2024/09/20
マイダン革命直後、ロシアは2014年3月ロシア系住民の保護を理由に軍をウクライナ国内に投入し、ロシア系住民の多いクリミア半島を併合しました。
さらに、クライナのドネツク州とルハーンシク州の一部でロシア系住民の多い地域でドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国を設立して、国家として承認しました。
アイキャッチ画像はマイダン革命で解任された、ヴィクトル・ヤヌーコヴィチ第4代ウクライナ大統領です。
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亀仙人22014年ロシアのクリミア半島併合
クリミア半島の歴史
1696年ロシア帝国のピョートル大帝は、冬でも凍らない港を求める南下政策により、黒海につながるアゾフ海を占領したが大北方戦争(バルト海の覇権を巡りスウェーデンとロシアが戦った戦争、ロシア側が勝利)が起こった為、南下政策は棚上げとなりました。
次のエカチェリーナ2世は再び南下政策を再開して、1768年から1774年にかけての露土戦争は、ロシアの勝利で終わります。
1774年7月に結ばれたキュチュク=カイナルジャ条約により、オスマン帝国は宋主権を持つクリミア半島を含むクリミア・ハン国をロシアに割譲しました。
その他キュチュク・カイナルジ条約により、ロシアは黒海における艦隊建造権とボスポラス海峡・ダーダネルス海峡の商船の自由通航権を獲得しました。
さらに、オスマン帝国は、帝国内に住む正教会信徒の保護権をロシアに与えたため、ロシアは正教会信徒の多いバルカン半島勢力を伸ばす元となりました。
赤がロシア帝国領、緑がオスマン帝国領、赤と緑のストライプはオスマンからロシアへ割譲された領土、黄色と緑のストライプはクリミア・ハン国の領域
出典 ウィキペディア
1783年4月8日、エカチェリーナ(エカテリーナ)2世は条約を破り保護国であるクリミア・ハン国をロシア帝国に併合しました。これによりイスラム教徒であるクリミア・タタール人の有力者たちはオスマン帝国に逃れ、代わりに正教徒のウクライナ人やロシア人がウクライナ南部とクリミアに入植してきました。
エカチェリーナ2世は寵臣ポチョムキンを旧クリミア・ハン国地域の県知事に任命し、黒海北部沿岸およびクリミアの開発を行わせた。ポチョムキンはクリミアをロシアによる南下政策の前進基地とするためセヴァストポリ要塞を築き、黒海艦隊をを設立して黒海北部を支配しました。
クリミア戦争(1853年10月16日~1856年3月30日)
その後も南下政策に伴い、黒海とバルカン半島に勢力を伸ばそうとするロシアとオスマン帝国で戦いが始まり、ロシアの南下政策を止めようとするイギリスとフランスがオスマン帝国側で参戦してクリミア半島のセウォストポリ要塞を陥落させ、ロシアが負けてしまいました。
これにより、黒海沿岸の各国で持てる軍艦が2隻となり、黒海は中立地帯となりました。
ウクライナ人民共和国(1917年11月22日~1920年11月10日)
第1次世界大戦中の1917年2月にロシア革命が起こると、ウクライナはにもロシア帝国からの独立や自治を求める勢力が台頭して、1917年3月ウクライナ中央ラーダ(評議会)が設立されました。11月20日ロシアでのボルシェビキのクーデーター(10月革命)が起こるとそのあまりな暴力的な行動に対して、11月22日ウクライナは今までのソビエト臨時政府からの独立してウクライナ人民共和国の成立を宣言しました。
ウクライナ人民共和国ではソビエト連邦のロシアと違い共産党による一党独裁を採らず(1917年11月に行なわれた憲法制定会議の選挙ではウクライナ社会革命党が52%、ウクライナ共産党が10%の得票率でした)、言論・出版・信条・集会・ストライキの自由の保障、個人の不可侵、死刑の廃止、それまで反体制的であるとの理由で投獄されていた政治犯の大赦、少数民族の自治の権利の保障、8時間労働、土地や生産手段私有の制限(ウクライナでは少数の大貴族により、大半の土地や生産手段が占有されていた)、など民主的な政策を採りました。
現在のウクライナは、ウクライナ人民共和国の国旗・国章・国歌を受け継いでいます。
ウクライナ人民共和国の国旗
ウクライナ人民共和国の国章
出典ウィキペディア
しかし、このような民主的な政府をソビエト・ロシアは認めず、ウクライナ共産党による傀儡政権ウクライナ人民共和国(ソビエト派、後のウクライナ・ソビエト共和国)を設立し、赤軍を派遣してソビエト・ウクライナ戦争(1917年12月~1921年11月)が始まります。
この戦いはソビエト・ロシアが勝利して、1922年12月25日ウクライナ・ソビエト共和国はソビエト連邦を構成する一共和国となりました。
