1929年にアメリカニューヨークで起きた株価大暴落から始まる世界恐慌で世界中が大不況に襲われていました。その中でソビエト連邦だけが指導者スターリンの下で農業国から工業国へ変えるため工業の近代化を目指しさらなる投資を続けていました。
1933年フリーのジャーナリスト、ギャレス・ジョーンズはその投資資金の出所を探るべくモスクワに乗り込みましたが、激しい報道規制が引かれていました。その規制をかいくぐり、ジョーンズが見たものは。
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亀仙人2映画 『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』
2019年 製作 ポーランド ウクライナ イギリス
監督
アグニェシュカ・ホランド
脚本
アンドレア・チャルーパ
製作
スタニスワフ・ジエジッチ
アンドレア・チャルーパ
クラウディア・シュミエハ
製作総指揮
ジェフ・フィールド
レア・テマーティ・ロード
出演者
ジェームズ・ノートン(ガレス・ジョーンズ)
ヴァネッサ・カービー(エイダ・ブルックス、ニューヨークタイムズ記者)
ピーター・サースガード(ウォルター・デュランティ、ニューヨークタイムズ モスクワ支局長)
音楽
アントニ・ワザルキェヴィチ
撮影
トマシュ・ナウミウク
編集
ミハル・チャルネツキ
※この映画の脚本を書いたアンドレア・チャルーパの母方の祖母はウクライナのドンバス出身で、祖父は同じくウクライナのリヴィウ出身です。彼女の母親は第2次世界大戦後、祖母と祖父がドイツを経由してアメリカに亡命した時に生まれています。
アンドレア・チャルーパ(Андреа Халупа)
1982年5月11生まれ
出典 Wikipedia
2020年、この映画の脚本を書いたことで、ガレス・ジョーンズ・メダルを受賞しています。
ガレス ジョーンズ メダル は、ウクライナのホロドモールの研究、高度な専門技術、歴史的真実の回復の促進に対する多大な貢献に対して、ジャーナリスト、出版社、科学者、後援者を称え、報いるために設立された非政府賞です。
出典 wikipedia
あらすじと解説
映画の背景
映画の初めに、ある作家が家畜を主人公として怪物と戦う物語を書いているところから始まります。
“荘園農場のジョーンズ氏は鶏舎に鍵をかけ… ”
この作家の名前と作品については後で書きます。
この映画の主人公 ガレス・リチャード・ヴォーン・ジョーンズ(アイキャッチ画像の人)
1933年、主人公のギャレス・ジョンズはイギリスのウェールズ・バリー郡で学校の校長を務めている父エドガー ジョーンズ少佐と母アニー・グウェン・ジョーンズの息子として、1905年8月13日に生まれました。
ガレス・ジョーンズとロシアとの関係
ガレス・ジョーンズの父エドガー ジョーンズは、ロシアに製鉄所を建設したジョン・ヒューズの息子でした。ジョン・ヒューズが建設した製鉄所の場所は現在のウクライナのドネツク(当時はヒューズにちなんでユーゾフカと付けられ、1929年スターリノに改名され、1961年現在のドネツクとなりました。)に当たり、このあたりは石炭や鉄鋼石の鉱山があり、製鉄には最適の地でした。
ガレス・ジョーンズの母エドガー ジョーンズ夫人 (旧姓アニー・ グウェン ジョーンズ) は、ジョン・ヒューズの次男アーサー・ヒューズの家族と共に、彼の娘二人の家庭教師としてロシアに行っていました。
ジョーンズは、1926年にアベリストウィスのウェールズ大学を卒業し、フランス語で優等学位を取得しました。彼はまた、ストラスブール大学とケンブリッジのトリニティ カレッジで学び、1929 年に卒業し、フランス語、ドイツ語、ロシア語で別の学位を取得しました。
卒業後ジョーンズは元イギリス首相のロイド・ジョージの外交顧問として、ドイツやソビエトの状況を探るべく何度も旅をしています。
ガレス・ジョーンズとナチス・ドイツ
彼は1922年から毎年ドイツを訪れ、アドルフ・ヒトラーが台頭するのを目の当たりにしてドイツに対して危機感を募らせていました。
