なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

誰がなぜ戦争を起こすのか。「9.11」から「イスラム国」まで その6  番外編 「アラブの春」

time 2018/04/17

誰がなぜ戦争を起こすのか。「9.11」から「イスラム国」まで その6  番外編 「アラブの春」

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亀仙人2

アラブの春

アラブの春とは

「アラブの春」とは2010年12月にチュニジアで始まり、2010年末から2012年にかけて、北アフリカおよび中東で起きた一連の反体制運動のことです。

アイキャチ画像はチュニジアにおける様子です。革命に成功して喜んでいる女性を大勢の人がケータイでインターネットに流しました。出典 スブートニク

この欄では「アラブの春」の発端となったチュニジア・エジプト・リビアについて説明します。いずれの国も長期独裁政権に対する、一般大衆の抗議運動が事件の始まりとなっています。

なぜ「アラブの春」と言うのかは、春が到来すると、冬の寒さと長い夜による過酷で抑圧された生活から解放されることから、春の語は「雪どけ」などと同様に「抑圧からの解放、自由の空気の到来」の比喩として使用しています。

1848年からヨーロッパ各地で起こり、ウィーン体制の崩壊を招いた革命の「諸国民の春」、1968年にチェコスロバキアで起こった「プラハの春」、にも同じように使われています。

1・チュニジア

チュニジアは地中海に面した北アフリカのリビアとアルジェリアに挟まれた小国です。面積は日本の5分の2、人口は約1000万人でアラブ世界では比較的安定して国家になります。

古代にはフェニキア人が地中海貿易で発展を遂げ、象を連れてアルプスを越えローマを攻撃したハンニバルがいたカルタゴがありました。

第2次世界大戦後の1956年王制を維持することを条件にフランスから独立し、チュニジア王国が成立しました。

しかし翌1957年、独立運動の立役者で当時首相だったハビーブ・ブルギバが王制を廃止し、初代大統領となって「チュニジア共和国」を新たに作りました。

ブルギバは、イスラム圏では珍しい政治と宗教を分離する「政教分離」を推し進め国の近代化=西欧化を推し進めました。しかし長期政権の中、憲法を自分の都合の良いように変え、終身大統領となります。

1980年代になると、抑圧されていたイスラム教徒たちが中心となり反ブルギバの暴動が各地で起こりました。ブルギバは国家保安局長に、かってチュニジア軍参謀本部で勤務していた辣腕ベンアリを抜擢し、警察力を強化して反政府勢力の制圧に成功しました。

この功績で首相になったベンアリは1987年11月7日、老齢・高齢を理由にブルギバを追い出して自分が大統領になる無血クーデターを成功させます。

ベンアリ大統領は穏健イスラム国を率いるリベラルな大統領として、欧米諸国に高く評価され、フランスの社会政治研究センターは、ベン・アリーを「今年の人」と呼び、「民主主義・人権」国際賞を彼に授与しました。

チュニジアは2010年の経済成長率が3.8%だったと見られるなど、決して経済状況が悪いわけではありませんでした。しかし失業率は14%、若者層に限れば30%近いという高い水準であり、物価の高騰や、長年イスラム主義組織及び労働者共産党に対し警察力で抑圧を行なってきたこと、長期政権にありがちな一族による利権の独占や官僚の腐敗が進むなど、国民の不満は高まっていました。

革命の発端

すべては、2010年12月17日、チュニジア中部の都市シディ・ブジドで青果を販売していたモハメド・ブアジジが、無許可で販売していたとして、役所に野菜と屋台、秤を没収されたことから始まりました。

モハメド・プアジジは当時26歳で仕事がなく、9人の家族を養うため手製の屋台に青果を乗せ販売していました。使用していた秤も友人から借りたものです。

街頭で販売していた時、女性警官がやって来て賄賂を要求されましたが、プアジジは賄賂を払うのに十分なお金を持っていませんでした。女性警官はブアジジに殴るなど暴行を行い、商品と屋台を没収しました。

