なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

映画『ヒットラーのための虐殺会議』ユダヤ人に対するホロコーストの実行計画を決めた会議です。

time 2023/11/30

映画『ヒットラーのための虐殺会議』ユダヤ人に対するホロコーストの実行計画を決めた会議です。

1942年1月20日、ベルリン近郊にあるヴァン湖(ヴァンゼー)の畔にある親衛隊所有の高級別荘で、軍の将校と高級官僚が集りホロコーストの具体的な実行計画が決められました。

この映画は、この会議を記録したアイヒマン作成の議事録に基づいて、会議の進行を復元した作品です。

アイキャッチ画像は、会議が開催されたヴァンゼー別荘です。

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亀仙人2

映画 『ヒトラーのための虐殺会議』

2022年           ドイツ

監督 マッティ・ゲショネック
製作総指揮 オリヴァー・ベルビン
撮影 テオ・ビールケンズ
編集 ディルク・グラウ
製作会社 コンスタンティン・フィルムZDF

出演者

ラインハルト・ハイドリヒ(親衛隊大将):フィリップ・ホフマイヤー
アドルフ・アイヒマン(親衛隊大佐):ヨハネス・アルマイヤー
カール・エバーハルト・シェーンガルト(親衛隊上級大佐):マクシミリアン・ブリュックナー
ゲルハルト・クロップファー(親衛隊上級大佐):ファビアン・ブッシュ
アルフレート・マイヤー(大管区指導者):ペーター・ヨルダン
ローラント・フライスラー(国務庁官、裁判官):アルント・クラヴィッター
ルドルフ・ランゲ(親衛隊少佐):フレデリック・リンケマン
フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリツィンガー(総統官邸事務次官):トーマス・ロイブル
オットー・ホフマン(親衛隊中将):マルクス・シュラインツアー
マルティン・ルター(外務省次官):ジーモン・シュヴァルツ
ゲオルク・ライプブラント(東部占領地省次官):ラファエル・シュタホヴィアック

ヴァンゼー会議出席者

上の写真で左側に東部占領地域やポーランド総督府から来た人達、右側にベルリン中央官庁から来た次官達が座っています。

出典 「ヒトラーのための虐殺会議」オフィサルサイト

主な登場人物

ラインハルト・ハイドリヒ

親衛隊大将、警察大将、海軍中尉、空軍少佐

ハイドリヒの肖像写真 (1940年)

出典 ウィキペディア

ハイドリヒは1904年3月7日、ドイツ帝国の領邦プロイセン王国ザクセン州(Provinz Sachsen)の都市ハレで誕生しました。父親のリヒャルト・ブルーノ・ハイドリヒは音楽家で、オペラ『アーメン」などを作曲する一方、ハレ音楽学校を創設してその校長をしていました。

第1次世界大戦後の1922年、18歳になったハイドリヒは海軍に入隊し、1924年4月1日上級海軍士官候補生としてミュルヴィク海軍兵学校に入り、将校としての訓練を受けました。彼は語学が得意だったらしく、英語、フランス語、ロシア語の試験に合格して、1926年10月1日に海軍少尉に任官し、キールのバルト海海軍基地に通信将校として勤務しました。1928年には海軍中尉に昇進して1930年末にはデンマーク出身の貴族の娘リナ・フォン・オステンと婚約しました。しかし、1931年5月の婚姻直前に、それまで付き合っていたドイツの巨大企業IGファルベンの重役の娘との別れ話がこじれたうえ、この娘が海軍のエーリヒ・レーダー提督と親戚関係であったことで海軍から不名誉除隊の処分をうけてしまいました。

ハイドリヒが除隊された1931年は世界恐慌のあおりで失業者があふれ、新たな就職先が見つからなかった。

そのころ勢力を伸ばしていたナチス党において、親衛隊が内部に新たに情報部を設置するため情報将校の経歴を持つ人物を求めていました。その話を聞いたハイドリヒは、父親のツテをたどり親衛隊上級大佐フリードリヒ・カール・フォン・エーベルシュタイン男爵(若いころハレ大学で農業と農業経営学を学んでいた)の推薦を受け、1931年6月14日親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの面接を受けることになりました。面接でハイドリヒは求められる親衛隊情報部組織の構想を20分にわたり図を使って説明し、これが気に入られてヒムラーは即決でハイドリヒを採用しました。

ヒムラ―はハイドリヒのために。ミュンヘンのナチス党本部(褐色の家)の4階に新たに情報課(IC課、後の親衛隊保安局SD)を設けて、10月5日ハンブルクのナチス党本部から正式にIC課の職員として採用されました。

設立当初は、ハイドリヒの妻リナが秘書を務め、部下が3人という小さな組織でした。初めはナチス党と対立する共産党や社会民主党のの指導者や党員の調査を行う一方、選挙演説や集会に出かけては参加者への暴力や会場の破壊活動などで政治活動の妨害を行っていました。

