1964年1月30日のクーデターによって政治の実権を握ったグエン・カーンは、ゴ・ディン・ジエム元大統領が失敗した農民や仏教徒の信頼を獲得すべく新たな改革を実行しました。しかし、これは自身や官僚。将軍達の腐敗により失敗しました。このためカーン政権は混乱し、解放戦線やベトミンの勢力が増加して、南ベトナム国内で共産党勢力が増すことになりました、
11月の大統領選挙に臨むジョンソン大統領は「戦争に負けた大統領」の状態を返上すべく、南ベトナムへの軍事介入の度合いを深めていくことになりました。
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亀仙人2ベトナム戦争 泥沼化の始まり
1963年11月1日に起きたクーデターによりジエム大統領と腹心で弟のゴ・ディン・ヌーの二人が殺害されました。その後クーデターを指揮したグエン・カオ・キ将軍が政権を握りました。
翌1964年1月30日、グエン・カオ・キ将軍による待遇に不満を持つ、グエン・カーン将軍がクーデターを起こし、新たに政権を取ります。カーンはジエム大統領の弱点であった農民と仏教徒の支持を得るため両者に歩み寄る姿勢を見せました。
1965年2月25日、カーンの政策に不満を持つグエン・バン・チューを中心とする若手将校によって、グエン・カーンは政権から追放されてしまいました。
このような状態では南ベトナム政府軍はまともに戦うことができず、ジョンソン大統領は南ベトナムに駐留するアメリカ軍を増員させ、介入の度合いを深めていくことになりました。
ジョンソン大統領と不安定なグエン・カーン政権
1963年11月1日に起きたジエム大統領に対するクーデターと、誕生したズオン・ヴァン・ミン政権についての説明はこちら ↓
1964年1月30日、ミン政権に対するクーデターとグエン・カーン政権に対する説明はこちら ↓
作戦計画34A(OPLAN34-Alpha)
1963年11月のクーデター後、政権を握ったズオン・バン・ミン将軍アメリカの評価によると無気力で、南ベトナム内部の共産主義者の排除するための戦いを開始しませんでした。
その間に北ベトナムはホーチミン・ルートの拡張を進め、一部区間ではトラックを使用できるようになり、月1~2万人の兵士を輸送できるようになりました。
そのため、1963年12月南ベトナムを視察した国防長官のマクナマラは
「情勢はきわめて混乱している。現在の流れは今後2.3ヵ月間の間に逆転しない限り、(南ベトナムは)うまくいって中立国、おそらく共産主義者の支配する国になるであろう。」
との報告書を提出しました。
1964年1月1日ジョンソン大統領は、それまで特殊部隊を使い北ベトナム国内での後方攪乱などを行っていたCIAの特殊作戦局を国防総省に移管して、ベトナム軍事援助司令部 – 調査観察グループ( MACV-SOG )を設立しました。
1964年1月24日、調査観察グルーブ( MACV-SOG )は、作戦計画34A(OPLAN34-Alpha)を決め活動を開始しました。
その目的は
ベトナム民主共和国(北ベトナム)に対する嫌がらせ、陽動作戦、政治的圧力、捕虜の捕獲、重要施設などの破壊、情報の獲得、プロパガンダの作成、資源を戦争目的から移転させることなどでした。
その直後の1964年1月30日、クーデターにより新たにグエン・カーンが政権を握りました。アメリカは積極的にカーン政権を支援しましたが、1964年2月26日に起きたロンディンの戦いで、ベトナム軍が大負けしてしまいました。
そのためアメリカは1956年3月17日に決定した「米国家安全保障行動・二八八号覚え書き」により、北ベトナムへの直接軍事行動への準備を始めました。
アメリカから期待されたグエン・カーン政権
1964年1月30日のクーデター後、グエン・カーンは自らを新国家元首およびベトナム民族会議議長と宣言しました。
アメリカ人のジャーナリスト、スタンリー・カーナウによると、「彼は怠惰の典型であり、統治する能力も意欲も欠いていた」と述べた。ミンは軍事政権のトップとしての役割のせいで、ベトコンとの戦いや国の運営で時間をとられ、「蘭を育てたりテニスをする時間が十分になかった」と嘆いたという。
グエン・カーに対して、アメリカのロッジ大使は「ベトナムには必要なものがすべて揃っている。米国は軍事的助言、訓練、装備、経済的・社会的支援、そして政治的助言を提供してくれた…したがって、我々の側はやり方を知っている。手段もある。我々はただそれを実行する必要がある。これには厳しく冷酷な指揮官が必要だ。おそらくカーンがその指揮官だろう」と期待を込めた電報をワシントンに送っています。
何事も積極的で好戦的なカーンはアメリカから共産主義者との戦いに期待を持って迎えられましたが、南ベトナムの将軍達からは、戦いに強いけれど強欲で日和見主義多岐なところがあると、嫌われていました。