ブアジジは、3回役所に返還を求めましたがその都度賄賂を要求され、絶望した彼は当日の午前11時30分、役所前に置いてあった屋台と自分にガソリンをかけ焼身自殺をはかりました。

イスラム教で焼身自殺は、最後の審判の時死者が蘇られないため絶対のタブーとされており、とてもショッキングな事件です。

この時の様子は、駆け付けて止めようとした従兄弟のアリ・ブアジジの携帯電話でフェイスブックで流されました。

このトラブルがブアジジと同じく就職できない若者中心に職業や言論の自由化、大統領周辺の腐敗の廃絶などを求め、ストライキやデモを起こすきっかけになります。

翌日、市庁舎前には数百人の人々が集まって抗議しました。これに対して警官隊が武力を使い鎮圧しようとしました。市民は石を投げて抵抗しましたが、警官隊は催涙弾を使い市街戦の様相を帯びてきます。この時も参加者のケータイでフェイスブックで寄稿されました。

この事件はカタールの国際衛星テレビ「アルジャジーラ」で流され、チュニジア国内だけではなく広くアラブ諸国の知るところとなります。

暴動の拡大

12月24日、南部の街マルゼン・ブーザイアーンで初めて警察による実弾ががデモ隊に対して使用され、1人が死亡、5人が負傷(後に1人死亡)しました。

これが首都チュニスでも27日に1000人が参加する本格的なデモを誘発することになります。

28日、ベンアリ大統領は病院に収容されているモハメド・ブアジジを見舞いに行き、各地のデモは無政府状態を狙ったテロリストによるものであるとの声明を出しました。

年が明けた1月4日、政権によって生きているとされたモハメド・ブアジジの死亡が明らかにされ、5日に全国的な追悼デモが行われました。

デモ隊と治安部隊による衝突はエスカレートして、中部の都市タラ、カスリーヌで9日から10日にかけた行われたデモで、治安部隊による発砲で25人が死亡しました。

これは、デモ参加者だけではなく、帰宅途中の労働者や、屋上にいて見ていた市民までもが殺害されました。現場一帯は封鎖され、メディアが取材することはできませんでしたが、現地住民が携帯電話で撮影した映像がフェイスブックに投稿されました。

デモ隊に対して実弾を使用すれば鎮圧出来ると考えたベンアリ大統領の目論見は大きく外れ、1月11日首都チェニスの広場には大統領退陣を求める多くの人々が集まりました。連日行われたデモの参加者は日に日に膨れ上がり、13日には10万人規模にまでなりました。

このデモ隊に対して警察部隊は発砲を繰り返し、デモ隊の死者は100名を超すようになりましたが、デモ参加者はひるまず大統領退陣を要求し続けて集まりました。

ベンアリ大統領は戒厳令を発令して、軍部に治安維持にあたるよう要請しましたが、軍部はこれを拒否した中立を保ちます。

2011年1月14日、軍の後ろ盾を失ったベンアリ大統領はフランスに亡命を企てましたが、サルコジ仏大統領の入国拒否にあい、サウジアラビアに向かい亡命しました。出国の際、ベンアリ大統領の妻が中央銀行から1.5トンの金塊を持ち去っています。

同じ日の午後5時49分、チュニジアのガンヌーシ首相がテレビ演説で「ベン=アリー大統領は国を去った」と声明を読み上げ革命は成功しました。

この革命はチュニジアを代表する花の名前をとって「シャスミン革命」と言われています。

また長期独裁政権に対して、大勢の市民が反対の意思を表し行動することで政権転覆が出来たことは、同じ長期独裁政権下にある他の中東の国に広まり「アラブの春」と言われる一連の反政府運動のきっかけとなりました。

