なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

なぜ戦争が起きたのか。「9.11」から「イスラム国」まで その4 イスラム国の誕生

time 2018/02/05

なぜ戦争が起きたのか。「9.11」から「イスラム国」まで その4 イスラム国の誕生

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亀仙人2

イスラム国の誕生

イスラム国を作ったのはブッシュ大統領。大きくしたのはイラク新政権のマリキ首相とシリアのアサド大統領

ここまでの経緯はこちらをご覧ください ↓

なぜ戦争が起きたのか。「9.11」 から「イスラム国」まで その1 アメリカ同時多発テロ

なぜ戦争が起きたのか。「9.11」から「イスラム国」まで その2 アメリカのアフガン侵攻

なぜ戦争が起きたのか。「9.11」から「イスラム国」まで その3 なぜ、アメリカはアルカイダと関係のないイラクに戦争を仕掛けたのか

イスラム国を作ったのは、アメリカのブッシュ大統領

本題に入る前にイラクは大きく3つの勢力に分かれています。

イスラム教のスンニ派とシーア派、そしてクルド人たちです。

スンニ派とシーア派

スンニ派は、預言者ムハンマドの血縁に関係なく、イスラム教の慣習(スンナ)を重視します。1400年前のコーランやスンナの規定を現代に行おうとする事(イスラム原理主義)で、イスラム過激派が生まれました。

全イスラム教徒の8~9割を占めます。戒律には厳しい国が多くあります。

主な国家はサウジアラビア・バーレン・アラブ首長国連邦などです。

シーア派は、ムハンマドの従兄弟で娘婿だったアリーの血を引く党派(シーア)がイスラム教のリーダとなるべき、としています。戒律はスンニ派ほど厳しくなく、イランでは女性も教育を受けることができ、社会進出が見られます。また、偶像崇拝も禁止されていないため、宗教指導者の写真なども掲げられています。

ただシーア派はイスラム教では1~2割と少数派です。

主な国家は、イラン・イラクなどです。

イラクの人種・宗派

クルド人とは

トルコ・イラク北部・イラン北西部・シリア北東部等、中東の各国に広くまたがる形で分布する、独自の国家を持たない世界最大の民族集団です。人口は2500万~3000万人といわれています。彼らはクルド人主体の国家『クルディスタン』の建国をめぐって居住する各国ともめています。

イラクは人口の2割を占めるスンニ派のフセイン政権が、人口の2割のクルド人、6割のシーア派を統治していました。

そのため湾岸戦争後、クルド人とシーア派の人々が反乱を起こし、イラク18州のうち14州を制覇しましたが、フセインの大統領親衛隊、共和国防衛隊により鎮圧されてしまいました。

この時アメリカは何の援助もしなかったため、クルド人やシーア派の人たちに反米感情が生まれています。

またフセイン政権に反対した人々は、イラン・シリア・サウジアラビアなどに難民として避難しました。

イラク戦争の占領政策のまずさが、イスラム国を作った。

戦争前にパウエル国務長官が主張した60万人規模の軍隊の派遣にに対して、チェイニー副大統領とラムズフェルド国防長官は、ハイテク化した機動力のある小部隊で戦うことを決定しました。

中央軍司令官トミー・フランクスは「イラクの自由作戦」でまず巡航ミサイルと空爆でイラクの指揮通信組織や重要な軍事目標を破壊した後、わずか4個師団の機甲部隊でバグダットの中央省庁官僚街を制圧しました。

空爆開始開始からわずか42日で、イラクという中東の大国を制圧したことになります。

少数の兵力しか用いないという米英軍の戦術は、敵の軍隊のみを排除すればいい軍事行動では効果的でしたが、占領時にはインフラの復旧、治安の確保、食糧の配給など様々な活動が求められます。

フセイン政権打倒後のイラクでは、兵士の数が足りないためどれも完全には行なえず、結果イラク国民の反発を招き、更に治安の悪化が進み、より多くの兵士が必要となるという悪循環を招いてしまいました。

