なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

なぜ戦争が始まるのか 第1次世界大戦前のドイツ 神聖ローマ帝国 その1 フランク王国

time 2021/06/17

なぜ戦争が始まるのか 第1次世界大戦前のドイツ 神聖ローマ帝国 その1 フランク王国

第1次世界大戦と第2次世界大戦の2つの世界大戦を始めたドイツ。そのドイツの歴史を調べてみました。

sponsored link

亀仙人2

ローマ帝国の崩壊から神聖ローマ帝国の成立まで

ローマ帝国とキリスト教

ローマ帝国初期に生まれたキリスト教は、徐々に帝国内に信者を獲得し広まっていきました。しかし、皇帝崇拝より神に忠誠を誓うことを優先した教えのため、ローマ帝国から迫害を受け続けていました。

313年皇帝として最初のキリスト教信者となったコンスタンティヌス1世は当時の東帝リキニウスと共同でミラノ勅令を出してキリスト教を公認(ミラノ勅令はキリスト教だけではなくすべての宗教も含みます)しました。

326年、ローマ郊外のバチカンにコンスタンティヌス1世により、キリスト最初の弟子ペトロの墓所として教会堂が建てられました(後のサン・ピエトロ大聖堂)。当時ローマ市内に使者を埋葬することが禁止されていため、バチカンは古くからローマ人の共同墓地として使用されていました。カトリック教会では、ペトロは初代ローマ教皇にされています。

392年、テオドシウス1世の時にキリスト教はローマ帝国の国教となり、他の宗教は禁止されました。

395年テオドシウス1世は死に際して、長男アルカディウスに帝国の東側、次男ホノリウスに帝国の西側を与えて、それぞれ統治させました。

テオドシウス1世没後、395年のローマ帝国の分割。両者の国境線は黒線にて表示 (白線は現代の国境線)
赤色 西ローマ帝国
紫色 東ローマ帝国

出典ウィキペディア

東西に分かれた後、東ローマ帝国ではその後1000年以上もローマ皇帝の支配が続きましたが、476年、西ローマ帝国はゲルマン人出身の傭兵隊隊長オドアケルによって、西ローマ帝国皇帝ロムルス・アウグストゥルスが退位させられました。

オドアケルは西ローマ皇帝の帝冠をコンスタンティノープルの東ローマ皇帝ゼノンへと贈り、西ローマ帝国皇帝は廃止されゼノンは全ローマ帝国唯一の皇帝となりました。

オドアケルは皇帝ゼノンによりイタリアの領主に任命されましたが、自身はイタリアを守る軍官としての地位にとどまり、政治面では元老院など西ローマ帝国の政府機構はそのまま残し、古代ローマ式の統治方法を継続しました。

オドアケルはローマの法を厳格に実行して元老院と執政官の権威の復興に務め、西ローマ帝国の人々から大きな信頼を得ました。

488年オドアケルは、反乱を恐れた東ローマ皇帝ゼノンにより暗殺されてしまいます。

ゲルマン民族大移動

ゲルマン民族は元々西ローマ帝国の東側、現在のドイツからオーストリア、東ヨーロッパ辺りに住んでいました。

370年ごろから、黒海からカスピ海の北側に住んでいた遊牧民族のフン族がヨーロッパに進出しだしました。

フン族の西方への移動の推定図

出典ウィキペディア

それにつれて、もともとそこに住んでいたゲルマン民族の各部族は、西ローマ帝国内に移住してそれぞれの王国を作りました。

王国と言っても、それは西ローマ帝国から同盟国として認められているので、西ローマ帝国という枠の中に入っていました。

西ローマ帝国は彼らを傭兵として雇い、フン族や同じゲルマン人から国を守るために使用しました。

476年、西ローマ帝国がゲルマン人出身の傭兵隊隊長オドアケルによって滅ぼされると、それぞれの国家は独立した王国となります。

その中で徐々に勢力を拡大したのが、北フランスにあったフランク王国です。

 

ゲルマン民族大移動によって作られた国家

出典 歴史 年代ゴロ合わせ暗記

フランク王国

5世紀中ごろ、ライン川下流域に勢力を持っていたサニー・フランク人の王メロヴィクス(メロビス)がブラバンド北部(現在のベルギーやオランダ)でフン族と戦い、西ローマ帝国から、国境警備の代わりに領土をもらったのが、フランク王国の始まりとされています。

