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亀仙人2映画 「戦場のピアニスト」
2002年 フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス
1939年9月、ユダヤ人でピアニストのシュピルマンは、ラジオ局で放送のためピアノを演奏していました。その最中、放送局に砲弾が当たり始めます。ドイツ軍がポーランドに進攻してきたのです。
監督 | ロマン・ポランスキー |
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脚本 | ロナルド・ハーウッド ロマン・ポランスキー |
原作 | ウワディスワフ・シュピルマン |
製作 | ロマン・ポランスキー ロベール・ベンムッサ アラン・サルド |
製作総指揮 | ティモシー・バーリル ルー・ライウィン ヘニング・モルフェンター |
出演者 | エイドリアン・ブロディ トーマス・クレッチマン |
音楽 | ヴォイチェフ・キラール |
撮影 | パヴェル・エデルマン |
編集 | ハーヴ・デ・ルーズ |
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映画の解説と背景
ユダヤ系ポーランド人のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンとは
ウワディスワフ・シュピルマン(1911年~2000年、アキャッチ画像の人 出典ウィキペディア)は、幼少期からワルシャワのショパン音楽院でリストの弟子ヨゼフ・スミドヴィッチ、のちにミハウォフスキにピアノを習いました。1931年ドイツのベルリン音楽大学でアルトゥール・シュナーベル、レオニード・クロイツァーに師事、フランツ・シュレーカーのもとで作曲も学ぴました。
1933年、ヒトラーが政権を握ると、ポーランドに帰国して35年ポーランド国営ラジオ局の仕事に就きました。
ドイツのポーランドン侵攻後は、家族でワルシャワのゲットーに入れられ、家族全員が強制収容所に送られる途中脱出に成功し、知り合いの人達に助けられました。ワルシャワゲットーで起きた抵抗運動や一般市民によるワルシャワ蜂起に巻き込まれながらも、6年間の戦争を生き延びることが出来ました。
戦後この体験をもとに『ある都市の死』を出版しました。この映画はこの本をもとに作られています。
戦後は世界中で2000回以上の演奏活動を行なうとともに、戦前から戦後にかけて、数多くの映画音楽、管弦楽作品、大衆歌、ポピュラー音楽を作曲して、ポーランドの大衆音楽史にその名を残しました。
第2次世界大戦前のポーランドにおけるユダヤ人
中世のヨーロッパ各地でユダヤ人を迫害し、追放する中でポーランド王国は1264年9月8日 『カリシュの法令(ユダヤ人の自由に関する一般憲章)』を交付して、ユダヤ人の社会的権利を保障しました。これによりボーランド国内では商売の自由や、移動(旅行)の自由が保障されたため、多くのユダヤ人が移住してきて、貴族の所有する大農園の管理や、商業・手工業・金融業に従事するようになります。
第2次世界大戦前のポーランドでは約250万人のユダヤ人が住み、、医師(56%)、教師 (43%)、ジャーナリスト (22%) 、弁護士 (33%)や私企業(80.3%)をユダヤ人が占めるなど、大きな地位を獲得していました。
ポーランド占領
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに進攻し、続いて9月17日ソ連軍もポーランド領内に進攻しました。
これにより、ポーランド西部はドイツ軍、東部はソ連軍が占領することとなります。
さらにドイツ領の東部はドイツに編入され、西側の領土にはポーランド総督府と呼ばれた統治機関が治めていました。
ドイツ系ポーランド人は、東部編入地域に移住され、追い出されたユダヤ系ポーランド人は総督府領に移りました。
東ヨーロッパにドイツ軍が進軍するにつれ、新たにドイツ占領下となった地域のユダヤ人たちも、総督府領に流入してきました。
