1918年10月3日、休戦を決意したドイツ政府は、アメリカのウィルソン大統領に対して休戦の仲介を求めました。
ここでは休戦協定までのドイツの国内の動きと、ウィルソン大統領との交渉の過程を書いていきます。
アイキャッチ画像の画像は、1918年11月11日、休戦協定締結の場の絵画。出典ウィキペディア
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亀仙人2第1次世界大戦 休戦までの動き
なぜ、14ヶ条の平和原則は、世界の常識から外れてしまったのか
世界は秘密外交に満ちていた。
アメリカ参戦前、連合国や同盟国の列強は、戦争を有利にするため日本を含む各国と秘密協定を結んでいました。
たとえば日本とイギリスでは、ドイツの東洋艦隊を抑えるためと、日本海軍の地中海派遣の見返りとして、旧ドイツの租借地である青島利権の獲得と、赤道以北の太平洋におけるドイツ領の統治が認められていました。
イタリアに対しては同盟国から連合国への寝返りに対して、オーストリア領内の「失われたイタリア」と呼ばれる地域の領有が保障されていました。
中東地域では、オスマン帝国との戦いを有利にするため、アラブ人に対してアラブ人に領土を約束した「フサイン・マクマホン協定」、英仏露の間で結ばれた列強間でのオスマン帝国の領土分割に対する取り決め「サイクス・ピコ・サゾノフ協定」、などがあります。
イギリスにとってこれらの土地は、自国のものではないので、ヒトの土地を勝手に(元の所有所有者に断りもせず)分け与えることで味方を増やしていきます。
もちろん同盟国側もドイツがブルガニアに対して、味方に加わる見返りにかつての領土、セルビアの領有を認めています。
この為、元はオーストリアとセルビアの間で起こった争いにいろいろな国が加わり、世界的な争いになってしまいました。
1917年4月6日アメリカが参戦してから約2か月後の5月18日、アメリカ参戦の見返りとして、イギリス外務省からこれら密約の詳細を受け取りました。
外交音痴のアメリカ
第1次世界大戦まで、アメリカの外交は、欧州に干渉しない代わりに、欧州がアメリカ大陸の出来事に干渉しないことを主張した「モンロー主義」をとっていました。
このため、当時のアメリカには、大戦の発端となったバルカン半島の民族問題、東ヨーロッパ、中東地域に詳しい人が居ませんでした。
当時アメリカ国務省の中近東課は課長一人だけで、その人は一回も現地を訪れたことがないそうです。
まして社会革命後のロシアについては、まったくの無知でした。ウィルソン大統領自身が帝政が崩壊した後民主主義的な国が出来たと歓迎したほどです。この後共産党による一党独裁になるとは、思ってもいませんでした。
このことは、14ヶ条の平和原則の第6条に現れています。
そのためウィルソン大統領はハウス大佐に命じて、戦後の世界の在り方を研究する専門家集団の組織づくりを命じました。
ハウス大佐は、若干28歳のハーバート大学を首席で卒業したうウォルター・リップマンを責任者として採用し、「調査グループ(The Inquiry )」を立ち上げました。
この組織は初め5名でニューヨーク国立図書館の一室で作業を開始しましたが、2か月後には人員も増え、ウォール・ストリート12番地のアメリカ地理学会の建物に引っ越しました。この組織は現在の外交問題評議会の前身となりました。
ウィルソン大統領の14ヶ条の平和原則の第6条から第13条までの原稿は、この調査グループが作成しました。
この為「14ヶ条の平和原則」は、第1次世界大戦で交戦している国々の意見や現状を無視した、理想主義者ウィルソン大統領の想いのこもった現実離れの代物になってしまったのです。
14ヶ条の平和原則の誕生
1918年1月8日、アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンは、アメリカ連邦議会で戦争終結に向けて「14ヶ条の平和原則」を発表しました。
ウィルソンは自ら「神の子」として地上に平和をもたらすのが神から授けられた自分の使命だと信じて、第1次世界大戦が始まると、ハウス大佐をヨーロッパ列強に派遣し「無併合・無賠償」を原則とした「勝者のなき平和」の仲介を進めました。
しかし、開戦当時の各国は戦争に勝つことだけに夢中になり、聞く耳を持ちませんでした。
しかし、戦争が始まって2~3年たつと、終戦のめどが立たないまま、多くの死傷者が出て、長期間の戦いは参戦各国の食糧や、経済に及ぼす影響が多くなり、人々の間に戦争終結を求める声が出るようになりました。
1917年2月ロシアでは、ドイツ・オーストリア軍によって国土の多くを奪われ、食糧・燃料の不足、物価の高騰などで困窮した市民が革命(2月革命)を起こし、ロマノフ王朝による帝政(ロシア帝国)が崩壊しました。
また3月の終わりにはオーストリアのカール1世が、ドイツに内緒で英仏と単独講和を試みましたが、失敗してしまいました。
