なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

サラエボ事件から第1次世界大戦

time 2017/03/28

サラエボ事件から第1次世界大戦

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亀仙人2

第1次世界大戦のきっかけ(サラエボ事件)

1914年6月28日オーストリアの皇太子フランツ・フェルデナント大公とその妻ゾフィーがサラエボを視察中にボスニア系セルビア人のガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。

この事件がもとになって第1次世界大戦がはじまったとされています。

なぜオーストリアとセルビア2国間の争いに、ロシア、ドイツ、フランス、イギリスが加わってヨーロッパから世界広がる大戦争になったか調べてました。

関係する国々

オーストリア=ハンガリー帝国

ハプスブルグ家の君主が統治した多民族国家のオーストリア帝国が前身です。

当時のオーストリア帝国の民族構成は

ドイツ人          24%

ハンガリー人 20%

チェコ人   13%

ポーランド人 10%

ウクライナ人 8%

ルーマニア人 6%

クロアチア人 5%

スロバキア人 4%

セルビア人  4%

スロベニア人    3%

イタリア人  3%

1853年ロシアが冬でも凍らない港を求めて、オスマントルコとクリミア戦争を開始した。自国の領土があるバルカン半島にロシアが影響力を持つことを恐れたオーストリアは、それまで友好関係のあるロシアを捨て、トルコに味方した。

ロシアの後ろ盾を失ったオーストリアは急速に勢力を弱め1859年にイタリア、1866年にはプロシャとの戦いに負け、さらには各民族の自治権獲得運動も活発化した。

そもそも民族運動が起こったのは支配階級のドイツ人が少なかったためです。そこで、ドイツ人の次に人口の多いハンガリー人に自治権を与えハンガリー人の政府を作り、オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ね、軍事・外交・財政のみを共有し、そのほかはそれぞれの政府が政治を行う形を取った。

オーストリア・ハンガリー二重帝国の誕生までの経緯はこちらをご覧ください。↓

海外ドラマ 「エリザベート 愛と哀しみの皇妃」 その1

 

そのため、ほかの自治権を認められない各国においてかえって民族運動が激しくなった。ただオーストリア=ハンガリー帝国から独立すると、力を付けたプロシャと大国ロシアの間で国家を維持するのが難しいため、不満は鬱積していった。

ボスニア・ヘルツェゴビナ

19世紀バルカン半島はオスマントルコの領土であった。そこでバルカン半島にすむスラブ系の民族がトルコに対して反乱を起こし、それを支援するロシアとトルコの間で露土戦争(1877年~1878年)が起こった。

この戦いの前年(1976年)オーストリアはロシアとボスニア・ヘルツェゴビナを獲得する代わりに中立を維持するという秘密協定(ライヒシュタット協定)を結んでいた。

露土戦争はロシアの勝利で終わり、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナの施政権を獲得し、1908年正式にオーストリアに併合された。

ここはセルビア人が多く住み、南に隣するセルビアとの帰属を望んでいた。

セルビア

1875年に発生した反オスマン帝国のヘルツェゴビナ蜂起を支援するため、セルビアはモンテネグロと共に1876年トルコに宣戦布告した。しかしトルコの反撃が強く、休戦していた。また、同時にブルガリアに起こったトルコに対する反乱(ブルガリア人の4月蜂起)も鎮圧された。ただブルガリア人に対してトルコが行った4万人に及ぶ大虐殺でトルコはイギリスの支援を得られなくなった。

これを見ていたロシアはバルカン半島を横切り地中海への通路を確保する南下政策の一環として、1977年スラブ民族を助けることを名目にトルコとの戦争を(露土戦争)を始めた。

トルコと休戦状態にあったセルビアは、再び露土戦争に復帰しトルコと戦った。

露土戦争でトルコが負けたため、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアはオスマン帝国からの独立が認められた。

1882年オーストリア=ハンガリー帝国の承認を得て王政に移行しセルビア王国となる。

1903年6月11日に起きたクーデターにより、王位がオーストリアよりのオブレノヴィッチ家から親ロシア派のカラジョルジェヴィッチ家のペータル1世に移るとオーストリアとの関係が悪化した。

1908年オーストリアはセルビア人が多く住むボスニア・ヘルツェゴビナを併合した。このことでセルビアとオーストリアの関係は一層悪化し、サラエボ事件発生の原因となった。

1912年オスマン帝国がイタリア王国との戦いに敗れたことに乗じてセルビアは、ブルガリア・モンテネグロ・ギリシャ王国とバルカン同盟を結成して、オスマン帝国に宣戦した。この第1次バルカン戦争でマケドニアを得てモンテネグロ以外の3国がこれを分割した。

ところが、領土問題がこじれ、翌1913年6月29日ブルガリアがセルビアとギリシャに侵攻して第2次バルカン戦争が勃発した。

 

この2つの戦争でブルガリアとオスマン帝国は、領土を大幅に減少しお互いに接近するようになる。またバルカン半島におけるロシアの影響力が強くなった。

この戦いでセルビアは領土が2倍になり、セルビア人としての民族意識が高まった。

ドイツ

1868年スペインのイサベル女王2世廃位の後に空位となっていたスペイン国王にプロシア王家の縁戚のホーエンツォルン家から後継者を迎えようとしたが、国家の両側をドイツに挟まれるを嫌ったフランスのナポレオン3世がプロイセンに宣戦布告をし、1970年普仏戦争が始まった。

プロイセン王国(緑の部分)

戦争はプロイセンに南ドイツの各王国が加わり、モルトケ参謀総長率いるドイツ軍が勝利した。プロイセン宰相のビスマルクは南ドイツの各王国と交渉を重ね、プロイセン国王がドイツ皇帝となるドイツ帝国が誕生した。

