なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

日本に原爆投下するまでの経緯 ヒロシマ・ナガサキ原爆投下

time 2017/07/23

日本に原爆投下するまでの経緯 ヒロシマ・ナガサキ原爆投下

第2次世界大戦

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亀仙人2

広島・長崎 原爆投下

原爆神話

太平洋戦争を終わらせるために起きる日本列島での本土決戦を避け、早期に決着させるために、原子爆弾が使用されたとするのが、アメリカ合衆国連邦政府による公式説明である。

1947年2月、第2次世界大戦当時陸軍長官であったスティムソンは、原爆投下に対する批判を抑えるために、「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」と表明。 これが原爆使用正当化の定説となり、今でも多くのアメリカ市民はこの話を信じている。

原爆投下までの経緯

1941年12月8日、日本がハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まる。

約半年後の1942年6月、ルーズベルト大統領は原爆の開発と製造のためにマンハッタン計画を開始し、レズリー・グローヴス准将を計画の責任者として任命した。しかし原子爆弾が実際に完成するかどうか分からなかったため、ルーズベルト大統領は強い興味を示さずレズリー・グローヴス准将にまかせっきりであった。これによりレズリー・グローヴス准将は原子爆弾の開発から製造投下までの全責任を負うことになった。

当時のグローブスの言葉

「大統領が知っていたのは、わたくしが責任者を務めているということだけだ。わたくしが常に最善を尽くしていると考えていたはずだ。進捗について聞かれた覚えもない。問題が起きても報告する必要がなく、解決はすべてわたくしに任されていた。おかげでうまく開発を進めることができた」 (BS1スペシャル 原爆投下 知られざる作戦を追う。より引用)

このことが原爆投下の実権を軍が握る要因になった。

マンハッタン計画の詳細はこちら ↓

アメリカの原子爆弾開発プロジェクト 「マンハッタン計画」

 

1944年9月1日、陸軍、海軍、空軍から優秀なパイロットや搭乗員を集め第509混成群団が編成され、ポール・ティベッツ陸軍中佐が隊長として就任した。第509混成群団の設立目的は、当時の敵国、日本への原子爆弾投下作戦の遂行である。ただし、この目的は、作戦を実行する兵士たちには作戦当日まで伏せられたままであった。混成群団の名称は、陸軍・海軍・空軍から必要な兵士を集めて編成された部隊であることによる。

人員は225人の士官と1542人の兵士からなり。指揮官ポール・ティベッツ大佐は12月に編成を完了し、1944年12月17日正式に創設された。部隊は原爆投下用に特別改造(シルバープレートと名付けられた)された戦略爆撃機B-29を15機配備されていた。

改造された個所

長崎に落とされた原子爆弾(ファットマン)の大きさと重さは、重量4670kg、全長3.66メートル。直径1.52メートル、と非常に大きく重くB-29の搭載量を超えるため、次のような改造がなされた。

1 機体重量軽減のため、装甲の撤去、及び尾部銃座以外の武装撤去

2 エンジンの強化(燃料注入式エンジンに改良)、及びプロペラの改造(逆ピッチプロペラを使用し、緊急停止や着陸距離を短縮)した

3 爆弾倉を2つつなげて大きくし、投下扉を改造した。

4 爆弾懸吊装置をリトルボーイ、ファットマンどちらも使えるように作り変えた。

部隊は、最初ユタ州のウェンドーバー基地でファットマンと同じ大きさと重さのパンプキン爆弾(中身はセメントと石膏)を使い、弾道特性や慣性能率のデーターを取るため100回以上の爆弾投下訓練を行った。これにより原爆の信頼性が上がりました。

1943年5月5日軍事政策委員会が開かれ、最初の原爆は東京に使用すべきだとの意見もあったが、一般市民を巻き込むためトラック諸島に集結する日本艦隊に使用することに意見が集約した。

1944年11月24日から日本本土への爆撃が始まる。この時は軍事施設や軍需工場の精密爆撃であった。

1945年3月10日から一般市民を対象とする大都市への焼夷弾爆撃が開始された。

  • 1945年3月10日 東京大空襲 (死亡83793人)
  • 1945年3月12日 名古屋大空襲(死亡519人)
  • 1945年3月13日 大阪大空襲 (死亡3987人)
  • 1945年3月17日 神戸大空襲 (死亡8841人『火垂るの墓』の舞台)