そこでアメリカからの忠告に従い、将軍達に人気のあるズオン・ヴァン・ミンを国家主席に据え、自らはベトナム民族会議議長として実権を握ることにしました。しかしミンは、カーンが起こしたクーデターで政権を奪われたことを快く思っておらず、何の協力も得られませんでした。
その一方政治の民政化を進めるため、カーンはカトリック教徒で、カトリック系の大ベトナム国民党(略称ダイ・ベト)の元指導者の1人であるグエン・トン・ホアンをパリから呼び戻し、副首相に据えました。
大ベトナム国民党は1939年設立され、外国の支配からベトナムを独立させることを目標としていました。ただ他の政党と違い、軍事力を使用せず民衆の力で民主的な政府を樹立して、植民地的な支配から脱出しようとしました。
1950年ゴ・ディン・ジェムが大統領となると、カンラオ党以外の政党による政治活動を禁じられ、ジエム大統領の政策に反対したり、批判する者を弾圧するようになりました。そのためホアンはジエム政権時代はパリに亡命していましたが、現地でジエム政権を批判する雑誌を発行したりして、ベトナム情勢の動向に遅れずにいました。
カーンはホアンに内務省、国防省、農村問題省の5つの省と2つの特別委員会を与え、ゴディンニュー時代の戦略村を新農村生活村落と改名して農村の平和化を担当する任務を与えました。
具体的には村々に井戸や水道の施設を整備し、水力発電所を建設して電気を通そうとしました。これによって農民の支持を盗ろうとしたのです。
アメリカも同意して多額の資金を投入しましたが、ジエム政権時代の官僚機構(早く言えば資材の横流しや、資金の横領等の腐敗体質)により、建設が続かず実現しませんでした。これは農村の文明化を期待していた人々に大きな失望を与えました。
戦わない南ベトナム軍
ロンディンの戦い(1964年2月26日)
1964年2月26日米軍のヘリコプターが、ロンディン近くの森に民族解放戦線の第514大隊の兵士約600名が集結しているのを発見しました。
グエン・カーン将軍は直ちにM113装甲兵員輸送車を使い、約3000名の歩兵部隊をそこへ急行させ、包囲に成功しました。
普通ならば、圧倒的にな戦力を使用して包囲網を縮小して敵を殲滅できる状態でした。
ところが南ベトナムの指揮官は、解放戦線の部隊との直接戦闘を避け航空機の攻撃と砲撃だけに頼って戦ったため、解放戦線の兵士は包囲網の穴をすり抜け、脱出に成功してしまいました。
ロンディンの位置(赤丸で囲った部分)
メコンデルタとサイゴンを結ぶ交通の要地ミトの近くにあります。
この攻撃で、南ベトナム軍は3000名中16名が死亡、ベトコン側は600名中40名が死亡しました。
グエン・カーンは指揮官の無能ぶりに怒り、師団長5名を解任しました。この作戦に参加した部隊は彼らを訓練したアメリカの軍事顧問団により、南ベトナム軍の中でも「最精鋭」と言われていた部隊でした。
その後もこの状態は続き、南ベトナム軍は出ると負けの状態を改善できませんでした。
アメリカ軍の護衛空母カードの撃沈
沈没された護衛空母USNSカード。
出典 Wikipedia
護衛空母カードは第2次世界大戦中の1941年10月27日、シアトルのタコマ造船所で建造されたました。第2次世界大戦後の1946年にいったん退役しましたが、1958年に最就役して南ベトナムにヘリコプターや装甲兵員輸送車を運ぶ任務に就きました。
1964年5月2日の深夜、北ベトナムの特殊部隊の2名がサイゴン湾に通じている下水道を通って湾内に潜入し、かねて用意していた小舟に80キロの爆薬を積み、カードに向かって漕ぎ出しました。
途中構内を警備していた南ベトナム警察の巡視艇に2回発見されましたが、巡視艇の船長は2回とも賄賂を受け取って見逃してしまいました。
5月2日午前1時10分、タイマーが作動して仕掛けられた爆薬が爆発し、カードは沈没してしまいました。この事故により乗組員5名が死亡しました。
このことは南ベトナム官僚の末端まで、腐敗が浸透していることを表します。
幸い水深が15メートルと浅かったため、カードは引き上げられ修理されて1970年まで任務を続けました。
ジエム政権時代からの腐敗体質
このような状態でもカーンが権力を握っていられたのは、国家元首であるミン将軍言うとおり、1日あたり200万ドルに及ぶアメリカの援助を受けられるのは、カーンだけであったことによります。
1964年3月8日から四日間、マクナマラ国防長官は南ベトナムを訪問して、カーン氏を南ベトナムの「考えられる最高の指導者」と称賛し、南ベトナムの人々にカーン氏を支持するよう促しました。
しかしアメリカに帰国した後マクナマラはジョンソン大統領に対して
「カーン政権の存続が不確実で、次のクーデターによって崩壊する可能性がある」
と報告しました。この報告によりジョンソン大統領は3月16日に「ブラボー作戦」米国安全保障行動・二八八号覚え書き」を出し、南ベトナムの援助を強化しました。
その要点は、
1・ベトナム戦争をアメリカと北ベトナムとの直接対決に持ち込み、アメリカが北ベトナムと戦うことで、北ベトナムの戦争遂行能力を破壊する。(アメリカの直接介入)