更に密告者や協力者を採用して、ナチスと対立する人達の調査を行い、その記録を集めてカードを作り、膨大なデーターベースを作り上げました。

ハイドリヒの組織は急速に拡大して1932年7月19日には「親衛隊保安局(SD)」と改称されるにあたり、ハイドリヒは親衛隊中尉に昇進して、SD長官に就任しました。この時期アイヒマンが親衛隊に入隊しました。

1933年1月30日、ヒトラーが首相に任命されヒトラー政権が誕生すると、3月9日ヒムラ―がミュンヘン警察長官に任命されると、ヒムラ―は3月21日ハイドリヒをミュンヘン警察政治局長に任命しました。

4月1日ヒムラ―がミュンヘン警察長官に昇進すると、ハイドリヒもバイエルン州政治警察部長となりました。この時ミュンヘン郊外にドイツ初となるダッハウ強制収容所が開設され、1933年だけでもハイドリヒは「保護拘禁(Schutzhft、シュッハフト)」の名目で1万6千人の人を強制収容所に送っています。この時はナチスに敵対するドイツ共産党やドイツ社会民主党の党員や支持者、ナチスに批判的な作家や批評家、宗教関係者等が中心で、ユダヤ人はまだ収監の対象になっていませんでした。

この活躍は内務大臣のヴィルヘルム・フリックの目に留まり、1933年10月から1934年初めにかけて、ヘルマン・ゲーリングが支配するプロイセン州を除いて、ヒムラ―とハイドリヒの警察権はドイツ全土に及びました。

1934年6月9日に親衛隊情報部(SD)はナチス党内で唯一の情報機関と認められました。

長いナイフの夜

ヒムラーとハイドリヒの恐ろしさが世間に広まったのが、1934年6月30日から7月2にかけて行われた突撃隊(SA)の粛清事件(通称長いナイフの夜)でした。

突撃隊はナチス党の黎明期から、党の私的軍事組織として共産党や対立政党の闘争や、党の宣伝活動の実行機関として党勢の拡大と共に、その規模を大きくしてきました。

ナチス党が政権を握った1933年には、隊員400万、武装兵士50万の組織になっていました。これはヴェルサイユ講和条約で定められた国軍の5倍の勢力でした。

1933年1月のヒトラー政権誕生後、突撃隊幹部達は国軍への編入を望みましたが、それはかなえられませんでした。

そのため突撃隊内部では、第二革命を起こし国軍と取って代わろうという声が起こり、国軍との軋轢が増しました。このことは、政権維持のため国軍を掌握しようとするヒトラーの思惑にとって、大きな障害となりました。

1933年の暮れになると、突撃隊によるヒトラーやゲーリングに対しての不満の声が一層大きくなり、これに対処するためヒトラーは隊長のレームを無任所大臣に任命したり、勲章を授けたりして慰撫しましたが不満の声は収まりませんでした。

1934年に入ると一般の突撃隊員も「第2革命」を唱え、元皇族や元貴族中心の政府や軍上層部に反対し、キリスト教やユダヤ教などのドイツにおける伝統的な宗教制度にも攻撃を加え始めたため、保守的なドイツ国民からの評判も悪くなってきました。

また批判の対象となったゲーリングも、プロイセン州の秘密警察(ゲシュタボ)を使って押さえようとしましたが抑えきれず、1934年4月20日ゲシュタポ局長の上位職として「ゲシュタポ監査官及び長官代理 」を新設し、これにヒムラーを任命しました。その2日後ヒムラーはハイドリヒを新たなゲシュタポ局長に任命しました。ゲシュタポを押さえたことでヒムラーとハイドリヒの警察権力は、ドイツ全土に及ぶことになりました。ドイツ全域の警察権を手にしたヒムラーは、それまで突撃隊が行ってきた非ナチス党の政党を含む反対勢力に対する取り締まりを、親衛隊に一本化したいと考えていました。

ヒトラーもこれから起こるであろう外国との戦いでは、ただの暴力集団である突撃隊より、作戦計画やより高度の兵器の運用に熟知した国防軍が必要と考えていました。

このために突撃隊に対して何らかの処置が必要でしたが、問題は突撃手隊隊長のレームが、ヒトラーやゲーリング、ヒムラーにとってはナチ党設立当時からの盟友であり、ナチ党の発展に大きく貢献した人物であることでした。

そこでハイドリヒは自慢の情報力を駆使して、レームの失脚だけではなく、将来ヒトラーに敵対するであろう人物も一掃しようと考え、ヒトラー内閣の前首相であり陸軍中将でもあるクルト・フォン・シュライヒャーがレームと組んで一揆を企てているとの、噂を流しました。

この噂が親衛隊情報部のハイドリヒから伝えられたことで、ヒトラーはレームの粛正をけついしました。

1934年6月4日、それでも決心の付かないヒトラーは首相官邸にレームを呼んで5時間にわたり「第二革命」の破棄を求めましたが、事態の沈静化を誓っただけで、「第二革命」の破棄には応じませんでした。

1934年6月28日、ヒトラーは突撃隊のレームに対して、6月30日にバイエルン州南部の温泉保養地バートヴィーセーで改めて会議をしたいので幹部達を集めておくように通知しました。

