映画 JFK
1991年 アメリカ
トランプ米大統領は2017年10月25日、1963年のジョン・F・ケネディ大統領暗殺に関して、これまで非公開だった機密文書が26日に公開されるとツイッターで明らかにしました。
ケネディ暗殺当時、ニューオーリンズの地方検事だったジム・ギャリソンは、3年に及ぶ地味な調査により、クレイ・ショーがケネディ大統領暗殺を企てた容疑で、1967年3月告訴しました。しかし、裁判で陪審員の評決は
「陰謀が存在したことは認めるが、クレイ・ショーは無罪」というものでした。
彼はさらに新しい事実を加えて1992年『JFK ケネディ暗殺犯を追え』を出版しました。この映画はこの本をもとに作られています。
監督
オリバー・ストーン
脚本
オリバー・ストーン
ザカリー・スクラー
原案
ジム・ギャリソン
ジム・マース
製作
A・キットマン・ホー
オリバー・ストーン
製作総指揮
アーノン・ミルチャン
音楽
ジョン・ウィリアムズ
撮影
ロバート・リチャードソン
編集
ジョー・ハッシング
ピエトロ・スカリア
製作会社
リージェンシー・エンタープライズ
配給
ワーナー・ブラザース
公開
アメリカ 1991年12月20日
日本 1992年3月21日
出演者
ケビン・コスナー
トミー・リー・ジョーンズ
ゲイリー・オールドマン
ケヴィン・ベーコン
あらすじ(ネタバレたっぷり)と詳細解説
これから話すことは、事実と当時の再現とフィクションが混ざっています。
・ケネディ大統領暗殺の思い出
日本時間1963年11月23日(勤労感謝の日)日米間で通信衛星を使った史上初のテレビ中継が行われるとのことで、朝からテレビにかじりついていました。始めはアリゾナ砂漠のサボテンが映っていましたが、
当時の模様を伝えるNHKの番組
突然飛び込んできたのがケネディ大統領暗殺のニュースでした。
すぐに、犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドが逮捕されましたが、2日後の警察署地下で護送中のオズワルドがジャック・ルビー(ルビーは4年後、肺がんのため獄中で死亡)に殺される事件が起きました。ミステリー映画の上を行く展開に、日本中が大騒ぎしたのを覚えております。
1964年9月24日ウォーレン委員会は、ケネディ大統領暗殺事件の調査結果をジョンソン大統領に提出し、3日後一般公開されました。ただ資料の一部は非公開とし、2039年まで75年間封印することになりました。当時中学生だった私は、全部の資料が公開されるまで、絶対生きてやろうと誓い今に至っています。2017年10月26日トランプ大統領によって、公開することが決定しました。
ウォーレン委員会の報告書ではオズワルドの単独犯行とされたが、この決定に疑問を持ったニューオーリンズのジム・ギャリソン地方検事は独自に調査を行い、ケネディ大統領暗殺を企てた陰謀の容疑でクレイ・ショーを告訴しました。
この映画はクレイ・ショー裁判までの調査の様子を描いています。
・1963年11月22日
地方検事ジム・ギャリソンはいつも通り仕事をしていた。そこへ検事補のフランク・クラインが飛び込んできて
「大統領が撃たれた」
と叫んだ。ギャリソンはクラインと一緒に近くのレストラン『トートリッチ』に行き、置かれているテレビで流れてくるニュースを見た。
CBSのニュースキャスタークロンカイトが大統領の死亡を伝えると、店内は静かになったが一部の客はケネディ大統領の死を喜んでいた。
当時の現場からの中継で、パレードの前方にある丘(グラシー・ノール、grassy knoll)から発砲があったとする複数の目撃証言がありました。これはウォーレン報告のオズワルドの単独犯行に反する目撃証言です
やがてテレビはケネディ大統領暗殺を企てた容疑者として、リー・ハーヴェイ・オズワルトを拘束したことを伝えます。ギャリソンはオズワルドに心当たりがありました。以前地元ニューオーリンズでキューバのカストロ支援のビラをまき、右翼の連中と揉め、警察に逮捕されたことがあったからです。
