なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

映画 「戦場」1964年のベトナム戦争の様子を描いた映画です。

time 2024/10/09

映画 「戦場」1964年のベトナム戦争の様子を描いた映画です。

1964年、アメリカ軍軍事顧問団の前哨基地の指揮官アサ・バーカー少佐は、近くにあるムックワ村の再占領を命じられました。マクワ村は第1次インドシナ戦争時代フランス軍の陣地がありましたが、1953年にフランス軍が撤退した後、無人の村となっていました。

ところが村を再占領しようとやってきた南ベトナム軍に対して、解放国民戦線(ベトコン)は、大部隊を送って襲撃してきました。

 

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亀仙人2

映画 「戦場」1978年アメリカ合衆国

監督  テッド・ポスト
脚本  ウェンデル・メイズ
原作  ダニエル・フォード
製作総指揮  マイケル・レオーネ
音楽  ディック・ハリガン
撮影  ハリー・ストラドリング・ジュニア

出演者

バーカー少佐      バート・ランカスター
コーシー伍長      クレイグ・ワッソン
オリベッティ大尉    マーク・シンガー
ハミルトン少尉     ジョー・アンガ―
オレオノウスキー軍曹  ジョナサン・ゴールドスミス
ハーニッツ少将    ドルフ・スウェット
トフィー通信手     ヒリー・ヒックス
カウボーイ伍長    エヴァン・C・キム
リンカーン伍長    デニス・ハワード
ミン大佐        クライド・クサツ

解説

この映画はダニエル・フォードの1967年の小説、『ムクワ事件』を元にウェンデル・メイズが脚本を書き、1978年に映画化されました。

ダニエル・フォードは1974年6月、雑誌「The Nation 」の記者として、ベトナムに派遣されました。

現地では12人のグリーン・ヘレー(アメリカ軍の特殊部隊)からなる「Aチーム」に加わり、タンホア村に行きました。タンホア村ではフランス軍が廃棄した陣地と古い滑走路、そして3.4個のフランス兵の墓石だけでした。

近いうちに行われる総攻撃の犠牲にならぬよう、村人達を避難させるのがチームの任務でした。

映画に出てくる「カウボーイ」と呼ばれる通訳のへトナム兵は、実際にいた人物をモデルにしていました。

アメリカに帰国したフォードはこのことを記事にしましたが、「トンキン湾事件」が起き、民族解放戦線(ベトコン)と南ベトナム軍との戦いが激しくなったため、注目されませんでした。そのためこの体験を元に1967年、小説「ムクワ事件」を発行しましたが、全く売れませんでした。

1970年、脚本家のウェンデル・メイズが映画化権を買い、ムクワにあったフランス人の墓にちなんで「Go Tell the Spartans(スパルタ人に伝えよ)」の脚本を書き上げました。

この題名は古代のギリシャ=ペルシャ戦争において、300人のスパルタ人兵士が20万人のペルシャ軍団と3日間にわたって戦って敗れた『テルモピュレの戦い」から来ています。

これはマクワで戦った30名のアメリカ人、南ベトナム軍兵士、南ベトナム民兵の混成部隊がが、1000名の解放民族戦線(ベトコン)と3日間に渡り戦い全滅した事に重ね合わせられます。

英語で書かれた映画の題名は、ギリシャの叙情詩人シモニデスによるスパルタ人の墓に書かれた碑文が元になっています。

Ὦ ξεῖν’、ἀγγέλλειν Λακεδαιμονίοις ὅτι τῇδε
κείμεθα、τοῖς κείνων ῥήμασι πειθόμενοι。

見知らぬ人よ、私たちがここで横たわっているのを見つけたら、
スパルタ人に私たちが彼らの命令に従ったと伝えてください。

映画は地味な内容の為、予算が取れず1978年になってやっと映画となりました。

映画に出てくるマクワ村はカンボジアとの国境に接した位置にあり、ここからメコンデルタに向かって一本の道路が延びています。マクワ村の周囲は湿地帯になっており、毎年雨期の時期には川が氾濫して、辺り一面水浸しになってしまいます。