黄色い線が旧ポーランド国境。右側の薄緑色の地域が、ソ連が占領した部分。
ワルシャワ以外の地名は、絶滅収容所があった場所。
このため膨れ上がるユダヤ人を収容するため、始めはワルシャワをはじめ各地にゲットーを作りユダヤ人を押し込めていましたが、1941年後半に始まった『最終的解決(ヨーロッパの全ユダヤ人殺戮計画)』でゲットーに住むユダヤ人たちは、次々と絶滅収容所に送られ、各地のゲットーは解体されていきました。
ワルシャワゲットーでの生活
第2次世界大戦直前のワルシャワでは、37万5千人のユダヤ人が住み、これはアメリカのニューヨークに次いでユダヤ人人口の多い都市でした。
ワルシャワのユダヤ人の大部分は、旧市街の西側に形成されたユダヤ人街に住んでおり、シナゴーク(ユダヤ教の会堂・礼拝所)やヘデル(ユダヤ教の初等教育を行う教室。ユダヤ教の基礎やヘブライ語を教えていた)を中心にユダヤ人共同体(ケヒッラー)を形成して暮らしていました。
ゲットーの全体図(1940年・赤線で囲った範囲) 出典ウィキペディア
ゲットーを北部と南部に分ける「アーリア」区のフォドナ通り。ゲットーの北部と南部を行き来できるのは回廊に架かったこの歩道橋だけだった。
出典ウィキペディア
1940年10月2日、ドイツのワルシャワ地区行政長官(ワルシャワ地区知事)ルートヴィヒ・フィッシャーSS中将はワルシャワ市内にゲットー(ユダヤ人隔離地域)の設置を命令して、ワルシャワに住むユダヤ人はゲットーへの移住を強制されました。
ルートヴィヒ・フィッシャー親衛隊中将 出典ウィキペディア
1941年3月の時点で、ワルシャワ市内だけではなくポーランド西部から連れ込まれたユダヤ人も含め、44万5千人がワルシャワ市の2.5%の地域に押し込まれていました。
ゲットーに移住するユダヤ人の行列
出典 Wikipedia
ゲットーの運営は、ユダヤ人評議会によって行われていました。ユダヤ人評議会は住民から各種の税金を取り、警察業務・公衆衛生・福祉・食料調達・仕事の斡旋・福祉・水道・光熱といったサービスの提供を可能な限り行なっていました。
この中で直接住民と接することの多いユダヤ人ゲットー警察は、ドイツ軍を後ろ盾に住民を暴行したり、逮捕や拘留を見逃す代わり多額の賄賂を要求したりして、住民から嫌われていました。
ゲットーの周囲は高さ3mの塀で囲まれ、外との連絡はすべて断ち切られていました。そのため食糧は、1人当たり成人に必要なカロリーの十分の一に当たる180キロカロリーの配給に頼るしかなく、餓死者が続出しました。
そのため外部とのコネを持つ闇商人が暗躍し、外から持ち込んだパンなどを法外な値段で売り、大儲けをする者もあらわれます。
またゲットー内に住む工場主は安い賃金で労働者を雇い、製品をドイツ人に売るなどして、貧富の差が激しくなりました。
ゲットー内では食料を買うために働こうにも、雇用先は限られていた。仕事を得るためにはユダヤ人評議会とのコネが必要だが、そのためにはお金を渡さなくてはなりませんでした。
ポーランド、ワルシャワ・ゲットーで、トラックを待つ若いユダヤ人男性の行列
出典 NAVER まとめ
ポーランド,ワイクセル川護岸工事に従事するワルシャワゲットーのユダヤ人労働者
出典 NAVER まとめ
ポーランド、ワルシャワゲットーの裁縫工場
出典 ウィキペディア
1940年から42年にかけてゲットーでは、主に飢餓、寒さ、病気から約92,000人が死亡した。
出典 Wikipedia
その一方ゲットー内の富裕層は、酒場や劇場などに出かけていました。
ポーランド、ワルシャワゲットーにあった秘密のカフェあるいはナイトクラブ
出典 NAVER まとめ
ワルシャワ・ゲットーの劇場
出典ウィキペディア
1941年12月、ワルシャワ・ゲットーには資本を持った者1万人、自活できる者25万人、衣食に事欠く者15万人がいると推測されていました。
絶滅収容所への移送
1942年1月20日、 ベルリン郊外のヴァンゼーでユダヤ人の移送と殺害についての会議(ヴァンゼー会議)が行われた結果ラインハルト作戦が行われ、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人はトレブリンカ絶滅収容所へ移送されることが決定しました。
