なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

なぜ戦争がはじまるのか。1914年 第1次世界大戦 その1 セルビア事件

time 2017/03/28

なぜ戦争がはじまるのか。1914年 第1次世界大戦 その1 セルビア事件

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亀仙人2

第1次世界大戦のきっかけ(サラエボ事件)

1914年6月28日オーストリアの皇太子フランツ・フェルデナント大公とその妻ゾフィーがサラエボを視察中にボスニア系セルビア人のガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件(サラエボ事件)が起こりました。この事件がきっかけとなり、第1次世界大戦が勃発します。

なぜオーストリアとセルビア2国間の争いに、ロシア、ドイツ、フランス、イギリスが加わってヨーロッパから世界広がる大戦争になったか調べてました。

関係する国々

オーストリア=ハンガリー帝国

ハプスブルグ家の君主が統治した多民族国家のオーストリア帝国が前身です。

当時のオーストリア帝国の民族構成は

ドイツ人          24%

ハンガリー人 20%

チェコ人   13%

ポーランド人 10%

ウクライナ人 8%

ルーマニア人 6%

クロアチア人 5%

スロバキア人 4%

セルビア人  4%

スロベニア人    3%

イタリア人  3%

1853年ロシアが冬でも凍らない港を求めて、オスマントルコとクリミア戦争を開始した。自国の領土があるバルカン半島にロシアが影響力を持つことを恐れたオーストリアは、それまで友好関係のあるロシアを捨て、トルコに味方した。

ロシアの後ろ盾を失ったオーストリアは急速に勢力を弱め1859年にイタリア、1866年にはプロシャとの戦いに負け、さらには各民族の自治権獲得運動も活発化した。

そもそも民族運動が起こったのは支配階級のドイツ人が少なかったためです。そこで、ドイツ人の次に人口の多いハンガリー人に自治権を与えハンガリー人の政府を作り、オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ね、軍事・外交・財政のみを共有し、そのほかはそれぞれの政府が政治を行う、オーストリア=ハンガリー二重帝国が形成されました。

オーストリア・ハンガリー二重帝国の誕生までの経緯はこちらをご覧ください。↓

海外ドラマ 「エリザベート 愛と哀しみの皇妃」 その1

 

そのため、ほかの自治権を認められない各国においては、かえって民族運動が激しくなった。ただオーストリア=ハンガリー帝国から独立すると、力を付けたプロシャと大国ロシアの間で国家を維持するのが難しいため、不満は鬱積していった。

ボスニア・ヘルツェゴビナ

19世紀バルカン半島はオスマントルコの領土であった。そこでバルカン半島にすむスラブ系の民族がトルコに対して反乱を起こし、それを支援するロシアとトルコの間で露土戦争(1877年~1878年)が起こった。

この戦いの前年(1976年)オーストリアはロシアとボスニア・ヘルツェゴビナを獲得する代わりに中立を維持するという秘密協定(ライヒシュタット協定)を結んでいた。

露土戦争はロシアの勝利で終わり、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナの施政権を獲得し、1908年正式にオーストリアに併合された。

ここはセルビア人が多く住み、南に隣するセルビアとの帰属を望んでいた。

セルビア

1875年に発生した反オスマン帝国のヘルツェゴビナ蜂起を支援するため、セルビアはモンテネグロと共に1876年トルコに宣戦布告した。しかしトルコの反撃が強く、休戦していた。また、同時にブルガリアに起こったトルコに対する反乱(ブルガリア人の4月蜂起)も鎮圧された。ただブルガリア人に対してトルコが行った4万人に及ぶ大虐殺でトルコはイギリスの支援を得られなくなった。

これを見ていたロシアはバルカン半島を横切り地中海への通路を確保する南下政策の一環として、1877年スラブ民族を助けることを名目にトルコとの戦争を(露土戦争)を始めた。

