sponsored link
亀仙人2テレビ映画 「ヒトラー 第1部 我が闘争」
アメリカ・カナダ 2003年
2003年公開のカナダ・CBCとアメリカ合衆国・CBSとの合作映画です。映画は2部分かれており、「第1部 我が闘争」はヒトラーの生い立ちからミュンヘン一揆まで、「第2部 独裁者の台頭」はミュンヘン一揆後、合法的に政権奪取を狙ったヒトラーが独裁体制を作り上げるまでの過程を表しています。
映画はヒトラーと、反ヒトラーのジャーナリスト、フリッツ・ゲルリッヒと、ナチ党の海外新聞局長エルンスト・ハンフシュテングルの3人を通して、民主的なワイマール憲法を持つドイツが独裁国家に代わる過程を描き出しています。
監督 | クリスチャン・デュゲイ |
---|---|
脚本 | ジョン・ピールマイアー G・ロス・パーカー |
製作 | ジョン・ライアン |
製作総指揮 | エド・ガーノン ピーター・サスマン |
出演者 | ロバート・カーライル |
音楽 | ノーマンド・コーベイル |
撮影 | ピエール・ギル |
編集 | シルヴァン・レベル ヘンク・ヴァン・エーゲン |
「第1部 我が闘争」解説とあらすじ
|
誕生から第1次世界大戦終了まで
ヒトラーは1889年4月20日、ドイツとの国境の街、オーストリア帝国オーバーエスタライヒ州ブラウナウで生まれました。ヒトラーはドイツ人ではなく、オーストラリア人なのです。
ヒトラーがドイツ戸籍を習得したのは、1932年大統領選に出馬する時でした。
父アロイス・ヒトラー(1837年~1903年)は靴職人であったが、独学で勉強して1855年大蔵省の守衛を振り出しに、1868年に税務署の採用試験に合格して正式に官吏となりに出世を続け、ヒトラーが生まれたときにはリンツ税関の上級職員となってました。1895年退職して恩給生活に入り、農業や養蜂をして暮らしていました。
ヒトラーの父アイロス・ヒトラー
出典ウィキペディア
現場でたたき上げて出世した彼は、アドルフの画家になりたいとの夢に対して、手に職をつけるための実科中等学校へ入学させ対立します。
1903年、ヒトラーが14歳の時、脳卒中で死亡します。
母クララ・ヒトラー(1860年~1907年)は父アロス・ヒトラーの姪に当たります。
クララはアロイスのもとに住み込み家政婦として働いていましたが、1884年アロイスの2番目の妻フランツィスカが亡くなると、アロイスと結婚して、アドルフ・ヒトラーを生みます。
母クララ・ヒトラー
出典ウィキペディア
ヒトラーは父アイロスが亡くなったとき、リンツ実技学校を中退し、別の実技学校入学するも、これも1年で中退します。
ヒトラーは17才の時、父アイロスの遺族年金の1部を母クララからもらい、ウィーン美術アカデミーを受験しましたが失敗てしまいます。この後3年にわたって受験しましたが受からず、美術アカデミー入学を断念します。
ヒトラーが19歳の1907年、母クララが乳癌で亡くなりました。ヒトラーは、母の面倒を見ていた医師は映画で出てくるようにユダヤ人であったが、「名誉アーリア人」として特別に保護をかけ、後にアメリカへの亡命を認めました。
ウィーンでの暮らしは、父アイロスと母クララから受け継いだ遺産に加えて、税務署の高級官僚だった父アイロスの遺族年金があった為、映画のように生活に困窮することなく暮らせていました。
絵葉書から模写したウィーンの風景を観光客に売って小遣いを稼ぎ、歌劇場に通い好きなワグーナーのオペラを見たり、図書館で本を読んだりして、過ごしていました。
第1次世界大戦
1913年ヒトラー24歳の時、オーストリア軍へのミュンヘンに移住しました。翌1914年1月18日に兵役忌避と国外逃亡の罪で逮捕されましたが、身体検査の結果、兵役不適者とみなされたため、無罪放免となりました。
1914年夏、ドイツが第1次世界大戦に参戦すると、ヒトラーはバイエルン軍に志願兵として採用され、戦場に向かいました。
ミュンヘンのオデオン広場でドイツ参戦の布告を聞く人達。この中に当時のヒトラーが居たとされている。
前線では体が弱いことと、他の兵士に比べて年長のため、伝令兵として活躍しました。
この活躍でヒトラーは鉄十字章を受けました。この受賞をヒトラーは大変な誇りであるとして、生涯に渡って常に胸につけています(アイキャッチ画像の写真)。なおこの勲章を申請した直属の上官フリッツ。ヴィーデマン中尉は、ユダヤ人でした。
