なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

映画 「炎628」第二次世界大戦ベラールーシで、ナチス・ドイツのアインザッツグルッペン(移動殺戮部隊)が行った、残虐行為を扱った映画です。

time 2023/05/10

映画 「炎628」第二次世界大戦ベラールーシで、ナチス・ドイツのアインザッツグルッペン(移動殺戮部隊)が行った、残虐行為を扱った映画です。

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亀仙人2

映画 「炎628」

1985年   ソビエト連邦

1943年ドイツ軍が占領していたベラルーシでは、アインザッツグルッペン(移動殺戮部隊)と呼ばれる部隊が一般の民間人を相手に、虐殺を繰り返していました。「ホロコースト」というと、主にユダヤ人や共産主義者を相手にしていたイメージがありますが、ヒトラーの考えていた「ホロコースト」はそんな簡単なものではなく、想像を絶するとんでもないものでした。それは映画の最後に明らかにされます。

 

映画 「炎628」

監督 エレム・クリモフ
脚本 アレシ・アダモヴィチ
エレム・クリモフ
音楽 オレーグ・ヤンチェンコ
撮影 アレクセイ・ロジオーノフ

出演

 

あらすじと解説

この映画の元になった事件

この映画はベラールーシの作家アレス・アダモビッチの書いた『ハティニ物語』と言う小説を映画化したものです。

『ハティニ物語』は1943年3月22日に、ベラルーシのハティニ村で起きたドイツの警察補助隊の第118大隊による村民虐殺事件を題材に書かれた小説です。

ドイツ軍はハティニ村の村民を集めて納屋に押し込み、ガソリンをかけて納屋を焼き、逃げ出した村民も機関銃で撃ち殺しました。結果子供75名を含む149名が殺害されました。

アイキャチ画像の銅像は、この襲撃で生き残った唯一の成人男性(ほかに子供5名が生き残っています)ヨシフ・カミンスキーが犠牲になった我が子を抱いているところです。この像は、ハティニ村の跡地に1969年に建設されたハティニ記念公園の中に、立っています。

ハティニ記念公園の中心部のパノラマ画像

出典 ウィキペディア

1943年のベラルーシ

ナチスドイツの指導者ヒトラーは第一次世界大戦前に、生まれ故郷であり多民族国家のオーストリアを捨て南ドイツのミュンヘンに移住しました。第1次世界大戦が始まるとドイツ軍に志願し、生涯身に着けていた鉄十字章を始め戦功を評価され、6回受章しています。

第一次世界大戦時の一級鉄十字章、1914年章を付けたアドルフ・ヒトラー。

出典ウィキペディア

第1次世界大戦は1919年11月11日にドイツが連合国と休戦協定を結び、ドイツの敗戦となり終了しました。

ヒトラーはドイツ軍はまだ戦う余力があった(第2次世界大戦終戦までドイツ軍は国内に敵を侵入させなかった)のに負けたのは、キール軍港で起きた水兵の反乱を基にドイツ革命をおこし、ドイツ皇帝ヴェルヘルム2世を退位させドイツ帝国に変わってドイツ共和国を作り、休戦協定に署名した共産主義者たちの仕業だとしました。

共産共産主義の初めとなる「資本論」を書いたマルクスや、ロシア革命を成功させたレーニンやトロツキーがユダヤ人だったことから、ヒトラーはユダヤ人や共産主義者たちを敵視し、彼らをドイツから排除することを訴えました。1939年のハンガリー侵攻まではドイツ国内に居たユダヤ人は、50~60万人ほどで虐殺は行われず、主に海外に移民として追放させることが主力となっていました。

ヒトラーはドイツ人が属するアーリア人だけを優秀な人種と見なし、他の民族を劣等民族としました。そしてダーウィンの進化論に従って優秀な人種であるアーリア人だけが劣った人種を従わせ、さらには絶滅させることが人類の発展のために必要であり、義務であると考えました。