トルコと休戦状態にあったセルビアは、再び露土戦争に復帰しトルコと戦った。

露土戦争でトルコが負けたため、1878年のベルリン会議でセルビア、モンテネグロ、ルーマニアはオスマン帝国からの独立が認められた。

ただ、セルビア人が多く住み、露土戦争の元となったヘルツェゴビナ蜂起が起きたボスニア・ヘルツェゴビナは、オーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国間の秘密協定(ライヒシュタット協定)に従って、オーストリア・ハンガリー帝国の管理下に置かれました。

1882年オーストリア=ハンガリー帝国の承認を得て王政に移行しセルビア王国となる。

1903年6月11日に起きたクーデターにより、王位がオーストリアよりのオブレノヴィッチ家から親ロシア派のカラジョルジェヴィッチ家のペータル1世に移るとオーストリアとの関係が悪化した。

1908年オーストリアはセルビア人が多く住むボスニア・ヘルツェゴビナを併合した。このことでセルビアとオーストリアの関係は一層悪化し、サラエボ事件発生の原因となった。

1912年オスマン帝国がイタリア王国との戦いに敗れたことに乗じてセルビアは、ブルガリア・モンテネグロ・ギリシャ王国とバルカン同盟を結成して、オスマン帝国に宣戦した。この第1次バルカン戦争でマケドニアを得てモンテネグロ以外の3国がこれを分割した。

ところが、オスマン帝国から奪ったマケドニア地方(ブルガリア・ギリシャ・セルビアが接している地域)の領有問題がこじれ、翌1913年6月29日ブルガリアがセルビアとギリシャに侵攻して第2次バルカン戦争が勃発した。

 

この2つの戦争でブルガリアとオスマン帝国は、領土を大幅に減少しお互いに接近するようになる。またバルカン半島におけるロシアの影響力が強くなります。

この戦いでセルビアは領土が2倍になり、セルビア人としての民族意識が高まった。

1914年のバルカン半島

赤線で囲まれたボスニア・ヘルツェゴヴィナは、

1908年オーストリア・ハンガリー帝国に併合されていた。

 出典 バルパロッサノート

ドイツ

1868年スペインのイサベル女王2世廃位の後に空位となっていたスペイン国王にプロシア王家の縁戚のホーエンツォルン家から後継者を迎えようとしたが、国家の両側をドイツに挟まれるを嫌ったフランスのナポレオン3世がプロイセンに宣戦布告をし、1970年普仏戦争が始まった。

プロイセン王国(緑の部分)

戦争はプロイセンに南ドイツの各王国が加わり、モルトケ参謀総長率いるドイツ軍が勝利した。プロイセン宰相のビスマルクは南ドイツの各王国と交渉を重ね、プロイセン国王がドイツ皇帝となるドイツ帝国が誕生した。

戦争で得たアルザス=ロレール地方は石炭と鉄鉱石の産地であったので、以後ドイツ帝国の工業化が一気に進み、第1次世界大戦直前にはアメリカに次ぐ世界第2位の工業国になった。

大モルトケによる、参謀本部で軍の運用を一本化したため効率的な軍の運用が可能になり、さらに常備軍でなく国民皆兵の徴兵制を行ったため、ヨーロッパ有数の軍事大国になった。

三国同盟と三国協商

バルカン半島でロシアの影響力が増大することを恐れたオーストリアは、1979年ドイツと同盟結ぶ。これに地中海での権益を脅かされたイタリアが加わることで1982年ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟が成立した。

軍事力を増大するドイツに接しているフランスとロシアは1894年露仏同盟を結んだ。大陸と海を経立てたイギリスははじめ静観していたが、フランスと植民地関係の利害を調整するため1904年協商を結んだ。さらにロシアと海外での勢力範囲の確定を明確にするため1907年協商を結ぶ。これにより三国同盟を囲むような形で三国協商が成立した。

 