バートヴィーゼーの位置

出典 Wikipedia

バートウィーゼーはバイエルン州南部のオーストリアとの国境近くにある温泉保養地で、当時レームは休暇を取って、突撃隊の保養施設「ハンゼルバウアー」の山荘に滞留していたため、幹部達をこの山荘に呼び寄せました。

6月30日午前2時頃、飛行機でミュンヘンに到着したヒトラーは、現地で待機していた親衛隊を率いてバートヴィーゼー向かいました。午前6時半頃、「ハンゼルバウアー」の山荘に着いたヒトラーは、自らピストルを持ってレームや他の幹部の部屋に行き、その場に居た突撃隊の幹部達を逮捕はしました。

逮捕された突撃隊員達は、ミュンヘンにあるシュターデルハイム刑務所に連れて行かれました。

同じ6月30日午前十時から、ベルリンで待機していたゲーリング、ハインリヒ・ソムラー、ラインハルト・ハイドリヒはゲシュタボや親衛隊を率いて突撃隊の幹部150名の他、前首相のクルト・フォン・シュライヒャー、元国防庁長官フェルディナント・フォン・ブレドウ、元バイエルン州総督でミュンヘン一揆のときヒトラーを逮捕したグスタフ・フォン・カールなどの政治家も含まれていました。

7月1日から2日にかけて、捕らえられた突撃隊幹部達は次々と銃殺されました。ただ隊長のレームだけは、名誉のため自殺するようヒトラーから弾丸1発を詰めた拳銃を渡されましたが、これを拒否したため独房の中で親衛隊2名により射殺されています。

これにより突撃隊は勢力が大きく減少し、ナチス党の軍事組織は親衛隊のみとなりました。

この碁の突撃隊は武装を解かれ、国軍入隊前の軍人に基礎訓練を行ったり、ナチ党主催の集会で警備や整理を行ったり、各種イベントで更新するなどの宣伝活動に使われました。

この事件後ハイドリヒは功績を認められ、親衛隊中将に昇進しました。また突撃隊からの独立を果たし、親衛隊情報部(SD)も積極的に人員を増やし部員も3000名となりました。アドルフ・アイヒマンが親衛隊情報部に加わったのこの時期です。

アインザッツグルッペン

1938年3月12日のドイツによるオーストリア併合と1939年3月のズデーテンラントの併合と続くチェコの保護領下においてハイドリヒは占領した地域の保安のためアインザッツグルッペン(移動殺戮部隊)を創設して派遣しました。

ただこの時期のアインザッツグルッペンによる銃殺の対象となったのは、労働組合の指導者、民族主義者、反ナチス政治家、知識人、聖職者などドイツの支配に反対する人たちでした。

1939年9月1日にドイツとドイツと同盟関係にあるスロバキア共和国が、さらに1939年9月17日にはソビエト連邦が1938年8月23日にドイツと締結した独ソ不可侵条約に従いポーランドに侵攻しました。

1939年な9月3日ドイツのポーランド侵攻を受け、ポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリスとフランスがドイツに対して宣戦布告を発し、第2次世界大戦が始まりました。

10月6日にはポーランドの戦闘は終了して、ポーランドの西側はドイツに、東側はソビエト連邦に占領されてしまいました。

西側を占領したドイツはポーランドのドイツと接する部分をドイツに併合し、残りのポーランドの中央部分をボーランド総督府領として支配しました。

ヒトラーはかねてからドイツ民族が発展するためには、将来のドイツの人口増加に備えてヨーロッパ東部に食糧を確保する土地が必要であると、主張していました(東方生存圏)。

そのためには、占領したポーランド西部のドイツ本土と併合した地域に住む、ポーランド人(スラブ民族)、ロシア人、ユダヤ人を排除して、ドイツ人が入植できる土地を確保する必要がありました。

1939年10月7日、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがドイツ民族性強化国家委員に任じられ、ドイツ人の東方植民の最高責任者となった。

これにより部下のハイドリヒはアインザッツグルッペンを使用して、かねてから親衛隊情報部の(SD)の捜査リストに記載されていた、教員、聖職者、貴族、叙勲者、退役軍人などのポーランド指導者層、またユダヤ人、ロマなどの排除を行いました。1939年9月1日のポーランド侵攻から10月25日にかけて1万6千人のポーランドの民間人が殺されましたが、そのうちの4割がアインザッツグルッペンによるものだとみられています。

教員が多いのは、スラブ民族のボーランド人を入植してきたドイツ人のための奴隷労働者として使用するつもりだったので、教育は必要ないと考えていたためです。該当する地域に住むユダヤ人は、農地を空けるためまとめてポーランド総督府に設けられたゲットーに送られました。

ドイツ占領下のポーランドのゲットー(1939年~1941年)

