1918年9月26日、連合国軍総司令官フォッシュは全軍に対してヒンデンブルク線への総攻撃を命じました。
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亀仙人2ヒンデンブルク線の戦い
最初の連合国軍の大攻勢は、9月26日のフランス軍とアメリカ軍によるムーズ・アルゴンヌ攻勢で始まります。
続いて9月28日にはベルギーのアルベール1世がベルギー軍とイギリス第2軍、フランス第6軍と共にフランダースにあるイープルを攻撃しました(第5次イープルの戦い)。
しかしこの2つの作戦は悪天候のため進みませんでした。
9月12日には、イギリス第1軍と第3軍が、第2次カンブレーの戦いでヒンデンブルク線を突破しました。
9月29日、イギリス第4軍(オーストリア軍とアメリカ軍も含む)がヒンデンブルク線の中央部にあるサンカンタン運河を攻め、フランス第1軍がサンカンタンの要塞を攻撃して、連合国軍は10月5日にヒンデンブルク線を突破しました。。
9月12日には、イギリス第1軍と第3軍がカンブレー(第2次カンブレーの戦い)でヒンデンブルク線を突破しました。
ムーズ・アルゴンヌ攻勢(1918年9月26日~11月11日)
この戦いの舞台となったアルゴンヌの森は、長さ約40km、幅約15~20kmに渡って岩山と森林の広がるフランス北東部の地域です。
岩山を縫うようにムーズ川(マース川)がベルダンからスダンに流れています。ムーズ川はその後ベルギーを横切って、オランダでライン川と合流し、北海に注いでいます。
アルゴンヌの森
出典 ウィキペディア
第1フェーズ
9月26日午前5時30分、3時間に渡る準備砲撃の後アメリカ軍は攻撃を開始しました。予定では26日中に8マイル進軍して、ドイツ軍の防御陣地クリームヒルデ線を突破するはずでした。
ところが、モンフォーコンでドイツ軍の激しい抵抗にあい、前線が停滞してしまいます。この停滞は、ドイツ軍にモンフォーコン背後に抵抗線を構築する時間を与えてしまいました。
この為アメリカ軍がクリームヒルデ線に到着したのは、10月3日になってしまいます。
この間にフランス軍は9マイル(約15km)進軍していました。
この時戦車隊を率いていたジョージ・S・パットンはルノーFT軽戦車1両と5名の歩兵とで敵の機関銃陣地に突撃を仕掛けましたが、歩兵4名が戦死、自身も機関銃で太腿を撃たれ重傷を負い、残った歩兵(ジョセフ・アンジェロ)によって近くの穴にひき連れ込まれ、一命をとりとめました。その後病院に送られ、戦線から離脱しました。
ムーズ–アルゴンヌ攻勢地図
第2フェーズ
10月4日、それまで戦って大きな被害を受けた部隊を新しい部隊に入れ替え、クリームヒルデ線に対して攻撃を仕掛けました。
しかし、守っていたドイツ兵たちは、東部戦線で戦っていた古参のベテランばかりで、西部戦線の新兵と違い簡単に降参せず、アメリカ軍は大きな被害を受け、アルゴンヌの森を抜けるのに約1ヶ月かかってしまいます。
失われた大隊事件が起きたのは、この時です。
失われた大隊( The Lost Battalion)事件とは
1918年10月2日、ドイツ軍の陣地を攻撃に出たアメリカ第77師団のうち、ホイットルセー少佐率いる第308歩兵連隊554名の行方が分からなくなってしまいました。
ホイットルセー(Charles W. Whittlesey)少佐
ハーバート大学法科大学院終了、弁護士。米国が参戦を決定した1917年に陸軍に入隊。
出典 HISTORY? BECAUSE IT’S HERE!