革命後のチュニジア

2011年10月23日に、1956年の独立以来初の自由で公正な議会選挙が実施されました。その結果、穏健イスラム主義政党の「ナフダ(Ennahda)」が最大議席を獲得し(得票率 41%)、世俗主義で中道左派の「共和国のための会議」(CPR、同13%)」、エタカトル「労働と自由のための民主フォーラム」(FDLT、同9%)を加えた連立政権が発足しました。

しかし、制憲議会における憲法の起草作業が難航した上、2013年2月と7月にイスラーム武装闘争派によるテロやチュニジア国軍との衝突が起ります。さらに、政治的には、野党勢力が内閣や議会の解散を要求し、議会をボイコットしたためチュニジアは大きな政治的・社会的混乱に陥りました。

ちょうど時を同じにして2013年7月、アラブの春で民主化を果たしたエジプトが軍によるクーデーターで、アラブの春以前と同じ状態に戻ってしまいます。

これに危機を感じた市民たちは、「我々は(軍政に回帰した)エジプトではない。危機を脱する唯一の方法は、一に対話、二に対話だ」とイスラーム主義者と世俗派との対立を回避しようとしました。

こうして2013年9月、危機的状況を打開するために、イスラム主義者と世俗派の仲裁に入ったのが、チュニジア最大の労働組合であるチュニジア労働総同盟(UGTT)で、さらにチュニジア商工業・手工業経営者連合(UTICA)、チュニジア人権擁護連盟(LTDH)、弁護士の団体である「全国法律家協会」という3つの市民団体が加わりました。

この4団体が「国民対話カルテット」で、これらに対して、2015年にノーベル平和賞が送られました。

国民対話カルテットの呼びかけにより与野党の指導者が集結し、次の政治プロセスに移行するための交渉2ヶ月続けられた。そして同年10月に大統領、首相、議長がロードマップを公表し、内閣は総辞職して実務者からなる新内閣を発足させることが決定されます。

2014年1月、アリー・アライイド首相(ナフダ)が最終的に辞任し、マフディー・ジュムアを首班とする新内閣が発足しました。制憲議会での審議が再開され、2014年1月、チュニジア共和国憲法が可決、翌月公布されます。この憲法はそれ自体が革命の成果を体現しており、アラブ世界のなかではもっとも民主的な憲法と評価されています。

しかし、「アラブの春」以後、なんとか憲法を改正し、民主的な選挙が行なわれたとしても、経済も社会も混乱したままで、失業者数は「アラブの春」以前より増えており、若者の不満を救済するに至りませんでした。

このためイスラム国の「平和的なデモでは何も解決しない。暴力に訴えなくてはだめだ」との呼びかけに応じ、3000人の若者が参加し、イスラム国の外国人戦闘員出身国ランキングの第1位を占めることになりました。

イスラム国の外国人戦闘員出身国ランキング10位まで
イスラム国の外国人戦闘員出身国:参考2014年 ICSR
1 チュニジア 3,000人
2 サウジアラビア 2,500人
3 ロシア 1,500人
3 ヨルダン 1,500人
3 モロッコ 1,500人
6 フランス 1,200人
7 レバノン 900人
8 トルコ 600人
8 イギリス 600人
8 リビア 600人
8 ドイツ 600人

2・エジプト

エジプトはアフリカ大陸の北東にある国で、ピラミッドとスエズ運河があります。国土の96%が砂漠で、国民の多くはナイル川流域や加工のデルタ地帯に住んでいます。

経済は「エジプト綿」で有名な綿花が主な輸出品であり、他はスエズ運河の通行料と観光が頼りであまり豊かとはいえません。

1981年サダト大統領が暗殺された跡を継いだムバラク大統領は、サダトの親米・親イスラエル路線を継承し、イスラエルとパレスチナの中東和平交渉では両者の調停役として尽力しました。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件ではアメリカへの支持を表明し、イスラム過激派の取り締まりにも積極的に取り組みました。こうした親米・親イスラエル路線は欧米諸国の高評価につながり、ムバラクが2000年以降、外貨導入を積極的に図ってエジプトの国内総生産の一定的な成長を達成し得る一因となりました。またアメリカから年間13億ドルもの軍事援助を受けて、アラブ諸国最大の軍事大国となっています。

