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亀仙人2アメリカ参戦 その2
ウィルソン大統領に参戦を決意させざるを得なくした、アメリカ金融資本主義について書いて見ます。
アイキャッチ画像の写真は、1917年4月2日、ドイツへの宣戦布告を議会に要請するウィルソン大統領です。
J.Pモルガン商会の生い立ち
ヨーロッパのロスチャイルド家に並び、世界の経済に大きな影響力を持つモルガン家について、簡単に書いて見ます。
モルガン家の初めは、1626年マイルス・モルガンがイギリスのウェールズからアメリカのマサチューセッツに移住して、農業を始めます。マイルスは農業で成功して、大地主となります。
1817年には子孫のジョセフ・モルガンが代々受け継いできた土地を売却して、コネチカット州でコーヒー店やホテル、不動産業、保険業などの事業を展開、事業は息子のジューニアス・モルガンが受け継ぎます。
1836年からジューニアス・モルガンは、アメリカ特産の綿花貿易を始め、1854年事業が軌道に乗るとロンドンで活躍中のアメリカ人銀行家、ジョージ・ピーボディのパートナーとなりピーボディ・モルガン商会を設立し、一家はロンドンに移住します。
ピーボディ・モルガン商会は普仏戦争ではフランスに、南北戦争では北軍に資金提供をして、大きく事業を伸ばしました。
1864年、生涯独身で後継者のいなかったピーボディから事業を譲り受けJ.Sモルガン商会と改名、この銀行がモルガン財閥の基礎となりました。
モルガン財閥の創始者、ジョン・ピアポンド・モルガン
ジョン・ピアポント・モルガン
J. P. Morgan
出典ウィキペディア
ジューニアスの息子ジョン・モルガン(1837年4月14日~1913年9月31日)はロンドンで父の経営する銀行を手伝い、1860年ニューヨークにJ.Pモルガン商会を設立し、父の会社J.Sモルガン商会のアメリカ代理店として事業を開始しました。
ジョン・ピアポント・モルガンは何事にも慎重な父親と違い、せっかちで独断的な反面、彼のひらめきと、独断即決の姿勢は大きな利益をもたらし、モルガン家をアメリカの5大財閥の1つとなるまでに成長させました。
1861年から始まった南北戦争で、ジョン・モルガンは旧式の銃を3.5ドルで買い集め、銃身内部に螺旋状の溝をつけ、ライフル銃に変化させて、新式の長距離射撃銃として22ドルで北軍に売り、大儲けします。
この時の加工賃が銃1丁当たり75セントであることから、後にアメリカ合衆国に多大な損害を与えたとして、社会的批判を浴びることになりました。(ホール・カービン事件)
ジョン・モルガンが、改造の元としたホールカービン銃
出典ウィキペディア
最大の特徴はレバーを操作すると銃身の後部が持ち上がり、ここから火薬と弾丸を装丁することが出来ることです。
出典YouTube
南北戦争では、ジョン・モルガンはイギリスのJ.Sモルガン商会と共に北軍に資金提供して、北軍が買ったことにより、大きな見返りを受けることが出来ました。
1870年の普仏戦争では、J.Sモルガン商会はフランスが資金調達のため発行した、1千万ポンドの公債を額面の85%で引き受けましたが、フランスが負けたことにより最大額面の55%まで下落してしまい、この買い支えのため、一時は破産直前まで追い込まれてしまいます。
しかし、1973年フランス政府が額面通り償還することを決めたため、150万ポンドの大きな利益を上げ、国際公債市場での政府資金調達銀行の仲間入りをしました。
J.Pモルガンと鉄道
1810年代アメリカの物資輸送は、川や運河の水路が使用され、水運が利用できない場所や、川が凍結する冬などには馬車を使用していました。
このため1820年代から、鉄道の建設が始まり1862年7月1日リンカーン大統領が太平洋鉄道法に署名して大陸横断鉄道の建設が始まるころには、ピークを迎えました。
このころJ.Pモルガン商会は、イギリスのJ.Sモルガン商会を通じてレールや蒸気機関車の輸入をしていました。
南北戦争後、鉄道の建設ラッシュが終わると、経営が行き詰まる鉄道会社が出てきます。
J.Pモルガンはそうした鉄道の一つ、アルバニー・アンド・サスケハナ鉄道に資本を注入して会社を立て直すとともに、取締役をを送り経営権を握ります。