黄色い線が侵攻前のポーランド国境。

白い線の右側がドイツが占領した地域、左側がソ連が占領した地域。

濃い茶色の部分がポーランド総督府領。

黒い点で表わしたユダヤ人ゲットーの大部分が、総督府領にあることが分かります。

出典 ホロコースト百科辞典

1941年6月22日独ソ戦が始まると、様相は一変しました。

新たにA 隊、B隊、C隊、 D隊の4つのアインザッツグルッペンが作られ、それぞれ北方軍集団、中央軍集団、南方軍集団、第11軍に随行して占領後の治安維持活動を行いました。はじめはロシア軍の協力者や、パルチザンの殺害を行っていましたが、東方にドイツ人の入植地を獲得するため住人のスラブ人やユダヤ人、ロマ等を大量に射殺するようになりました。これはドイツが占領したロシア領内には約300万人ものユダヤ人が住んでいたため、ポーランド総督府のゲットーに収容できなくなったためです。

この虐殺で最大のものは、1940年9月29日から30日にかけて、ウクライナの首都キーウに住むユダヤ人をバビ・ヤールの渓谷に連行して射殺した事件です。この事件はアインザッツグルッペンの他、地元の協力者、ウクライナ警察などが協力し、2日間で3,3771人が射殺されました(バビ・ヤール)。

これを始め独ソ戦開始から1941年末までにアインザッツグルッペンによって、ソ連領内で約50万人のユダヤ人が殺害されました。

最終的解決への道

1939年9月1日の第二次世界大戦開戦により、ポーランドに住む200万人に及ぶヤダヤ人に加え、オランダ、ベルギー、フランスにナチスの勢力が及ぶに従い、各地からユダヤ人がポーランド総督府に送られてきて、収容できなくなりました。

それまで行ってきたユダヤ人の海外移住も、第二次世界大戦により多数の国がユダヤ人移民の受け入れを拒否され、不可能になってしまいました。

1940年5月のフランス侵攻後、西インド洋に浮かぶフランス領のマダガスカル島へのユダヤ人移住計画が浮上しました。親衛隊保安部IV局 (ゲシュタポ局) B部 (宗派部) 4課 (ユダヤ人課)課長のアドルフ・アイヒマンは五年間で600万人のユダヤ人の移住計画を立ち上げましたが、イギリスとの戦いに敗れたため海上輸送の安全が確保できないため、中止されました。

独ソ戦開戦後は、ソ連占領後にユダヤ人をシベリアに移住させる案も出ましたが、1ヶ月後の7月末にはソ連の強固な抵抗により断念されました。

この頃にはソビエト連邦内にいたユダヤ人も含めると、800万人から900万人に及ぶと見なされているため、このユダヤ人をどう扱うか、見当が付かない状態となっていました。

1941年7月31日副総裁のゲーリングはハイドリヒに対して「ユダヤ人問題の最終的解決」を委任する文書を渡しました。

1941年7月31日、ゲーリングからハイドリヒに出された「ユダヤ人問題の最終的解決」を委任する文書。

出典 ウィキペディア

「私(ゲーリング)は貴下(ハイドリヒ)にすでに1939年1月24日付けの命令で国外移住または疎開の形でユダヤ人問題を時代の状況に相応してもっとも有利な解決を図る任務を与えたが、これに補充してヨーロッパのドイツ勢力圏におけるユダヤ人問題の全面的解決のために組織的及び実務的及び物質的観点からみて必要なあらゆる準備を行うことを委任する。そのさいに他の中央機関の権限にかかわる場合には、これらの中央機関を参加させるべきである。さらに貴下に追求されてきたユダヤ人問題の最終解決を実行するための組織的・実際的・物質的準備措置に関する全体的計画を早急に私の所へ送るように委任する」

引用ウィキペディア

さらに1941年8月ミンクスでアインザッツグルッペンDによるユダヤ人射殺現場を視察していたヒムラーが、射殺の途中気分が悪くなってよろけ、周りの人から介護されるという事件が起こりました。これによりヒムラーはハイドリヒに対して、兵士の負担を軽くするためユダヤ人を排除するのに射殺以外の方法を採用するよう指示しました。

8月になると、ハイドリヒは親衛隊保安部ユダヤ人課課長のアイヒマンとアウシュヴィツ強制収容所所長のルドルフ・ヘスに協力して、アウシュヴィツをユダヤ人抹殺センターに改築するように命令しました。

 

アウシュヴィツ絶滅収容所所長

ルドルフ・フェルディナント・ヘス

出典 ウィキペディア

二人はそれまで使用していた一酸化炭素ではなく、安価で取り扱いが簡単な殺虫剤チクロンBの使用を試み、大量のソ連軍捕虜を使って実験を繰り返し、チクロンBの方が効果があるとして、これを使うことにしました。

チクロンBの空き缶 

出典 ウィキペディア

1941年10月からアウシュヴィッツ収容所でユダヤ人のガス虐殺が開始された。

同じ10月から近隣のブジェジンカ村に大規模な「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」の建設が始まりました。

ハイドリヒはここまで準備した上で、ヴァンゼー会議に臨みました。

 