その反面ムバラク大統領は就任時に発令した国家非常事態宣言を継続し、秘密警察を使って強権的な統治体制を敷いています。長期にわたる強権体制の結果、政権の要職はムバラクの腹心で固められて人事は硬直し、貧富の格差も広がり、ムバラク大統領統治下の30年間、国民の生活は向上しないままになっていました。

また8300万人の国民のうち50%が若者であり、その4分の1が失業者となっていました。

2011年1月に発生したチュニジアでのジャスミン革命の影響を受け、ムバラクの長期独裁に対する若者の不満はついに爆発して、同年1月25日よりムバーラクの辞任を求めるデモを計画しました。

しかしチュニジアと違って貧乏なエジプトでは、携帯電話の普及率が10%ぐらいなのでインターネットで多くの人たちに計画を知らせることが出来ないため、若者たちはタクシーの車内で聞こえよがしにデモの計画をケータイで連絡しました。この話を聞いたタクシーの運転手がお客に話し、デモの計画は口コミで広まり、25日のデモ当日には4万人の人たちが会場のタハリール広場に集まりました。

これに対して、機動隊は放水車や催涙弾で襲い掛かってきましたが、デモ隊はしぶとく翌朝まで粘り続けました。

ムバラク政権打倒を呼びかける若者たちはイスラム教の大切な金曜礼拝の行われる1月28日に、カイロ中心部のタハリール広場の占拠を計画しました。

これに対抗するためムバラク大統領は28日、インターネットと電話を遮断しましたが、礼拝に集まった人たちは各地でムバラク大統領退陣を叫びながら、タハリール広場に向かって行進を始めました。

広場に向かう途中のナイル川に架かる橋の上で機動隊が銃で武装して待ち構えていましたが、デモ隊は数百人の犠牲者を出しながらも行進を続け、2時間後には機動隊を退散させてタハリール広場を占拠しました。広場の占拠はムバラク大統領が退陣を発表する日まで続きます。

翌1月29日未明にムバラク大統領は、国営テレビの演説でにアフマド・ナズィーフ首相を含む全閣僚の解任と民主化、経済改革の実行を約束しました。しかしデモ参加者の要求する退陣には応じなかったため、さらに多くの人々がタハリール広場に向かって行きました。

これに対して警察は阻止することをやめ、軍も中立の立場を表明したため2月11日のムバラク大統領が退陣を表明した日にはタハリール広場では約25万人、エジプト全国で約100万人規模のデモが行われました。

このようにして若者たちの長期独裁政権打倒の呼びかけに、大勢の一般市民が賛同して大規模なデモを行うことにより、暴力を用いることなくムバラク大統領退陣が実現できました。

アラブの春後のエジプト

ムバラク政権を崩壊に追い込んだデモ参加者の多くは若者で、口々に「自由」や「民主化」を叫んでいた。その根底にあったのは、新しい政治体制のビジョンなどではなく、あまりにも大きな貧富の格差への怒りや強すぎる警察力への反発、縁故主義がはびこる社会への破壊衝動でした。

この若者たちをサポートしたのがムスリム同胞団という伝統的なイスラム集団でした。

政権崩壊後エジプトで初の民主的な選挙が行われ、2012年7月にイスラム主義組織「ムスリム同胞団」出身のムハンマド・ムルシィー氏が大統領に就任しました。

エジプトでは初の軍人出身ではなく、民間人からの大統領となります。

しかし、同胞団出身の人材は政治や行政についての技能や経験を持たない者ばかりだったため、政府機能が停滞することとなり、さらに経済政策にも失敗して、国民の生活は革命以前より悪くなり、急速に国民からの支持を失っていきました。

大統領就任1周年の日に、政府に抗議する大規模なデモが発生しました。このデモに乗じて、軍がクーデターを起こし、ムルスィーは大統領を解任されました。このクーデターの中心的な人物は、ムルスィー自身が国防大臣に任命したシシでした。

