1919年7月8日、ヴェルサイユ条約の調印を終えたウィルソン大統領は、ニューヨークに帰ってきました。しかし、ヴェルサイユ条約の批准には上院の3分の2以上の支持が必要でしたが、1918年の選挙により野党共和党が過半数を占めたため、難しい状態でした。
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亀仙人2ヴェルサイユ条約批准
アメリカ上院での批准をめぐる戦い
第一次世界大戦終戦の興奮が収まると、ウィルソン大統領の国際協調路線に対して、モンロー主義による孤立政策を求める動きが出てきました。
1919年7月8日、パリ講和会議から帰国した客船ジョージ・ワシントンの甲板からニューヨーク港の群衆に挨拶するウィルソン大統領。
出典 Wikipedia
2月14日から3月14日にかけてパリ講和会議の経過報告のため一旦アメリカに帰国したウィルソン大統領は、共和党の有力者のロッジ議員により
「国際連盟規約第十条は、もし紛争が起きた場合アメリカは見ず知らずの国でも軍隊を派遣することになり、これはモンロー主義に反するため、認められない。」
と強く反対されました。
国際連盟規約第十条〔領土保全と政治的独立〕
連盟国は、連盟各国の領土保全および現在の政治的独立を尊重し、かつ外部の侵略に対しこれを擁護することを約す。右侵略の場合またはその脅威もしくは危険ある場合においては、連盟理事会は、本条の義務を履行すべき手段を具申すべし。
引用 篠原初枝『国際連盟―世界平和への夢と挫折』2010 中公新書 Kindle版 位置3361/3647
各国が自国の安全を国際組織に委ねるもので、万一侵略を受けた場合には加盟国全体が被侵略国を援助し侵略国に立ち向かうというものである。同盟との違いは、同盟では加盟国は通常二力国多くとも数力国と限定され、しかも通常は仮想敵国を想定する点にある。他方、集団安全保障は国際社会という全体を想定し、「一国が全体のために、全体が一国のために行動する」ことが求められる。
引用 篠原初枝『国際連盟―世界平和への夢と挫折』2010 中公新書 Kindle版 位置636/3647
そのためウイルソン大統領は、イギリスのロイドジョージと協議してかねてよりイギリスが反対していた、14ヶ条の平和原則の第二条 公海航行の自由
14ヶ条の平和原則第二条
領海外の海洋上の航行の完全な自由。これは平時も戦時も同様であるが、国際盟約の施行のための国際行動により、海洋が全面的または部分的に閉鎖される場合を除く。引用 ウィキペディア
を棚上げする代わりに、モンロー主義を認める一文を連盟規約第二十一条に書き加えました。
国際連盟規約第二十一条【局地的了解】
本規約は、仲裁裁判条約の如き国際約定又は「モンロー」主義の如き一定の地域に関する了解にして平和の確保を目的とするものの効力に何等に影響なきものとす。
引用 篠原初枝『国際連盟―世界平和への夢と挫折』2010 中公新書 Kindle版 位置3368/3647
ウィルソン大統領は、これで上院で批准されると思っていましたが、そうはいきませんでした。
ヴェルサイユ条約の批准に反対した、共和党のヘンリー ・カボット・ ロッジ上院議員
1915年
出典 Wikipedia
前年1918年11月に行われた中間選挙で、上院、下院とも共和党が過半数を占めたにもかかわらず、ウィルソン大統領はパリ講和会議の随行員に共和党の議員を入れませんでした。普通パリ講和会議などの国の将来を決める大事な国際会議には、野党の議員も入れ超党派で代表団を組むものです。ましてこの時は野党といえども、共和党が過半数を占めたのですから一緒に連れて行けば、ヴェルサイユ条約が批准され、アメリカが国際連盟に加入していたかもしれません。
アメリカに帰国してから2日後の7月10日、ウィルソン大統領は上院議会に立ち、議員一人一人に条約文の写しを渡し
「講和条約の冒頭に置かれた国際連盟規約は世界の希望であり、私たちはこの新しい枠組みを実現し、さらなる発展にむかって邁進する義務がある。アメリカであれ、他のいかなる国であれ、この偉大なる義務を否定し、拒絶して、世界を落胆させ、悲しませていいものだろうか」
引用 本多 巍耀(ホンダ タカアキ)著 芙蓉書房出版「消えた帝国」247頁
と演説して、条約の批准に協力を呼びかけました。
自称キリストの生まれ代わりであるウィルソン大統領にとっては、正しいことを言えば皆黙ってそれに従うはずだと、信じていました。
7月31日上院でヴェルサイユ条約についての本格審議が始まり、ウィルソン大統領は上院議員23人から、微に入り細にわたって査問を受けました。
質問を受けることになったウィルソン大統領は
「諸君達には規約の文字面の一言一句に捕らわれず、国威連盟設立のモラルと精神について、論じて貰いたい。この規約の裏には戦争で死んだ何百万人もの兵士達の平和を求める思いが籠つている。そのことを思えば、戦争放棄と平和維持を目的とする国際連盟設立に、反対とは言えないはずだ。」