現在この地区は自然公園タンラップ水上村となって、観光船を使ってのジャングルクルーズができるようになっています。

アイキャッチ画像はこの水上村の風景です。青色のホテルの下に見える白い点線のような物は、訪れた人たちを乗せる観光船です。

マクワ村には、南ベトナムのメコンデルタからカンボジア国境まで通じる道路が、一本通じています。

ホーチミンルートで北ベトナムから送られてきた兵士や物資はマクワ村を通り南ベトナムに入ります。また南ベトナムで戦ったベトミンの兵士もここを通ってカンボジア国内に逃げ込むことができます。カンボジアは社会主義国でアメリカと国交断絶しているため、南ベトナム軍とアメリカ軍はカンボジアには入れません。

マクワ村があるキエン・トゥオン市の位置

1963年アメリカ軍A-414特殊部隊チームがマクワ奪還のための作戦を開始しました。1965年シービー チーム 0503 は、この前哨基地を B-41 チーム用の B キャンプにアップグレードしました。1966 年、このキャンプは第 IV 軍団の機動打撃部隊 (マイク部隊) の本拠地となりました。MACV – SOG はここからカンボジアへの偵察任務を遂行し、1970 年に南ベトナム軍がこの基地を占領しました。

引用 Wikipedia

あらすじ

1964年、南ベトナムのペナン(架空の町)にある、アメリカの軍事援助顧問団第7班の前哨基地の指揮官エイサ・バーカー少佐のもとに近くのマクワ村を調査するように命令が来ました。パーカー少佐は「マクワ村の人口は200人ほどであり、そのほとんどが老人と子どもであり、戦略的な価値はない。」という適当な報告書を作り上げて送りました。

さらに、4人の補充兵がやってきました。

最初は大学出のハミルトン少尉は、昇進が遅れているためベトナムで手柄を立てようとやってきました。しかし、バーカー少佐の居る部隊は大きな戦いもなく、その扱いに困ってしまいます。

2番目のオレオノウスキー軍曹は、朝鮮戦争でバーカー少佐と一緒に戦った仲でした。オレオノスキーは南ベトナムのデルタ地帯で戦い、何度も部隊が全滅した経験をしていました。バーカー少佐の所では、殺し合う戦闘が少ないことに喜んでいました。

次は名前だけは立派なエイブラハム・リンカーン伍長です。彼はサイゴンでは薬室勤務でしたが、辺鄙な場所に移動させられ、やる気を失っています。

4番目は爆破の腕を買われて、軍に招集されたコーシー伍長です。バーガー少佐は招集兵にもかかわらず、服務期間も延び、危険なベトナムにやってきた理由をコーシーに尋ねましたが、ただ自分の意思で来たとだけ答えました。

やる気のある指揮官、歴戦の勇士、衛生兵、爆破の専門家と、どこの部隊でも欲しがる4人がこの平和な部隊に配属されたのは、司令部が何か企んで居る証拠です。

翌日、司令官のハーニッツ少将が直接やってきて、マクワには1953年フランス軍が放棄して以来、誰も住んでいないはずだと言いました。フランス軍がマクワを放棄したせいで海への道が閉ざされ、ペナンが陥落して2000人の戦死者が出ました。そうならないためにも、マクワを奪還して、陣地を構築するよう命じました。

バーガー少佐は新しく配属された4人に加えて、ベトナム人の通訳カウボーイ伍長を中心としたベトナム兵と現地の民兵で30人の部隊を編成して、マクワに送りました。ベトナム兵のカウボーイ伍長は、英語、フランス語、中国語に堪能であり、戦闘経験も豊富なことからベトナム人に信頼されていました。ただ見知らぬベトナム人を見ると老若男女問わず、敵として捕らえて、拷問にかけたり殺してしまう癖があります。古参兵のオレオノウスキーは、今は無人でも自分らが行くと必ず敵のゲリラ兵がやってくると言って、部隊の強化を訴えましたが無視されてしまいました。

マクワに行く途中, 道路がバリケードで塞がれていました。コーシーが調べるとバリケードには爆薬が仕掛けられており、バリケードを取り除こうとすると、離れたところから爆発できるように電線が取り付けられていました。

カウボーイは電線をたどって、爆破させて逃げたゲリラ兵を捕まえました。隊長のハミルトンはカウボーイに、捕虜の尋問を命じましたが、何も答えないためカウボーイは持っている山刀で捕虜の首を切り落としてしまいました。怒ったハミルトンがカウボーイに詰め寄ろうとすると、古参兵のオレオノウスキーが割って入り「これが奴らの戦いなのだ。」と言ってなだめました。