同盟と協商の違い

一般的には、条約、協定、議定書、宣言、交換文書などの公式文書で取り決められたのが同盟、公式文書を必要としない非公式な取り決めが協商とされている。

サラエボ事件

1914年6月28日、ボスニアヘルツェゴビナの州都サラエボでオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公と妻ゾフィーが、セルビア人民族主義者のガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されました(サラエボ事件)。

フランツ・フェルディナント大公は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の一人息子ルドルフ皇太子が心中事件(マイヤーリンク事件)で亡くなった後、フランツ・ヨーゼフ1世の弟カールルートヴィヒ大公がオーストリア・ハンガリー帝国の推定相続人となりましたが、1896年5月19日に彼が死亡すると、その長男で皇帝フランツ・ヨーゼフ1世にとっては甥にあたるフランツ・フェルディナント大公が、帝位継承者に指名されました。

フランツ・フェルディナント大公が帝位継承者で皇太子となれなかったのは、サラエボ事件の14年前、1900年6月28日大公がチェコのボヘミアの伯爵家出身のゾフィー・ホテクと結婚したのが原因でした。

この結婚は、昔気質のフランツ・ヨーゼフ1世が由緒ある王家の出身者以外との結婚を認めなかったため揉めましたが、最終的にゾフィーが皇族としての特権をすべて放棄し、将来生まれる子供には帝位を継がせないことで結婚を認められました。

そのためフェルディナント大公の帝位継承権は一代だけで子孫には受け継がれないため、皇太子ではなく帝位継承者となります。妻のゾフィーにも「大公妃」の称号を名乗ることは許されず、代わりに「ホーエンベルク公爵夫人(この場合の公爵夫人は、公爵の妻という意味ではなく、婦人本人が公爵の爵位を持っていることです)」の称号を与えられました。このため正式な皇室の一員と見なされず、公式行事においては夫フェルディナント大公との同席は許されず、幼児を含む全ての皇族の末席に座ることを余儀なくされた。


フェルディナント大公夫妻と子供達(1910年)

出典 ウィキペディア

皇室の公式行事には同席を許されないゾフィーであったが、一つだけ抜け道が有りました。それはフェルディナント大公が陸軍元帥、且つ全軍監察官に就任していたため、軍関係の行事には元帥夫人として一緒に参加することが出来ました。

サラエボ事件の1914年6月28日、6月28日はセルビアでは聖ヴィトゥスの日(Vidovdan)と呼ばれる祝日であるのと同時に、1389年のコソボの戦いで旧セルビア王国がオスマン帝国軍に大敗した記念日でもあり、夫のフェルディナント大公はボスニアでの軍事演習を視察し、そのあと閲兵式を行い、その後午前10時にサラエボ駅から、夫妻の歓迎式典が行われる市庁舎に向かってオープンカーで移動を開始しました。

 

この時を待っていたのが、ガヴリロ・プリンツィプ含む7人のセルビア民族主義者(ナロードナ・オドブラナ Narodna Odbrana)で黒手組のグループでした。

彼等は1908年、セルビア人が多く住むボスニアをオーストリアが併合したことに、腹を立てていました。

この7人の名前は

  • ダニロ・イリッチ英語版)グループのまとめ役、拳銃と手榴弾の調達
  • ムハメド・メフメドバシッチ英語版)1914年1月にボスニアの知事、オスカル・ポティオレク暗殺計画に参加しましたが、失敗した経験があります。
  • ツヴィエトコ・ポポヴィッチ英語版)学生 手榴弾担当
  • ヴァソ・チュブリロヴィッチ英語版)学生 手榴弾担当
  • ガヴリロ・プリンツィプ フランツ・フェルディナント大公夫妻を殺害した犯人
  • ネデリュコ・チャブリノヴィッチ英語版) パレードの車列に手榴弾を投げた人
  • トリフコ・グラベジュ  教師への暴行罪で逮捕された、前科があり。拳銃担当

