1963年5月8日、釈迦の誕生日を祝う祭日(聖誕祭)にジェム大統領に仏教旗の掲揚が禁止されました。これに抗議した仏教徒内9人が殺されたことから、仏教徒による非暴力運動が始まりました。南ベトナムの治安を担当するジェム大統領の弟ゴ・ディン・ニューは、警察と軍による弾圧を行い、多くの死者を出してしまい、南ベトナム全土で国民の信頼を失いました。
1963年11月2日、軍によるクーデターが起こり、ジェム兄弟は殺害され、ジェム政権は終わりを迎えました。
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亀仙人21963年、仏教徒危機とジェム政権の崩壊
アブ・バクの戦い 1963年1月2日
1962年12月28日、アメリカ諜報機関はサイゴンの南西 65 km にある当時のミトー県(現在のティエンザン県)のアブ・バク村から発信された解放戦線の無線通信を傍受しました。偵察機を飛ばして調べたところ、アブ・バクの戦略村は解放部隊により占拠され、約120名の兵士がおり、近くの戦略村アプ・タン・トイとタン・ビエフを支配する司令部が置かれていることが分かりました。
1963年1月2日早朝、ベトナム共和国陸軍は、第7師団の歩兵大隊、警備大隊2個、機甲大隊1個(M113装甲兵員輸送車13台)、歩兵中隊3個(うち予備軍2個中隊)からなる部隊を動員して攻撃を仕掛けました。
さらにアメリカの軍事顧問団により兵員輸送のヘリコプターCH-21ショーニー10機、攻撃用ヘリコプター、ベル UH-1 イロコイ(愛称ヒューイ)5機、地上観測・偵察機L-19 バードドッグ4機が運用されました。
動員された兵員は約1400名になります。
対する南ベトナム解放軍は、歩兵中隊2個の320名の正規兵と地元のゲリラ兵30名を合わせて350名で、武装は南ベトナム政府軍やアメリカ軍から鹵獲した小銃や軽機関銃、手榴弾しかなく、60㎜迫撃砲1門が唯一の大口径武器でした。
いままで解放戦線は南ベトナム正規軍が攻めてくると分かると、確保した拠点を放棄して撤退していましたが、大隊長のボー・ヴァン・デューは戦いを決意しました。
アブ・バック村の位置、赤い印のところ
赤い丸で囲まれた部分は、南ベトナム領内に大きく突き出した、通称オウムのくちばしと言われる、カンボジアの領土。南ベトナムの首都サイゴンから70キロの位置にあります。
アブ・バクの戦いの戦場地図
出典 Wikipedia
解放戦線側は、戦いに備えて村人達を近くの沼や森林に避難させ、村の周囲や川の堤防、用水路に沿って蛸壺(たこつぼ)と呼ばれる小さな塹壕を無数に作り、空から分からないように草や小枝でカモフラージュしていました。また堤防の裏側を通ることで、お互いの連絡が取れるようにしていました。
蛸壺壕(たこつぼごう) と呼ばれる一人用の塹壕
出典 ウィキペディア
早朝4機の偵察機が村の様子を見るためにやって来ましたが、このときは何もせずに見送っていました。
やがて偵察機の先導で南ベトナム人民軍の機動部隊Aが村の南から、機動部隊Bが村の西側から侵入してきました。両軍とも用水路の土手に隠れていた解放軍によって射撃されたり、用意していた落とし穴や地雷で損害を受け、攻撃は頓挫してしまいました。
村の北側のアプ・タン・トイの攻撃を担当していた第11歩兵連隊の内、3隻のボートで川からやってきた部隊は、岸からの攻撃で1隻が沈没し、上陸した兵士達は仕掛けられた罠や地雷で大きな損害を出しました。
陸からの攻撃を担当した部隊は、アプ・タン・トイの直前20メートルの田んぼの中で解放戦線軍の一斉射撃を受け、動きがとれなくなりました。
午前9時30分,空挺部隊を乗せた5機のCH-1輸送ヘリコプーターが、村の中央に設置された降下予定地にやってきました。しかし、降下終了や着地直前で200メートル離れたアプ・バクの村から集中射撃を受け、4機が破壊されました。さらに降下部隊援護のため、周囲の解放戦線軍をロケット砲や機関や銃で攻撃していた5機のUH-1ヒューイヘリコプターの1機が地上からの攻撃で、墜落してしまいました。
右側が撃墜されたUH-1ヒューイ・ヘリコプター。左側の2機は破壊され飛べなくなった兵員輸送用のCH-1ヘリコプター。
出典 Wikipedia