ペナンの本部で道路にバケードが築かれていていたとの知らせを受けたバーガー少佐は、部隊内部の情報が筒抜けになっているのを心配しました。

このとき一瞬ですが、バーガー少佐の居る宿舎の壁に「ペナン、バプテスト教会、伝導所」と書かれた場面が現れます。

何でこのシーンを入れたのか、気になります。

 

無事にマクワに着いた一行は、誰もいないのを確かめた後、ヘリコプターで資材を運んでもらい、陣地の構築にかかりました。

陣地の横には、第1次インドシナ戦争の時に死んだ大勢のフランス兵を弔った大きな墓があり、そこには古代ギリシャ時代に起きたテルモピューレの戦いになぞられた看板がつけられていました。この看板にはこう書かれていました。

“旅人よ、我々の死体を見たら、スパルタ軍に言え、命令は守ったと”

この言葉が英語の題名「Go Tell the Spartans( スパルタ軍に伝えよ)」の元になっています。

テルモピューレの戦いについては、下のYouTubekの動画で説明されています。

 

コーシーとカウボーイは数人のベトナム兵を連れて陣地の周囲を偵察中、川で数人のベトナム人を見つけました。彼らは老人と女性と子ども達で、魚を捕ったり、食べられる草を摘んでいるところでした。「あいつらは敵だ」と言っているカウボーイ言うことを聞かず、コーシーは彼らを陣地に連れ帰りました。

オレオノスキーは現地人を連れて帰ったことに怒り「米を配って追い返せ」と主張しましたが、隊長のハミルトンは彼らを難民として保護することにしました。彼らの仲間の内一人の娘はコーシーに好意を感じ、彼につきまとうことになりました。

コーシーは丘の墓場で、敵の斥候らしい人物に出会い戻って報告しました。

その晩、陣地は迫撃砲の攻撃を受けました。警戒のため夜間パトロールに出ていたコーシーは、迫撃砲を撃っていた敵を見つけ攻撃していた4人の敵を殺しました。その中に若い女性がいたことにコーシーはショックを受けました。

マクワ村では、まだ戦いが続いていました。今度は偵察に出たオレオノウスキーから、「敵に包囲されてしまい急いで帰るので、川を渡るとき背後の敵に対して援護射撃を頼む」、との連絡が入りました。このとき隊長のハミルトン少尉が、「どうやればいいのだ。」と言って、戸惑いの表情を見せます。すかさずコーシーはカウボーイを呼んで、迎撃の準備に入りました。このときハミルトンが、リーダーシップをとられたことで悔しそうな表情を見せます。

味方の援護射撃によって、オレオノウスキーの部隊は陣地にたどり着きました。しかし、対岸にベトナム民兵の一人が倒れているのが見つかりました。それを見た隊長のハミルトンは、倒れている兵士を助けに行こうとしました。

古参兵のオレオノウスキーやコーシーが

「今、出て行けばハチの巣にされるだけです。」

「仲間のベトナム兵が行かないのに、あんたが行ってどうする。」

「彼はすでに死んでます。」

と必死になって止めましたが、

「部下を見捨てるわけにはいかない」

と二人が止めるのも聞かず、行ってしまいました。そして案の定、死んでしまいます。

知らせを受けたハーニッツ少将はペナンに飛び、バーカー少佐にマクワ村に増援部隊を送るように命じました。しかしアメリカ軍事顧問団は南ベトナム兵士の訓練と助言をするための組織であり、戦うためには、この地域を管理している南ベトナム軍のミン大佐と交渉して、歩兵部隊を派遣してもらう必要がありました。

