なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

なぜケネディ大統領は暗殺されたのか? その原因はここにある。キューバの歴史

time 2017/09/30

なぜケネディ大統領は暗殺されたのか? その原因はここにある。キューバの歴史

キューバの歴史

ここでキューバ建国から、ソビエトがキューバにミサイルを設置するまでのいきさつを書いてみます。更にキューバに利権を持っていた米企業やアメリカンマフィアが利権を守るためCIAや米軍の力を借りてカストロ政権打倒を謀ったが、ケネディ大統領によって失敗したためケネディ大統領暗殺の一因になったと言われる。

米西戦争

コロンブスの西インド諸島到達以来キューバはスペインの植民地であった。

19世紀になると、植民地生まれりスペイン系白人「クリオーリョ」がスペインに対して独立運動がはじまった。

1998年2月ハバナ港でアメリカの軍艦メイン号が突然爆発を起こし沈没した。アメリカの国内ではこれはスペインの謀略であるとの声が高まり、当時普及し始めた新聞が大々的に煽り立てて、「スペインをやっつけろ」との世論を元にマッキンリー大統領は開戦を決意し、議会がスペインに対して宣戦を布告し、米西戦争(アメリカとスペインの間の戦い)が始まりました。

この戦争でアメリカが勝ったことにより、キューバの独立は承認され、アメリカはフリィピン、グアム、プエルトリコを領有しました。

1902年キューバの憲法制定に当たりアメリカはプラット条項と言われる条文を入れることを求めました。これにはキューバに何かあったときアメリカが軍事介入できることと、それに必要な軍事基地を提供することが書かれていました。

これによりキューバは独立を果たしましたが、半分アメリカの保護国となることとなりました。

これにより当時アメリカがキューバに上陸したグアンタナモは永久に租借地となり、現在アメリカ軍の基地がおかれています。

アメリカの保護下で、鉄道や道路が整備され全島でサトウキビが生産されるようになり、一大産業に発展した。

しかしその反面、アメリカ経済に依存する体質が高まり、アメリカ資本とつながる一部の富裕層が富を独占するようになりました。

バティスタ政権

1930年に起こった世界大恐慌は、キューバに大打撃を与え各地で農民や学生のストライキが発生した。反米的なグラウ政権が誕生するとアメリカは圧力をかけ、軍部のバティスタを動かし親米政権を樹立させました。

大統領となったバティスタは、アメリカの保護のもと独裁政治を行い、またアメリカ資本と結びついて富を独占し、一般の国民の生活は苦しいままでした。

しかし第2次世界大戦中の1944年に行われた総選挙で、バティスタの推す大統領候補がグラウに敗れたため、バティスタはフロリダに亡命し、亡命先のフロリダで現地のマフィアと結びつきカジノを経営していました。

1952年3月10日に、バティスタはクーデターを起こし大統領に就任しました。

亡命中に結び付いたアメリカ資本家やマフィアに対して、利権を保護し私欲を満たすようになった。

 

 

これにより、バティスタ政権、アメリカ政府、米国企業集団、さらにマフィアの4者がキューバの富を独占し、その富がアメリカに流れる社会構造が出来上がった。

キューバ革命

親米政策を取りつつ、アメリカの援助を受けて独裁体制の強化を計るバティスタ政権に対して、国民の間に反バティスタ運動が芽生え始めました。

1953年7月28日カストロをリーダーとする反バティスタグループがサンチアゴ兵営を攻撃したが失敗しました。

フィデル・カストロや弟ラウル・カストロのリーダーたちは15年の刑を受けたが、2年後に恩赦を受け釈放されました。

カストロ兄弟はメキシコに亡命し、同じく亡命してきたキューバ人を集めて、バティスタ政権打倒の集団を組織しました。この時コロンビア人のチェ・ゲバラが加わりました。

1956年11月カステロの軍団82名は、8人乗りの小さなヨット「グランマ号」でキューバに戻った。あらかじめキューバ上陸を公言していたため、上陸と同時にパテイスタ軍と戦闘になり12名を残し大部分は殺されたか、捕らえられました。

カストロら12名は山間地に潜伏し、ゲリラ活動を続けつつ勢力を拡大していった。

フィデル・カストロ(左)とチェ・ゲバラ(右)