この後、後続部隊の派遣は見送られ、降下した部隊は敵に囲まれて孤立してしまいました。降下部隊からの救援要請を受け、2機のAD-6スカイレイダーがアプバク上空に到着し、通常爆弾とナパーム弾で村を破壊しました。
また現場から1.5㎞離れた陣地にいた南ベトナム軍の第2装甲騎兵連隊第4機械化ライフル中隊が、13両のM113装甲兵員輸送車の移動を開始しました。
戦場におけるベトナム共和国軍のM113装甲兵員輸送車。
乗員2名+兵員11名
重量12.3t
最高時速64km/h
主武装12.7mm重機関銃M2×1
出典 ウィキペディア
13時30分、M113は破壊されたヘリコプーターのそばまで到達しましたが1列縦隊で進んでいたため、先頭の車両が集落内の解放戦線兵士から一斉射撃を受け、ハッチから上半身を出していた車長が死亡してしまいました。2台目の車両も、解放戦線からの一斉射撃で、ハッチから顔を出していた操縦手が射たれストップしました。それでも解放戦線の塹壕に向かって攻撃を仕掛けましたが、塹壕に近づいたとき、解放戦線の分隊長と部下数人が塹壕から飛び出し、先頭車両に乗り込んで手榴弾で、指揮官と機関銃手をしていたベテランの軍曹を死亡させました。
最後の頼みとして火炎放射器を装備したM113を前面に出しましたが、操作員がゼリー化剤とガソリンの混合比を間違えて配合したため。200メートル届くはずの火炎が、30メートルしか飛ばす、失敗してしまいました。
14時30分頃、攻撃に失敗して意気消沈した第4機械化ライフル中隊は破壊された3両のM113を戦場に残し撤退しました。
16時頃、戦力増強のため300名の空挺部隊が、ヘリコプターではなく輸送機から落下傘降下をしました。しかし、輸送機が地上からの攻撃を恐れ高空を飛行したため、落下傘部隊が降下したのは解放軍部隊のいる塹壕の目の前でした。
このため空挺部隊は戦死19名、負傷者33名を出してしまいました。
その後も散発的な戦闘が続きましたが、22時になると解放戦線側の弾薬が尽き、兵士達は用意していた小舟を使って東側の川を渡り撤退しました。
翌日、無人となった村にやってきた南ベトナム軍は、村を占領することで初期の目的を達成しました。
この戦闘で解放戦線は、兵士350名の内18名が死亡、39名の負傷者を出しました。これに対して南ベトナム軍は兵士1400名の内、86名が死亡、108名の負傷者を出したほか、アメリカの軍事顧問団から3名の死亡者と8名の負傷者が出ました。
失われた装備品はCH-21輸送ヘリコプター4機、UH-1攻撃用ヘリコプター1機、M113装甲兵員輸送車3両、河川用小型艦艇1隻となります。
アブ・バクの村の戦勝記念碑。
出典 Wikipedia
この戦いで大きな損害を受けたことにより、1963年2月8日アメリカは戦闘守則を変更し軍事援助司令部を発足させ、軍事顧問団は軍事顧問軍と名称を変え、アメリカ軍が直接戦闘に参加できるようにしました。
仏教徒危機
フランス式の教育を受け、カトリック教徒である南ベトナムの指導者達に対して、人口の70~80%に当たる農民達は、先祖代々古くから伝わる仏教を信じていました。
騒動の起こりは1938年5月4日、ジェム大統領の兄であるゴ・ディン・トゥック氏がローマ教皇庁によって司教に任命されたことから始まります。
ゴ・ ディン ・トゥク司教 (1938年)
出典 Wikipedia
1963年5月4日ジェム大統領はトゥク司教(このときはフエ大司教になっていました)25周年を祝う大式典を行いました。この式典には南ベトナム政府の資金が使われたほか、(仏教徒を含む)市民に寄付や、ローマ教皇(バチカン)旗を掲揚するよう求めました。
ローマ教皇旗(黒枠の中の部分)
出典 ウィキペディア
ウィキペディアの同じページに、面白い写真がありました。
日本・バチカン首脳会談にて(2019年)。教皇冠の下部を赤色にしており(黒丸で囲った部分、本来は白色)、誤りとされる。
出典 ウィキペディア
ここまでは、たいした事はなかったのですが、式典が終わった1963年5月6日ジェム大統領は、あらゆる宗教関係の旗(教皇旗はパチカン市国の国旗を兼ねているため除外)の掲揚を禁止しました。