2・アメリカと南ベトナム政府との明確な役割分担を行う。アメリカは地上戦において北ベトナム軍(解放民族戦線やベトミンも含む。いわゆるベトコン)との直接戦闘を受け持ち、南ベトナム軍は後方支援に回りアメリカ軍が確保した地域を南ベトナム政府の支配地域とするための平定作戦を担当する。(ベトナム戦争の映画で、アメリカ軍が主体となってベトコンと戦っているのはこのためです)
3・国内での平定作戦を行う南ベトナム軍を助けるため、北ベトナム国内やホーチミンルートが通る地域(ラオスやカンボジア)の航空爆撃を行う。(いわゆる北爆、これによりベトコンへの補給ができなくなるようにする)
4・南ベトナムへの軍事援助を強化して、軍の近代化を進めると同時に南ベトナム政府に働きかけ、徴兵制の強化と兵士の給与を上げ、兵士の待遇を改善するよう働きかける。
増え続ける北ベトナムからの兵士の増員に対して、カーンは兵役年齢の南ベトナム人男性全員を徴兵することになる国民奉仕法を可決しました。しかしカーンは、多くの裕福な南ベトナム人家族から息子を徴兵から免除するよう多額の賄賂を受けており、彼らの支持を維持するために、カーンは国民奉仕法で中流・上流家庭の息子が徴兵されないよう多くの免除を設けました。このことは裕福な家庭の息子が兵役を逃れていることに不満を抱く貧しい人々の間で、カーンへの反発を生むことになりました。
援助金の横領や、分配に伴う賄賂や兵役免除への賄賂などで、カーンは就任3ヶ月目には1000万ドル設けたと言われています。
上層部がこれですから、下っ端の兵士達は共産系の軍が攻撃してくると、兵器や弾薬を捨てて戦わないで逃げ出す始末です。その後戻ってみると、武器・弾薬の代金の代わりに、弾薬箱の中にラオスで調達した阿片の塊が入っており、これは指揮官が戦利品として持って行ってしまいます。
また多人数で包囲したときでも、共産党軍の逃げ道を確保してから、空に向かって銃を撃ち、敵が退散した後に攻撃しました。前に書いたロンディンの戦いがこれに当たります。上層部が腐敗して金儲けに走ってる中で、わざわざ命を捨ててまで戦う必要がないということです。
部隊長の中には、兵士をわざと脱走させたり、架空の部隊を作ったりしてその給料を着服したり、配られた装備品を横流しする者もでできました。監査の時は戦闘が起き、戦死したとして処理すれば済みます。
南ベトナム軍の将校の夢は、任務中にできるだけ多額の資金を貯め、第三国(主にアメリカ)に亡命して優雅に暮らすことでした。この章の主人公であるグエン・カーンも1965年2月のクーデターで国外追放になった後、 1966年から、彼はインドシナでフランス軍に従軍した人たちへの年金をもらってフランスで暮らし、1975 年以降、彼は米国に定住し、石油ビジネスへの投資と自動車修理工場を経営して暮らしてます。
南ベトナム政府の腐敗構造よって甘い汁を吸っている軍や官僚達には、自ら改革を行い腐敗構造を是正しようとする気はありませんでした。
このような状態では南ベトナム軍兵士の士気は上がらず、反対に汚職のおこぼれに関与して金儲けに走る様になりました。
北ベトナムからやってくる共産党軍に対して、南ベトナム軍の戦闘能力に期待できなくなったジョンソン大統領は、アメリカ軍が直接戦闘行動をとれるようにするため、
アメリカの政策を72時間の予告で、ラオス、カンボジアの「国境管理作戦」と、北ベトナムに対する「報復活動作戦」を全面的に開始し、30日の猶予期間で北ベトナムに対する「段階的軍事圧力作戦」を開始できるよう(アメリカ軍が直接戦闘の参加できるよう、議会の承認を得る)準備を開始しました。
1964年5月頃から、南ベトナムのグエン・カーンはアメリカに対して北ベトナムへの爆撃を要請していましたが、それは中国とソ連を刺激し、戦争拡大の恐れがあるとして、アメリカは実行する古都を断りました。
トンキン湾事件
1964年5月23日、作戦計画34Aの責任者であるウイリアム・バンディ国務次官補がマクノートン国防次官補とベトナム問題に関する各省庁間の調整委員会議長ウィリアム・サリバンの協力を得て、北からの攻撃に対して72時間以内に報復攻撃を行うことと、議会の承認後30日以内に本格的な北爆を開始するための具体的なシナリオ(手順)を決め、準備に移りました。
5月27日、バンディ国務次官補は、ジョンソン大統領が東南アジアで「共産主義の侵略または転覆」の脅威にさらされている国を防衛するために武力を行使する法的権限を得ることになる、議会の決議案の草稿を作成しました。
ジョンソン大統領は、、南ベトナムの共産国化を防ぐためには。アメリカ軍が、直接北ベトナム軍との戦いに参加できるようにするするためには、議会の承認を得る必要があると、考えていました。