1945年4月12日ルーズベルト大統領が急死し副大統領のトルーマンが大統領に就任した。1933年3月4日以来ずっとアメリカを率いてきたルーズベルトに対して、トルーマンが大統領になったのは1945年1月20日に副大統領に就任してから82日目の出来事でルーズベルトが急死したため、引き継ぎも十分にできていなかった。

トルーマンは就任初日の気持ちを自身の日記に「私の肩にアメリカのトップとしての重荷がのし掛かってきた。第一、私は戦争の詳細について聞かされていないし、外交にもまだ自信がない。軍が私をどう見ているのか心配だ。」と記していた。

この年の4月1日にアメリカ軍の沖縄上陸作戦が始まり、4月13日にはソ連軍がウィーンを占領し、ベルリンに迫りつつあった(ナチスドイツが降伏したのは5月7日)。このような状況下で4月25日にヘンリー・スティムソンと、レスリー・グローブスがホワイトハウスに訪れ、原爆投下に関する資料を提出したが、トルーマンはそれまで原爆計画について何も知らされていなかった。

トルーマン大統領に面会した後のグローブスの言葉

この時、原爆に関する24ページの報告書を持参したが、大統領は「報告書を読むのは嫌いだ」と言った。原爆開発の規模を考えると特に長いとは思えなかったが、彼にとっては長かったようだ。

私は、計画を変更する必要はないと判断した。トルーマン大統領は「そのまま進めて後で報告せよ」という姿勢であった。

原爆に関してトルーマンは、そりに乗った少年のようにただ滑り落ちていくだけだった。

(BS1スペシャル 原爆投下 知られざる作戦を追う。より引用)

トルーマン大統領は原爆計画の進行を黙認することになった。

1945年4月27日トルーマン大統領と面会した2日後政府には極秘で第1回目標選定委員会が開かれた。年末までに17個の原爆を作り、次の都市及び地点が候補に挙げられた。

東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市、広島市、呉市、下関市、山口市、八幡市、小倉市、熊本市、福岡市、長崎市、佐世保市。

1945年5月10日・11日、ロスアラモス研究所のオッペンハイマー博士の執務室で第2回目標選定委員会が開かれ、8月初めに投下予定の2発の原子爆弾の投下目標として、次の5都市が選ばれた。

  • 京都市
  • 広島市
  • 横浜市
  • 小倉市
  • 新潟市

選定の基準は

1 直径3マイル(約4.8キロ)を超える大きな都市地域にある重要目標であること。
2 爆風によって効果的に破壊しうるものであること。
3 来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの。

これらの原子爆弾投下目標都市への空爆の禁止が決定された。禁止の目的は、原爆のもたらす効果を正確に測定把握できるようにするためでした。

1945年5月28日、第3回目標選定委員会が開かれ横浜市と小倉市が目標から外された。

この中で京都が投下目標の第1候補に挙げられた。理由は

  • 人口100万を超す大都市であること。
  • 日本の古都であること。
  • 多数の避難民と罹災工業が流れ込みつつあったこと。
  • 小さな軍需工場が多数存在していること。
  • 原子爆弾の破壊力を正確に測定し得る十分な広さの市街地を持っていること。

これらによって、日本に対して最も大きな心理効果を得ることが期待できる為でした。

1945年6月1日、アメリカ政府側に立って原子力を考える暫定委員会(委員長・ヘンりー・スチムソン陸軍長官)が開かれ、スティムソンはグローブスに、歴史的、宗教的、文化的な意味で京都を対象リストから除外するように頼んだ。しかし、グルーブスは軍事的および産業的意義を指摘し承諾しなかった。 その後、スティムソンはトルーマン大統領にこの問題について話し合った。 トルーマンはスティムソンと合意し、6月15日京都は目標リストから一時的に削除された。

1945年7月16日、ニューメキシコ州アラモゴード近くのトリニティ・サイトで 、プルトニウム型原爆ガジェットによる原子爆弾の爆発実験が成功した。

1945年7月20日、5月にテニアン島に移動した509混成部隊はパンプキン爆弾(今度は2900キロのTNT火薬を詰めた爆弾)で日本本土で訓練を兼ねた爆撃を開始した。

原子爆弾の投下予行演習である。テニアン島から日本列島の原子爆弾投下目標都市まで飛行して都市を目視観察した後に、その周辺の別な都市に設定した訓練用の目標地点に正確にパンプキンを投下する練習が延べ49回、30都市で行われた。パンプキン練習作戦は、1945年7月25日、7月26日、7月29日、8月8日及び8月14日と終戦直前まで行われた。