アドルフ・アイヒマン

ホロコーストと言えば一番先に出で来るアイヒマンですが、ヴィンゼー会議では発言する資格がなく、議事録作成と質問された時にハインリヒの代理としてあらかじめ作成した資料を基に答えるぐらいでした。

アドルフ・アイヒマン 1942年

出典 ウィキペディア

アドルフ・アイヒマンは、1906年3月19日に理髪店で使用するカミソリやはさみの刃物で有名なドイツの都市、ゾーリンゲンで誕生しました。父親は電気会社の簿記係で1913年に父親の転勤に連れられて、オーストリアのリンツに移住しました。

リンツではヒトラーも通ったことがあるカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校に入学しましたが、成績が悪く途中退学しています。

学校を中退後、しばらく父親が設立した会社で働いていましたが、すぐ辞め電気会社や、石油会社の販売員をしていましたが1933年に起きた世界恐慌による人員削減で解雇されてしまいました。

アイヒマンが石油会社に勤めていた1932年4月1日、父親の知り合いの弁護士によって勧められ、ナチ党に入会し、親衛隊に入りました。

1933年ヴェロニカ・リーベル(愛称 ヴェラ)と結婚準備を進めていた頃ドイツではヒトラーが首相に任命され、ヒトラー政権が誕生しました。これに伴いオーストリア国内でもオーストリア・ナチス党員が政権奪取とオーストリア併合を訴え、暴力的な活動を開始しました。6月19日にクレムス アン デア ドナウで手榴弾を使用したテロ事件が起き、1名が死亡29名が負傷したことからオーストリア国内でのナチ党の活動が禁止されました。

手榴弾によるテロ事件と、オーストリア・ナチス党の活動禁止を発表した官報。 1933年6月20日

出典 ANNO(オーストリア・ニュースペーパー・オンライン)

アイヒマンは1933年8月1日、親衛隊大管区本部の命令でドイツへ派遣されることなり、失業中であったことからヴェラを連れてドイツのパッサウへ移住しました。そのごヴェラとは1935年に結婚しました。

ドイツ移住後のアイヒマンは、ダッハウの親衛隊訓練場で戦闘訓練を受けましたが、単調な訓練に耐え切れず1934年9月親衛隊情報部(SD)に移りました。

1934年11月移動があり、アイヒマンは親衛隊情報部(SD)セクション II/112課(ユダヤ人担当課)に移りました。この時上官のフォン・ミルデンシュタイン親衛隊少尉ユダヤ人課課長からテオドール・ヘルツルの著作『ユダヤ人と国家』を読むように命じられました。この本でヘルツルはユダヤ人国家設立の構想を述べており、現代シオニズム運動の始まりとなった本です。

この本の影響でアイヒマンは、ドイツ在住のユダヤ人をパレスチナに移住させる可能性を探るため新しくユダヤ人課の課長になったヘルベルト・ハーゲンと共にパレスチナに視察に行きましたが、委任統治しているイギリスから滞在の許可が出ず、視察は失敗に終わりました。またこの時期から東欧ユダヤ人の間で使用されていた、「イデッシュ語」の勉強を始め、1938年には使いこなせるようになり、休み時間にはユダヤ人新聞を読み最新のユダヤ人動向を得ることで、ユダヤ人に対する専門家と認められるようになりました。

1938年3月12日オーストリアがドイツに併合(アンシュルツ)されると、アイヒマンは「ユダヤ人問題の専門家」としてウィーンに派遣されました。

当時オーストリアには約20万人のユダヤ人が住んでおり、そのうち18万人近くがウィーンに住んでいました。アイヒマンは、ユダヤ人の海外移住をスムーズに行うため1938年8月にウィーンにユダヤ人移民中央局を設立しました。ここではピザの発給の他、残していく土地や家屋、資産(国外に持ち出せる宝石や株券などのなどの、資産の額も決められていた)の売却に掛かる税金(安値で買いたたかれた上最高96%の税金が掛かるため、ほぼ没収)、パスポート税(裕福な人は、お金のない人の分の渡航費用を負担しなければならない)などの手続きも、一カ所で出来るようにしたことが大きな特徴でした。

このようにして、裕福なユダヤ人から貧しいユダヤ人の国外追放するためのお金を徴収することで、ユダヤ人の海外移住(国外追放)を促進して、18か月の間に、オーストリアのユダヤ人人口の 60% に相当する 15 万人のユダヤ人が国外に追放されました。

ウィーンのユダヤ人移民中央庁が置かれた、アルバート・ロスチャイルド宮殿(Palais Albert Rothschild)

この建物は、国際的なロスチャイルド家の分家であるオーストリアのロスチャイルド銀行家のメンバー、ルイ・フォン・ロートシルト男爵から没収した建物で、当時移民局の局長であったアイヒマンもここに住んでいました。

さらにロスチャイルド家から没収した高級リムジンを公用車として乗り回すなどで、アイヒマンもこの時が人生でいちばん良かったと言ってます。

出典 Wikipedia

1939年3月チェコスロバキアがドイツに併合されると、アイヒマンは4月にプラハに移動となりプラハのユダヤ人移民局でユダヤ人の海外移住の仕事に当たりました。しかし、この頃には世界中でユダヤ人移民の受け入れを拒否する国が出てきて、オースシリアのようにスムーズには行きませんでした。

