1915年10月7日、セルビア北部のドナウ川から、オーストリア=ハンガリー帝国軍(以下オーストリア軍と書きます)とドイツ軍がセルビアに対して攻撃を開始します。その一週間後の10月14日、ブルガリアが東側から宣戦布告なしにセルビアに侵入して来ました。
ドイツ軍が参加した訳
その1 意外に弱かったオーストリア軍
国の規模からしてオーストリア軍とセルビア軍とでは戦力に大きな差があり、簡単にセルビアを征服することが出来るはずでした。
ところがロシア軍の素早い動員によって、東ガリツィア方面が危なくなりセルビアに居たオーストリア軍の予備軍を対ロシア戦に回したため、戦力の差がなくなってしまいました。こうなると第1次と第2次のバルカン戦争で戦って戦争経験の豊富なセルビア軍が有利となり、オーストリア軍は動員した45万人のうち半数を超える27万3千人の犠牲者を出して負けてしまいました。
また東ガリツィア方面での戦いでも、頼りにしていたドイツ軍がタンネンブルクの戦いで約2倍のロシア軍と戦っていたため、オーストリア軍の救援に回す余裕がないため単独でロシアと戦う羽目になり、動員した90万人のうち35万人を失い、東ガリツィアはロシアに占領されてしまいましました。
1914年、ドイツ・オーストリア対ロシアの戦いの解説はこちら ↓
その2 イタリアの参戦
もともとイタリアは、1882年ドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国と三国同盟を結んでおり、本来ならばロシア・フランス・イギリスと戦はなくてはならないはずでした。
ところがイタリアは、1880年イタリア全土がイタリア王国に統一された後、イタリア人が多く住む南チロルと、トリエステ地方はオーストリア=ハンガリー帝国内に残されていたため、未回収のイタリアと呼ばれこの地域の領有をめぐってオーストリア=ハンガリー帝国と対立していました。
未回収のイタリア
1914年8月第1次世界大戦が勃発すると、イタリアは3国同盟は防衛的なものであって、オーストリアがセルビアに対して攻撃を仕掛けた戦争に参加する義務はないとして、中立を宣言しました。中立を宣言した後、イギリスとフランスは「未回収のイタリア」の領有を餌に協商国側に付くよう工作していました。ドイツもオーストリアを説得して1915の年3月、オーストリアのトレンチ―の地方を譲ることで、同盟国側に留まるようにしました。
結局イタリアは1915年4月26日分け前の多い協商国側に付く秘密協定(ロンドン条約)を結び、同年5月23日、オーストリアに対して宣戦布告を出しました。
これによってオーストリアは、セルビアとロシアの他に新たにイタリアと戦うことになり、戦力的にきつくなってしまいました。
イタリア戦線の解説はこちらをご覧ください ↓
その3 ガリポリの戦い
1914年からの西部戦線の膠着を打開するため、イギリスはロシアとの通商路を確保するため、黒海と地中海とを結ぶトルコに対して攻撃を行いました(ガリポリの戦い)。
ガリポリの戦いの詳しい経過はこちらに書いてあります。↓
イギリス軍が部隊を間隔をあけて小出しにしため、トルコはその間に軍を強化して守備を厚くできました。しかし、砲弾の不足など大量の補給が必要になりました。
ドイツはロシアへの補給を断ち、今後の戦いを有利に運ぶためにトルコに軍事援助しようとしましたが、海上からはイギリスの海上封鎖により不可能な状態でした。
そのため戦前の3B政策(ベルリン~ビザンチウム~バクダッドを結ぶ鉄道計画)によって建設していた、鉄道を利用しようとしました。
3B政策によるベルリンからビザンチウム(現イスタンブール)までを結ぶ鉄道路線。
第1次世界大戦開戦当時、この鉄道は連合国側に付いたセルビアと、中立国であったブルガリアの国内を通っていました。
中立国ブルガリアの参戦