1921年10月18日、クリミア半島はソビエト・ロシアによりウクライナ人民共和国を離れ、クリミア自治社会主義ソビエト共和国(1936年12月5日、クリミア自治ソビエト社会主義共和国に改名)が設立され、ソビエト連邦を構成する共和国の一つに組み込まれました。
その後、クリミアは1921年、1932年(ホロドモール)と2度の深刻な飢饉に見舞われ、人口が減ったことからスラブ系住民が移住してきました。
ホロドモールに関しては後で説明します。
第2次世界大戦の1941年夏、クリミア半島はドイツ軍に征服されました。赤軍はドイツ軍との戦いで2個軍団、21個師団が壊滅して17万人が戦死または捕虜となりました。
しかし1943年の冬になるとレニングラードやスターリングラードでドイツ軍が負け始め、クリミア半島の守備隊のほとんどが油田のあるコーカサス地方に送られてしまいました。
この隙を突いてソ連軍は巻き返しを開始して、1944年5月9日にはセヴァストポリ市街の全域の占領を果たし、クリミアは解放されました(クリミアの戦い)。
クリミア解放後の1944年5月18日、ドイツ軍に協力したとしてスターリンはクリミアに住む全てのクリミア・タタール人(確認されているだけでも193,865人)を中央アジアに強制移住させました。
1945年6月30日、クリミア自治ソビエト社会主義共和国は廃止され、クリミア州となりロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に属することになりました。
1954年2月19日、ウクライナ出身のソ連共産党第一書記のニキータ・フルシチョフにより、ウクライナ融和策の一環としてクリミア州はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管されました。
1991年1月20日に行われた住民投票により、クリミア州は大戦以前の自治権を再獲得し、同年2月12日にウクライナ最高会議の決定に基づきクリミア自治ソビエト社会主義共和国が再度設立されました。
1992年5月5日、クリミア自治ソビエト社会主義共和国はクリミア共和国として独立を宣言しましたが、ウクライナ議会は独立無効を決議しました。
1994年、それまでクリミアの独立を支持してきたロシアが、ロシアからの独立を宣言していたチェチェン共和国に対し、ロシアが武力鎮圧を開始(第一次チェチェン紛争)しました。これにより自国からの独立を認めないロシアが、ウクライナからの独立求めるクリミアを支援していることに国際的に批判が高まり、クリミアの独立支援を取りやめてしまいます。
このためクリミアの独立運動も支援を失し急速に勢力が弱まり、クリミア議会もウクライナ共和国内での自治共和国であることを認めるようになり、1996年6月28日に初めてウクライナ憲法が成立した際に、ウクライナ国内でのクリミア自治共和国の地位が定められました。
これにより、クリミアはウクライナが主権を持つ領土でありながら、高度な自治権を持つ「国家内国家」との立場を持つようになります。
2001年のウクライナ国勢調査によるデータでは
クリミアに住む総人口203万3700人の内
ロシア人 118万400人(58.3%)
ウクライナ人 49万2200人(24.3%)
クリミア・タタール人 24万3400人(12.0%)
となっています。
また母国語としてロシア語を話す人の割合は77.0%でした。
ロシアによるクリミアの併合(2014年)
2014年2月22日早朝、前日(2月21日)マイダン革命を収拾するため、ヤヌコーヴィチ大統領は2004年憲法の復活を含む政治的危機解決に向け野党との合意文書㊟に署名しましたが、大統領辞任を求める群衆の声は収まらず、キーウから脱出しました(後にロシアに逃亡したことが確認された)。
同日、ウクライナ最高議会はヤヌコーヴィチ大統領の解任と新たに大統領を選ぶ選挙を5月25日に行うことを、447人中328人で可決しました。
しかし、当時のウクライナ憲法では議会が大統領を解任させるためには3/4以上の賛成が必要と(この場合336人)されていましたが、今回は必要な人数に達していませんでした。これは後で問題となり、ヤヌーコヴィチ大統領はクーデターであるとして、大統領職の解任を認めませんでした。
ヤヌーコヴィチ大統領辞任により、ウクライナ最高議会議長のオレクサンドル・トゥルチノフがウクライナ大統領代行(2014年2月23日~2014年6月7日)を務めます。彼はユリヤ・ティモシェンコが総裁を務める全ウクライナ連合「祖国」出身です。
オレクサンドル・トゥルチノフ
ウクライナ大統領代行(任期2014年2月23日~2014年6月7日)