1933年1月30日、ヒトラーが首相に任命された後、1933年2月23日、ジョーンズはルフトハンザ航空のアドル・ヒトラー総統専用機で、ヒトラーとゲッベルズと共にルフトハンザに行き、後にロイド・ジョージの外交委員会で
「もしこの飛行機が墜落したら、欧州の歴史が変わる」
と報告しています。
ルフトハンザ航空のアドル・ヒトラー総統専用機
当時ドイツ最速の旅客機ユンカースJu 52を運用していたルフトハンザ航空は、ヒトラーのために専用機を提供していて、ヒトラーはドイツ国内各地の演説のために、この機を活用していました。
出典 昭和画報
ヒトラーがドイツ首相にな音までの過程はこちら ↓
1933年1月30日ヒトラーは首相に任命されると、世界恐慌にもかかわらず新たな経済政策を次々と打ちだし、ドイツはいち早く世界恐慌から抜け始めました。
詳しい説明はこちら ↓
ロイド・ジョージは第1次世界大戦の最中、それまでのアスキス首相に代わり、1916年12月6日「戦争に勝てる男」として新しく首相になり、自由党・保守党・労働党の3党による連立内閣を結成して挙国一致内閣を作り上げへ第1次世界大戦を戦い抜きました。
1919年のロイド・ジョージ
出典 ウィキペディア
第1次世界大戦終戦後、イギリス代表としてパリ講和会議に臨み、フランスのクレマンソー首相、アメリカのウィルソン大統領と共にヴェルサイユ条約締結の中心人物として働きました。
1922年10月19日首相辞任後は、一議員としての議員活動をしていました。その間、一には、経済学者のジョン・メイナード・ケインズを政治顧問団に加え、公共事業による経済復興と、雇用増加を訴えていました。
1933年当時、ナチス・ドイツのヒトラーが大規模な公共事業による経済復興をやり始めたことを高く評価していました。
映画の初め、ガレス・ジョーンズがヒトラーによる新たな戦争の危機を訴えても、ロイド・ジョージの政治顧問団のメンバー全員から一笑に付されたのは、このような事情がありました。
ロシア、スターリンの第一次五ヶ年計画
世界恐慌が始まる前の1928年からスターリンは第一次五ヵ年計画を立て、世界中が不況になっていたのにもかかわらず、農機国から工業国への転換を図り、驚異的な経済発展を遂げ大成功しました。
そのためには工場の建設や、各種機械の輸入などに多額の資金を必要としていましたる
しかし、世界恐慌に巻き込まれたロシアには、その資金がなかったのです。
第一次5カ年計画ホロドモールに関しては、こちらで詳しく解説しています ↓
スターリンはその資金の出所に対して、厳しく報道管制をしていました。
1933年、ロイド・ジョージの政治顧問から外されたガレス・ジョーンズは、スターリンの行った第一次五ヵ年計画の資金源を探るため、ロシアに向かいました。
ロシアでのガレス・ジョーンズ
スターリンの行った第一次五ヶ年計画計画の資金源となったのは、ウクライナを中心に栽培されていた、豊富な小麦でした。豊富に取れていた小麦を輸出して、その代金で工業化を進めていたのです。
スターリンは小麦の増産を計り、農業の集団化を進めましたが。かえって小麦の収穫量が減ってしまいました。それにもかかわらず、政府による作物の徴収量は変わらなかったため、多くの農民が餓死してしまいました。
ソ連はこのことを外に漏れないよう、激しく規制していました。
1933年3月、ガレス・ジョーンズソ連に出発するにあたって、モスクワに居るドイツ時代からの記者仲間、ポール・クレブに電話してスターリンとの会見を手配してくれるよう頼ました。ポール・クレブは自分はソ連では要注意人物になっているから、ニューヨークタイムズ・モスクワ支局長のウォルター・デュランティに頼むといいと、言いました。
そして『今とんでもない事実を掴んでいる。実は、・・」と言いかけたところで、電話を盗聴していたソ連側によって、切られてしまいました。
ウォルター・デュランティ
ウォルター・デュランティは、1922年(この年スターリンが書記長に就任しました)からニューヨークタイムズの記者としてモスクワに駐在し、1929年スターリンとの単独会見を果たしました。
