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亀仙人2映画 「グリーン・ゾーン」
2010年 アメリカ
侵攻後のイラクで、大量破壊兵器探索チームを率いるミラー准尉は、情報にしたがって探し回るのだが、どの情報も間違っており大量破壊兵器を発見できず、与えられた情報に疑問を持った彼は、独自に情報源を探り始めます。
この映画は、2003年4月から2004年10月まで、米紙ワシントン・ポストのパクダット支局長を務めたラジブ・チャンドラセカランの著書『インペリアル・ライフ・イン・ザ・エメラルド・シティ(日本での題名 グリーン・ゾーン)』で、こちらは映画と違い、イラク戦争発生後のイラクの様子を描いたドキュメンタリー作品です。
アイキャッチ画像は、アメリカ軍によって倒されるサダム・フセインの銅像です。出典ウィキペディア
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映画 『グリーンゾーン』
監督 | ポール・グリーングラス |
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脚本 | ポール・グリーングラス ブライアン・ヘルゲランド |
原案 | ラジーフ・チャンドラセカラン |
製作 | ティム・ビーヴァン エリック・フェルナー ロイド・レヴィン ポール・グリーングラス |
製作総指揮 | デブラ・ヘイワード ライザ・チェイシン |
出演者 | マット・デイモン エイミー・ライアン グレッグ・キニア ブレンダン・グリーソン |
音楽 | ジョン・パウエル |
撮影 | バリー・アクロイド |
編集 | クリストファー・ラウズ |
製作会社 | ワーキング・タイトル |
あらすじ(ネタバレあり)と解説
2003年3月19日、イラクの首都パクダットは激しい爆撃にさらされていました。その爆撃の最中アル・ラウィ将軍は金庫から一冊の黒い手帳を取り出し、部下のサイードに、皆を隠れ家に移すように指示を出して、どこかに避難していきました。
映画の題名となった『グリーンゾーン』は、旧サダム・フセインの大統領宮殿のあった場所を中心とした付近で、アメリカ軍が統治していた時代は暫定政府の機関やアメリカ政府の出先機関などが置かれていました。この区域は 米軍管理区域、正式名称“インターナショナル・ゾーン”、通称「グリーンゾーン」と呼ばれていました。
アメリカ軍の駐留部隊の基地はバグダード国際空港(旧サダム国際空港)内に置かれており、この空港とグリーン・ゾーンを結ぶ道路は『ルート・アイリッシュ』と呼ばれ、世界一危険な道路とされました。
バグダッド市内のグリーン・ゾーンとバグダッド空港を示す空撮画像
右側の赤い線で囲まれた部分が、大統領府を中心とするグリーンゾーン(安全地帯)。
左側の広い部分がパクダット空港
グリーンゾーンの中心にある大統領府(旧サダム・フセイン大統領宮殿)
出典(2枚とも)ウィキペディア
マット・デイモンが演じるロイ・ミラー上級准尉のモデルとなったのが、モンティ・ゴンザレス元アメリカ陸軍上級准尉です。彼は第75野戦砲兵旅団(後に第75特殊探索部隊[XTF]に改称)に所属中、異動捜査班アルファ(MET A)の指揮官を務めていました。
また、本作では多くの軍人の役に、俳優ではなく退役軍人を配している。この点もマットの演技にプラスに働いたようだ。
「技術顧問が30人ついているようなものだったから(笑)、おかげで僕の演技は全く違うものになった。彼らの行動には間違ったところがないから、どういう立ち方をしてどこに行けという説明が必要ないんだ。撮影前に俳優全員をブートキャンプに参加させたとしても、ここまでの信憑性は出せなかったろうね」。(マッド・デイモンの言葉)引用 シネマカフェ
この映画では彼らの統率の取れたスキのない動きも、見ものです。
アメリカ軍によるパクダット占領後、ロイ・ミラー上級准尉率いるMET隊(移動捜索班)は、軍の命令に従って何度も大量破壊兵器の製造施設や、保管場所とされた場所で、大量破壊兵器の痕跡を探していましたが常に何も見つかりませんでした。同じようにディワニヤの倉庫に神経ガス・窒息ガス・生物兵器が隠されているとの情報に基づいて出動したミラーでしたが、指定された場所は元便器工場の跡地で、今回も何も得られませんでした。