出典ウィキペディア
オレクサンドル・トゥルチノフ
ドニエプロペトロフスク生まれ。ウクライナ国立ドニエプロペトロフスク冶金大学を卒業し、ドニエプロペトロフスク鉄鋼大手クリボリシスタリ社に勤務した後、ドニプロペトロウシク冶金協会を1986年に退任。この頃から同郷のユリヤ・ティモシェンコと行動を共にする。
2001年に政党連合ユーリヤ・ティモシェンコ・ブロックが設立され、2002年と2006年にティモシェンコ・ブロックより議員に当選しています。
20014年2月22日、ウクライナ最高議会によりヤヌーコヴィチ大統領が解任させられると、ヤヌーコヴィチ大統領側近のウクライナ議会議長のヴォロドミル・ルイバクも辞任したことから、トゥルチノフがウクライナ最高議会議長になり、大統領不在の間、大統領代行を務めることになりました。
2014年2月23日、ウクライナ暫定政権は、ヤヌコーヴィチ政権がロシア語も公用語と認めることを可能とする、2012年8月10日に発効された公用語法(住民の10%以上の人が使用している言語を公用語として認めることを決めた法律)を廃止したことから、ロシア語を母国語としているロシア系の住民から反発を受けます。
私としては、なぜこの時にロシア語も公用語として認める公用語法の廃止を決定したか疑問に思います。ヤヌーコヴィチ大統領の任期は残り1年ですし、さらに大統領自身も早期の大統領選挙の実施を認めていたので、新大統領が決まってから改めて討議しても良かったと思まいます。
同法の廃止が、ロシアのクリミア半島併合や、ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国結成の原因となりました。
2001年国勢調査による、ウクライナにおけるロシア語母語話者の割合。
これによるとクリミアの他ドネツク州やルハンシク州でも住民の過半数がロシア語を母国語として使用しています。
出典 ウィキペディア
クリミア併合
2014年2月23日、セヴァストポリの親露派住民たちは、キーウからのすべての指示に従うことを拒否し、独自の「人民市長」を選出しました。
2月24日にはクリミア自治共和国首相アナトリイ・モヒリオフは、自治共和国がウクライナ議会で可決されたすべての決定に従うことを宣言しました。これに対して多くの群衆がセヴァストポリの行政府を取り囲み、ロシア人市民を市長にすることを要求し、市庁舎にロシア国旗を掲げました。
2月27日、リトル・グリーンメンと呼ばれる謎の武装集団(彼らの服装や装備からロシア軍と言われている)が現れ、クリミア自治共和国議会・政府本部を占拠しました。
同日、クリミア自治共和国議会はクリミア自治共和国の自治権拡大の是非を問う住民投票を5月25日に実施することを決めました。同時に議会は新たに誕生したウクライナ暫定政府に従うことを宣言したクリミア自治共和国首相アナトリイ・モヒリオフを解任し、親ロシア派セルゲイ・アクショーノフが新首相に任命されました。
クリミア議会による自治共和国首相の解任・任命は自治共和国憲法で規定されているウクライナ大統領の同意を得ていないことや、首相解任・新首相選出はロシア軍とみられる武装集団が議会を封鎖する中で非公開で行われ、出席議員の数は定数の半数以下だったとの批判が出ているため、正当性に対して疑問が持たれています。
2月28日、リトル・グリーメン達は主要空港や放送局、通信施設を確保し、テレビ放送や携帯電話の通信に制限がかけられました。
クリミアに展開する「リトル・グリーンメン」と呼ばれる国籍や所属を示す全ての徽章(ワッペン)を外した謎の部隊
出典ウィキペディア
リトル・グリーンメンが、ロシア軍と分かる写真。
真ん中の人物が持っている銃は、ロシア軍特殊部隊(スペツナズ)のために特別に開発され、隠密潜入作戦やゲリラ作戦で使用されたVSS 自動消音狙撃銃。
ストックを除いた本体は短機関銃並みの大きさで、銃身のように見える部分は巨大な消音器。これでほぼ完全に音を消し(群衆の中で撃っても周りの人に気づかれないと言われています)、400m以内の距離で防弾チョッキを貫通する威力を持つように造られました。
出典 K-Hobby.com
3月1日にプーチン大統領は、ロシア系住民の保護を理由に、ウクライナへのロシア軍投入の承認を上院に求め、上院はこれを全会一致で承認しました。
3月7日、クリミア議会はウクライナからの分離とロシアへの編入を求める議決を決議し、ロシア連邦編入の是非を問う住民投票を3月16日に実施することを決めました。
3月16日に行われたクリミアの住民投票
3月16日に行われた住民投票の用紙には
選択肢1:ロシア連邦の連邦区分のすべての権利をもって、クリミアとロシアの再統一を支持しますか?
