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亀仙人2第1次世界大戦 東部戦線の戦い
第1次世界大戦開戦時のドイツの戦略では、ロシアが総動員令を出してから、攻勢にかかるまで6週間かかると見て、その間に全軍団をフランス攻略に当てフランス戦を早期に終了し、その後ロシアと戦う予定であった。
ロシアは始めドイツとの衝突を避け全軍をオーストリアに向ける予定であったが、フランスからの要請によって、8月17日ロシア第1軍、第2軍は東プロイセンに侵攻した。
このためドイツはフランス攻撃群から2軍団を引き抜き東プロイセンに移さざるを得なくなった。
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東プロイセン方面
タンネンべルクの戦い
8月17日ロシアのパウル・フォン・レンネンカンプ率いる第1軍が北から、アレクサンドル・サムソノフが率いる第2軍が南から、東プロイセンを守るドイツ第8軍に攻撃をかけた。
2倍の兵力を持つロシア軍に挟み撃ちされたドイツ第8軍の司令官プリットヴィッツが退却を進言し、このことに怒ったモルトケは彼を解任し新しくパウル・フォン・ヒンデンブルクを後任に指名した。また第8軍の参謀長にエーリッヒ・ルーデンドルフを指名し、この2人はのちにドイツ軍全体を指揮する英雄コンビとなります。
青線がロシア軍、赤線がドイツ軍、海沿いから内陸に向かう移動に鉄道を使った。
この2人にとって幸運だったのは、前からの作戦参謀マックス・ホフマン中佐の存在でした。彼は日露戦争で日本第1軍の観戦武官を務め、ロシア第1軍と第2軍の両司令官の仲がとても悪く、お互い相手のために動こうとしないこと、また無線の扱いがずさんで、通信内容を簡単に傍受できることを知っていた。
北のレンネンカンプ率いるロシア第1軍がすぐには動かないと判断したルーデンドルフは、部隊をすこしだけ残し、1軍団を鉄道でサムソノフのロシア第2軍の西側面につけ、残りをロシア軍の北正面に配置した。それに気が付かぬロシア軍はそのまま北進を続け、北側のドイツ本体と出会ったときは、西から南側に回ったドイツ軍とに挟み撃ちにされ包囲殲滅された。9月29日ロシア第2軍の司令官サムソノフは拳銃で自決した。
15万のロシア第2軍の内5万人が死傷者となり、9万2千人が捕虜となった。
アイキャッチ画像は、タンネンベルクの戦いのヒンデンブルクとルーデンドルフです。出典ウィキペディア
皮肉なことに線ぶ戦線から救援に来た4個師団が着いたのは戦いが終わった後であった。
- 東ガリツィア方面
オーストリアは始めロシアが北から来ると思ってワルシャワ方面に軍を進めた。ところがロシア軍は東ガリツィアに攻めてきたので急いでガリツィアに軍を進めたがリヴェウで大損害を受けた。9月11日オーストリア軍の参謀総長コンラートはガリツィアから総退却を命じ160キロ西のクラクフまで撤退してしまう。
ドイツはこのままオーストリア軍を見捨てるわけにいかず、東プロイセンから軍の大半を投入しポーランドの西からワルシャワに向かって進軍しオーストリア軍を助けた。
この戦いでオーストリア軍は90万人の内35万人を失い、後はドイツ軍頼みになってしまった。