基地のあるサダム空港に戻ると、30年以上前から亡命しいたズバイディが、イラクに戻ってきたところでした。ズバイディを出迎えたのはアメリカ国防情報局のクラーク・パウンドストーンでした。アメリカ政府は、フセイン政権後の新しいイラク大統領にズバイディを当てる予定でした。
ズバイディのモデルとなったのは、イラク国民会議の創設者アフマド・チャラビ―だと思われます。
アフマド・チャラビ―
アフマド・チャラビ―(1944年10月30日 – 2015年11月3日)
出典ウィキペディア
アフマド・チャラピーの生家は300年前のスルタン国から続く名家で、父親はイラク王国で銀行を経営していました。
1958年に起きたイラクの7月14日革命によりハーシム王政が打倒されると、一家はイラクを離れアメリカに移住しました。チャラビ―は16歳でマサチューセッツ工科大学に入り、その後シカゴ大学大学院に移り、数学の博士号を収得しました。卒業後はレバノンのベイルート・アメリカン大学(AUB)で教鞭をとりました。
1975年、レバノンで内戦(レバノン内戦)が起こり、彼はヨルダンに移住しました。
1977年、ヨルダン王の弟ハッサン皇太子と共にペトラ銀行を設立。やがて、この銀行はヨルダン川西岸地区に多数の支店を構え、ヨルダン国内第3位の銀行に発展します。
ヨルダン川西岸地区
出典 地球村
1989年8月2日、ペトラ銀行は大量の不良債権によって破綻し、政府の監督下に置かれました。当局の監査により、大量の不良債権のほとんどが、チャラビ―関係のものと分かり、チャラビ―は銀行詐欺の罪で22年の懲役刑を言い渡されます。しかし、刑が確定する直前、チャラビ―はイギリスに亡命してしまいました。この事件でチャラビ―は8000万ドルの資金を手に入れました。
湾岸戦争後の1992年、チャラビ―はサダム・フセインの政権交代を目標とする、イラク国民会議を設立しました。同時にワイントンDCとの接触を図りました。
1995年、当時のクリントン米大統領を説得し、サダム・フセインに対してクーデターを試みました。しかし、この計画は身内に親サダム派の指揮官が居たため、破綻してしまいます。
1998年、チャラビ―はフセインが大量破壊兵器を所持していることを訴え続け、アメリカは大量破壊兵器の製造や貯蔵に関わる施設に対して大規模な爆撃を(砂漠の狐作戦)を行いました。
同じ年、アメリカはイラクにおける反サダム派を支援するイラク解放法を決定し、イラク国民会議を主とする7つのグループに総額8700万ドルの活動資金を提供しました。
イラク戦争開始前の2003年まで、チャラビ―はネオコンの急進派ラムズフェルド国防長官や、リチャード・パール防衛政策協議会諮問委員会委員長と親しく、ブッシュ政権の大量破壊兵器の情報は主にチャラビ―から得ていました。
2004年以降イラクの大量破壊兵器の情報捏造の疑惑が沸き上がるとともに、チャラビ―はブッシュ政権から遠ざけられるようになってしまいました。
度重なる偽情報に疑問を感じたミラーは、作戦会議で上官のベゼル大佐に情報の出所を尋ねました。ベゼル大佐からは、「指令書は精査を経ている。君らは黙って従えがよいのだ。」と言われ無視されてしまいました。
次に命じられた作戦の、アン・マンスールにある地下倉庫探索のため作戦室を出たミラーに、CIAのブラウンが近づいてきて、「その場所はすでに国連の調査団が調べて、何もないことが分かっている。』と言いました。ブラウンはCIAのエージェントとして、長くイラクに駐留していたベテランです。彼は作戦室でのミラーと大佐のやり取りを聞いていて、ミラーが大量破壊兵器の存在に疑問を持っていると感じたのです。ブラウンは、
「イラク軍は大した抵抗もせず我々を受け入れ、どこを探しても何もない、どうもクサイ。何かおかしいと思ったら俺のところに連絡してくれ」
と言い、ミラーに名刺を渡しました。
2つの会議
グリーンゾーンにある大統領府では、国防情報局のパウンドストーンが亡命先からイラクに戻ったズバイディを新しいイラク大統領にする計画を、話していました。イラク国内の3つの勢力、イスラム教のスンニ派とシーア派、それにイラク北部のクルド人勢力を一つにまとめ、ズバイディ新大統領のもとに一気に民主主義を推し進めようといううものです。