選択肢2:1992年のクリミア共和国憲法の回復と、ウクライナの一部としてのクリミアの地位を支持しますか?
の2つの選択肢が、ロシア語、ウクライナ語、タタール語で書かれていて、どちらかにチェックを入れる方法で行われました。
ロシア語、ウクライナ語、タタール語の3か国語で書かれた国民投票に投票するための投票用紙。
出典 Wikipedia
投票はウクライナのパスポートを持つクリミア半島の住民と、ロシア海軍の軍港があるセヴァストポリ特別市で行われ、クリミア半島で97.47%、セヴァストポリ特別市で96.59%の住民がクリミアの独立とロシアヘの編入に賛成しました。
ただ人口の約12パーセントを占める、クリミア・タタール人の大部分は投票を拒否しました。
住民投票の翌日3月17日、ロシアは「クリミア共和国」の独立を承認し、プーチンとクリミアのアクショーノフ首相、クリミア国家評議会(「最高会議」から改称)のウラジーミル・コンスタンチノフ議長、そしてセヴァストポリ特別市評議会のアレクセイ・チャリ議長が、ロシアとクリミア共和国の二国間で、クリミア共和国をロシアに併合する条約の調印を行いました。
条約に調印するロシア、クリミア、セヴァストポリの代表。
出典 ウィキペディア
3月20日、クリミアとセヴァストポリの併合に関する条約はロシア下院で443対1で批准され、翌21日にロシア上院で出席議員155人が全会一致で批准しました。
ウクライナ政府は、クリミア半島の独立とロシアへの編入は、クリミア半島の住民による住民投票で決めずに、ウクライナ全体による国民投票が必要であるとして、反対しています。
クリミア併合後の2019年12月23日、ロシアとクリミア半島の間にあるケルチ海峡(上の地図の赤丸の部分)に道路・鉄道併用のクリミア大橋(道路部分は2018年5月15日に開通)が開通し、ロシアからウクライナを経由しなくても、直接クリミア半島に行けるようになりました。
クリミア大橋 2020年
出典 ウィキペディア
ドネツク人民共和国とルハンシク人民共和国
ドンバス地方の歴史
ドンバス戦争のに舞台となったドンバス地方は、ウクライナのドネツィク州とルハンシク州を合わせた地域を指しています。ドンバス地方はウクライナ国土面積の約10%占めていいます。
ドンバスという名前はここを流れるドネツ川流域のドネツ盆地から、付けられました。
ドンバス地方にはドルツ炭田があり、1869年にイギリス人の実業家ジョン・ヒューズが豊富な石炭に目を付け製鉄所を建設し、新たな炭田を開発しました。炭鉱景気に引き付けられて、ロシア国内から多くの小作農たちが移り住んできました。彼はユゾフカ(ジョン・ヒューズが造った街、現在のドネツク)を中心とする製鉄所や炭鉱で労働者として働きました。これが、この地域でロシア人が多い理由です。彼の工場は拡大をつづけ、第1次世界大戦(1914年~1918年)直前の1913年には、全ロシアの鉄の生産量の74%を占めるようになりました。
1922年のソビエト・ウクライナ戦争後、ソビエト連邦に組み込まれたウクライナでは、製鉄所や炭鉱はボルシェビキのソビエト(評議会)に接収されてしまいます。
これに先立つ1921年3月、レーニンは第10回党大会で、穀物徴発制を廃止して現物税(食糧税)制に切り替える「新経済政策 (NEP、ネップ) 」を提案し、承認された。
これは第1次世界大戦と、ロシア革命後の内戦のため農家から穀物の強制徴収を行った結果農家の生産量が減り、1921年から1922年にかけて旱魃(かんばつ)が起こったことで大規模な飢饉が発生して、各地に起きた反乱を鎮める目的がありました。農家は収穫量の10%を税として納め、残りは市場で売買することを認められました。また個人での小売りや製品の生産も許しました。
これにより、1927年には第1次世界大戦前よりもソ連の経済状態は上回るようになりました。その反面富農(クラーク)や、リップマンと呼ばれる個人商店主や事業者が生まれ、社会主義国家の前提を崩れさせる貧富の差という問題を引き起こすことになります。