ドイツでも1917年7月6日、後に休戦交渉でドイツ主席全権として出席した中央党のエルツベルガーは勝利による戦争終結ではなく、平和的交渉による戦争終結を主張して、戦争終結後にドイツが他国領土の併合をしないよう議会で要求し、この意見に基づいた決議案は同月賛成多数で可決されました。しかし、これはドイツ軍部や連合国に無視されてしまいます。
1917年8月1日、ローマ法王ベネディクトゥス15世はド・ル・デビューという使徒的勧告を出して、無併合無賠償の講和、公海の自由通航、国際法に基づく紛争解決を訴ました。
教皇の使徒的勧告の詳しい内容はこちらにあります。
1917年11月8日(ロシアのユリウス暦10月26日)、ロシアの10月革命で、レーニンは第2回全ロシア・ソビエト大会で、平和に関する布告を発表しました。
その内容は、「無賠償」・「無併合」・「民族自決」に基づく即時講和を第一次世界大戦の全交戦国に提案したものであり、新生ロシア最初の対外政策であった。この平和に関する布告は、ウッドロウ・ウィルソンに「世界に貴重な原則を示した」と称えられ、当時のドイツ、オーストリア・ハンガリーの労働者だけではなく、諸外国の民衆やマルクス・レーニン主義の被圧迫民族解放理論に多大な影響を与えた。
引用 ウィキペディア
この即時講和を訴える布告は、戦争終結を望んでいるロシア国民の多くの賛同を得ることが出来、レーニン率いるボルシェビキに対する支持が強まりました。
このとき、ロシア帝国政府と列強諸国で交わされた秘密条約も暴露されました。
ウィルソン大統領は、調査グループの作成した8項目に、秘密条約の禁止、公海の自由航行交易の機会均等、軍備の縮小、民族自決、を加え(第1条から第5条)最後に、ウィルソン大統領が世界平和を維持するため必要と思っている、国際機関の設置(国際連盟、第14条)を加えて出来ています。
14ヶ条の内容を少し詳しく見てみると、
第一 条、「 いかなる かたち でも 秘密 の 国際 協定 は 行なわ れ ては なら ない。 外交 は 常に 全世界 に対して 公開 さ れ た もの で なけれ ば なら ない」 という 公開 外交 の 原則。
第二 条、 平時・戦時 を 問わ ず 公海 における 航行 の 自由 は 認め られ ね ば なら ない という「 公海 の 自由」 の 原則。 ただし 国際的 な 協定 を 強制 する ため の 手段 として の 封鎖 は 例外 とさ れる。
第三 条、 あらゆる 経済的 障壁 を 撤廃 し て、 すべて の 国民 の 平等 な 交易 関係 を 確立 する という 経済原則。
第四 条、 軍備 を 国内 治安 に 必要 な 最小限 に 縮減 する ため の 相互 の 安全保障 の 原則。
第 五条、 すべて の 植民地 要求 の 自由、 寛大 かつ 公平 な 調整。 その 際 には「 当該住民 の 利益 が 権利 ある 政府 の 要求 と 同等 の 重み を もっ て 顧慮 さ れ ね ば なら ない」 という いわゆる「 民族 自決」 原則。
第六 条、 ロシア からの 外国 軍隊 の 撤収。 ロシア に 関わる 問題 について は、「 自己 の 政治的 発展 について 独立 に 決定 する」 という 民族 自決 の 原則 に 基づく 調整 が 行なわ れる。 今後 数 ヵ月 の 間 に 姉妹 国 が ロシア を どう 扱う かは 彼ら の 善意 と 無私 の 共感 の 試金石 と なる だろ う。
第 七条、 ベルギー の 再建 と 主権 の 無条件 の 回復。 それ 以外 の いかなる 方策 も 国際法 に対する 信頼 を 回復 する こと は でき ない。
第 八 条、 すべて の フランス 領土 の 解放、 一八 七 一年 の 普仏戦争 の 際 に アルザス = ロレーヌ に関して 行なわ れ た「 不正」 は 講和 の 際 に あらためて 解決 さ れ ね ば ならない。
第九 条、 イタリア の 国境 は 明確 に 識別 できる 民族 境界線 に従って 訂正 さ れ ね ば なら ない。
第 十 条、 オーストリア = ハンガリー の 諸 民族 について は、 彼ら の 自律 的 発展 への 自由 な 機会 が 保障 さ れる。
第 十一 条、 ルーマニア、 セルビア と モンテネグロ からの 軍 の 撤収。 占領 さ れ た 地域 は 再建 さ れ ね ば なら ない。 セルビア には 海 への 出口 が 保障 さ れる。 バルカン 諸国 の 関係 は 歴史的 に 確定 さ れ た 帰属 ならびに 民族性 の 原則 に従って 友好 的 に 調整 さ れ ね ば なら ない。 バルカン 諸国 には 政治的・経済的 独立 と 領土 不可侵 の 国際的 な 保障 が 与え られる。
第 十 二条、 旧 オスマン 帝国 の トルコ の 部分 には 主権 が 保障 さ れ、 トルコ に 支配 さ れ て い た 他 の 民族 には 自律 的 な 発展 の 保障 が 与え られ ね ば なら ない。 ダーダネルス海峡にはすべての国民の航行と交易の自由が保障される。
第十三条、ポーランドの独立国家の確立。ポーランドには海への出口が保障され、政治的・経済的独立と領土不可侵の国際的保証が与えられる。
