なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

第1次世界大戦 1918年 第1次世界大戦休戦

time 2021/04/03

第1次世界大戦 1918年 第1次世界大戦休戦

1918年、ドイツはアメリカ軍が戦線に出る前に決着を付けようと大規模な春季攻勢をかけました。

しかし決定的な勝利を得る前に、アメリカ軍が前線に出ることにより連合国軍側の兵力が大幅に上回り、ドイツは休戦を求めざるを得ない状態に、追い込まれてしまいました。

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亀仙人2

1918年の大きな出来事

ウィルソン米大統領による14ヶ条の平和原則の発表

1918年1月8日、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが、アメリカ連邦議会での演説のなかで「14ヶ条の平和原則」を発表しました。

しかし同じ1月8日ドイツ皇帝のヴェルヘルム二世は、ルーデンドルフの推すの推すイギリス軍とフランス軍の境にあるソンム地区を攻撃することに決定し、春季攻勢が始まったことにより「14ヶ条の平和原則」は無視されてしまいます。

しかし、連合国側の100日攻勢により窮地に立たされたドイツは、「14ヶ条の平和原則」を発表したウィルソン大統領に、連合国との講和の仲介を求めることになりました。

このあたりの詳しい説明はこちら↓

第1次世界大戦休戦までのウィルソン米大統領による、和平への働き その5

ブレスト=リトフスク条約

1918年3月3日、中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国)とロシア共和国およびウクライナ人民共和国のボリシェヴィキ政府(ソ連の前身)とが講和を結んだ。

この条約により、ロシアはドイツ、オーストリア=ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国の4カ国は直ちに停戦し、第一次世界大戦から離脱することとなりました。

これによりドイツは東部戦線に居た兵員を西部戦線に回すことが出来たほか、穀倉地帯のウクライナを支配下に置くことが出来、一時的に食糧不へそくを改善することが出来ました。

この時期のロシア内部の解説は、こちらを見てください ↓

ロシア革命 その2 ロシア内戦と、ソビエト社会主義共和国連邦の樹立まで

ドイツの春季攻勢(1918年3月21日~7月17日)

長引く戦争と、イギリス海軍の海上封鎖により、ドイツは国内の食糧不足と鉱工業生産の減少で、これ以上の長期戦を戦い抜くことが出来ない状態になっていました。

一方ヨーロッパに到着して訓練中のアメリカ外征軍は、1918年夏までには総数200万人に達する見込みで、彼らが戦闘に参加すればドイツの勝ち目は無くなってしまいます。

この為、ドイツのルーデンドルフは東部戦線から新たな部隊が加わり、イギリス軍、フランス軍の合計173師団に対して、ドイツ192師団と人的優位にあるうちに英仏軍に壊滅的な打撃を与え、ドイツ優位のうちに休戦に持ち込もうと考えました。

ミヒャエル作戦1918年3月21日~4月5日

1918年始め、イギリス軍は、海岸からの補給に便利な北フランスに部隊を集め、フランス軍はパリ防備のためランス付近に部隊を集結していました。

この為、両軍の境目ソンム地方を守るイギリス第5軍は、広い地域を少数の師団でカバーしなくてはならず、防御が手薄になっていました。

ルーデンドルフはこのイギリス第5軍に対して、東部戦線から回した部隊を中心とするドイツの主力部隊を投入しました。

ルーデンドルフの思惑は当たり、8日間で65km進み、イギリス第3軍と第5軍は分断され、鉄道の要所であるアミアン近くまで進軍しました。もしアミアンに到達したドイツ軍が北に進路を変えると、アラス付近に展開しているイギリス軍は完全に包囲され、壊滅的な打撃を受けることになります。

3月27日、それまで順調に進軍していたドイツ軍が、アミアンを目の前にアルベールで停止してしまいました。

アルベールにはイギリス軍の大きな集積所があり、それまでのドイツ軍の素早い進軍に補給部隊が追い付けず、飲まず食わずで戦ってきたドイツ兵が、蓄えられていた食料に群がった為でした。

この間にイギリスの要請を受けたフランス軍が続々とアミアンに到着し、防備を固めたため、ルーデンドルフの計画は失敗してしまいました。

ゲオルゲッテ作戦1918年4月7日~29日

ブルヒャー=ヨーク作戦(第3次エーヌの戦い)1918年5月27日~6月6日

ミヒャエル作戦とそれに続くゲオルゲッテ作戦で、西部戦線に居るフランス軍予備隊の大部分は、イギリス軍援護のため北部に移動し、ランス付近の防備が手薄になってしまいました。