戦争で得たアルザス=ロレール地方は石炭と鉄鉱石の産地であったので、以後ドイツ帝国の工業化が一気に進み、第1次世界大戦直前にはアメリカに次ぐ世界第2位の工業国になった。

大モルトケによる、参謀本部で軍の運用を一本化したため効率的な軍の運用が可能になり、さらに常備軍でなく国民皆兵の徴兵制を行ったため、ヨーロッパ有数の軍事大国になった。

三国同盟と三国協商

バルカン半島でロシアの影響力が増大することを恐れたオーストリアは、1979年ドイツと同盟結ぶ。これに地中海での権益を脅かされたイタリアが加わることで1982年ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟が成立した。

軍事力を増大するドイツに接しているフランスとロシアは1894年露仏同盟を結んだ。大陸と海を経立てたイギリスははじめ静観していたが、フランスと植民地関係の利害を調整するため1904年協商を結んだ。さらにロシアと海外での勢力範囲の確定を明確にするため1907年協商を結ぶ。これにより三国同盟を囲むような形で三国協商が成立した。

 

同盟と協商の違い

一般的には、条約、協定、議定書、宣言、交換文書などの公式文書で取り決められたのが同盟、公式文書を必要としない非公式な取り決めが協商とされている。

7月危機

・1914年6月28日

ボスニアヘルツェゴビナの州都サラエボでオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公と妻ゾフィーが、セルビア人民族主義者のガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された(サラエボ事件)。この事件から第1次世界大戦開戦までの1か月を7月危機という。

・6月30日

捕らえられた暗殺グループの尋問から、彼らがセルビア国内で訓練を受け、武器もセルビアから支給されたことが分かった。

これによりオーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世と外相レオポルト・ベルトヒルト伯爵はセルビアに対し強硬処置を取ることに合意した。

・7月5日

ドイツ皇帝(カイザー)ヴィルヘルム二世はドイツに協力を求めるフランツ・ヨーゼフ1世の親書を携えたオーストリア大使に面会し、宰相の同意があれば「ドイツの全面支援を当てにしてよい」と確約した。

・7月6日

カイザーの後を受けたドイツ帝国宰相テオバルト・フォン・ペートマン=ホルヴェークはオーストリアに無条件の支援を提供した。これは世に「白紙小切手」と言われる約束であった。ただ彼とカイザーはともに、直ちにセルビアに干渉することが「最善なバルカン問題の解決方法」であることを伝えた。

彼らがオーストリアに早急に行動することを望んだのは、ロシアの国土が広大であることと、交通網の未発達のため動員に時間がかかり、介入する前に事を収めかったからである。そうすれば戦火は拡大せずオーストアとセルビアの2国間だけで済むはずであった。

これを狂わしたのが、オーストリアの反応の鈍さであった。

・7月19日

オーストリアはセルビアに対し強硬策を取ることを決定。

・7月20日~23日

フランス大統領レイモン・ポアンカレはサンクトペテルブルクのロシア皇帝への公式訪問で、セルビアに対するオーストリアのいかなる行為に対しても、妥協しないよう求めた。

・7月23日午後6時

フランス使節団がロシアから帰路に着くのを待っていたオーストリアは、10か条からなる最後通牒をセルビアに送付した。返答の期限は48時間と短い。

・7月24日

24日午前中にオーストリアはセルビアの対する最後通牒を列強各国の外交筋に通知した。

これを受けてロシアの大臣会議は、兵士の部分動員を決議し、セルビアに最後通牒を受け入れないよう知らせた。またロシアがセルビアを支援することを決めた。これはロシアがセルビアに渡した「白紙小切手」と言われる。

・7月25日

ロシア皇帝ニコライ2世は大臣会議の決議を受けドイツとの隣接する地域を除いた、部分動員を発令した。これによりロシアは第1次世界大戦で最初に動員をかけた国になった。

ロシアの動員に力を得たセルビアは、10か条の全面受諾を求めるオーストリアに対し、司法と警察にオーストリアが介入する部分を除く8か条を受諾することを通知した。

・7月28日午前

セルビアに対する最後通牒の全面受諾を拒否されたことにより、オースリアはセルビアに対し宣戦布告をした。

・7月29日

ベオグラードにオーストリアが砲撃をし、セルビアとの戦闘が開始された。

ロシアはセルビアの戦闘開始を受け、部分動員を総動員に切り替えた。

23日にロシアからの帰路についたフランスの使節団が、フランスに帰国した。

・7月31日

ドイツはロシアに対して最後通牒を送付し、12時間以内に戦闘的準備を中止するよう求めた。また、ドイツはフランスに対してロシアと戦争になった場合、中立を保つかどうか問い合わせた。

オーストリアが総動員を下令した。

・8月1日

ドイツは動員を下令し、ロシアに宣戦布告した。

フランスも動員を下令。

・8月2日

イギリスは、ドイツに対し中立国のベルギーに侵攻した軍を撤退しなければ戦闘に訴える最後通牒を送った。

・8月3日

ドイツは、フランスに求めていた中立を断られたため、フランスに宣戦布告した。

・8月4日

イギリスは、ドイツが中立国ベルギーから撤兵しなかったため、ドイツに対して宣戦布告した。

・8月6日

オーストリアがロシアに宣戦布告した。

これにより、ドイツ・オーストリアと、これを囲むフランス

ロシア・イギリスとの戦いが決定した。

ただイタリアはこの時点では、中立を保っていた。

 

サラエボ事件から1か月余りでヨーロッパ全土を巻き込む、第1次世界大戦が勃発しました。

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