旧オスマン帝国領内のあるギニアの独立闘争から始まった、1912年10月から1913年5月にかけて行われた第1次バルカン戦争で、トルコとの戦いに勝ったセルビアと、ギリシャ、ルーマニアは、もとトルコ領のマケドニア地方をこの3国で占領しました。
1913年第1次バルカン戦争前のマケドニア周辺の地図、白線で囲まれた部分がマケドニア地方。
オスマン帝国(青)、モンテネグロ王国(紫)、セルビア王国(桃)、ブルガリア王国(緑)、ルーマニア王国(黄)、オーストリア=ハンガリー帝国(橙)。
斜線部分が第1次バルカン戦争後に、セルピア・ギリシャ・ブルガニアが占領した地域
出典 ウィキペディア
ところが、ブルガリアは第1次バルカン戦争前に秘密裏に取り決めた領土より少なかったため、領土の拡張を求めて1913年6月29日、セルピアとギリシャに宣戦布告を出しました(第二バルカン戦争)。
第2次バルカン戦争
出典 ウィキペディア
ところがこの戦いに乗じてセルビアとギリシャの他、新たにモンテネグロ・ルーマニア・オスマン帝国がブルガリアとの戦いに参加したため、ブルガリは負けてしまい、かえって領土を減らすことになりました。
第一次世界大戦が勃発するとブルガリアは中立を宣言して、協商側と同盟側に付くか見定めていました。
協商国側はセルビアに対して、第二次バルカン戦争で奪ったブルガリアの領土を返すように説得しましたが、断られてしまいました。
反対に同盟国側は、セルピア内のマケドニアだけでなく、ギリシャやルーマニアに奪われた領土の領有を認める条件を出してきました。
1915年9月6日、ブルガリアはセルビアとの戦争では弱いオーストリア軍でなく、ドイツ軍が指揮を執ることで合意して、開戦5日以内にセルビアに侵攻する軍事密約に調印しました。
ドイツはマッケンゼンを派遣してトランシルバニアに本部を構え、オーストリア軍とブルガリア軍の指揮を執ることにしました。
1915年 セルビアの戦い
1915年10月6日、ドイツ・オーストリア同盟軍がドナウ川を渡河し、ベオグラード~ニシュ間の鉄道確保を目的にセルビア攻撃を開始しました。
ベオグラードを占領されたセルピア軍は、ギリシャからの枢軸軍の援軍を期待して徐々に南に下がりながら、得意の山岳戦で、ドイツ軍とオーストリア軍に抵抗し続けました。
10月6日ドイツ・オーストリア軍の渡河作戦が開始されたことでブルガリアは、かねてからの軍事密約通り12月11日参戦を決定し、10月14日第1軍が北部のニシュ、第2軍が南部のスコピエを目指してセルピアに進軍しました。
この為、ギリシャとの通路であるセルビア南部がブルガリアに占領され、西のエーゲ海目指して退却することになりました。
1915年のセルピア戦線
青くて細い矢印がセルビア軍。下部の太い青色の矢印が英仏連合国軍。上部から延びるピンク色の矢印が、オーストリア=ハンガリー軍とドイツ軍。オレンジ色の矢印がブルガリア軍。
フランスはセルビアを助けるため軍を編成し、イギリスはガリポリから軍を抽出して、10月6日サロニカに上陸しました。
しかし、ギリシャ国王の妻ソフィア王紀がドイツ皇帝ヴェルヘルム2世の妹であったことから、連合国軍がサロニカに上陸した10月6日、ギリシャ国王コンスタンティノス1世は中立を宣言しました。
そのためセルピア救援のために集まった連合国軍は、上陸地点のサロニカで動きが取れなってしまいました。
1916年1月25日、同盟国のモンテネグロが首都セチンジェに敵が迫ってきたため、降伏しました。
そのためセルビア軍は大勢の避難民と共に、真冬の高山地帯を抜けアルバニアに落ちていきました(アイキャッチ画像の写真)。途中チフスが蔓延し、この戦争と疫病でセルビアの人口の3割が亡くなり、40万人いた軍隊も10万人に減ってしまいました。
アルバニアに着いた避難民たちは、連合国の船でギリシア領のコルフ島に送られました。生き残ったセルビア軍の兵士は、英仏軍の援助で新たに編成され、サロニカに送られ連合国軍に加わりました。