1945年7月24日、京都市の代わりとして新たに長崎市が投下目標に加えられた。

スチムソン陸軍長官の7月25日の日記には「もし(京都の)除外がなされなければ、かかる無茶な行為によって生ずるであろう残酷な事態のために、その地域において日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近させることになるだろう(中略)満州でロシアの侵攻があった場合に、日本を合衆国に同調させることを妨げる手段となるであろう、と私は指摘した。」とあり、アメリカが戦後の国際社会における政治的優位性を保つ目的から、京都投下案に反対したことが窺える。

トルーマン大統領のポツダム日記7月25日の項にも「目標は、水兵などの軍事物を目標とし、決して女性や子供をターゲットにする事が無いようにと、スティムソンに言った。たとえ日本人が野蛮であっても、共通の福祉を守る世界の指導者たるわれわれとしては、この恐るべき爆弾を、かつての首都にも新しい首都にも投下することはできない。その点で私とスティムソンは完全に一致している。目標は、軍事物に限られる。」とある。(ウィキペディアより)

原爆投下

ここまででロスアラモス研究所が制作した原爆はウラニウム型爆弾が1発、プルトニウム型爆弾が2発であった。プルトニウム型爆弾のうち1発(ガジェット)はトリニティ実験場でで爆発実験に使われたため、残った爆弾はウラン型で広島に投下されたリトルボーイと、長崎に投下されたプルトニウム型のファットマンの2発でした。

1945年7月25日、マンハッタン計画の最高責任者グローブスは「広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下する」との原爆投下指令書を発令した。

ただ、これについてトルーマン大統領が承認した記録はありません。

1945年8月2日、「野戦命令第13号」が発令され、8月6日に原子爆弾の投下が決められた。第1目標は「広島市中心部と工業地域」(照準点は相生橋付近)、予備の第2目標は「小倉造兵廠ならびに同市中心部」、予備の第3目標は「長崎市中心部」でした。

テニアン島のノース・フィールド基地

テニアン島はサイパン島の南8キロの位置にあり、第1次世界大戦後日本の委任統治領となり、多くの日本人が入植しサトウキビ等のの栽培をしていました。旧日本海軍はこの島に当時南洋最大と言われるハゴイ飛行場を建設した。アメリカ軍はテニアン島を占領した後、この飛行場を拡張し2700メートル滑走路を4本作りB-29による日本本土爆撃の基地として使用していた。

テニアン島が日本の委任統治領になったいきさつは、こちら↓

第1次世界大戦 日本の参戦

写真は当時のテニアン島ノース・フィールド基地。赤丸で囲った部分に原子爆弾の最終組み立て工場があった。青丸で囲んだ部分はその資材置き場です。

テニアン島で組み立て作業中のトールボーイとファットマンの写真

 

 

B-29は地上高が低いため原爆はいったんピットと呼ばれる穴に入れ、そこから大型の油圧ジャッキで持ち上げてB-29に搭載された。

広島への原爆投下

1945年8月5日、第509混成群団司令部から作戦命令35号が発令された。

作戦命令35号

作戦日: 1945年8月6日
状況説明: 以下を参照せよ
離陸: 気象観測機は0200(頃) / 攻撃機は0300(頃)  〔時刻はすべてマリアナ標準時〕
起床時刻: 気象班は2230 / 攻撃班は2330
食事時刻: 2315から0115
必要携帯食: 気象班は2230に39食 / 攻撃班は0030に52食
トラック: 気象班は0015に3台 / 攻撃班は0115に4台

機体番号   ヴィクターナンバー   機長      補助乗員     同乗者
気象任務
  298        83      テイラー
  303        71      ウィルソン
  301        85      エザリー
  302        72      予備機
攻撃班
  292        82      ティベッツ  指令により
  353        89      スウィーニー
  291        91      マクォート
  354        90      マックナイト
  304        88      マクォートのための予備機

燃料: 82号機-7000ガロン / その他の全機-7400ガロン
弾薬: 全機が各機1000発
爆弾: 特殊  〔原爆(リトルボーイ)〕
カメラ: 82号機と90号機にはK18、その他の装置は口頭指示による
宗教上の式: カトリックは2200に / プロテスタントは2230に