ルーデンドルフは、この手薄になったランスに居るフランス軍を攻め落として、一挙にパリに進む作戦(ブルヒャー=ヨーク作戦)を実行します。

5月27日午前1時、1か月の準備をかけたドイツ軍は激しい準備砲撃の後、ソアソンとランスを結ぶ線上にあるシュマン・デ・ダームに39個師団を送り、攻撃初日だけで19kmの進軍を果たし、エーヌ川を越えました。

翌5月28日、アミアンの南にあるカンティニでアメリカ軍が本格的に戦に参加し、勝利を収めました。5月30日にはマルヌ河の流れるシャトーチェリーにおいて、アメリカ先遣隊の2個師団がドイツ軍と戦い、予想外の粘りでドイツ軍の進撃を食い止めました。

パリ近郊までドイツ軍が迫ったことで、フランス軍はパリ防衛のため南フランスに集結して、北フランスに手が回らなくなります。

ルーデンドルフの狙い通り、北フランスにいるイギリス軍は、単独でドイツ軍と戦わざるを得なくなりました。

しかし、この戦いでドイツ軍はソアソンとランスの間に大きな突出部を作ったことが、後に大きな損失を招くことになります。

グナイゼナウ作戦  1918年6月5日~6月13日

6月8日、ドイツ軍は3月と5月の戦いで得られた2つの突起部を塞ぐため、パリから60キロメートルの地点にあるコンピエーヌまで進出しました。

しかし、連合国軍は策をめぐらし、ドイツの誇る突撃歩兵による浸透戦術を無力化することに成功し、ドイツ軍を撤退させました。

第2次マルヌ会戦

フランス軍を南フランスに集めることに成功したルーデンドルフは、念願のイギリス軍駆逐のために、新たな作戦を実施しました。

 

第2次マルヌ会戦の地図

7月15日、ルーデンドルフはフランス軍を南フランスに釘付けするため、ランスの街に攻撃を仕掛けました。

ドイツ第7軍はマルヌ川を越えランスの裏側に回り込みを図ります。第1軍もランスの東側から攻撃を開始して、ランスを包囲し始めました。このままでは、ランスは完全に包囲され孤立してしまいます。

7月17日、ランスを包囲する見込みが付き、ルーデンドルフは本来の目的であるイギリス軍を殲滅するために、重砲隊と航空部隊を連れて、北部フランスのフランダース地方に移動しました。

7月18日、連合国最高司令官フェルディナンド・フォッシュは、ランスを攻撃しているドイツ第7軍に対して、ソアソンにいたペタンが率いるフランス第10軍を使い、ドイツ軍の背後から攻撃を開始しました。

この時のドイツ軍は、陥落目前のランスを攻撃するのに集中しており、背後の警戒を怠っていました。

この反撃は、フランス軍24個師団を中心に、アメリカ軍8個の大型師団(アメリカ軍の1個師団はフランス軍2個師団分の兵員を有していました)、とイギリス、イタリア軍も加えた連合国の総力を挙げて、突起部の後方ソアソンに攻め込みました。

更に、フランスの最新式戦車ルノーFT17軽戦車350両を含む、478両の戦車も、この作戦に投入されました。

7月20日、フランス軍の反撃で、ランスを包囲しているドイツ軍は、後方の連絡を絶たれることを恐れ、突起部からの撤退指令が出されました。

この撤退は、約2週間後の8月5日に完了します。

ここまでの戦いの詳しい説明はこちらにあります ↓

1918年 ドイツの春季攻勢 ロシアとの講和が成立し、連合国軍に対してドイツが初めて人的優位に立ちました。

失敗に終わった春季攻勢

 

西部戦線1918年3月21日から7月18日
色のついた部分はドイツが春季攻勢で新たに得た領土
出典 ウィキペディア

その後、ルーデンドルフは兵力の損耗を防ぐため、敵の手薄な地域を狙って攻撃を仕掛け、不利と見たらサッサと手を引く作戦を取り、大兵力を一点に集中して決着をつける方法をとりませんでした。しかし、この方法では兵力を分散させることにより、大きな戦果を挙げられず、無駄に兵力を減らすことになりました。