アメリカは、戦後治安維持を担うはずだった旧フセイン軍の将兵を武装解除もせずに解雇しました。これによって50万人と見られる旧軍人と軍関係者が職を失いました。

さらにバース党を解体し非合法化することを定めた「脱バース党政策」で、バース党幹部を公職から追放し、復帰することを妨げました。その結果、30万人を超える人々が失業者となりました。

それらの人々は、フセイン政権を支えた中核的な幹部や政府高官だけではなく、旧体制下での官僚などの国家公務員に加え、大学教員や学校の教諭などの多くがバース党員であったため、実質的に国家の運営を支えてきた多くの人たちもまた、職を追われることになりました。

戦争によってインフラが破壊され、官僚制の解体によって市民への行政サービスが滞るとともに、軍や警察が機能しなくなり、スンニ派の人たちの生活はどんどん荒廃していきました。

次第に失業者の不満は蓄積され、繰り返されるデモに対して、米軍が発砲し始めると、怒りの矛先は状況を改善できない米軍に向かうようになった。デモは次第に暴力的になり、反米・反占領を声高に叫ぶようになりました。

元フセイン軍の兵士を中心にして、アメリカが作り上げたシーア派を中心にした暫定政府に対するテロ活動が活発になり、内戦状態になります。

また、シーア派政権の樹立を阻止するためサウジアラビア・ヨルダン・リビア・ナイジェリアからスンニ派の若者たちが、反政府武装勢力に加わって戦いました。

反米・反政府勢力のうちの一つにヨルダン人のアブームスアル・ザルカーウィが設立したグループ「ザルカーウィー・グループ」があります。2004年10月にはアルカイダ指導部に忠誠を誓い「イラクのアルカイダ(AQI)」と名を改めイラク戦争後最大の戦いといわれるファルージャの戦闘での過激な活動で頭角を現しスンニ派を代表する過激集団となります。 この当時から、日本人香田証生(こうだ しょうせい、当時24歳)を人質にし、殺害するなど残虐な行為をしています。

シーア派の中にも反米・反政府の武装集団があります。ムクタダ・サドル師率いるマフディー軍です。サドル家は代々シーア派の宗教指導者で、父の代からバグダットのスラム街で慈善活動をしていました。サドルはスラム街の若者を集めマフディー軍を設立し、イスラム法によるイスラム国家建設を主張してアメリカと対立します。

イスラム国家とは

全能の神がムハンマドに下した第一聖典「コーラン」とムハンマドの言行録の第二聖典「ハディース」、そしてそれらを基礎として成立したイスラーム法「シャリーア」に基づきイスラム教徒「ムスリム」の指導者が統治を行なう国家を指します。

代表的な国としてはシーア派のイランがあります。

スンナ派が多数を占める国家では、イスラム教を国教とし、シャリーアを法として施行している国家が多く、代表的な国では、サウジ・アラビア、アラブ首長国連邦などです。

また、ムスリム(イスラム教徒)が多数を占める「イスラム教国」であっても、トルコ共和国・インドネシア・マレーシアの様に、世俗主義を標榜し、シャリーアを廃止している国家は、イスラム国家とは言わないのが普通です。

 

はじめ、サドル師率いるマフディ軍はスンニ派のファルージャの戦闘で一緒に戦ったり、またマハディ軍が起こしたナジャフ(第4代カリフでシーア派の初代イマームであるアリーの墓廟があり、シーア派の聖地)でのモスク占拠事件ではスンニ派の武装組織が応援に駆けつけ、一緒に米海兵隊と戦ったりしていました。

このモスク占拠事件はシーア派の大御所シスターニ師の仲介で武装解除して、撤退することで解決しました。この後、サドル師はシーア派住民の支持を得て選挙で議席を獲得し、シーア派中心の政権内での武装民兵組織としてスンニ派弾圧に働くようになります。

これまでフセイン政権下で押さえつけられていたシーア派は政権の主導権を握るとシーア派の民兵組織を利用して、スンニ派住民を襲い始めました。

これに対抗するためイラクのアルカイダ(AQI)はシーア派主導の政府を打倒するためテロ活動を活発に行い、内戦を引き起こそうとします。

2006年2月22日、大量の爆薬を使いシーア派の聖地であるアマラのアスカリモスクを爆破したのです。シーア派民兵の反撃を誘うためでした。

アメリカ軍は、イラク暫定政府のジャファリ首相に対して外出禁止令を出すなど適切な処置をとるよう要請しましたが、ジャファリ首相は何の手も打たず379名もの犠牲者を出してしまいます。