イリッチは、計画実行の後自決するための青酸カリを全員に渡しました。

 

フェルディナント大公のサラエボ訪問の前日、地元の新聞がパレードのルートを掲載していました。またフェルディナント大公は地元との友好を示そうとして、オーブンカーを選び、警備には軍隊を使用せず、120人の警官を配備しました。

暗殺者たちはパレードのコースである、ミリャッカ川沿いのアッペル・ケイ通りに沿って待ち構えていました。

一番手は経験豊富なメフメドバシッチでしたが、警官がそばに居たため実行できませんでした。

2番手のチャブリノヴィッチはフェルディナント大公の車に向かって手榴弾を投げましたが、点火してすぐ投げたため、手榴弾は大公の車に当たって跳ね返り、後続車に乗っていたメリッツィ伯爵の所で爆発し、伯爵と見物に来ていた人12人が負傷しました。

チャブリノヴィッチは手筈通り青酸カリを飲み、ミリャッカ川に身を投げましたが、青酸カリを吐き出したうえ、ミリャッカ川の水深が10㎝しかなかったため警備の警察官に逮捕されました。

3番手と4番手のポポヴィッチとチュブリロヴィッチは、手榴弾を持って道の両側で待機していましたが、大公達の車列が猛スピードで通過したため、何もできませんでした。

その他のメンバーも、暗殺が失敗したことで、その場を離れました。ガヴリロ・プリンツィプは、近くにあった軽食屋(シラーの店)に入り、身を隠しました。

フェルディナント大公は市庁舎に着き、市長に抗議しようとしましたが、何も知らない市長が歓迎のあいさつをした為、大公はサラエボの人々の歓迎にたいして「暗殺の試みが失敗したことへの歓喜が表れている」として感謝の意を述べたるだけに止めました。

この間に大公の侍従であるルメルスキルヒ男爵は、警備を強化するため兵士の派遣を求めましたが、オスカル・ポティオレク総督は、演習中の兵士はそのような任務にふさわしい礼装を準備していないとして、これを断ります。

10時45分、フェルディナント大公は歓迎式典を早めに切り上げ、その後の予定を変更して、先ほどの暗殺未遂による負傷者を見舞うためサラエボ病院を訪問することを決め、市庁舎を出発しました。

サラエボ事件の経緯を4段階で示した地図

元となった画像の出典 ウィキペディア

ところが、大公を乗せたオープンカーがラテン橋のたもとにある交差点で道を間違え方向転換のため停止しました。これは帰りのコース変更を知らされていなかった1台目と2台目の車が、ラテン橋の交差点で予定通り右折してフランツ・ヨーゼフ通りに向かったため、一旦車を止めて、病院へのコースに戻すためでした。

この場所はプリンツィプが身を隠していた、軽食屋の目の前だったのです。

プリンツィプは銃を抜いて大公の車の踏み板に飛び乗り、一発目は大公に向かって撃ち、大公の首の頸動脈を撃ち抜きました。次に警備のため同乗していたポティオレク総督に向かって撃ちましたが、弾がそれてしまい、大公の妻ゾフィーに当たってしまいました。

暗殺直後の現場の様子

出典ウィキペディア

プリンツィプはその場で拳銃自殺しようとしましたが、周りにいた警官に取り押さえられてしまいました。

暗殺時に大公が着用していた軍服には防弾処理が施されていましたが、弾が首に当たったため役に立ちませんでした。

出典ウィキペディア

11時30分、大公夫妻は共に息を引き取りました。

7月危機

1914年6月28日のサラエボ事件から、オーストリアがセルビアに宣戦布告して第1次世界大戦が始まるまでの約1か月を、7月危機と言います。

・6月30日

逮捕された、プリンツィプとチャブリノヴィッチは最後まで口を割りませんでしたが、プリンツィプと一緒に居たことがきっかけでリーダー格のイリッチが逮捕され、彼は計画のすべてを自白してしまいました。