1918年10月1日、ロバート・アレクサンダー将軍が率いる米第77師団は、アルゴンヌの森の西側にあるドイツ軍の防御陣地に対して攻撃を実施することにしました。
米第77師団の左側にはフランス第4軍、右側には米第78師団が一緒に攻撃します。
米第77師団に属するホイットルセー少佐の第308歩兵連隊はラヴィン・ド・シャルルボーの北にあるビナルヴィル-ラヴィエルジェット道路の確保が命じられました。
ホイットルセーの部隊が目標とした道路。軽便鉄道の線路も見える。
1915年9月1日撮影
師団長のアレクサンダー将軍は「われわれは後退しない、前進あるのみ」という基本方針の下で、次のようなメッセージをすべての中隊に送付します。
「われわれの任務はあらゆる犠牲を払ってでもこの陣地を確保することであり、このことを命令を遂行する全員が理解しておくように」(Infantry in Battle 1939: 407)
10月1日の夕方までにホイットルセーの部隊は、目標とする道路の南側にあるドイツ軍陣地の近くまで到達しました。
ホイットルセーは汁ませんでしたが第77師団の主力と、左側のフランス軍、右側の第78師団はドイツ軍の激しい反撃にあい、撤退していました。
翌10月2日、ホイットルセーは敵の陣地の攻撃に成功して、目的としていた道路に近づきました。
この時ホイットニーには4個中隊の兵力がありましたが、各兵士が携行していた食料も1日分しかなく、弾丸の予備もありませんでした。
赤い丸で囲われた部分が、失われた大隊が居た場所。
左側のCharlevauxMillと書かれた水色の部分が上の写真の撮影現場
出典 verdun1916
7月3日には、15時と17時の2回にわたってドイツ軍の攻撃がありましたが、ホイットルセーはこれを撃退します。
7月4日になると部下たちは、疲労と空腹のため、衰弱し始めます。
この時点でも両翼に友軍が居ると思っていたホイットルセーは、連絡のため斥候を出しましたが、報告はにより周囲に味方の姿はなく、ドイツ軍に完全に包囲されていると判明しました。
状況が極めて深刻であると判断したホイットルセーは、伝書鳩を使って目的の道路近くにいることを、師団司令部に報告しました。
師団司令部は、ホイットルセーを助けるために、援護射撃を砲兵に命じました。
砲兵はホイットルセーの部隊を助けるためにドイツ軍の陣地に砲撃をしましたが、この陣地は2日前にホイットル―が確保した場所でした。彼は急いで最後の伝書鳩を飛ばし、砲撃を中止させます。
味方の誤射による砲撃に乗じて、ドイツ軍も攻撃してきましたが、何とかこれを防ぐことに成功しました。
この時点で師団司令部は急遽救援部隊を送る必要を認めていましたが、先日の攻撃で大きな損害を受け新たな攻撃をする、力がありませんでした。
7月5日、フランス軍の砲兵隊が新たな目標を砲撃したことで、ドイツ軍の勢いがなくなり、この日の攻撃を食い止めることが出来ました。
アメリカ軍は部隊のため、空軍を使って食糧や弾薬をパラシュートで投下しましたが、目標を大きくそれてしまい、取りに行った兵士9名のうち5名が射殺され、4名が捕虜となって物資はドイツ軍の手に渡ってしまいました。
7月6日早朝、ドイツ軍は小銃、機関銃、迫撃砲を持ってホイットルセーの部隊に攻撃を加えてきました。
この日もアメリカ空軍は、パラシュートで物資を投下しましたが、間違った場所に投下してしまい、物資はドイツ軍の手に渡ってしまします。
この攻撃を何とか乗り切りましたが、部隊は食料が亡くなり、負傷者の手当てもできないうえ、残りの弾薬も少なくなっていました。
7月7日正午、ドイツ軍の来襲を乗り切ると、ドイツ軍はアメリカ軍の捕虜に降伏を進める文書を持たせて、送り返してきました。
ホイットルセーがこれを拒否すると、残りの弾薬がないと見たドイツ軍は、火炎放射器を持った部隊を加えて、再び攻撃してきました。
ホイットルセ―は残った弾薬をすべて使い、銃剣やナイフで応戦して何とか撃退させることが出来ました。
しかし、この時点でホイットルセーの部隊の戦闘力は、ほぼ無くなってしまいます。
ここで奇跡が起こりました。
7月7日の夜、ドイツ軍に撤退命令が出され、8日の朝にはドイツ軍が退却してしまったことです。