その後も両派の衝突は続き、3月には901名のイラク市民が犠牲になりました。

ブッシュ大統領はジャファリ首相にはこの混乱を収める力がないと判断し、イギリスのストロー外相と、ライス米国務長官をイラクに派遣してジャファリ首相を自発的に辞任させ、後釜にシーア派政党のNo.2であるヌーリー・マリキを首相に擁立しました。

2006年5月20日、イラク正式政府が発足し、マリキ政権が成立しました。

2006年6月8日、イラクのアルカイダのザルカーウィーがアメリカの空爆で死亡しました。イラクのアルカイダは、同年10月他のスンニ派武装組織と合併して「イラク・イスラム国(ISI)」が創設されます。初代指導者にはイラク人のアブ・オマル・バグダディが就任しました。

この間もスンニ派とシーア派の間の武力衝突は続いています。中心となるのはスンニ派の「イラクのアルカイダ」とシーア派のサダム師が率いる「マフディ軍」です。7月だけで1855人のバグダット市民が殺害されました。

2006年12月30日、マリキ首相はフセイン元大統領の死刑を執行しました。

開戦以降のアメリカ兵の戦死者は、この年で3000名に達します。

2007年1月10日、ブッシュ大統領はイラクの治安維持のため2万人の増派を決定しました。

このころイラク・イスラム国は勢力を伸ばし数千人の規模になりましたが、シーア派に対するテロ活動の結果シーア派民兵によるスンニ派住民の殺害、またイスラム国による反対派住民への残虐行為などから、スンニ派住民の中には自ら自警団を組織する動きが始まりました。

イラクの治安に手を焼いていたアメリカ軍はこの自警団に目をつけ、武器を持たせ、給料を支払い「覚醒評議会」または「イラクの息子」という部隊を作り、イラク・イスラム国の追放に当たらせました。

地域住民の支持を失ったイラク・イスラム国は見る見る勢力を失い、テロ活動も激減します。それと同時にシーア派民兵によるスンニ派住民への報復攻撃も減り、治安は改善されました。

アメリカ軍はマリキ首相を説得して、この部隊の一部をイラク政府の治安部隊の中に組み込ませました。

しかし、イラクにはまだマリキ首相のイラク新政府に匹敵する大きな武装集団があります。それがムクタダ・サドル師のマフディ軍です。彼らは民主的な国家に反対し、イスラム法に則ったイスラム国家の樹立を目指し政府と対立していました。

2008年はじめ、マリキ首相に格好の出来事が起こります。マフディ軍がイギリス軍が撤退した後の港町、バスラを掌握したのです。バスラはイラク唯一の貿易港で、イラクで産出される石油の大部分がここから積み出され、この町を制するものは国の収入の7割以上を手にすることができます。

2008年3月25日事態を重く見たマリキ首相は、自ら軍を率いてマフディ軍掃討に乗り出しましたが、逆にマフディ軍に包囲されやられそうになりました。見かねたアメリカ軍が援助して、マリキ首相はこの戦いに勝つことができました。

ムクタダ・サドル師はマフディ軍を解散させ、以後彼は政治活動に専念することになります。解散したマフディ軍はイラク保健省に組み込まれ、これまでの治安活動から国民への福祉活動をすることになりました。

スンニ派とシーア派両方の武装グループを封じ込めたマリキ首相は、これからは独力でイラクを治めることができると考えました。

2008年12月8日、イラクを訪問したブッシュ大統領は記者会見を開きアメリカ軍がイラクから撤退することを表明しました。

この時、出席していたイラク人記者から履いていた靴を投げつけられる事件が起こります。

記者から靴を投げつけられたブッシュ大統領、隣はマリキ首相 出典 ウィキペディア

他人の体や頭に靴をぶつけたり、靴を履いた足で踏みつける行為はイスラーム世界では最大級の侮辱行為とされています。

このままいけばイラクの治安は回復して、平和な国家になるはずでしたが、この後マリキ首相はみんなの期待を大きく裏切る行為に出てしまいます。

いったん話はここで中断して、イラクで勢力を失った「イラクのイスラム国」がどうなったか見てみます。

「イスラム国」を復活させ、大きく育てたシリアのアサド大統領

2010年4月18日、アブ・オマル・バグダディが戦闘で死亡すると、その翌5月16日アブー・バクル・アル=バグダディが指導者となります。このころイラクのイスラム国は1000人ほどの規模になっていましたが、バグダディは爆弾テロなど過激な活動を続けていました。