第1次5ヵ年計画(1928年~1932年)とホロドモール
レーニン亡き後(1924年1月21日)の権力闘争に勝利したスターリンは、ネップによる貧富の拡大に対して、自由主義国よりもソビエト共産党による強力な国家建設を目指して第1次5ヵ年計画を立ち上げます。
ソ連共産党による総合計画経済を立て、経済発展の基盤である鉄鋼などの重工業の発展とソ連全土の電力網の整備を目指しました。
この資金を賄うため、農業の集団化を行い獲れた農作物を輸出して外貨を稼ぐことにしました。
特にウクライナでは、「欧州の穀倉地帯」と呼ばれる中部南部に広がる肥沃な国土地帯で小麦やヒマワリ(ヒマワリ油)、テンサイなどの作物の栽培が盛んであり、東部のドンバス地方では炭田や鉄鋼石の鉱山を利用した重工業が発展していました。
このため第1次5ヵ年計画の重点地区に選ばれ、計画全体の2割の予算が当てられました。
急速な工業化により農村で生活していたウクライナ人の都市への移住が盛んになり、1226年では都市部の人口の6パーセントであったウクライナ人の割合は、1939年には30%にまで跳ね上がりました。
これには農業集団化を目指すため、自営農家を土地から切り離す政策が取られたことが関係しました。とくに富農と呼ばれるクラークは人民の敵であるとして「クラーク撲滅処置」が取られ土地を没収され、これに従わない者は銃殺や収容所に送られ、ダムや発電所、運河などの建設に強制労働させられることになりました。
また罰せられなかった富農たちは農業に見切りをつけ、工場労働者として都市に流れていきました。
また集団農場(コルホーズ)では、収穫物は全て国家に徴集され、ノルマの達成具合により収穫物が配給される仕組みでした。これは一生懸命に働いても、怠けていた人と同じ量が配分されるため、作業する農民は次第に手を抜くようになり、収穫量が落ちてしまいました。
それでも1930年には大豊作(ウクライナで2165万トン)となり、翌年から国家に納める穀物の量が引き上げられることになりました。
1931年は天候不順などから、穀物の収穫量が減り(ウクライナで1400万トン)与えられたノルマを達成出来ない地区が出るようになりました。ノルマを達成できない地区は、罰として穀物の配給が止められたり、減らされたりしました。
それに反して5ヵ年計画は順調に進み、都市部の労働者にはノルマを達成した報酬として、食糧が配給されていました。
ソ連政府の公式発表によると、鋳鉄生産高が1928年の330万トンから1932年には620万トン(第二次五ヶ年計画最終年の1937年には1450万トン)、発電量が1928年の500万キロワットから1932年に1350万キロワット(1937年には3620万キロワット)など、重工業部門で大きく生産量を伸ばした。ソ連国外での研究によると、この10年間における各数値の増加率は、ソ連の国内総生産が年率4.6%、鉱工業生産が年率10.5-16%(10年間で2.5-3.5倍)、機械工場数が年率27.4%という数字が提示されている。
引用ウィキペディア
更に5ヵ年計画達成のためには、外貨を稼ぐ穀物の輸出を止めることが出来ませんでした。
輸出用の穀物の不足を補うため、共産党員を中心に「穀物徴集隊」が組織され、農家を一軒一軒回って備蓄していた穀物や家畜などを取り上げて回りました。彼等は穀物だけでなく、翌年の栽培に必要な「種籾」までも持って行ってしまいました。
1932年春になっても集団農場に残った農民たちは、畑を耕そうにも家畜を徴集されたり、種籾も没収されたため、十分な種まきが出来ませんでした。
しかしソビエト政府は、これらは5ヵ年計画に反対する農民がわざとサボタージュをしているとして、援助するどころか反対に罪に問うことをしました。
このため集団農場から脱走して、都市部に移住する人が出て農民の数が減ってしまいました。
1932年8月7日、「社会主義財産の保護に関する法令」が制定され、集団農場で収穫されたすべての農産物は国家のものとされ、これを盗んだ者は10年の懲役または死刑(銃殺)になります。この法律は厳格に適用され、収穫後の畑に残っていた落ち穂を拾っただけで、よくて10年の懲役、ひどい時はその場で射殺されました。
