なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

なぜ、ドイツの大衆は、ヒトラーを選んでしまったのか その1

time 2019/08/01

なぜ、ドイツの大衆は、ヒトラーを選んでしまったのか その1

ヒトラーが独裁者として力を得るには、ドイツ大衆の支持が必要でした。
では、なぜ多くのドイツ人はヒトラーを選んだのでしょう。

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亀仙人2

ヒトラー率いるナチ党は、本当に国会で過半数を獲得したのか

2013年7月29日、(憲法改正をめぐる)東京都内でのシンポジウムでナチス政権を引き合いにした発言が問題となりました。

僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。8月1日 朝日新聞

引用 魚拓

これを読むと、ヒトラーが首相に就任した時には議会で過半数を占め、さらに憲法を改正して全権委任法を成立させる時には、必要な全議席の3分の2以上の議席を確保できたかのように思われますが、実際には全体を通じて過半数を上回ることはありませんでした。

 ヒトラーが首相になり、全権委任法(授権法)を可決するまで

ヒトラーが首相になったときの議席数は、1932年11月ドイツ国会選挙で

改選数584議席のうち、ナチ党の議席は196議席(33.09%)

 

全権委任法が成立した直前での議席数は、1933年3月のドイツ国会選挙で

改選数647議席のうち、ナチ党の議席は288議席(43.91%)

となり、ともに過半数を割っています。

この様な状態でなぜヒトラーが独裁者になったかは、こちら⇩に詳しく書いておきました。

ヒトラーその1 ヒトラーが独裁者になるまでの過程

ナチ党が過半数を獲得できたのは、1933年11月のドイツ国会選挙からです。

この時は投票率95.30%、得票率92.11%で全661議席ナチ党で占めました。

ただしこの時は、ヒトラーが全権を握り独裁者となった後で、国家社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)以外の政党はすべて解散させられていたので、ナチ党だけの選挙になっていました。

さらに、ナチ党組織や行政組織による投票行動への監視は厳しいものであり、投票場への組織的な駆り出しが行われたり、誰が反対票を入れたかもわかるようになっていました。

これは独裁者がよく使う手で、自分が国民全体の支持を受けていると、主張する手段になっています。

なぜドイツの人たちはヒトラーに投票したのか

ドイツの歴史19世紀以降

ドイツが大きく発展したのは、プロイセン王国が鉄血宰相ビスマルクの元でドイツ統一を目論み、ドイツ連邦の議長国であるオーストリアとの独墺戦争で勝利して、北ドイツ連邦を成立させたことから始まります。

19世紀前半のドイツ

出典 コトバンク

上の地図で水色の部分がプロイセン王国。桃色の部分がオーストリア帝国です。

橙色の線で囲まれた部分が、ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)の下でフランスと同盟を結んでいたドイツ諸侯のライン同盟。

緑色の線で囲まれた部分が、ナポレオン戦争後のウィーン会議で合意されたウィーン議定書によって設立されたドイツ連邦。

ドイツ連邦とは

ウィーン会議でつくられたドイツ連邦は、神聖ローマ帝国に代わるドイツ諸国家(主権的諸港と自由都市)約40の連邦組織だが、これ自体、ヨーロッパの勢力均衡の縮図ともいえるものであった。そもそもハノーファーの君主はイギリス国王、ホルシュタインの君主はデンマーク国王、ルクセンブルクの君主はオランダ国王であって、ドイツ連邦といっても国際的な君主同盟に近いのである。・・・
だからこれは到底ドイツの統一国家とは言えないものであった。ヨーロッパの勢力均衡のためには、ドイツは強力な統一国家などにならないほうがよい。それがむしろメッテルニヒの考えだったのである。民族統一など彼にとってはもとより論外であった。そもそも彼の率いるオーストリア帝国が、チェコ・ハンガリーから北イタリアにも伸びる多民族国家であって、この帝国自体、民族統一や民族自決などという原理とは全く相容れない性質の国なのである。

引用 坂井榮八郎『ドイツ史10講』2003年 岩波新書125~126頁

北ドイツ連邦とは

 

北ドイツ連邦 出典粋なカエサル

普墺戦争に勝利したプロイセン王国は、オーストリアの主導するドイツ連邦を解体し、ドイツ関税同盟によってかねてから結びつきの強かったドイツ北部諸邦と連合する連邦国家を成立させた。連邦主席はプロイセン国王が務め、宣戦・講和・条約締結ならびに陸海軍を指揮する権利を占有した。北ドイツ連邦の宰相はプロイセン首相であるオットー・フォン・ビスマルクが務め、また連邦参議院議長も兼任した。プロイセン王国だけで国土・人口の8割以上を占めたが、主権は各領邦に残された。