ギャリソンはオズワルドの再調査を始めます。
同じ日ギャリソンとFBIで一緒に働いていたことのある、ガイ・バニスターがジャック・マーチンと喧嘩になり、バニスターが357マグナムの銃身でマーチンを殴り怪我を負わせるという事件が起こっています(ニューオーリンズ警察1963年11月22日の記録 K-12634-63)。この事件が後で大きな意味を持ってきます。(ガイ・バニスターはこの事件の9か月後に死亡)
捜査を進めていたギャリソンは、ディビット・フェリーがオズワルドと数回会っていたことを掴みます。さらにそのフェリーがケネディが暗殺された当日車でテキサスに行っていたことが分かりました。
フェリーは地元の在郷軍人会で、反カストロの演説をしていたことで知られていました。
ギャリソンはフェリーを呼び金曜日にテキサスに行った訳を聞きましたが、はぐらかされてしまいました。さらに詳しく調べるためフェリーをFBIに送りましたが、ケネディ暗殺に関係がないとのことで釈放されました。そのまま3年の年月が流れます。
・ケネディ暗殺から3年後
ギャリソンは飛行機の中である上院議員(ラッセル・ロング上院議員だと本の中で言っています)の隣に座っていた。彼と世間話をするうちに、ケネディ暗殺についての話になった。彼はオズワルドがビルの6階からケネディに向かって6秒間に3発の弾を打ちすべて命中させることは不可能だと言った。私が反論すると、射撃の名手が試したが出来なかったそうです。しかもそのうち1発の弾丸は7回もケネディ大統領と前に座っていたコナリー・テキサス州知事の体を出たり入ったりしていた。
この7回も人間の体を出たり入ったりした銃弾は「魔法の銃弾」と呼ばれ大きな疑惑を生みました。
上が横から見た図、下が真上から見た図です。当時ケネディ大統領は後席に、その前にコナリー・テキサス州知事が座っていました。
- 教科書ビルの6階から撃たれた弾丸は右斜め上からケネディ大統領の背中に当たります。(第1の傷)
- 背中から入った弾丸は大統領の体の中で跳ね上がり、喉からに体外に出ます。(第2の傷)
- ケネディ大統領の体を出た弾は1.6秒かけ(ケネディ大統領が撃たれてから、コナリー知事が撃たれるまで1.6秒あることは8ミリのコマ数から分かっています)大きく右に旋回し、前に座っていたコナリー知事の右肩を貫通します。(第3.第4の傷)
- コナリー知事の方から出た弾は、右手首に当たり、手首の骨を砕いた後Uターンして体外に出ます。(第5.第6の傷)
- 手首から出た弾は今度は下に向かって飛び、コナリー知事の左足膝上に当たって止まりました。(第7の傷)
ウィキペディアで、このように座っていれば、弾道が一直線になると言っていますが、弾の上下移動と、ケネディ大統領に当たってから、コナリー知事に当たるまでの1.6秒については何も言っていません。下の写真は提出された「魔法の弾丸」の証拠写真です。
この弾丸に疑問を持った委員会は、解剖用の死体の手首に弾を打ち込みその写真を証拠物件856号として提出した。
さらにもう1つ大統領専用車の床から発見された弾丸の破片がある。証拠物件567・569
この弾丸は上の部分と下の部分2つに分かれて発見されました。1つの弾丸が2つに分かれたのか、2つとも別々の弾丸かは分かりません。
この2つの弾丸は「魔法の弾丸」と比べて大きく変形しています。
家に帰ったギャリソンはウォーレン委員会の報告書を取り寄せて読んでみた。
すると大変なことに気が付いた。大統領を暗殺したリー・ハーヴェイ・オズワルドの尋問記録がないのだ。
さらに大統領暗殺の瞬間、車列の前方グラシノールと呼ばれる丘の上から発砲がありそこに向かった人々が、シークレットサービスの職員に行く手を阻まわれたと証言しているが、当時シークレットサービスの面々は大統領に付き添ってパークランド病院に行き、現場にいなかったはずなのに、このことに対しての調査もなされた形跡がなかった。
その他いろいろ疑問点が見つかり、ギャリソンは独自で調査を開始した。
ここでこの映画の主な登場人物について紹介しておきます。