の一点張りで、いかなる修正にも応じないと答えました。
8月12日には上院側の見解がまとまり、外交問題協議会代表のロッジが演説しました。
「世界の人々が寄せる最大の希望はアメリカであって、国際連盟ではありません。そのアメリカが国際連盟に加入し、他の国の間に起こった紛争に介入し、もつれた陰謀の糸にからみ取られ、身動きが出来なくなってしまえば、世界は終わりです。どうかアメリカが寛大で力強く、自信に満ち、気高い歩みが続けられるよう国際連盟で拘束せず、今まで通りにしておいて貰いたい。」
引用 本多 巍耀(ホンダ タカアキ)著 芙蓉書房出版「消えた帝国」248頁
つまり、第一次世界大戦のように外国の紛争に首を突っ込まず、今まで通り孤立主義を守り通そうという見解です。
さらにロッジ議員は、第一次世界大戦の始まりは、セルピアの国粋主義者がオーストリアの皇太子を暗殺し、怒ったオーストリアがセルピアに対して戦争を仕掛けたことが原因でした。
このまま行けば、戦いはセルピアとオーストリアの間だけで終わり戦死者1000万人、負傷者2100万人もの犠牲者を出さなくて済んだはずです。
ところが劣勢になったセルピアがロシアに助けを求め、今度はロシア参戦で窮地に立たされたオーストリアが同じ枢軸国であるドイツに対して助けを求め、ドイツがロシアに対して宣戦布告を出しました。
ロシアがドイツと戦うことになり、ロシアと同盟関係にあるフランスとイギリスが参戦して、戦いはヨーロッパ全土に広がり、世界中の国を巻き込む大きな戦いとなり、未曾有の被害者を出してしまったのです。
そうならないために、ロッジ議員は連盟規約第十条に従ってアメリカが外国に軍隊を出すように要請されても、アメリカ軍を出す、出さないは議会が決定するように、連盟規約の修正を求めました。
そのほか
国際連盟規約第一条〔加盟及び脱退〕
一 本規約附属書列記の署名国及留保なくして本規約に加盟する該附属書列記の爾余諸国を以て、国際聯盟の原聯盟国とす。右加盟は、本規約実施後二月以内に宣言書を聯盟事務局に寄託して之を為すべし。右に関しては、一切の他の聯盟国に通告すべきものとす。
二 附属書に列記せざる国、領地又は殖民地にして完全なる自治を有するものは、其の加入に付、聯盟総会三分の二の同意を得るに於いは、総て聯盟国と為ることを得。但し其の国際義務遵守の誠意あることに付有効なる保障を与え、且其の陸海及空軍の兵力其の他の軍備に関し聯盟の定むることあるべき準則を受諾することを要す。
三 聯盟国は、二年の予告を以て聯盟を脱退することを得。但し脱退の時に其の一切の国際上及本規約上の義務は履行せられたることを要す。
引用 篠原初枝『国際連盟―世界平和への夢と挫折』2010 中公新書 Kindle版 位置3297/3647
の第3項について
「アメリカ人にとって遂行すべき義務が何であるか定めるのは合衆国憲法であり、国際連盟の規約ではありません。合衆国憲法よりも連盟規約を優先させなければならないという主張は自分の理解を超えている。」
と述べ、これも修正事項に加えました。
これらを含めヴェルサイユ条約について14カ所に及ぶ条項の留保(特定の項目を自国には通用しないようにすること)を求め、これを認めれば批准に賛成する意を表わしました。14カ所内13カ所は国際連盟規約であり、残りの1カ所は、日本の山東半島における権益の確保です。詳しくはこちらをご覧ください。
しかし、ウィルソン大統領は頑なに一切の変更を認めず、世論の支持を得るべく、全国遊説の旅を始めました。
ウィルソン大統領の全国遊説
1919年9月3日、大統領はメイフラワーと名付けられた特別列車に乗り、全行程約8千マイル(1万3千キロ)の旅にでました。
ウィルソン大統領は
『今度の大戦で、多くのアメリカ人の若者が犠牲となりました。彼らはアメリカのためではなく、早く戦いを終わらせ、これ以上の犠牲者を出さないために戦ったのです。国際連盟は、新たな戦いを防ぐための有効な手段です。
異国の地で眠る数多くの若者達の思いに報いるためにも、国際連盟の批准に同意していただきたい。」
との内容の演説を、手を替え品を替え説きまくりました。
アメリカ各地で演説を行い、列車の中で眠り、次の場所でまた演説をするという旅は、元々体が弱く高血圧の病を持つ身にはつらいものでした。
9月25日深夜、コロラド州からカンサス州へむかう途中体の不調を訴え倒れてしまい、急いでワシントンに戻りました。
1919年10月2日、ウィルソン大統領は重度の脳梗塞を起こし、左半身が麻痺した上、左側視野欠損、言語障害といった重い後遺症が残り、大統領としての執務は事実上不可能となりました。
2日後、大統領夫人のイーディス・ウィルソンは治療に当たっていたデニカム博士に
「夫に大統領職の辞任を、勧めるかどうか。」