8月2日にトンキン湾事件が起き、8月4日に北ベトナムへの報復爆撃と、8月7日のトンキン湾決議(議会による正式な宣戦布告なしに、リンドン・B・ジョンソン米大統領に 東南アジアで通常軍事力を使用する権限を与えた決議)が採決されるまでの準備が、この時点から始まっていたことになります。
トンキン湾事件
1964年8月2日、トンキン湾で通常の哨戒任務を行っていたアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」が北ベトナムの魚雷艇3隻から雷撃と機関銃の攻撃を受けました。これに対して近くの空母「タイコンデロガ」から4機のF-8クルセイダーが発信して魚雷艇を攻撃して雷艇に損傷を与えました。損傷した3隻の魚雷艇は北ベトナムの基地に逃げ帰りました。
8月4日嵐の夜、駆逐艦「マドックス」と援護に駆けつけた駆逐艦「ターナー・ジョイ」が再び魚雷攻撃を受けたと報告してきました。空母「タイコンデロガ」から現場に飛んだ2機の航空機は、2隻の米韓軍の駆逐艦以外の視認できませんでした。後に8月4日の攻撃は乗組員の誤認であり、攻撃をされた事実はないことが判明しました。
トンキン湾事件の説明をするマクナマラ国防長官。
8月4日にアメリカ海軍の駆逐艦マドックスと駆逐艦ターナージョイが攻撃を受けた場所を示した地図。
左手で指さしているのは、空母タイコンデロガ。
1964年8月4日深夜、ジョンソン大統領はトンキン湾で2隻の米海軍の駆逐艦が北ベトナムの艦艇によって攻撃されたことを発表し、直ちに報復爆撃(ピアスアロー作戦)を命じました。
1964年8月5日、急ぎ香港からやってきた大型空母コンステレーションは空母タイコンデロガと合流して、北ベトナム軍の四カ所の水雷艇基地と一カ所の石油貯蔵施設に対して64回の航空機による攻撃をしました。
1964年8月5日、トンキン湾事件の報復として行われた
ピアス・アロー作戦の指標的となった場所。
上から順にホンガイ(水雷艇基地)、ロックチャオ(水雷艇基地)、クアンケ(水雷艇基地)、ヴィン(石油貯蔵庫)、ベントゥイ(水雷艇基地)
出典 Wikipedia
この攻撃で29隻の北ベトナム軍の艦艇が破壊され、北ベトナム全体の石油貯蔵庫の10%が失われました。アメリカ軍は対空砲火で2機の攻撃機が撃墜され、パイロットの1名が死亡、もう1名は北ベトナム軍の捕虜となりました。
1964年8月5日、ジョンソン大統領は宣戦布告なしに他国に対して武力を使用する権利を得る為の決議案を議会に提出しました。
1964年8月10日、大統領が「自国の自由を守るために支援を要請する東南アジア集団防衛条約の加盟国または議定書国を支援するために、武力の使用を含むすべての必要な措置を講じる」ことを認める共同決議案(トンキン湾決議)を、下院で賛成416票も反対0票、上院で賛成88票、反対2票で可決しました。
ここまでが、トンキン湾事件が発生してから、8日目にジョンソン大統領がトンキン湾決議により、武力を行使できる権利を手に入れるまでの一般的な解説です。
あまりにもスムーズな流れですよね。もう少し詳しく見ていきます。
北ベトナムの空軍と地対空ミサイルの配置
1964年になると、ソ連は北ベトナムに新型の地対空ミサイルS-75と専用の火器管制レーダーの供給を始めました。ソ連は多数の技術者を派遣し、ミサイル基地の建設と北ベトナム軍の訓練を始めました。
発射架に載せられたS-75
S-75は、1960年5月1日、アメリカのU-2偵察機を撃墜したことで、有名になりました(U-2撃墜事件)U-2偵察機は。高度2万メートル以上を飛ぶため、それまでどの戦闘機や空対地ミサイルでも撃墜できないと信じられていました。
出典 ウィキペディア
S-75は、近くに設けられた誘導レーダが目標に向かって発射したレーダー波に乗って飛行する仕組みでした。S-75の攻撃を防ぐには、このレーダー波を妨害すればよいのですが、誘導レーダーが作動する時間は、ミサイルが発射されてから敵機を撃墜するまでのごく短い時間のため、このレーダー波の情報を収得するのは、とても困難でした。
北ベトナムの空軍は、1956年、多くの訓練生がソ連と中国に派遣されパイロットと整備士の訓練を受けたときから始まりました。
1956年5月1日北ベトナム空軍は、An-2、Li-2、Il-14の輸送機を備えた第919輸送連隊と、Yak-18練習機を備えた第910訓練連隊が設立されました。
1964年2月3日、北ベトナム空軍はソ連からジェット戦闘機MiG -17を受け取り北ベトナム初の戦闘機連隊第921号(別名レッドスター飛行体)が結成されました。この飛行隊はパイロット共に中国本土で空中戦の訓練を行い、8月6日に北ベトナムに到着しました。訓練の間、北ベトナムは防空レーダーの建設を急ぎました。
そのため南ベトナム軍と、アメリカ軍は北ベトナムにできたレーダーサイトの位置を確認する必要が生じました。
デソトパトロール
DESOTO patrols(DeHaven Special Operations off TsingtaO:青島沖デヘイブン特別作戦)とは