1918年戦友と一緒に撮った写真。前列の左端がヒトラー。映画と同じような犬もいます。
出典 平成軍事拾遺館
終戦間近の1918年10月15日、マスタードガスの攻撃を受け一時視力を失い、後方のボンメルンにある野戦病院に移されます。この病院で治療中にヒトラーは、ドイツが降伏したことを知りました。
野戦病院でのヒトラー(後列右から2番目)
出典 ガラバイア
1919年4月、ヒトラーは野戦病院を退院してミュンヘンに戻りました。この時のミュンヘンは共産党が支配するバイエルン・レーテ共和国として独立していましたが、これに反対する第1次世界大戦の復員兵を主体とするドイツ義勇軍と、激しい戦いを繰り広げている最中でした。
1919年5月3日、共産党によるバイエルン・レーテ共和国はドイツ義勇軍との戦いに敗れ、倒されてしまいます。この義勇軍の指導者の一人に、後の突撃隊の隊長となるエルンスト・レームが居ました。
アドルフ・ヒトラーの盟友として、ナチ党の草創と発展に大きく関与した。第一次世界大戦で顔面に受けた重傷による印象的な外貌を持ち、武勲に輝く軍人としてドイツの元兵士たちの信用のあるレームは、ナチ党の準軍事組織である突撃隊(SA)を統率し、同党の政権把握に大きく貢献した。しかしのちにヒトラーと路線対立し、ヒトラーの命令で粛清された。引用(写真も)ウィキペディア
この戦いの様子を取材していたのが、ドイツ南部最大の新聞社ミュンヘン・ノイエシュ・ナクリヒテン(MünchnerNeueste Nachrichten、MNN)の編集長を務めていた、フリッツ・ゲルリッヒです。
フリッツ・ゲルリッヒ(本人) 出典ウィキペディア
彼は生涯ヒトラーに批判的な記事を書き続け、最後はダッハウ強制収容所に送られ、そこで死亡しました。この映画の重要な登場人物の一人です。
1919年7月、ヒトラーは共和国軍の情報将校であったカール・マイヤーにスカウトされ、台頭しつつあったドイツ労働者党 (後の”国家社会主義ドイツ労働者党 通称ナチス”) の調査を命じられました。
ところが、ドイツ労働者党の反ユダヤ主義、反資本主義に賛同して1919年9月22日、正式に55人目のドイツ労働者党の党員として加わります。
1920年1月、ドイツ義勇軍からエルンスト・レーム、ルドルフ・ヘスらが加わり突撃隊を組織して、ドイツ労働者党内でのヒトラー一派の力が増大します。
親衛隊大将制服姿のヘス(1933年頃)出典 ウィキペディア
国家社会主義ドイツ労働者党副総統(総統代理、指導者代理とも訳される)、ヒトラー内閣無任所大臣。党内初の親衛隊名誉指導者であり、親衛隊における最終階級は親衛隊大将。
ドイツ義勇兵時代は、武器の調達、義勇兵の徴募、サボタージュ部隊の扇動など、を行っていました。
ミュンヘン一揆に参加し、ヒトラーと同じランツベルク刑務所に入れられ、ヒトラーの著書「我が闘争」の口述筆記をしました。
1920年2月24日「ドイツ労働者党」は、党内協議により、党名を「国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、通称ナチス)」に替えました。
1920年7月29日ヒトラーは、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の幹部会で第1議長に選ばれました。
この頃からヒトラーはヒトラー派の仲間から、「Führer(指導者、総統)」と呼ばれ始めました。
イタリアで独裁政治を行うムッソリーニが採用していたローマ式敬礼に倣って、右手を高く上げる、ナチス式敬礼を取り入れたのもこの頃からです。
ヒトラーの熱烈な演説は次第に人を集め、やがてミュンヘンの老舗ビアホール、ホーフブロイハウスを満席にするほどに、人気を集めました。
現在のホーフブロイハウス
ホーフブロイハウス内部。奥の舞台からヒトラーが演説していた。
出典 ドイツ9日間の旅より
1920年壇上で演説するヒトラー
出典 ドイツ9日間の旅より
客席は体育館並みの広さがあります。
出典 ドイツ9日間の旅より
演説会場がビアホールとは、さすがビールの都ミュンヘンです。ちなみにヒトラーは、お酒は飲めなかったそうです。