「確かに彼は重篤な状態にあります。しかし、彼には何としてもヴェルサイユ条約をを批准させたいという意思があります。そんな彼から大統領職を取り上げたら、それこそ一巻の終わりです。」
と告げられ、
その2日後に様子を見に来たランシング国務長官も
「少し回復したが安心は出来ない。しかし彼には大統領を辞める意思は全くない。」
と言われ閣議の結果、ウィルソン大統領の脳梗塞は伏せ置くことにし、その間の国政は夫人による代理執行で行くことにしました。
ウィルソン大統領が、全国遊説の旅に出ている最中の1919年9月16日、ロッジ上院議員はヴェルサイユ条約批准に対して検討するため、全上院議員を召集しました。
11月上旬、民主党上院議員ヒッチコックは病床のウィルソン大統領を訪れ
「連盟規約の第10条(集団安全保障)は折れてくれ、それ以外は蹴飛ばしても大丈夫だ。」
と、共和党のロッジ議員に譲歩するよう頼みましたが、
「連盟規約第十条は、要となる大事な部分なので一字一句帰ることは出来ない。」
と拒否しました。
1919年11月19日、ヴェルサイユ条約批准に対しての投票が行われ
ロッジ議員の留保付きの案に対しては
賛成39、反対55
留保なしの案では
賛成38、反対53
となり批准に必要な3分の2以上の賛成票が得られず、決議は失敗に終わりました。
1919年12月10日、ウィルソン大統領に
『国際連盟設立に、多大な貢献をした』
とのことで、ノーベル平和賞が贈られました。
上院議会会期末に近い1920年3月19日、2回目の採決が行われ
留保付きの批准では
賛成39票、反対55票、棄権2票
留保なしの批准で
賛成38票、反対53票、棄権5票
となり、3分の2以上の賛成が得られず、ヴェルサイユ条約の批准は否決されました。
1920年6月、左半身麻痺となったため夫人のイーディス・ウィルソンに書類を押さえて貰って署名する、ウィルソン大統領。
出典 Wikipedia
その後も妻のイーディスに手伝って貰いながら政務を続け、1921年3月4日共和党の新大統領ウォーレン・G・ハーディングに席を譲り、ワシントンD.Cに在る自宅で隠退生活を送りました。
1924年1月、ウィルソンの容態が急激に悪化し、1924年2月3日に67歳で死亡しました。
ワシントン国立大聖堂にあるウッドロー・ウィルソンの永眠の地
出典 Wikipedia
パリ講和会議における、その他の講和条約
パリ講和会議では、ヴェルサイユ条約(対ドイツ)の他に、サン=ジェルマン条約(対オーストリア)、トリアノン条約(対ハンガリー)、セーヴル条約(対オスマン帝国)、ヌイイ条約(対ブルガリア)が締結されました。どの条約でもヴェルサイユ条約同様、敗戦国は講和会議への出席は許されず一方的に結果を押しつけられることになりました。またどの条約にも、国際連盟規約が付け加えられています。
サン=ジェルマン条約とトリアノン条約(対オーストリア=ハンガリー帝国)
下の図は第一次世界大戦開戦当時(1914年)のオーストリア=ハンガリー帝国の領土です。そして領内に引かれた赤い線が、192年パリ講和会議後の国境線になります。
- ハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランド、セルブ=クロアート=スロヴェーン(後のユーゴスラヴィア)の独立の承認する。
- トリエステ、南チロル(トレンティノ)などをイタリアに割譲する。これによってイタリア側の「未回収のイタリア」回収は一応達成された。
- ドイツとの併合禁止。
- 陸軍の兵力は3万人とし、徴兵制度は認められない。空軍または航空隊の保有は禁止する。
- オーストリア=ハンガリー帝国海軍の保有艦艇はすべて連合国に引き渡される。建造中のものはすべて解体される。
- 兵器および軍事物資の輸入は禁止される。火炎放射器、毒ガスの製造・開発・研究は禁止される。戦車・装甲車・軍事用機械の製造も禁止される。
そのほか、自国内の少数民族の保護や、戦争によって与えた被害の補償などがあります。
トリアノン条約による割譲地域(二重帝国時代にハンガリー王国の領域になかった地域を含む)
紺色:チェコスロバキア共和国領
茶色:ルーマニア王国領
赤色:オーストリア共和国領
灰色:セルブ・クロアート・スロヴェーン王国領(後のユーゴスラビア)
ピンク色:ポーランド共和国領
緑色:イタリア王国領
出典 ウィキペディア
サンジェルマン条約で独立を認められたハンガリーですが、こちらはトリアノン条約により、領土の3分の2を周辺国に割譲させられてしまいました。
割譲した地域
- 北部ハンガリー(スロバキア、カルパティア・ルテニア)→ チェコスロバキア共和国
- トランシルヴァニア、バナトの大部分 → ルーマニア王国
- ヴォイヴォディナ、クロアチア、ボスニア → ユーゴスラビア王国[注釈 1]
- 西部国境地域(→ブルゲンラント州) → オーストリア共和国