彼は1932年、ソ連の五ヶ年計画に関する記事によってピューリッツァー賞の通信部門を受賞しました。
彼の記事はスターリンの残虐性を認めながら、ソ連が経済発展を遂げるために必要であると、擁護する立場をとっていました。
1924年かれは、休暇でフランスに訪れた時鉄道事故に巻き込まれ。足を切断する怪我を負ってしまいました。
ウォルター・デュランティ 1936年
出典 npr.org
モスクワについてガレス・ジョーンズは、最初にニューヨークタイムズ紙モスクワ支局長デュランティを訪ねました。
スターリンと直接対談し、五ヵ年計画の成果をアメリカに報道していたため、デュラナティはモスクワでも一目置かれ目存在となり、結構良い暮らしをしていました。
デュランティからそれか訪問の真の目的を聞かれ、ジョーンズは五ヵ年計画にかかる費用の出所を探るためと答えます。
二人が話している最中、女性記者のエイダ・ブルックスが記事の下書きを持って、デュランティの所にやって来ました。
ジョーンズが「誰の手引きでヒトラーの専用機に乗ることが出来てたか」と聞かれ、「ベルリンの記者仲間、ポール・グレブです。と答えると、エイダは驚いた表情で、ジョーンズを見ました。
ポール・クレブの名前を聞いて驚いている、ニューヨークタイムズの女性記者エイダ(中央)。
左はモスクワ支局長のデュランティ、右で背中を向けているのが、ガレス・ジョーンズ。
映画よりキャプチャー(18分03秒付近)
デュランティは校正した原稿をエイダに渡し、「ポールは昨日ホテル前で強盗に遇って、殺されてしまった」と伝えました。そして「今夜、記者仲間の集まりが私の家であるから、来るといい」と言います。
ホテル・メルトポールでのチェックインすると、イギリスのメトロ・ヴィカーズ社の会議が有るとのことで、7泊の予定が2拍に削られてぃました。
後にホテルのロビーで会ったメトロ・ヴィカーズ社の技師達に聞いたところ、「そんな予定はない」との答えでした???。
デュランティの家で行われたパーティーは、酒と女と麻薬の乱痴気パーティーでした。その場に来ていた記者に聞くと、記者はモスクワから出られないとのことです。
バカ騒ぎに辟易したジョーンズが帰ろうとすると。女性記者のエイダがやって来て、
「私はアヘン窟に入るのが嫌なので、この原稿を編集長の机の上に置いてきて。」
エイダの家への帰り道、ポールはスターリンの金脈であるウクライナに行こうとしたところを、背中に4発の銃弾を受け、殺されたと聞かされました。
ウクライナへの旅立ち
記者はモスクワから出られないと知ったジョーンズは、ある策略を思いつきました。ロイド・ジョージの政治顧問を止める時彼から貰った推薦状の
「私の前政治顧問」
と書かれた部分の「前」の部分を削り取り、エイダから借タイプライター借りて
「私の有能な政治顧問」
と書き替えました。
ジョーンズがウクライナに行くことを知ったエイダは、ポールの二の舞になることを恐れて、必死に止めけました。
エイダは元ベルリンで記者をしていました。ポール・グレブとはその時からの知り合いでした。彼女はドイツでヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党 )が勢力を伸ばすのを恐れ、それに対抗していたドイツ共産党を助けるため、モスクワに来ていました。
ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)とドイツ共産党の勢力争いは、こちらに書いてあります ↓
ジョーンズは、取材の許可をとるためソ連報道担当局に行きました。記者がモスクワ以外の地域に出ることは禁止されていましたが、ジョーンズが見せたロイド・ジョージからの推薦状で、局長自ら案内してウクライナのハリコフにある戦車工場に見学に行くことになりました。
ハリコフの戦車工場で作られた、とんでもない戦車
多砲塔戦車
1925年イギリスのヴィカーズ社は、1両の車体に大小5つの砲塔を持つ多砲塔戦車の試作品を発表しました。
この戦車は主砲として3ポンド砲(47㎜)を中央の砲塔に装備し、その周りに7.7㎜ヴィカーズ機関銃を装備した副砲塔を主砲搭の前後左右に4つ配置した形になっています。この副砲塔により、戦車に近づく敵兵を排除し、歩兵の支援なしに塹壕を突破するために製造されました。