毎年5月8日は仏教徒とって大切なヴェーサーカ祭(キリスト教のクリスマスと同じように、釈迦の誕生日を祝うお祭り、日本では春に灌仏会やお花祭りとして行われています。)が行われるので、その日に備えて仏教徒達は家に仏旗を飾っていました。
仏教の旗
出典 ウィキペディア
翌5月7日、政府軍兵士や警察官などが一斉に街に出て、飾られている仏旗を剥がしました。
5月8日ヴエーサーカー祭の当日、南ベトナム全土でジェム政権に反対するデモが行われました。特に激しかったのが北ベトナムとの国境近くの町、フエ市でした。
フエ市の場所
出典 ウィキペディア
フエ市は、騒動の原因となったジェム大統領の兄でフエ大司教であるゴ・ ディン ・トゥク司教の活動の拠点であると同時に、紀元前111年に前漢が日南郡の首府をおいて以来、ベトナムにおける政治の中心地でした。そのためフエ市には「100の寺院がある」と言われるほど、古くからの仏教のお寺があります。
フエ市では3000人が集まり、市内中心部で抗議集会を行った後、仏教旗を掲げ宗教の平等を訴え、フエのラジオ局に移動しました。ラジオ局前で気勢を上げているデモ隊に対して、シー少佐率いる南ベトナム軍が銃や手榴弾を使用して攻撃しました。この攻撃で9人が死亡し、4人が重傷を負いました。9人のうち2人は子供で、ともに軍の装甲兵員輸送車に轢かれて亡くなりました。
フエの旧ラジオ局の前に立てられた、銃撃事件の犠牲になった人の慰霊碑。真ん中に仏教旗が立っている。
出典 Wikipedia
この事件を目撃した、医師のエリック・ウルフ博士の回想録があります。博士は西ドイツから教育援助のため派遣され、1967年までフエ医科大学で教鞭をとっていました。
詳しくはこちらをどうぞ ↓
これに対して事件は解放戦線のゲリラが起こしたとして、南ベトナム政府は関与を否定しました。
仏教指導者ティチ・トリ・クアン氏は、ゴ・ディン・ジェム政権に対して、仏教国旗掲揚の自由、仏教徒とカトリック教徒の宗教的平等、犠牲者の家族への補償、宗教改革の終結、意図的な逮捕と責任のある職員の処罰を求める5項目の「僧侶宣言」を宣言しました
ジェム大統領は仏教指導者との会談に合意してグエン・ゴック・トゥ副大統領を委員長に、グエン・ディン・トゥアン国務長官、ブイ・ヴァン・ルオン内務大臣を含む3人の委員からなる省庁間委員会を設置しました。
1963年6月11日、仏教僧ティク・クアン・ドゥックがジエム大統領のカトリック教徒重視政策に抗議してサイゴンの交通量の多い交差点の真ん中で、ガソリンをかぶって焼身自殺しました。
ゴ・ディン・ジエム政権に対する抗議のため行った、僧侶ティック・クアン・ドックによる焼身自殺(1963年6月11日)
出典 ウィキペディア
ジェム政権と仏教徒の共同声明
ジェム大統領は、仏教僧ティク・クアン・ドック焼身自殺を受け、政府委員会に仏教界の指導者ティク・トリ・クアンと長老のティク・ティン・キットとの交渉を命じました。交渉は6月14日から始まり、6月16日には、仏教徒からの苦情を「再調査」するための調査委員会を設置することに同意し、ジエム氏は政府に抗議したすべての仏教徒全員に恩赦を与えることに同意した。協定では、仏塔や仏教徒総協会本部での「通常の純粋な宗教活動」は政府の許可を必要とせずに妨げられないことを明記しました。ジエムは政府の関与を否定したものの、フエ銃撃事件の捜査と有罪判決を受けた者に対する処罰を約束しました。さらにフエ銃撃事件の犠牲者に賠償金を払うことにも、同意しました。
この合意書にはジェム大統領自ら「この共同声明に書かれた条文は原則として最初から私によって承認されている」と宣言する条項を手書きで書き加えたうえ、署名しました。この共同声明には委員会のメンバーであるトー、トゥアン、ルオンと仏教代表団のメンバーも署名しました。
この声明が報道陣に発表された後、長老のティク・ティン・キエット氏はジエム氏に感謝の意を表し、仏教徒に対して宗教的調和の新時代を到来させるために、政府と協力するよう呼びかけました。
この共同声明に対して、ゴ・ディン・ヌーの妻であるヌー・トラン・ロー・スアン夫人はジェム大統領の弱腰を非難し、彼を卑怯者と罵しっています。
6月18日午前9時、サイゴンにある南ベトナムにおける仏教の総本山シャーライパゴダの外に集まった2000人群衆に対して、警察は催涙ガス、放水、こん棒、銃撃などで群衆を攻撃し、参加者1人が死亡した他、数人が負傷しました。彼らはジエム大統領と結んだ共同声明に対して、ティク・ティン・キエット長老が開く説明を聞くために集まったのでした。
