なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

海外ドラマ エリザベート 愛と哀しみの皇妃 その2

time 2017/04/09

海外ドラマ エリザベート 愛と哀しみの皇妃    その2

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亀仙人2

海外ドラマ 「エリザベート 愛と哀しみの皇妃」 その2

オーストリア皇帝 フランツ・ヨーゼフ1世の説明が長くなったため、解説を2つに分けて、こちらではエリザベートの日常生活と、皇帝の弟マクシミリアン、ハンガリーのアンドラーシ伯爵について書きます。

お見合い

 

お見合いシーンでエリザベートの母ルドヴィカが黒い喪服を着ているのは叔母の葬式があったため。荷物が遅れてお見合いに間に合わなかったのが原因。お見合いの場所はフランツ・ヨーゼフ1世の両親の夏の別荘で、ルドヴィカが避暑に来ていた姉ゾフィーの所へ娘2人を連れて遊びに来た内々の集まりのため喪服でも通用した。本当は娘たちも喪服だったが映画では白いドレスになっている。

エリザベートは犬が大好き

子供たちを乳母に取り上げられ。夫は公務でなかなか会えないためか、常に犬を飼っていた。特に大型犬が好きだったみたい。

映画の野外シーンでよく犬が出てくるので、気にしていてください。

エリザベートの1日

身長172㎝、ウェスト50㎝、体重45~47㎏の体型を維持するために、過酷と思えるダイエットとエクササイズをしていた。

・朝、肌を引き締めるために水風呂に入る。時にはそこに蜂蜜や牛乳を入れたりした。

エリザベート自慢の長い髪

・入浴の後、約3時間かけて、髪の毛に丁寧にブラッシングをかけ髪を結った。

濃い化粧は嫌いだったので、専属の薬剤師2名が作った特製の化粧水と保湿クリームだけ。この薬剤師2名は旅行の時も連れて行った。その後衣装を整えて昼食へ。

・昼食のメニューは暖かいブイヨンやミルク、果物や野菜のジュース。乳清(チーズやヨーグルトを固めた後に出てくる水分、ヨーグルトを放っておくと上に出てくる水みたいなもの)、卵の白身を塩で味付けした料理など。

そして欠かせないのがこれ

これはフランスから取り寄せたプレス器。これで子牛の生肉を絞って肉汁を飲んでいたという。

・昼食の後はエクササイズ。写真はホーフブルク宮殿に設けられたエリザベート専用の化粧室兼体操室の写真。真ん中の梯子みたいなものは、肋木(ろくぼく)と言われるスウェーデン体操の器具。左の通路の入り口に吊り輪が見える。

これら器具はエリザベートが平行棒をやっているシーンで、ちょこっと出てきます。

・体操の後は、靴底に鉄のおもりを付けたブーツを履いて、宮殿から10キロほど離れた郊外までウォーキング。往復で20キロの距離を4時間で歩いたので、競歩並みのスピードだと言われる。但しウィーンにはハプスブルグ家の影響でカフェが数多くあり、そこにはおいしいケーキがおいてあり、エリザベートもかなり寄り道したようです。検索していたらデーメルという店でシシィ・トルテというケーキが出てきました。宮廷近くのこのお店には、かなり通っていたみたい。

・夕方6時、体重計に乗り50㎏を超えていると、たとえ公式であろうと晩餐会と舞踏会は欠席、絶食して再びエクササイズをした。

・寝るときは、裏に生の牛肉を貼り付けた皮のマスクを付け、腰にお酢を湿らせたタオルをまき、背筋を真っ直ぐにするため枕は使わなかったそうです。

義弟マクシミリアン(メキシコ皇帝)

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟。兄と同じく帝王学を学ぶが兄ほど厳格でなかったため、自由主義的な思想にも理解を示しエリザベートと話が合った。