捕らえられた暗殺グループの尋問から、彼らがセルビア国内で訓練をし、セルビアから武器を支給され、2名のセルビア人国境警備隊の力を借りてボスニアに密入国したことが判明しました。

これにより、フェルナンド大公暗殺にセルビアが関与したことが分かり、オーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世と外相レオポルト・ベルトヒルト伯爵はセルビアに対し強硬処置を取ることに合意しました。

ただこの時点では、7人の暗殺者が属していた組織、ナーロドナ・オドブラナ(セルビア国家主義者組織)グループを結成し、便宜を図ったいたのがセルビアの秘密組織「黒手組」であることは、分かっていませんでした。

「黒手組」を組織したのは、セルビア軍参謀将校のドラグーティン・ディミトリエビッチ(暗号名・アピス)です。1911年、彼はセルビア国内の民族主義者を束ねて秘密組織「黒手組」作り、テロ活動や、要人暗殺活動を指揮していました。

 

・7月5日

ドイツ皇帝(カイザー)ヴィルヘルム二世はドイツに協力を求めるフランツ・ヨーゼフ1世の親書を携えたオーストリア大使に面会し、宰相の同意があれば「ドイツの全面支援を当てにしてよい」と確約した。

・7月6日

カイザーの後を受けたドイツ帝国宰相テオバルト・フォン・ペートマン=ホルヴェークはオーストリアに無条件の支援を提供した。これは世に「白紙小切手」と言われる約束であった。ただ彼とカイザーはともに、直ちにセルビアに干渉することが「最善なバルカン問題の解決方法」であることを伝えた。

ドイツがオーストリアに早急に行動することを望んだのは、ロシアの国土が広大であることと、交通網の未発達のため動員に時間がかかり、介入する前に事を収めかったからである。そうすれば戦火は拡大せずオーストアとセルビアの2国間だけで済むはずでした。

これを狂わしたのが、オーストリアの反応の鈍さであった。

・7月19日

オーストリアはセルビアに対し強硬策を取ることを決定。

・7月20日~23日

フランス大統領レイモン・ポアンカレはサンクトペテルブルクのロシア皇帝への公式訪問で、セルビアに対するオーストリアのいかなる行為に対しても、妥協しないよう求めた。

・7月23日午後6時

フランス使節団がロシアから帰路に着くのを待っていたオーストリアは、10ヶ条からなる最後通牒をセルビアに送付した。返答の期限は48時間と短い時間でした。

オーストリア=ハンガリー帝国が、セルビア王国に送った最後通牒

  1. 帝国政府の君主制に対する憎悪・軽蔑を扇動するすべての出版を禁止すること。
  2. ナーロドナ・オドブラナ(セルビア国家主義者組織)と称する組織を解散させ宣伝その他の手段を没収し、帝国政府に対するプロパガンダを行う他の組織も同様にすること。
  3. 帝国政府に対するプロパガンダを助長しているもしくは助長する恐れのある全てを(教師も教材も含めて)セルビアの公教育から遅滞なく削除すること。
  4. 帝国政府に対するプロパガンダを行った罪で、帝国政府が一覧にした全ての軍関係者と政府職員を解雇すること。
  5. 領土保全に反する破壊分子の運動の抑圧のために、帝国政府の一機関との協力を受け入れること。
  6. セルビア領で見つけられる可能性のある、サラエヴォ事件の共犯者を法廷尋問するとともに、帝国政府の一機関をこの手続きに参加させること。
  7. 帝国政府が行った予備捜査によって浮かび上がった2人の指名手配犯を直ちに逮捕すること。
  8. 武器と爆発物の違法売買の流通を効果的な方法によって防ぐこと。
  9. 国内国外を問わず、帝国政府に敵意を示したセルビア政府高官の陳述書を届けること。
  10. 全てについて実行する手段を、遅滞なく帝国政府に知らせること。