2014年には大統領選挙が行なわれ、シシが大統領に選出されました。

シシ大統領は、機動隊に発砲を命じ850人のデモ隊を殺したことと、国の財産を横領した罪で無期懲役になっていた前ムバラク大統領を無罪にしました。

また「ムスリム同胞団」をテロ組織に指定し、団員183名が死刑判決を受けます。

さらにアラブの春で指導的な立場にあった若者230名も「機動隊を襲った罪」により無期懲役となります。

これにより、エジプトは「アラブの春」前の軍出身者による独裁体制に戻ってしまいました。

3・リビア

リビアはアフリカ北部、チュニジアとエジプトに挟まれています。人口は640万人、面積は日本の5倍ありますが、国土の大部分はサハラ砂漠が占めています。

世界第8位の原油埋蔵量を持つ、アフリカ最大の産油国です。

ムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ)を中心としたリビア王国の将校が1969年にクーデターを起こし(9月1日革命)、リビア・アラブ共和国が成立。そのご幾度か国名を変えながらカダフィによる独裁政権が40年以上の長きに亘って続いています。

日本で、カダフィ大佐と呼ばれているムアンマル・アル=カッザーフィーについて

国際的には「クレージーな独裁者」・「アラブの狂犬」と言われているカダフィ大佐ですが、リビア国内では反逆者を秘密警察で取り締まり処刑する一方、医療費や教育費の無料制度、食料の援助などの福祉政策をとり、政府に反しない限り暮らしていける仕様になっています。

なぜカッザーフィーは「大佐」を名乗っているのか

エジプトでは、1952年7月、圧倒的な兵力を持っていたのにもかかわらず、第1次中東戦争でイスラエルに負けてしまったことに対して、ナセルなどの「自由将校団」がクーデターを起こし、ファルーク国王を追放して無血革命に成功しました。

カッザーフィーもサダト大統領に倣い、1969年9月1日同志の将校たちと共に首都トリポリでクーデターを起こし、政権を掌握しました。病気療養のためにトルコに滞在中であった国王イドリース1世は廃位されて王政は崩壊して、カッザーフィー率いる新政権は共和政を宣言して、国号を「リビア・アラブ共和国」としました。

このため、クーデターを起こした時のナセル大統領の階級「大佐」を名乗ってます。また敬愛するナセル大統領の跡を継いで、アラブ民族の連帯を目指す「汎アラブ主義」を唱え、「反イスラエル」・「反アメリカ」の立場をとっています。

リビアの国内政治

アメリカに代表される資本主義・民主主義に反対して、政治は憲法も議会もなく、イスラームとアラブ民族主義と社会主義とを融合した彼独特の「ジャマーヒリーヤ」(直接民主制と訳される)という国家体制の建設を推進して来ました。

革命で国有化した石油で得たお金で国民に還元することで、社会主義化を進め

・大学までの教育費は無料

・電気代も無料

・医療費も無料

・基本的な食料は公社が格安な値段で支給

・ガソリンはリッター0.14ドル

・銀行は国立銀行のみで、ローン金利は0%

・全国民に家を持たせた

・新婚夫婦には5万ドル(500万円)の住宅補助金を支給

・失業者にも無償で家を支給

さらに

・車を購入する際は、政府が半額負担

・農業を始めたい人には土地、家、家畜、飼料など全て無料で支給

・薬剤師になりたい人には必要な経費は全額無料

まだあります。

・子どもを産んだ女性には5千ドル(約50万円)を支給

・学校卒業後、仕事に就けない人は、仕事に就けるまで国が相応の給与を支給

・国民の25%が大卒資格者

・石油の売上の一部を、全国民に現金で支給
そして何よりも
・税金がない

その反面、極端な警察国家で常に国民は監視され、密告者などによりカダフィ大佐の悪口を言ったことがばれると、逮捕処刑されるか極端な場合はそのまま行方不明になることがあります。1996年には1日で1200人もの囚人が治安部隊に殺されることもありました(この事件が5年後のリビア内戦のもととなります)。革命後に処刑された政治犯は、5万人とも6万人ともいわれ、人口650万人のリビアにとって決して少ない人数ではありません。

