パッシェンデールの戦い(第3次イープル会戦)
1917年7月~11月
パッシェンデールの戦いまでの動き
第1次イープル会戦
第1次世界大戦開戦当初、ドイツはフランスを攻撃するためにベルギー国内を通り、その際イープルの町もドイツ軍により占領された。その後体勢を立て直したイギリスを主体とする連合軍は1914年10月31日~11月22日にかけてイープルの突出部でドイツ軍を攻撃しまちの奪還に成功しました。
第2次イーブル会戦
翌年の1915年4月22日~5月25日にかけて今度はドイツ軍が攻撃をかけ、イーブルの町は再びドイツ軍が占領しました。この戦いでドイツ軍は塩素ガスによる大規模な毒ガス攻撃を行い、2か月後にはこれもまた初めての火炎放射器による攻撃も開始しました。
1915年~16年両軍はイープル近郊でにらみ合いを続け多くの犠牲者を出したが前線はたいして動かなかった。この間にイギリス軍はイープルの町を見下ろすメシヌ高地に陣取るドイツ軍に向かって、トンネルを掘り続けていたのです。
1917年に連合国側に大きな動きがあった。
1・フランス軍司令官ロベール・ニヴェルによる大規模なドイツ軍への攻撃(ニヴェル攻勢)の失敗でフランス軍全体に反乱がおこり、攻撃命令を無視(守備は別)するようになった。
ニヴェル攻勢
ソンムの戦いは連合国側だけではなく、ドイツにも大損害を与え、ドイツは少人数でも守れるようヒンデンブルク線と呼ばれる強固な要塞群の建設を行った。
1916年12月ロベール・二ヴェル将軍がジョセフ・ジョッフル将軍からフランス軍最高司令官の地位を引き継ぎ、ドイツ軍に対してレンスからランスにかけ飛び出しているドイツの前線に、英仏を中心とする120万人で包囲攻撃をし、前線に穴をあけドイツ軍を殲滅する作戦をたてた。
指揮官のニヴェルは「作戦は48時間で終了し、損害は1万人程度」と豪語していました。
この言葉は1916年までに120万人にも及ぶ犠牲者を出し、その割にはドイツ軍に対し、撤退させるどころか、前線も動かせず意気消沈していたフランス軍全体を奮い立たせました。
ところが事前にフランス軍捕虜から作戦全体の文書を手に入れたドイツは、占領地を放棄し前線の兵士をヒンデンブルク線に集結させて待ち構えていたのです。
そこにフランス軍は総攻撃をかけたが、初日だけで9万人、3週間の戦いで18万7千人の死傷者を出して敗北してしまいました。
この戦いで指揮官の無能ぶりに憤慨したフランス兵は、各地で「塹壕は守るが、新たな攻撃命令に従わない」反乱を起こし、フランスは以後この事件の収集に苦労することになり一時戦線から離脱することになります。
2・1917年3月から始まったロシア革命により、ロシア軍の参戦が危うくなってきて、11月にロシア軍は第1世界大戦から撤退しました。
ロシア革命の詳しい説明はこちら ↓
3・1917年4月6日にアメリカはドイツに宣戦布告をし、第1次世界大戦に連合国の一員として参加した。しかし、実戦に参加したのは1年半程後であった。
アメリカ参戦の説明はこちら ↓
前哨戦
1917年2月から始まったドイツの無制限潜水艦攻撃で多大な損害を受けたイギリスは、ベルギー沿岸にあるドイツの潜水艦基地を陸から攻撃する計画を立てた。ベルギーのイーベル付近のパッシェンデール村を制圧しここを突破口としてベルギーの海岸線に到達する予定であった。
メシヌ高地
イープルの町からドイツ軍の前戦を突破するため、イギリス第2軍司令官のプルーマ将軍は、ドイツ軍の陣地に向かってかねてから掘り進めていたメシヌ高地の地下トンネルで大量の火薬を爆発することにした。
6月7日午前3時10分、ドイツ軍根拠地に掘られていた19本の地下トンネルで455トンの火薬が一斉に爆発し、その轟音はロンドンまで届いたという。この爆発でドイツ軍の死者は1万人以上、7千人が捕虜となりました。
イギリス軍により爆破されたドイツ側陣地
出典 ウィキペディア