その頃マクワ村では2人の葬儀が行われましたが、新しく隊長となったオレオノウスキー軍曹は姿を見せませんでした。

コーシーが呼びに行くと、オレオノウスキーは酒を飲んで酔っていました。

「あのバカ少尉が。たかがベトナム人のために死んでしまうとは。これ以上あのバカヤローと関わり合うのはごめんだ。出て行ってくれ。」

と言われ、追い出されてしまいました。

コーシーが宿舎を出ると、オレオノウスキーは拳銃で自殺してしまいました。

このあたりの機微は、英語字幕版より日本語吹き替えの方が分かりやすいです。

マクワ村の守備隊の隊長としてバーカーは副官のオリベッティ大尉 を送り、自身は歩兵部隊を派遣してもらうため、ミン大佐と交渉しました。しかし、サイゴン市内でクーデターが起こる気配があるため、歩兵部隊の派遣は断られてしまいました。この映画の舞台となった1964年には、1月、9月、12月、と1年で3回もクーデターが起こり、将軍達はクーデターに備えてサイゴン市内に軍隊を駐留していました。それでもバーカーは交渉を続け、砲弾1500発と引き換えに、マクワ村を砲撃してもらえることになりました。

バーカー少佐がペナンの基地に戻るとマクワのオリベッティ隊長から、約200人のゲリラ部隊の襲撃を受けていて、ヘリコプターの援助を要請したが、クーデターを理由に応じてもらえないとの知らせが入りました。

バーカー少佐は直接ハーニッツ少将に掛け合い、ヘリコプターを派遣してもらいマクワ村は助かりました。

翌日、かき集めた増援部隊を連れてマクワに向かうバーカー少佐は、追いついてきたヘリコプターによって止められました。ヘリコプターは現在約1000名の解放民族戦線(ベトコン)の部隊がマクワに向かって進軍しているため、マクワにいるアメリカ人はこのヘリコプターに乗って至急撤退せよとのハーニッツ少将からの命令を伝えました。

命令を受けたバーカー少佐は、援軍をペナンに返し、ヘリコプターに乗ってマクワに向かいました。

マクワに着きヘリコプターにアメリカ人を乗せようとしましたが、コーシー伍長だけは一緒に戦ったベトナム人達を見捨てることはできないと、搭乗を拒否しました。

ヘリコプターが去った後、パーカー少佐が残っておりコーシー伍長に向かってこう言います。

「君のどこが変わっているか、分かったよ。その顔に書いてある”英雄”とな。」

二人はマクワから脱出するために、谷沿いの道を通って平野に抜ける計画を立てました。その間中ベトナム人の少女がコーシーにまとわりついていました。

夜間の撤退の準備にかかっているとき、突然銃声が聞こえました。行ってみると保護していたベトナムの避難民が銃や手榴弾などの武器を奪って逃げようとしたところを、カウボーイが見つけ、殺したところでした。幼い子どもまで殺されるのを見たコーシーがカウボーイに詰めかかると、カウボーイは子どもの服をめくりました。死んだ子どもの体には、弾帯が巻き付けられていました。しかし、死人の中にコーシーに好意を寄せていた少女の姿がありませんでした。バーカーはカウボーイに少女を探すように命令しました。しかし、少女は最後まで見つかりませんでした。

弾帯の画像

出典 ピクシブ百科事典

砲撃開始の時間にあわせて、バーカーはコーシーに命じて残った武器弾薬を爆破させ、一行はかねて打ち合わせしていた道を通り村から退却しました。

しばらく行くと共産ゲリラの待ち伏せに遭い、激しい戦闘となりました。この待ち伏せしていた兵士の中に探していたベトナム人の少女がいました。どうやら彼女が逃げ道を教えたみたいです。

この戦いの最中コーシーは射たれて気を失ってしまいます。近くで戦っていたベトナム人民兵の老人が、コーシーを近くの藪の中に隠しました。彼はかって射たれたとき、コーシーによって助けてもらったことがありました。

朝が来てコーシーが意識を取り戻し、周りを見ると部隊全員が殺されていて、コーシーだけが生き残ったのが分かりました。

映画の最後は第1次インドシナ戦争で死んだフランス兵達の墓場の中、受けた傷に耐えながら国に帰るため歩く続ける、コーシーの後ろ姿で終わります。

 

この映画の舞台となった1964年末のベトナムにいたアメリカ軍は

兵士2万3300人 戦死216名

でしたが1965年末には

兵士 18万4300人 戦死1928名

と急拡大しました。

 

1964年のベトナムの状況はこちらを見てください ↓

ベトナム戦争 その7 1964年 ジョンソン大統領とトンキン湾事件 

 

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