なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

海外ドラマ 「エリザベート 愛と哀しみの皇妃」 その1

time 2017/04/07

海外ドラマ 「エリザベート 愛と哀しみの皇妃」 その1

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亀仙人2

海外ドラマ 「エリザベート 愛と哀しみの皇妃」

2009年 イタリア・オーストリア・ドイツ合作

監督
ザヴィエ・ショワルツェンベルガー

キャスト
クリスティーナ・カポトンディ
デヴィッド・ロット

バイエルンのバラと謳われた絶世の美女オーストリア皇紀エリザベートが、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に見初められ結婚してから、オーストリア=ハンガリー帝国の皇妃までを史実に基づいて描いている。

ドラマはエリザベー中心で出来ているので、脇役の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、その弟マクシミリアン、ハンガリーのアンドラーシ伯爵について書いてみます。

 

第1次世界大戦当時(1915年撮影)フランツ・ヨーゼフ1世で、この時の写真が代表的なものですが、若い時の肖像画(1853年エリザベートと婚約した年)ではかなりの美男子です。

フランツ・ヨーゼフ1世の母ゾフィーと、エリザベートの母ルドヴィカはバイエルン国王マクシミリアン1世の王女で姉妹でした。

幼いころから将来の皇帝と目されていたフランツ・ヨーゼフ1世は6歳から帝王学の授業を受け、15歳頃には朝6時から夜の9時まで勉強させられていた。

1948年フランスで2月革命がおこり国王ルイ・フィリップが退位し第2共和制になった。このことはヨーロッパ各地に広がり各国で革命がおこった。

これは伯父のフェルディナント帝の支配するオーストリアに飛び火し、検閲の禁止、自主憲法の制定、などを求め王宮前に集まり暴徒化した。4月25日フェルナンド帝が欽定憲法(君主によって制定された憲法)を発布し、一時収まったが、さらに普通選挙法の制定などを求めて5月15日再び宮廷前に集まった。危険を察したフェルナンド帝は一族を連れてチロルのインスブルックに避難した。

8月初めにはウィーンに戻ったが、10月16日に再び暴動が起きたため、今度はメーレン(現在のチェコ)のオルミュッツに避難した。

オルミュッツの宮廷会議で伯父フェルディナント帝の退位が決まり、フランツが18歳ながら即位することが決定された。

同じ1948年3月イタリアのロンバルディアとヴェネツィアの民衆がオーストリアに反乱を起こし、第1次イタリア独立戦争が始まった。同年3月15日ハンガリーでもコシュート・ラヨシュがオーストリア帝国からハンガリー王国を独立させようと革命が起こった。

君主は神によって統治権を与えられたという王権神授説を信じる新皇帝にとって、これらの出来事は許せるものではなく強い態度で臨み絶対主義国家に進んだ。ただフランツ・ヨーゼフ1世の行ったのは新絶対主義と呼ばれるもので,臣民に近代的な経済・行政・教育を行うものである。

独立闘争の続いているハンガリーに対して、ロシアの力を借り武力で弾圧し、1949年10月6日ハンガリーの主な民族である114名のマジャル人を粛正した。

1953年2月18日ハンガリーの愛国主義者ヤーノシュ・リーベニにナイフで刺されるという、暗殺未遂が起きた。当日夜にフランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートの姉へレーネとの見合いを兼ねて、舞踏会が行われる予定であったが、この事件で流れ、8月16日に改めてヘレーネとの見合いが行われた。この席で一緒に来ていたエリザベートに一目惚れをし、婚約したのは映画のとおり。

ただし映画では婚約の後、暴漢に襲われたことになっているが、実際は姉ヘレーネの見合いの前でした。

1815年のウィーン会議で、北イタリアのロンバルド=ベネト王国はオーストリア領になっていたが、現地ではオーストリアからの分離独立運動が盛んになっていた。これを鎮めるため1856年11月から4ヶ月にわたって、皇后エリザベートと共に巡行を行った。

1857年、フランツ・ヨーゼフ1世がエリザベートと子供を連れてハンガリーを訪問した際、2人の子供が急な発熱と下痢を起こし妹は助かったが、長女ゾフィー大公女が亡くなった。原因はチフスだと考えられている。

1857年7月ナポレオン3世とサルデーニャ王国は一緒にオーストリア領のロンバルト=ベネット王国を攻め、ニースとサヴォイアをフランスに割譲するという密約を結んだ(ブロンビエール密約)。

1859年サルデーニャ王国が軍を国境近くに集めたのをきっかけとして、オーストリアは宣戦布告した。しかし、フランス・サルデーニャ連合軍に負け、イタリアでの権益を失った。

この戦争に負けたため自由主義的な改革を目指し帝国機会の拡大(1860年)、翌1861年二月勅許(憲法)を発布し新絶対主義を終わらせ、立憲君主国を目指した。

1866年オーストリアが議長を務めるドイツ連邦からプロイセン王国が脱退したため、ドイツ連邦がプロイセンに宣戦布告して始まった。

ドイツ統一を狙っていたプロイセン王国は宰相ビスマルクがフランスやイタリアなどとあらかじめ根回しをし、さらに参謀総長の大モルトケが鉄道や電信などの準備をしていため、戦いは7週間でオーストリア側の完敗で終わった。

イタリア、ドイツとの支配権を失ったオーストリアは1967年ハンガリーとアウグスライヒ(妥協)を行い、外交・軍事・財政以外の内政権をハンガリーに認め、オーストリア帝国とハンガリー王国が共同で帝国を支配するオーストリア=ハンガリー二重帝国が発足した。

ハンガリー王国(緑の部分)

1867年フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートはハンガリーのブダペストでハンガリー国王の戴冠式を執り行った。

この祝賀会の最中、弟でメキシコ皇帝のマクシミリアンが処刑されたと知らされた。

1889年、長男ルドルフ皇太子が、マリー・ヴェッツェラ男爵霊場と心中した。

1898年、皇后エリザベートがスイスのジュネーブでイタリアの無政府主義者ルイジ・ルキーニによって暗殺された。この知らせを受けたフランツ・ヨーゼフ1世は「この世はどこまで余を苦しめれば気が済むのか」と嘆いた。

弟カール・ルートヴィヒが1896年に死去すると、その長男のフランツ・フェルディナント大公を皇位継承者に指名した。

1914年のサラエボ事件がきっかけとなり、1914年7月28日オーストリアはセルビアに宣戦布告し、第1次世界大戦が始まった。

開戦後すべての権力をヘッツェンドルフ率いるり陸軍参謀本部に委ね、第一線から退いた。

大戦最中の1916年11月21日死亡した。晩年は「国父」とも「不死鳥」とも呼ばれ、オーストリアの象徴的存在となった。

 

「映画」エリザベート愛と悲しみの皇紀の解説の続きは↓

海外ドラマ エリザベート 愛と哀しみの皇妃 その2

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