「アラブの春」とシリアのアサド政権

チュニジアとエジプトで政権を打倒した「アラブの春」は2011年3月にはシリアに及びました。シリアではシーア派の一派で人口の1割を占めるアラウィー派のアサド大統領が、人口の6割のスンニ派住民を支配するという構造でした。

シリア各地で反体制派のデモが拡大して、アサド政権は政府軍や治安部隊を使い、非武装のデモ隊を武力で鎮圧しました。2010年の暮れには、政府軍から反体制派に寝返った兵士を中心に「自由シリア軍」が結成され、武力闘争を開始します。

翌2012年1月、元イラクのアルカイダの幹部シリア人のアブ・ムハンマド・ジャラウニが「ヌスラ戦線」を創設して、反政府活動に加わります。ヌスラ戦線は、サウジアラビアなどの国からスンニ派の戦闘員を加えて、シリアの反体制派の中で勢力を伸ばし始めました。

2013年4月8日、アブー・バクル・アル=バグダーディーは、シリアで活動するヌスラ戦線が「イラクのイスラム国」の下部組織であり、今後はアル=ヌスラ戦線と合併して組織を「イラクのイスラム国」(略称: ISI)から「イラクとレバントのイスラム国」(略称:ISIL)、または「イラクとシャームのイスラム国」(略称: ISIS)に改称するとの声明を出し、シリアへの関与強化を鮮明にしました。

「レバント」と「シャーム」は、アラビア半島の北部のシリアがある地方の古くからの呼び名です。

この一方的な合併宣言に対して、ヌスラ戦線のジャラウニは反発し、あくまでアサド政権打倒を目指して戦うことを主張して、やがてISILと対立することになります。

しかし、ISILは全世界に向けたプロパガンダにより、アラブ諸国以外の国々から多くの外国人義勇兵が参加するようになります。また、シリアの反政府武装組織からの参加者も現れました。

2014年2月、アルカイダのアイマン・ザワヒリは、イスラム国の残虐行為が目に余るため、「イラクとシャームのイスラム国」を事実上破門する声明を出しました。

ISILも、当初は他の反政府軍と協力してアサド政権打倒のため戦いましたが、外国人主流の組織でシリア人に対する残虐行為が目に余るため、他のシリア反政府組織と衝突するようになっていきます。

シリアのアサド大統領は、こうした抗争を見てISILとその他の反政府組織を戦わせることで、反政府組織を弱体化を狙い、ISIL以外への組織を中心に攻撃しました。

ISILはシリア政府軍の攻撃で弱った組織をたたくことで勢力を伸ばし、やがてシリア北部の地域を支配するようになりました。

2014年初頭には、ISILはラッカ県のほとんどと、ハサカ県、デリゾール県の支配を確保しました。とくにデリゾール県の石油地帯を確保できたことで、石油の密輸で1日6億円とも言われる莫大な収入を得ることができました。

ISILは、ラッカ県のラッカをシリアの本拠地と定め、イスラム法の定めによる独自の行政をはじめます。イスラム法を厳格に適用し、抵抗する人々を容赦なく処刑する恐怖政治です。

シリアの内戦でISILは豊富な資金と戦闘員、武器を手に入れることができ、勢力を復活させることができました。

『君子豹変す』、イラク、マリキ首相の裏切り

2010年、3月に行われる国民議会選挙に備えて元首相で世俗派のアヤド・アラウィの指導によって世俗派やスンニ派の政党が集まり「イラキーヤ」という連合を組織しました。宗教や宗派を問わない政党として、マリキ首相に対抗します。

2010年2月選挙の数週間前、イラキーアの候補者のうち数十人が、旧フセイン政権と関係していたとして立候補資格を剥奪されました。中には過去のテロ行為に関係したとされた者もいました。