1854年オーストリア海軍の司令長官となり、山国であるオーストリアのために海軍の近代化に貢献した。

1857年2月老齢のため引退したラデツキー元帥の後を継いでロンバルド=ヴェネト王国の副王に任命された。

1857年7月27日、ブリュッセルでベルギー王女シャルロッテと結婚した。

1859年イタリアでの自由主義政策の実行に怒った兄フランツ・ヨーゼフ1世は副王の地位を解任した。その後はトリエステで隠遁生活を送る。

1861年フランスのナポレオン3世はメキシコに出兵したが、メキシコ共和国軍の抵抗で苦戦していた。そこで彼は保守派と手を結びフランスの息がかかった帝国を作り、1864年4月フランツ・ヨーゼフ1世の弟であるマクシミリアンをメキシコ皇帝に就けた。

メキシコ皇帝時代のマクシミリアン(マクシミリアーノ1世)

1865年、メキシコ皇帝を支援していたフランスは、軍備増強を進めのるプロイセンに対抗するため軍隊を引き揚げることにして、マクシミリアンにも撤退を進めたが、彼は皇帝としてメキシコに残ることを選んだ。

1867年5月15日共和派の軍に取らえられ、軍事裁判で死刑を宣告され、1867年6月9日に処刑された。

妻のシャルロットはフランス軍の撤退に怒り、単身フランスに渡りナポレオン3世に直談判したが埒が明かず、ローマ法王にメキシコに十字軍を送るよう嘆願したりしたが、思うようにならず、半狂乱状態になり、ベルギーの実弟フランダース伯爵に引き取られ、彼の下で保護幽閉された。1927年夫マクシミリアンの死を知らされることもなく、亡くなった。映画で夫の死体にすがって嘆いたシーンはフィクションです。

アンドラーシ伯爵

アンドラーシ・ジュラ伯爵

1823年3月3日、ハンガリー王国のコショで生まれた。

1848年からのハンガリー革命と独立戦争にコシュートを支持し参加するが、敗れてしまい、国外追放となった。

1857年恩赦で帰国した後は、ハンガリーの自治権獲得のため活躍した。

1867年オーストリア帝国とアウグスライヒ(妥協)が成立し、オーストリア=ハンガリー二重帝国が生まれると、初代首相兼国防相になった。

1890年死亡。

エリザベートとハンガリー

エリザベートは1857年ハンガリー訪問(この時長女ゾフィーを亡くしている)以来、大のハンガリー贔屓になり、御付きの女官をハンガリー人にしたり、またアンドラーシ伯爵と度々会い、ハンガリーが独立するようフランツ・ヨーゼフ1世に働きかけ、オーストリア=ハンガリー二重帝国誕生の陰の立役者となった。

そのため母国オーストリアより、ハンガリーの方が人気がある。

更に帝国成立後、三女ヴァレリーをブタペストで産み、その後もハンガリー人の乳母を付け、ハンガリー語で育てたため、アンドラーシ伯爵との関係を疑われたが、ヴァレリーが大きくなりフランツ・ヨーゼフ1世に似てきたため、この疑いは晴れた。

追加説明のおまけ

フランツ・ヨーゼフに一番似ていると言わしめた、ヴィンターハルターによるエリザベートの肖像画

宮廷画家ヴィンターハルターからエリザベートの話を聞いたフランス皇后ウジェニーは一度会いたいと思ったが、イタリア独立戦争やマクシミリアンの処刑などで両国の関係が悪くなっているため、なかなか実現できなかった。

1867年8月両国の関係を調整するという名目で、ナポレオン3世がオーストリアのザルツブルグに訪問した。はじめは敵役のナポレオン3世が訪問することに反発したザルツブルグ市民も、美貌の両皇后が見られるとあって沸き立った。

ヴィンターハルターが描いたウジェニー皇后の肖像画

映画では両皇后はイタリア戦争の前に会っていますが、実はこの時が初めてです。

映画の感想です。

はた目には、豪華絢爛な宮廷で何一つ不自由なこともなく優雅に暮らしているように見える王族の暮らしも、維持するためには大変な努力をしているのが、よくわかりました。

フランツ・ヨーゼフ1世の解説はこちら ↓

海外ドラマ 「エリザベート 愛と哀しみの皇妃」 その1

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