A1E1 インディペンデント重戦車
出典ウィキペディア
この戦車は試作車のみで終わりましたが、その設計思想は各国に影響を及ぼし多くの国で多砲塔戦車の研究・試作が行われました。
ドイツの多砲塔戦車「ノイバウ-ファールツォイク」
出典 ウィキペディア
イギリスの巡航戦車 Mk.I(A9)、試作で終わったA1E1 インディペンデント重戦車の後ろにあった2つの砲塔取り除き、主砲もより小型の40㎜に替えました。これにより軽量化され時速40km出せるようになりました。この車両は多砲塔戦車としては珍しく125両が生産され、第2次世界大戦初頭のフランス本土や、アフリカ戦線で使用されました。
出典ウィキペディア
日本最初の国産戦車である試製一号戦車。57 mm戦車砲を装備した主砲搭の左前に重機関銃を装備した副砲塔を1つ、さらに機関室の後ろにも重機関銃を装備した副砲塔を1つ設けました。
ただ車体重量が18tになってしまい、最高速度が20kmしか出せず試作のみで終わりました。
出典ウィキペディア
この様に各国で多砲塔戦車の研究・開発が行われましたが、1920年代終わりから始まった世界恐慌により、機構が複雑で、経費の掛かる多砲塔戦車は見送られるようになりました。
そんな中、第一次五ヶ年で驚異の経済発展を遂げたソ連でも、はやりの多砲塔戦車の配備計画が立てられました。
始めイギリスのヴィカーズ社が開発したA1E1 インディペンデント重戦車の購入を計画しましたが、ソ連が共産国であることから断られてしまいました。
1930年、ソ連は第一次五ヶ年計画の一環として敵戦車との戦闘と堅固な防御陣地の突破とを主任務とする多砲塔戦車の開発計画をたて、ウクライナにあるハリコフ機関車工場での設計・試作が決まりました。
ソ連のT-35を上から見た画像。76.2㎜砲を備えた主砲の左上と右下に45㎜戦車砲の副砲塔と、左下と右上に7.62㎜機関銃のついた副砲塔が付いています。
1932年8月20日、T-35の試作1号機が完成し、1933年2月からは試験運転を繰り返し改良した試作2号機が製造され、1933年4月に完成されました。
ガレス・ジョーンズが、ウクライナのハリコフ戦車工場の見学を決めたのは、この時期になります。
1933年5月1日のメーデーで、試作1号機はモスクワ、試作2号機はレニングラードで軍事パレードに参加しました。
1933年8月11日、試作されていた多砲塔戦車は「T-35重戦車」として正式に採用され、量産が決まり、試作車も入れて61両が造られました。5砲塔の多砲塔戦車の中で、唯一量産された戦車になります。
前から見たT-35
出典 ウィキペディア
性能諸元 | |
---|---|
全長 | 9.72 m |
全幅 | 3.20 m |
全高 | 5.43m |
重量 | 50 t |
懸架方式 | コイルスプリング |
速度 | 30 km/h |
行動距離 | 150 km |
主砲 | 16.5口径76.2 mm戦車砲 ×1 |
副武装 | 46口径45 mm戦車砲 ×2 7.62 mm機関銃 ×6 |
装甲 | 10~30mm |
エンジン | M-17T 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン 500 馬力 |
乗員 | 10名 |
こうして製造されたT-35重戦車ですが、ドイツ軍のバルバロッ作戦に参加して壊滅的な打撃を受けてしまいました。
その原因の1位は、50tの重さの割に、エンジン関係が非力のためエンジンやギャーボックスが壊れ、戦う以前に動けなくなってしまったこと。
同じ理由で最高速度が30kmしか出ないこと。相手になったドイツ軍のⅢ号戦車やⅣ号戦車は40km出ます。
そして少しでも軽くするために、装甲を薄くしたこと。ソ連のT-35重戦車の前面装甲の厚さは30㎜なのに対して、ドイツのⅢ号戦車は50㎜+追加装甲20㎜、同じくドイツのⅣ号戦車は最初から70㎜でした。
バカデカくてよく目立ち、ノロい上に装甲も薄いとなると、敵戦車や砲兵の恰好の獲物としかなりませんでした。