イスラエルのゲットー闘士博物館にあるトレブリンカ強制収容所の模型
出典 ポーランド情報センター
右側にある鉄道で運ばれてきたユダヤ人たちは、左奥にあるガス室に送られ殺されました。遺体は処理する火葬場(焼却所)がないため、そばに掘られた穴に埋められました。
そのほかの建物は警備のためのドイツ兵や、ユダヤ人作業員、ウクライナ人看守の宿舎、食堂、倉庫、作業場などです。
送られてきたユダヤ人は数時間のうちに全員殺されたため、囚人用の宿舎はありませんでした。
ここにはワルシャワをはじめポーランド各地からユダヤ人が送られ、1942年7月23日の開所から1943年10月19日に廃棄されるまでの14か月間に、73万人以上のユダヤ人が殺されました。
1943年7月23日から毎日、ワルシャワゲットーに住む住人6000人がトレブリンカ絶滅収容所に送られました。
移送されるユダヤ人は、ゲットー内の工場で作られる製品を運ぶための貨物駅の集荷所(上にある地図上部の桃色の場所)に集められ、そこから貨車で移送されました。
集荷所で輸送を待っているユダヤ人
出典 Wikipedia
「集荷場」でのユダヤ人の移送の様子
出典 ウィキペディア
1942年7月23日から、1942年9月13日までの第1次移送で移送されたユダヤ人は30万人にも及び、ゲットーに残ったユダヤ人は、ドイツの工場で働いている者、病院のスタッフ、ユダヤ人評議会のメンバーと家族、ユダヤ人警察のメンバーと家族等で7万人ほどになりました。
ワルシャワ・ゲットー蜂起
1942年7月22日、ゲットーからトレブリンカ絶滅収容所への移送が開始されると、7月28日にはユダヤ人戦闘組織ZOB(Zydowska Organizacja Bojowa)が結成されます。
第1次輸送計画終了後の9月、ZOBは政治的な地下組織のメンバーを入れて拡大し、訓練と武器と火薬類を提供してくれるポーランドレジスタンス軍やドイツ軍から武器を盗んだり、脱走兵から武器を購入したりした仲介者を通して武器を用意しました。
モルデハイ・アニエレヴィッツ
出典 ウィキペディア
モルデハイ・アニエレヴィッツが指揮官に任命されます。
1943年1月18日~23日、ドイツ軍はワルシャワゲットーからの移送を再開しましたが、ZOBの抵抗により、移送を途中で断念しました。
この反乱は1月21日、報復処置として中央広場で1000人のユダヤ人が殺され、約6500人が移送されて終わります。
これ以後ドイツ軍はゲットー内に入ることが出来なくなりました。
ゲットー内のユダヤ人住民は全面的な蜂起に向かって、準備を開始します。
ただ武器が十分ではなく、戦闘できるものは1000人ぐらいで、ほとんどが拳銃と数個の手りゅう弾だけしか武装出来ませんでした。
戦闘員以外の住民は地下壕に医薬品や食料を用意したり、屋根伝いに逃げるための通路を設置したりしました。
1943年4月19日午前6時ごろ、ゲットーからの移送作戦を実施するため、武装親衛隊や警察部隊がゲットー内に侵入しました。
これに対してZOBは拳銃と手製の火炎瓶、わずかばかりの手りゅう弾で応戦し、夕方にはドイツ側の軽戦車1両、装甲車1台を破壊してドイツ軍を撤退させました。
翌4月20には、ドイツ軍は軽高射砲や曲射砲を装備した部隊を派遣してユダヤ人戦闘員のいる建物を破壊し、火炎放射器で火をつけ地下壕に隠れている住民をあぶりだすなどして、反撃に出ました。
炎上するヴォリンスカ通りの建物 出典ウィキペディア
ワルシャワゲットー蜂起中に貯蔵庫に隠れていたユダヤ人を捉えるドイツ軍兵士 出典 アメリカホロコースト博物館
ワルシャワ・ゲットー蜂起当時のユダヤ人 出典ウィキペディア
ドイツ軍はレジスタンスをゆっくりと時間を掛けて潰しました。5万6千人を超えるユダヤ人が逮捕され、7千人が射殺され、残りはあちこちの収容所に移送されました。
1943年5月16日、ワルシャワゲットーの蜂起は鎮圧されて終わりました。
ワルシャワゲットー蜂起鎮圧後、ドイツは強制収容所を設置して、囚人2千5百人、ボーランド人5千人を使ってゲットーを完全に破壊してしまいます。