1962年中国共産党は海岸線が12マイル(約22キロメートル)だけではなく、沖合に浮かぶ島々を結ぶ線から陸地までの地域を自国の領海であるとの宣言を出しました。これは中国の領海面積が大幅に拡大することを意味します。
1962年4月14日から20日にかけて、アメリカ海軍の駆逐艦デ・ヘイブン命令を受けて、黄海に突き出た山東半島の青島(チンタオ)沖を航海しました。この航海は中国が新しく定めた領海内にて行われ、アメリカが新しく定められた中国の領海を認めないことを表しています。
駆逐艦デ・ヘイブンによる哨戒活動は縮めてデソトパトロールと呼ばれ、1962年12月から始まったトンキン湾における、北ベトナムから中国南部の沿岸で行われた哨戒活動も、同じくデソパトロールと呼ばれることになりました。
また、デ・ヘイブンは青島沖で哨戒活動中(デソトパトロール)に、敵海域での諜報活動に使用される移動式信号諜報機器(QUIC バン)を搭載して米海軍駆逐艦で初めて敵の通信信号傍受 (SIGINT) を実施した監でもあります。
QUIC バンは下のM109A3、 2.5トン バン・トラックの荷台のバン部分を流用して、内部にあらゆる電波を受信するために数台の受信機と音声やモールス信号を記録するための録音機、受信した電波の分析や記録するための機器、さらに本部との連絡用の無線機も備えてありました。
M109A3 2.5トン バン・トラック
出典 Wikipedia
本来敵側の信号傍受によって得られた情報は、軍の機密情報に当たるため周囲から隔離された船室が必要でしたが、第2次世界大戦中に作られ小型船の駆逐艦には、その様な船室を準備できる余地がありませんでした。
駆逐艦マハンの甲板に置かれた、QUICバン。
機密保持のため窓が塞がれている。
出典 ステーション HYPO
デソトパトロール任務が他の艦に移ったときは、下の写真のように、クレーンで移動し、電源とアンテナのケーブルを接続すれば、すぐ活動を開始できます。
運用情報収集システム(OICS)バンの設置
出典 ステーション HYPO
1964年12月米駆逐艦USSアガーホルムはトンキン湾で北ベトナムを標的とする、最初のデソトパトロールを行いました。
トンキン湾におけるデソトパトロールは、南北ベトナムの境界線である北緯17度線から、中国南部の広西チワン族自治区(こうせいチワンぞくじちく)の沖まで沿岸に沿って行われました。
ベトナム沖のDESOTO哨戒任務地図。
出典 Wikipedia
1964年7月には、北ベトナム各地にレーダーサイト(軍事用レーダーの地上局)が完成しました。これに対して南ベトナムは作戦34Aに従い、北ベトナムの沿岸や島に特殊部隊を派遣して、完成したレーダー基地などを攻撃しました。
下の図は7月31日から8月2日にかけて、駆逐艦マドックスが航海していた航路を示したものです。赤色の線の部分が、マドックスと3隻の北ベトナム魚雷艇が戦った場所です。
1964年7月31日から、8月2日にかけての駆逐艦マドックスの航跡。
出典 Wikipediaトンキン湾事件に掲載されていた図面に加工
駆逐艦マドックスは7月31日から北ベトナムの領海内に入り、偵察活動(デソトパトロール。沿岸地域にあるの北ベトナム軍の基地の監視や、軍事通信の傍受、レーダー波の情報収集など)をしていました。
駆逐艦マドックスが北ベトナムの領海内でデソトパトロールに入る前の月30日夜、ベトナム軍事援助司令部調査観測グループ(MACV-SOG)の特殊部隊が作戦計画Aにより、北ベトナムの沿岸にある島、ホンメ島と、ホングー島を襲撃していました。目的はホンメ島にあるレーダー基地を襲い、レーダーを作動させて、その電波情報を得ることでした。
この作戦は駆逐艦マドックスのデソトパトロールとは何の関係もありませんでしたが、北ベトナムの巡視艇がマドックスを追跡して監視していました。
8月1日の夕方から夜にかけて、ホンメ島とホングー島から数キロ間ところまで近づき、その後北ベトナムの領海外に出ました。
8月2日、マドックスは再び北ベトナム沿岸に近づき、午後12時30分ホンメ島から8海里(北ベトナムは12海里まで領海であると宣言していました)の地点に近づいたところ、3隻の魚雷艇がこちらに向かってくるのを発見しました。
15時05分、マドックスは北ベトナムのギライテイに対して、3発の警告射撃をしました。それでも離れなかったため進路を変え、トンキン湾の出口に向かって全速力で航行すると共に、護衛の空母タイコンデロガに航空支援を要請しました。速度では魚雷艇の方が勝っていましたが、マドックスからの激しい砲撃で近づけず、離れたところから魚雷を発射しましたがマドックスには当たりませんでした。
そうこうするうちにタイコンデロガから発進した4機のF-8 クルセイダーが到着し、撤退した魚雷艇を攻撃し、1隻を沈没、もう1隻を大破させてこの戦いは終わりました。
北ベトナム側では魚雷艇1隻が沈没、残りの2隻も損傷を受け、水兵4名が死亡、6名が負傷しました。