シャーライパゴダ(舎利寺)
シャーライパゴダは、1958年にサイゴン(現在のホーチミン市)の第3区に建設された、南ベトナムにおける仏教の総本山です。
シャーライは仏陀の遺物を指す「シャリーラ」のベトナム語の訳で、日本では仏舎利や舎利と訳されています。
1963年の仏教徒危機の時は、抗議のため南ベトナム全土から集まった僧侶達の宿泊所場所になりました。
シャーライパゴダには仏舎利の他、6月11日に焼身自殺したティック・クアン・ドック氏の遺骨と、火葬した後も焼けずに残っていた心臓も、保管してありました。
ティク・クアン・ドゥック氏の心臓は焼身と火葬の後もそのまま残されており、仏教徒によって慈悲と菩薩のしるしとみなされています。
出典 Wikipedia
空から見たシャーライパゴダ
出典 VNEXPRESS
共同声明の翌日に起こったこの事件により。僧侶や仏教徒達の抗議活動はより一層激しくなりました。
これに対してジェム大統領の弟ゴ・ディン・ニューは、軍や警察を出動させ寺院の出入り禁止や封鎖を行い、余計暴動をあおるような行いをしてしまいます。
1ヶ月後の7月14日、ティク・ティン・キエット長老はジエム大統領に対して共同声明の履行を求める非暴力闘争を開始する決意を表明して、僧侶、修道女、信者に非暴力の抗議活動を呼びかけました。
7月15日、シャーライパゴダでは僧侶と尼僧がハンガーストライキを開始しました。また多くの仏教徒達も寺院に行き僧侶達とともにハンガーストラスキに参加しました。
7月15日から17日にかけて、シャーライパゴダや他の寺院から、ジエム大統領に共同声明の履行を求めるデモが発生して、市内各地で更新しました。警察隊はデモ参加者を元の寺院に連れ戻し、市民と接触しないよう隔離しました、この騒動で50人の僧侶と尼僧が逮捕されました。
7月18日、ジェム大統領は共同声明の約束を実行するラジオ声明を出しました。これにより、僧侶達はハンガーストライキを中止し、封鎖された寺院に閉じ込められていた人たちも解放されました。
7月30日シャーライパゴダで、焼身自殺した僧侶ティク クアン ドゥックの死後49日目の法事が行われました。
四十九日の法事についてはこちらを見てください ↓
式典後、共同声明の履行に関して何の進展が見られないことから非暴力闘争の再開を国民に呼びかけました。
1963年8月1日、この事件に対して、ゴ・ディン・ジエムの実弟で、大統領顧問を務めるゴ・ディン・ニューの妻であるヌー・トラン・ロー・スアン夫人(通称マダム・ニュー)はアメリカのCBSテレビのインタビュー番組で
「あんなのは単なる人間バーベキューよ」「僧侶が一人バーベキューになったから何だって云うの」「西欧化に抗議するのにアメリカ製のガソリンを使うなんて矛盾してるわ」「こんど同じことをするなら、ガソリンとマッチを進呈する」
引用 ウィキペディア
と発言しました。このインタビューはアメリカ全土で放映され。南ベトナムのみならずアメリカ国内においても、ジェム政権に対する信頼を一挙に落としてしまいました。
1963年8月4日、ベトナム南部のビントゥアン省の軍駐屯地において23歳の僧侶グエン・フオンが焼身自殺しました。
8月13日、古都フエのフックドゥーエンパゴダで18歳の僧侶タン・トゥが焼身自殺しました。人々が集まると警察がやって来て無理矢理解散させ、この際数名の負傷者が出ました。さらに焼身自殺したタン・トゥの遺体を寺院に運ぶことを許さず、持って行ってしまいました。
フエのフックドゥーエンパゴダ
出典 VINPEARL
8月15日フエでは政府に対し、焼身自殺した僧侶タン・トゥの遺体返還を求めて約1000人の学生が抗議集会を行いました。
おなじ8月15日、ベトナム南部のカインホア省ニンホアでは27歳の尼僧ヌン・デュー・クアンが焼身自殺しました。ここでも警察が焼身自殺した尼僧ヌン・デュー・クアンの遺体を運び去ったため、近くのカインホア省の省都ニャチャンの町で抗議行動が行なわれ、 200人以上が逮捕され、30人近くが負傷しました。
ニンホアの場所