新聞記者のゲルリッヒはヒトラーに注目して、ヒトラ―の演説で国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が支持者を増していき、ドイツが大きく変わっていく過程を、取材し続けていました。
同じころ、もう一人のジャーナリスト、エルンスト・ハンフシュテングルがアメリカから帰国しました。
エルンスト・ハンフシュテングル 出典ウィキペディア
エルンスト・フランツ・セドウィック・ハンフシュテングル(Ernst Franz Sedgwick Hanfstaengl、1887年2月2日 – 1975年11月6日)は、ドイツの実業家、政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)で海外新聞局局長(1931年-1937年)を務めた。1937年にアメリカ合衆国へ亡命し、第二次世界大戦中にはアメリカ政府の対独アドバイザーを務めた。愛称はプッツィ。引用ウィキペディア
彼はアメリカのハーバード大学を卒業後、美術書籍出版をしていた父を手伝い、ニューヨークで美術書出版業のニューヨーク支店の経営を任されていました。
1920年ロングアイランドに住んでいた、ブレーメンの名家出身のヘレナ・エリーゼ・アデルハイト・ニーマイヤーと結婚しました。
しかし、1922年にアメリカから「敵性外国人」とされドイツに帰国しました。
エルンストは大学自体の学友フリードリッヒに連れられて、ヒトラーの演説を聞き一変にヒトラーに魅せられてしまいました。
党勢の拡大につれて、ナチス党の職員や突撃隊を維持するための資金に苦しんでいたヒトラーに、エルンストは資金の提供を申し出ます。
また妻のヘレナと共に、上流階級に顔が利く彼は度々パーティー催し、上流階級の人々にヒトラーを紹介しました。
当時ドイツでは共産党が大きな勢力を持ち、これに恐怖を感じていた資本家・貴族・大商人・大地主たちは、共産党と戦っているヒトラーに進んで資金の提供を申し出ました。
この中に後の国家元帥となるゲーリングもいて、ヒトラーに仲間に入ります。
ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring De-HermannWGoering.ogg 、1893年1月12日 ‐ 1946年10月15日)は、ドイツの政治家、軍人。
第一次世界大戦でエースパイロットとして名声を得る。戦後の1922年にヒトラーに惹かれて国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党。ミュンヘン一揆の失敗で一時亡命生活を送るも、1928年に国会議員に当選し、1932年の選挙でナチ党が第一党となると国会議長に選出された。ナチ党と上流階級の橋渡し役を務めてナチ党の党勢拡大と政権獲得に貢献した。1933年のナチ党政権誕生後にはプロイセン州首相、航空相、ドイツ空軍総司令官、四ヵ年計画全権責任者、ドイツ経済相、森林長官、狩猟長官など要職を歴任し、ヒトラーの後継者に指名されるなど高い政治的地位を占めた。しかし政権内では対外穏健派だったため、対外強硬派のヒトラーと徐々に距離ができ、1930年代終わり頃から政治的影響力を低下させはじめた。第二次世界大戦中にドイツ空軍の劣勢が目立つようになると一層存在感を落とした。しかし戦後のニュルンベルク裁判では最も主要な被告人としてヒトラーとナチ党を弁護し、検察と徹底対決して注目を集めた。死刑判決後に服毒自殺した。
軍における最終階級は全ドイツ軍で最高位の国家元帥 (Reichsmarschall) である。写真と文章はウィキペディアから引用しました。
第1次世界大戦、エースパイロットのゲーリング 出典ウィキペディア
第1次世界大戦では、レッドバロンとして知られるリヒトフォーフェン率いる第1戦闘機大隊でエースパイロットとして活躍していました。リヒトフォーヘンが撃墜された後、彼の後を継ぎ、第1戦闘機大隊の隊長となります。
こちらのリヒトフォーフェンを扱った映画に、ゲーリングも出ています。↓
エルンストの忠告を入れて、ヒトラーは特徴を出すためには口髭を八の字髭からおなじみのチョビ髭に替えました。
ナチス党のシンボルとして、鍵十字のマーク(ヒトラー自身がデザインしました)を採用したり、ナチス党の機関誌を発行したりして、積極的に世間の注目を浴びる活動をはじめます。
ミュンヘン一揆