これに激しく反対していたのが、CIAのブラウンです。30年も国外で亡命しておりイラク国内で誰も知らない人を連れて来て、『明日から彼がイラクの新しい大統領です。』と言っても誰も支持しないだろうという訳です。それより40万人とも言われる元イラク軍(イラクに出動していたアメリカ兵は約27万人)の将兵を使って治安を確保した上で、改めて民主化を進めるべきだとしていました。フセイン政権が解体した今、軍隊を切り捨てると、今までフセイン政権に抑えられていた反政府勢力が主導権を巡ってお互いに争い始め、イラク国内が内乱状態になると、反対意見を述べます。
アメリカ政府は、独裁者のフセインを倒し民主国家になるといえば、イラク中の人たちが喜んで新しい国づくりに協力すると、単純に考えているようです。
ミラーが派遣されたアン・マンスール近くの屋敷では、元イラク軍の将軍アル・ラウィが軍の幹部たちを集めて会議を開いていました。
今までのイラクは人口の約20パーセントを占めるスンニ派のフセイン政権が強力な軍隊と秘密警察を用いて、残り80%のシーア派や北部クルド人たちを抑えていました。ところが政権が崩壊したことで、スンニ派の立場が一挙に悪くなってしまいました。幹部の中にはアメリカと戦って勢力を取り戻そうとの意見も出ましたが、アル・ラウィ将軍は、
「今、アメリカと戦っても勝ち目はない。イラクに民主主義を定着させようとしているアメリカは、国内の混乱を治めるのに我々の力を借りなければ、目的を達成できないことに気づくだろう。その時が来たらアメリカと取引をして、この国の未来を築くのだ。もし、そうならなかったら改めて戦いを挑むのがよい。」
と言って皆を説得しました。どうやら将軍とアメリカ政府との間には、何等かのつながりがあるようです。
ファリド・ラーマンの一行が屋敷に入っていくのを見ていた、イラク人のフレディ(ファリド・ラーマン)は近くのミラーのもとに行き、アル・ラウィ将軍を見たことを知らせました。ミラー達は屋敷を急襲してアル・ラウィ将軍は逃げられましたが、3人の男を捕らえ、黒い手帳を手に入れました。
現場に戻ったミラーは捕らえられた男の一人であるサイードに対して、大量破壊兵器に関しての聞き込みを開始した途端、4台のヘリでやって来たアメリカ軍の一団に、男たちは連れ去られてしまいました。黒い手帳はミラーが機転を聞かしてフレディ―に渡してその場を去るように言ったため、無事残りました。
基地に帰ったミラーは、CIAのブラウンに事件の顛末を話し、大統領宮殿のプールでブラウンに会って手帳を渡すため、グリーン・ゾーンに向かいました。
そのころグリーン・ゾーンではウォールストリート誌の記者ローリー・デインが、国防省のパウンドストーンに対して、大量破壊兵器の情報源である『マゼラン(暗号名)』に直接会って話を聞きたいと頼んでいました。『マゼラン』は大量破壊兵器の情報を持っている為、国防省がその存在を隠していました。
ローリー・デインはその情報をパウンドストーンから聞き出し、調査もせずにそのまま記事にしていました。しかし、大量破壊兵器が発見されず自分の書いた記事が誤報となるのを恐れた彼女は、『マゼラン』に直接会って話を聞きたいと思っていました。
ウォールストリート誌の記者ローリー・デインのモデルとなったのは、かってニューヨークタイムズの記者であったジュディス・ミラーです。
ジュディス・ミラー
2018年のジュディス・ミラー
出典 Wikipedia
9.11同時多発テロから約1年後の2002年9月8日、ニューヨークタイムズの記者ジュディス・ミラーは同僚のマイケルR.ゴードンとの連名で「イラクが過去1 – 2年にウラン濃縮技術に必要なアルミニウム管数千本を入手しようとしていた」という「匿名の政府高官」から手に入れた情報を掲載しました。
同日の夕方、チェイニー副大統領はテレビ会見で、イラクがアルミ管を輸入していたのは、今朝のニューヨーク・タイムズが掲載した通り事実であると認めました。