第十四条、「大小諸国家の政治的独立と領土の相互保障のために特別の協定が締結されて、すべての諸国民からなる連合組織( a general association of nations)が形成されねばならない」と国際連盟の提唱が行われる。
引用 牧野雅彦. 「ヴェルサイユ条約 マックス・ウェーバーとドイツの講和 」(中公新書) 中央公論社
詳しくはAMERICAN CENTER JAPANの米国の歴史と民主主義の基本文書大統領演説を見てください。
大戦で大きな犠牲を払ったフランスのクレマンソー首相は、あまりにも現実離れした内容に、
「14条とは恐れ入る。神との約束(モーゼの10戒)でも10条だけだ。」
と述べ、初めから無視していました。
ドイツ、休戦までの道のり
ドイツの春季攻勢の解説はこちら ↓
それに続く連合国の反撃の記事はこちら ↓
1918年9月29日、ルーデンドルフはドイツ帝国議会でこれ以上戦いを続けても勝利の見込みがないことを告げ、一刻も早くウィルソン大統領の14ヶ条の平和原則を受け入れ休戦するように申し入れました。
そのためには国制を改め上からの改革によって、議会に立脚した政府を作ることの必要を求めました。
それまで戦争は有利に進んでいたと思って、食糧を始め物資の不足に耐え忍んでいたドイツ国民は大きなショックを受け従来の支配者に対する信頼を失ってしまいます。
イギリスやフランスは、ルーデンドルフが終戦ではなく休戦を主張したのは、ドイツ軍を西部戦線の占領地帯から引き上げ、いったん戦備を整え、改めてドイツ国境での戦いをするための時間稼ぎだと思っていました。
10月3日
第1次世界大戦前から自由主義者として知られるバーデン大公子マックス・フォン・バーデンを首相とする内閣が成立しました。この内閣は帝国議会の社会民主党、中央党、進歩人民党の三党の多数派で構成されたドイツ初の議会制内閣でした。
この三党は、1917年7月19日、それまでドイツ政府が採ってきた戦勝により確保してきた占領地の併合を認める「勝利による平和」に変わって、無併合無賠償、公海の自由航行、国際紛争解決を目的とする国際的な法的組織の創設を骨子とする「和平決議」を国会で通過させた経緯がありました。
マックス・フォン・バーデン(1914年)
出典ウィキペディア
マックス帝国宰相は、早速ウィルソン大統領宛に休戦の仲介を求める覚書を送りました。
10月8日、アメリカ側第1覚書書
10月3日のドイツからの覚書に対して、アメリカ政府は次の3点の確認を求めてきました。
第1に、交渉に当たってウィルソンの14ヶ条の平和原則を受け入れること。
第2に、休戦が次の戦いのための時間稼ぎでないことを証明するために、すべての占領地からの撤退すること。
第3に、マックスを宰相とする新たな議会制のドイツ政府が、ドイツ国民の総意であるとの証明を求めてきました。これはせっかくの休戦協定が、軍部や皇帝の意向によって破棄されることがないようにするためです。
10月12日、ドイツ側第2覚書書
ドイツ側の答えは14ヶ条の平和原則、と占領地からの撤退を原則的に受け入れるものでした。ただ第八条のアルザス = ロレーヌ 地方に関しては、普仏戦争でプロシャとフランスが合意の上でドイツ領となったもので、交渉が必要であるとの見解でした。
三番目の件については、マックスがルーデンドルフと話し合って、軍の権限を新政府のもとに就くことが決まりました。ルーデンドルフとしては、休戦交渉を民間に任せることで、軍の責任を回避する思惑がありました。
また新政府が従来の帝国指導当局との連続性を確認したうえで、選挙制度の改革をして議会主義を強化する旨を送付しました。
しかし、ここで大きな問題が起きました。10月10日、アイルランドとイギリス本土を結ぶ定期郵便船レンスター号がドイツのUボート UB-123によって撃沈されました。
アイルランドの郵便船レンスター号
出典 The Sinking of the RMS Leinster
レンスター号には78人の乗組員、船内で郵便を仕分けるために乗った22人のダブリン郵便局員、女性や子供も含む201人の民間人、500名以上の軍関係者(レンスター号に設置された大砲の砲手、軍人、従軍看護師など)で総数813人の乗員が居ました。
午前10時ちょっと前、レンスター号はドイツ海軍のUボートのUB-123の魚雷を受け沈没して569名が犠牲となりました。
10月14日ウィルソン大統領はドイツ政府に対して、ドイツが旅客船を攻撃する限り平和はあり得ないと、強い抗議を送ります。
ついでに、UB-123はドイツに帰港する途中の10月18日機雷に触れ沈没してしまい、35名の乗員全員が死亡しました。
10月14日、アメリカ側第2覚書
レンスター号事件は、アメリカ側の態度を硬化させました。
今回の覚書では占領地からの撤退に加え、無制限潜水艦作戦の即時中止を要求しました。
また、現在の政府が旧ドイツ帝国政府のように軍部や皇帝の独断専行を許す傾向が残っていることから、より一層国内政治の民主化を進めている確実な証拠が必要があることを、指摘してきました。