8月16日フエでは71歳の僧侶ティウ・デューがトゥダムパゴダで焼身自殺しました。約5000人の人々が僧侶ティウ・デューの遺体を守るため、トゥダムパゴダに集まりました。
おなじ8 月 16日、 フエでは、仏教指導者の呼びかけに従い、すべての市場、学校、企業、工場、事務所がゼネストに突入しました。フエ市当局は戒厳令を敷き全面外出禁止と、市内のリンクアンパゴダ、トゥーダムパゴタ、デューデパゴダの封鎖を行いました。
フエ大学の学長、ヴァンルアン僧侶が仏教運動を支援したとして解任されました。その後フエ大学の医学、法、科学、教育学、文学の各学部長と大学講師約30名が辞任を発表しました。
シャーライパゴダ襲撃事件
1963年8月18日、サイゴンのシャーライパゴダには、焼身自殺した僧たちの追悼式が行われ、1万5千人が参加しました。その後も1万人がハンガーストライキに参加し続けました。
8月18日の夜、南ベトナム陸軍の上級将軍10名が仏教騒乱について話し合い、戒厳令が必要であると決定しました。
8月20日、ゴ・ディン・ニューは10人のうち7人の将軍を連れてジェム大統領と面会し、戒厳令を要請しました。ジェム大統領は8月21日午前0時に戒厳令を発令することにしました。
このときの7人の将軍は
陸軍参謀総長チャン・ヴァン・ドン、陸軍総司令官トラン・ティエン・キエム、中央高原の第2軍団司令官グエン・カーン大将、フエ周辺の最北地域を監督する第1軍団の司令官であるドン・カオ・トリー将軍、陸軍士官学校長のレ・ヴァン・キム将軍、サイゴンを包囲する第3軍団の指揮官トン・タット・ディン将軍、メコンデルタの第 4 軍団の司令官フイン・ヴァン・カオ将軍でした。このうち赤字で表記された将軍は、11月1日のクーデターに参加した人たちです。
陸軍参謀総長チャン・ヴァン・ドンが戒厳令を要請したのは、シャーライパゴダに集まった群衆達が抗議行動を利用してザーロン宮殿を襲い、クーデターに発展するのを防ぐためでした。
ザーロン宮殿
現在はホーチミン市博物館になっています。
出典 Wikipedia
1962年の空軍によるクーデター未遂事件で独立宮殿が爆撃で破壊されたため、ジェム大統領は修復がすむまでザーロン宮殿を大統領官邸として使用し、この宮殿に住み、執務を行っていました。
1962年のクーデター未遂事件の解説は、こちらに書いておきました ↓
ジエムは閣僚に相談することなく、翌日に戒厳令発効を宣言することに同意し、戦略的要所を占領するためにサイゴンへの軍隊出動が命じられた。ドンは末期癌で海外で治療を受けていたレ・ヴァン・トゥ将軍に代わって国軍長官代理に任命された。ドン氏はジエム氏が僧侶たちの安否を気にかけており、将軍らに「僧侶たちを傷つけてほしくない」と伝えたとされる。その後、ドンによって戒厳令が署名され承認された。
ドンが戒厳令を求めた本当の目的はクーデターに備えて軍隊を動かすことであり、正規軍を仏塔に送り込む具体的な計画はなかった。
引用 Wikipedia
国軍長官代理に任じられたチャン・ヴァン・ドンは、翌日の戒厳令に備えてサイゴン市内の要所に部隊を配置しました。
シャーライパゴダの襲撃
1963年8月21日午前0時を期して戒厳令が敷かれましたが、その直後の0時20分ジェム大統領の弟ゴ・ディン・ニューから直接命令を受けた、レ・クアン・トゥン大佐指揮下のベトナム共和国陸軍特殊部隊と武装警察がシャーライパゴダを襲撃しました
このとき特殊部隊や武装警察は本来の制服ではなく、南ベトナム軍の制服を着用していました。これはパゴダ襲撃が南ベトナム軍が行ったように見せかけ、国民の信頼を失わせようとする、ゴ・ディン・ニューの計画でした。
ベトナム共和国陸軍特殊部隊は、北ベトナム国内に侵入して情報の収集や破壊工作、および南ベトナム国内で活躍する北ベトナムの共産党分子の摘発のためCIAが訓練を行い、CIAから直接資金援助を受けていました。しかしジェム大統領は本来の目的を外れ、南ベトナム軍内部の反乱分子の摘発や、クーデターから守るための大統領の身辺警護に使用していました。なお特殊部隊の指揮権は、南ベトナム陸軍ではなく、ジェム大統領自身が持っていました。
シャーライパゴダも襲撃されるのを予想して、門の強化や各部屋の入り口に家具等を積み上げ準備していましたが、ゲリラ戦に特化した特殊部隊にはまるで効果がなく、2時間ほどで制圧されてしまいました。