メロヴィング朝

メロヴィクス(メロビス)から1代おいてクロービス1世(アイキャチ画像の人)の時代になると、フランク王国は大きく領土を拡張しました。

   481年頃のガリア

出典ウィキペディア

クロービス1世が即位した当時、北ガリア地域はローマ人のガリア軍司令官シアグリウスがソワンソン管区として支配していました。ソワンソン管区は461年にローマ人の軍人アエギディウスがガリア地方の軍司令官として任命されたことから始まります。ゲルマン人が侵入して西ローマ帝国が滅亡した後までも、ローマの飛び地として独自の勢力を築き、滅亡する486年までローマ人の頭領による支配をつづけました。

486年クロービス1世は、ガリア軍司令官シアグリウスと戦って勝利し、北ガリア地方一帯を支配下に置きます。

493年、ブルグント王国の王キルペリク2世の娘クロティルダと結婚し、ブルグント王国とは同盟関係になります。クロティルダは熱心なキリスト教徒で、彼女の説得によりクロービス1世もキリスト教に改宗しました。クロービス1世は配下の騎士3000人と共にランス大司教のレミギウスからカトリックの洗礼を受け、各地に教会や修道院を立てカトリックの普及に勤めました。

496年アラマニン人と戦いその領地のスイス地域を手に入れました。

507年には当時強勢を誇っていた西ゴート族を破ってイベリア半島(のスペイン・ポルトガル)に追いやり、ガリア地方の統一を果たしました、

508年、ローマを支配していた西ゴート族を排除したことでクロヴィス1世は東ローマ皇帝アナスタシウス1世から「アウグストゥス」の称号が贈られ、西ローマ帝国の執政官に就任しました。

この称号はもはや単なる名誉職に過ぎなかったが、クロービス1世の王国が東ローマ皇帝(この時点では唯一のローマ皇帝である)から正式に承認され、フランク王国によるガリア支配がローマの名の下に正当なものであることを意味しており、教会の組織と共にガリア一帯を治めるのに、大きな力になりました。

これによってローマ教皇はフランク王国の保護を受けることになり、フランク王国はローマ・カトリック教会を守る国家として、教皇から認められるようになりました。

クロヴィスは511年11月27日に死去しその領土は、ゲルマン人の慣習に従って4人の子全員に分割相続されました。この慣習は領土が分割されることにより、各地に王が輩出して一つの国家としてまとまりが無くなってしまうことになります。

 

メロヴィング朝 略系図

引用 コトバンク 

カロリング朝

メロヴィング朝フランク王国も末期になると、王に変わって実務を行う宮宰(王に変わって政治の実務を行う人。日本でいえば摂政や関白に当たります。)が権力を握るようになり、750年カロリング家ピピン3世がフランク王国全体の宮宰となりました。

上のメロヴィング朝の家系図の右下のチリベル2世が死亡すると、嗣子が居ないためメロヴィング朝は一旦途絶えました。

ピピン3世は、メロヴィング朝の血統を持つ人物を修道院から探し出し、テルデリヒ3世として就任させました。

そうしておいてピピン3世は、ローマ教皇ザカリアス の支持を取り付け、フランク族の貴族たちと貴族会議を開き、テルデリヒ3世を廃位させ(テルデリヒ3世は聖職者のため結婚できず、跡継ぎが居ないため)、新たに貴族たちを説得して自らフランク王国の王に就任しました。

なぜこんな面倒なことをしたかというと、長い間ローマ教皇から王権を授けられたメロヴィング朝から正式に王権を受け継いだことを示すためでした。これは王家の血筋から離れたピピン3世が、フランク王国を引き継ぎ、国をまとめるためには、絶対必要な事でした。

その後もフランク王国は領土拡大のために戦いを続けますが、これらの戦いは神の名の下での戦いという大義名分を使用して行われました。

ピピン3世は教皇が支持してくれた見返りに、754年から755年にかけてイタリアの大部分を支配していたランゴバルド王国と戦い、イタリア中心部のラヴェンナを奪って教皇ステファヌス2世に教皇領を献上(ピピンの寄進)しました。これによりローマ教皇庁は経済的に安定するようになりました。

768年ピピンが死去すると息子のカール(26才)とカールマン(17才)が後を継ぎました。ところがその3年後カールマンが死亡したので、カールが単独でフランク王国を支配しました。カールはその生涯の大部分を各地の制服のために戦い、この時期にフランク王国は大きく領土を拡大しました。

774年、カールはイタリア半島北部にあるランゴバルドの首都パヴィアを占領して自らイタリア王となりました。これによりイタリアはフランク王国の一部となりました。カールは父ピピン3世に倣って、征服したイタリアの一部を教皇に寄進しました。

 

カール1世死亡時(814年)のカロリング朝の版図

出典ウィキペディア

800年12月25日、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂で行われたクリスマス・ミサで教皇レオ3世はローマ皇帝の冠をカールに対して戴冠しました。