そして劣等民族の最下層にいるのがユダヤ人で、ヒトラーはアーリア人の純血を守るため、ユダヤ人の排除を実行したのです。

この部分に関しては、こちらに詳しく書いておきました ↓

ヒトラーその2 ユダヤ人迫害(ホロコースト)前編 第2次世界大戦まで

アインザッツグルッペン

1938年のオーストリア併合前に保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将は、ヒトラー政権に反対する知識人・聖職者・政治家など指導層を逮捕するためのリストを作るためのスパイ活動を行っていました。このスパイ活動をしていた部隊をアインザッツコマンドと呼びました。

1938年9月のズデーテンラント併合、1939年3月のチェコスロバキア保護国化に際して規模を拡大しアインザッツグルッペンとなり、反ヒトラー政権のメンバーを逮捕し、銃殺するだ徒の活動を行うようになりました。

1939年この部隊はボーランドに侵攻した国防軍の後に続いてポーランドに入り、治安部隊として反ドイツ活動家の取り締まりするはずでした。しかし、当時のポーランドには約200万人ものユダヤ人が住んでおり、本来の教員、聖職者、貴族、叙勲者、退役軍人などのポーランド指導者層の銃殺だけでなく、ユダヤ人やロマなども対象となり、数千人が銃殺されました。

1941年6月に独ソ戦が始まると、アインザッツグルッペンは国防軍に後を追ってペラルーシに入り、ユダヤ人やロマのほか、共産党員(1922年以降ベラルーシは白ロシア・ソビエト社会主義共和国となって、ソビエト連邦に加わっていました)ソ連兵捕虜、対独パルチザンも銃殺の対象となりました。

はじめは順調に見えたドイツ軍も、1942年1月7日にモスクワ攻略に失敗して撤退してから、影が見え始め翌1943年スターリングラードの降伏と、その夏に行われたクルクスの戦い(1943年7月4日~8月27日)で負けたことでドイツ軍の敗北が決定的となりました。

それに伴いベラルーシ国内の対独パルチザンの活動も活発となり、一般の農民や市民も殺戮の対象となりました。

 

オスカール・ディルレヴァンガー

ベラルーシで活躍したアインザッツグルッペン舞台の中で、最悪と言われるのがオスカール・ディルレヴァンガーが率いる第36SS武装擲弾兵師団でした。

彼の部隊はあまりもの残虐行為によって、「武装親衛隊の面汚し」と呼ばれました。

オスカール・パウル・ディルレヴァンガー

出典 ウィキペディア

第一次世界大戦で活躍し、鉄十字賞を受けたものの戦後は普通の生活になじめず、フライコール(ドイツ義勇軍)に入り、ドイツ各地で起きた様々な武力衝突に参加して、戦闘を続けていました。この間にディルレヴァンガーは、フランクフルト・アム・マイン大学で政治学を学び、1922年に政治学博士号を取得しています。

その後ナチス党に入隊し、突撃隊の一員となりました。その反面さまざまな企業にに就職して、中にはユダヤ人が経営する会社で金庫から金を横領して、その金を突撃隊に寄付していたりしています。

1933年ナチス党が政権を握ると、古参党員として地方の雇用事務所の副所長として任務に就くようになりました。

しかし、翌1934年ドイツ女子同盟のメンバーであった13歳の少女と淫行したことと、酒を飲んで公用車を運転して事故を起こしたことで刑事告発され、2年の懲役と博士号や第一次世界大戦で得た鉄十字賞などを取り上げられすべての名誉を失いナチス党からも追放されました。

1936年刑期を終えた彼は、当時起きたスペイン内戦にドイツによるコンドル軍団の義勇兵として参加し、3度の負傷にもめげず戦ったことで、勲章を贈られました。

1940年コンドル軍団での活躍を評価され武装親衛隊の入隊を認められ、ナチ党の支援もあって剥奪された博士号もとり戻すことができました。

はじめは政事学の博士号を生かして、武装親衛隊で事務を行って親衛隊中尉となりました。

1960年6月24日、逮捕されて服役中もしくは未決の密猟者のうちから、罪状の軽い犯罪者を中心に部隊を編成することになり、その隊長に服役経験のあるディルレヴァンガ-が選ばれました。