休戦条件については14ヶ条の平和原則の受諾のみならず、連合国国総司令官フォッシュの元にある連合国軍事指導者たちの合意が必要であるとしました。
10月20日、ドイツ側第3覚書
アメリカの第2覚書は、ドイツに一層の民主化を希望したことで、ドイツ国内に問題を投げかけました。これは皇帝と軍部の力を削ぐことになります。
その上、休戦交渉中と言え連合国と戦争状態にある中で、占領地からの撤退に加えて、イギリスが海上封鎖を続けているままで、一方的にドイツの無条件潜水艦作戦の中止を求めてきたことは、ルーデンドルフをはじめとする軍部の反発を招き、休戦交渉を中止して再び戦闘状態に戻ろうとする声も上がりました。
マックス宰相は軍部をなだめて、無制限潜水艦作戦の中止をドイツ大洋艦隊のシェアー提督に命じて、10月21日からは日中に軍艦のみの攻撃を行うことにしました。
マックス宰相は政府が無制限潜水艦作戦を中止させたことを示して、戦争と講和の決定権が帝国議会にあることと、より一層の民主化を進めている最中であること、撤収手続きと休戦条件の設定を連合国の軍事顧問に任せることを、ウィルソン大統領に伝えます。
10月22日、マックス宰相は帝国議会でウィルソン大統領の14ヶ条の平和原則と、その14番目の国際連盟の設立を受け入れることを表明しました。
食糧事情の悪化や、脱走兵の話などで戦況の振りを感じていたドイツ国民でしたが、参謀本部のプロパガンダを信じて戦勝を期待して我慢が裏切られ、国内により一層の民主化を求める急進派が台頭してきました。
10月23日、アメリカ側第3覚書
10月20日のドイツ側第3覚書に対して、ウィルソン大統領はすぐに返事をしたためました。
要点は、ドイツの議会制内閣に対して、いまだに軍部や皇帝の権力は維持されていることを指摘して、アメリカ政府は憲法上正当なドイツ国民の代表者のみとしか協議することはできない。もし、今後もドイツ政府が軍や皇帝との協議が必要ならば講和の条件ではなく、降伏の条件について協議することになる、とのことでした。
ここでドイツ帝国憲法における、皇帝の持つ権限を書いて見ると
皇帝位は、プロイセン国王が世襲的に承継する。皇帝は、対外的には国際法上の代表権、宣戦布告権、条約締結権(第11条)を有し、内政に関しては連邦参議院と帝国議会の召集、開会、休会、閉会に関する権限(第12条)、帝国法律の認証、公布、執行監督の権限、ならびに命令・処分権(第17条)、帝国宰相の任命権(第15条)、帝国官吏の任免権(第18条)などの権限を保持していた。
ついでに軍部の持つ権限は
参謀総長には帷幄上奏(いあくじょうそう)権が認められ、参謀本部の執る下記の業務において、議会を通さず直接皇帝に上奏して決断することが出来るものです。
参謀本部が帷幄上奏を行った主な例を挙げると
軍備計画
動員計画・開進計画
出動計画
出動指揮
兵站
教育・訓練
人事計画があります。
出典ウィキペディアより
ウィルソン大統領は、この2つの権限を民主的な議会に移譲しないと休戦交渉に入らないと言ってきたのです。
プロイセン参謀本部(ウィルヘルムスヘーエ城, 1918年11月)、中央はヒンデンブルク参謀本部総長。
出典 ウィキペディア
10月27日、ドイツ側第4覚書
これを実現するためには、ドイツ帝国憲法に代わる新しい民主的な憲法を制定する必要があり、明らかな内政干渉でした。これに怒ったルーデンドルフは、各地の軍に電報を打つて決起を呼びかけました。
これを知ったマックス宰相は皇帝に上奏して、ルーデンドルフを参謀次長から解任しました。
ドイツが第4の覚書を送ったのち、ウィルソン大統領は政治体制の改革だけではなく、暗に皇帝の退位を求めているとの声が、チューリッヒの領事館から届きました。
ウィルソン大統領は民主的な政府が出来れば、皇帝の退位は問題ではなく、マックス宰相もそこまで考えていませんでした。
10月28日には憲法が改正され、宣戦及び講和に関して帝国議会の同意を必要とすること、宰相に対する帝国議会の不信任規定、皇帝のすべての政治行為に対して宰相の責任規定が設けられ、議会制政府の原則が確立されました。
更に納税額によって3段階に区別され、区別ごとに同じ数の選挙民を選ぶ不平等な3級選挙法を廃止して、婦人の参政権を認める普通選挙の実施も決められました。
こうして講和に向っての協議は、事実上且つ憲法上の決定的な権力を掌握した政府によって行われることと、軍指導部は政府の下についていることをウィルソン大統領に向かって通知しました。
翌10月29日、ドイツ皇帝ヴェルヘルム2世は、マックス宰相による退位要請を拒み、ベルリンを去ってベルギーのスパにある参謀本部に向かいました。
同じ10月29日、ウィルソン大統領はハウス大佐をヨーロッパに派遣して、イギリス・フランスと共にパリで休戦条件の協議に入ります。
イギリスのロイドジョージは、航海航行の自由に対して反対しました。これを適用するとドイツに対して行っていた海上封鎖が出来なくなるからです。