併合を承認した地域(旧ハンガリー王国領外)
引用 ウィキペディア
ユーゴスラビア王国
第一次世界大戦後の1918年12月1日、すでに独立していたセルビア王国の摂政アレクサンダル公を新国王として、同じく独立していたモンテネグロ王国に、オーストリア=ハンガリー帝国領であったクロアティア、スロヴェニア、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ、ヴォイヴォディナを加え、セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国)が発足しました。
第一次世界大戦後に行われたパリ講和会議において、ウィルソン米大統領が提唱していた「民族自決」の原則を実現させた国家として、1919年のサン=ジェルマン条約、1920年のトリアノン条約で承認されました。
建国当初のセルブ・クロアート・スロヴェーン王国(後のユーゴスラビア王国)
1920年-1922 年
出典 ウィキペディア
同じ南スラブ人同士の国家として発足したセルブ・クロアート・スロヴェーン王国ですが、もとオーストリア=ハンガリー帝国領であった北部のスロベニア、クロアチア、ヴォイヴォディナ、ダルマチアはカトリック教徒であり、使用する文字はラテン文字であるのに対して、南のセルビアとモンテネグロの住民はギリシャ正教であり、使用する文字もキリル文字で違った文字を使用していました。
ラテン文字 A a、 B b、C c、D d
キリル文字 А а 、 Б б 、Ц ц 、 Д д
さらに北部は工業化が進んで豊かであったのに対して、南部は農業が主体で貧しいままでした。
そのため国の南北で対立が起き、クロアチアの独立を主張する政党(クロアチア農民党)も出てきました。
1928年6月20日、議会でモンテネグロ選出の議員がクロアチア農民党の議員5人に向かって発砲し、2人を死亡させる(後に怪我をしたもう一人も死亡した)という事件が起こりました。これを機に国王アレクサンダル1世は憲法と議会を廃止して独裁体制を作り、1929年1月、国号を「ユーゴスラビア王国(南スラブ人王国)』に変え、反政府組織を厳しく押さえることで国の分裂を防ぎました。
対ソ防衛線
ブレスト=リトフスク条約によってロシアがドイツに割譲した地域。ドイツの影響下におかれた地域にとってはこれが国家独立の保障となった。
出典 ウィキペディア
1918年3月3日に結ばれたブレスト=リトフスク条約によってロシアはドイツにフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナなどの権利を放棄し、一部をドイツ帝国に割譲した。
第一次世界大戦が終わるとロシア内部は、革命派(赤軍)と革命反対派(白軍)との戦いが始まりロシア国内の混乱を機に、リトアニア、ラトビア、エストニアのバルト3国と、北欧のフィンランドが独立しました。
パリ講和会議後に独立した国を並べてみると、西ヨーロッパとソビエト連邦をさえぎる壁(対ソ防疫線)が出来てしまいました。
セーブル条約(対オスマン帝国)
パリ講和会議の結果に納得せず、戦い続けた国がありました。それがオスマン帝国です。
1920年8月10日に結ばれたセーブル条約では、オスマン帝国はアラビア半島と中東に持っていた支配権はすべて失われ、小アジア(アナトリア半島)のトルコ領はイスタンブルとアンカラ周辺のみとなってしまいました。
セーブル条約の内容
- 小アジア(アナトリア)のトルコ領はイスタンブルとアンカラ周辺のみとする。フランスは東南部、イタリアは南部を勢力圏とし、西部はギリシアに割譲する。
- 小アジア東部のアルメニアおよびクルディスタンはそれぞれ独立させる(意図は、ソヴィエト=ロシアに対する防御線とすることにあった)。
- イラク・トランスヨルダン・パレスチナはイギリスの、シリア(レバノン含む)はフランスの委任統治とする。
- キプロス島はイギリスに割譲する(イギリスは、エジプト、メソポタミア、パレスティナからインドへのルートの確保を図った。)
- ダーダネルス=ボスフォラス海峡は国際管理とする。
- 治外法権(カピチュレーション以来の権利)はそのままとし、財政はイギリス・フランス・イタリアの監視下に置かれる。
トルコ人にとっては屈辱的な領土分割であり、不平等条約であったが、オスマン帝国のスルタン・メフメト6世は、連合国による一身の安全と財産保証を秘密条件としてセーヴル条約に調印してしまった。
引用 世界史の窓
下の図はアナトリア半島におけるトルコの領土(黄色い部分)で、アナトリア半島全体の約3分の1となってしまいました。
トルコ人にとっては屈辱的な領土分割であり、不平等条約であったが、オスマン帝国のスルタン・メフメト6世は、連合国による一身の安全と財産保証を秘密条件としてセーヴル条約に調印してしまった。