部隊の主な任務は誰もが嫌がる、捉えられたユダヤ人の射殺でした。

しかしこの任務が彼の気性に合っていたため大活躍して、はじめ数十人だった部隊も、殺人や強盗で捕まった囚人や強制収容所に収容されていた政治犯、ドイツ軍で軍律違反を起こして軍法会議で有罪となった兵なども参加し、6千人ほどの大部隊となり部隊はディルレヴァンガー旅団と呼ばれるようになりました。

1942年1月25日、ポーランドのアウシュヴィッツ収容助のガス室が完成し、大量のユダヤ人を処理することが出来るようになると、1942年3月ディルレヴァンガー旅団は、ドイツ軍に対するパルチザン活動が激しいベラルーシに送られました。

部隊はパルチザンと戦う一方、パルチザンを支援したとしてベラルーシの農村を襲い略奪や強姦をした後、村人全員を納屋などに集め火炎放射器で火を付け焼き殺し、逃げ出した村人は機関銃などで射殺しました。このため部隊は行き過ぎた行動と軍紀違反により、何度も軍法会議にかけられそうになりましたが、親衛隊のトップであるヒムラーにより黙認されるどころか、パルチザン掃討に大きな功績があったとして2回受賞されました。

そのため、誰も彼を止めることが出来生なりました。

1942年から1944年にかけてディルレヴァンガーの部隊は200以上の村を焼き、12万人の民間人が犠牲になったと推定されています。

終戦後、彼は戦犯として捕らえられましたが、彼の顔を知っていたポーランド人の看守によって、殴り殺されたと言われています。

映画のあらすじ

1943年の白ロシア(現在のベラルーシ)、主人公の少年フリョーラは地面を掘り、パルチザンが隠した小銃を手に入れました。しかし、その様子をドイツ軍の偵察機(Fw 189)が見ていました。

Fw 189

 

Fw 189V-1 原型初号機

出典 ウィキペディア

ドイツのフォッケウルフ社で製造された偵察機。通称「Uhu(ウーフー。ワシミミズク)」。その形からソ連赤軍では「空飛ぶ額縁」と呼ばれました。

本機は地上を偵察できるようにするため双胴式とし、中央部のキャビンの前面と後部はガラスを多用して広い視界を確保しています。

映画の中では、出てきた後に悲劇が起きる「悪魔の使徒」的な役割で登場します。

全長: 12.02 m
全幅: 18.39 m
全高: 3.10 m
翼面積: 38.00 m2
全備重量: 3,945 kg
自重: 2,800 kg
エンジン: アルグス As 410A-1 空冷12気筒 465 hp × 2
最大速度: 349 km/h(2600 m)
上昇限度: 7300 m
航続距離: 670 km
武装
7.92 mm機銃 × 4
爆弾 200 kg
乗員: 3 名

翌朝村人たちが見送る中、迎えに来た2人のパルチザンと一緒に森の中にある陣地に向かいました。

翌日パルチザンの一行は出撃しましたが、新入りのフリョーラは留守番として陣地に残されました。

フリョーラは陣地で知り合った少女グラーシャと近くの森の中にいると、ドイツ軍の偵察機が現われ、落下傘兵が降下し始めると同時に陣地は激しい砲撃にさらされ、破壊されてしまいました。

居場所のなくなったフリョーラは、グラーシャを連れて村に戻りましたが、村には誰もいませんでした。フリョーラは村人たちは、かねてから決めていた避難所に行ったものと思い、そこに向かうことにしました。家を出た途端グラーシャは、フリョーラの家の横に村人たちの死体が置かれているのを見てしまいました。

フリョーラは村人たちが避難場所として決めている、近くの沼の中にある島に着きました。その島には何人もの村人たちが避難してきていました。

村人の話によると、フリョーラがパルチザンに入った見せしめとして、ドイツ軍は彼の家族と近所の人を皆殺しにしたそうです。

責任を感じたフリョーラは自殺を図りましたが、グラーシャによって止められました。

フリョーラは、パルチザンのロウベジと2人の村人と共に4人で避難した人たちのために食料を探しに行きました。しかし村に近づいた彼らは、ドイツ軍の機関銃で追い返されてしまいました。

