付け根にある商業都市フィウメ(現在のクロアチアのリエカ)は外されてしまいました。
イタリア代表のオルランド首相は強く抗議しましたが聞き入れられず、オルランドは講和会議をボイコットして帰国してしまいました。
日本
日本は日英同盟により、インド洋から東アジアにおけるドイツ海軍の活動を封じるため中国山東半島に在る膠州湾のドイツ海軍基地を攻撃し、湾の入り口の青島(チンタオ)を占領しました。
この時の映画があります ↓
その後地中海に艦隊派遣して、敵の潜水艦から輸送船を守るための護衛勤務に就きました。
日本海軍が地中海で戦った記事です ↓
戦後この功績により、ドイツが持っていた山東半島の権限を受け継ぐことになりました。このほかにアメリカ西海岸やカナダで起きた日本人移民の迫害を防ぐため人種差別反の同義を出したほかは、一切口を出さなかったかので自然と講和会議から外されてしまいました。
ラインラント問題
フランスは防衛上の観点からドイツが直接フランス国内に攻め込まないように、ドイツのライン川流域の地方(ラインラント)から西側の地域をフランスの領土にするよう求めていました。
これに対してアメリカは「無併合」の立場から、イギリスはフランスが領土を拡大して大国になることを恐れる立場から反対しました。
アメリカはフランスがラインラントの領有を諦めれば、ドイツが攻めてきた時にはモンロー主義を無視してアメリカ海兵隊を派遣するとまで、申し出しました。
しかしフランスはアメリカが軍隊を送ってくる間に、ドイツが国内に侵入して再びフランス国内で戦闘が始まるとして、この申し出を断りました。最もこの申し出を受け入れたとしても、モンロー主義によって議会が反対し、アメリカ軍をフランスに送ることは出来なかったでしょう。
そこでフランスは、ハウス大佐と決めた予備的講和条約をなかったことにして国際連盟の設立を講和条約の先頭にもつて来ることを認める代わりに、ライン川からフランス寄りの西側のラインラントの併合の代わりに連合国が15年間の保護占領地帯とし、15年後に住民選挙を行い、どちらの国に帰属することに決めることにました。またライン川の西岸50㎞の地域は非武装地帯とし、いかなる軍事的行為も認めないことにしました。
さらに普仏戦争によって奪われたアルザス・ロレーヌ地方はフランスに返されることになりました。ドイツ軍が撤退する時、フランス北部の炭坑に水を入れて採炭できなしたため、ザール炭田の採鉱権がフランスに与えられました。この採掘権は15年後にドイツが買い戻すことが出来るようにしました。これは、フランスの炭坑を破壊した賠償金の代わりです。
これによって、ドイツに対して行った「無併合」の約束は表面上守られることになりました。
賠償問題
従来の賠償金は、敗戦国が戦費を含めたすべての費用を戦勝国に支払うのが当たり前でした。ところが総力戦となった今回の大戦では、その戦費が膨大な額になってしまいました。さらにイギリスやフランスでは、その戦費を国内でまかないきれず、アメリカからの債務という形で調達していました。
それを全部賠償金の形でドイツに負担させると、ドイツそのものが崩壊し、取れるものも取れなくなってしまいます。
そのためウィルソン大統領は、従来の賠償金制度を改め戦争で受けた被害を補償する補償金にとどめ、かかった戦費は各国で負担することにしました。さらにその補償金もドイツが払える範囲にとどめ、禍根を残さないように提案しました。
イギリスのロイドジョージは国内で戦いが行われなかったので、潜水艦で沈められた分の船の補償を受ければよいとしてウィルソン大統領に同意しました。しかしイギリス国内でそれでは甘いとする対独強硬論が湧き上がり、ロイド、ジョージは世論に押される形でフランスに倣い、戦時中に応召した家族に対する別居手当、死傷者に対する恩給や補償金も含むことにしました。