フランスのクレマンソーは、アルザス=ロレーヌの返還と、二度とドイツが立ち直れなくなる程の賠償金を求めてきました。
これに対してウィルソン大統領の代理として出席したハウス大佐は、アメリカはドイツと単独講和をするかもしれないと脅しました。
ロイド・ジョージは、その場合イギリスは休戦せずに戦争を継続すると答え、フランスのクレマンソーもイギリスを援護しました。
翌30日になってイギリスとフランスは、ウィルソン大統領の主張する平和を維持するための国際機関(国際連盟)の設立に賛成する代わりに、自由航行と賠償金については休戦条件に入れず、次の講和会議まで留保するということで合意しました。実際のパリ講和会議では、公海の自由航行についての協議は行われませんでした。
イギリスのロイド・ジョージも、フランスのクレマンソーも14ヶ条の平和原則について流動的で、交渉によってはいくらでも骨抜きにできると分かっていました。
また10月29日には、解雇されたルーデンドルフに変わって、ヴィルヘルム・グレーナー中将が参謀次長に就任しました。
ヴィルヘルム・グレーナー 1917年
出典 Artue アート用語
ヴィルヘルム・グレーナー(1867年~1939年)
ヴィルヘルム・グレーナーは1867年11月22日、ドイツのヴェルデンベルク王国軍の連隊主計局長カール・グレーナーの長男として生まれた。
1884年ヴェルデンベルク王国軍士官学校に入学、1886年少尉に昇進して小さな駐屯部隊に勤務。
1893年、高級士官の育成を目的としたベルリンの軍事大学校に入学。1897年卒業後、参謀本部付き中尉として、地形測量課に配属。ここは大モルトケやシュリーフェンも配属されていて、各地の情勢を知ることのできる格好の場所でした。
1899年、ここでの働きが認められ、鉄道局の中で西部戦線の進撃を取り扱うセクションⅡaに配属されました。
ドイツでは鉄道組織は軍の支配下にあり、各路線には参謀将校が一人配置されていた。参謀本部の許可なしには、あたらしく線路を敷設したり、路線を変えたりすることはできなかった。毎年動員演習をおこなって鉄道関係の役人をしじゅう訓練し、電報でどの線が遮断され、どこの橋梁が破壊されたかなどを通報して鉄道交通を規制したり変更したりする能力の試験が行われた。陸軍大学校卒業生中もっとも優秀と見なされたものは、鉄道関係の任務に着き、しまいには精神病院に送り込まれるしまつだったという。
引用 バーバラ・W・タックマン著 『八月の砲声』山室まりや訳 ちくま学芸文庫 一八三頁
その後ドイツ軍参謀総長のシュリーフェンに見いだされ、シュリーフェンプランでの兵員と軍需品の輸送プランを任されるようになります。続いて参謀総長となったモルトケ(ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ。先の大モルトケの甥、小モルトケ。)にも仕え、1912年には少佐、1914年には野戦鉄道長に就任し、8月の第1次世界大戦では進軍の展開を円滑に行うことに、大きく貢献しました。
1916年には軍隊だけではなく、食糧不足を解消するために新設された戦時食糧庁の役員となり、戦時社会政策にも関わるようになります。
その後戦時局の長となり、祖国勤労奉仕法(16歳から60才までの兵役につかない男性を、鉱業、工場、農業に勤務させる法律。さらに鉱工業の熟練労働者の懲役免除を行う)の成立と運営に関わり、労働者と雇用主との間に生ずる問題を解決するために軍事庁が介入し、雇用主と労働者の意見を聞いて解決するようにしました。
これにより、各種の労働組合を束ねる社会民主党の穏健派(急進派にはスパルタクス団のように革命を叫ぶ派閥がありました)と結び、ストライキを抑えることに成功しました。
この成功で軍需品の生産は順調に進みましたが、軍部や企業主の中にはグレーナーが労働組合と結び、組合の力が強くなることに反発する勢力が生まれました。彼らは参謀総長のルーデンドルフに訴え、1917年8月16日グレーナーは戦時局のポストから外され、東部戦線の司令官として着任してしまいます。
1918年10月29日、ルーデンドルフの解任の後、参謀次長に就任して、ドイツ軍の撤退と復員の業務につきました。
また、10月29日に、北海沿岸のヴィルヘルムスハーフェン軍港で海軍の水兵約1000名が出撃命令を拒否して、作戦が中止となる事件が起きます。
事の起こりは1916年のユトランド沖海戦で大打撃を受け、艦隊保全のため軍港に係留されていたドイツ海軍が、イギリス艦隊と決戦を挑むことを決定したことです。
ユトランド沖海戦の説明はこちらをご覧ください ↓
開戦以来戦い続け、休戦間近になっても本土防衛についている陸軍と違い、それまで戦ってきていなかった水兵たちが、自殺行為と言える出撃命令に反発したのが始まりでした。
海軍司令部は命令に従わなかった水兵を逮捕して、キール軍港に送りました。
11月30日、トルコが連合国と休戦協定を結びます。
皇帝の退位と、ドイツ革命、そして休戦
11月1日、キール軍港の水兵たちが仲間の釈放を求めましたが、司令部に拒絶されました。