マドックス被害は、魚雷艇から発射された14.5㎜連装機関銃の銃弾1発が艦橋に命中しただけで済みました。
上の図は GooleMapで調べた、ホンメ島とホングー島の位置です。
両方の島が、北ベトナムの海岸からすぐ近くにあることが分かります。
8月3日、マドックスは護衛のための駆逐艦ターナージョイと共に、新たなデソトパートローに就きました。この日は北緯17度線から北ベトナムの沿岸沿いに北上して、ホンメ島付近に多数の北ベトナム軍の艦艇が集結しているのを確認した後、夕方からは、公海上に出て待機しました。
このとき集まっていた艦艇は、沈没した魚雷艇と行方不明者の捜索のためでした。
8月4日、この日は嵐のため海は大きく荒れていました。この日マドックスはターナージョイと共に、中国側の沿岸からホンメ島に向かってデソトパトロールを行い、「暗くなる前に北ベトナムの領海を離れよ」との指令に従いトンキン湾の公海上に出ました。
1964年8月4日、米海軍軍の駆逐艦マドックスとターナージョイが、攻撃を受けたとされる時の航跡図。
図に示された点は上から7:40PM、9:30PM、10:32PM、1:30AMです。
出典 Wikipedia
21時34分、マドックスのレーダー画面に9800ヤードの距離から、40ノットの速度で近づいてくる船舶らしい影が映りました。
21時37分、マドックスに近づいてきた船影は6200ヤードの距離で急旋回して離れていきました。これは魚雷艇が魚雷を発した後の動きに似ていました。
21時40分マドックスの艦長ヘリックは、艦が攻撃を受け反撃のため砲撃を開始したと、CNCPAC(太平洋司令官)に報告しました。
砲撃開始後15分後にマドックスが追っていた船影はレーダから消え、ターナージョイが攻撃していた別の目標も消えました。
22時01分、レーダーか一度に13隻の艦影が感知され、マドックスとターナージョイの両艦は、魚雷を防ぐための激しい旋回運動を繰り返しながら、近づいてくる北ベトナムのボートに対して300発以上の砲弾を発射しました。この間に敵のボートから発射された24発以上の魚雷をかわしたと、されています。
ただマドックスの要請でやってきた、戦闘機は交戦海域で何度も照明弾を投下しましたが、2隻の駆逐艦海外の艦艇は確認できなかったと報告しました。
23時35分、砲撃を終了した時点でマドックスの艦長ヘリックスは敵の巡視艇2隻が沈没し、1隻が損傷したと報告しました。
8月5日01時27分、交戦場所に敵船の残骸や、船員の遺体が見つからなかったことから、ヘリック艦長は電報で交戦が起こらなかった可能性があると伝えました。
どうやら荒波による電波の乱反射や、お互いのスクリュー音を魚雷の推進音と聞き間違え、攻撃を受けたと乗組員が勘違いして報告したようです。
1995年マクナマラ元国防長官と会談した、北ベトナムの元国防大臣ヴォー・グエン・ザップは8月2日の攻撃は認めましたが、8月4日の攻撃に対しては否定しました。
それにもかかわらずジョンソン大統領は8月4日日の攻撃を認め、ピアスアロー作戦を発動して北ベトナムに報復爆撃を行いました。
1964年8月10日、議会に対して議会の承認なしに大統領の武力行使を認める、トンキン湾決議を成立させました。
しかし、ジョンソン大統領は北ベトナムへの爆撃は1965年の初め以降に行うと決めていました。それはこの年の11月3日に行われる大統領選挙において、対立候補である共和党のバリー・ゴールドウォーターは共和党員でさえも腰を引くほどの急進派だったためです。
ベトナム戦争に対してゴールドウォータは、共産主義の拡大を防ぎ、アメリカの価値観と同盟国を守るために積極的介入を主張していましたが、ジョンソン大統領はゴールドウォーターの好戦主義は悲惨な結果、場合によっては核戦争を招くだろうと反撃しました。
下の動画は、ジョンソン大統領への投票を呼びかける民主党の選挙広告です。動画最後のナレーションで「家に居るとその代償は高くつく」と言っています。
出典 Wikipedia
トンキン湾事件後のベトナム
1964年8月7日、事実上の北爆となるピアスアロー作戦が実施されると、カーン将軍は非常事態を宣言し、警察に抗議活動を取り締まるように命じ、「国家安全保障上危険と見なされる」人物を逮捕できる権限や、あらゆる出版物、文書、ビラなどの検閲を開始しました。
8月16日、カーンは権力の集中を図り「ブンタウ憲章」として知られる、新しい憲法を制定しました。
これに対して都市部の仏教徒から、「軍事独裁政権を打倒せよ」と叫んで非常事態宣言の解除と、「ブンタウ憲章」に反対する大規模な抗議デモが発生しました。これはちょうど1年前の8月21日に起きた仏教徒危機最大の出来事と言われる、シャー・ロイ・パゴタ襲撃事件を思い起こさせるものでした。
仏教徒達はカーンに対して、新憲法を廃止し、民政を回復し、カンラオ党員を権力から排除するよう求めました。