結局1940年スターリンの
『君たちは何故戦車の中にミュール・アンド・メリリズ(モスクワの百貨店。現ツム百貨店)など作ろうとするのかね』
の一言で製造中止となりました。
ウクライナでのガレス・ジョーンズ
初めて会った時もそうですが、ウクライナへの案内役の報道局長はウクライナで飢饉が起きていることを否定するように、列車の中でもよく食べていました。
列車がウクライナに入り駅に着くと、ジョーンズはトイレに行くふりをして、優等車から降り、後ろに連結された普通車の客車に移りました。
客車と言っても木造の貨車に窓を取り付けたような感じで、真ん中に置かれたストーブを囲むようにして、大勢の乗客が座っていました。
ここでジョージ・オーウェルの「動物農場」の一節が入ります。
『人間こそが唯一の敵。人間を排除せよ。
それで飢餓と過労の根源は立たれる。』
ここでいう「人間」とは動物たちを飼っている農場主で、この主人の下で動物たちは少ないエサで、こき使われていました。
それと同じようにソ連ではごく少ない支配層が、多くの国民が一生懸命作ったものを、奪い取っているのでした。
ジョーンズがオレンジを食べようと袋から取り出すと、周りから「食べ物だ」とのささやき声が上がり、投げ捨てた皮を獲ろうと子供たちが群がってきました。ジョーンズはその様子に呆然とし、2房程食べた残りを近づいてきた子供に与えました。
スターリノ(ジョーンズの母親がかって住んでいた所。現在のドンバス市)で降りるつもりのジョーンズは隣の男に、着ているコートを譲ってくれるように頼みます。男はジョーンズの持っていたパンと引き換えに、コートを譲ってくれました。ここではお金より、パンの方が価値があるようです。
降り立ったスターリノの駅では、穀物を貨車に積み込んだり、トラックに積んだりしていて賑わっていました。穀物不足の噂は、嘘みたいです。
不思議に思ったジョーンズが近くの人に、出荷先を聞くと「モスクワだ」との答えが返ってきました。しかしこれがもとで、ジョーンズは外国から来たスパイと疑われ、警備していた兵隊に追われ、駅から離れることになりました。
ジョーンズが来た3月のスターリノはまだ冬であり、雪が膝ぐらいまで積もっていました。町の中はシーンと静まっており、ある家を訪ねると老夫婦が寝室で死んでおり、台所には木の皮を煮て食べようとした跡がありました。
街の中をさまよっていると、どこからか子供が集まって来て、歌を唄い始めました。
♫飢えと寒さが、家の中を満たしている。
食べるものはなくー。
寝る場所もない。
私たちの隣人は、
正気を失ってしまった。
そして、ついに自分の子供を食べた♫
ジョーンズが子供たちの様子を撮ろうとして、肩から下げている袋を外してカメラを取り出した瞬間、袋を取られ、中に入れていたパンとソーセージを盗まれてしまいました。
次に出会ったのは街中で死んでいる人たちを、馬橇(ばそり)に乗せ回収している男たちでした。その男たちは、死んだ母親にしがみついて泣いている赤ん坊を見つけ、その赤ん坊を死んだ母親と一緒に橇に乗せて運んで行っていまいました。
やっとのことで母親がもと住んでいた家にたどり着き、休んでいると子供が3人やって来ました。子供たちは何か役に立ちそうなものを、探しに来たようです。ジョーズは子供たちと一緒に家に行くと、一番年上の女の子が、肉を煮て食べさせてくれました。この肉はどうしたのか聞くと、その女の子は裏口を見て、「お兄ちゃんよ」と答えました。
裏口を開けると、そこには肉を削ぎ落された少年の死体がありました。
こちらの動画に、飢えのため他人の子供を盗んで食べた話や、死体を集めて墓場に運び、褒美としてスープを貰っていた人達の実話が乗っています。↓
https://youtu.be/ttYp8LJA6UQ?t=421
ホロドモールの詳しい説明はこちらに書いておきました。↓
第一次五ヶ年計画計画(1928年~1932年)とホロドモール
ジョーンズはやっとのことで駅に戻り、パンの配給の列に並んでいたところを、警察隊に見つかり、モスクワに連れ戻されてしまいました。
再びモスクワにて