セーブル条約下のアナトリア。青はギリシャに割譲。水色はアルメニアが独立。赤はイギリス、紫はフランスの委任統治下に。オスマン政府のもとに残った地域のうち、オレンジの縦線はボスポラス海峡沿岸の国際管理地域、赤・紫・緑の縦線はそれぞれイギリス・フランス・イタリアの勢力圏となる。
出典 ウィキペディア
トルコ革命とローザンヌ条約
1918年10月30日オスマン帝国は連合国とムドロス休戦協定を結び、停戦となりました。しかし、この休戦協定には
- オスマン帝国は、アナトリア半島の外にある要塞を明け渡し、ダーダネルス海峡とボスポラス海峡を管理する要塞を占領する権利を連合国に認める。
- また、もし無秩序状態が起こり、連合国の安全に対する脅威となる場合は、オスマン帝国の領土のいかなる部分も占領できる権利を連合国に認める。
の2項の条文が含まれていたため、連合国の国土占領が進み、列強によるオスマン帝国の分割が行われました。
1919年5月15日、休戦協定に違反してイギリスの支援を受けた2万人のギリシア軍が、エーゲ海沿岸に住むギリシア系住民の保護を理由に、アナトリア半島の東岸にある港町イズミルに上陸し、沿岸周辺を占領しました。これによりギリシア=トルコ戦争(希土戦争 )が始まりました。
1919年5月19日、第一世界大戦初期ガリポリの戦いで英仏軍を撃退して英雄となったムスタファ・ケマル・パシャが黒海沿岸の港湾都市サムスンに上陸し、旧青年トルコ党員を中心とする帝国議会議員、帝国軍の司令官に呼びかけ、アナトリア半島の分割反対を唱えて「アナトリア・ルメリア権利擁護委員会」を結成し、抵抗運動を開始しました。トルコではこの日を「トルコ独立戦争」の始まりとしています。
ムスタファ・ケマル・アタテュル ク 1930年
ギリシア=トルコ戦争に勝利した彼は「国父」を意味する「アタテュルク」
の称号を贈られ、トルコ共和国の初代大統領になりました。
出典 ウィキペディア
ガリポリの戦いの解説はこちら ↓
ガリポリの戦いにおけるムスタファ・ケマルの活躍はこちらの映画解説でどうぞ ↓
映画 「シーバトル 戦艦クイーン・エリザベスを追え!!」第1次世界大戦での「ガリポリの戦い」をトルコ側から見た映画です 。
1920年1月28日、帝国議会はムスタファ・ケマルの反対運動に呼応して、帝国領のうちトルコ人が多数を占める地域が不可分であることをうたう「国民誓約」を採択しました。
「国民誓約」によるトルコ共和国の国境(赤い部分)。トルコ民族主義者は今でもこれらの国境がトルコの正当な国境であると主張している。
出典 Wikipedia
3月16日、イギリスを中心とする連合国はイスタンブールを占領してしまいました。これに対し帝国議会下院は、連合国による占領は容認できないと宣言して解散しました。
1920年4月23日、イスタンブールから逃れた議員達はアンカラにトルコ大国民議会を設立し、臨時政府の発足を発表しました。初代議長兼首相にはムスタファ・ケマルが選出されました。
1920年8月1日、もはやイギリスの傀儡政権と化したオスマン帝国のスルタン・メフメト6世は連合国とセーブル条約を結び、アナトリア半島の分割占領を認めました。しかし、これは多くのトルコ系住民の反発を招き、ムスタファ・ケマル支持が高まりました。
ギリシア=トルコ戦争(希土戦争)
1919年5月イズミルに上陸したギリシャ軍はアンカラに向かって内陸を行く軍と、英海軍と合流するためにアラマヤ海のムダンヤに向かう軍に分かれ、トルコの不正規軍と戦いながら、1920年夏までにはブルサとウシャクを結ぶ線まで約200㎞進軍しました。
ギリシャ・トルコ戦争 (1919 ~ 1922 年)の地図
出典 Wikipedia
1921年
第一次イニョヌの戦い(1921年1月9日~11日)、トルコ正規軍初の勝利。
1921年1月、ブルサの本拠地から内陸のエキシェヒールに移動を計画していたギリシャ軍の偵察部隊は、途中イニョニュの駅に進駐していたトルコ臨時政府正規軍陣地を攻撃しましたが、反撃され撤退してしまいました。
この戦いはアンカラ臨時政府正規軍にとって、初めての勝利となりました。
(ギリシア・トルコ戦争の地図で、中央上にある赤い丸で囲った地域)
第二次イニョヌの戦い(1921年3月23日~4月1日)
1月の第一次イニョヌの戦いで敗れたギリシャ軍は規模を拡大して、ふたたびイニョヌのトルコ軍陣地に対して戦いを仕掛けてきました。しかし、トルコ臨時政府軍はギリシャ軍の攻撃を跳ね返すことに成功しました。
この戦いはトルコを占領している連合国の注目を引き、フランスとイタリアは立場を変え、アンカラの新政府支持に変わりました。
キュタヒヤ・エスキシェヒルの戦い(1921年7月10日~24日)
地図の真ん中にある青い円で囲まれた地域
イニョヌの戦いの3ヶ月後、ギリシャ軍は11個師団とと1騎兵旅団の計11万人に軍を強化して鉄道の要地であるエスキェヒルを占領しました。ここを占領したことで南のアフィヨンカラヒサールに居るギリシャの小アジア軍と、鉄道でつながりました。