こうした妨害にも負けず「イラキーヤ」は国民議会で91議席を確保し、マリキ首相が率いる「法治国家連合」の89議席を上回り、国民議会の第1党になります。

第2党になってもマリキは首相の座を手渡そうとしませんでした。両者はマリキの首相続投を認める代わりに「マリキーヤ」のサレハ・ムトラク(スンニ派政党の党首で「マリキーヤ」のメンバー。選挙では立候補資格を剥奪されていた)の副首相就任と幾つかの閣僚ポストを確保することで合意します。ただ、内務省と国防省のポストは合意できず、空席になったままでした。

3ヶ月もたたないうちに反政府デモが始まり、政府の建物にもデモ隊が押し寄せるようになりました。政府は軍を出動させ、鎮圧させます。その後も過剰な取締りが続き、600人を超えるスンニ派住民が逮捕されます。全てはマリキ首相が任命した内務大臣代理の名のもとに行われました。

この内務大臣代理とは、誰あろうマリキ首相本人です。

新しく大統領になったバラク・オバマ米大統領は選挙中の公約どおり、徐々にアメリカ軍の撤退を進め、2011年12月12日マリキ首相をワシントンに招きアメリカの役割は終わったと宣言します。

その2日後、イラキーヤ幹部の家が戦車で包囲されます。マリキ首相は、スンニ派のタシミ副大統領のボディガードがテロ行為を行った捜査の一環だと主張しました。

ハシミ副大統領は逮捕を恐れて国外逃亡しましたが、裁判所は本人不在のまま、殺人罪で死刑を宣言しました。その後もイラキーヤに対する弾圧が続きます。米軍が雇った10万人の「イラクの息子たち」も治安部隊から解雇されました。

これに対してスンニ派住民は大規模なデモを計画し実行しましたが、2013年4月23日イラク北部のキリクーク近郊ハウィイジャで軍とデモ隊が衝突し、20名以上の死者が出ると流れが大きく変わりました。シーア派住民が弾圧を続けるマリキ政府に対抗するためISILを受け入れ始めたのです。

この1年前から、ISILの前身イラクのイスラム国は各地で自爆テロを行うなど活動を活発化していましたが、9回の刑務所襲撃でかって米軍と戦っていた同胞を解放し、組織に復帰させ勢力を大きくしました。

 

なぜ、この時期刑務所を集中的に襲撃したのか

後にイスラム教の指導者「カリフ」を自称したアブー・バクル・アル=バグダーディーは、バグダッドのイスラーム大学(現在のイラク大学)でイスラーム学の学士・修士および博士号を取得してます。彼は2002年2月から6ヶ月、さらに2006年から3年間キャンプ・ブッカに収容されています。

キャンプ・ブッカにはスンニ派の過激集団だけではなく、旧フセイン軍の軍人たちも多く収容されていました。

その中には後イスラム国の副官となる2名、イラク担当のトゥルクマニ(旧フセイン軍軍事情報部中佐)シリア担当のアンバリ(旧フセイン軍少将)はじめ、12名のイスラム国の幹部となる人たちがいました。

その中で特に重要な人物がサミル・ムハンマド・フリファウィ(ハッジ・バクル)元空軍情報部大佐がいます。彼は後にイスラム国の軍事委員会上級幹部になります。彼がただの反政府テロ集団であった「イラクのアルカイダ」を、独立国家「イスラム国」にする青写真を作った男です。

ハッジ・バクルがシリアに渡ったのは2012年終盤のころでした。彼は混乱するシリア国内で可能な限り領地を獲得し、それを足かがりにしてイラクに進攻する作戦を立てました。

彼はシリアのアレッポに根拠を構え、各地に「イスラム普及センター」を設立してイスラム教の講座を開き、集まった生徒からスパイを育成して将来襲撃しようとする地域の情報を集めました。そしてどのようにしてそれぞれの地域の有力者を味方につけるか、綿密な計画を立てました。