1923年1月11日、フランスとベルギーの連合部隊が、ドイツの石炭と製鉄産業の中心地ルール地方を占領しました。これはドイツが、ベルサイユ条約で課せられた賠償金の支払いを拒んだためでした。
ドイツはルール地方の石炭産業と鉄道の労働者に、ストを命じましたがフランスは他から労働者を連れてきて、石炭を独占しました。
このためドイツはフランスから石炭を購入しなくてはならなくなり、さらにストに参加した労働者に賃金を支払うために、紙幣を乱発しました。そのため、ドイツはとてつもないハイパーインフレに襲われます。
ドイツの郵便切手の値段 1922年7月まで一枚2マルクだった切手が、1923年11月には1千億マルクになります。
このほか1923年11月の物価は
ジャガイモ1Kg:900億マルク
卵1個 :3,200億マルク
ミルク1L :3,600億マルク
バター1ポンド:2兆8,000億マルク
になってしまいました。参考 第2次世界大戦資料館
1923年9月20日にバイエルン州首相オイゲン・フォン・クニリングは閣議を行い、バイエルン州内に非常事態を宣言した上に、カールを州総督(州総監)に任命して独裁的権限を与えました。
非常事態宣言の中カール提督は、バイエルン駐在の第7師団司令官オットー・フォン・ロッソウ少将と、州警察長官のハンス・フォン・ザイサー大佐とともに三頭政治体勢を行っていました。カールの露骨な反ベルリン姿勢は中央政府に危機感を与え、バイエルン州政府とベルリン中央政府の関係は緊迫化した状態となりました。
1923年9月26日、バイエルン州のカール提督はヒトラーに対して演説の中止を命令しました。暴動が起きるのを恐れたためです。
エルンストは、演説の中止を命令され落ち込んでいるヒトラーに、かねてからヒトラーの演説を記事にしている記者の「ビュルガーブロイケラー」に会うよう勧めました。
ヒトラーはゲーリッヒに会い、演説を禁止された代わりの記事を書くように頼みましたが、ゲーリッヒはナチ党のプロパガンダはしないと断りました。
この会見でヒトラーの思想に危険を感じたゲーリッヒは、以後反ヒトラーの記事を書き続けることになります。
翌1923年9月27日、演説中止を命じられたヒトラーは、ナチス党機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター(民族の観察者)」を通じて、フランス国軍のルール地方占領に対して弱腰の態度をとるワイマール共和国の首相シュトレーゼマンと、ワイマール共和国軍総司令官ゼークト上級大将を非難する記事を載せました。
ベルリン政府国防相オットー・ゲスラーは、バイエルン州のロッソ―将軍に対して新聞の発禁を指示しましたが、相談を受けたカール提督はこれを拒否します。
1923年10月20日、中央政府の命令を無視したロッソー将軍に対してベルリンから罷免通告が下されましたが、カール提督はこれも拒否します。
さらにバイエルン州首相クニリングはロッソー将軍をバイエルン州に忠誠を誓う「バイエルン地方国防軍」司令官に任命しました。これは中央政府へ反逆に他ならず、ワイマール共和国軍総司令官ゼークト上級大将はカールら州政府の三人の指導者とこれに同調する、ヒトラーを含めたドイツ闘争連盟指導者、各種国家主義団体に、この動きに武力で対抗すると通達してきました。
カール提督はヒトラーと会見し、演説中止を解く代わりにベルリンへ進軍して反乱を起こす計画を打つ明け、ヒトラーに協力するよう申し入れました。
ヒトラーはこの申し出を受け入れましたが、カール提督は計画実施の日までナチスの突撃隊と、共産党の赤軍との間で起きている暴力行為をやめるように要請しました。
ヒトラーは突撃隊隊長のレームに暴力行為をやめるよう言いましたが、彼では突撃隊を抑えきれないと思い、第1次世界大戦で参謀次長を務め、元軍人たちに絶大な人気があり、右翼軍事組織連合「ドイツ闘争連盟」の名誉総裁であるルーデンドルフに仲間に入ってもらいました。
11月6日、ヒトラーらドイツ闘争連盟はナチスの幹部であったショイブナー=リヒター(ミュンヘン一揆で死亡)の起草により、11月11日に蜂起し、州政府を制圧する方針を決定しました。
11月8日、カール提督がミュンヘン最大のビアホール「ビュルガーブロイケラー」で演説会を行い、そこにロッソウ少将とザイサー大佐も出席することを知ったヒトラーは、計画を変えます。