7月8日、師団長自ら新たな救援部隊を率いて到着しました。7月2日から8日にかけての戦闘で554名のうち107名が戦死、190名が負傷、捕虜などの行方不明者が63名、どうにか歩くことが出来るもの194名という状態でした。
この大隊を題材にした映画があります。↓
10月8日にはアルデンヌのコーネイ近郊で、アルヴィン・ヨーク伍長(後に軍曹)が1人で132人のドイツ軍捕虜を捕らえるという大手柄を上げました。
この人の映画はこちら ↓
その後アメリカ軍は14日から17日にかけての攻撃でモンフォーコンドイツ軍の固い防御を破り、クリームヒルデ線を突破して15km進み、10月31日にはアルデンヌの森を抜けました。
この間にフランス軍は30マイル(約50km)進み、エーヌ川に到達しました。
第3フェーズ
11月1日、アメリカ軍はビュザンシーでドイツの防御線を突破してフランス軍がエーヌ川を越えるのを助けた後、セダンに向かって進軍しました。
フランス軍はエーヌ川を越え、ル・シェーヌの戦いでドイツ軍を破り、11月6日にはセダン近郊に到着しました。この頃にはアメリカ軍もセダンの街を囲む丘を占領します。
侵攻目前にして、パーシング将軍による「アメリカ軍がスダン入城の栄誉を担うことを望む」という訓示が各軍団に発せられた。作戦計画上、スダンはフランス軍の進軍ルートと重なっており、この訓示が正式な命令であるか単なる激励であるか不明瞭であった。これを受けて第一軍団の第1師団及び第42師団が他師団の間を抜けて夜間も進軍を続行した結果、軍団内では混乱が生じ、友軍に対する誤射や第42師団の師団長を誤って捕縛してしまう事態も発生しました。
この時、間違って捕らえられた師団長は、後のGHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーでした。
この混乱で行方不明となった黒人兵部隊を扱った映画です ↓
事態を重く見た第1師団の司令官リゲットは、第1師団と第42師団に停止命令を出し、フランス軍が先にスダンを攻略することにしました。
11月11日フランス軍がスダンを攻略し、同日午前11時に第1次世界大戦の休戦命令が出て、すべての戦いが終了しました。
ノール運河の戦い1918年9月27日~10月1日
カンブレーの街は西側をノール川に沿って作られたノール運河とヒンデンブルク線、街の近くはカンブレーとサンカンタンを結ぶサンカンタン運河で造られた、3つの防御線で守られています。
ノール運河は石炭をダンケルクまで運ぶために、1908年建設が始まりましたが、1914年第一次世界大戦勃発のため、工事が中止されました。
ここを担当しているイギリス軍は、9月5日までにはノール運河の西まで到達していました。
アメリカ軍のムーズアルゴンヌ攻勢の翌日、1918年9月27日北フランスのイギリス軍は、カンブレーに向かってノール運河を渡り攻撃を開始します。
ノール運河は、工事の4分の3が完成していて、運河の幅は約40ヤード(37 m)で、西岸の高さは10〜15フィート(3.0〜4.6m)、東岸の高さは約5フィート(1.5 m)でした。
また、運河にかかっていた11ヶ所の橋を破壊して、通行できなくしました。
ドイツ軍はノール運河の北側で、湿地帯をせき止めて運河に水を張りました。また東側のドイツ軍の支配する岸では鉄条網を貼りめぐらせ、機関銃を据えて待ち構えていました。
この為アラス方面から攻撃をしている英第1軍は、歩兵で運河を渡り東側の岸を確保した後、ドイツ軍の銃撃をぬって仮設の橋を架け、運河を渡りました。
マルキオンでノール運河を渡る橋を架けているカナダ軍工兵
出典 Wikipedia
英第1軍とカナダ軍は、攻撃初日でカンブレーを望む高台のブルロンの森の確保に成功しました。
ノール運河の戦いの地図
赤い点線はそれぞれの軍の境界線。上から英第1軍とカナダ軍、真ん中が英第3軍とニュージーランド軍、下が英第4軍とオーストラリア軍。赤い矢印はニュージーランド軍の進撃コース。
英第3軍とニュージーランド軍は、9月27日からアヴランクールの森とベルタンクールを結ぶ丘陵地帯を通って(ノール運河はこの地点で地下に作られた、トンネルの中を通っている)10月2日にはヒンデンブルク線を破り、第62師団はアヴランクールを、第37師団はトレスコーを占領しました。