1939年9月ドイツがポーランドに侵攻すると、アイヒマンはベルリンに呼び戻され、新しく新設された親衛隊国家保安本部ユダヤ人課の課長に任命され、占領地を含むドイツ全土のユダヤ人の移住を担当することになりました。

1940年6月フランスがドイツに降伏すると、ドイツ領域に住むユダヤ人はボーランドの200万人、そのほかフランスやベルギーなど西欧から100万人が加わり約325万となりました。

フランス占領後、アイヒマンはフランス領のマダガスカルに大量のユダヤ人を移住する計画(マダガスカル計画)を立てましたが、バトル・オブ・ブリテン(イギリスとの航空戦)で敗れたためイギリス占領が不可能となり、海上輸送の安全が確保できないとして計画は消えてしまいました。

翌1941年6月独ソ戦が始まると、ソ連領だったボーランドから350万人、ソ連領の占領地から150万人のユダヤ人が加わりました。はじめはソ連占領後大量のユダヤ人をシベリアに移住する計画を立てて、ポーランド総督府内にゲットーや強制収容所を作りユダヤ人を集めましたが、開戦1ヶ月後にはソ連占領が簡単でないことが分かり、頓挫してしまいました。

この頃にはソ連領内のドイツ軍占領地でアインザッツグルッペン(移動殺戮部隊)による銃殺で50万人、各地の強制収容所やゲットーで行われた銃殺や、餓死、病死などで50万人のユダヤ人が死亡していましたが、とても処理(殺戮)仕切れない数でした。

アイヒマンの言葉によると1941年の8月から9月頃、上官のハイドリヒからユダヤ人を絶滅させることになり、効率的な殺害方法を見つけるよう命じられたといいます。

アイヒマンはハイドリヒの指示に従って、ポーランド総督府領ルブリンの親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニクの指揮下で行われているユダヤ人虐殺のために建設中であるトレブリンカ絶滅収容所の現場を視察しました。その後、ヘノウムの強制収容所で行われていたガス・トラックによるガス殺の現場や、ミンスクでのアインザッツグルッペンによるユダヤ人銃殺活動を視察しました。

ふたたびトレブリンカに戻り、完成したガス室での殺害現場に立ち会いました。

ヘノウム強制収容所で使用されたガス・トラックの残骸

密閉した荷室にユダヤ人を乗せ、排気ガスを吹き込みながら埋葬地まで走り、到着したら直接その場で埋葬していた。

出典 ウィキペディア

これらの視察により、アイヒマンはユダヤ人の大量殺戮には銃殺より、ガス室による毒ガスの使用がより大量の殺人に適していること、および射殺にしろガス殺野現場でも採用していた地中に埋葬する方法では、時間がたつと腐乱した死体からの猛烈な匂いが立ちこめ、結局一旦埋めた腐乱死体をふたたび掘り出して、焼いていたことなどから、死体の処理には埋葬ではなく火葬にすべきの結論になりました。

その後収容人数を増加するための工事中であったアウシュヴッツ本収容所の所長ルドルフ・ヘス(かって総統代理であったルドルフ・ヘスとは別の人)と協議し、敷地内にガス室と死体の焼却施設を備えた「クレマトリウムⅠ」を建設しました。

最初の複合施設「クレマトリウムⅠ」

クレマトリウム(Crematorium)はドイツ語で火葬場を意味します。

出典 Wikipedia

「クレマトリウムⅠ」で使用された二重マッフル焼却炉

出典 Wikipedia

「クレマトリウムⅠ」のガス室は最大で700人ほど収容できましたが、問題は焼却炉で1時間につき最大3.5人のため、設置された3基を24時間フル稼働させても700人を処理するのに3日ほど掛かりました。

「クレマトリウムⅠ」では従来使用されてきた排気ガスによる一酸化炭素の代わりに、取り扱いが楽で安価な殺虫剤の「チクロンB」が使用されました。

1941年9月16日、「クレマトリウムⅠ」でソ連兵捕虜900人がガス処刑されました。

その結果に満足したアイヒマンは、少し離れた ブジェジンカ村iに(Brzezinka ドイツ語名Birkenau)に ア ウ シ ュヴィッ ツ 第 二強制収容所(ビルケナウ強制収容の建設を開始して、より大規模な複合施設「クレマトリウムⅡ」の建設を開始しました。

 

ガス室を備えた複合施設 ブジェジンカ(Brzezinka ドイツ語名Birkenau)に ア ウ シ ュヴィッ ツ 第 二強制収容所(ビルケナウ強制収容

(1)入り口(2)脱衣室(3)ガス室(4)ガスを投入するための穴(5)遺体運搬のためのエレベータ(6)焼却炉の内、横の並んだ5つが遺体処理用、離れた1つは衣服や書類などの焼却用(7)ユダヤ人作業員(ゾンダーコマンド)の宿舎