これはカールが西ローマ帝国の皇帝として認められ、西ローマ帝国が復活した瞬間でした。

コンスタンティヌスの寄進状

ここで一つ重大な問題があります。

当時のローマ教皇には、ローマ皇帝の戴冠を行う資格がなかったことです。

共和制ローマが帝政となって最初のローマ皇帝アウグストゥス(尊厳者 本名ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス)が皇帝として就任したのはキリストが生まれる前の紀元前27年です。

初代ローマ皇帝アウグストゥスはローマの英雄ユリウス・カエサル(英ジュリアス・シーザー)の甥であり、ユリウス・カエサルが暗殺された後、執政官(行政官)と軍の司令官として活躍し、元老院からローマを統治するのに相応しいと認められ、国の全権を掌握するよう要請され、一度これを断ったうえこれを承諾し、皇帝に就任しました。

これ以後原則的に、ローマ皇帝として信任されるためには、その者がローマ皇帝として相応しい行動をしていると、元老院に認められる必要がありました。

ですからローマカソリックの最高位であってもローマ教皇が、ローマ皇帝位を授けることはできません。

ここにきて、ピピンの寄進時の教皇ステファヌス2世の時に創られたと見られて居る一通の文書が出てきました。

ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、教皇シルウェステル1世にあてた書簡で

「自分[注釈 ローマ皇帝コンスタンティヌス1世、在位:306年-337年]はハンセン病(癩病)を患っていたが、ローマ教皇シルウェステル1世[在位: 314年1月31日 – 335年12月31日]による洗礼を受けた後、治癒した。その感謝の印として、ローマ司教[ローマ教皇]に自分と等しい権力を与え、全西方世界[ ラテラノ宮殿やローマおよびイタリア全土と帝国西部の支配権など]を委ね、自分はコンスタンティノープルに隠退する」

315年3月30日

引用 ウィキペディア

という内容です。これによりローマ教皇領以南の南イタリアと、シチリア島(この部分は東ローマ帝国領)を除く、西ローマ帝国の全領土と、ローマ皇帝の持つ権限全てが、ローマ教皇に譲られたことになります。これにより、元老院おこなっていた、ローマ皇帝を戴冠する権利はローマ教皇が持つことになります。

教皇シルウェステル1世(左)に寄進する皇帝コンスタンティヌス1世(右)。13世紀のフレスコ画。

出典ウィキペディア

この文書は後にローマ教皇とローマ皇帝の間で行われた叙任権闘争において、教皇側の正統性を示す大切な役割を担うことになりました。

しかし、この文書が15世紀にイタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァッラが古いラテン語文献に使われている用法とは異なる点があることに気付き、『コンスタンティヌス寄進状の偽作論』を発表した。

その後、幾度もの論争を経て、18世紀に偽作であることが確定した。作者は不明である。

イギリスの歴史家R・W・サザーン(英語版)は、この文書の書かれた年代を750年よりあととし、その目的は

  • ビザンツ皇帝とローマ教皇の不和を正当化するため
  • フランク王国に対し、イタリア半島における旧ビザンツ帝国領に対する教皇の主権を証明するため

であったする。

この部分引用ウィキペディア

ここに出てきたローマ教皇コンスタンティヌス1世はキリスト教徒にとっては、大変重要な人物です。ローマ皇帝初のキリスト教徒であり、313年東方正帝のリキウスと連名でミラノ勅令を発布し、それまで迫害をされていたキリスト教を公認しました。325年にはニケーア公会議を開催し、三位一体(神とキリストと精霊は同じとする説)を唱えるアナタシウス派の教義を正当とし、キリストは神から創造されたもの(キリストは人であって神ではない)とするアウリス派の教義を異端と決めました。

政治面ではそれまで4つに分割されていたローマ帝国を一つにまとめ、自らの名前を付して建設した都市コンスタンティノープル(現在のトルコ、イスタンブル)にローマ帝国の首都をローマから遷都しました。コンスタンティノープルは、その後東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となり、正教会の総本山となります。

 

話を戻しますが、814年にカール大帝は71歳で死去し、存命だった唯一の息子ルートヴィヒ1世が35歳前後で後を継ぎました。

帝国の分割

840年6月、ルードヴィヒ1世が死んだ後、残された3人の息子の間で領土の分割相続の争いが起こり、843年8月10日のヴェルダン条約により、西フランク王国・ロタール王国(中部フランク王国)・東フランク王国の3つに分割されました。

ヴェルダン条約で定められた国境

出典ウィキペディア

855年中部フランクのロタール1世が死去し、その領土は3人の息子ロドヴィコ2世(皇帝ルートヴィヒ2世)、ロタール2世、シャルル(カール)によってさらに分割されました。