少なくとも7月25日の午後6時までは待つ。

引用ウィキペディア

セルビアが国軍の参謀将校であるディミトリエビッチ(暗号名・アピス)の運営する「黒手組」が、フェルナンド大公を暗殺したプリンツィプをはじめとする7人のテロリストを組織、訓練、武器の調達したのを容認した国家は許さない、ということです。

これは、2001年の9.11事件を起こしたテロリストグループ(アルカイダ)を国内にかくまっていたアフガニスタン(当時はタリバン政権)に対して、アメリカが攻撃をしたのと同じ理屈です。

・7月24日

24日午前中にオーストリアはセルビアの対する最後通牒を列強各国の外交筋に通知した。

これを受けてロシアの大臣会議は、兵士の部分動員を決議し、セルビアに最後通牒を受け入れないよう知らせた。またロシアがセルビアを支援することを決めた。これはロシアがセルビアに渡した「白紙小切手」と言われる。

・7月25日

ロシア皇帝ニコライ2世は大臣会議の決議を受けドイツとの隣接する地域を除いた、部分動員を発令した。これによりロシアは第1次世界大戦で最初に動員をかけた国になった。

ロシアの動員に力を得たセルビアは、10か条の全面受諾を求めるオーストリアに対し、司法と警察にオーストリアが介入する部分(第5条と第6条)を除く8か条を受諾することを通知した。

オーストリア政府はセルビア政府に、黒手組の創始者ディミトリイェヴィチのほか、ミラン・シガノヴィチ、ヴォジスラフ・タンコシチの3人の黒手組のメンバーを逮捕しウィーンに送るように要求した。パシチ首相は引き渡しがセルビア憲法に違反することを理由に、即日これを拒否した。

第一次世界大戦前の国境線を示した地図。『歴史群像』から引用。

当時ロシア帝国は、オーストリア=ハンガリー帝国とドイツ帝国に直接国境を接しており、オーストリア国境に兵を派遣することは、ドイツ国境付近にも兵を派遣することになります。

出典 カイゼン視点から見る第1次世界大戦

・7月26日

戦争を回避するため、イギリス、ドイツ、イタリア、フランスの大使たちの間で、今回の危機について議論する会議が設定されましたが、ドイツはこの会議への招待を断わりました。

・7月27日

セルビアの首都ベオグラードの下流、コヴィン付近で国境警備隊同士で数発の銃撃戦が行われた。双方の警備隊隊長は、直ちに発砲止めさせ大事になりませんでした。

この知らせはオーストリア第4軍司令官から、外相ベルヒルトに知らされました。

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、オーストリアがセルピアに先制攻撃をかけ外国から非難されるのを恐れ、宣戦布告に署名するのを避けていました。

ベルヒルト外相は

「ドナウ川のコヴィン付近でセルビアの砲艦が砲撃を開始し、我が軍はそれに応戦している。」

とウソの報告を上奏して、ヨーゼフ1世に宣戦布告書に署名させました。

・7月28日午前

セルビアに対する最後通牒の全面受諾を拒否されたことにより、オースリアはセルビアに対し宣戦布告をした。

・7月29日午前1時

セルビアの首都ベオグラードにオーストリアが砲撃を開始して、セルビアとの戦闘が開始された。

1914年、セルビアに対して最初に砲撃をした、

ドナウ川に浮かぶ河川用砲艦SMSボドロッグ

出典 Wikiwand

ロシアはセルビアの戦闘開始を受け、部分動員を総動員に切り替えた。

7月23日にロシアからの帰路についたフランスの使節団が、フランスに帰国した。

・7月31日

ドイツはロシアに対して最後通牒を送付し、12時間以内に戦闘的準備を中止するよう求めた。また、ドイツはフランスに対してロシアと戦争になった場合、中立を保つかどうか問い合わせた。