蜂起後のゲットー、 ドイツ軍によって徹底的に破壊され、殆ど荒野と化していた。出典ウィキペディア
しかし、ドイツ軍に対して何もできないと見られていたゲットー内のユダヤ人が抵抗したことは、ポーランドのレジスタンスを刺激して、次のワルシャワ蜂起のきっかけとなりました。
ワルシャワ蜂起
1944年6月22日、ソ連赤軍はバグラチオン作戦を発動してドイツ軍に対して大規模な反撃を開始しました。
7月30日には赤軍はワルシャワから10キロの地点まで迫り、ポーランド国内軍は8月1日に赤軍に呼応してワルシャワで武装蜂起することを決めました。
ところが7月31日、ドイツ軍が赤軍に対して猛反撃を行い多大な損害を与えたため、赤軍の進撃はストップしてしまいます。
1944年8月1日夕方5時、赤軍の進撃が止まったことを知らないポーランド国内軍約5万人が、ワルシャワ市内各所で一斉に武装蜂起しました。
当時ワルシャワ市内には1万2千名のドイツ軍が居ましたが、そのほとんどが治安部隊で、戦闘部隊は1千名ほどでした。
しかし装備と物量に勝るドイツ軍は、執拗に抵抗し、国内軍は目標のほとんどを占領できず、わずかにドイツ軍の補給所と兵舎を占領しただけでした。
ドイツ軍の補給所から奪った武装親衛隊の迷彩服に、識別用の国旗色の腕章を付けて着用する国内軍兵士
出典ウィキペディア
1944年8月4日 蜂起から4日目のポーランド国内軍の位置(赤枠)。真ん中の広い部分はワルシャワゲットーのあった場所。ソ連軍は川の反対側まで来ましたが戦いに参加せずに、ドイツ軍とポーランド国内軍の戦いを傍観していました。
出典ウィキペディア
ドイツ軍もワルシャワ近くに駐屯していた部隊をかき集め、8月5日には反撃を開始します。
ソ連赤軍はワルシャワ市内を流れるヴィスワ川の対岸まで到達しましたが、対岸のワルシャワ市内中央で戦っていたポーランド国内軍を助けるための武器や物資の援助や、部隊を突入して武力援助をしようとしませんでした。
それどころかアメリカやイギリスの西側連合国の航空機による攻撃や、物資の投下支援についても反対しました。
ポーランドを占領するつもりであったソ連は、将来占領政策に反対するであろうポーランド国内軍の勢力を、ドイツと戦わせて共倒れさせることを狙っていました。
ドイツ軍は大砲・戦車・火炎放射器などの武器を駆使して、ポーランド国内軍を追い詰めていきました。
1944年10月2日、ポーランド国内軍はワルシャワ工科大学において、ドイツ軍に対し正式に降伏しました。
1944年10月2日、ワルシャワ蜂起指導者タデウシュ・コモロフスキ(左)の降伏を受け入れる鎮圧軍司令官エーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキー武装親衛隊大将(右)
出典ウィキペディア
ワルシャワ蜂起でポーランド国内軍1万6千名、ドイツ軍2千名の死傷者を出し、18万人から25万人の間であると推定される市民が死亡しました。
蜂起鎮圧後ワルシャワ市内に残っていた約70万人の市民は市内から追放され、ドイツ軍は火炎放射器で残っていた建物を一軒一軒焼き尽くし、ワルシャワ市全体が瓦礫の山と化しました。
蜂起終結後、火炎放射器による市街の破壊を行うドイツ軍
出典ウィキペディア
ドイツ軍に破壊されたワルシャワ
翌年の1945年1月17日、ソ連赤軍は進撃を開始して廃墟になったワルシャワを占領しました。占領後ドイツ軍と戦ったポーランドレジスタンスのメンバーを捕らえて自由主義政権の芽を完全に摘み取り、ポーランドは共産主義国への道を歩み始めます。
ワルシャワ蜂起で戦死した者を弔う少女
映画「戦場のピアニスト」あらすじ
1939年ワルシャワ、ピアニストのシュピルマンは放送局でピアノを演奏していました。突然放送局が爆撃され、シュピルマンは建物の外に避難します。途中友人ユーレクの妹ドロタに出会いました。彼女はスピルマンに憧れ会いに来たところでした。
ワルシャワはドイツ軍に占領され、シュピルマンたちユダヤ人は所持金の制限や、カフェや公園に立ち入ることを禁止され、腕に「ダビデの星」を付けた腕章を付けることが、命令されました。そして14939年10月1日、一家はワルシャワゲットーへ強制移住させられました。途中見送りに来たドロタと出会います。