カーンは仏教徒の求めに応じて、新憲法の廃止と、軍事革命評議会を解散して、近い将来に政治の民主化を約束しました。また、ゴ・ディン・ジエム前大統領の差別的なカトリック支配と密接な関係のある軍関係者数名を解任しました。
カーンが仏教徒に対して大幅な譲歩をしたことに対し、チャン・ティエン・キエムやグエン・バン・チューなどのカトリック教徒の将軍達は反発し、ミンを味方につけカーンを退陣させようとしました。
しかし、アメリカのテイラー大使は政権が不安定になるため、アメリカは新しい指導者の交代を望まないと伝えました。
8月26,27日上級将校達は軍事評議会での議論の末、新しい文民政府が樹立されるまでの2か月間、カーン、ミン、キエムの3人が3人体制で統治することで合意しました。
『三頭政治』
国家元首: ズオン・バン・ミン中将
首相:グエン・カーン中将
陸軍最高司令官: チャン・ティエン・キエム将軍
1964年9月8日、軍事評議会のズオン・ヴァン・ミン、グエン・カイン、チャン・ティエン・キエムの3人は16人の民間人を集めて、最高国民評議会を設立しました。これはアメリカの要請を受け、新たな民政(ベトナム第二共和国)のために新憲法を準備することでした。
1964年9月、南ベトナムのクーデター
1964年9月13日未明、カーンは内務大臣のラム・ヴァン・ファット将軍と、第4軍団司令官のラム・ヴァン・ファット将軍の率いるクーデターに見舞われました。両者は仏教徒活動家からの圧力により、ジエム主義者として解任されたことが原因でした。2人はサイゴン市内の制圧に成功しましたが、肝心のグエン・カーンを取り逃がしてしまいました。
カーンはアメリカに助けを求め、アメリカはカーン氏を支持することに決め、ボイス・オブ・アメリカ(アメリカの国際放送)でカーン将軍に対するアメリカの継続的な支援とクーデター反対を強調するメッセージを放送しました。
9月14日、カーンは。ベトナム共和国空軍司令官グエン・カオ・キ空軍元帥と陸軍のグエン・チャン・ティ将軍の支援を受けて、クーデターを起こした、ラム・ヴァン・ファットとラム・ヴァン・ファットの二人を降伏させることに成功しました。
クーデターを制圧したことで、若手将校グエン・カオ・キとグエン・チャン・ティはサイゴンの軍政において大きな影響力を持つことになり、カーンの権力はまた1段弱くなりました。
文民政権発足
1964年9月27日、民政化の準備を進めていた最高国民評議会は、ファン・カック・スーを議長に選びました。10月26日、国家元首のズオン・ヴァン・ミンは正式にファン・カック・スーに元首の権限を委譲しました。国家元首となったファン・カック・スーは医師のホー・ヴァン・ナットを首相に任命しましたが、ホー・ヴァン・ナットが辞退したため、10月30日かわりにサイゴン知事のトラン・ヴァン・フオンが首相に任命されました。11月4日完全な文民内閣によるトラン・ヴァン・フオン政権が発足しました。
ファン・カークスー 1964年
彼はホアハオ教の創設者の一人であり、清廉潔白な人として知られていました。
国家元首に就任中は一切の賄賂を拒み、政府から支給される食事のみを食べ、給与は国民の社会福祉基金に寄付していました。そのため彼の妻レ・ティ・ティウは自宅で服を縫い、それを市場で売って生活費に充てていました。
出典 Wikipedia
この政権は南ベトナムが文民統治の国であることを装うためで、実権はカーンを始めとする軍部に握られていました。
グエン・カーンは軍の最高司令官に、ズオン・バン・ミンは大使としてタイに、チャン・ティエン・キエムも大使としてアメリカに赴任しました。
1964年11月1日、解放戦線によるビエンホア空軍基地爆破
カーン政権が安定しない中、南ベトナム解放民族戦線は北ベトナム化に送られてくる兵士と装備によって、急速に強化されてきました。
1964年11月1日(11月3日に行われるアメリカ大統領選挙の2日前)、サイゴンから25キロの地点にある、アメリカ空軍最大の基地であるビエンホア空軍基地がNLF(南ベトナム解放民族戦線)の迫撃砲で攻撃されました。
解放民族戦線の迫撃砲で破壊されたB-57の残骸。
出典 Wikipedia
この攻撃で、B-57、5機、A-1H、 3機、HH-43 1機が破壊され、B-57 13機、A-1H 3機、HH-43 3機、C-47 2機に損害を与えました。米兵4名とベトナム人2名が死亡しました。
この攻撃は民族解放戦線が、南ベトナム正規軍の基地だけではなく、首都サイゴンの近くにあるアメリカ軍の基地までも攻撃できる能力があることを示しました。
これは明らかなアメリカに対する挑発行為でしたが、ジョンソン大統領は大統領選挙直前であることから、報復爆撃は行いませんでした。
1964年12月、南ベトナムのクーデター