また長期独裁政治にありがちな、家族や側近による国家財源の私物化や官僚たちの腐敗による富の格差が生まれています。

なぜ「アラブの狂犬」と呼ばれたのか

アラブ社会の連携(汎アラブ主義)を唱えるカダフィ大佐は、イスラエルに入植したユダヤ人と、それを支援するアメリカを激しく敵視して、おもにイスラエルで活動をするPLO(パレスティナ解放機構)への援助や、様々なイスラム過激派テロリストに支援を行ってきました。

主なテロ支援としては、1984年の駐英リビア大使館員による反リビアデモ警備をしていた英国警官射殺事件、1985年のローマ空港・ウィーン空港同時テロ事件1986年の西ベルリンディスコで爆破事件などがあります。

当時のレーガン米大統領は、カダフィ大佐を「アラブの狂犬」と呼び、1986年4月15日カダフィの住む宮殿を爆撃しました。この爆撃で40名の死者とともに1歳3ヶ月の養女ハンナが死亡したとリビアは発表し、大規模な追悼が行われた。当のカダフィ大佐は、宮殿の庭に張った遊牧民のテントにいたため難を逃れることが出来ました。

余談ですがこの爆撃後の取材で、日本からラブホテルで使われている回転ベットを輸入して使っていたことが分かりました。

報復処置としてリビアは工作員を送り、1988年12月21日スコットランド上空のパンナム航空103便の爆破事件(259名死亡)、翌年の1989年9月19日には、コンゴ共和国のブラザビルでフランスの民間航空UTA航空772便を爆破(170名死亡)しました。

国連はリビアに対して捜査協力と犯人の引き渡しを求めましたが拒否されたため、経済制裁の決議を採択しました。

この経済制裁でリビアの経済は弱体化し、国内ではイスラム系過激組織が侵入し、クーデター騒ぎも起こりました。

カダフィ大佐は、国連の経済制裁を解くことを条件に、パンナム103便の遺族に27億ドル、フランス航空の遺族には3100万ドルの賠償金を支払うとともに、1999年にはテロ実行犯を差し出しました。

9.11アメリカ同時多発テロで、ブッシュ大統領から「テロ支援国家」とされたため、国内で開発していた核技術の中止を表明したほか、今まで匿っていたテロ組織の情報をアメリカに渡しました。

これによりカダフィは国際社会に受け入れられ、海外資本の流入で経済も活発化し始めました。反面アルカイダ系の過激派組織からは何度も命を狙われるようになり、「テロとの戦い」を名目に国内の反政府勢力の取り締まりを強化して拷問にかけ、大量に処刑するようになります。

2011年リビア内戦

リビアの西部にある首都トリポリと東部の都市ベンガジは、サダフィ政権下ではライバル関係にあり対立し続けていました。

ベンガジはカダフィ大佐によって転覆させられたイドリス王国(イドリス王国はトリポリとベンガシの2つの首都を持ち季節によって使い分けていました)の首都の一つであり、トリポリタニアとフェザーンと連合してイドリス王国となる以前のキレナイカ首長国があった場所です。

リビアで採掘される石油の大部分がキレナイカにあり、イドリス王国は親欧米路線を採り、基地を提供して経済援助を引き出した。また、リビアで石油採掘により莫大なオイルマネーを得るようになりました。しかし、利益は王家とその周辺が吸収して国民全体に行き渡らず、トリポリタニアとキレナイカの地域対立も激しくなるなど、内政は不安定でした。

1969年9月1日、カッザーフィーは同志の将校たちと共にもう一つの首都トリポリでクーデターを起こし、政権を掌握し、病気療養のためにトルコに滞在中であった国王イドリース1世は廃位されて王政は崩壊しました。