それに対して国内で戦いが行われたフランスは、ドイツに復讐するため従来型の賠償金を求めました。賠償金が払えずドイツが崩壊したら、その分のドイツの領土を奪ってしまえばいいという考えです。戦後、この考えがドイツ人の復讐心を招き、第二次世界大戦が起きるとあっという間にフランスはドイツに占領されることになりました。
このため米英とフランスとの間で意見が一致せず、ヴェルサイユ条約では具体的な金額は提示されず、調印後設置される賠償員会で決定されることになりました。
1921年5月1日、賠償委員会はドイツに対して1320億金マルク(約200兆円)の支払い義務を通告しました。当時ドイツの国家予算が70~80億金マルクでしたから、約18年分の国家予算と同じになります。
これはドイツ側が予測していた300億金マルクを遥かに超えるものであり、ドイツ国民の間に「連合国は、ドイツを破滅させようとしている。」という怒りと恨みの感情を植え付けてしまいました。
賠償金がこのように膨らんだのは、ウィルソン大統領により第一次世界大戦に掛かった戦費の賠償は認められませんでしたが、フランスとイギリスは大戦で死んだり負傷した軍人や民間人への補償金や恩給を賠償金として認めさせることに成功したためです。
補償対象はヴェルサイユ条約244条第一付属書によって定められた。
- 戦争行為による戦死者及び負傷者に対する補償
- ドイツとその同盟国が原因である民間人死者・負傷者への補償
- ドイツとその同盟国によって行われた民間人に対する不法行為への補償
- 捕虜虐待への補償
- 負傷した連合国軍人に対して連合国が支払う恩給金額
- 兵士・捕虜とその家族に対して連合国が支払う恩給金額
- ドイツとその同盟国による民間人強制徴用に対する補償
- 連合国の非軍事物損害への補償
- ドイツとその同盟国が連合国民に課した罰金・賦課金の補償
引用 ウィキペディア
フランスでの戦没者は民間人を含めて約170万人、同じく民間人を含めた戦傷者は約427万人、イギリスの戦没者は約100万人、戦傷者は166万ですから、その家族への支払い分も合わせると、とてつもない金額になってしまいました。
フランスは国内の産業を復興させるために、ドイツから多額の賠償金を必要としてました。そのためドイツは賠償金の支払いに要する外貨を稼ぐために、産業を強化させ経済を立て直す必要があります。
その反面ドイツの大国化を恐れるフランスは、ドイツ経済を弱体化するために、ドイツ経済の要であるザール炭田を含む工業と経済の中心地であるラインラント地方を占領してしまいました。
1923年ドイツは賠償金の支払いが不可能となり支払いの延期を申し出ましたが、フランスは倍賞金の不払いを理由に、ベルギーと共にラインラントのルール地方に進駐して占領してしまいました。
ドイツ政府は抗議のため、ルール地方の労働者に対してストライキを呼びかけました。ストライキに入った労働者にはドイツ政府が賃金分を補償することにしましたが、財源(ルール地方の税収)が無くなったため紙幣を増発することで対応しました。これによりドイツ国内に大量の紙幣があふれ、ハイパーインフレが起こってしまいます。
1923年ドイツのハイパーインフレ
1金マルク当たりの価値が、1923年の年末には1兆マルクにまで跳ね上がってしまった。
金マルクは2790マルクで純金1㎏(1マルク=純金0.358㌘)と交換可能な兌換紙幣。
出典 ウィキペディア
ヒトラーとミュンヘン一揆
バイエルン王国
ミュンヘンは第1次世界大戦まで、ドイツ帝国内にあるバイエルン王国の首都でした。バイエルン王国は、1180年神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ、赤髭王)によって、ヴィッテルスバッハ家のバイエルン宮中伯オットー4世(バイエルン公オットー1世)がバイエルンを獲得して出来たバイエルン公国が始まりです。オットー1世の子孫はバイエルンを拠点として神聖ローマ帝国の有力家系として発展、1918年にバイエルン国王ルートヴィヒ3世がドイツ革命で退位するまでヴィッテルスバッハ家はバイエルンの君主の家系として続いていました。このためバイエルンではカトリックを信仰する者が多く保守的で右翼的な地方でした。