その後同じように資本の投入や株式の買い付けなどで、多くの鉄道会社の財務体質を改め、信頼できるものに経営を任せて鉄道会社を再建させ、地域の鉄道を独占させ、多くの利益を呼ぶこの方法は「モルガニゼーション」と呼ばれます。
これを実行した代表的な人物が、ノーザン・パシフィック鉄道(NP)やニューヨーク・ニューヘイブン・アンド・ハートフォード鉄道(NH)の社長を務めたチャールズ・サンガー・メレンです。
この様にして、アメリカ東海岸から中西部にかけて鉄道の合同企業体(トラスト)ノーザン・セキュリティーズを設立しました。
中央銀行の代わりとして
先の鉄道事業にも関わりますが、鉄道への過剰投資により経営が成り立たなくなった会社が出てきます。
1893年2月23日、フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道が破産します。経済状況が悪化すると予想した大衆は、銀行に殺到して現金を引き出す取り付け騒ぎが起こりました。これにより多くの銀行が破綻してノーザン・パシフィック鉄道、ユニオン・パシフィック鉄道、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道が倒産し、恐慌が起こります。
これを見たヨーロッパの資本家たちは、アメリカの有価証券を一斉に金に交換しました。
この恐慌で1879年には1億5千万ドルもあったアメリカの金保有高は4千万ドルに落ち込んでしまいました。この頃の紙幣の発行は、金の保有高によって決められていため、新たに紙幣を発行することが出来なくなりました。
これを見たジョン・モルガンは、ロスチャイルド家と合同でアメリカ政府に約6500万ドルの金貨払い債券を発行してもらい、350万オンスの金を集めて政府に売り渡しました。これによって最悪の事態は免れることが出来ました。
政府から104.5ドルで引き受けた債権を、112.25ドルで売り切ることで、モルガンも大きな利益を上げました。
モルガンの経済界における役割は、連邦政府より大きいと認識されており、この戯画では小さなアンクル・サム(アメリカを擬人化した人物)と大きなモルガン、即ちアメリカ全体より大きなモルガンとして描かれている。
出典ウィキペディア
1907年の大恐慌の時には、多くの銀行や信託会社が取り付けに対して手持ちの現金残高を残すため、短期貸付を抑制しました。
1907年10月24日、株が暴落したため、持ち株の売りが増大して、短期貸付が受けられない証券会社は、株券の払い戻しが出来なくなりました。このため正午過ぎには、ニューヨーク証券取引所は閉鎖の危機に陥ります。
この時ジョン・モルガンはニューヨークにある銀行の頭取たちに、至急モルガンの事務所に集まるように要請しました。2時過ぎに事務所に集まった頭取たちを前に、証券取引所が閉鎖の危機にあることを訴え、2時16分には2360万ドルの資金を用意させて、株の払い戻しに応じさせました。
これにより、証券取引所は閉鎖は回避されました。
この2つの恐慌により、アメリカにも中央銀行の必要が認識され、1913年連邦準備法が制定され、今日の邦準備制度理事会(Federal Reserve Board, FRB)が国の主要都市に散在する連邦準備銀行(Federal Reserve Bank, FRB)を統括する、連邦準備制度( Federal Reserve System, FRS)が出来ます。
USスチール
1901年、ジョンモルガンは、65才になって事業から引退を考えていた鉄鋼王アンドリュー・カーネギーから、保有していた製鉄会社を4億8千万ドルで買い取り、そのほか数社の鉄鋼会社と合併させUSスチールを設立しました。
設立した当時の鉄鋼生産高は、全米の3分の2に達します。
新規産業への参入
モルガンは、蓄音器、白熱電球、活動写真などを発明したトーマス・エジソンに巨額の事業用資金を投資して、Edison General Electric Company(エジソン・ゼネラル・エレクトリック)を設立しました。
この会社はゼネラル・エレクトリック(GE)となり、世界最大の総合電機メーカーとなります。
また電話機を発明したアレクサンダー・グラハム・ベルのベル電話会社に投資して通信事業に進出しました。初めのころ、ベルの発明した電話機は、多くの人にただの玩具とみられ、事業に投資する人はいませんでした。