 

連合国軍の大反撃(百日攻勢)

アミアンの戦い1918年8月8日~12日

1918年6月から7月にかけて、ドイツ軍の攻撃目標がフランス軍に向かったことでイギリス軍は新たにオーストラリア軍、ニュージーランド軍、カナダ軍を加え、戦力を回復し、反撃の準備を整えることが出来ました。

ただ、大きな問題はイギリス軍やフランス軍に対して、複雑かつ強固に作られたドイツ軍の塹壕をどう乗り越えるかということです。

 

イギリス軍の塹壕

1914年のイギリス軍の歩兵向け野戦築城教範による塹壕構築の要領。壕の深さにはAの伏射用、BおよびCの膝射用、Dの立射用と何種類かある。

出典 ウィキペディア

ドイツ軍も初めはイギリス軍の塹壕と同じような構造でしたが、この頃になるとセメントやレンガで強固に補強され、相手の準備砲撃に耐えられるように地下深く掘り下げられた退避壕を持つ、複雑な構造になっています。

この為ドイツ軍が使用したような、短機関銃や火炎放射器を持った突撃歩兵で、敵の弱点を突く攻撃では、突破が不可能になっていました。

ドイツ軍の塹壕

左から何無人地帯、何重にも張られた鉄条網、第1線、第2線、最終線と塹壕が続き、それぞれの塹壕には敵の砲撃を避けるために地下深く掘られた退避壕があります。この点が、塹壕の壁の横に退避壕を作ったイギリスと、違うところです。そして一番後ろの離れたところに、砲兵隊の陣地があります。

戦車は塹壕を乗り越えるだけではなく、塹壕に対して平行に移動しながら、中にいる敵兵を掃討するためにも使われました。

出典 Wikipedia commons

この為1917年に行われたカンブレーの戦いを参考にして、戦車を主体とする奇襲作戦を行うことにとました。

イギリス軍はこの攻撃のために戦車532両、1386門の野砲と榴弾砲、800機の航空機を用意しました。

更にフランス第1軍の12師団と、アメリカ軍の1師団が戦場の南側を受け持ちます。

7月4日には、アミアン近郊のアメルでこの計画の立案者のモナッシュが率いるオーストラリア軍と、アメリカ軍とで試験的にドイツ軍に対して攻撃を行い、良好な結果を得ることが出来ました(アメルの戦い)。

8月5日の第2次マルヌ会戦終了後、ドイツ軍が体勢を整える前に攻撃するため、8月10日の予定を2日早め、8月8日午前4時20分、あらかじめ音響測定で場所を把握していたドイツ軍砲兵部隊に対して砲撃を行い、間髪を入れず戦車隊が出動して鉄条網と機関銃座を破壊し、歩兵がその後に続きます。

更に爆撃機の攻撃で、後方にある砲台や司令部が破壊されました。

攻撃初日だけで、英仏軍は最大13km進みました。

ドイツ軍はこの日だけで3万人の損失を出し、その半数が捕虜でした。ドイツ軍司令官のルーデンドルは、1日で1万5千人が捕虜となった報告を聞き味方の士気の衰えたことにショックを受け、後日この8月8日を「ドイツ軍暗黒の日」と名付けました。

ルーデンドルフはアミアンまでの突出部を放棄することに決め、この地域の部隊をヒンデンブルク線へ撤退させました。

この戦いで大活躍し戦車ですが、当時の戦車は撤退するドイツ軍を追撃するには速度が遅く、また技術的に未熟なため、故障が多発しました。さらに搭載している35㎜砲は射程が短く、敵の機銃座を攻撃するには十分であったが、射程外から75㎜野砲などに攻撃された場合、一方的に打たれ無力ででした。

このため8月8日の攻撃が終わった時点で、稼働できる戦車は176両になってしまいました。

この戦いは8月12日に終わりましたが、戦車を主体にした各兵科総合の機動戦で、それまで難攻不落と言われたドイツ軍の塹壕を短時間で突破する道が開けました。

8月15日連合軍最高司令官のフォッシュは、イギリス軍の司令官ヘイグにドイツ軍の追撃を命じましたが、動かせる戦車が少ないことと、最前線の部隊が砲撃隊の支援を受けられない位置にいたため、これを断りました。