855年、ロタール1世の死後、3分割されたロタール王国(中部フランク王国)

桃色    イタリア王国   (ロドヴィコ2世(皇帝ルートヴィヒ2世))

紫色    ロタリンギア王国 (ロタール2世) 

オレンジ色 プロヴァンス王国 (シャルル)

黄色    ローマ教皇領

出典ウィキペディア

この3人のうち863年にシャルル・869年にロタ―ル2世が相次いで亡くなった為、870年8月8日のメルセン条約により二人の土地は、西フランク王国のシャルル2世と東フランク王国のルードリッヒ2世が引き継ぐことになりました。

 

メルセン条約による三分割

赤色 シャルル2世の領域

緑色 ルードリッヒ2世の領域

桃色 ロドヴィコ2世の領域

黄色 ローマ教皇領

出典 ウィキペディア

カール3世のフランク王国の再統一

これによりフランス・ドイツ・イタリアの原型が出来ました。分裂した三国とも当初はカロリング家の王が続きましたが、875年にロドヴィコ2世(皇帝ルートヴィヒ2世)が亡くなると、その領地は3人の息子、カールマン(バイエルン王)、ルードヴィッヒ3世(ザクセン王)、カール3世(アレマニア王)に分割相続されました。

長男のカールマンは877年の西フランク王シャルル2世の死去を受け、東フランクの君主としては初めての「イタリア王」の称号を獲得しました。

これには872年、従兄の皇帝ロドヴィコ2世(ルートヴィヒ2世)により帝位継承者として指名されていましたが、皇帝ロドヴィコ2世が亡くなった後、皇帝とイタリア王の称号は、ローマ教皇の支持を受けたシャルル2世が受けついていたためでした。

880年、バイエルンの王位をルードヴィッヒ3世に、イタリアの王位をカール3世に譲り亡くなりました。

ザクセン王のルードヴィッヒ3世は、兄のカールマンからバイエルンを受け継ぎ、広大な領地を持つことになりました。

882年、ルートヴィヒ3世は男子後継者なく死去したため、彼の領地は弟のカール3世が引き継ぎました。

カール3世は兄のカールマンからイタリアの王位を受け継いだ後、881年2月21日、教皇ヨハネス8世により皇帝として戴冠しました。

翌882年、ルートヴィヒ3世が死去し、彼の領地を引きついだことによりカール3世の領地は、東フランク王国とイタリア王国の両方になります。

西フランク王国では、シャルル2世が亡くなった後、877年10月、息子のルイ2世が跡を継ぎました。ルイ2世は父シャルル2世の没後、わずか2年で亡くなり、そのあとの領地は二人の息子ルイ3世とカルロマンに分けられ共に西フランク王を名乗った。

882年、兄のルイ3世が亡くなり、カルロマン(カルロマン2世)が単独で西フランク王となりました。

884年、西フランク王カルロマン(カルロマン2世、シャルル2世の孫)が死去。カール3世は、西フランクの政治を担っていたジュミエージュ修道院長ゴズランから西フランクをゆだねられ西フランク王になりました。これにより、カール3世は、ベルダン条約以後分割されていたカロリング帝国が再統一されました。

しかし、カール3世には全フランク王国を維持する才覚も覚悟もない上に、ゲルマン人にパリまで侵入されことにより、わずか2年でアルヌルフをはじめとする諸侯によって廃位されてしまいました。

東フランク王国では、911年ルードリッヒ4世が11歳で嗣子(親の後を継ぐ子・跡取り)がないまま死亡したため、フランケン、ザクセン、バイエルン、シュバーベンの各貴族は、新しい王を西フランクに残っていたカロリング朝から迎えずに、自分たちの中から新しい王として、フランケン公のコンラート1世を選出しました(選挙王制)。これによって東フランク王国ではカロリング朝が、断絶しました。

カロリング家系図

出典ウィキペディア

この時はまだ正式な国号は「東フランク王国」でしたが、その支配下にあったザクセン人、バイエルン人はかってフランク人のカール1世によって征服されたため、フランク人国家の西フランク王国と一線を画しており、このカロリング朝が断絶した911年を、「ドイツ王国」の始まりとする見方があります。ただ国名に「ドイツ」が使われるのは12世紀になってからになります。

次は、神聖ドイツ帝国の元となった東フランク王国を中心に見ていきます。

次に続く ↓

なぜ戦争が始まるのか 第1次世界大戦までのドイツ その2 神聖ローマ帝国の始まりとカノッサの屈辱

sponsored link

亀仙人2

down

コメントする




このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください



プライバリーポリシー