こちらのガス室は1680名収容できました。

出典 ウィキペディア

この後アイヒマンはヴィンゼー会議で、大規模なガス室が建設中であることを明かしました。

ルドルフ・ランゲ

ヴィンゼー会議出席者の中では階級が一番下で、会社で言えば部長会議の中に一人課長が混じった感じの人です。

彼は北部戦線担当のアインザッツグルッペンAの一部隊、アインザッツコマンド2の隊長としてバルト三国を中心に1941年12月までに約6万人のユダヤ人を殺害しました。

ルドルフ・ランゲ (1945年)

出典 Wikipedia

彼は1941年11月30日と12月8日の2日間、ラトビアの首都リガ郊外ルンブラの森の中で約2500名のユダヤ人を射殺しました(ルンブラの虐殺)。

バルト3国では、アインザッツグルッペンA(ユダヤ人125000名を殺害)の他ドイツ国防軍や地元の民警などにより約25万人のユダヤ人が殺害され、三国の一つエストニアでは”judenfrei” (ユダヤ人一掃)を達成しました。

ヴィンゼー会議で、ルドルフ・ランゲがハイドリヒに提出した、アインザッツグルッペンAがユダヤ人を殺害した人数を記した地図。

左上のエストニアの部分には”judenfrei”の文字が記されています。

出典 wikipedia

ヴィルヘルム・シュトゥッカート(内務省次官)

シュトゥッカートは1902年11月16日、プロイセン王国(ドイツ)の温泉地ヴィースバーデンで誕生しました。1922年からミュンヘンやフランクフルトで法律を学び弁護士の資格を取りました。1922年12月の大学時代にナチス党に入党しています。1928年法学博士号を習得し、ナチス党の法律アドバイザーを務め、1935年には内務省に勤め「ニュルンベルク法」の作成に関わりました。

ニュルンベルグ裁判の時のヴィルヘルム・シュトゥッカート

出典 ウィキペディア

ニュルンベルク法では、ドイツ国内のユダヤ人で祖父母4人のうち3人以上がユダヤ人の場合は完全ユダヤ人、祖父母4人のうち2人がユダヤ人の場合は、2分の1混血ユダヤ人(第1級ユダヤ人)、祖父母4人のうち1人がユダヤ人の場合は4分の1混血ユダヤ人(第2級ユダヤ人)と定義して、第1級と第2級ユダヤ人は、ドイツ人と見なしていました。

1935年のニュルンベルク法による混血ユダヤ人等級を示す表

出典 Wikipedia

ヴァンゼー会議では第1級ユダヤ人(2分の1ハーフ)もユダヤ人と見なし追放の対象にすることになりました。これに対してシュトゥッカートは、今までドイツ人として暮らしており、国防軍にも1万人の2分の1ユダヤ人の兵士が加わっていることから、第1級ユダヤ人の追放に反対し、ハイドリヒと対立しました。

ヴァンゼー会議

1939年1月30日、ヒトラーは国会議事堂で次のような演説をしていました。

今日、私は再度予言する。たとえヨーロッパ内外の国際的なユダヤ人資本家が国々を再度世界大戦に突入させることに成功しようとも、結果は地上のボルシェヴィキ化すなわちユダヤの勝利ではなく、ユダヤ人種の絶滅に終わることになるだろう!

引用 ウィキペディア

この演説をしたころには、ヒトラーはドイツと戦うことになると、ドイツ支配下のユダヤ人は殺されることになると警告し、ユダヤ人を対独戦争防止のための人質に利用しようとしていました。

しかし、1939年9月1日のポーランド侵攻では、イギリスとフランスが相次いでドイツに宣戦布告を行なったことで人質としての意味がなくなったうえ、新たにポーランドの占領地域に住む、200万人ものユダヤ人を抱え込むことになりました。さらにフランス占領や独ソ戦の開始などで、ドイツの支配下に居るユダヤ人は800万人にも及びました。

その上アイヒマンの試算によると、ドイツの支配が全ヨーロッパに及んだ場合1100万のユダヤ人を相手にすることになります。

 

アイヒマンの試算によるヨーロッパに住むのユダヤ人の人数。

出典 ウィキペディア

会議の初めにハイドリヒは、ゲーリング国家元帥からの命令書を読み上げます。

組織面、実務面、物資面で必要な準備をすべて行い、
欧州のユダヤ人問題を総合的に解決せよ。

関係中央機関を参加させ、協力して立案し、検討を行い
ユダヤ人問題の最終解決を実施せよ。

そして、この会議でユダヤ人問題の最終的解決について話し合うと提言します。「最終的解決」とは「殺戮」とのことです。

今まで行ってきた銃殺では、武装した敵兵を射殺するのに比べて、無防備の女、子供を殺すことは銃殺する兵士に掛ける精神的負担が大きいとの声が上がりました。また射殺やガス殺による死体を埋めるための穴を掘るにも、冬期には地面が凍ってしまい穴が掘れないためそのまま放置するしかない状態でした。