そのため農民たちは自分たちが収穫した穀物を目の前にしながら、雑草やドングリなどの木の実、カラスなど野鳥(かねてから食べられていたハトやカモなどを食べることは禁止されていた、同様に魚も禁止。)や、野生化した犬や猫、ネズミなどの小動物を食べて飢えをしのぎました。
これに追い打ちをかけたのが1932年12月27日に実行に移された「国内パスポート」制度でした。これはパスポートを持たない者の移動を禁止するものです。そしてこのパスポートは主に都市部の労働者に発行され、農民には渡されませんでした。
今までは苦しくなると都市に移住したり、出稼ぎに出たりできましたが、この制度により村を離れることが出来ず、雪に埋もれた何もない場所で餓死を待つだけとなります。そのため1932年の末から1933年の春にかけて、餓死者のピークを迎えることになりました。それでも木の樹皮や根を良く煮て食べたり、革靴を細く切って料理して食べたりしていました。
やがてそれも尽きると、餓死した人の肉や、隣人や自分の子供を殺して食べることも行われるようになりました。
助けを求めて都市にたどり着いた農民に対しては、5ヵ年計画を妨害した者として助けることを禁止(助けると罰せられます)されたため、そのまま路上で餓死してしまいました。
飢餓により街頭に倒れ込んでいる農民と気にすることなく通り過ぎるようになった人々。
1933年、ハルキウ
出典ウィキペディア
1932年に第1次5ヵ年計画が終わるころには、ソ連以外の国では世界大恐慌の最中で経済は破綻していました。その中で計画経済で不況を乗り切り驚異的な経済発展を成し遂げたソ連は、世界中の注目を浴びました。その反面大規模な飢餓が起こっていることは、政府により固く隠されました。
1930年から1933年にかけてウクライナでは400~600万人が餓死で死に、強制収容所や銃殺などの刑を受け死んだ人を合わせると、1000万人~1400万人が死んだとされています(当時のソビエト政府は飢餓が発生していたことを隠していたため、正確な数字ははっきりとしていません)。これは当時のウクライナの人口の1/4~1/5に当たります。
激しい報道規制をかいくぐって現地に入り、ホロドモールを取材した記者を主人公にした映画があります ↓
春になると農業従事者不足を補うため、大勢のロシア人が移住してきました。彼等は空き家となった農家に住み、ソビエト政府から月50ポンド(約22.6㎏)の小麦が支給されました。かってロシアの農民たちは、王族や貴族、または教会などの土地で農奴として働いていたため、集団農場で働くことに抵抗がありませんでした。
それに対してウクライナの農民の90%が自営農家であり、農地を取り上げる集団化に対して反対し、各地で抵抗運動が起きていました。
このためスターリンは、集団農場にウクライナの農民の半分が集まった時点(1930年で約600万人)で農民からすべての食糧を取り上げ、わざと餓死させたとの見方が出ています。残りの自営農民の大部分は高税を掛けられたため農地を捨て都市に移り工場労働者として働くか、あくまで反抗して強制収容所に送られていました(クラーク撲滅運動)。これによりウクライナの自営農家は、スターリンの目論見通りほぼ絶滅してしまいます。
これがウクライナ東部のドンバス地方に、ロシア系の住民が多い理由です。
ドネツク人民共和国
ウクライナ東部のドネツク地方は、ユーロマイダンで解任させられたヤヌーコヴィチ大統領の選挙地盤(ウクライナ政府の補助金の約2割がこの地区に流れていました)であり、住民の7割近くがロシア語を母国語として使用しています。
ドネツク地方は豊富な石炭と鉄鉱石の産地であり、この2つを基として工業化が進みドネツク州とルハンシク州で生産される工業製品は、ウクライナの輸出全体の30%を占めています。それらの多くはロシア向けであり、ロシアへの依存度が高い地域でもあります。