引用ウィキペディア

普仏戦争(1870年7月19日 ~1971年5月10日)とドイツ帝国

北ドイツ連邦を結成したプロイセン王国は、ドイツ統一を目指してドイツ南部の諸王国(バイエルン王国、ヴュルテンベルク王国、バーデン大公国、ヘッセン大公国)をプロイセンが主導する統一ドイツ国家の中に取り込こもうとしました。

ドイツ南部の諸王国を取り組むためには、南部諸王国がプロイセン王国と同じ一つのドイツ民族であるというナショナリズムを、目覚めさせる必要があると考えられていました。

そのためには隣国フランスとの戦いが必要であると分析、判断していました。ただ、こちらから戦争を仕掛けるのではなく、フランス側がドイツに対して侵略するように仕向ける必要がありました。

エムス電報事件

1868年のスペイン九月革命で王位が空位となったため、スペイン王位継承問題が起こった。プロイセンのビスマルクはホーエンツェレルン家につながるレオポルトを推薦し、スペインも一旦了承しました。

しかし、これに対してプロイセン王国とスペインにフランスが挟まれることを恐れたナポレオン3世は、プロイセン王ヴィルヘルム1世に強く迫り、一旦はレオポルトの即位を撤回させました。

このままでは大して問題にはならないところでしたが、フランスはこれを明文化させようと、7月13日、温泉保養地バート・エムスに滞在中であったプロイセン国王ヴィルヘルム1世に大使を派遣。しかし、ヴィルヘルム1世はこれを非礼であるとして拒絶しました。

当時メキシコ出兵の失敗などで失点を重ねていたナポレオン3世が、スペイン国王継承問題で、プロイセン国王との交渉で勝ったことを電報でフランス本国に送る許可をプロイセン国王ヴィルヘルム1世を求めたことでした。

これを知ったビスマルクは、、フランスの非礼と国王の怒りを強調して編集し、新聞で公表しました。次がその文章です。

ホーエンツェレルン家の世子(レオポルト)が(スペイン王位を)辞退される旨、スペイン政府がフランス政府に対して公式に通達した後、フランス大使はエムスにおいてさらに国王陛下に対し、ホーエンツェレルン家の人間が再び(スペイン)国王候補となるようなことがあっても、今後絶対に同意を与えることはないと国王陛下が誓われる旨、パリに打電する権限を与えるようにと要求してきた。これに対して国王陛下は、フランス大使とさらに会うことを拒まれ、副官を通じて、大使にこれ以上何も伝えることはないとお伝えになった。

引用 飯田洋介『ビスマルク』中公新書 2015年 145頁

これが普仏戦争の発端となった「エムス電報事件」で、その結果

彼(ビスマルク)は「スペイン王位継承問題でフランスがプロイセン王に不当な要求を突き付けてきたという印象を際立たせることに成功」し、さらにこうしたフランス側の要求をプロイセン王はきっぱりと断り、「フランス大使とさらに会うことを拒」み、「何も伝えることはない」という個所を強調したことで、独仏双方の世論を強く刺激したのである。この「エムス電報」が公表された瞬間、本来この問題で勝者であったナポレオン3世が一転して窮地に追いこまれ、世論の支持を確保して自らの王朝を維持していくには、もはやプロイセンに対し強硬に打って出る以外には選択肢は無くなり、7月19日、宣戦布告を行い、普仏戦争の戦端が開かれることとなった。

引用 飯田洋介『ビスマルク』中公新書 2015年 145~146頁

ビスマルクの思惑通り、フランスがプロイセンに戦争を仕掛けることに成功しました。

プロイセンもフランス同様、国王への侮辱に対し民衆がこの事件にナショナリズムを刺激され、さらにこれが南独にも波及し、南部の諸王国も直ちにプロイセンと一緒に、フランスと戦うことを決めました。

普仏戦争

1870年7月19日に起こり、1971年5月10日まで続いた普仏戦争は40万人の職業軍人による常備兵を要するフランスに対して、徴兵制を敷き120万人が動員可能な軍隊を持つ、プロイセン側が優位に立ちました。

1870年9月1日スダンの戦いで、ナポレオン3世が8万3千の将兵と共に降伏し、退位して亡命、フランス第二帝政は崩壊し臨時政府が成立ました。

パリに迫ったプロイセン軍は、翌1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿を占領し、そこでドイツ帝国の皇帝戴冠式を行い、その10日後にパリは開城しました。2月26日、フランス臨時政府(行政長官ティエール)は、50億フランの賠償金と、アルザス・ロレーヌ(ロレーヌ地方には厳密にはその三分の一)を割譲する条件で講和しました。