1939年10月19日~1963年11月24日ケネディ大統領暗殺の実行犯とされている人物
海兵隊員
ニューオーリンズで生まれ17歳で海兵隊に入隊。ここで彼はかねてから興味を持っていたロシア語を公務として勉強し始める。主人公のジム・ギャリソンは、普通のアメリカ兵が公務としてロシア語を学ぶことはないと言っている。
1957年、1958年と日本の厚木基地(海軍厚木航空施設)で航空管制官を務めていた。
射撃の腕
彼は海兵隊員時代、特級射手(expert)、一級射手(sharpshooter) 、二級射手(marksman)の資格について、1956年12月には、一級射手の資格に必要な得点をクリアしている(50点満点中48点と49点)。したがってスナイパーとしては無理でも、普通の一般人に比べて射撃の腕はかなり上とみてよい。
ソ連への亡命と再帰国
1959年厚木基地を除隊後、ソ連に旅行し、そのまま亡命した。ソ連ではテレビ工場で働き、ソ連人女性マリーナと結婚した。このことからオズワルドはロシア語を流ちょうに話せることが分かる。マリーナは彼をロシア人だと思っていたそうです。
その後考えを変え、マリーナと娘を連れて1962年にアメリカへ帰国。
ここで不思議なのは、アメリカ軍は彼がソ連に亡命した後すぐに、レーダー設備をそっくり入れ変えていることです。航空管制官としての彼が、日本のレーダー網をソ連に漏らすのを防ぐためか、入れ替える前にワザと彼をスパイとしてソ連に送り込んだかは不明。ただ再帰国を許した事と、のちにCIAのために働いていることから、わたくしは後者だと思っている。
帰国後、彼は妻子とともにニューオーリンズに住みフィデル・カストロの支援団体「キューバ公平委員会(Fair Play for Cuba Committiee)に参加した。この時ビラ配布の際に逮捕されている。
その反面彼は反カストロのデイヴィッド・フェリー(後述)、ガイ・バニスター(これも後述)と、頻繁に会っていた。
オズワルドは、逮捕直後から記者団の前で「過去の亡命につけこまれた」「自分は嵌められた」「身代わり(patsy)」と主張し、また弁護士不在についても異議を唱えている。逮捕から2日後の11月24日午前11時20
分頃、ダラス警察の地下駐車場で、郡刑務所へ移送される車に乗る直前にジャック・ルビーによって銃撃された。すぐに救急車でパークランド病院へ搬送されたが、警察は同日午後1時7分に死亡したと発表した。
これも不思議なことですが、逮捕から殺されるまでの拘留期間中の尋問調書は残っていません。
デイヴィッド・フェリー
1918年3月28日~1967年2月22日
オハイオ州クリーブランド生まれ パイロット
始めは聖職者の道を選んだがゲイであるため断念し、ニューオーリンズで民間会社のパイロットを務めていた。しかし同性愛者とのことで、ここも失職し、一時はマフィアのカルロス・マルセロの配下に入ったこともある。
パイロットとしての腕は超一流でどんな狭い所からでも離着陸できるとの評判であった。その腕を買われ国外追放された前記のカルロイ・マルロスが米国に戻るときのパイロットや、CIAの秘密作戦ビッグス湾事件に参加したと言われている。
また彼は全身脱毛症のため、眉墨で眉を書き、自家製の赤毛のかつらをかぶっていた。反カストロ主義者で退役軍人会などで度々演説してニューオーリンズではよく知られていた。
市民航空パトロール(Civil air Patroll略称CAP)
直訳するとこうなるのだが、青少年航空団みたいなものだろう。
フェリーはこの隊長を務めていた。また、海兵隊に入る前のオズワルドも入団していた。
上の写真はCAPでバーべーキューをしているときの写真だが、一番左がフェリー、右端がオズワルドです。
1967年2月22日ルイジアナ・アベニュー・パークウエイのフェリーのアパートで彼は「二通の遺書」を残して死体となって発見された。検視官の結論は脳内出血による「自然死」である。
1901年3月7日 ~1964年6月6日
ルイジアナ州モンローで生まれた。