ここでオーソン・ウィルズが、動物農場の執筆している場面になります。
“農事用は豊かになったが、(貧乏で飢えていた)動物たちに変化はない ”
” 動物は平等だ。だが一部の動物たち(農場を支配している、豚と犬)は
より平等(豊かな暮らしをしている事)なのである”
モスクワでは記者会見が行われ、イギリスから派遣されていたメトロ・ヴィッカースの技師6名が、工場や政府の情報をイギリスに渡していたとして逮捕されたと、発表しました。
監獄でジョーンズはこの6名の技師たちと会いました。その中には、ホテル・メトロポールで会った2人も含まれていました。
しばらくして、ジョーンズはソ連報道担当局に呼び出されました。ジョーンズをウクライナに連れて行った局長は、まだジョーンズがロイド・ジョージの外交顧問だと信じている様子でした。
そして
「君はロンドンに帰すが、スパイをしていた6人はこのままソ連に止めておく。そして君がウクライナで見たことを、正直にロイド・ジョージに伝えれば、彼らは釈放されるだろう。
君は地方を旅して誇らしげに働く、元気な農民たちを見ただろう。ところで、農民たちが飢餓で苦しんでいるとの噂があるが、君はどう思う。」と尋ねてきました。
ジョーンズは仕方なく
「それは噂で、実際に飢饉などは起きていない」
と答えました。
映画よりキャプチャー(1時間25分20秒付近)
ジョーンズは許され、気要請送還というかたちでロンドンに送り返されました。
ロンドンでの戦い
ロンドンに戻ったジョーンズは、出版の打ち合わせのために、編集者とレストランで打ち合わせをすることになりました。そこには新人作家のジョージ・オーウェル(映画に出てきた「動物農場」の作者)も来ていました。
ジョーンズは、ジフンが見てきたことを発表すると、ソ連に囚われている6人の技師たちが殺される恐れがあるため、ためらっていると言いました。
その時ジョージ・オーウェルが口をはさみ
「私は どんな結果になろうと 真実を語るべきだと思う。
それが義務であり 人々には知る権利がある。」
と言いました。この言葉でジョーンズは決心がつきます。
ジョージ・オーウェル
1933年、世界恐慌時にパリに貧民街でホテルの皿洗いをしたり、ロンドンで浮浪者の仲間となって暮らした体験をまとめた「パリ・ロンドン放浪記」を出して作家デビューをはたしました。
話しているのは、新人作家のジョージ・オーウェル
映画よりキャプチャー(1時間30分30秒付近)
” ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じることだ。それ以外のものは広報にすぎない”
これは、ジョージ・オウェルが言ったとされるジャーナリストの心がまえを指す言葉です。この言葉は多くの文学作品や、映画の中で引用されています。
ジョーンズは早速記者会見を行い、ソ連が行ってきた第一次五ヵ年計画の裏で何百万人もの餓死者が出ていることを、明らかにしました。
その会見には、ジョージ・オウェルも来ていて、ジョーンズに対して、それは少し厳しすぎるのでは、と指摘しました。社会の最底辺で生きたことが有るジョージ・オウェルは、「労働者の天国」を目指す共産主義社会の実現に、期待しているようでした。
しかし、ジョーンズの記者会見に出席して、格差のない平等な社会を目指していたソ連にも、支配するものと、支配されるものとの間で格差が出てきてことを知りました。
動物農場では、農場の経営に携わっていた豚たちが、二本足で歩き始め、農場の規則も最初の
『二本足(人間)は悪い、四本脚(動物たち)は良い』
から
『四本脚は良い、二本足はもっと良い』
に変わりました。
“ロシアを支配する大飢饉
・・五か年計画はパンの供給を殺した・・”
と題するガレス・ジョーンズの署名記事。
1933年3月31日、ロンドン イブニング スタンダード紙
こちらに記事の全文が出ています。↓
おなじ1933年3月31日、ガレス・ジョーンズの「ロシア大飢饉」の反対記事として、ニューヨーク・タイムズ紙にモスクワ支局長デュランティの反論が掲載されました。要約すると