11月3日、同じく逮捕された水兵の釈放を求め、海軍の水兵、陸軍の歩兵、さらに労働者による大規模なデモが行われました。これを鎮圧しようとしてして官憲がデモ隊に発砲し、8人の死者と29人の負傷者を出したことから大規模な蜂起がはじまりました。
11月4日、兵士と労働者によるレーテ(労兵評議会、ロシアのソビエトに相当)が結成され、4万人の兵士と労働者が港湾と市の施設を制圧しました。
キールでの労働者の蜂起(1918年11月4日)
出典 ウィキペディア
マックス宰相は、労働組合に大きな影響力を持つドイツ社会民主党(SPD)の党首エーベルトに事態の鎮静化を頼みました。エーベルトは、スト参加者を罪に問わないことを条件に、党員のグスタフ・ノスケを派遣しました。
11月5日、暴動を鎮圧する立場のノスケは逆に労兵評議会の代表に選ばれてしまい、革命側に就いて、軍部と交渉する羽目になってしまいました。
キール要塞では、暴徒の鎮圧に向かった兵士が寝返って暴徒と一緒になる事態が起こっていたため、軍が力で抑えることが出来なくなっていました。
ノスケは軍部との交渉で、兵士評議会による満場一致の投票によって、キール要塞司令官に就任します。
労働者と兵士の支持を得たノスケは、治安維持のための巡察官以外のものが銃を持つことを禁じる処置をとり、急進派の動きを抑え、治安を回復させました。
しかし、マックス宰相の思惑と違い労兵評議会(レーテ)によるキール支配が成立したことで、革命はドイツ各地に飛び火し、大きな流れとなります。
キール革命を成功させた兵士や労働者はドイツ全土に散り、11月10日までにはドイツ各地の都市がレーテ(労兵評議会)の支配下に置かれました。
11月3日にはイタリア王国とオーストリア=ハンガリー帝国の間でヴィラ・ジュスティ休戦協定が結ばれ、24時間後の11月4日午後3時、イタリア戦線は停戦しました。
11月5日、アメリカン側第4覚書(ランシングノート)
キールでの反乱のニュースがアメリカに届いたのは11月7日になってからであり、ドイツがアメリカの第4覚書を受け取ったのは11月6日でした。
この覚書で休戦条件については、連合国側が休戦を保障するための条件について一方的な権限を有するという「無条件降伏」に近い物でした。
ただ講和条件の基礎として各国が、ウィルソン大統領の『14ヶ条の平和原則』を受け入れたことを、知らせてきました。
この覚書の後、ウィルソン大統領は休戦交渉を連合国側(アメリカは対ドイツ戦に協力国として参加したため、連合国に入っていませんでした)に一任しました。
これに先立ち、ウィルソン大統領の代理としてヨーロッパに派遣されたハウス大佐は、『14ヶ条の平和原則』を守るように各国に働きかけました。
イギリスのロイドジョージは、このまま休戦すれば国内の破壊を免れたドイツは、国力を回復して再び戦争を引き起こすと考えました。
ドイツと陸続きではないイギリスは、ドイツ海軍艦艇の引き渡しとイギリスでの抑留、海上封鎖の継続、中立国ベルギーが受けた損害に対する復興の費用と賠償を求めました。
実際に国土を蹂躙されたフランスは、再びドイツが起き上がることのないように、莫大な賠償金、ドイツ陸軍の解体、アルザス・ロレール地方のフランスへの返還、ルール地方の占領(後にここに新たに国家を建設して、直接不妊巣に入ってこられないようにするため、ドイツに対して緩衝国を作るつもりでした)を求めました。
ただ、これらの要求は14ヶ条の平和原則に定められている、無賠償、無併合、公海上の自由航行に反するため、具体的な賠償金と、イギリスの海上封鎖については、後に行われる講和会議で決めることにして、一旦は棚上げすることにしました。
それでもドイツに対する休戦条件は、最も被害を受けた強硬派のフランスの意見が通り、ドイツにとって厳しいものとなります。
1918年11月7日午後8時20分、ドイツの休戦使節団を乗せた車が、ピエール・ド・ロイのフランス軍の前線を通過して、10時間かけて会見場所のコンピエーニュに向かいました。
この日、11月7日ドイツ国内では革命が進み、ミュンヘンではバイエルン王ルートヴィヒ3世が逃亡し王政が転覆される事態となっていました。これを受けて、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の退位を求める声が、一層激しくなりました。
政権の一翼を担うドイツ社会民主党は、マックス宰相に対して9月9日までに皇帝の退位が実現しなければ、内閣から離脱すると通達しました。
白旗を掲げたドイツ使節団の車
休戦協定に望んだ参加者は、
連合国側
フランス軍元帥フェルディナン・フォッシュ(連合軍最高司令官)
イギリス第一海軍卿ロスリン・ウェミス提督(イギリス代表)
マキシム・ウェイガン将軍(フォッシュの参謀長)
ドイツ側
マティアス・エルツベルガー(文民政治家)
アルフレート・フォン・オーベルンドルフ伯爵(外務省)
デトレフ・フォン・ヴィンターフェルト少将(陸軍)
エルンスト・ファンゼロウ大佐(海軍)
でした。
11月8日午前9時、コンピエーニュの引き込み線に止められた食堂車で、最初の休戦交渉が始まりました。