10月1日、ニュージーランド第1歩兵旅団はスヘルデの街を占領し、翌10月2日クレヴクール・シェル・レスコーに入りました。ここはカンブレーとサンカンタンを結ぶサンカンタン運河が流れており、9月29日から始まるサンカンタン運河の戦いを有利に進めることとなりました。
10月8日にはカナダ軍がカンブレーの街に入り、10月10日にドイツ軍はカンブレーから撤退しました。
第5次イープルの戦い(1918年9月28日~11月11日)
1914年8月2日、ドイツはフランスに攻め込むにあたり、中立国のベルギーに対して軍の通行権を要求しました。
これに対してベルギーのアルベール国王は
「ベルギーは道路ではなく、国家である」
と言ってドイツの要求を拒否します。
大男のドイツの通行を拒むベルギーの少年(1914年に描かれたパンチ誌の風刺画)
後ろの柵には「立ち入り禁止」と書いてあります。
出典 英語で学ぶ世界の反応
1914年8月4日、ドイツはベルギーに侵攻し、イギリスはベルギーの中立を侵したドイツに対して宣戦布告をして、第1次世界大戦に参加しました。
しかし、ベルギーはドイツ軍に敗れ95%の国土を奪われ、ダンケルク近くの国境の町街フルーネを中心とした、エイゼル川に囲まれた地域に避難しました。
この図の赤い線が、アメリカ第2軍の進軍の様子です。イーブルからブリュッセルを目指しました。
緑色の線は、ベルギー軍の前線です。
1918年9月28日5時30分、3時間の準備砲撃の後、ベルギー軍、イギリス第2軍、フランス第6軍で構成されたフランダース軍は、イープル郊外のゾンネべーケを結ぶ道路で攻撃を開始しました。夕方からは雨になりましたが、フランダース軍は1917年のパッシェンデール(地図上で「ベルギー軍」と書いてある左にある黄色い星印の場所)の戦いで失った場所をほぼ取り返しました。
9月29日から続くの雨で戦場は泥沼状態になってしまいましたが、航空機による食料などの物資の投下で前進を続け、10月2日にはコルトレイクまで進みました。ここからベルギー軍は、フルーネの東にある港町オーストエンデの攻撃に向かいました。
10月14日からは、イギリス第5軍と協力して、コルトレイクの戦いで南側の、ルーペとリールを占領し、10月19日までにはスヘルデ川に到着しました。
北に向かったベルギー軍は、10月25日港町オーストエンデ近くの古都ブルージュに入城しました。
1918年10月25日、ブルージュに入城したベルギー国王アルベール1世。
となりの女性は王妃エリザベス。
出典 Wikipedia
この戦いは雨により道路が泥濘(ぬかるみ)となった為、思うように進軍できませんでした。
サンカンタン(サンクウェンテン)運河の戦い(1918年9月29日~10月10日)
ヒンデンブルク線は、カンブレーからサンカンタンにかけてサンカンタン運河の東岸(ドイツ寄り)に沿って作られています。しかし、高台にあるベリクールの街の南側からグイ近郊のル・カトレまでの5.7kmは運河は地下のトンネルを通っています。
このトンネルは、重い戦車がサンカンタン運河を横切ることのできる、唯一の場所でした。
このためドイツ軍はこの部分のヒンデンブルク線を、前哨基地と後衛の本線で2重構造をつくり、防御を固めていました。
ベルクールトンネル
ベリクールの南側にある、サンカンタン運河のベリクールトンネル入り口の空中写真。
よく見ると、トンネル上部から左上にかけて、ヒンデンブルク線の鉄条網と塹壕が見える。
ドイツ軍の塹壕
左から無人地帯、何重にも張られた鉄条網、第1線、第2線、最終線と塹壕が続き、それぞれの塹壕には敵の砲撃を避けるために地下深く掘られた退避壕があります。この点が、塹壕の壁の横に退避壕を作ったイギリスと、違うところです。そして一番後ろの離れたところに、砲兵隊の陣地があります。
イギリス海外派遣軍司令官のローリンソン将軍は、モナッシュ中将指揮下のオーストラリア軍に攻撃命令を出しました。しかし、オーストラリア軍はアミアンの戦いから戦闘を続けていて、人員の損耗も激しく、かつ疲労も蓄積していたため、アメリカ第27師団と第30師団を加えました。
アメリカ師団はイギリス軍の2~3倍もの兵士が居ましたが、戦闘経験が少なく、その上結成から間もないため、部隊を指揮できる下士官も不足しており、モナッシュは217人の下士官を派遣して指揮をとらせました。
最前線はアメリカ軍、続いてオーストラリア軍、そのうしろにイギリス軍の戦車部隊というかたちで進軍しました。