1958年カストロ率いる革命軍は本格的な攻撃を始めた。

1959年1月1日、バティスタがドミニカは共和国に亡命し、カストロはハバナを支配下に置き革命は成功しました。

革命政権成立後

アメリカとの関係

アメリカはキューバ革命から6日後の1月7日に新政権を承認しました。

キューバ革命が報道されることにより、かってアメリカが支持してきたバティスタ政権が汚職や利権にまみれ、私腹を肥やすなど悪徳の限りを尽くし、この政権とアメリカ政府との密接な関係に批判が高まったためでした。

新たに政権を握りキューバに変化を生み出そうとするカストロに対して、初めは好意的な印象を持っていました。

 

ここでカストロの面白いエピソードを一つ

1948年11月、アメリカのメジャーリーグ選抜チームがハバナ大学のチームと対戦します。

当時弁護士を目指しハバナ大学の法学部で学んでいたフェデル・カストロが、投手として登場します。

結果はメジャーリーグ相手に、3安打無失点。

翌年ニューヨーク・ヤンキーズが年俸5千ドルででカストロを獲得しようとしましたが、彼はこれを断り弁護士の道に進みました。

昔から、キューバのアマチュア野球は強かったんですね。

革命後もフィデル・カストロ議長は革命軍野球チーム「バルブドス(ひげ面という意味)」を率いて野球をしていました。当時(1959年)の写真です。

 

もちろんピッチャーはカストロ議長です。

 

革命後最初にしたことは、バティスタ政権に手を貸した、戦争犯罪人の一斉摘発でした。

1月15日に行われた戦争犯罪人糾弾ハバナ集会で捕らえられた数千人の犯罪人の内、特に悪質な550人が有罪とされ6月にかけて処刑されました。

カストロは2月に労働組合相手に各地で演説し、貧農や事実上の農業奴隷の救済、農村から都市への大量の人口移動による失業者の増加を訴え、労働者階級にとって農業改革が最大の課題であることを強調しました。

当初、カストロは反米主義者でも共産主義者でもありませんでした。むしろ、「アメリカ合衆国に対して友好関係を保つ」と表明し、1959年4月アメリカに訪問することにした。

ところがカストロから公式会談の申し込みを受けたアメリカのアイゼンハワー大統領は、親米派であったバティスタ政権関係者を大量処刑したことの米国国内の反感や、農民を救済するために大地主から農地の強制接収を計画していることなどにより、「共産主義者」と疑い、かねてから予定していたゴルフに行くことを理由に、会談を断りました。

代わりに会談したニクソン副大統領は、「共産主義の影響拡大」、「反革命分子の大量処刑」、「自由選挙の未実施」などでカストロを問い詰め、満足のいく答えを得られなかったことから「カストロは打倒すべき人物で、キューバ人亡命者部隊を編成してキューバに侵攻すべきである」とアイゼンハワー大統領に進言した。

このニクソンの進言が、後のピッグス湾事件やCIAによるカストロ暗殺計画の元となりました。

カストロとアメリカの対立

アメリカから帰国したカストロは農地改革法を実施しました。

個人でも会社でも農地の所有を400ヘクタールまでとし、それを超える土地は国が没収して、農業希望者に無償で分け与えるものでした。

また、サトウキビだけでなくほかの作物の栽培を奨励し、食糧事情の改善を図りました。

当時キューバ全体の農地の7割以上所有していたユナイテッド・フルーツ(現チキータ)にとっては、アメリカ企業の資産没収と同じであり、これによりアメリカ政府の大きな反発をかいました。

余談ですが、当時大地主であったカストロの実家も例外でなく、土地を没収された実家は怒ってカストロを勘当しました。

この改革で富裕層に基盤を置く旧来の政治家が一掃され、農民・労働者・中間層が政治の主流となりました。

しかし、富裕層やアメリカとつながりの有る人々を中心とする反革命勢力との戦いも続いていきます。

アメリカの砂糖禁輸処置とキューバの対応

1959年6月、農地改革によってアメリカ企業の土地を没収したことに対し、アイゼンハワー大統領はキューバからの砂糖を輸入することを禁止する処置を取りました。

砂糖栽培以外にこれといった産業の無いキューバは、大きな経済危機に見舞われることになりました。

1959年9月カストロは「単一産品のサトウ、単一市場のアメリカに依存する構造を変え、経済と市場を多様化する」との政策を取ることを宣言し、米国依存から離脱する方針を打ち出しました。