フランス臨時政府の屈辱的な講和に反対したパリ市民は、パリ=コミューンを組織して、労働者政権を樹立する。しかし、臨時政府側とドイツ軍によって包囲され、5月に崩壊し普仏戦争は終了しました。

ドイツ帝国

1871年1月18日、パリのベルサイユ宮殿でプロイセン王国を中心とする北ドイツ連邦に南ドイツの各都市の諸侯が推薦する形で、プロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝となり、統一されたドイツ国家、ドイツ帝国が誕生しました。

1871年1月18日、フランス・ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ皇帝として宣言されるヴィルヘルム1世。中央の白い服を着た人がビスマルク。

出典ウィキペディア

1950年から工業化が進んていたドイツでは、普仏戦争による賠償金50億フランにより一気に重工業、化学工業を基軸とした資本主義的生産力が進みました。

また帝国の誕生した時の人口約4100万人も、第1次世界大戦直前には約6300万人にもなり、その多くが都市に流れ込み工業化に必要な労動力となりました。

建国からドイツ革命によるヴァイマル共和政以降までの47年の間に、ドイツ帝国の産業、技術、科学は世界でもトップクラスとなり、当時世界の最も多くのノーベル賞を獲得し、ドイツ帝国は世界第二位の経済を築き上げることになります。

豊富な人口と発達した工業力とで、強力な陸軍を構成でき、海軍ではアルフレート・フォン・ティルピッツ海軍元帥の手によってイギリス海軍と建艦競争を行い、イギリス海軍の6割の規模でありながら最新鋭の軍艦を揃えたドイツ海軍は、世界第二位の海軍力を持つことになりました。

発達した経済と強力な軍隊により、ドイツ帝国は列強の仲間入りを果たしました。

出典ウィキペディア

かってのドイツ帝国の領土。青が西ドイツと東ドイツを合わせた領域(現在のドイツと等しい面積)。黄色と橙色が第一次世界大戦で失った領域。薄緑色とピンク色が第二次世界大戦で失った領域。大戦で負けるたびに領土が減らされた。

ドイツの工業化によって生まれた大勢の労働者は、社会民主党を結成し、社会主義的政策の実施を主張して、大戦前夜には議会第一党までに成長しました。第一次世界大戦では、労使協調で戦争に協力する右派と、あくまでも労働者のために反戦平和を唱える左派に分裂しました。

長引く戦争による国内生活の窮乏と、アメリカ参戦で戦争に勝利する見込みが立たなくなってきたことから、1918年11月3日キール軍港における水兵の反乱をきっかけに、ドイツ各都市で革命がおこりました(ドイツ革命)。

その1週間後の11月10日ドイツ皇帝ウィルヘルム2世がオランダに亡命し、政権を引き継いだ社会民主党を中心とする人民委員会は、11月11日連合国と休戦協定を結び第1次世界大戦は終了しました。

しかし、人民委員会には軍部・官僚・資本家などの旧勢力も入っていたため、社会民主党左派勢力はスパルタスク団(後のドイツ共産党)を結成してドイツ革命を機に、労働者による社会主義国の成立を目指しました。

しかし社会民主党指導部は,旧軍部の力をかり,スパルタクス団などの反乱を鎮圧しました。 1919年1月 19日の選挙によりワイマール共和国政権が誕生しました。

第1次世界大戦に敗戦した後、ドイツの人たちがヒトラーを選んだ理由

その1、汎ゲルマン主義

急激な経済と軍事力の増大により、ドイツ国民の中にゲルマン民族は優秀な民族であり、世界をリードすべき民族であるとも考えが広まってきました。これを汎ゲルマン主義と言います。

これを端的に表しているのがドイツ国歌(ドイツの歌)の1番の歌詞です。

You Tubeより

ドイツの歌1番の歌詞

ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ
この世のすべてのものの上にあれ
護るにあたりて
兄弟のような団結があるならば
マース川からメーメル川まで
エチュ川からベルト海峡まで
ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ
この世のすべてのものの上にあれ

引用ウィキペディア

この歌詞で出てくるマース川、メーメル川、エチュ川、ベルト海峡の位置は下の図の通りです。

この歌を聞くと、かって広大な領土を持っていたドイツ民族の誇りと、民族の復興を目指す意欲をかき立てられます。

現在では1番2番は歌われず。3番の歌詞のみが使用されています。

ドイツ国歌(ドイツの歌)によるドイツ民族の勢力範囲

ピンク色の部分は第1次世界大戦敗戦後のドイツの領土

出典 NHK 100分 de名著 アーレント”全体主義の起原”