仕方なく他の場所を探すことにしましたが、村人の2人は地雷によ触れて死亡していまいました。

夜になり、ドイツ軍に占領されたバグショフカ村の農民を襲い、牛を奪い取ることに成功しました。しかし、逃げる途中ドイツ軍に見つかって機関銃で撃たれ、牛とロウベジは殺されてしまいました。

翌朝深い霧の中、フリョーラは馬車を見つけ死んだ牛を運ぼうとしところで、持ち主の農夫に見つかってしまいました。農夫と言い争っている最中、ドイツ軍が近づいてくる音がしてフリョーラは持っていた銃とパルチザンの制服を近くの藁の中に隠し、農夫の住むペレホードイ村に向かいました。農夫は、とりあえずフリョーラを彼の孫(名前をミトロファン)としました。

その間に、ペレホードイ村には大勢のドイツ軍部隊が集まってきています。

村に帰ったミトロファンの家には、隣近所から大勢の子供を連れた親戚の人たちが集まってきました。

やがてドイツ軍は、村人全員に広場に集まるように言います。フリョーラは

「行ってはだめだ。行ったら、殺される。」

と言って止めましたが、ヒトラーの肖像画を持った親ドイツ派の農民たちに捕まり、一緒に連れて行かれました。

ドイツに連れて行かれる人(彼には強制収容所に行き、軍需工場で働かされます)を除き、残りの人たちは大きな家(一見教会のような感じですが十字架がないので、村の集会所かしら)に閉じ込められ、外からかんぬきを掛けられてしまいます。

部隊を指揮しているドイツ軍の中尉が、窓から顔を出し、

「ここから出たい者は、子供を置いて出で来い。」

と呼びかけました。

フリョーラを含む何人かはその声に従って、窓から外に出ました。中には子供を連れた女の人もいましたが、子供は取り上げられて窓から小屋の中に投げ込まれました。

村に着いてからのドイツ兵たちは、皆酒を飲んで酔っ払っていました。

これから、お祭りの始まりです。

ドイツ軍の中尉は全員銃を持って、小屋の周りに集合するよう命令します。

2,3人の兵が小屋に手榴弾を投げ入れた後、火炎瓶や火炎放射器を使って小屋に火を付けました。小屋に周りに集まった兵隊たちは、手に持った機関銃や小銃で中に居た人たちを撃ち、皆殺しにしてしまいます。

この時も、例の偵察機が空から見ていました。

あまりの出来事を目の当たりにして、フリョーラは気を失って倒れてしまいました。

ドイツ軍は村の家々に火を付け、食料や家畜を奪って引き上げていきました。このときオートバイに乗ったドイツ兵がフリョーラに気が付いて蹴飛ばしましたが動かなかったので、死んでいると思いそのまま行ってしまいました。こうしてフリョーラは助かりました。

やがて意識を取り戻したフリョーラは隠した銃を探すため元の所に行こうとしましたが、途中の森の中で村を襲ったドイツ軍がパルチザンに襲われたことを知りました。

藁の中から自分の銃を見つけ出したフリョーラをを、もと居たパルチザンの隊長が見つけ、さらに一緒にいた少女グラーシャもドイツ兵に暴力を振るわれボロボロになった姿で出てきました。

 