ルイジアナ州立大学で学んだ後、彼はモンロー警察で勤務し1934年から1954年までFBIの職員として勤めていた。
1955年1月、 ニューオーリンズ警察署の副所長に就き、 警察 組織内の組織犯罪や腐敗の調査作業を受けた。 彼はまた、 ニューオーリンズの 市民権闘争で左翼の政治活動家たちを監視していたことが後に明らかになった。テュレーン大学とルイジアナ州立大学のキャンパスでは、 “共産主義”活動に関する情報を収集する情報提供者のネットワークを運営していた。 彼は連絡先を通じてFBIに調査結果報告を提出していた。
ニューオーリンズの警察を去った後、バニスターは自らの私立探偵機関、ガイ・バニスター・アソシエイツ(Gy Banister Associates、Inc.)を設立した。
1960年6月、バニスターはニューマン・ビルディングの1階にある531ラファイエット・ストリートに事務所を移した。同じ建物内にあり入り口が異なる544番のキャンプ・ストリートの住所は、ケネディ大統領の暗殺者であるリー・ハービー・オズワルドによって配布されたキューバのチラシにスタンプされていた。 バニスターの事務所は、 FBI 、 CIA 、 海軍情報局、 リーリー・ コーヒー・カンパニー ( リー・ハービー・オズワルドの雇用主と反カストロ・キューバ人の支持者)のニューオーリンズ事務所から徒歩圏内にあった。
1964年6月6日に冠動脈血栓症で亡くなりました。
キャンプストリート544番地にあるニューマン・ビルディング。
手前の角にある入り口がオズワルドが配っていたチラシに載っているキャンプストリート544番地、左の車のそばにバニスターの事務所の住所ラファイエット・ストリート531番地の入り口がある。両方とも2階にあるバニスターの事務所に通じています。
・ジャック・マーチンの話
ギャリソンは再調査をはじめとして、ジャック・マーチンから話を聞きました。彼はケネディ大統領暗殺の当日、ガイ・バニスターの事務所で彼から拳銃で頭を殴られた男です。
彼の話から大変なことが分かりました。
- ガイ・バニスターの事務所には大勢の亡命キューバ人や密輸業者が出入りしていた。
- ガイ・バニスターはキューバ人のために秘密の軍事キャンプを経営し、フェリーはその教官をしていた。
- オズワルドが度々バニスターの事務所に出入りしていて、彼の配ったカストロ支援のビラもここで作られていた。
- また、バニスターの事務所は秘密裡にキューバに武器を送る中継点であった。
- クレイ・バートランドという白髪の紳士が、オズワルドやバニスターに会っていた。
- CIAによるキューバ侵攻が失敗した後、FBIが来て事務所やキャンプ地においてある武器・弾薬が押収され大変怒っていた。
これ以上は組織に殺されると言って、聞けませんでした。
・グラシー・ノールからの発砲者
ケネディ大統領の車列前方にあるグラシ・ノールから発砲したのを見た目撃者が何人もいます。なかには捜査官から証言を変えるよう言われた人もいました。
・ジャック・ルビーについて
ケネディ大統領暗殺犯のオズワルドを射殺したジャック・ルビーにはこういう秘密があります。
ダラスではナイトクラブを経営したほか、違法ギャンブル、麻薬取引などを手がけ、銃器をキューバに密売したりもしていた。また彼はよくダラス市警の警官の面倒をみた。食事を用意したり、話をするのが好きだったという。彼が経営するナイトクラブでは警官にタダで飲み物を振舞い、営業時間後にはストリッパーとのデートを取り持ってやったりもした。(出典ウィキペディア)
彼の店で働いていたストリッパーはある日、友達だと言ってジャック・ルビーからフェリーとオズワルドを紹介されたそうです。彼女も殺されるからと言って証言を拒否しました。
捜査を進めるうちにオズワルドの偽物が、中古車販売店、射撃場、ガンショップ、果てはメキシコ大使館などで目撃されたことが分かりました。
ここで正体の分からなかった白髪の紳士クレイ・バートランドが、ニューオーリンズの大物実業家クレイ・ショーの偽名であることが分かりました。
・クレイ・ショー