続いて、コンドリーザライス、コリンパウエル、ドナルドラムズフェルドが別々のテレビに出演し、ミラーの記事を支持する同様の発言をしたため、アメリカ国民の多くは、サダム・フセインが大量破壊兵器の製造を企んでるとの政府発表を信じてしまいました。
その後も「匿名の亡命イラク人(アフマド・チャラビ―)」からの情報として、サダム・フセインが、大量破壊兵器の製造や貯蔵をしている記事を始め、原爆の原料となるウランをニジェールから輸入したこと等「匿名の政府高官」から得たに偽情報の記事も書いています。
ウランの輸入に対しては、実際に現地で捜査した元ガボン大使のジョゼフ・ウィルソンが、これに反対するレポート「What I Didn’t Find in Africa(私がアフリカで見つけられなかったもの)」を、ニューヨーク・タイムズ紙に発表しました。
これに対してアメリカ政府は、元ガボン大使のジョゼフ・ウィルソンの妻ヴァレリー・ウィルソン(結婚前の姓名はヴァレリー・プレイム)がCIA工作員であることを暴露した記事をジュディス・ミラーに書かせ、このゴシップ記事によりウラン輸入の問題はうウヤムヤなりました(プレイム事件)。
プレイム事件を取り扱った映画があります ↓
これらの記事はイラクから大量破壊兵器が見つからなかったため、イラク戦争開戦の大義「大量破壊兵器が存在する」との世論を形成するため、ブッシュ政権がルイス・ルビー副大統領補佐官を通じて意図的にジュディス・ミラーに流していたことが分かりました。
ジュディス・ミラーはルイスルビーから得た情報を、調査もせずにそのまま流し、イラク戦争に賛成する世論を盛り上げる手助けをしたことに、なってしまったのです。
グリーン・ゾーンのプールで、CIAのブラウンとミラーが話しているのを見たローリー・ディンは会談の後ミラーに近づき、何かあったら連絡してくれるよう頼み、名刺を渡します。
自室に戻った彼が、ウォール・ストリート・ジャーナル、ローリー・ディンと検索したところ、先ほどまで捜査していたマンスールと、その前に調べたディワニヤに関する記事があり、ミラーは彼女がどこからこの情報を仕入れたか、興味を持ちました。しばらくすると、連れ去られたザイードの尋問から、アル・ラウィ将軍の隠れ家のリストを記した黒い手帳がミラーに渡ったことを知ったパウンドストーンがやって来て、手帳を渡すよう迫りました。問題の手帳はブラウンに渡したと答えると、パウンドストーンはCIAより、政府側につかないかと言って帰っていきました。
ミラーは再びCIAに行き、パウンドストーンが来たことを伝えると、ブラウンは大量破壊兵器の情報は『マゼラン』から出ており、『マゼラン』はパウンドストーンが固く守っている為、いまだ正体がつかめていないと、言いました。
更にミラーに100万ドルの現金を渡し、これからサイードが取り調べを受けているクロッパー基地に行ってこの金を見せ、この金と家族ともども海外に逃がすことを条件に、アル・ラウィ将軍をこちら側に引き渡すよう、説得して来いと言いました。
ミラーが通訳役のフレディを連れて出かけるのと行き違いに、パウンドストーンがやって来て大統領命令を出し、CIAから手帳を没収していきました。
パウンドストーンは待機していた部下のブリッグスに手帳を渡し、地元民部隊を率いて、手帳に記されている隠れ家を襲撃するよう命じました。
クロッパー基地に着いたミラーは教えられたとおりにして、サイードと面会することに成功しました。しかし部屋に入った時には、彼は拷問により半死半生の状態でした。サイードはやっとのことで、
「将軍はヨルダンでの会合の、約束を果たした。」
と、だけ言ったところで意識を失ってしまいました。
グリーンゾーンに戻ったミラーは、ローリー・ディン記者の部屋を訪ね、彼女が以前書いた
『開戦前に破壊兵器のことで「マゼラン」が米国側と会った』
との記事について詳しく知りたいと尋ねました。
その会合場所とは、「ヨルダンのことか」と聞くと、彼女は
「会合場所については、情報源からは明かすなと止められている」
と言いながらも軽く頷き、同意の意を表しました。
CIAに戻ったミラーは、ブラウンに工作が失敗したと告げ、預かった100万ドルを返します。さらにサイードが、
「将軍がヨルダンでの会合の約束を果たした」
と聞いたことと、ローリー記者の