この会社は、後に通信大手のAT&T( The American Telephone & Telegraph Company ) に発展します。
海運業への進出
1902年、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは大西洋の海運の統合をめざし、モンテズン・ラインやイギリスの海運会社を買収、国際海運商事(International Mercantile Marine Co.、IMM)を設立した。傘下の子会社には、タイタニック号を所有していたホワイト・スター・ラインがあります。
ジョン・ピアポント・モルガンは、第1次世界大戦が始まる前年の191年3月31日、旅先のローマで就寝中に他界しました。
後を継いだのは長男のJP・モルガン・ジュニアでした。
JPモルガンジュニア(1917年10月)
彼はやり手ながら変人で逸話の多い父と違い、一回り小さい人物とみられています。しかし、彼は組織運営に長け、モルガン商会の多彩な才能を最大限に発揮させて、多くの人材を輩出することになります。
第1次世界大戦では、各国に融資して戦後のパリ会談では、アメリカの代表団はモルガンの社員ばかりだと、言われました。
その後ドイツからの賠償金を管理することで、参戦国の債券の償還や戦後復興を進め、金融を通じて世界に大きく影響を及ぼすようになり、アメリカ合衆国を世界唯一の大国に押し上げることになりました。
第1次世界大戦
アメリカが第1次世界大戦で、協商国側に協力して参戦した原因は、ドイツの無制限潜水艦作戦によりアメリカ人に犠牲者が出たことが挙げられます。
しかし、参戦を決めた当時アメリカは戦争に参加しなければ、国内に大きな経済的混乱が起きる状況になっていました。
ではなぜアメリカ国内がこのような状況になってしまったのか、書いて見ます。
第1次世界大戦が勃発した時ウィルソン大統領は
「人間の精神に苦悩を与える戦争に、合衆国は名実と共に中立の立場をとらなければならない」
との教書を上院に提出して、中立を宣言しました。
下のグラフは、第1次世界大戦前後のアメリカの株価を表したものです。(黄色の部分が第1次世界大戦)
1907年の大恐慌の後、いったん持ち直してもアメリカの景気は、少しづつ落ちていきました。
第1次世界大戦直前ヨーロッパ各国は、開戦に備えて手持ちの債権を一斉に売りに出しました。このためヨーロッパ各国で株式が暴落して、各国の株式取引所が封鎖になります。
アメリカも同様で1914年7月31日の寄り付きから、欧州からの換金売りで暴落したためニューヨーク株式市場は閉鎖されました。
当時は第1次世界大戦で海外からの投資資金が途絶え、さらに大西洋を挟んだ交易が減少して、国内景気が悪化すると見られていたためです。
株式市場は12月14日に再開されましたが、閉鎖開始から20%も下落していました。
S&P500 1909年~1923年の株価チャート(第一次世界大戦前後)
大戦開始の直線部分が株式市場が閉鎖されていた時期。1917年アメリカ参戦後、戦費調達のための自由国債(発行上限のない国債)発行により、株価が落ちました。
出典 MONEY VOICE
1814年8月、第1次世界大戦が勃発するとイギリスは、スコットランド北部とノルウェー沿岸までとドーバー海峡に封鎖線を確立して、ドイツに向かう商船の貨物の臨検と拿捕を始めました。
出典 BBC制作 ザ・グレートウォー 第6回より
1909年世界の主要な海軍国は、戦時における交戦国と中立国の海上権を決めるロンドン宣言を起草し、これに調印しました。
しかし、批准の交換は行われず、最大の海事国であるイギリスの上院は、海軍の自由を奪うとしてこれを拒否しました。
ロンドン宣言(1909年)とは
1907年の第2回ハーグ平和会議でまとまらなかった船舶の海上捕獲に関する中立法の内容を確定するため,イギリスの提案によって 08年 12月からロンドンで開催された 10ヵ国主要海運国会議で,翌年2月 26日採択された宣言。その内容は,封鎖,戦時禁制品,軍事的援助,中立船の破壊など,海上中立法の主要な部分を含んでいる。イギリスは国内の反対のために批准せず,他国もこれにならったが,国際慣習の制度化の試みとして,国際法史上では高く評価されている。
イギリスは1914年8月第1次世界大戦が始まると、アメリカ合衆国の対中央同盟国貿易を大部分において禁止する包括的な禁制品リストを作成し、海上封鎖を行いました。