この食堂車は、オリエント急行に代表されるヨーロッパで豪華国際寝台列車を運行しているワゴン・リー社の所有する車両でした。
1914年、第1次世界大戦が勃発したことで、国際寝台列車の運行が停止されると、フランス陸軍は列車を徴用して1918年10月からはフェルディナン・フォッシュ西部連合軍総司令官の臨時司令部として用いていました。
1918年の休戦協定調印直後の写真
出典 ウィキペディア
民間人であるドイツ代表団のエルツベルガーは、これ以上犠牲者を出さず、ドイツを復興させるために戦争を終わらせることを願っていました。
連合国最高司令官のフォッシュは軍人として、ドイツの戦闘力を削ぐことと、ドイツが直接フランスに侵入させないように、アルザス=ロレーヌの返還と、オランダとスイスを結ぶライン川領域(ラインラント)の非武装化を企んでいました。
ラインラント地方のライン川西岸の連合国占領を認めたことで、ドイツは初めて国内に外国軍の進駐を許すことになりました。
出典 山武の世界史
フォッシュはドイツが休戦を求め、連合国の提示する条件を認めることを確認すると、次の条件を示し、72時間以内に回答することを告げ、1回目の会談は45分で終了しました。
休戦の条件
- 署名後6時間以内の交戦の終了。
- フランス、ベルギー、ルクセンブルクとアルザス=ロレーヌからの全ドイツ軍部隊の即時撤退。
- 上に引き続き、ライン川左岸全域と、右岸のマインツ、コブレンツおよびケルンの連合国軍・アメリカ軍の占領を保証するため、その橋頭堡の半径30km区域からドイツ軍部隊を移動させること。
- 東部戦線における全てのドイツ軍部隊の1914年8月1日時点の位置への退去。
- ロシアとのブレスト=リトフスク条約、およびルーマニアとのブカレスト条約の破棄。
- ドイツ艦隊の抑留。
- Uボートの降伏。
- 軍需品の引き渡し(大砲5,000門、機関銃25,000挺、ミーネンヴェルファー(大型の迫撃砲の様なもの)3,000門、飛行機1,700機、機関車5,000両と客貨車150,000両)。
出典ウィキペデア
会談の後、ドイツのへルドルフ大尉は休戦協定の内容を知らせるため、ドイツの司令部へ向かいました。
午後6時へルドルフ大尉は前線に到着しましたが、ドイツ軍からの攻撃に逢い、これ以上前進できなくなっていました。
1918年9月9日
この日はドイツの君主制が崩壊し、共和制に大きく変わった日でした。
9月9日早朝、市の北部と東部にある軍需工場から、労働者たちが「平和と自由とパン(食料)」を求めてデモが起こり、市の中心部にある国会議事堂に向かって行進を始めました。
首都を守る役目の近衛師団でも、将校の威嚇や説得にもかかわらず、兵士たちはレーテ(兵士評議会)を結成して部隊を離脱し、労働者と共にデモに参加しました。
9月9日正午前、事態を収拾するため、マックス宰相は皇帝の同意を得ぬまま、皇帝ヴェルヘルム2世の退位を公示しました。
続いて、午後2時にマックス宰相はレーテ(労兵評議会)を束ねている社会民主党党首のフリードリヒ・エーベルトに宰相の座を引き渡しました。
後に、ワイマール共和国初代大統領となった、フリードリヒ・エーベルト(1925年撮影)
出典ウィキペディア
午後2時ごろ、戦争に協力してきた社会民主党から反発して分かれた反戦派のカール・リプレクトト率いるスパルクス団(後のドイツ共産党)が、前年のロシア革命のソヴィエトと同じように、レーテに権力を持たせた「自由社会主義共和国」の樹立を宣言するという噂が飛び込んできました。
これを聞いてと、かってマックス宰相の次官を務めたシャイデマンは、帝国議会議事堂の窓からデモ隊に向かって
「古く腐った帝政は崩壊した。新しきドイツの共和国、万歳!」
と共和国樹立の宣言を行いました。
1918年11月9日、帝国議会議事堂の窓から、デモ隊に向かって共和制宣言を行うシャイデマン
出典 ウィキペディア
11月8日、ベルギーのスパにあるドイツ参謀本部では、皇帝のヴィルヘルム2世は自ら兵を率いて治安維持のため出動するといいだしました。
翌9日ヒンデンブルクは、各軍から39人の将官・連隊長が集め協議の結果、皇帝が指揮する軍隊で事態の鎮圧をすることは不可能との結論となり皇帝の出馬は拒否されました。
午後2時、皇帝は周囲の説得を受け、事態の収拾のために退位する文書に署名する直前、マックス宰相が皇帝が退位したと発表した知らせが入りました。皇帝は怒って署名を止めてしまいます。皇帝が退位宣言に署名したのは、11月28日になってからでした。
最高司令部にも革命の影響で兵士の間に不穏な空気が流れてきたため、ヒンデンブルクは皇帝に対して身の安全のためオランダに亡命するように進言しました。皇帝は躊躇しましたが、11月9日深夜オランダに向け出発しました。
同じころ、連絡のためコンピエーニュからドイツに向かったへルドルフ大尉は、午後になってベルギーのスパにある参謀本部に到着しました。ベルリンの承諾にはなおも時間がかかります。