政府軍は寺院の主祭壇の仏像を破壊したほか、焼身自殺した僧侶ティク・クアン・ドックの遺骨を盗ろうとしましたが、2人の僧侶が遺骨を抱えて塀を乗り越え、隣の米国国際開発庁( USAID )の敷地に逃げ込み、保護されました。ただ燃え残った僧侶ティク・クアン・ドックの心臓は、持って行かれてしまいました。
一方、ヌーとその妻マダム・ヌーは近くに止めた戦車から作戦を見守っていました。
引用 Wikipedia
80歳になる仏教の長老ティク・ティン・キットは逮捕され、サイゴン市内の陸軍病院に搬送されました。
フエでは、フエの射撃事件以来抗議運動を指導していた僧呂ティク・トリ・クアンの寺院テイダムパゴダでは、軍により寺院そのものが爆破され破壊されました。
おなじフエのディヌディパゴダでは、パゴダに通じる橋を守ろうとする群衆と軍が衝突して 、推定30名が死亡、200名が負傷しました。
8月21日午前6時ジェム大統領はラジオ声明を出し、戒厳令を発令したことと、南ベトナム共和国軍が各地のパゴダを襲撃し、パゴダ内部に潜む反乱分子を排除したことを明らかにしました。
戒厳令の下、軍には包括的な捜査、逮捕の権限が与えられ、政権に非友好的と思われる者の家宅捜索や、すべての公共の集会を禁止、外出禁止令を施行し、報道の自由を制限し、すべての「印刷物およびその他の有害な文書」の流通を停止しました。
21日の仏教寺院の襲撃から始まった混乱は南ベトナム全域で起こり、1400名が逮捕され、死者及び行方不明となった者(その多くは殺されたと見なされている)数百名を出す大事件となりました。
8月23日、サイゴン大学やフエ大学で授業をボイコットして、パゴダ襲撃に対して抗議集会が起こり暴動となりました。この動きは高校生に及び、多くの学生が逮捕され、投獄や再教育キャンプに送られました。
当時の南ベトナムでは高等教育を受けられるの公務員や軍人の子供達であり、高級公務員や軍の将校達は子供を刑務所等から出してもらうためにロビー活動をしなくてはならなくなり。ジエム政権と役人や軍との信頼関係が薄れることになりました。
報道規制がかかっていたたため国民には知らされなかったが、パゴダの襲撃が、ジエム大統領直属の特殊部隊と、弟のゴ・ディン・ニューが指揮する武装警察が政府軍の制服を着て行ったことが分かると、軍の指導者達の大部分がジエム政権打倒のためのクーデター計画に参加するようになってしまいました。
1963年11月1日のに起きた、南ベトナムのクーデターまでのケネディ大統領
このブログの最初に書いたアブ・バクの戦いで、小銃と短機関銃、手榴弾しか持たない(他に40㎜迫撃砲1門)350名の解放戦線兵士に対して、空軍や砲兵隊、装甲兵員輸送車を装備した機械化部隊を含め1400名の南ベトナム正規軍が戦闘を仕掛けました。南ベトナム側は勝利した(単に解放軍が手持ちの弾薬が尽きて、撤退しただけ)ものの、ヘリコプター5機、装甲兵員輸送車3両、河川用舟艇1隻を失い、死者83名負傷者100名、アメリカ軍側も軍事顧問団やヘリコプターのパイロットなど戦死3名、負傷者8名を出す大損害を受けました。これに対して解放戦線は戦死者18名、負傷者39名と軽微ですんでいます。
いままでの解放戦線だと損害を恐れて、これだけの陣容を見ると戦わずに逃げていたので、南ベトナム側はまさか本気で向かってくるとは思わず油断していたのだと思います。それにしてもひどい損害に同行していたアメリカの軍事顧問団は、共産主義者達との戦いはジエム政権下の南ベトナム政府軍に任せるのは危険と感じ、アメリカ軍が直接戦えるように制度を変えました。これによりアイゼンハワー大統領時代には685人だったアメリカ軍事顧問団を軍事顧問軍と名称を変えてアメリカ軍が直接戦闘に参加できるようにした上、1963年11月までには人数を16263人に増加しました。
仏教徒への弾圧を指導していたゴ・ディン・ニューと彼の妻ニュー夫人はともに、各パゴダに侵入した北ベトナムの工作員や解放戦線の兵士達が僧侶達をけしかけてジエム政権に対する反対運動を指導している、と主張していました。
アメリカのジエム政権擁護に大きな変化を与えたのが、1963年6月11日の僧呂ヴァン・トゥクによる抗議のための終身自殺と、武装警察を使用して仏教徒を迫害し続けているジエム大統領の弟ゴ・ディン・ニューの妻、ニユー夫人による「僧呂のバーペーキュー」発言でした。