連合軍の百日攻勢

ヒンデンブルク線まで

8月21日~23日にかけて、攻撃準備の整ったイギリス第3軍とアメリカ第2軍団がアルベールを攻撃し、ここから11月11日の休戦協定成立までの100日間にわたる連合軍の反撃(百日攻勢)が始まります。

同じく8月21日~9月3日までイギリス第3軍の第4軍団のニュージーランド師団が中心となり、交通の要所であるバホームを攻撃します。

8月31日~9月3日にかけて、オーストラリア軍がベロンヌ郊外にあるモンサンカンタンの丘に居るドイツ軍を攻め、ドイツ軍を駆逐しました。

この3つの戦いに囲まれた場所は、第1次世界大戦最大の激戦と言われるソンムの戦い(1916年7月1日~1916年11月18日)が行われた場所です。。

1918年 百日攻勢(前編) 第2次マルヌ会戦で勝利した連合軍は、ドイツ軍に対して反撃を開始します。

アメリカ軍として最初の作戦(サンミッシェルの戦い)

1918年9月12日~15日、それまで連合国軍の一部として活躍していたアメリカ外征軍でしたが、独立した軍隊として自ら作戦を立て、ベルダンの南にあるサンミッシェルのドイツ軍突出部の攻撃を成功させ、ナンシーとベルダンの間の交通を確保できました。

これらの攻撃により、連合国軍はドイツの春季攻勢で失った土地の大部分を取り戻すことが出来ました。

1918年9月26日、連合国軍総司令官フォッシュは全軍に対してヒンデンブルク線への総攻撃を命じました。

ヒンデンブルク線の戦い

ムーズ・アルゴンヌ攻勢1918年9月26日~11月11日

攻撃の第1波となったのが、1918年9月26日から始まったフランス軍とアメリカ外征軍によるムーズ・アルゴンヌ攻勢です。

ベルダンからヒンデンブルク線の後ろにある交通の要所スダンを攻略することにより、ヒンデンブルク線への補給路を断つ狙いがありました。

この戦いでアメリカ軍兵士120万人が参加しましたが、実戦経験の不足、作戦の初期段階で使用された戦術、および「スペイン風邪」と呼ばれる世界的なインフルエンザの発生の広範囲にわたる発症によって、26,277人が死亡、95,786人が負傷する大きな犠牲者を出してしまいます。

またフランス軍にも7万人の犠牲者が出てしまいました。

ノール運河の戦い1918年9月27日~10月1日

カンブレーの街は西側をノール川に沿って作られたノール運河とヒンデンブルク線、街の近くはカンブレーとサンカンタンを結ぶサンカンタン運河で造られた、3つの防御線で守られています。

ムーズ・アルゴンヌ攻勢の翌日、イギリス軍はノール運河を越えて、カンブレーの町を攻撃しました。

この攻撃により、翌日に行われた「第5次イープルの戦い」と翌々日に行われる「サンカンタン運河の戦い」の中間地点を支配し、この2つの戦場の連絡を絶つことに成功しました。

第5次イープルの戦い(1918年9月28日~11月11日)

第1次世界大戦が開戦した時、ベルギーの大部分はドイツによってドイツによって占領され、残されたわずかなベルギー軍はダンケルク近くの国境の町街フルーネを中心とした、エイゼル川に囲まれた地域に避難しました。

1918年9月28日、フランダース地方にいる、ベルギー軍、イギリス軍、フランス軍はイープル突出部にいるドイツ軍に対して攻撃を仕掛けました。雨の降りだした夕方までにはイープルの町と近郊のパッシェンデールの村を取り架すことが出来ました。

サンカンタン(サンクウェンテン)運河の戦い(1918年9月29日~10月10日)