この爆破を詳しく描いた映画があります ↓
7月31日の午前3時50分メシヌ高地奪還後、イギリス第5軍のヒューバート・ゴーフ将軍はイーペルを見下ろすゲルベルト台地に向かって攻撃を開始したが、死者・行方不明者32000人という損害を出し失敗に終わった。この後ドイツ軍は、塩素ガスに代わり、新たに開発したマスタードガスを実戦で使用した。8月にかけても攻撃を続けたが大した進展は見られなかった。
新兵器の戦車も136両投入されましたが、砲弾跡の穴にはまったり、泥沼に埋もれ動きが止まったところを砲撃され、大損害を出してしまいます。
マスタードガス
マスタードガスは、無色または黄色の粘性の強い液体で、かすかにマスタード(洋からし)の匂いがする。特徴としては残留性・浸透性が高くゴムを透過する性質があり、当時使用されていたゴム製のガスマスクやゴム引きの防護服を無力化してしまう。また、効き目が表れるのが遅いため(遅効性)気が付かず粘液を服や靴につけたまま退避壕や部屋に入ると、気化したガスによりその場にいた人も被曝してしまいます。
マスタードガスは糜爛剤のため、皮膚や粘膜にただれを生じ、重い場合は消化器や気管がやられてしまう。第1次世界大戦の映画で目に包帯を巻いた兵士が列を作って避難している場面があるが、このガスで目の粘膜がやられた人たちです。ヒトラーも戦争終盤にこのガスで目をやられ、病院で治療中に終戦を迎えました。
ただガスによる死亡率は5パーセント程と低く、1917年7月12日に、このガスを使った最初の攻撃を受けた約3500名の中毒患者のうち死亡したのは89名であった。
9月になり連合軍は「bite and hold」(噛って維持する)という戦略を採用した。これは少しづつ前進を繰り返しその都度敵の反撃を食い止めていく作戦です。ただこの作戦では人員の損傷が激しくイギリス第5軍では足りず、メシヌ高地で活躍した第2軍も加わり10月9日パッシェンデール近くのポエルカペルに着いた時には85000名以上の人的損害を出してしまいます。
第1次パッシェンデールの戦い
1917年10月12日大雨の中、ポエルカペルからパッシェンデールに向かって連合国軍は攻勢をかけた。戦闘はフランス軍が反乱を起こしその後始末で使えないため、イギリスを中心とし、ガリポリの戦いに出てきたANZAC、南アフリカ、カナダの軍隊で戦った。
もともと沼地に建てられたパッシェンデールは両軍の激しい砲撃で排水路と堤防が破壊され水浸しになり、そのうえ大雨が降り、そこに砲撃で水と泥がかき回されたため、付近一帯は大きな泥沼となり、イギリス軍は木製の板を敷いて移動した。泥まみれの板から足を滑らせ泥沼から這い上がらず、溺死するものが多数発生した。特に負傷者が落ちた場合は致命的であった。
膝まで埋まる泥の中、戦友を担架で運ぶ兵士たち↓
木道を踏み外して泥沼に落ちた馬↓
ドイツ軍は排水の良い高台に、砲撃に耐えるトーチカを多数作り待ち構えていた。この戦いで連合軍は13000名の被害を受け撃退された。
第2次パッシェンデールの戦い
これまでの戦いで多くの被害を受けたANZAC軍に代わり、新たにカナダ軍の2個師団が加わった。
1917年10月26日、カナダ軍の第3師団と第4師団の計20000人が突出部の丘に攻撃をかけ、第2次パッシェンデールの戦いが始まった。この戦いで12000名の兵士が失われました。
1917年10月30日、新たにイギリス軍第2師団が加わりパッシェンデールの町の奪取に成功した。さらに11月6日に新たな増援部隊が加わりパッシェンデールの町を取り囲む要地を確保できた。この戦いでカナダ軍は5分の4の兵員を失った。
これまでの戦いのにおけるイギリス側の死傷者44万8千人、ドイツ側は26万人であった。
パッシェンデールで戦ったカナダ軍の映画はこちら ↓
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