ギャリソンはクレイ・ショーの尋問を開始しましたが、このことがマスコミに漏れ、テレビや新聞に叩かれることになりました。
クレイ・ショー
1913年3月17日 ~ 1974年8月15日
ルイジアナ州ケントウッド生まれ
ルイジアナ州 ニューオーリンズのビジネスマン。 彼はジョンF・ケネディ大統領の暗殺に関連して起訴された唯一の人であり、無罪となった。
しかし、この時の裁判では分からなかったが、後にCIAがウォーレン委員会の批判者たちへ圧力をかけたこと、クレイ・ショーが実際にCIAのために働いていたことが公的に示された。
また、オズワルドとCIAが繋がっている事を知る大切な証人フェリーの元にも記者が押しかけ、フェリーはギャリソンに保護を申し込みましたが、ギャリソンにはフェリーを保護できる予算や人数がありませんでした。
そうこうするうちにフェーリーがアパートで死んでいるのが、発見されました。駆け付けたギャリソンは死因に疑問を持ちますが、検視官は病死として処理しました。
翌日、ギャリソンはワシントンに飛びCIAの裏事情に詳しいX大佐と会見します。この部分は完全にフィクションです。X大佐のモデルとなったのは、プラウティ大佐ですが、彼はクレイ・ショー裁判の前にギャリソンと会ってはいません。ただ後に出版した彼の話は事件の核心をついています。そのため、オリバー監督は彼をこの場面で登場させたのだと思います。
レロイ・フレッチャー・プラウティ
1917年1月24日 ~2001年6月5日
アメリカ合衆国の軍人、作家、実業家、外交評論家。
プラウティは23年間軍務に就いた。最終階級は大佐。1955年から1964年にかけてペンタゴンで統合参謀本部、国防長官、空軍のスタッフを務めたが、彼の任務内容はペンタゴンとCIAとのリエゾン・オフィサー(連絡将校)であった。1970年代にはアムトラックのシニア・ディレクターとなり、また全米鉄道基金博物館(National Railroad Foundation and Museum)の理事も務めた。
CIAとペンタゴンとのリエゾンは政府内の重要機密に触れることのできる数少ない役職であり、そのときの経験からプラウティはCIAが政府や議会の目の届かないところで国際情勢にいかに影響を及ぼしているかを指摘してきた。自身の著書ではCIAの機構とその発展、冷戦の期限、U-2撃墜事件、ヴェトナム戦争、ケネディ大統領暗殺事件の真相などについて詳述している。プラウティはこれらの出来事は全て密接に関わりあっており、その裏には極秘の「グローバル・エリート」の存在があると指摘している。プラウティの軍及び政府における経歴は、これらのプラウティの主張に信憑性を与えている。
プラウティはオリバー・ストーンの映画『JFK』のアドバイザーも務めた。この映画に登場するドナルド・サザーランド演ずる「X大佐」(主人公のニューオーリンズ地方検事ジム・ギャリスンを支援する人物)はプラウティがモデルであるとされている。ただし実際にはジム・ギャリスンはこの映画で描かれた裁判(クレイ・ショー裁判)の数年後までプラウティに会ったことはなかった。(出典ウィキペディア)
X大佐は言います。
「君は接近した。思ったよりも近づいている。
あの日は第112陸軍情報班が第4軍司令部で非番になっていた。
隊長ライヒ大佐は抗議したんだが、本来はこれは当然の任務だ。
軍がシークレットサービスを補助するのは本来の任務だ。
ダラスのように危険な町で警備に出る事はね。
例え、オープンカーでない時も、少なくとも200人程度の要員を歩道に配置する。
事前にルートと周辺のビルを点検する。ビルの窓を開けることなど絶対に許さん。少しでも開いた窓は狙撃する。
みんな無線を持ち、群集を監視している。大統領のリムジンには時速16キロを保たせる。
特にエルム通りへのカーブではね。
軍隊の存在を感じさせねば、だが実行されていない。警備ルールの基本を無視だ。
ダラス陰謀があったという証拠だ。誰がやったか?私の上司の将軍がライヒ大佐に電話したのか?”警備は他の隊が当たる。君らは非番だ”と?