『ソ連の一部の農村で不作による栄養失調で死者が出たが、工場地帯や都市部では飢餓が発生せず、工業生産高や経済は発展し続けている。ガレス・ジョーンズは一番被害の多い地域を40マイルほど歩いて見聞きしただけで、ソ連全体が飢饉に陥っているのではない。』
記事の全文はこちら ↓
この事件の前年(1932年)世界的に知られるニューヨーク・タイムズ紙でビューリッツァー賞を獲得した有名記者ウォルター・デュランティと、フリーのジャーナリスト画れす。ジョーンズでは格が違いすぎ、ジョーンズは周囲から「嘘つき」と罵られ、ロンドンに居られなくなり、故郷のウェールズ地方のバリー郡に帰ることになりました。
ガレス・ジョーンズの詳して情報は、こちらのサイトを参考にさせていただきました。↓
ウェールズのバリーにて
故郷に帰ったジョーンズは地元の新聞社、ウェスタン メール社で働くことになりました。ただ彼の担当は政治面ではなく、文化・芸術面でした。
ジョーンズがウェスタン メール紙で働いていた時ねもイク和からのニュースが入りました。スパイ容疑で捕まっていた6人の技師達がイギリスに帰されることと、アメリカがソ連と国交回復したことでした。アメリカのルーズベルト大統領と、ソ連のスターリンの間を取り持ったのが、ニューヨークタイムズ紙モスクワ支局長のディランティでした。資本主義国家であるアメリカが、共産主義国家のソ連を承認したのは、世界恐慌から脱出するため、五ヶ年計画で経済成長を続けソ連に投資するためでした。ソ連も経済成長を続けるためには、新たな投資先を求めていました。
ここでジョージオウェルの『動物農場』の一節が入ります。
この時、農場の支配者である豚たちは、人間と取引をして、農園で収穫された農産物を売り、酒やたばこなどのし好品を購入し、ぜいたくに暮らしていました。ある日人間と豚たちがパーティーを開いていたところを見てしまった、動物の話です。
“その外見は豚(革命家)から人(資本家)に変わり、人から豚に変わり、見分けがつかなくなっていた”
かって資本家から労働者を開放するはずだった革命家は、国営農場や国営工場を手に入れ、資本家に変わって国民(労働者)を搾取するようになってしまったのです。※資本家と国家が結びついた「国家独占資本主義』。
翌1934年6月、アメリカの新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストが、バリーにやって来ました。大富豪であるハーストはバリーにある古城セント・ドーナッツ城を買って、夏の間そこで暮らしていました。
ジョーンズはハーストの住む城に行き、直談判の末ハーストの援助を受けることに成功しました。
1934年12月、ジョーンズはアメリカ各地で「ホロドモール」に関する講演会を開きました。
しかし、経済回復のためソ連と友好的な態度をとることになったアメリカでは、スターリンが「ホロドモール」の飢餓説をひた隠しにしたことと相まって次第に忘れ去られてしまいました。
「ホロドモール」の飢饉について知られるようになったのは、第二次世界大戦後のスターリン批判以降になってからでした。
ウィリアム・R・ハースト
1900年ごろのハーストの写真
当時ハーストはアメリカで28の新聞と18の雑誌、及びいくつかの放送局と映画を支配下に置き、『新聞王』と呼ばれていました。
出典ウィキペディア
映画 『市民ケーン』(1941年)
ウィリアム・ハーストの生涯をモデルに作られた映画です。
映画史上最高傑作と言われています。
1935年8月12日
ジョーンズはソ連と日本が中国進出を狙う接点である満州国を取材中、盗賊に誘拐され、ソ連のNKVDによつて射殺されました。この日は、ジョーンズが30歳を迎える誕生日の前日でした。
ジョージ・オウェルの「動物農場」
ジョージ・オウェルの「動物農場」は青空文庫で日本語訳が無料で出ています。クリックしてください ↓
また、石ノ森章太郎さんの漫画も出ています。
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1954年「動物農場」のアニメが公開されました。
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