1964年9月のクーデターで功績のあった若手の将校、ベトナム共和国空軍司令官グエン・カオ・キ空軍元帥、第1軍団司令官グエン・チャン・ティ将軍、第4軍団司令官グエン・ヴァン・チューに率いられた「ヤング・タークス(青年トルコ党)」と呼ばれるグループは、軍での昇進を望みましたが、上には古参の将軍たちが居座っていました。そこで25年以上軍に勤務した将校を強制的に退職させること要求しました。
1964年のクーデターで彼らに助けられたカーンは、ズオン・ヴァン・ミン将軍、チャン・ヴァン・ドン将軍、レ・ヴァン・キム将軍、マイ・ホウ・スアン将軍を軍から退職させることに決めました。
彼らは1964年1月のクーデターで逮捕されましたが、今は釈放され給料が払われていますが、何の意味もない事務職に就かされています。
マイ・ホウ・スアン少将
彼はゴ・ディン・ジェムが首相に就任した時代、サイゴンで勢力を持っていたビン・スエンと戦い勝利に貢献しました。
その後ベトナム国軍で治安部隊を率い、少将になりました。
1963年11月のクーデターで、捕らえられたゴ・ディン・ジェム大統領と弟のゴ・ディン・ヌーを運ぶ責任者となりましたが、二人は護送中の装甲車の車内で監視役のグエン・ヴァン・ニュン大尉とズオン・ヒエウ・ギア少佐によって暗殺されてしまいました。
出典 Wikipedia
彼らを退職させるには元首であるファン・カック・スーの署名が必要でしたが、スー氏は、高等国民評議会の同意なしに署名することを望みませんでした。
高等国民評議会は軍の要請を却下しました。
12月19日早朝、第1軍団司令官グエン・チャン・ティ将軍とグエン・カオ・キ空軍元帥率いる若い将校たちは、5人の高等国民評議会メンバーと,邪魔者と見なした他の政治家や学生運動のリーダー達12人も逮捕されました。
この事件を受けて、テイラー大使はカーンを自分のオフィスに呼びました。カーンは実行者である第1軍団司令官グエン・チャン・ティ将軍とグエン・カオ・キ空軍元帥の他、ベトナム共和国海軍司令官のチョン・タン・カン提督、第4軍団司令官のグエン・ヴァン・ティエウ将軍を連れてテイラーと面会しました。
テイラーは激しく怒り、米国民の支援を受けるためには安定した文民政権が必要であり、不安定な軍事政権の援助はできないと言い渡しました。
翌日、テイラー大使は、トラン・ヴァン・フオン首相と会談して、首相に高等国民評議会の解散要求に応じないように求めました。
それに対してフォン首相は政権を維持するには軍の支援が必要であり、機能を維持するためには軍の要求を部分的に受け入れる必要がある、と答えました。
12月22日、カーンはテイラー大使と単独で会談して、ベトナムのはアメリカの傀儡国家ではなく、これ以上内政問題に介入すれば強制退去を命ずると脅しました。
カーンはアメリカが援助を打ち切り、ベトナム国軍が機能を停止すれば、南ベトナムは瞬く間に共産軍に占領され、そうなると困るのはアメリカであることを知っていました。
カーンの強気な発言は若手将校のみならず、カーンに反発していた将校からも、好感を持って受け入れられました。
ブリンクホテル爆破事件
1964年12月24日午後5時55分、アメリカ軍の将校宿舎として使用されていたサイゴンにあるブリンクスホテルで、解放民族戦線のゲリラによる爆弾テロが発生しました。
この爆発で、アメリカ軍の将校1人と下士官1人が死亡し、民間人を含むアメリカ人、ベトナム人、オーストラリア人 107 人が負傷しました。
爆発テロに襲われた、ブリンクスホテル
出典 Wikimedia
この事件はクリスマスイブの夕方行われたため、ホテルにいた人だけではなく、ホテルの前を歩いていた人までも巻き込まれました。
1965年1月9日、カーンとトラン・ヴァン・フオンは公式発表を行い。、軍は選挙で選ばれた議会と新しい憲法を通じて文民統治を行うという決意を改めて表明し、共産主義者を倒す計画を立てるために協力すると述べました。フオンはアメリカからの援助金と装備を使って軍事費を拡大し、徴兵条件を広げて軍隊の規模を拡大するなど、反共戦争努力を強化する一連の措置を導入しました。しかしこれは多くの学生と仏教徒によるフォンに反発するデモと暴動を引き起こしました。
1965年2月26日、カーンはフォンを辞任させて、国家元首のファン・カック・スーを留任させ、経済学教授グエン・スアン・オアンを首相に任命し、新政府を樹立する決定書に署名しました。
それから10日も経たない1965年2月25日、グエン・カーン将軍は若い将軍たちのグループによって解任され、海外特使の職を受け入れ(国外に追放)ざるを得なくなりました。
1965年6月5日、ファン・フイ・クアット首相の文民政府は軍事評議会によって解散された。若い将軍たちは国家指導会議を組織し、グエン・ヴァン・ちゅー中将を国家元首に任命しました。
1965年6月12日、ファン・カック・スー国家元首とファン・フイ・クアット首相は、正式に国家元首と首相の職から辞任しました。
1965年6月19日、グエン・ヴァン・チューが大統領、ヴエン・カオ・キが副大統領に就任し、南ベトナムに長く続いた政変劇は終わりを迎えました。