そこでキューバ政府は特使をヨーロッパに派遣して、新たな貿易相手を築こうとしました。ところがアメリカがこれに介入して、片っ端しから潰していきました。

当時ヨーロッパは戦後の復興のため、アメリカの援助を受けていて、アメリカに逆らってまで、キューバとの貿易をする余裕がありませんでした。

そこでカストロは弟のラウル・カストロをモスクワに派遣し、ミコヤン第1副首相をハバナに公式訪問するよう正式に招請し、ソビエトとの接近を開始した。

1960年1月、ソ連のミコヤン副首相がハバナを公式訪問し、ソ連がキューバから砂糖を買い取り、代わりにキューバはソ連からから原油を輸入するバーター取引や、重火器を含む武器調達の取引、有利な条件での借款の受け入れなどの調印をしました。

1961年4月ソ連からの原油を積んだ最初のタンカーが入港しました。

キューバにあるアメリカ系の石油会社は、ソビエトからの原油の精製を受け入れるつもりでしたが、本社の指示によって原油の精製を断りました。

1961年5月、ソ連のミコヤン第1副首相は再びハバナを訪問し、キューバとソ連との一連のやり取りを確認し、具体的な協定を結びました。

協定では、ソ連は今後5年間に砂糖500万トンを買い付けるとともに、総額1億ドルの借款を供与することになりました。さらに国際価格の3分の2の価格での原油の供給も取り決められました。

ミコヤンの訪問中、ソ連とキューバ間の国交が樹立し、武器供与についての合意が成立しました。「武器供与の合意」によって、武器だけでなく、それを使いこなす組織や補給体制、軍事作戦の立て方など、ソ連の軍事システムがキューバに移されることになりました。

これと前後し国防相のラウル・カストロがチェコを訪問し、武器購入で合意しました。この正規の武器購入ルートをキューバが確立したことに対して、アメリカは武器禁輸処置で対抗しました。

 

同年6月キューバ政府は、原油の精製を拒んだ石油会社各社のほか、ユナイテッド・フルーツ、チェース・マンハッタン銀行などアメリカ合衆国の政府や企業、個人の所有するすべての資産の国有化を開始しました。

1960年9月、カストロが国連総会に出席する直前、アメリカは国内にあるキューバの資産を差し押さえるとともに、キューバに対して経済や軍事援助を行った国にたいし、制裁を加える法案を可決しました。

カストロの国連総会出席

9月下旬、カストロは国連総会で演説し、キューバ革命を自画自賛するほか、アメリカに対する批判を4時間半に渡って述べました。

 

カストロの国連総会出席で起きたハプニング

9月18日から27日のカストロの国連総会出席に対して、アメリカ国務省は代表団の行動範囲を、マンハッタン島に限ると通告しました。

19日ニューヨークに到着したキューバ代表団は国連ビルに近くのシェルボーン・ホテルに向かいますが、ホテル側はキューバ亡命者の騒動に備えて『もしもの時の補償金」を請求しました。正規の宿泊代以外の金額は払えないとした代表団は、国連ビル前にある芝生にテントを張って泊まることにしました。

さすがこれではと、支援者たちはあちこち探し回り、最終的にはニューヨークの下町ハーレムにあるホテル・テレサに宿を確保し、深夜になって代表団一行は移動しました。

翌日になって、この下町のホテルになんと、ソビエトのフルシチョフ首相がカストロに会うため訪問しました。その後、エジプトのナセル大統領、インドのネール首相等、世界の大物のほか黒人作家のラングストン・ヒューズ、黒人運動指導者のマルコムXも来ました。

これら有名人の訪問に下町のホテル周辺はお祭り騒ぎとなり、警備陣にとっては大変こととなりました。

カストロとフルシチョフ首相

カストロとフルシチョフ首相

翌日カストロはお礼のためソ連代表部を訪問し、フルシチョフと4時間半にわたり会談しました。会談後フルシチョフは「カストロは共産主義者ではないが、米国の圧力で2年後には、共産主義者になるだろう」と予言しました。

22日、アメリカのアイゼンハワー大統領は、ラテンアメリカ各国の首脳を招き昼食会を開きました。ただし、キューバだけは招かれませんでした。完全な当てこすりです。

カストロも負けず、独自に昼食会を開き、迷惑をかけたお詫びにホテル・テレサの従業員たちを招待しました。

9月27日、国連代表団がキューバに帰る直前、アメリカはキューバの飛行機を差し押さえました。途方に暮れているキューバ代表団にフルシチョフは自国の旅客機イリューション18を差し出しました。これに乗り、キューバの代表団は帰国することが出来ました。