このため、ウクライナ憲法で定めらていた大統領解任に必要なウクライナ最高議会議員の3/4以下の賛成票で、親ロ派のヤヌーコヴィチ大統領が解任されたことと、ロシア語が公用語から外されたことに対して抗議の声が上がりました。
ウクライナのドンバス地方
出典 東京新聞
2014年3月1日から6日にかけて、クリミア半島独立の運動に呼応するように親ロ派の抗議者たちがドネツク州庁舎を占拠しました。
3月7日、この占拠はウクライナ保安庁(SBU)によって排除されましたが、その後も各地で親ロ派による抗議活動が行われました。
1か月後の4月6日、親ロ派のデモ隊がドネツク州庁舎を占拠して(この日は日曜日のため、庁内には数人の警備員しかいませんでした)、ロシア加盟に対する国民投票を発表し、臨時議会が開かれなければ4月7日の正午に自分達が「人民政権」を形成して一方的な支配権(いわゆるドネツク人民共和国の創設)を宣言し、選出済みの評議員と国会議員全員を解任すると発表しました。
4月7日、ドネツク州議会を占拠したデモ隊は「人民評議会(ソビエト)」という会議を行い、「ドネツク人民共和国」の独立を宣言し、5月11日までに独立を承認する住民投票を行うことを発表しました。
2014年4月7日、ドネツク州庁舎での集会
出典 Wikipedia
ルハンシク人民共和国
2014年3月1日、ルハンシク州地方議会は124議席のうち、ヤヌコーヴィチ元大統領のり地域党が106議席、共産党が13議席を占めており、ウクライナの行政権の中央機関を非合法と宣言する決定を可決しました。
3月9日、地元の分離主義者は、ドンバスをウクライナから分離するために3000人の集会を開きます。
4月14日、ルハンシクの分離主義者は、ウクライナの中央政府を非合法としての承認を宣言するよう地方議会に要求しました。
4月27日、親ロシア派の住民により国家安全保障ビルの前で「建国」が宣言され、5月11日に独立の是非を問う住民投票を行うことが発表されました。
2014年4月に親ロ派のテロリストが「南東軍の合同本部」を設置したルハンシク地域のウクライナ保安庁ビル周辺のバリケード
出典 Wikipedia
ドンバス戦争の始まり
親ロ派武装集団とウクライナ政府の戦いの始まり
2014年4月12日、親ロ派の武装集団がドネツク州北部の都市スロビャンスクの執行委員会の建物、警察署、ウクライナ保安庁の事務所を占領しました。
スラビャンスクの警察署を警備する武装集団
出典 KYIV POST
この親ロ派武装集団とみられる部隊は、もとロシア治安部隊の将校イゴール・ガーキンがクリミアで編成した民兵でした。
イゴール・ガーキンが、コムソモリスカヤ・プラウダ特派員にこの時の模様をインタビューで答えた記事があります。↓
Читайте на WWW.KP.RU: https://www.kp.ru/daily/26225.7/3107725/
この攻撃はドネツク州の他の都市(クラマトルスク、ドルジュキーウカ、ホリフカ、マリウポリ、イェナーキイェベなど)でも発生し、ウクライナの暫定大統領オレクサンドル・トゥルチノフは、本格的な「対テロ」軍事作戦を開始しました。
ウクライナ政府軍とドンバス地方の親ロ派による武装集団(一部にはロシアから送り込まれた部隊もいました)との戦いは次第にエスカレートしていき、2022年のロシアによるウクライナ侵攻まで続きす(ドンバス戦争)。
2014年5月11日、ドネツク地域とルハンシク地域の住民投票
「ドネツク人民共和国」の支配地域で行われた国民投票では、投票率74.87%、「ドネツク人民共和国」独立の賛成票が89.07%、反対が10.19%、無効票が0.74%でした。
同じ日に行われた「ルハンシク人民共和国」の独立を問う国民投票では、得票率75%、賛成票96.2%、反対票3.8%でした。翌5月12日、この結果を踏まえて「ドネツク人民共和国と「ルハンシク人民共和国」は、独立を宣言しました。
この様な状況の中、2014年5月25日、第5代ウクライナ大統領を選ぶ大統領選挙が行われました。