ワルシャワゲットー
ゲットーでシュピルマンは弟のヘンリクと露店で本を売る商売をしますが、全然売れませんでした。そんな中ユダヤ人警察官のヘラー増員にため勧誘に来ましたが、断ります。
やがてシュピルマンは、ゲットー内に設けられたナイトクラブで、ピアノを演奏する仕事を得ることが出来ました。
シュピルマンは地下運動に加わろうと印刷所を訪れましたが、「音楽家は音を立てすぎる」と言って断られてしまいました。ここで活動家のマヨレクと知り合いになり、以後何度か彼に助けられることになります。
ゲットー内に労働していない者は東部の強制収容所に送られるとの噂が流れ、シュピルマンは地下活動家のマヨレクに頼み父親の雇用証明書を手に入れることが出来ました。
やがて大勢のユダヤ人が東部の強制収容時(実は絶滅収容所に送られて殺されてしまします)に送られ、シュピルマン一家はその人たちが残した荷物の整理に当たりました。
1942年8月16日、シュピルマン一家らは東部へ移送されることになり、集荷所に集められました。列車に乗せられる直前、シュピルマンだけがユダヤ人警察官のヘラーによって助け出され、逃亡に成功します。
ゲットーからの脱出
事態が収まると、シュピルマンはゲットー外の建設現場で働くことになりました。そこで知り合いの歌手ヤニナを見かけましたが、話すことはできませんでした。
やがて別の現場で地下活動家のマヨレクと再会し、彼の計らいで資材の管理をする軽い仕事に回されました。シュピルマンは、町から運び込まれるポテトなどの食糧袋に隠された拳銃などの武器を、ゲットーに運び込む仕事を引き受けました。
かねて、マヨレクからゲットーに住むユダヤ人全員が殺されることを話されていたシュピルマンは、マヨレクに頼んで街で見かけたヤニナとアンジェイの夫婦に連絡してもらい、匿ってくれるよう頼みました。
年が明け、スピルマンは建設現場からポーランド人作業員の一団に紛れ込みゲットーから逃げ出しました。
スピルマンはヤニナとアンジェイ夫婦の紹介でマレクに会い、彼の用意したゲットーのそばにあるアパートの一室に隠れ住むことになりました。
シュピルマンが隠れ家に移ってホッとした途端、ワルシャワゲットーでユダヤ人たちが蜂起し、目の前でドイツ軍とユダヤ人の戦いが始まりました。1943年4月19日のことです。
ワルシャワゲットーの蜂起は5月16日まで続き、捕らえられたユダヤ人は壁の前に並ばされ、機関銃で銃殺されます。
この一部始終を、シュピルマンは隠れ家の窓から見ているだけでした。
雪が降り、仲介役のマレクが武器を隠し持っていることがゲシュタポにバレ、彼は逃亡することに決め、シュピルマンにも逃げるように勧めました。ユニナ達も捕まったそうです。しかしシュピルマンはこのまま隠れ家に残ることに決めました。
食べ物を運んできていたユニナが居なくなったため、シュピルマンは食料を探しているとき誤って皿を棚から落として割ってしまい、隣人に気づかれ隠れ家から逃げ出します。
シュピルマンは、マレクから困ったときにはここを訪ねるようにと言われた場所に行ってみると、そこにはドロタが住んでいました。
ドロタは1年前にミカル・ジキェヴィッチと結婚していて、子供を身籠っていました。
ミカル氏の用意した隠れ家は、ロシア戦線の負傷兵を収容する病院と、都市防衛警察の真正面にある建物でした。ミカル氏によると、このような場所にユダヤ人が隠れているとは思わないだろうから、かえって安全だということです。
食べ物は、かってワルシャワ放送で技師をしていたシャワスが運んで来るはずでしたが、彼は食料を買うはずのお金を着服してしまい、シュピルマンは飢えと寒さで重い病気になったところを、ドロタに発見され一命をとりとめます。
1944年8月1日、ポーランド人のワルシャワ蜂起が始まり、向かい側の病院と警察の建物がレジスタンスに襲撃されました。
シュピルマンの居た建物も、ドイツの戦車で砲撃されたため、彼は医師と患者が避難した後で無人となった病院へ逃げ込みます。
しばらく病院で過ごしていましたが、ドイツ兵が通りの建物を一軒一軒火炎放射器で焼き払い始めたため、一面瓦礫の原となったワルシャワ市内に逃げました。