これらの出来事によってカストロは、アメリカの思惑に反し、キューバがアメリカの圧力に屈しない姿勢と、ソ連との密接な関係を世界中にアピールすることが出来ました。

おしまい

1960年10月、国連総会から帰ったカストロは、さらに改革を進めます。

第一に基幹産業国有化法を制定し、105の製糖工場を含め国内の民間大企業、民間銀行、貿易会社などが国有化されました。

第二に都市部における住宅不足を解消するために、都市改革法を制定し都市部の不動産売買は政府の管理下に置くこと、また賃貸を目的とする不動産の所有を禁止し、会社所有の物件はすべて国有化されました。

第三は、農地改革法を徹底しました。

これに対抗して同じ10月、アイゼンハワー大統領は秘密裏にCIAに対し、海空からの破壊活動、キューバ国内の反革命勢力の支援、カストロ暗殺等のカストロ政権転覆の活動を命じた。

CIAはアメリカの関与を隠すため、キューバからの亡命者1500人を集め、CIAの援助のもとキューバ上陸作戦のための訓練をグアテマラ秘密基地で開始した。

アイゼンハワー大統領は任期切れが近づいたため、この作戦から手を引き、次期大統領選挙で当選確実と見られていたニクソン副大統領と、CIAのダレス長官がこの作戦を進めた。

1961年1月3日、アイゼンハワー大統領は、キューバとの国交断絶を指示しました。これはキューバに対する宣戦布告に等しいものです。

ピッグズ湾事件

大方の予想に反して、1960年11月8日に行われた大統領選において、ケネディはニクソンに対して勝利をおさめ、1961年1月20日第35代アメリカ合衆国大統領に就任しました。

大統領就任前に、CIAのダレス長官からこの計画の説明を受けたケネディは大変驚きました。

しかし、アメリカの勢力圏から共産主義を排除しようと考えていたケネディ大統領は、この計画に賛成しました。ただ計画を承認するにあたり、アメリカの関与を隠すため、米軍が公然と直接キューバに進軍しないことを主張しました。

キューバ側はアメリカに亡命したキューバ人や、この秘密を嗅ぎ取ったマスコミの報道などで、アメリカの侵攻が近いことを知り、国内の反革命分子を一斉摘発し、10万人を拘束しました。

4月15日早朝、キューバ政府軍に偽装したアメリカのA-26爆撃機9機のうち8機がキューバの基地を爆撃したが結果はキューバが所有する36機の内5機しか破壊できませんでした。このためアメリカは制空権の確保に失敗しました。

残りの1機は直接マイアミに飛び、この爆撃がキューバ軍内部の反乱であるとの声明を出したが、第2次世界大戦中に製造されたオンボロ爆撃機につけたキューバ軍の標識が新しいことから、偽装がバレてしまいました。

 

キューバ軍のマークを付けたアメリカ軍のA-26爆撃機

国連総会の政治委員会に出席中だったキューバのラウル・ロア外相は,「本日の爆撃は疑いもなく大規模な侵攻の序曲である.この侵攻作戦は米国が指導し準備したものであり,中南米の独裁者たちに支援されたものである」と米国を激しく非難します。

16日カストロはアメリカの空爆で亡くなった7名の追悼集会で、アメリカとの決戦を覚悟するよう呼びかけます。

全土に戒厳体制が取られ、正規軍2万5千人のほか、民兵20万人が出動し戦闘態勢に入りました。

4月17日早朝、亡命キューバ人の部隊がビッグス湾に上陸しました。沖合には弾薬や食量を満載した補給船4隻と、軍艦が浮かび、さらに沖には空母「エセックス」が控えています。

キューバ侵攻軍は、始め最新の武器やA-26爆撃機の支援で優勢に軍を進めましたが、補給艦の内2隻がキューバ軍の爆撃で沈められ、残りの船も避難して補給が途絶えたことと、航空支援の爆撃機がキューバの戦闘機に撃墜されたため、孤立し、4月19日に完全に包囲・撃退され侵攻作戦は失敗に終わりました。

ピッグズ湾事件、その後

作戦の実行中CIAと軍部は、空母「エセックス」の艦載機による援護をケネディに要請しましたが、アメリカ軍が表立って参加することはできないと断られたためケネディに対して反感を持つようになりました。また、ケネディもCIAと軍部が詳しく説明せず、かってに作戦を進めたことで、不信感を持つようになり、両者の対立が激しくなりました。

1961年5月1日メーデーの日にカストロ首相は今までの革命が「社会主義革命であった」と宣言し、社会主義国の仲間入りをしました。

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「キューバ危機」とは。「戦えば多くの国民が犠牲になる」この一念が、核戦争を防いだ

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ケネディ大統領を暗殺したのは誰か? 映画「JFK」

 

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