『開戦前に破壊兵器のことで「マゼラン」が米国側と会った』
の記事に書かれた会合場所が、ヨルダンだとの話を伝え、「マゼラン」とはアル・ラウィ将軍ではないかとの、憶測を伝えました。
CIAのブラウンは早速アル・ラウィ将軍の国外行動を調べ、2003年2月5日にヨルダンに行ったことを掴みました。さらにバウンドストーンの行動歴を調べると、同じ日に政府専用機でヨルダンに行っていたことが分かりました。
それと同時に゛アザミーヤにあるアル・ラウィ将軍の隠れ家が襲撃された゛との情報が伝えられました。
パウンドストーンの口封じ工作が、始まったようです。
ここから先は夜間の屋外での映像が続くため、明るい部屋でDVDを見ると画面が暗いため何がどうなっているか、全然分かりませんでした。
ミラーは襲撃されている隠れ家から、元イラク軍の将校を助け
「今夜中にアザミーヤのバス停で、アル・ラウィ将軍と会いたい」
との伝言を伝えるよう頼みました。
通訳に当たったイラク人のフレディは
「彼は腐りきった軍人で、イラクをめちゃくちゃにした犯人だ。」
と言って、アル・ラウィ将軍との取引に反対しました。
アル・ラウィ将軍のモデルとなったのは、アリー・ハサン・アル・マジード陸軍中将だと思われます。
アリー・ハサン・アル・マジード
彼は1941年、サダム・フセインが生まれたところと同じ、ティクリート近郊の村、アル=アウジャで生まれました。サダム・フセインとは従兄弟の関係にあります。
1968年7月7日、バアス党のアフマド・ハサン・アル=バクル司令官らが主導したクーデターによりバアス党が制限を握り、アル=バクル司令官が大統領になると、正式にバアス党員となり1973年まで国防相の副官を務めました。
1976年にアス党地域指導部メンバーに選出され、1978年にバアス党軍事局長となった。
1979年、バクル大統領が病気を理由に辞任して、サダム・フセインが大統領に就任しました。
1980年イラン・イラク戦争が起き、アル・マジードは内務省傘下の秘密警察組織、総合治安局局長に就任して、イラク国内の反サダム派の取り締まりに当たりました。
クルド人大虐殺
1987年にバアス党地域指導部のメンバー入りし、それと共に党の北部局議長に任命され、主に中央政府に対して武装闘争を起こしていたクルド人勢力に対する鎮圧(アンファール作戦)を指揮した。
この作戦で、1988年6月16日に起こしたハラブジャ事件(大量破壊兵器の毒ガスを使い、ハラブジャ地区の住民3200~5000人を殺した事件)を含め、50000人から182000人のクルド人を殺害し、「クルディスタンの屠殺者」と呼ばれるようになりました。
湾岸戦争
1992年8月2日、アル・マジードは司令官として軍を率いクウェートに侵攻しました。侵攻後はクウェート行政地区の知事に任命され、イラクに対する反対勢力を治めていました。この知事の間、クウェート王家の金銀財宝を略奪して自分のものにしています。
多国籍軍の反撃開始前、サダム・フセインによってパクダットに呼ばれ、祖国防衛計画を練っていたため、クウェートに帰ることなく湾岸戦争は終了してしまいました。
湾岸戦争終了後
1991年3月に内務大臣に任命され、敗戦後の隙を突いて蜂起したシーア派住民や、北部クルド人に対して、反乱鎮圧のために大虐殺を行いました。この時の虐殺の模様はアル・マジードが映像に記録して、バアス党幹部に配布していました。この虐殺で10万人が殺されたと言われています。また再度の虐殺を恐れたクルド人が、トルコに難民としてなだれ込み、大きな人道問題となりました。
この後1911年11月国防大臣となり、イラク国内の反政府勢力を虐殺し、フセイン政権を守りました。
イラク戦争
イラク戦争が始まると、アル・マジードはサダム・フセインに次ぐ2番目の最重要人物として、アメリカ軍により手配されました。
2003年8月21日、アリー・ハサンは爆撃により両足に大けがを受け、病院で治療を受けているところを発見され、アメリカ軍に拘束された・
長い裁判の末、2010年1月25日、大量虐殺と人道に反する罪で死刑となりました。
2003年におけるアメリカ合衆国および有志連合国によるイラク侵攻において、兵士らがサッダーム・フセイン政権のお尋ね者やバアス党の幹部や革命指導評議会のメンバーを特定するのに助けとなるようアメリカ軍が開発したトランプセットです。