また、最終的解決の場を提供するポーランド総督府からは、既に200万人のユダヤ人が送られてきており、総督府内の収容所やゲットーは満員状態でこちらを優先して貰いたいとの強い要望が出されました。

次に問題になったのが、ドイツ人のユダヤ人の間に生まれた混血人でした。特にいままでドイツ人と認めていた2分の1ユダヤ人(祖父母4人の内2人がユダヤ人)をユダヤ人同等として、疎開(ドイツ本国から追放)の対象にするかどうかでした。彼らの中にはドイツ人として、国防軍に加わっている者もいました。

軍部の中には2分の1でも4分の1でもユダヤ人の血が少しでも混じっていれば、すべてユダヤ人として疎開の対象とすべきとの意見がありました。

これに関してはハイドリヒと内務省次官でニュルンベルク法の作成に関わったシュトゥッカーとの間の話し合いで、4分の1の混血ユダヤはドイツ人、2分の1ユダヤ人の内、国防軍に従軍している者と、ドイツ人と結婚して子供のある人を除いて、他の人はユダヤ人として疎開の対象とすることになりました。

最後に首相官房局長のクリッィンガーから、最終解決が実際に可能かどうかの疑問が出されました。彼は1941年9月29日から30日に行われた ウクライナのバビ・ヤール渓谷での虐殺を元にして(36時間で3万3771人を射殺)、1100万人のユダヤ人を射殺するには24時間連続して行っても488日間かかると説明しました。さらに射殺する兵士にも大きな精神的負担が掛かり、連続的に射殺を行うのは不可能だと指摘しました。

 

これらの話を聞いた後、ハイドリヒはこれらの負担を軽減するために、ガス室と火葬場を一体化した大規模な複合施設(クレマトリウム)を設置した、ユダヤ人殺害のための絶滅収容所を建設中であることを明かしました。

この建設を進めているアイヒマンの説明では、列車で到着したユダヤ人は働ける者と働けない者とに分け、働けない者は体に付いたシラミやダニを除去するためと称して、衣服を脱いでシャワー室(ガス室)に誘導します。全員がガス室に入ったところで外から鍵を掛け、室内に蓋を開けたチクロンBの缶が投げ入れられ、発生した青酸ガスにより15分後には全員死亡してしまいます。

その後部屋を換気し、死体を運び出して併設している焼却炉で処理すれば終わりです。

このとき建設されていたクレマトリウムⅡでは1度に1680名の処理が可能であり、後に作られた計画中のクレマトリウムⅣでは、1880名の処理が出来ます。

このような施設を何基か作り、さらに複数回作業をすることで1日に万単位のユダヤ人を処理することが出来るようになります。

処理すべきユダヤ人の人数に暗澹たる気持ちになっていた参加者達は、この計画に全員が賛成して会議が終了しました。

 

最後に

下の表は2021年における世界のユダヤ人の人口です。

出典 社会実情データー図録

上の表を見ると2021年におけるユダヤ人の総人口の内、第1位のエルサレムが687.1万人、第2位のアメリカにも600万人が住んでおり、1941年アイヒマンが計算した当時のヨーロッパ全域のユダヤ人1100万人に比べて、ヨーロッパのユダヤ人の数が極端に少なくなっております。

特に330万人のユダヤ人が住んでいたポーランドでは、2021年のユダヤ人の数が8064人(国勢調査によるポーランドの国民および民族構成)、500万人と言われていたロシアで約15万人と、この両国で際立って少なくなっています。

もし、戦争があと1年長引いたら、ヒトラーの目論見通りヨーロッパからユダヤ人が完全に消えていたかもしれません。そう考えると本当に恐ろしくなります。

そして何より1100万人のユダヤ人を殺すように言われ、わずか半年あまりでその方法を考え実行した人たち、何万、何十万、何百万のドイツ人にユダヤ人をこの世から排除することが正しいことだと信じ込ませてしまったヒトラーは、何と呼んだらよいのだろう。

 

 

同じくヴァンゼー会議を題材にした映画です。↓

映画 「謀議」 ホロコーストを円滑に行うために開かれた、ヴァンゼー会議の映画です。

 

ナチスの行ったホロコースト全体の解説はこちら ↓

 

ヒトラーその2 ユダヤ人迫害(ホロコースト)前編 第2次世界大戦まで

 

ヒトラーその2 ユダヤ人迫害(ホロコースト)前編 第2次世界大戦まで

アウシュヴィツで死体の処理に当たったユダヤ人達を題材にした映画はこちら ↓

映画 「サウルの息子」 ゾンダーコマンドのサウルが見たアウシュビッツ

映画 「灰の記憶」 アウシュビッツ収容所で働く、ゾンダーコマンドを扱った映画

アインザッツグルッペンによる村人達全員を殺した現場を再現した映画はこちら ↓

映画 「炎628」第二次世界大戦ベラールーシで、ナチス・ドイツのアインザッツグルッペン(移動殺戮部隊)が行った、残虐行為を扱った映画です。

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