1915年1月には、ドイツ向けの食料品を含むほとんどすべての物品を禁制品に指定して、アメリカの船舶がドイツ向けに輸送するとイギリスの軍艦によって没収されることになりました。
また、ドイツだけでなく北海に面した中立国デンマーク、ノルウェー、スウェーデン向けの貨物も、陸揚げ後ドイツに送る恐れがあるとして、これらの国に送る品物も同様な処置を受けることになりました。
これに対してアメリカを始めドイツや中立国から、公海の航行と通商を制限することに対して抗議が出ましたが、イギリスは一切取り上げませんでした。
イギリスはドイツのみだけではなく、北海に面した国々の交易を封鎖していながら、アメリカとの交易は活発に行っていました。
イギリスの封鎖による食糧難に陥ったドイツは、報復のためイギリス近海で潜水艦による通商破壊活動を始めることにしました。
潜水艦からは航行する船が敵か味方か、軍艦か民間の船か見分けをつけにくいため、下の図の交戦水域を航行する船すべてに対して攻撃をしかけました。
これが、無制限潜水艦作戦です。
これに対してウィルソン米大統領は、アメリカ人の生命と財産が損なわれるとして、4回にわたり抗議をしました。
これに対してドイツ外務省はイギリスが食料の無害輸送を認めるならば、無制限潜水艦作戦を中止すると誓約しました。
1915年2月からのドイツ潜水艦によるイギリス近海の交戦水域。
出典 Wikipedia
しかし、イギリスは海上封鎖を解かなかったため、1915年2月18日ドイツは無制限潜水艦作戦を開始します。
商船に対する無差別攻撃は、輸送船以外の船にも被害が及びました。それがアメリカ参戦のきっかけを作ったと言われる、1915年5月7日のルシタニア号事件です。
ルシタニア号事件の解説はこちらにあります。 ↓
ルシタニア号事件後、ウィルソン大統領は3回にわたり、ドイツに厳重な抗議を行いました。
1916年5月1日、駐米ドイツ大使ベルンストロフはランシング国務長官に対して、無制限潜水艦作戦を放棄したことを告げ
「もし定期船が逃亡もしくは抵抗を試みないならば、警告を与えられず且つ非戦闘員の生命の安全が図られることなく、我々の潜水艦によって沈められることはないだろう」
と通告し、被害にあったアメリカ人に対して賠償金の支払いを確約しました。
しかし、この誓約の代わりにドイツは、アメリカ政府がドイツに対するイギリスの封鎖を修正して食料品を禁制品から外すよう、イギリスに干渉することを求めました。
イギリスの海上封鎖により、国内が深刻な食糧危機になっていたドイツにとっては、無理からぬ注文でした。
しかし、合衆国はこの条件を履行しませんでした。
合衆国がドイツに対して厳重な抗議を行なったのに比べて、海上封鎖を続けるイギリスの海上封鎖に対しては、これを禁止する有効な処置をとらず、一方的に物資の輸送を続けたことは、中立の立場を放棄したと見られても仕方ないでしょう。
ドイツの食糧危機に関してはこちらをご覧ください ↓
このためドイツ皇帝ヴェルヘルム2世は、アメリカの参戦を招くことを承知で、1917年2月1日、無条件潜水艦作戦発動の建議書に署名しました。
潜水貨物船(商用潜水艇)
イギリスの海上封鎖に対抗するため、ドイツは通商を目的として武装していない民間の潜水可能な貨物艇ドイッチュラントとブレーメンの2隻を開発しました。
アメリカのニューロンドンで積み降ろし中の「ドイッチュラント」(Deutschland)、1916年
出典ウィキペディア
ドイッチュラントはドイツからは郵便物・薬品・化学染料などを積み、帰りにはゴム・ニッケル・錫を積んで1916年6月と10月に運用されました。
アメリカで歓迎を受ける、ドイッチェラントの艦長ケーニッヒ(前列右側)
イギリスの海上封鎖を潜り抜けて活躍するドイッチェラントに対して、ドイツ系やイギリスと対立していたアイルランド系のアメリカ人たちは喝采を浴びせました。
イギリスは潜水艦ドイッチェラントによる貨物輸送に対して抗議しましたが、ウィルソン大統領はこれは非武装の商用貨物艇であるとして認めました。
2番艦のブレーメンは、処女航海に出たまま、行方不明になっています。
アメリカ参戦後のイッチェラントは甲板に大砲を積み、潜水できる砲艦として43隻を撃沈する活躍をしました。艦は第1次世界大戦を生き延び、1925年、イギリスにて解体されてしまいました。