オーストリアが総動員を下令した。

・8月1日

ドイツは動員を下令し、ロシアに宣戦布告した。

フランスも動員を下令。

・8月2日

イギリスは、ドイツに対し中立国のベルギーに侵攻した軍を撤退しなければ戦闘に訴える最後通牒を送った。

・8月3日

ドイツは、フランスに求めていた中立を断られたため、フランスに宣戦布告した。

・8月4日

イギリスは、ドイツが中立国ベルギーから撤兵しなかったため、ドイツに対して宣戦布告した。

・8月6日

オーストリアがロシアに宣戦布告した。

これにより、ドイツ・オーストリアと、これを囲むフランス

ロシア・イギリスとの戦いが決定した。

イタリアはこの時点で、三国同盟は相互防衛同盟であり、今回の戦いはオーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに対して宣戦布告を行って起きた侵略戦争であると主張して、中立を保ちました。

ここで大切なこと 集団的自衛権について

集団的自衛権とは

集団的自衛権とは、ある国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利である。その本質は、直接に攻撃を受けている他国を援助し、これと共同で武力攻撃に対処するというところにある。

引用 ウィキペディア

簡単に言うと、自分の国が攻撃されなくても「密接な関係」にある国が攻撃を受けた場合、その国を助けるため一緒に攻撃した国と戦うことが出来る権利です。

ですから先に書いたように、オーストリアがセルビアに宣戦布告して起こした侵略戦争に、イタリアはオーストリアを助けるために戦争に参加する義務はないと言っているのは、正しいと思います。

ロシアは7月28日セルビアがオーストリアから宣戦布告を受け、7月29日セルビアが攻撃されたのを見て、オーストリアに圧力をかけるために部分動員から総動員に切り替え、本格的な戦争準備に入りました。この時点で、ロシアとオーストリアはどちらも宣戦布告を行っていません。

8月1日、オーストリアがロシアに攻撃されていないにもかかわらず、ドイツはロシアに対して宣戦布告を行い、両国は戦闘状態に入ります。

続いて、8月3日にはドイツがフランスに対して、8月4日にはドイツ軍の国内通行を断ったことで、ベルギーに対して宣戦布告を行います。

これは、集団的自衛権を大きく逸脱する行為です。

8月4日、ドイツが中立国のベルギーに侵攻したことで、イギリスがドイツに対して宣戦布告を行います。

つまりオーストリアとロシアが戦争状態になる前に、ドイツは周りの国に戦争を仕掛けてしまったのです。

オーストリアがロシアに宣戦布告をしたのは、ヨーロッパのほとんどが戦争を始めた後の8月6日でした。これも初めの予想と違い、ロシアがオーストリアに侵入したのではなく、オーストリア側から戦争を仕掛けました。

さらに言うと、オーストリアがセルビア国内に軍を送ったのは、8月12日からです。

フランスとロシアもドイツから国を守るために戦い、イギリスはベルギーをドイツから守るために戦いに参加しました。

大切なのはそれぞれの国が、それぞれの国を守るために戦ったということです。

ドイツが非難されたのは、ドイツ以外の国は総動員をかけても兵士が国境を超えることはありませんでしたが(フランスは総動員をかけた後、不測の事故を避けるため、国境を警備していた兵士を10km後ろに下げました)、ドイツの場合は、かねてから用意していたシュリーフェン・プランに従って中立国ベルギーを通って、フランスに侵攻したためです。

サラエボ事件から1か月余りでヨーロッパ全土を巻き込む、第1次世界大戦が勃発してしました。

 

第一次世界大戦開始時の西部戦線はこちら ↓

西部戦線 1914年 第1時世界大戦開始。ドイツは、ベルギーを通り、フランスのパリから50㌔の所まで攻め込みました。

1914年のセルビアとオーストリアの戦いはこちら↓

1914年 セルビア戦線その1 オーストリア=ハンガリー帝国と、セルビアの戦い 

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