ニュー婦人の発言は、仏教徒や僧呂による抗議運動がより一層活発になったほか、仏教徒以外の人たちも抗議運動に関わるようになり、さらにこのようなジエム政権を支えているアメリカ政府に対する批判も激しくなりました。
ケネディ大統領は、
「私はゴディン・ジエム大統領が一族あるいはカトリック教会などの特定のグループの言いなりになっていたのではなく、彼は北ベトナムの共産党に国を乗っ取られるのを防ぐためには、信頼できる人たちが必要だったのです。」
等とジエム政権を擁護する発言をくり返していた、フレデリック・ノルティング駐ベトナム大使の交代を決めました。またノルティング駐ベトナム大使は、ジェム政権に批判的な記事を書いていた記者達に対して記事の差し止めや、ベトナム国内から退去するように命じていました。その中には焼身自殺した僧呂ティック・クアン・ドックの写真を撮った AP通信のマルコム・ブラウンもいました。
1963年6月27日、ケネディ大統領は政敵である共和党のヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアを駐ベトナム大使に任命しました。
ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニア (1960年)
出典 ウィキペディア
ロッジとケネディ大統領は1952年11月の米国下院選挙で戦い、得票率51.5%と48.5%僅差でケネディ大統領が勝っています。
その後1953年ロッジはアイゼンハワー大統領から米国国連大使に任命され、冷戦時代のソビエト国連大使と激しい議論を来り返したことで、有名になりました。
7年半にわたって国連大使を務めた後、政界を引退していましたが、ケネディ大統領の求めに応じてベトナム大使に就くことを了承しました。
1963年8月21日、ロッジとノルティング元ベトナム大使は業務引継のためホノルルにいましたが、シャーライパゴダ襲撃事件が起こったためロッジは急いでサイゴンに行くこととなりました。
8月22日ロッジはサイゴンに到着し、大使としての初仕事は、焼身自殺した僧呂ティク・クアン・ドックの遺骨を抱えて米国国際開発庁( USAID )に逃げ込んできた2人の僧呂の亡命を認めたことでした。2人の亡命を認めたことにより、アメリカ政府がジエム政権の暴挙に対して反対の立場であることを鮮明にしました。
ジエム大統領はパゴダ襲撃事件は軍が行ったと報道しましたが、これに激怒したベトナム共和国陸軍参謀長のチャン・ヴァン・ドン将軍はCIAの職員ルシアン・コーネンを参謀本部に招き、シャーライパゴダ襲撃はゴ・ディン・ニューの武装警察と、彼の命令を受けたレ・クアン・トゥン大佐指揮下のベトナム共和国陸軍特殊部隊が行ったので、軍は無関係であると説明しました。
ルシアン・コーネン
フランス生まれの彼はフランス語が堪能であることからOSSや後の CIAの要員として何度かベトナムに派遣されています。
1962年からゴ・ディン・ディエム政府の内務省顧問としてサイゴンに派遣されました。
その傍ら1963年から、ジエム政権樹立の時から知り合いになっていたクーデターを計画している将軍ズオン・ヴァン・ミン、トラン・ヴァン・ドン、レ・ヴァン・キムと米国大使館の間の連絡役を務めました。
出典 Wikipedia
8月24日ロッジ駐ベトナム大使は、ワシントンからCable 243として知られる電報を受け取りました。
内容を要約すると
『8月20日のシャーライパゴダの襲撃は、ジエム大統領の弟ゴ・ディン・ニユーによって実行されたことが明らかになっており、アメリカ政府はこれ以上ゴ・ディン・ニユー権力の座に居続けることは容認できない。
従ってアメリカ政府はジエム大統領にゴ・デイン・ニューの政権からの退陣を要求し、これが受け入れられない場合は、南ベトナムへの援助を打ち切り、ジエム大統領の身の安全も保証できない。』
と書かれていました。
さらにロッジ大使は、状況を是正するために早急に劇的な処置を執ることが必要であるとして、非公開で南ベトナム共和国軍の主要な軍指導者に対して次のことを知らせるようにしました。