サッダーム・フセイン(スペードのエース ♠)
出典 ウィキペディア
このセットではアリー・ハサンはサダム・フセインに次ぐ2番目のスペードのキングになっています。映画の中でアル・ラウィ将軍が『私の地位は、トランプの中だけかか』と言っていたのは、このことを指しています。
ちなみに映画に出ているアル・ラウィ将軍の本物は、スペードのジャックとして載っています。
出典 HISTORICA
彼に関してはサダム・フセインの副官としか分からず、大量破壊兵器には関係なさそうなので、除外しました。
ミラーがアル・ラウィ将軍の部下を助けた報告を受けたパウンドストーンは、ミラーが将軍と会うつもりだと察し、ミラーの追跡を命じました。
また、急遽記者会見を開きイラク軍や警察を始め、すべての医療機関、教育関係、役所、電気・ガス・水道など公共機関に従事しているバース党党員全員の解雇、追放を決定した旨を発表しました。
この処置は連合国暫定当局命令1と呼ばれるもので2003年5月16日に発効されました。
これはアメリカが行ったイラク戦争で、最悪の悪手でした。それまでのイラクは、人口の約20-セントを占めるスンニ派を主体とするバース党のフセイン政権が、軍隊や秘密警察を使って、残りのシーア派や北部に住むクルド人たちを抑えて来ました。
ところがバース党員の追放により、軍や警察が亡くなり、それまで抑えられていたシーア派やクルド人が反乱を起こした上、さらに解雇された旧イラク軍の兵士達までもアメリカ軍に敵対する状況を作り出し、イラク国内は完全に内乱状態になってとまいました。さらにこの内乱に乗じて、イスラム国(ISIL)のもとになったスンニ派のイラクのアルカイダ(AQI)が勢力を伸ばすことになりました。
イラク国内では医療や教育制度が崩壊したうえ、電気・ガス・水道などの生活基盤も損なわれ、イラク国内全体が、アメリカを敵視する状態を自ら作り出してしまったのです。
アル・ラウィ将軍との会見場所に向かっていたミラーは、将軍の部下に拉致されてしまいました。ミラーがさらわれたため、ミラーの部隊はアメリカ軍に救助の要請を出しました。しかし、その連絡を受けたのは、パウンドストーンが派遣したブリッグスの部隊でした。ブリックスはパウンドストーンから、アル・ラウィ将軍と共にミラーも排除する(殺す)命令を受けていました。
イラク軍解体のニュースはアル・ラウィ将軍も観ていて、将軍はミラーとの会見は彼を捕らえるための罠だと思ってしまいます。
将軍と会ったミラーは、大量破壊兵器計画について話すため、同行するよう頼みました。
しかし、将軍はヨルダンで政府要人と会ったときに、大量破壊兵器は1991年にすべて破壊したと伝えました。
イラクが大量破壊兵器を所有しているとの情報は、パウンドストーンがでっち上げた嘘で、その嘘はフセイン政権の打倒を願うアメリカ政府が求めていたものだったのです。
将軍はアメリカ軍が旧イラク軍を追放したことを伝え、ミラーを殺すよう命じました。ちょうどその時、ミラーを追っていたブリッグスの部隊が隠れ家に飛び込んできて、激しい銃撃戦となり将軍は外に逃げ出していきました。ミラーは殺す役目のイラク人と格闘して殺した後、武器を奪い将軍の後を追います。
市場の隅に将軍を追い詰め、同行して真相を証言してくれるよう頼んでいる所に、通訳のフレディがやって来て、持っていたピストルで将軍を撃ち殺してしまいました。
この時フレディが言った、
「あんたたちに、この国のことは決めさせない。」
との言葉はとても重要です。
帝国主義と植民地
帝国主義をウィキペディアで調べると
帝国主義(ていこくしゅぎ、英: imperialism)またはインペリアリズムとは、一つの国家または民族が自国の利益・領土・勢力の拡大を目指して、政治的・経済的・軍事的に他国や他民族を侵略・支配・抑圧し、強大な国家をつくろうとする運動・思想・政策である。
引用ウィキペディア
とあります。
これをイラク戦争に当てはめると、イラク戦争開戦の理由して挙げられた3つの条件
- イラクが大量破壊兵器を所有している事
- イラクガテロリストを支援している事