やがて近くに在る橋のふもとで、捕まったドイツ兵の尋問が行われることとなり、フリョーラもそこに行きました。

そこではドイツ軍に加わっていたロシア人の協力者が

「悪いのはドイツ軍だ。私は無理矢理やらされただけだ。」

と命乞いをし、ドイツ軍の隊長である少佐も

「私は誰も殺していない(村人を殺すように命令したのは彼です)。私は年を取って病弱だし、軍を引退して切らすつもりだ。」

等と言っていました。

その中で部隊を指揮していたドイツ軍少尉は二人に対して、

「ドイツ人の面汚しだ。恥を知れ。」

とりつけていました。

これを聞いたフリョーラは

「この人だ。この人が子供を置いて小屋から出ろと言った。」

と指摘しました。

知これに答えて中尉は話を続けます。

「確かに子供を置いて、外に出ろと言ったのは私だ。それは子供がすべてのとトラブルの元だからだ(フリョーラを助けた農夫の一族は、彼の兄弟が産んだ子を始め、孫まで入れると大変な数になっていました。ヒトラーは、将来数で彼らに負けると思っていました)。お前ら劣等民族には未来はない。なぜならお前ら劣等民族は共産主義と結びつき、世界を奪おうとしているからだ。だから、お前らはこの世から根絶すべきものなのだ。それが我々の使命なのだ。」

この話を聞いた一人の農婦が機関銃を撃ちだすと、周りにいた村人やパルチザンたちも一斉に射撃を始め、ドイツ兵たちは全員射殺されてしまいました。

皆が引き上げ始めると、フリョーラは水たまりのむ中に捨てられていたヒトラーの肖像画を見つけ、肖像画のヒトラーめがけて銃で撃ち始めました。一発撃つごとにヒトラーの映像が変わり、電撃戦からね政権を握ったとき、ミュンヘン一揆、第一次世界大戦、学生時代とヒトラーの絵が変わり、最後に母親にだ入れた幼少期の画面になったとき、フリョーラは撃つのをやめました。

母親に抱かれた、幼少期のヒトラー

映画よりキャプチャー 2時間12分30秒付近

もしこの時ヒトラーを殺しておけば、何千万人の命が失われずに済んだのは確かですが、もし銃を撃ったらヒトラーがやったのと同じになってしまいます。

驚いたのはこのときのフリョーラの顔が、同じ人かと思えないほど変わってしまっていたことです。

 

パルチザンに入った時の顔

映画よりキャプチャー 20分20秒付近

2日後、ヒトラーの肖像画を撃っていた時の顔

映画よりキャプチャー 2時間13分30秒付近

パルチザンの仲間に声を掛けられ、我に返ったフリョーラが次の戦いのために森の中に入っていくところで、映画は終わります。

第二次世界大戦では、ベラルーシの人口900万人の3分の1に当たる300万人以上の人たちが犠牲となりました。

ヒトラーが行ったホロコーストの解説はこちら ↓

ヒトラーその3 ユダヤ人迫害(ホロコースト)後編 第2次世界大戦開戦、そして大量殺戮の始まり

ここに書いたようにヒトラーは戦況が不利になっても、ユダヤ人やベラルーシなどに住むスラブ人のような劣等民族を絶滅させることが使命として、殺し続けました。

映画の中で捕虜となったドイツ軍中尉が「おまえたち劣等民族を滅ぼすことが、我々の使命だ。」と言ったのはこのことです。

東欧に作られたゲットーには、地元のユダヤ人の他ドイツ本国やオーストリア、チェコなどのユダヤ人も送られてきており、今まで通り穴を掘って射殺していては、間に合わなくなってきていました。

そこでヒトラーは親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーに「ユダヤ人問題の最終的解決」を決めるように命じ、1942年1月部下のラインハルト・ハイドリヒはドイツ軍の高官たちを集めヴァンゼー会議を行い、ガス室による大量殺戮を目的とした、絶滅収容所の建設を決定しました。

ヴァンゼー会議を題材とした映画があります ↓

映画 「謀議」 ホロコーストを円滑に行うために開かれた、ヴァンゼー会議の映画です。

ベラルーシでも首都のミンスクに大規模な絶滅収容所を作る計画がありましたが、ソ連軍が迫っていることと、必要な資材の輸送問題で見送られ、代わりに村人全員を一軒の家に閉じ込め、そこに火炎放射器などで火を付け焼き殺す方法がとられました。こうして焼かれた村は、ベラルーシ全体で628カ所になりましたる

日本語の題名『炎628』はここからきています。本来の題名はベラルーシ語で『Idzi i look』、ロシア語で『Иди и смотри』で英語の『Come and Seet(来たれ、見よ)』です。

 

 

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