それと同時に外国からの戦闘員を募集して、シリア国内にいくつもの軍事訓練キャンプを設置し、旧フセイン軍軍人により本格的な軍事訓練を行いました。

バッジ・バクルは味方になりそうな者はISILに取り込み、反対している地域の有力者は、戦闘員を派遣して排除しました。ある日突然、反対する部族長が姿を消し、地元の武装民兵の指揮官が暗殺されるようになります。このようにしてISILはシリアとイラクに浸透していきます。

彼は2012年から2013年にかけて、イラク各地で爆弾テロを行うと同時に各地の収容所を襲い、旧フセイン軍兵士やバース党の官僚、スンニ派過激集団を解放して仲間に加え、2014年に行われるイラクでのISIL一斉蜂起に備えました。

ハッジ・バクルは2014年1月戦闘中に死亡しましたが、彼の作成した「イスラム・インテリジェンス国家設立」の手順に従って、「イスラム国」が設立されます。

シリアとイラクで、イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」が掌握または攻撃した地域や、イスラム国と地元部隊との戦いで最近(2015年1月)あった進展について示した図。出典 AFP

イスラム国建国

ISILによるイラクへの大侵攻

2014年4月30日に行われた国民議会選挙で、マリキ首相率いる「法治国家連合」が95議席を獲得し最大勢力となります。マリキ首相はこの勝利で3期目も首相を務めることを宣言して、ますます独裁体制を確立していきます。

選挙直後の5月13日ISILは首都バグダットで複数の爆弾テロを実施して「ファールージャへの復讐」という新しい闘いを始めると宣言します。その後も5月15日、22日と爆弾テロを実施します。

転機が訪れたのは6月9日ISILが北部にあるイラク第2の都市モスルを攻撃したことでした。

自動小銃と携帯型ロケット砲を持った約1000名のISIL軍が、戦車や装甲車を持った警察や治安部隊を含む3万人のイラク政府軍を、攻撃しました。通常ならば苦もなくねじ伏せることが出来るISIL軍に対して、イラク政府軍の兵士たちは、戦うことなく全員逃亡してしまいました。

これにより人口170万人といわれるモスル市を支配することが出来、またイラク政府軍が置いていった、40台の「M1A1戦車」、50基の「M198榴弾砲」、2機の攻撃ヘリコプター、2300台の多用途装甲車両「ハンビー」を手に入れ一気に攻撃力が拡大しました。これらの兵器は旧フセイン軍の兵士により運用されます。

またモスルにあった中央銀行を襲撃して、4億2500万ドル(約440億円)と言われる軍資金も手にします。

モスルを陥落させた翌日にはモスルのあるセナワ県全体を掌握して、2日後にはチグリス川沿いに南下してサラーハッディーン県のティクルート市も制圧しました。ティクルート市は、サダム・フセインの故郷でフセイン時代の元幹部たちにとって象徴的な都市でした。

このような成功の鍵は、ハッジ・バクルの立てた作戦により、あらかじめモスルやティクルートの反ISIL分子が事前に排除されており、また裏工作でイラク政府軍の幹部が買収や脅しにより骨抜きにされていました。これら軍幹部が真っ先に逃げ出したため、残った兵士は抵抗することもなく逃亡するしかなかったのです。

またISILはこの作戦を実施するに当たり、それまで対抗していたスンニ派の過激組織「JRTN」や旧バース当の残党が占める「アンサール・アルスンナ」と手を結び占領した地域の治安を任せました。

このようにしてISILは瞬く間にスンニ派住民の住むイラク北部を制圧して、6月29日ISILは名前を「イスラム国」と変え、バグダディをカリフとするイスラム国家の樹立を宣言しました。

カリフとなりイスラム国樹立を宣言するバグダディ 出典 東洋経済オンライン

この6月の戦いで「イスラム国」は、「たくさんあるゲリラ組織のひとつ」から、国家に匹敵する広大な地域を支配するようになりました。

そんな「イスラム国」には、イスラム国家建設という目的に共鳴する若者が集まるようになります。また来ることが出来ない人たちは、異教徒やイスラム教に反対する背教者と戦えとの「イスラム国」の呼びかけに応じて、世界各地でテロ活動を行うようになりました。

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なぜ戦争が起きたのか。「9.11」から「イスラム国」まで その5 オバマ大統領と「イスラム国」

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