アメリカ政府はゴ・ディン・ニュー氏の現場からの排除が必要であると認識しており,ジエム大統領がニュー氏の退陣の処置を執らない場合、南ベトナム共和国に対する軍事的および経済的な支援を続けることは、不可能であると判断することになります。
私たちはディエム氏にニュー氏を解任する妥当な機会を与えたいと考えていますが、彼が頑固なままであれば、我々はもはやディエム氏を支持できないという明らかな暗示を受け入れる用意があります。また、中央政府機構が崩壊した暫定期間においては、我々が直接支援を与えると適切な軍司令官に伝えることもできます。
出典 ペンタゴンペーパー 126章および「国務省-サイゴン電報243号、出典:JFKL:JFKP:国家安全保障ファイル:会議および覚書シリーズ、ボックス316、フォルダ:ベトナムに関する会議、1963年8月24日~1963年8月31日」 (PDF)
これはアメリカ政府が、ジェム大統領に反対するクーデターを認めることになりました。
8月26日(この日はロッジ大使がケネディ大統領からの信任状をジエム大統領に手渡す日でした)ロッジ大使はジエム大統領に弟ゴ・デイン・ニューを政権から外すように求めました。しかしジエム大統領は、この要求を受け入れませんでした。
これに対してジエム大統領の弟ゴ・ディン・ニユーは
「私は建て前をいうと反共産主義者ですが、個人的にはあえて反対する気はありません。私は反共の十字軍を気取るつもりはありません。皆が平和に暮らすのを、願っているだけです。」
と発言し、北ベトナムとの接近を仄めかす姿勢を見せました。
1963年5月に起きたフエの仏教徒襲撃事件から8月のシャーライパゴダ襲撃事件の間に南ベトナム全土で6~10件のクーデター計画があったとみられていますが、どれもサイゴンを守っていたジェム大統領の信頼が厚いトン・タット・ディン将軍率いる第3軍と、大統領直属の特殊部隊に対抗できず、実行を断念していました。
第3軍司令官トン・タット・ディン
1963年のディン
出典 Wikipedia
彼は1926年11月20日、阮朝の親類でフエの名門貴族であるトンタット家の一員として、ベトナム中部高原のリゾート地ダラットで生まれました。
高校卒業後ダラットで行政書記の試験に合格して、ダラット公使館に勤務していました。
1948年10月1日、フランス政府により設立されたフエの陸軍士官学校の第1期生として入学して1年後に卒業し中尉となり、さらにフランスのソミュールにある騎兵学校に入学した。
帰国後大尉となった彼は、ベトナム北部のニンザン省にあるベトナム人民軍の機動部隊(GM2)の指揮官に任命され、ハノイで軍事スタッフトレーニングコースを首席で卒業した後、少佐に昇進し、タイビン省北部沿岸のズエンハイで大隊司令官として部隊の指揮を執った。
その後、ジエム首相の弟であるゴ・ディン・カンの元に配属されました。フエ近郊のベトナム中部地域を非公式に支配していたカンは、ディンの勇気に感銘を受けた。入隊から6年以内に、ディンは大佐に昇進し、 1955年1月1日にベトナム中部のダナンに拠点を置く新設の第32師団の初代指揮官に任命された。
1955年10月の国民投票で勝利したジエム首相はバオダイ帝を退陣させ、新設されたベトナム共和国初代大統領に就任しました。
この時ディンはジエオ兄弟の運営するカンラオ党に入党するとともに、仏教徒からカトリック教徒に改宗してジエム大統領の信頼を得ることになりました。
1957年8月、彼は米国カンザス州フォート・レブンワース陸軍士官学校の上級指揮官および参謀クラスを学ぶために海外に派遣された(学年度1957年から2年、訓練期間は16週間。 1957年、アメリカから帰国後、米国に留学後、同年、沖縄の陸軍大学統合作戦指揮科に短期留学した。
1958年8月初旬、彼は少将(32歳)に昇進し第2軍団および第2戦術地域の司令官に任命された。
1962年12月7日、彼はサイゴンとその周辺地域を守る、第3軍団および第3戦術地域の司令官に任命されました。
南ベトナムの4つの軍区。
ディン少将が率いる第3軍団はサイゴン周辺の第3軍区を担当していました。
出典 Wikipedia
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