カンブレーとサンカンタンの間をつないでいるサンカンタン運河は、途中のベリクールとグイの間が高台になっている為、この部分はトンネルでつないでいました。

ベルクールトンネル

ベリクールの南側にある、サンカンタン運河のベリクールトンネル入り口の空中写真。

よく見ると、トンネル上部から左上にかけて、ヒンデンブルク線の鉄条網と塹壕が見える。

出典 http://thebignote.com/

ドイツ軍もこの部分を守るため、何重にも重ねられた塹壕で守備を固めていました。

1918年9月29日、サンカンタン運河の戦いの米軍とオーストラリア軍の作戦を示す地図。

赤いギザギザの線がヒンデンブルク線の塹壕。赤い点々が鉄条網の位置を示す。

右側にある水色の線と点線が、サンカンタン運河。

出典 Wikipedia

この地域を攻撃したアメリカ軍は、深い霧で方角が分からなくなったり、霧の中から現れるドイツ軍に襲われたりで苦戦しました。

しかし、イギリス軍の第137旅団がベリクールトンネルの南にあるリケバル橋を爆破される前に手に入れることが出来、ここからヒンデンブルク線の背後に回ることでドイツ軍の守備隊を破ることに成功し、ヒンデンブルク線に大きな穴をあけることが出来ました。

サンカンタン運河に架かるリケバル橋から第137旅団(第46師団)の軍隊に演説するJVキャンベル准将。

よく見ると、運河を渡ったときに使用した救命胴衣を着けたままの兵士が居ます。

出典 Wikipedia

1918年9月29日に起きた、二つの出来事と休戦への動き

9月29日、それまで同盟国の一員であったブルガリアが、単独で連合国に対して休戦協定を結びました。

これによりオーストリア=ハンガリー帝国が、ギリシャ方面から直接連合国軍の攻撃を受けることになりました。

また、オスマン帝国(トルコ)とドイツとの間の連絡が、切れることになりました。

これと、ヒンデンブルク線が破られた報告を受けたルーデンドルフは、皇帝に拝謁して、これ以上戦争を続けても勝つことが不可能であり、ドイツを守るため即刻休戦に入ることが必要であると、伝えました。

ベルギーのスパにある参謀本部の会議で休戦の必要を認めたドイツ政府は、10月3日民主主義的な政治家と知られるバーデン公マックスを宰相とする議会制民主主義政府を作り、アメリカのウィルソン大統領に、休戦の仲介を申し込みました。

ここまでの詳しい解説はこちらにあります ↓

1918年 百日攻勢(後編) ヒンデンブルク線を越えて休戦まで

10月4日、新しく宰相となったマックスは、早速ウィルソン大統領と休戦交渉に入りました。

交渉の途中でドイツ海軍のUボートがアイルランドの郵便船レンスター号撃沈したことで、アメリカの態度が厳しいものとなり、議会の力を増すため、ドイツ皇帝の持つすべての権限(首相をはじめすべての大臣の任命、外交に対する権限、軍の統帥権など)を議会に移譲することを求めてきました。ただ、アメリカ求めていたのは、皇帝の持つ権限の移譲だけで、後に問題となった、皇帝の退位や皇室の解体までには、及んでいませんでした。

この交渉の間、ウィルソン大統領は腹心のハウス大佐をヨーロッパに送り、具体的な休戦交渉に対する具体的な条件の協議を行いました。

特に問題になったのが、公海の自由航行に対して、海上封鎖をイギリスが反対したことと、国土を荒らされたフランスが、無併合・無賠償に大きく反対したことです。

フランスが求めていたアルザス・ロレーヌ地方の返還は、ドイツが大戦前の1914年8月1日の位置に戻ることで解決し、海上封鎖と具体的な賠償金の額は、次の講和交渉で決めることで合意しました。

11月8日午前9時から、ドイツとの休戦交渉が、フランスのコンピエーニュの森の中に止められた食堂車で行われました。

1918年の休戦協定調印直後の写真

出典 ウィキペディア

休戦協定に臨んだ参加者は、

連合国側

フランス軍元帥フェルディナン・フォッシュ(連合軍最高司令官)

イギリス第一海軍卿ロスリン・ウェミス提督(イギリス代表)

マキシム・ウェイガン将軍(フォッシュの参謀長)

ドイツ側

マティアス・エルツベルガー(文民政治家)

アルフレート・フォン・オーベルンドルフ伯爵(外務省)

デトレフ・フォン・ヴィンターフェルト少将(陸軍)

エルンスト・ファンゼロウ大佐(海軍)

でした。

11月11日午前5時、休戦協定の協議が終わり出席者の署名が行われ、休戦は6時間後の午前11時に行われました。

 

ウィルソン米大統領による休戦までの動きの解説はこちら ↓

第1次世界大戦休戦までのウィルソン米大統領による、和平への働き その5

 

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