バイエルンのヴィッテルスバッハ家はプロイセンのホーエンツォレルン家より古い歴史を持つこともあって、プロイセンに対するライバル意識が強く、プロイセンを中心としたドイツ帝国が形成されたのちも反プロイセン的な感情を持つ住民が多かったためである。第一次世界大戦についても「プロイセン王が勝手に起こした戦争にバイエルン人が巻き込まれた」という総括をするような人が多かった。
バイエルン・レーテ共和国
第一次世界大戦末期の191年11月3日に起きたキール軍港での水兵の反乱に何を発したドイツ革命は、瞬く間にドイツ全土に広がり11月7日にはバイエルン革命が起こり、11月8日国王ルートヴィヒ3世はオーストリアに亡命し、無血革命は成功して、バイエルン王国の首都ミュンヘンで独立社会民主党のユダヤ人クルト・アイスナーが共和政府樹立を宣言しました。
クルト・アイスナー 1919年
彼はユダヤ人であった。
出典 ウィキペディア
1919年2月21日、アイスナーは議会の開会式にむかう途中、反ユダヤ人主義のトゥーレ協会に所属する青年将校アルコ・ファーライ伯爵に暗殺されました。
その後、アイスナーの所属した独立社会民主党と多数派社民党、ドイツ共産党での主導権争いが続き、1919年4月13日、ロシア出身の共産党員オイゲン・レヴィーネらの起こした革命によって最初のレーテ共和国は倒され、レヴィーネによって改めて共産党レーテ共和国の樹立が宣言されました。
オイゲン・レヴィーネ 1900年頃
彼はロシア帝国サンクトペテルブルク生まれのユダヤ人であった。
出典 ウィキペディア
共産党によるレーテ共和国誕生の報を聞いたドイツ国中央政府(社民党政権)のグスタフ・ノスケ国防相は、ヴァイマル共和国軍やドイツ義勇軍(ヘルマン・エアハルト率いる「エアハルト海兵旅団」やフランツ・フォン・エップ率いる「エップ義勇軍など)を投入して鎮圧に乗り出し、5月3日には政府軍6万人がミュンヘンに攻めのぼり、町を占領した。
このためバイエルンのレーテ共和国は成立から1ヶ月足らずで幕を閉じることになりました。
右翼化するバイエルン
カトリック教徒が多く保守的なバイエルンが、共産主義化するなど考えられないことでしたが、プロイセンが始めた戦争に巻き込まれひどい目に遭ったことでプロイセンに対する反感が強くなっていました。そこによそ者である社会主義者や共産党員がやってきてバイエルン革命が起こし、1180年から続いていたバイエルン王国が滅亡してしまいました。共産党によるバイエルン・レーテ共和国が軍によって鎮圧されると、バイエルン革命の指導者達がユダヤ人であったこともあり、反共産主義、反ユダヤ人主義を主張する右翼団体や政党が多数成立され一挙に右傾化してしまいました。
当時ドイツが第一次世界大戦に負けたのは、社会主義勢力やユダヤ人による戦争妨害・裏切りによってもたらされたとするデマが流れていました(匕首伝説)。
このような中に反共産主義、反ユダヤ人、ドイツを弱体化させるヴェルサイユ条約破棄を訴える、ヒトラーが率いる国民社会主義ドイツ労働者党(通称ナチス党)が在りました。
このナチスが大躍進するきっかけとなったのが、1923年1月に起きたフランスとベルギーによるルール地方の占領です。
このルール占領に対して、ヴィルヘルム・クーノ首相率いるドイツ政府は何ら抗議的な行動を行わず(イギリスでさえ、無防備な国への一方的な侵略であると、フランスに抗議していた)侵略を受け入れ、だだルール地方の労働者に対してストライキを呼びかけるだけの、受動的な抵抗を試みただけであった。