以後カダフィ大佐は、リビアの石油事業を国有化し、利益を広く国民に分配することで長期独裁政権を維持してきました。

イドリス国王の末裔の多くがベンガジに居住していることもあって、平素から現政府に反抗的な雰囲気の漂う都市でもあった。1993年にはベンガジでカダフィ大佐の暗殺計画が発覚していました。

トリポリに本拠を置く現政権は、何かと反抗的なベンガジに対して厳格な対応を取ってきており、反政府分子は拘束され暗殺計画の関係者は処刑されてきました。それだけでなく、暗殺計画や反政府活動がベンガジから生まれないようにとの考えから、同市の社会資本の整備を行わない等の差別的な政策も展開してきました。このためベンガジの都市開発は遅れ、ライフラインの整備もなおざりにされてきた経緯があります。

出典 もぎせかブログ館

「アラブの春」により、両隣のチュニジアとエジプトで革命が起こっていても、カダフィは反政府分子を容易に抑えられると思っていたようです。

2011年2月15日、首都トリポリで1996年にアブ・サリム刑務所で起きた1200名の囚人が殺害された銃撃事件の犠牲者の遺族が、事件を追及し、拘束されていた弁護士の釈放を求めてデモを起こしました。

翌2月16日には東部のベンガジでも同じデモが行われます。

さらに2月17日「怒りの日」と名付けられた日のデモはリビア各地の都市に広がり(上の地図で赤い印のついた都市)、2月20日までには治安部隊による発砲で250名が死亡して、カダフィ政権打倒の叫びが全国に広まります。

2月21日には反政府デモは首都トリポリまでに及び、トリポリや近郊都市で発生した反政府デモに対して政府当局は空爆を実施。この日だけで250人が死亡し、同時に戦闘機やヘリコプターによる機銃掃射、手榴弾や重火器、さらには戦車を使用してデモ隊への攻撃により、事実上の自国民への無差別虐殺が始まりました。

このような政府り動きから、政権から離脱する閣僚や、反旗を翻す兵士が表れて自由人民軍が組織されます。

これにより一般市民と治安部隊の戦いは、政府軍と反政府軍との内戦状態になりました。

これに対して自国の軍隊の寝返りを恐れたカダフィ大佐は、ニジェールやチャドから傭兵を雇い自由人民軍を攻撃させました。

2月27日、カダフィ政権に反旗を翻し辞任したアブドルジャリル前司法書記がベンガジにて暫定政権「リビア国民評議会」設立を宣言、カダフィ政権打倒に向けて国民の結束を呼びかけました。

3月19日国民評議会の要請を受けて、アメリカ、イギリス、フランス(要するのリビアの石油が欲しい国々)を中心とするNATO軍が空爆を開始します。

2011年8月20日NATO軍の空爆の援護のもと、反カダフィ軍は首都トリポリの攻撃を開始して、23日には首都奪回を果たします。

10月10日にカダフィ大佐は故郷のシルトに潜んでいるのを発見され、殺害されてしまいました。

10月23日、国民評議会はリビア全土の解放を宣言しました。

しかし、これで問題が解決した訳ではなく、今まで選挙も議会も憲法もなく、国内で100以上の部族が対立しているリビアに安定した政権を作ることは、至難の業と言えます。

内戦終結宣言後リビアではイスラム主義のトリポリ政府と世俗主義のトブルク政府が並立し、更に親カダフィ派やIS系組織、その他の地方勢力が乱立し、政府の統治機能が急速に低下、事実上の内戦状態が継続しています。

同じく「アラブの春」によりアサド大統領に対して反乱がおきたシリアと、その混乱に乗じて勢力を拡大した「イスラム国」についてはこちらをご覧ください ↓

誰がなぜ戦争を起こすのか。「9.11」から「イスラム国」まで その5 オバマ大統領と「イスラム国」

 

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