- サダム・フセインは反政府的な行いをする国民を虐殺するなど、非人道的な行いをしていた事
ですが、1番と2番に関しては、完全にアメリカ政府がイラクのフセイン政権を倒すために嘘をついていたことが分かっています。
3番の人道問題もイラク・イラン戦争時のクルド人大虐殺や、湾岸戦争直後に、シーア派住民やクルド人がフセイン政権に対して反乱を起こし、虐殺された時に行うべきで、当時何もしなかったのに10年以上たってから問題視するのはおかしいと思います。
ではなぜアメリカがこのような無理をしてまで、フセイン政権を倒す必要があったかというと、豊富な石油資源の利権のためでした。
2001年の時点で、アメリカ国内で産出できる原油は、後10.7年で枯渇すると言われていました。
当時アメリカの主な原油輸入先は
カナダ15.4%
サウジアラビア14.3%
ベネズエラ13.3%
でした。しかし、カナダの原油埋蔵量は世界の0.6%しかなく、あと8.8年で採掘でき無くなる見込みでした。
輸入先第3位のベネズエラは、1999年当選したチャベス大統領が反米路線をとってから国内の政治が安定せず、石油供給の見通しはっきりしなくなっていました。
そこで新たな原油の輸入先として目を付けたのが、イラクでした。イラクの原油埋蔵量は世界5位の規模ですが、湾岸戦争で油井などが被害を受けたため、稼働している油田は全油田の僅か5分の1だけでした。そこでフセイン政権は、ロシアのルーク・オイル、フランスのトルフィナ。エルフ、中国の中国石油天然ガス集団公司に油田の復旧と新たな開発をする交渉を行っていました。
この3か国は国連の安全保障会議でイラク攻撃で反対の立場をとっており、国連の査察団通りイラク国名で大量破壊兵器が見つからず、経済制裁が解除されるとイラクの石油の権利はこの3か国に持って行かれ、アメリカの入る余地は無くなってしまいます。
そこでイラクに大量破壊兵器がないことが確定する前にフセイン政権を倒し、アメリカ寄りの新政権を樹立し、フセイン時代に結ばれたイラクの石油復興計画の契約を破棄し、改めてアメリカ寄りの石油復興の契約を結ぶ必要があったのです。
更にブッシュ政権の閣僚たちの中には、石油産業と関わり合いのあるものが存在していました。
ブッシュ大統領自身、1978年に、「アルブスト・エネルギー」という石油採掘会社を設立しました。この会社はのちに、「ハーケン・エネルギー」という会社に吸収されましたが、ブッシュ大統領はこの会社から多額の顧問料を得ていたと言われています。
チェイニー副大統領は、政権に入る前は油田開発を行う大手企業の針パートン社のCEOを務めており、同社の大株主でもあります。
エヴァンス国務長官は、チェイニー副大統領と同様、天然ガス採掘業者トム・ブラウン者の前CEOでした。
ライス国家安全保障大統領補佐官は、大手石油企業のシェブロン社の重役を務めていました。
コンドリーザ・ライスの名前を付けた、シェブロン社のタンカー
出典 Pinterest
大量破壊兵器のウソがばれる前にアメリカよりの政権を作らなくてはならないため、従来のように国内の反政府組織を作り、その組織によってクーデターを起こして親米政権を作ることが出来ず、アメリカ軍が直接フセイン政権を倒し、米軍指導の下に亡命イラク人(アフマド・チャラビ―映画ではズバイディ)を首班とした傀儡政権を作ることにしたのです。まさに帝国主義時代の植民地政策と同じことを行おうとしていました。
しかし、
「あんたたちに、この国のことは決めさせない。」
との言葉通り、イラク国内の諸派が反対したため実現しませんでした。
映画の最後に「ウォール・ストリート・ジャーナル」の記者ローリー・デインがミラーから送られてきたメールを開くと、事件の顛末を記した詳細なレーポトと、『今度は正確な記事を書いてくれ』とのメモでした。
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映画「バイス」イラク戦争開戦の「大量破壊兵器」のウソを暴け、その3。イラクが「大量破壊兵器」を持っていると捏造して、イラク戦争をはじめた張本人の話です。
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