弱腰な態度しか取れないドイツ政府に失望したヒトラーは、クーデターを起こしてより強い政府に変えるべきと考え、3月から、突撃隊を中心に軍事教練を始めました。
クーノ首相はストライキに入ったルール地方の労働者に対して、休んだ分の給料を保証しましたが、この支払いのため紙幣を増発したため紙幣の価値が落ち、とてつもないインフレが発生してしまいました。
このインフレの間に1922年2月には党員6千人あまりのヒトラー率いる国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は、わずか1年あまりの1923年3月には1万5千人に党員を増やしミュンヘン一揆を起こした1923年11月には党員5万6千人となり、バイエルン州で有数の政党まで成長しました。
1923年8月、激しいインフレに苦しんだ労働者達は、ドイツ全土でクーノ首相の退陣を要求する抗議ストライキを行いました。8月11日には社会民主党がクーノ内閣に不信任を突きつけ、クーノ内閣は退陣へと追い込まれた。8月12日、社会民主党、中央党、民主党、ドイツ人民党は大連立内閣を組織し、グスタフ・シュトレーゼマンが首相兼外務大臣に就任しました。
1923年9月1日と2日にバイエルンのニュルンベルクで開催された「ドイツの日」において、ナチス党の突撃隊を中心に国旗団、オーバラント団が結合して右翼軍事組織連合「ドイツ闘争連盟」が結成されました。実質的な指揮権はヒトラーが握り、名誉総裁としてルーデンドルフが就任しました。これでナチス党の軍事組織は1万5千人になりましたが、クーデターを起こしドイツ政府を倒すには全く足りない状態でした。
新たに首相となったシュトレーゼマンは、インフレの原因であるルール地方における消極的抵抗(労働者のストライキ)の中止を決め、9月26日に実行することを発表しました。
1923年9月20日、バイエルン人民党のバイエルン州首相オイゲン・フォン・クニリングは消極的抵抗の廃止によるバイエルン州での混乱を防ぐため、非常事態宣言を発令し、グスタフ・フォン・カールを州総督に任命しました。カールにはバイエルン州の立法権と行政権が与えられ、バイエルン州内閣に属していますが一種の独裁者的な権力を持つことになりました。カールは治安維持のため、ミュンヘン駐在のドイツ帝国第7軍管区司令官オットー・フォン・ロッソウ少将、州警察長官のハンス・フォン・ザイサー 大佐とともに三頭政治体勢をとります。
グスタフ・フォン・カール 1920年
出典 ウィキペディア
カール総督はバイエルン保守の典型であり、中央政府のグスタフ・シュトレーゼマン首相やヴェルサイユ条約に反対し、フランスのルール地方占領に反対した。また自由主義者、社会主義者、共産主義者を嫌った。
またバイエルンのヴィッテルスバッハ王家を復活させバイエルン王国を中央政府から独立させることも視野に入れていた。カールはベルリン進軍を決め、ナチ党をはじめとするバイエルン右翼・保守勢力と緊密に連絡を取り、ベルリン進軍の準備をさせました。
9月26日、首相のシュトレーゼマンはドイツ全土に非常事態宣言を出し、バイエルン州の動きが他の地域に広まらないようにしました。10月20日にはベルリン進軍を企てたとして、ロッソウの罷免を命じました。
これに対してバイエルン州首相のオイゲン・フォン・クニリングは、ロッソウを「バイエルン地方国防軍」司令官に任命しました。
バイエルン州がこのように政府に反抗し強気に出れたのは、陸軍司令部長官ハンス・フォン・ゼークトが自ら右翼独裁政府の樹立を計画していたためです。ゼークトはドイツ国防軍を中心に、大工業、商業、銀行、大農業グールプの各経済団体、国家機能を統合した強力な軍事独裁政権を計画していました。ロッソウもこの計画に加わっており、ベルリン進軍を成功させるためには、ゼークトが率いるドイツ国防軍の協力が必須の条件でした。