状況説明:
 気象観測機    一般状況説明は2300に搭乗員休憩室で
   任務別状況説明は2330に以下の通り
    機長と操縦士は搭乗員休憩室で / 航法士とレーダー係は図書室で / 無線通信士は通信室で / 航空機関士は作戦室で
   2330に食事
   0015にトラック

 攻撃任務
   一般状況説明は2400に搭乗員休憩室で
   任務別状況説明は0030に以下の通り
    機長と操縦士は搭乗員休憩室で / 航法士とレーダー係は図書室で / 無線通信士は通信室で / 航空機関士は作戦室で
   0030に食事
   0115にトラック

(〔〕内は訳注)

広島への原爆投下

8月5日、「野戦命令35号」にしたがって計画の準備が始まった。15時31分テニアン島の原爆組み立て施設から、リトルボーイが運び出され、第509混成群団の隊長ティベッツ大佐の操縦するエノラ・ゲイに搭載されました。エノラ・ゲイとはティベッツ大佐の母親の名前です。

兵器担当兼作戦指揮官ウィリアム・S・パーソンズ海軍大佐にとって心配事が一つありました。それは直近の24時間で4機のB-29が離陸に失敗し炎上したことです。もし、起爆状態の原爆を積んでいるB-29が離陸に失敗して炎上したら、大変なことになります。そこで彼は投下直前に機内で原爆に起爆装置を取り付けることに決め40度を超す猛暑の中、狭い爆弾庫で原爆に起爆装置を取り付ける練習を何時間も繰り返します。

8月6日0時37分、まず気象観測機のB-29が3機離陸した。機体番号85のストレートフラッシュ号は広島へ、機体番号71のジャビット3世号は小倉へ、機体番号83ののフルハウス号は長崎である。0時51分には予備機で機体番号72ののトップ・シークレット号が硫黄島へ向かった。

1時27分、核爆弾リトルボーイを搭載した機体番号82のエノラ・ゲイがタキシングを開始し、1時45分に事故を起こすこともなくA滑走路の端から離陸した。

その2分後の1時47分、原爆の威力の記録を行う科学観測機(機体番号89グレート・アーティスト号)が、さらに2分後の1時49分には写真撮影機(機体番号91  ネセサリー・イーブル号)のB-29も飛び立った。

6時30分、兵器担当兼作戦指揮官ウィリアム・S・パーソンズ海軍大佐は、兵器担当補佐モリス・ジェプソン陸軍中尉、爆撃手トーマス・フィアビー陸軍少佐らと共に爆弾倉に入り、リトルボーイの起爆装置から緑色の安全プラグを抜き、赤色の点火プラグを装填した。起爆装置の取り付けを終了したとの報告を受けた機長のティベッツ大佐は、機内放送で「諸君、我々の運んでいる兵器は世界最初の原子爆弾だ」と乗員に積み荷の正体を知らせた。

7時15分ごろ気象観測機のストレートフラッシュ号から広島市上空の天気は良好との報告を受け、広島市への原爆投下が決定した。

8時9分エノラ・ゲイ号は爆撃高度31600フィート(9632メートル)で広島市上空に到着した。

8時15分、原爆リトルボーイが投下され、42秒後に広島市上空580メートルの高さのところで爆発した。

14時58分、エノラゲイ号は無事テニアン島に帰還した。

広島市への原爆投下後のトルーマン大統領の声明

先ほどアメリカ軍は、日本の軍事処点ヒロシマに1発の爆弾を投下した。原子爆弾が、この戦争を引き起こした敵の上に解き放されたのだ。

この時、トルーマンは原爆が一般市民ではなく、軍事処点を狙って落とされたのだと思っていた。

1945年8月8日、スティムソン陸軍長官は被爆直後の広島の写真をトルーマン大統領に見せた。あまりにも被害が大きいことに驚いたトルーマン大統領は「こんな破壊行為をした責任は、大統領の私にある」と言いました。

広島への原爆投下を題材にした映画です。↓

ヒロシマに原爆を落としたエノラゲイ号機長のお話 映画 決戦攻撃命令

長崎への原爆投下

広島原爆投下作戦において観測機を務めたB-29「グレート・アーティスト」を操縦したチャールズ・スウィーニー少佐は、テニアン島に帰還した晩、第509混成群団の隊長ポール・ティベッツ大佐から次の原爆投下作戦の指揮を執るよう命じられた。