新しく宰相となったエーベントは、ベルリンの混乱を鎮めるため、労働組合に大きな力を持つ独立社会民主党(USPD)と協議を始めました。
ドイツ独立社会民主党(USPD)
もともと労働者の党として発足したドイツ社会民主党(社民党)は、1912年に行われた帝国議会選挙で第1党となりました(その後の選挙は戦争のため行われず、社民党は戦後まで議会第1党のままです)。
ドイツがベルギーに侵入して第1次世界大戦が勃発した1914年8月4日、戦時公債発行の審議が帝国議会に行われた際、社民党は賛成票を投じ全党一致で戦時公債の発行が認められました。
この2日前に行われた社民党の党議決定の会議で、戦争協力に反対したのが、カール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルクら急進左派(彼らはドイツ共産党の前身になる非合法反戦組織「スパルタクス団」を結成した)でしたが、多数決により社民党は戦時公債の発行に賛成の立場をとりました。
更に開戦に伴い各党派は政党間抗争や政府に対する反対運動を中止し、戦争遂行に協力することを決めました(「城内平和」)。同じく各労働組合も賃金闘争やストライキの中止を宣言しました。
1915年に入り短期決戦の目論見が外れ、長期化の様相が現れると社民党共同党首のフーゴー・ハーゼを中心とした中央派の内にも、社民党の戦争協力に反対し、戦時公債発行の議決に反対票を投じる代わりに、評決の際に議会を退席する者が出てきました。
この頃から国内の食糧事象の悪化によるデモだけではなく、戦争に反対し、平和を求めるデモや、ストライキが各地で発生しました。
ドイツ帝国では国内の反戦運動が広がるのを恐れ、急進左派のカール・リープクネヒトを招集して兵役につかせ、女性のローザ・ルクセンブルクを刑務所に収監しました。1916年5月1日のメーデーで、カール・リープクネヒトがベルリンの反戦デモを主導したかどで逮捕され、懲役4年の刑を受けました。
戦争が長引き国内の食糧事情が悪化したうえ、1916年12月5日『祖国勤労奉仕法』が制定したことで、強制労働の負担が大きくなりドイツ国民の不満が高まってきました。
平和を求める動きは民衆だけではなく、1916年12月12日には、ドイツ宰相のベートマン・ホルヴェーㇰが連合国に対して、和平交渉を呼びかけています。
1917年2月1日ドイツが無制限潜水艦作戦を開始して、4月6日アメリカ合衆国がドイツに宣戦布告をすると、戦争反対を掲げることが出来ない社会民主党内の戦争反対派は結束して、「戦争反対、即時停戦」を要求するドイツ独立社会民主党を立ち上げました。初代党首には、社会民主党内で戦時公債の発行に反対し続けたフーゴー・ハーゼが就任しました。
この様にしてできたドイツ独立社民党ですので、それまで戦争協力の立場をとってきた社民党のエーベント宰相にとって、「戦争終結・早期講和」をスローガンとする各地のレーテを束ねるためにはドイツ独立社会民主党の協力が必要でした。
ドイツ独立社民党でも、急進派によって各レーテが権力を握り、ロシア革命後のように国内の混乱を防ぐためにも社民党と連携しようとしました。
この為シャイデマンの共和国宣言の後、社民党と独立社民党との間で政権維持のための話し合いが行われました。
午後9時、スパの参謀本部からエーベント宰相に直数電話がかかってきました。電話の主は新たに参謀次長となったグレーナーで、軍部はこれからも新政権に協力するという内容でした。その代わり新政権は、軍の維持と将校の権威の回復など旧来の将校組織の温存を認めてもらいたいとのことでした。
10月10日
コンピエーニュに居る使節団はフランスの新聞により、皇帝の退位により、祖国が君主国から共和国に変わったことを知りました。
ベルリンでは、話し合いの結果、社民党と独立社民党が3名ずつ閣僚を出し合って「人民代表評議会」なる仮政府があらたに創設されました。
「人民代表評議会」のメンバーは対等であるとの建前でしたが、会議ではエーベントが議長を務め会議を主導したので、社会民主党のエーベントが主導権を握っていました。
そのため臨時仮政府は、社民党のエーベントが宰相を務める政権に、独立社民党が3人の委員を送り込んだ形となりました。
午後7時45分、祖国からの連絡を待つエルツベルガーの元に無線電信が届きました。それには
「いかなる条件でも、即刻休戦協定に署名せよ」
と書かれていました。発信者はスパの参謀部にいるヒンデンブルク参謀総長からでした。宰相のエーベントは国内を取りまとめるのが忙しく、休戦を承認したのは、深夜2時になってからでした。
11月11日 第1次世界大戦休戦
11月11日午前2時15分、休戦のための交渉が始まりました。ドイツ側に認められたのは、引き渡す潜水艦と軍用機の数を少なくすることだけでした。これはドイツの所有する数が、休戦協定に書かれた台数より少なかったためです。
午前5時10分から出席者の署名が行われ、休戦は午前11時に発効されました。
出典 ウィキペディア
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