ヒトラーの突撃隊がロッソウの国防軍共に訓練を受けるようになったのは、ロッソウが地方国防軍司令官になった10月20日からです。1月26日からは正式に国防軍に加わり、分隊ごとに国防軍と一緒に訓練を始めました。
国防軍と違い、突撃隊の兵士には手当が出ませんでしたが、食事や宿舎、指揮官の給与などは突撃隊持ちでした。
レンテンマルク
10月16日、シュトレーゼマン内閣の通貨統制委員シャハトはベルリンにレンテンバンクを創設して、ドイツの土地を担保にした新たな紙幣レンテンマルクを11月15日に導入することを発表しました。レンテンマルクとパピエルマルクの交換レートは1:1兆と決定されました。これにより物価の安定が期待され、インフレの終焉が近いうちに始まることが明らかとなり、中央政府に対する信用が高まりました。
ミュンヘン一揆後の話になりますが、このレンテンマルクによるインフレ抑制は奇跡的な成功を収め、11月15日レンテンマルク紙幣が発行されると、瞬く間にインフレが収まりました。
11月3日、シュトレーゼマン首相とゼークト陸軍司令部長官は会談を行い、ゼークトは軍による力ずくな仕方ではなく、合法的な道で政権交代を狙うことで合意しました。
11月6日、ベルリンで国防軍の支援を受けられなくなったため、カール提督は地方国防軍司令官ロッソウと、州警察長官ザイザーはナチスを除く国家主義団体の指導者を召集し、ベルリン進軍の延期を決議しました。
11月8日、カール提督は、ビヤホール・ビュルガーブロイケラーで演説会を行う予定であり、それにはロッソウとザイザーも出席することになっていました。
1923年国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の集会が行われた時のビュルガーブロイケラーの風景
出典 ウィキペディア
ヒトラーの方も10月下旬から軍事教練を続けていましたが、予算的にかなり厳しい状態となっていました。ここでベルリン進軍を諦めると多くの支持者の期待を裏切ることになり、党の解体につながることになります。と言ってもナチス党単体で、一揆を実行するだけの兵力はなく、支持者をつなぎ止めるためにもカール、ロッソウ、ザイザーの3人を説得して、ベルリン進軍を開始するしか在りませんでした。
ミュンヘン一揆
11月8日午後8時30分、あらかじめ突撃隊員150名にビヤホールを包囲させた上で、ヒトラーはカールが演説している最中の演壇に上がり拳銃を上に向かって発砲し、騒いでいる群衆を黙らせて「国家主義革命が始まったのだ。だれもここを出てはならぬ。ここは包囲されている!」と叫んだ。その後カール、ロッソウ、ザイザーの3人は別室に連れて行かれ、呼ばれてきたルーデンドルフにより一緒にベルリンへ進軍するよう説得されました。
この間ヒトラーはビヤホールに集った群衆にむかって、「クリニング首相と11月の犯罪人(ヴェルサイユ条約の署名者)が率いるドイツ政府は廃止され、バイエルン州摂政にカール、警察大臣にザイザー、国防大臣にロッソ、バイエルン州首相にペーナー(ミュンヘン警察署長)、国民軍司令官にルーデンドルフ、そして自身ヒトラーが国民政府の指導者となる計画」を会衆に知らせ、ヴェルサイユ条約とルール占領に不満を持つ人々の支持を得ることに成功しました。
10時にはルーデンドルフの説得により一揆に参加することにしたカール達3人も演壇に立ち、国民政府支持を誓う演説を行い会場は大興奮の内に閉会しました。閉会後もビヤホールに残った人たちは国歌を歌うなどして、深夜まで大騒ぎをしていました。
この間レーム率いる突撃隊が市役所やバイエルン国防司令部を占拠してバリケードを築いていました。集会後ヒトラーは工兵隊と突撃隊とのもめ事を仲介するために出かけ、ルーデンドルフはカール達3人とベルリン進軍の具体的な計画を立てる予定でしたが、3人が疲労を訴えたため一旦家に帰しました。