装備と人員で劣るトルコ軍は、次の戦いに備えてサカリア川の東岸まで撤退しました。
サカリヤの戦い(1921年8月23日~9月13日)
地図の黒い破線で囲まれた地域。ここはサカリア川かアンカラに向かって大きく「つ」の字にせり出しており、ギリシア軍は川に囲まれた中を進軍していきました。
このあたりは、荒れた高原状の大地で川岸は切り立っており、ここに架かる橋は2本しか在りませんでした。
トルコ軍は東岸近くのポラトル付近の高台を中心に、幅100㎞奥行き25㎞を超える塹壕と陣地を構築して、ギリシア軍を待ち構えていました。
8月10日アンカラに向かって進軍を開始し、砂漠に近い荒野の中を9日間進軍してサカリア川の西岸に到着しました。
8月23日、ギリシア軍は比較的浅い支流のギョク川を渡り、周囲の高地に向かって進軍しました。トルコ軍の居る高地からは激しい砲撃と銃撃を受けましたが、ギリシャ軍はそれらを一つ一つ潰しながら進軍を続け、10日後には16㎞進みトルコ軍の第二防衛線を破り、アンカラから50㎞の地点まで達しました。
しかし、トルコ軍の騎兵隊が長く伸びたギリシア軍の補給線を攻撃したため、前線の兵士には弾薬と食糧が不足し、トルコ軍の反撃を許したしまいます。このためコンスタンティヌス帝は1921年9月14日にギリシャ軍の攻撃を中止した。
下の写真は9月10日、ギリシャ軍から奪い返したマンガル山から戦場に様子を見ているムスタファ ケマルの写真です。
1921年9月10日、ギリシア軍から奪還したドゥアテペの丘にいる、
ムスタファ ケマル と副官のサリフ・ボゾク
ドゥアテペの丘はポラトルとサカリア川の真ん中にあります。
出典 Wikipedia
2000年9月12日に建てられた
ドゥアテペのマンガル山(1436m)山頂の記念碑
トルコ軍もこの戦いで多く士官を失いましたが、ギリシア軍が撤退した後、トルコ軍は9月20日にシヴリヒサルを、 9月22日にアジジエを9月24日に、ボルバディンとチャイを奪還することに成功しました。
トルコ軍にとって、この戦いは戦争の転換点となり、トルコ独立戦争は反転に転じ、ギリシャ軍との一連の軍事衝突に発展し、最終的にはギリシャ軍をエーゲ海に追い落とすことになりました。
カルス条約(1921年10月13日)とアンカラ条約(1921年10月20日)
この時期、トルコ・アンカラ政府によるトルコ独立戦争は、ギリシア戦線(下の地図の左側)だけではなく、独立を企てていたアルメニア(アルメニア戦線 下の地図の右上)、占領を続けていたフランス(フランス戦線、下の地図の中央下)で戦っていました。ところがサカリアの戦いが終わってすぐの1921年10月、アルメニアとフランスがトルコと停戦協定(カルス条約とアンカラ条約)を結び、戦いが終りました。
トルコ独立戦争中の西部、東部、南部戦線を日付とともに示す地図。
出典 Wikipedia
1916年5月6日、イギリスの外交顧問マーク・サイクス卿とフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ・ピコの間でオスマン帝国を分割する秘密条約、「サイクス・ピコ協定」が調印された。この協定は、帝国主義ロシアの同意を得るものだった。
1917年2月にロシア革命が起こり、ボルシャヴィキ政権はサイクス・ピコ協定を含む秘密協定の書類を公表してしまいました。そのため第1次世界大戦後のセーブル条約で、ロシアの統治領になる予定であった地域は新たな独立国アルメニアとなりました。アルメニアとアナトリア半島における領土の分割を望まないトルコのアンカラ政府との間で、戦い(トルコ・アルメニア戦争1920年9月~12月)がおきてしまいました。
しかし、2年後ロシア・ソビエト社会主義共和国はアルメニアを始めアゼルバイジャン、グルジアを含むコーカサス地方を占領したことでこれらの国は、ソビエト連邦を構成する3つの州となりました。
またフランスも、サイクス・ピコ協定に従ってアナトリア半島内の領地の占領を巡ったアンカラ政府と戦っていました。
サイクス=ピコ協定は、中東だけではなくオスマン帝国の本体であるアナトリア半島まで含まれていました。
カルス条約
1920年9月から始まったトルコ・アルメニア戦争は、12月1日ギュミュル条約で講和、締結してひとまず終戦しました。その翌日の12月2日、アルメニア第一共和国は、ロシア・ソビエト政府の赤軍の攻撃をうけ、アルメニア・ソビエト社会主義共和国となり崩壊してしまいました。
1921年3月16日モスクワで、トルコのアンカラ政権とロシアのボリシェヴィキ政権の間で、友好条約(モスクワ条約)が結ばれました。
この条約により、ロシアが南コーカサス地方に進駐してロシア連邦に加わった、アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージアの国境が決められました。しかし、対象となった3つの国は参加していませんでした。