8月8日、第20航空軍司令部が「野戦命令第17号」を発令し、8月9日に2回目の原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。攻撃の第1目標は「小倉造兵廠および市街地」、予備の第2目標は「長崎市街地」(照準点は中島川下流域の常盤橋から賑橋付近)であった。

スウィーニーの搭乗機は通常はグレート・アーティストであったが、この機体には広島原爆投下作戦の際に観測用機材が搭載されていた。これをわざわざ降ろして別の機体に搭載し直すという手間を省くため、ボック大尉の搭乗機と交換する形で、爆弾投下機はボックスカー(この機体は当時愛称がついていないためボック大尉の車という名前で呼ばれた)となったのである。

出撃直前になってボックスカーの予備燃料タンクのポンプが故障していることがわかり2000ℓの燃料が使えないことになったが、修理する時間がなかったためそのまま出撃することにした。

気象観測機は小倉へはB-29エノラ・ゲイ(ジョージ・マクォート 大尉)、長崎へはB-29ラッギン・ドラゴン(チャーリー・マクナイト 大尉)が飛び、計測機としてB-29グレート・アーティスト(フレデリック・ボック大尉)、写真撮影機としてB-29ビッグ・スティンク(ジェームス・ホプキンズ 中佐)、予備機としてB-29フルハウス(ラルフ・テイラー少佐)、爆弾投下機はB-29ボックスカー(チャールズ・スウィーニー少佐)であった。

1945年8月9日午前3時45分、スウィーニーの操縦するボックスカーは日本へ向けて離陸した。

先行していたエノラ・ゲイからは小倉市は朝靄がかかっているがすぐに快晴が期待できる、ラッギン・ドラゴンからは長崎市は朝靄がかかっており曇っているが、雲量は10分の2であるとの報告があった。

午前7時45分、ボックスカーは合流地点の屋久島上空で観測機グレート・アーティストと合流できたが撮影機ビック・スティングとは40分待っても合流できず2機だけで小倉に向かった。

午前9時44分ボックスカーは小倉上空に到着した。しかし、前日に空襲を受けた八幡市の煙と、小編隊の敵爆撃機が小倉に向かっているとの情報を受けた八幡製鉄所の職員が意図的にコールタールを燃やし大量の煙を発生させ、その煙が小倉市上空を覆っていたため45分にわたり3回原爆投下を試みたが果たせず長崎に向かった。

午前10時50分ごろ、長崎上空に到着。朝方晴れていた長崎は、この時すっかり雲に覆われていた。標的を目視できないため、兵器担当のアッシュワース海軍中佐が「レーダー爆撃でやるぞ」との声でレーダー爆撃しようとした瞬間、雲の切れ目から長崎市内の一部が見えた。午前11時2分、爆撃手のビーハンは高度9000メートルからファットマンを手動投下した。

ボックスカーとグレート・アーティストはしばらく長崎上空を旋回し被害状況を確認した後、ボックスカーの燃料が少なくなったため、テニアン島でなく沖縄に向かった。

午後2時沖縄の読谷飛行場に着陸、ここで燃料と機体を整備し、午後7時沖縄からテニアン島に向かった。午後11時06分、無事テニアン島に着陸した。

8月9日長崎に原爆が落とされた後、トルーマン大統領は国民にあてたラジオ演説でこう発言している。

「戦争を早く終わらせ、多くのアメリカ兵の命を救うため、原爆投下を決断した」(原爆神話の始まり)

その一方トルーマンは同じ日、友人にあてた手紙でこう書いている。

「日本の女性や子供たちへの慈悲の思いは私にもある。人々を皆殺しにしてしまったことを後悔している。」

1945年8月10日トルーマン大統領は全閣僚を集め、「これ以上原爆を投下することを中止した」と伝える。この閣議に出たウォレス商務長官はトルーマン大統領が「新たに10万人、特に子供たちを殺すのは考えただけでも恐ろしい。」と発言したことを日記に書いている。

1945年8月15日、日本は無条件降伏することを表明、第2次世界大戦が終了した。

原子爆弾による死者数

投下の年中だと広島14万人長崎9万人
被爆後5年間の間に広島で20万人、長崎で14万人
現在までの総計は広島40万人長崎20万人

と言われている。全部が非戦闘員・一般市民とは言わないがこれだけの犠牲者が第2次世界大戦を終わらせるのに、必要だったのだろうか。

 

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