もともと3人にはベルリンへ進軍する気はありませんでした。ビアホールから解放された3人は占拠された司令部を移した歩兵第19連隊の兵舎に集り、対策を練りました。
ロッソウは国軍総司令官ゼークトに事情を説明して、叛徒制圧の命令を出して貰いました。
11月9日午前2時55分3人は連名で
『反乱を認めず。銃を突き付けられて支持を強要されたにすぎない。これは無効である。』
との声明をラジオ放送で流しました。
よく11月9日、午前11時30分ルーデンドルフの発案により、ビアホールからルームの居る国防軍司令部までのデモ行進が始まりました。ルーデンドルフによれば、私が先頭に立てば警察や軍はデモを阻止しないだろうと、考えていました。
ところがオデオン広場にある将軍廟近くでバリケードを張って待ち構えていた警察隊と国防軍が射撃してきて、デモ隊は一斉に退散して一揆は鎮圧されてしまいました。この時ヒトラーは一緒に腕を組んでいた隊員が銃撃で打たれ寄りかかった弾みで転び、左肩を脱臼してシュタッフェル湖のほとりにあるナチス幹部エルンスト・ハンフシュテングルの別荘に逃亡しましたが、2日後に見つかって逮捕されました。ルーデンドルフはそのまま警察隊に突っ込み、逮捕されました。国防軍司令部を占拠していた突撃隊隊長のレームも、武装解除の上逮捕されています。
1923年11月9日のオデオン広場
正面の建物が将軍廟(フェルトヘルンハレ)
出典 ウィキペディア
ヒトラーの裁判
翌1924年2月26日、裁判で「国家反逆罪」として告訴を認めるかどうか問われた際
「泥棒(フランス)によって盗られたもの(ルール地方)を取り返そうとしたのが罪ならば、私は有罪である。しかし、真の国家反逆罪を犯した者達は、ヴェルサイユ条約を結び、ドイツ人の土地と財産を相手に渡した者達である。」
と述べ、傍聴人から喝采を浴びました。
4月1日ヒトラーは国家反逆罪の罪によりね200金マルクの罰金と5年の城塞禁固刑(実際は9ヶ月で仮釈放された)の判決を受けました。
このことでヒトラーは武力による政権奪取から、合法的な方法で政権を取ることを目指し、1924年5月4日、ルーデンドルフ、レーム、シュトラッサーがナチス党の偽装政党「国家社会主義自由党」を立ち上げ32議席を獲得したことから徐々に勢力を伸ばしました。
1933年3月23日に制定された全権委任法により、首相になっていたヒトラーは独裁者となりました。
1939年9月1日、ポーランドに割譲されていた西プロイセン(ポーランド回廊)を取り戻そうとしてポーランドに侵攻したことら、イギリスとフランスがドイツに対して宣戦布告を出し、第二次世界大戦が始まりました。
これがヴェルサイユ条約(特に多額な賠償金)が、第二次世界大戦の火種となったと言われる所以です。
ポーランドへの領土割譲
民族自決の原則により123年ぶりにぽランドの独立が認められ、ドイツは海への出口であるポーランド回廊(西プロイセンの大部分)と工業地帯のオーバーシャレジエンをポーランドに割譲することとなりました。
ヴェルサイユ条約後のドイツ東部地域
出典 牧野雅彦著 ヴェルサイユ条約 中公新書 164頁
ただバルト海に面した港湾都市ダンツィヒは、国際連盟が管理する自由都市となり、どこの国にも属さないことになりました。
フランス領となった、アルザス・ロレーヌ地方と、ポーランドに割譲した西プロイセンとを合わせるとドイツは、開戦時のドイツ帝国領の約13%の領土、ドイツ国民の10%(約70万人)、農業生産の15%、炭鉱と製鉄所の20%をを一挙に失ってしまいました。
ドイツの軍備に関する規則
第1次世界大戦で450万人の動員数があったドイツ陸軍は10万人まで減らされ、プロイセン時代からドイツ陸軍の基盤であった参謀本部は解消を命じられ、それに類する組織も禁止されました。