なぜ、アメリカの中立は崩れたのか
第1次世界大戦が始まった直後の1914年8月19日ウィルソン大統領は
「人間の精神に苦悩を与える戦争に合衆国は名実ともに中立の立場をとらなければならない」
という教書を上院に送り、中立の立場をとることを、宣言しました。
ヨーロッパが大戦に突入した時、パリのロスチャイルド商会はモルガン商会のパリ事務所に、フランスが軍需品の買い付けのため1億ドルの起債を行うことを提案してきました。
アメリカのモルガン商会は直ちに国務省に対して、フランス政府に対して貸し付けを行ってもよいかどうか、尋ねました。
1914年8月15日、ブライアン国務長官諮問を受けたウィルソン大統領は、モルガン商会に対して
「アメリカの銀行家による交戦中のいかなる外国に対する貸し付けも、中立の真の精神と矛盾している」
というのが本政府の判定であると、回答しました。
この時点でアメリカは、軍事面だけではなく、金融上においても厳正中立の立場をとることになりました。
1914年10月、ヨーロッパ向けの農産物の輸出が滞ったことにより困窮したアメリカの農民と、食糧不足に悩む協商国との間で、銀行による”信用供与(銀行引受手形)”による取引が出来ないかとの問い合わせが、国務省顧問のロバート・ランシング(のちの国務長官)に届きました。
ロバート・ランシングはウィルソン大統領に掛け合って、1914年10月23日この取引を認めさせました。これにより、公債の発行による戦費の調達はできませんが、銀行の手形で購入した商品の代金を後払いすることは、認められることになりました。
ロバート・ランシング
出典ウィキペディア
この制度はイギリス・フランスの協商国側だけでなく、中央同盟国のドイツ・オーストリアにも適用されますが、イギリスの海上封鎖により、ドイツ向けの輸出が出来ないため、ほぼ協商国側だけに利用されました。
戦争の長期化が確定的になるにつれ、協商国がアメリカからの軍需品を競って入手しようとしたため価格が高騰し始めました。このため英国大蔵省は、不当な戦時利益行為を阻止するためアメリカに調査団を派遣しました。
この時、かねてからイギリスと関係の深いモルガン商会が、大戦中の輸出商品を一手に引き受けることにより、手数料として3000万ドルを稼ぎ出しました。
発注する側としては、商品ごとにそれぞれの企業と価格交渉するより、アメリカ中の企業にネットワークを持つモルガン商会を通じ一括して注文できることで、調達物資の価格を下げることが出来るばかりか、苦情や非難の矢面にモルガン商会を立てられるという利点もありました。
モルガン商会は社内に資材部を設け、責任者としてダイアモンド・マッチ社の社長エドワード・ステティニアスを据えました。
彼は1日当たり1千万ドルもの物資をかき集め、ヨーロッパに向けて船積みする一方、工場、会社に対して大量生産を促しました。
これにより大戦前の1913年における輸出総額は23.48億ドルだったのが、アメリカ参戦の前年1916年には42.70億ドルまで伸びました。
工業製品だけではなく、1914年には29.20憶ドルだった穀物の取引高は1917年に56.66億ドルに達しています。
この為、1917の年には国内の失業者は0となり、国民の総所得額も1914年の323億ドルから、1916年には492億ドルの増加して、国民全体が好景気に見舞われました。
ステティニアスの部下たちは、SOS(Slaves of Stettinius =ステティニアスの奴隷)と呼ばれ、早朝から深夜までこき使われました。
開戦前には短期間で終わると予想されていた戦争が長引くにつれ、アメリカからの輸入品は、農産物だけでなく武器や弾薬と言った軍需品までにも広がり、1915年夏までにはイギリスは資金不足に陥り、手形の決済が困難になってきます。
この為新しく国務長官となったランシングは、交戦中の政府の国債を『合衆国』で発行させる必要をウィルソン大統領に説き、1915年8月26日、大統領はイギリスのための起債に反対しないという約束を取り付けました。
モルガン商会は政府による承認と支持の下で、レディング卿を長とする英仏金融使節団との交渉を受け、1915年10月15日、5億ドルの英仏公債の発行を行いました。その後もモルガン商会は融資を続け、1917年4月までに協商国側諸国に貸し付けられた公債の総額は、22憶6340万ドルに上りました。