これを見るとゲルマン民族の勢力範囲は、神聖ローマ帝国(ヒトラーの云う第1帝国)どドイツ帝国(同じく第2帝国)を合わせた範囲になります。ヒトラーは、ドイツ復興を目指し、この範囲を領地にした優秀なるゲルマン民族による第3帝国成立を、国民に訴えたのです。

さらにヒトラーは、優秀なゲルマン民族が第1次世界大戦に敗れたのは、銃後のドイツ国内のユダヤ人と共産主義者の内部工作があったからである。つまりドイツは“背後から刺された”のである』と主張しました。これは、「背後からの一突き」、「匕首伝説(あいくちでんせつ)」と言われます。


1919年に発行されたオーストリアのポストカード。ナイフを持ったユダヤ人が戦場のドイツ兵を背後から刺そうとしている。

出典ウィキペディア

そのためヒトラーは、優秀なゲルマン民族であるドイツ人が、世界をリードするためには、ドイツ民族国家の中の異分子であるユダヤ人と共存主義者を排除しなければならないと、主張しました。

これは優秀な民族の子孫であると自負しているドイツ人たちにとって、容易に受け入れやすい主張でした。

その2、ワイマール憲法

ワイマール憲法は、1919年1月19日に成立した共和国政権が、2月6日チューリンゲンの小都市ワイマールに新しい憲法の制定を主要任務として召集され,7月31日にドイツ共和国憲法Reichsverfassungを可決した。8月11日大統領がこれを認証し,8月14日公布,この日から実施された。そこで,この憲法をワイマール憲法と呼び,その時代のドイツをワイマール共和国と言います。

この憲法では、 ドイツで初めて君主政を廃止し、共和政を規定した憲法であり、男女の普通選挙による議会政治、国民の直接選挙で選ばれる大統領制にくわえ、世界で最初に労働者の団結権などの社会権の保障を明記した。当時における、世界で最も民主的に進んだ憲法でした。

フランスで世界最初の成人男性による普通選挙が行われたのが1848年、イギリスで男性による普通選挙制度が出来たのは1918年、日本では1928年の衆議院選挙で25歳以上の男子による普通選挙が行われました。

ドイツではワイマール憲法により成人した男女による完全普通選挙が1919年に行われました。これによりすべてのドイツ国民が政治に参加できることになりました。

さらに画期的と言われる、ワイマール憲法の第151条に

『経済生活の秩序は、すべての者に人間たるに値する生活を保障する目的をもつ正義の原則に適合しなければならない』

と明記されていることです。これは「生存権」「社会権」とも言われ、政府は国民が最低限必要な生活を営む権利を認めることです。

権利ですから、政府は国民が生活困難な状態に陥ってしまったときには、最低限必要な生活が出来るよう、必要な処置を取る義務があります。

ところが敗戦後のハイパーインフレにより生活が苦しくなったうえ、世界恐慌の影響で経済が破綻し、多くの失業者が生まれても、議会は多くの政党が乱立して、有効な処置をとることが出来ませんでした。

この為労働者の党である共産党や、失業者の救済をうたった国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が勢力を伸ばし始めました。

ワイマール憲法48条では、国家が危急の事態に瀕した場合、大統領緊急令を発令して「必要な措置を講ずる」ことができると定められていました。大統領緊急令の成立には国会審議は必要なく、「緊急事態」についての明確な定義もなかったため、大統領の裁量しだいでこれを発動することができたのです。

当時のヒンデンブルク大統領はこの緊急命令権を乱発し、事態を治めようとヒトラーもこの権力を握ろうとして大統領選に出馬しましたが、ヒンデンブルクに敗れてしまいました。

1933年にナチ党が第1党となり、首相に任命されたヒトラーはヒンデンブルク大統領に頼んで、この大統領緊急命令権と議会解散権を発令してもらい、独裁体制を握る準備を作ります。

1933年3月24日、議会で「全権委任法」が成立して、ワイマール共和国でのドイツの議会政治・政党政治は終わりを告げました。

このあたりの経緯はこちらに書いておきました ↓

テレビ映画 「ヒトラー 第2部 独裁者の台頭」 ヒトラーが独裁者となった手口

その3.大衆化社会

こちらについては

『なぜ、ドイツの大衆は、ヒトラーを選んでしまったのか  その2』

をご覧ください。

 

 

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