装備できる重火器も細かく規定されました。たとえば装備できる重機関銃は792挺で、1挺当たりの弾薬は8千発と決められまた。これは毎分500発撃てる機関銃にとっては16分で弾切れとなり、とても戦闘に使用できないものでした。
海軍に関しては、兵員16500人と定められ、潜水艦は全面的に保有禁止、艦艇においては戦艦6隻、軽巡洋艦6隻、駆逐艦12隻、魚雷艇12隻まで保有が認められました。ドイツ海軍が保有ていた潜水艦を除いた残りの水上艦艇74隻は、処分が決まるまでスコットランドにあるイギリス海軍の停泊地スカパ・フローで抑留されることになりました。
スカパ・フローでのドイツ艦隊の自沈
スカパ・フローで抑留された艦艇に対して、イタリアとフランスは艦隊の4分の1を寄こすよう要求しましたが、イギリスはイギリス艦隊の優位性を崩す恐れがあるとして同意しませんでした。
1919年6月18日ヴェルサイユ条約の内容に憤慨した抑留艦隊司令官ルートヴィッヒ・フォン・ロイター (Ludwig von Reuter) 提督は、連合国への艦艇引き渡しを拒むため、各艦長に自沈の準備を命じました。
6月21日午前9時、イギリス艦隊が魚雷回避訓練のため外洋に出かけると、午前10時ロイター提督は各艦に自沈の準備を命じ、午前11時自らメインマストにドイツ海軍旗を掲げて自沈を開始しました。それを見たほかの艦もドイツ海軍機を掲げ次々と自沈しました。
14時30分、ドイツ海軍の艦艇が自沈を開始したと聞いたイギリスの艦艇がスカパ・フローに戻った時は、大型艦を除いてほとんどの艦が沈没した後でした。
それでもイギリス海軍はまだ浮いている艦を見つけ、浅瀬に曳航して座礁させたり、自沈に失敗したりで22隻の沈没を防ぎました。
17時には、最後まで浮いていた巡洋戦艦ヒンデンブルグが沈没しました。
一部のみが海面上に出ている巡洋戦艦ヒンデンブルク
出典 ウィキペディア
沈没した船は、後に引き上げられ、スクラップとして処分されました。
航空機に関しては、機雷除去に使用するために100機までの航空機と、1000人以下の兵員は認めら、それ以外の航空機と部品は、連合国に引き渡すことになりました。
排水量1万トン以上の艦艇や、潜水艦、戦車、装甲車、航空機の製造、輸入は禁止されました。
ドイツの植民地、および海外権益について
ドイツが所有していた植民地と、海外権益はすべて放棄され、国際連盟に指名された国が統治することになりました。
これによって日本はドイツが持っていた山東半島の権益を譲られたほか、太平洋における赤道以北の南洋諸島(マリアナ諸島、カロリン諸島、パラオ、マーシャル諸島)が日本の委任統治領となりました。
太平洋における旧ドイツ植民地と委任統治先 1. 日本領南洋諸島 2. オーストラリア領ニューギニア 3. 三国共同統治ナウル 4. ニュージーランド領西サモア
出典 ウィキペディア
ヴェルサイユ条約調印
1919年4月18日、ドイツに対して代表団派遣が招聘され、ブロックドルフ=ランツァウを首席とするドイツ代表団は4月29日にパリに到着した。
ドイツ代表団。左から4人目が団長のブロックドルフ=ランツァウ外相
出典 ウィキペディア
5月7日、ドイツの代表団に対して講和条約の正文が手渡されました。
回答期限は14日間で、条約に対する口頭での抗議は認められず、抗議は文書のみとされました。
手渡された文書は、全15編440条からなる243頁に及ぶ分厚いものでした。180名の随行員は徹夜してドイツ語に訳し、ドイツ代表団に渡しました。
これを読んだランツァウ外相は
「こんな分厚い文書はいらん。ドイツは存在自体を諦めろ、と言えば済む。」
と吐き捨てました。
5月10日、ドイツは第一回目の意見提出を行い、5月29日の最終意見提出では
- 賠償金上限を無利子1000億金マルク、1926年5月1日までに200億金マルク支払う
- ただし賠償支払いは1914年時点でのドイツ領土維持を条件とする
- フランスの炭鉱が復旧するまで石炭を提供する