1918年9月29日、サンカンタン運河の戦い中の米軍とオーストラリア軍の作戦を示す地図。
赤いギザギザの線がヒンデンブルク線の塹壕。赤い点々が鉄条網の位置を示す。
右側にある水色の線と点線が、サンカンタン運河。
出典 Wikipedia
前哨戦(1918年9月27日)
オーストラリア軍モナッシュ中将の計画では、本格的な攻撃の行われる9月29日までに、ヒンデンブルク線の前にある前哨基地を陥落させるつもりでした。
アメリカ軍の第30師団が攻撃した前線南部では、成功しましたが、第27師団の攻撃は失敗してしまいました。
原因としては9月18日のエプイーの戦いで、攻撃予定地域にある、ザ・ノールとギーユモン農場、ケネモント農場にある3カ所の要塞がイギリス第3軍の攻撃を退け後、さらに守りを固めていたこと。
そして攻撃に戦闘経験が浅いアメリカ兵が当たっため、ドイツ軍の塹壕を攻撃した後、ドイツ兵を徹底的にクリアしないで通り過ぎたため、前後から攻撃を受けるはめに陥ってしまったこと。
部隊を率いる将校が不足(12の部隊に将校は18人でした)していたため、適切な処置がとれず、混乱が生じてしまったことです。
この混乱で、軍団の指揮官がアメリカ軍の正確な位置を把握できなくなったため、モナッシュ中将は9月29日に予定されている攻撃を遅らせるよう要請しましたが、連合国軍総司令官のフォッシュ元帥によって、拒否されてしまいました。
このため各軍の司令官は、かねてからの予定通り、攻撃を開始することになりました。
サンカンタン運河の戦い(9月29日~10月10日)
攻撃開始の9月29日は、朝から濃い霧が立ち込め、視界が封じ込められてしまいました。
戦いの前の準備砲撃を行うイギリスの砲兵隊は、アメリカ第27師団の位置が分からないため、計画通りに進軍しているとして、約900m先のヒンデンブルク本線に向かって砲撃を開始しました。
アメリカ第27師団は砲撃の援護を受けることなく、ルイス軽機関銃と手榴弾による攻撃だけで、ドイツ軍と対峙することになりました。この日にアメリカ第107連隊は995人を失い、第1次世界大戦でアメリカ連隊が1日に失った最大の数を記録しました。
後からやってきたオーストリア第3軍も、この戦闘に巻き込まれ進軍できず前線に大きな穴をあけることとなります(上の地図の点線部分)。
サンカンタン運河の戦い作戦図
一番左の青い線が前衛の陣地。ル・カトレからベリクールの左を通ってベルングリーズまで続いているのがヒンデンブルク線。
ル・カトレからノーロワまで続いている細い青線が防御陣地。
エストレからジョンクールの右側に続いている青線が最終防御線。
ベリクールの下からル・カトレの左に伸びている赤い直線が、サンカンタン運河のトンネル部分
出典 http://thebignote.com/ に地名を加工
一方南側を受け持つアメリカ第30師団は、砲撃の助けも借りて、予定通りに進軍し、29日中にはベリクールトンネルの入り口を確保し、最終目的地のノーロワ近郊まで進みました。
ベリクール近くのリケヴァルにあるベリクールトンネルの南入口にいる第30 アメリカ歩兵師団と第15オーストラリア旅団(第5オーストラリア師団)の兵士。1918年9月29日にアメリカ第30師団によって捕獲されました(1918年10月4日撮影)。
ドイツ軍はこのトンネルを塞いで、武器庫や野戦病院として使っていました。
出典 Wikipedia
しかし、第27師団の攻撃が失敗したため、軍の左側だけでなく、後方からもドイツ軍の攻撃を受ける羽目になりました。
これを助けたのが、リケバル橋の攻撃を成功させたイギリス第4軍団でした。
リケバル橋の戦い
第1次世界大戦前のリケバル橋(絵葉書)
イギリス第46師団は、ベリクールトンネル攻撃のアメリカ第30師団とオーストラリア軍を南方から支援するため、ペレクールトンネルのあるリケバルからベルリングーズまでの攻撃を受け持ちました。
リケバル橋は、リケバルとベルリングーズの境界線上でサンカンタン運河で掛かっています。
イギリス第137旅団が攻撃する前日まで、リケバル橋は対岸にある前哨陣地とヒンデンブルク線の間で兵士や物資を運ぶために、破壊されずに残されていました。ドイツ軍はもしもの場合に橋を爆破できるように、爆薬を仕掛けていました。
さらに両岸の林は全て切り倒され、切り株に隠れて多くの機関銃が設置されていました。