シュピルマンは、比較的破壊度の少ない空き屋敷に逃げ込みました。屋敷で見つけたピクルスの缶詰を開けようと苦心しているところを、新たな軍事処点を探しに来たドイツ軍士官に見つかってしまいます。
シュピルマンがピアニストであることを知ったドイツ軍士官は、屋敷にあったピアノを弾いてみるよう言います。シュピルマンの引くピアノを聞いたドイツ軍士官は、そのまま屋根裏にシュピルマンをかくまうことに決めました。
屋敷はドイツ軍による新たな軍事処点として活用され、大勢のドイツ軍が出入りするようになります。このことはピアノの置いてある部屋や、シュピルマンが缶詰を開けようとした暖炉が同じであることから分かります。
ドイツ軍士官は部下に内緒で、屋根裏に隠れているシュピルマンに食糧を届けました。
ソ連軍が迫ってきて、ドイツ軍が屋敷から撤退する日、ドイツ軍士官は缶詰やパンなど大量の食糧をシュピルマンに渡しに来ました。終戦後シュピルマンがラジオで演奏つるつもりであることを聞いた士官は、彼の名を聞いて「必ず放送を聞く」と言い、去っていきます。
年が明け、ワルシャワは解放され、シュピルマンは助け出されました。
終戦後、シュピルマンは再びラジオ局でピアノの演奏を始めました。友人のバイオリストから、彼が会ったドイツ軍捕虜の中にシュピルマンを助けた人がいたことを聞き、現場に向かいましたが、捕虜たちはすでにどこかへ連れ去られてしまった後でした。
シュピルマンを助けたドイツ軍士官は誰か?
彼の名前はヴィルム・ホーゼンフェルト(Wilm Hosenfeld、1895年5月2日 – 1952年8月13日)で、ドイツの教育者、軍人。最終階級は陸軍大尉でした。
ヴイルム・ホーゼフェルト 出典 Wikipedia
当初ナチズムの信奉者であったが、のちに改心しウワディスワフ・シュピルマンら多くのポーランド人をナチスの迫害から救った事で知られる。
第二次世界大戦が勃発すると、44歳のホーゼンフェルトは予備役士官として召集され、狙撃大隊附としてポーランド侵攻に参加。41年、ドイツが侵攻したポーランドの首都ワルシャワのスポーツ施設の責任者となる。この頃、SSなどのポーランド人に対する残虐行為を目の当たりにし、次第にポーランド国民に対する同情の念を持つようになった。
ある時、ホーゼンフェルトはSSに追われていたポーランド人の祭司とその家族を匿った。これを機にユダヤ人を含むポーランドの人々に秘密裏に支援を行うようになる。ホーゼンフェルトはスポーツ施設長としての役職を生かし、追われる身となった人々を身分を偽らせ、施設の従業員として匿った。ワルシャワ蜂起の際、ポーランド人ピアニスト・作曲家のウワディスワフ・シュピルマンも助けている。
市民もそんなホーゼンフェルトに協力を惜しまず、自宅に招いてポーランド語を教えたり、教会に呼んだりした。これはドイツ占領下の地域では考えられない事だった。
第二次世界大戦の末期の1944年に中隊長に転じ、1945年1月17日にソ連軍の捕虜となる。ソ連はホーゼンフェルトが諜報部に属していたと断定しミンスクの獄に投じて拷問を加えたが、証拠も自白も得られなかった。証拠がなく、しかも家族の働きかけで多数のポーランド人やユダヤ人がホーゼンフェルトを弁護する証言をしたにもかかわらず、ホーゼンフェルトの不起訴と刑の執行猶予はソ連軍当局によって拒絶され、軍事法廷で諜報活動に従事した戦犯として25年の強制労働を宣告された。拷問や過酷な労働のため何度かの脳卒中を起こし、精神に異常を来たした末に、スターリングラードの戦犯捕虜収容所で1952年8月13日に死亡した。
2007年10月、ポーランド政府はシュピルマンらを救った功績を顕彰してホーゼンフェルトにポーランド復興勲章を授与した。2009年2月にはイスラエル政府も「諸国民の中の正義の人」の称号をホーゼンフェルトに追贈した。
2011年12月4日、ホーゼンフェルトの娘立ち会いのもと、ワルシャワの彼がシュピルマンと出会った場所に記念銘板が設置された。
シュピルマンと出会った建物につけられた記念碑 出典 Wikipedia
引用ウィキペディア
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