この取り組みによりトルコは、1987年の露土戦争によってロシア帝国に奪われた領土を取り返すことが出来ました。
またブレスト=リトフスク条約によってオスマン帝国領となった、北海東岸の港町バドゥミ市の支配権をボルシェヴィキ政権に譲り渡す代わりに、ロシアはトルコ大国民議会への武器、弾薬、金の支援、そして必要に応じて共同軍事行動の提供を規定することにも合意しました。
これによりトルコのアンカラ政権は独立戦争の全期間にわたって受け取った武器と弾薬は、100万金ルーブルと、ライフル銃 – 37812丁、機関銃 – 324丁、弾薬 – 44587箱に達した。その他砲- 66 門、砲弾 – 141173発が送られて来ました。これらの兵器のほとんどはドイツ軍から鹵獲したもので、トルコ軍が標準的に使用しているものでした。
1921年10月13日、すでに社会主義ソビエト共和国となっていた南コーカサス地方の3ヵ国(アルメニア、ジョージア、アゼルバイジャン)とトルコのアンカラ政府との間でモスクワ条約に基づいた国境を画定する条約(カルス条約)が結ばれました。
1921 年のカルス条約で獲得したトルコ領土の地図(赤い色の部分)。
1914 年の第1次世界大戦前のオスマン帝国の国境を取り戻しました。
出典 Wikipedia
フランス・トルコ戦争(1918年12月~1921年10月20日)とアンカラ条約
第一次世界大戦後、フランスはトルコ南西部の海岸地方からシリアにかけての統治権を手に入れました。
特に地中海に面したキリキア平原は、土地が肥沃で農業が盛んな上、鉄やニッケルなどの鉱山(紀元前1400年頃、この地方のヒッタイトが人類初の製鉄に成功し、鉄製の武器を使用した)があり、地中海貿易に適した港もあるという、トルコの産業にとって重要な土地でした。
キリキア平原
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フランス・トルコ戦争のきっかけは、1919年11月1日フランス占領後の2日後マラシュの街で、フランス軍の兵士により嫌がらせを受けているトルコ人女性を助けようとして市民の一人が発砲し、兵士の一人が死亡した事件(牛乳屋イマーム事件)がきっかけでした。これにより市内で暴動が起こり、マラシュを占領しているフランス軍と、トルコ軍の戦いまで発展してしまいました。
1920年2月12日、フランス軍はマラシュの占領を放棄して撤退し、トルコ軍の勝利となりました。
1920年4月23日アンカラで大国民会議が行われ、ムスタファ・ ケマルを首班とする臨時政府が設立されました。
同じく8月10日、イスタンブールに本拠を置くオスマン帝国は、パリ講和会議で決定したセーブル条約を承認して、アナトリア半島での外国人の統治を認めました。
これに反してムスタファ・ ケマルが主張する、アナトリア半島のおける一切の外国人勢力を一掃しようとする、トルコ独立戦争への支持が高まりました。
アインタブ包囲戦(1920年4月1日~1921年2月8日)、フランス・トルコ戦争最後の戦い
1919年4月1日、フランスがアインタブを占領してから一年後の1920年4月1日トルコ国民軍が市内で蜂起し、アインタブを取り返しました。その後10ヶ月に渡り何度となく繰り返すフランス軍による包囲線に堪え、1921年2月8日に降伏しました。
アンカラ条約(1921年10月20日)
アインタブ包囲戦で勝利したフランスですが、トルコ・アンカラ政府との間で結ばれたアンカラ条約に従い、フランスはトルコにアダナ州とアレッポ州を割譲し、トルコ国内ら撤退することに同意しました。これによりフランス・トルコ戦争は終結することになりました。
旧オスマン帝国内のアダナ州(赤色)とアレッポ州(茶色)
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1922年、ギリシア・トルコ戦争
ここまででトルコは東部のアルメニア戦線と、南部のフランス・トルコ戦線で勝利を収め、両線戦の兵力を対ギリシア戦に振り向けることが出来るようになりました。さらにモスクワ条約に従って、ロシアから大量の武器弾薬が送られてくるようになり、軍備も充実しました。
ギリシアはイギリスに対してこれまでの軍事支援でなく、イギリス軍の派遣を要請しました。第一次世界大戦後の不況に苦しんでいるイギリスは、多額の費用が掛かる軍の海外派兵に対する国民の反対に会い、トルコへの派兵を断りました。
ドゥムルピナルの戦い
1922年8月26日、トルコ軍はギリシア軍に対して一斉攻撃を開始し、8月30日にはギリシア軍が撤退した、トルコのキュタヒヤ県の県庁所在地ドゥムルピナルの街に到達しました。