バイエルン州の権力を握っているカール提督一派の3人を説得して、一緒にベルリンへ進撃するよう、協力を求めるというものです。
映画では、この演説会でカール提督はヒトラーに批判的な演説をして、反ヒトラー勢力を結集し、ヒトラーを抹殺する予定でした。そしてその演説原稿は、反ヒトラーの活動を続ける新聞記者ゲーリッヒが書き起こしました。
午後8時30分、演説をしているカール提督の元にヘルマン・ゲーリング率いる突撃隊員がなだれ込み、3人を別室に連れ込みます。
1923年ナチス党大会が行われた時の、ビュルガーブロイケラー
出典 4travel
ヒトラーは3人に対して、ドイツ闘争連盟を中心とする臨時政府への権限委譲と、ベルリン進撃に協力することを依頼しました。しかし、3人はヒトラーの説得に応じないため、ルーデンドルフを呼びに行かせました。
駆け付けたルーデンドルフの説得に3人は応じ、一同は壇上に上がりドイツ革命の開始を宣言しました。
一方レーム率いる突撃隊は、市役所やバイエルン軍司令部を占拠し、バリケードを築いていました。
ヒトラーが突撃隊の様子を見に行っている間に、ロッソウ少将とザイサー大佐はルーデンドルフに対してね持ち場に戻りたいと申し出し、ルーデンドルフは外出を許可しました。
持ち場に帰った二人は直ちに一揆部隊を鎮圧するための、準備に取り掛かります。
鎮圧部隊が活動を開始したことを知ったヒトラーは、ルーデンドルフと共に先頭に立ち、軍司令部で包囲されている突撃隊を助けるためにデモ行進を開始しました。
第1次世界大戦の英雄ルーデンドルフを先頭に立てれば、警察隊が発砲しないだろうとの思惑が外れて、警察隊の発砲によりデモ隊は解散してしまいました。
また、エルンストもいち早く鉄道に乗りオーストリアに亡命します。
ヒトラーはナチス幹部エルンストの別荘に逃げ込みましたが、二日後に逮捕されました。この時期ヒトラーは拳銃で自殺を図りましたが、エルンストの妻ヘレナにより止められました。
裁判
1924年2月24日、ミュンヘン一揆に関する裁判が行われました。
この場でヒトラーは反逆罪での有罪を認めました。
そして、裁判の場でこう演説します。
「もし、泥棒に奪われた金を取り戻したら、それでも泥棒になると。
我々ドイツ国民は5年前のヴェルサイユ条約により、国土を占領されてないのにもかかわらず指導者から国土と国民、多額の賠償金を連合国側に渡すことを決められた。
彼らこそ本当の反逆者だ。
私はドイツ国民の権利として、不当に盗られたものを取り戻そうとして、議会と戦っただけだ。
私が有罪ならば、それは反逆罪ではなく、ドイツ国民の権利を守った罪で有罪だ。」
この3時間半にも及ぶ被告陳述は、傍聴席から拍手喝采を浴び、ヒトラーの名はバイエルン州からドイツ国内全域に知られるようになりました。
この裁判でヒトラーの政治生命が立たれることを期待した新聞記者ゲルリッヒは、急ぎヒトラーの台頭に反対する記事を書きます。
1924年4月1日、ヒトラーは反逆罪で有罪となり、罰金200金マルクとランツベルク刑務所で城塞禁固刑5年の刑を言い渡されました。
傍聴に来ていたゲルリッヒは喜びましたが、次の瞬間彼は絶望の淵に落とされます。
裁判官がヒトラーに対して、9か月後に仮釈放することを認めたのです。
ここで、この映画の第1部は終了します。
続いて「ヒトラー 第2部 独裁者の台頭」ははこちら ↓
このサイトをご覧くださっている皆様へ
このサイトで取り扱っている映画は、DMMの宅配DVDレンタルで借りられます。
DMMに入会すると、希望するタイトル(あらかじめリストに登録しておきます)が2枚づつ封筒に入れて、郵送されてきます。返却は同じ封筒に入れて郵便ポストに投函するだけです。
近くにビデオレンタル屋さんがない所などでは、助かると思います。
またこのサイトで扱っている映画のDVDは、店舗に置いていないことが多いため、探したり取り寄せてもらったりする手間を考えると、望む商品を直接自宅に届けてもらえるこのサービスは、大変重宝です。
今はやりのネットによる動画配信サービスよりも、はるかに多い約44万タイトルのDVDを扱っておりますので、なかなか手に入りにくい映画も見ることが出来ます。
現在30日間無料体験サービスを行っておりますので、一度試してみることをお勧めいたします。
興味のある方はこちらをクリックしてみてください ↓