- シュレースヴィヒ(ドイツとポーランド南部の国境地帯)については住民投票で帰属を決定する
- オーストリアおよびベーメン(ボヘミア、特にいわゆるズデーテン地方)のドイツ人についても民族自決権が適用されることを期待する
- (手交された講和条約案に)従いながら、経済を再建することなど不可能である。「かくて国民全体が自らの死刑判決に署名しなければならないのである」
引用 ウィキペディア
となりました。
6月16日、連合国側はドイツの要求をすべて却下し、だだ署名するかどうかを1週間以内(6月23日19時)に回答するように求めました。もし、署名を拒否した場合は、英・仏・米の3カ国は戦いを再開してベルリンまで進軍すると書いてありました。事実上の最後通牒です。
6月19日の閣議では、国防軍のグレーナーと国防相グスタフ・ノスケが連合国が攻めてきた場合、短期間で軍を再編成して軍事的抵抗を行うことは不可能であると国民議会各派や閣僚を説得し、最終的に受諾方針が固まりました。シャイデマンは内閣の総辞職を宣言して新たにグスタフ・バウアーが首相に就任します。
6月20日、スカパ・フローで抑留中のドイツ艦隊が自沈しました。
6月23日、ドイツ国民議会は政府の条約調印権限を承認しました。
ヴェルサイユ条約調印
条約調印式は1919年6月28日、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で行われた。
この6月28日は、5年前の1914年6月28日第一次世界大戦の元となったサラエボ事件が起きた日です。
鏡の間は1871年1月18日普仏戦争のさなか、ヴェルサイユ宮殿を占領したドイツがドイツ帝国の成立を宣言して、初代皇帝ヴィルヘルム1世の戴冠式を行ったことで知られています。
サラエボ事件から第一次世界大戦開戦までの詳しい解説はこちら ↓
午後3時、フランスのクレマンソー首相が開会の辞を述べ、午後3時15分調印式が始まりました。
最初にドイツの主席全権ヘルマン・ミュラー外相が署名し、続いてドイツの次席全権のヨハネス・ベル国務相が署名しました。
ワイマル共和国首席全権
ヘルマン・ミュラー外相
出典 ウィキペディア
ワイマル共和国次席全権
ヨハネス・ベル国務相
出典 ウィキペディア
その後ウイルソン大統領を始め、ランシング、ハウス、ブリス、ホワイトの五人のアメリカ代表が署名し、最後の67人目のウルグアイ共和国代表のファン・アントニオ・ブエロの署名が終わったのは、3時50分でした。
ベルサイユ条約調印中の各国代表団
出典 ウィキペディア
なお中国(中華民国)は、ドイツが持っていた山東省の権益が中国ではなく日本に譲渡されたことを不服とし、ヴェルサイユ条約の調印を拒否しました。
ヴェルサイユ条約の調印式が済んでフランス大統領ポアンカレ主催の晩餐会が催され、ジュラン大使がウィルソンの宿舎に来て
「ポアンカレ大統領主催のエリゼ宮晩餐会へのお供の栄を賜りたい」
と述べたとき、ウィルソン大統領は
「二度とフランス人の顔など見たくない、このまますぐアメリカに帰る。」
と答えたので大騒ぎになってしまいました。ウィルソン大統領にとって、14ヶ条の平和原則や、国際連盟規約の崇高な精神が、フランスの貪欲な賠償金要求によってズタズタにされた鬱憤が溜まっていたのでしょう。
この時仲違いしていたハウス大佐は、急いでウィルソン大統領の下に行き、晩餐会に出席しないのは今後のフランスとの関係に大きな傷が付き、アメリカ国民の利益を大きく損なうと必死に説得して、晩餐会への出席に同意させました。
ウィルソン大統領は晩餐会に出席しましたが、食事を済ますと通例のスピーチをせずにさっさと帰り、ポアンカレ大統領を激怒させてしまいました。
ウィルソン大統領は、1919年7月8日ニューヨーク港に到着しましたが、ヴェルサイユ条約の批准をめぐってアメリカ議会とのさらに激しい戦いが待っていました。