攻撃を担当するイギリス兵たちは、工兵隊が考案した折り畳みボートや。岸に設けられたレンガの壁や、土手の急な斜面を登るためのはしご、ガソリン缶を利用した浮桟橋などに加えて、運河に居た船から集められた3000もの救命胴衣が用意されました。
1918年9月29日早朝、濃い霧が立ち込める中北スタッフォードシャー連隊のAHチャールストン大尉は9人の部下を率いて、橋のたもとにある歩哨の詰め所を攻撃して、爆薬を爆発させるための電線を切断しました。
午前5時30分、大尉の合図により連隊の兵士が一斉に運河を渡り、西岸に陣取っていたドイツ軍に攻撃をかけました。
濃い霧が発生していたうえ、煙幕が張られていたため視界が数フィート(約1メートル)しかなく、ドイツ軍は思うように射撃が出来なく、その日のうちに無傷の橋と、ベルングリーズの村を占領できました。
サンカンタン運河に架かるリケバル橋から第137旅団(第46師団)の軍隊に演説するJVキャンベル准将。
よく見ると、運河を渡るときに使用した救命胴衣を着けたままの兵士が居ます。
出典 Wikipedia
9月29日の戦いで、イギリス第46師団は、5100人のドイツ軍のうち4200人の捕虜を得ました。これは明らかにドイツ軍の士気が衰えていることの表れです。
ちなみにイギリス軍の被害は800人でした。
1918年9月29日に起きた、二つの出来事と休戦への動き
1918年9月29日、それまで同盟国の一員であったブルガリアが、単独で連合国に対して休戦協定を結びました。
これによりオーストリア=ハンガリー帝国が、ギリシャ方面から直接連合国軍の攻撃を受けることになりました。
また、オスマン帝国(トルコ)とドイツとの間の連絡が、切れることになりました。
9月26日から始まった連合国のヒンデンブルク線に対する一大攻勢で、防戦一方のドイツ軍は、バルカン方面に兵力を割けることが出来ませんでした。
ルーデンドルフは、頼みとするヒンデンブルク線が大量の投降者を出して、僅か3日で突破されたことと、ブルガリア休戦の知らせを受けてショックに見舞われ、口から泡を吹いて床に倒れこんでしまいました。
その後ルーデンドルフは参謀総長のヒンデンブルクともにベルギーのスパにある参謀本部でカイザーに拝謁して、これ以上戦争を続けることは不可能であり、即刻休戦を結ぶことが必要である、と伝えました。
スパでの会議で休戦の必要を認めたドイツ政府は、10月3日民主主義的な政治家と知られるバーデン公マックスを宰相とする議会制民主主義政府を作り、アメリカのウィルソン大統領に、休戦の仲介を申し込みました。
この知らせはドイツ国内だけではなく、ドイツ軍の支援を受けられないと知った同盟国軍にも、激震が襲いました。
オスマントルコ政府は10月18日に休戦を申し入れ、10月30日に休戦協定に調印しました。
オーストリア=ハンガリー帝国では11月3日、北イタリアのパドヴァで連合国代表との間で停戦協定を結びました。
帝国内部では、10月28日にチェコスロバキア、11月11日ポーランド、11月16日ハンガリー、12月1日にセルブ=クロアート=スロヴェーン(後のユーゴスラビア)が独立を宣言して、13世紀から続いたハプスブルク帝国は、内部から崩壊してしまいました。
第1次世界大戦中のヨーロッパ
出典 世界の歴史マップ
ここで不思議なのは、ルーデンドルフが休戦が必要であると決めてから、ドイツ全体が休戦に向かって動き出したことです。
休戦に反対する勢力はなかったのか。それともドイツ国内で戦争に反対する機運があり、ただルーデンドルフに対して言い出せなかっただけなのか。
一説によると、ルーデンドルフは一時休戦して、軍備を整え、新たに防御を固めるつもりであったと言われています。このため戦争継続を主張する勢力も、あえて反対しなかったのです。
ですから、ルーデンドルフにとって、ドイツ全体が急激に休戦に向かったことは、予定外の動きだったのかもしれません。
結局、この時点でドイツは国内に攻め込まれていないため、工場や農業などの生産設備や、鉄道や道路などのインフラは破壊を免れ、それ以上に国民に対して無駄な命が失われることを防げたのは良かったと思います。
アミアンの戦いから百日攻勢前半の解説はこちら ↓
ドイツが休戦することを決めてから、休戦交渉締結とワイマール共和国成立までの過程はこちら ↓