実際にだれが、やったのか見当もつかない。
オズワルドさえ守れなかった。 陸軍情報部のオズワルドの記録は破棄された。完全にオズワルドとの関係を断ち切った。
閣僚は極東旅行。在独の米軍の3割が帰国途中で、暗殺時にはアメリカ上空だった。
午後0時34分ワシントンの電話が不通になった。
首都へ戻る大統領専用機へ、ホワイトハウスからジョンソンに暗殺犯の情報が入る。
すべてが偶然と言えるか?。信じられない。
閣僚は海外で、知るすべもない。軍は上空で監視。電話は不通で失敗の場合のデマを防ぐ。至れり尽くせりだ。
暗殺を逃れるチャンスはない。
その後、情勢は変わった。
ベトナム戦争は本格化だ。
国防省とCIAはだまし合いだよ。はっきり言ってウォーレン報告は創作だ。
真相は、もっと深く、もっと醜い。
ダレス元CIA長官(ウォーレン委員会の委員長)とは親しかった。でもケネディにクビにされ、公平な調査ができるか? ダレスはY将軍の後見人だ。
私は64年に職務を辞任した。」
彼はその後に大変な事実を暴露しますが、長くなるので映画を見てください。
最後にX大佐は
「この暗殺を告発できるのは君だけだ。
まさに歴史的だ。
選択の余地はない。
君は国家の安全機構に対して、脅威なのだ。本来ならば、もう殺されている。
でも殺す代わりに、君の信頼性を打ち砕く。
いいか、後には引けない。告発しろ。逮捕して波乱を起こせ。
疑惑を持つ大衆の心に火をつけるのだ。政府側も折れる。
大衆は心の底で真実を求めている。真実は君の側にある。
成功を祈る」
と言って別れました。
ギャリソンはクレイ・ショーを告発し、彼は逮捕されます。
マスコミ各社は一斉にギャリソンを非難する報道を流し、家には脅迫電話が来るようになりました。
クレイ・ショー裁判が始まる前に大きな出来事が2つ起こります。
キング牧師と、ロバート・ケネディの暗殺です。
クレイ・ショー裁判が始まりました。
クレイ・ショーの弁護人は、ギャリソンの立てた証人の証言に反論せず、証人の人格を攻撃して証言の信頼性を失わせる戦術に出ました。
ギャリソンはザプルーターフィルムを元に反論しますが、陪審員の評決は陰謀の存在は認めるが、クレイ・ショーがそれに関係した証拠がないとしてクレイ・ショーを無罪としました。
最後にザプルーダ氏の撮影した8ミリフィルムの映像を乗せて置きます。
ザプルーダフィルム 左下の数字はコマ数
YouTubeから
2017年11月26日ウォーレン委員会の機密資料が、現存する人の名前と住所を伏せることで全面公開することになりました。
DVD JFK<ディレクターズ・カット/日本語吹替完声版> [ ケビン・コスナー ]
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