8月30日午前11時、ドゥムルピナルに到着したギリシア第1軍団司令官トリクピス少将は部下からの報告により戦闘に使用できる兵力は歩兵7000名、騎兵80名、砲兵116名に減少したことを知らされ、他の兵10000~ 15000名は武器も食糧も尽き戦闘不可能となっていました。
報告を受けたトリクピス少将は、トルコ軍の攻撃に耐える兵力がないと判断して、司令部のあるイズミルへ向かうよう命令しました。
午後4時トルコ軍はドゥムルピナルへの攻撃を開始して、午後11時30分に戦闘は終了しました。
敗走するギリシア軍を追撃しながらトルコ軍も西に向かい、1922年9月9日イズミル到着して、街を占領しました。これにて3年間にわたり統治を行ってきたギリシアの占領は終了しました。
トルコ軍のスミルナ入城の絵
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ムダニヤ休戦協定(1922年10月11日)
ムダニヤ休戦協定はギリシア・トルコ戦争に勝利した、トルコ・アンカラ政府と、アナトリア半島を占領していたイギリス、フランス、イタリア王国、ギリシア王国(10月14日から参加)との間で、締結された休戦協定です。
東トラキア
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この条約により、トルコはボスポラス海峡、ダーダネルス海峡に隣接している東トラキアの領有を認められました。
これを機にムスタファ・ケマルは、帝国政府を廃止させて二重政府となっていたトルコ国家をアンカラ政府に一元化しようと図り、1922年11月1日、スルタン=カリフ制(行政のトップ「スルタン」が宗教のトップ「カリフ」を兼ねる制度)を盗っていたオスマン大国の皇帝からスルタン制のみを廃止することを大国民会議において決議させました。こうしてオスマン帝国の皇帝であったメフメト6世は行政権を奪われ、11月17日マルタに亡命しました。
オスマン帝国の第36代スルタンかつ最後の皇帝、
及びイスラム教カリフ第115代メフメト6世
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カリフの資格を持つのアメフト6世が亡命したことで、いとこのアブデュル・メジド2世が大国民会議により11月19日カリフ(ムハンマドの後継者で、イスラム教の指導者)に選出されました。
オスマン王朝の最後のカリフ・アブデュルメジド2世
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ローザンヌ条約(1923年7月24日)とトルコ共和国
メフメト6世の亡命により政権を握ったアンカラ政府は連合国と改めて講和会議を行い、1923年7月24日ローザンヌ条約が締結され、新たな国境が画定されました。
ローザンヌ条約により決定したトルコ国境
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ただし、エーゲ海と黒海を結ぶ海峡(ボスポラス海峡とダーダネルス海峡)およびマルマラ海は全艦船に対して解放し、国際連盟海峡委員会(Straits Commission)の管理下におく(海峡沿岸地帯の非武装)ことになりました。
トルコがローザンヌ条約で失った地域は
- トルコは東トラキア(エディルネ・マリツァ川以東)を領有し、これを除く全欧州領を放棄。
- シリアとイラクを放棄。シリアはフランス委任統治領となり、イラクはイギリス委任統治領となる。
- エジプトとスーダンを放棄
- キプロスをイギリスへ割譲
- エーゲ海諸島(イムヴロス島およびテネドス島を除く)をギリシャへ割譲
そのほかとしては、トルコ領内におけるクルド人自治区とアルメニア独立は取り消しとなりました。
トルコ共和国誕生
1923年10月29日、アンカラ政府は大国民会議で共和制宣言が可決され、ムスタファ・ケマルが初代大統領に就任しました。
これにて600年以上続いたオスマン帝国は消滅しました。
大統領となったムスタファ・ケマルは、トルコの近代化を進めるためにはイスラームの宗教的支配から政治・文化・教育などを解放して西欧化を目指した政教分離が必要と考え、1324年3月3日カリフ制度を廃止して、最後のカリフ、アブデュルメジト2世を国外追放にしました。
そのほかムスタファ・ケマルの行った政教分離の政策には
- イスラム教で認められていた一夫多妻制を禁止して、一夫一妻制にする。
- 女性参政権の導入。
- トルコ語を国語とし、使用する文字をアラビア文字からローマ字に変える。
- イスラム暦を廃止して、太陽暦に変える。
- 女性のチャドル(顔を隠すヴェール)やトルコ帽の廃止
などがあります。
ドイツやオーストリア=ハンガリーと違い、パリ講和会議の決定に反発してトルコの近代化に成功したムスタファ・ケマルは多くのトルコ国民から尊敬と信頼を受け、トルコ大国民会議から「アタルチュク(建国の父、国父)」の称号を贈られました。