この為、英国政府はモルガンの果たした役割に賛辞を惜しまず、ロンドンにあるモルガン・グレンフェル商会の壁には
「英国政府の利益を守るためにその総力を挙げて努力してくれた商会の孫序を得られたのは、幸いであった」
と書かれた1917年のロイド・ジョージからの書簡が掲げられています。
同じころドイツに対して貸し付けられた金額は、4500万ドルでした。
この為アメリカは開戦直後に中立を宣言したにもかかわらず、一方的に枢軸国側に資金や物資を援助し続けました。
そのためドイツは、アメリカ参戦の可能性があるにもかかわらず、無制限潜水艦作戦を発動してアメリカからの援助を断つことにしたのも、無理のないことだと思います。
ロシア革命
1917年2月23日の国際婦人デーの日に、ペトログラードで女性労働者が行った食糧不足を訴える「パンよこせ」デモが行われました。
このデモはロシア全土に広がり、デモを鎮圧しようとするロシア政府と対立し、3月3日には前日に退位を決断したニコライ2世の後を継ぐ弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公は、皇位継承を拒否してロマノフ王朝が崩壊し、臨時政府が設立されました(二月革命)。
ロシア革命についてはこちらをご覧ください ↓
3月6日、臨時政府は同盟国との協定を維持して戦争継続する声明を発表しました。
その一方、ペトログラート・ソヴィエトは3月14日に
「われわれは、自己の支配階級の侵略政策にすべての手段をもって対抗するであろう。そしてわれわれは、ヨーロッパの諸国民に、平和のための断乎たる協同行動を呼びかける」
との声明を発表し、戦争からの離脱を示唆します。
1917年初めの西部戦線では、フランス軍は長引く戦争で兵力の補充が底をつき、戦線を維持するのが精一杯の状態でした。
イギリス軍もイギリス連邦の国々からの応援でどうにか戦っている状態でした。
もしここでロシアが戦線から離脱してしまうと、東部戦線にいる約100万のドイツ軍が西部戦線に参加することで、一挙に形勢が逆転し枢軸国が負けていまう可能性が出てきました。
二月革命時の3月5日、駐英大使のウォルター・H・ペイジは、
「ヨーロッパの情勢はアメリカの金融業及び産業界の前途にとって、極めて危険な影響を及ぼす恐れがあり、近づきつつある恐慌を回避する唯一の手段はドイツとの開戦である」
との電報を、ランシング国務長官に送っています。
モルガン商会をはじめとするニューヨークの大きな金融機関が教師陽刻に対しての援助を望み、アメリカ政府がそれを許可したことにより、協商国側への軍需品の取引を中心にアメリカの産業が発展して、繁栄に導くことになりました。
もし枢軸国側が敗戦すると、軍需産業を主体に発展してきたアメリカの経済期は破綻して、大恐慌に陥ってしまいます。
これを防ぐため、アメリカ政府はドイツに対して宣戦布告をせざるを得なくなってしまったのです。
1920年代から1930年かけて、アメリカの産業界が政府をだまして参戦に向かわせたのではないか、との疑惑が深まりました。
これを受けて上院議員のジェラルド・ナイを委員長とする、「軍需産業調査特別委員会」(Special Committee on Investigation of the Munitions Industry 通称ナイ委員会)が調査に当たりました。委員会はアメリカ合衆国の第一次世界大への関与について財政金融面から調査しました。
軍需産業調査特別委員長 ジェラルド・ナイ上院議員
出典ウィキペディア
ナイ委員会の調査結果は、戦時中に銀行界と軍需産業が利益を守るため、アメリカの第1次世界大戦参戦をもたらしたものだということでした。
1935年、委員会の結果を受けて、アメリカ政府は中立法を制定して、戦争中または内乱中の国に対して武器や軍需物資のを禁じることにしました。
ロシア革命はもうアメリカ参戦に対して、もう一つの利点を加えました。
ロマノフ王朝が崩壊したことにより、邪悪な独裁政権に対して、自由と民主主義を守る戦いという、大義名分のが生まれました。
1917年4月6日、アメリカはドイツに宣戦布告をして、第1次世界大戦に参加します。ただ連合国の一員としての参加ではなく、枢軸国との戦いに協力するというかたちでした。
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