なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

なぜ、アメリカの援助を受けていたサダム・フセイン大統領が、敵になったのか

time 2017/12/12

なぜ、アメリカの援助を受けていたサダム・フセイン大統領が、敵になったのか

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亀仙人2

サダム・フセインと湾岸戦争

なぜ、イラン・イラク戦争でアメリカの支援を受けていたサダム・フセインはアメリカを憎み、対立するようになったか。

サダム・フセインがイラク大統領になるまで

1937年4月28日、イラク北部のティクリート近郊のアル=アウジャ村で農家の子として生まれ、10歳の時から母方の叔父ハイラッラー・タルファーフのもとで暮らした。

1955年に当時、中央政府の教育庁長官になっていたハイラッラーの後を追ってバグダードに移り住み、1957年にバアス党に入党する。

1958年、エジプトのナセル大統領はアラブ民族主義を掲げ、シリアやイエメンと組んでアラブ連合共和国を樹立します。それに共鳴したイラク国内のアラブ民族主義を掲げるバアス党はこの連合に加わろうとクーデターを起こし、王制を転覆、政権を奪取しました。しかし、新政権のトップ カシム准将はバアス党の汎アラブ主義を捨て、イラク共産党と手を組んでしまいます。

バアス党はこの裏切りに激怒して、カシム大統領の暗殺を試みます。サダム・フセインは1959年のカシム大統領暗殺計画に加わり、失敗して逃亡し砂漠を放浪し、シリアとエジプトで亡命生活を送ることになりました。

米国中央情報局(CIA)は中東の共産化を懸念し、共産党と組んだカセム政権を転覆しようと工作を始めます。

1968年バース党のクーデターでバクル大統領政権が成立すると副大統領に任命され、翌年32歳の若さでバース党最高決定機関の革命指導協議会の副議長に抜擢されました。

その裏でサダム・フセインは国家警備隊の創設に着手し、共産党員狩りを始めます。緑色の腕章をつけ、自動小銃で武装した国家警備隊による共産主義者の弾圧で、約5000人の共産党員が殺害されたと言われています。

・イラク近代化

サダム・フセインは副大統領時代の1970年~1980年代にかけて、イラクの近代化を目指しました。

バアス党政権はソ連の援助を受けて、クウェートとの国境沿いにルメイラ油田を開発し、それまで海外資本に牛耳られていた石油事業の国有化を断行しました。

国有化した石油事業から上がる利益で、ソ連から戦車や戦闘機の軍備を購入し、軍の近代化を果たしました。隣国のイスラエルやイランと対抗するためには、軍の近代化は絶対必要なものでした。

またイラク全土に学校を作り学校教育を強化し、識字率の向上を目指しました。

女性解放運動も積極的に行なわれ性別による賃金差別や雇用差別を法律で禁止し、家族法改正で一夫多妻制度を規制、女性の婚姻の自由と離婚の権利も認められました。女性の社会進出も推奨し、当時湾岸アラブ諸国では女性が働くことも禁じていた中で、イラクでは女性の公務員が増え、予備役であるが軍務に付く女性も現れた。

ソ連の協力によりイラク最大級のモースル・ダム(旧サッダーム・ダム)やハディーサー・ダムも完成させた。これにより、全国に通信網・電気網を整備し、僻地にも電気が届くようになった。貧困家庭には無料で家電が配布された。

さらに農地解放を推し進め、農業の機械化、農地の分配を推進し、最新式の農機具まで配られ、国有地の70%が自営農家に与えられました。

サダムはこの他にも科学技術の発展に熱意を注いだ。この熱意は周囲のイラク人にも伝染した。サダムは他の石油大国のように技術を輸入するだけということでは満足せず、先進国のように技術立国として発展することを考えていた

そのために、石油産業、軍装備、原発はソ連、その一部をフランス、鉄道建設はブラジル、リン酸塩生産施設はベルギー、旧ユーゴスラビア、東西ドイツ、日本にはハイテク技術分野の専門家や外国人労働者、専門技師の派遣を要請しました。

これにより、国民の生活水準も目に見えて上がってきて、イラク国民は長年待ち焦がれていた、国民の生活によく配慮してくれる政権が誕生したと思いました。

・大量破壊兵器

その裏で、豊富な石油資金にものを言わせ、かねてから親しかったシラク大統領を通じて、フランスからミラージュ戦闘機やガゼールヘリ等を輸入したほか、核兵器も原子力発電の名目でフランスから技術援助を受けた。フランスは石油大国のイラクが原発を持とうとする矛盾を全く無視してイラクにタンムーズ原子炉を売りました。目的はシンプルに金だった。

またアメリカもマンハッタン計画(広島、長崎型原爆の開発計画)の詳細な資料一式をイラクに寄贈しました。こうして大国の援助を受けイラクが核兵器を持つ一歩手前まで行きました。

化学兵器に関しては、農薬の名目でサダムはアメリカのファウルダー社のエンジニアをバグダッドへ招待し、技術援助を受けた。また東ドイツのライプチヒ毒薬研究所の職員と掛け合い、技術援助を受け、化学兵器の開発を進めます。

・フセイン大統領誕生

1979年7月17日、バクル大統領が病気を理由に辞任すると発表した為、サダム・フセインはイラク共和国第5代大統領(兼首相)に就任しました。

1979年7月22日に開かれたバアス党臨時会議で、、党内部でシリアと共謀した背信行為が発覚したとして、サダム・フセイン自ら一人ずつ「裏切り者」の名前を挙げていき、66人の人物が粛清され、党内の反対勢力を一掃して、独裁体制を確立しました。

イラク・イラン戦争のきっかけとなったイラン革命(1972年2月)とは

・イランの石油開発

1908年、イギリスによって中東で始めてイランで石油が発見された。それ以後、イギリス政府が株式の50%を所有するアングロ・イラニアン石油会社(後のBPブリティッシュ・ペトロノアム)がイランの石油利権を独占し続けていました。

・パーレビ朝

イランは第1次世界大戦でイギリス軍とロシア軍に占領されていたが、1921年にレザー・ハーンがクーデターを起こし、1925年自ら皇帝(シャー)に即位して、パーレビ朝を起こしました。

パーレビ朝は形態としては立憲君主制でしたが、議会はすべて国王派が占め、レザー・シャーが軍隊を掌握する軍国主義体制がとられました。しかしイスラーム聖職者の影響力を排除して政治、文化の世俗化を進め、男女同権を提唱して女性の社会活動を推奨していました。

第2次世界大戦中の1941年レザー・シャーはナチスドイツに接近したため、イギリスにより退位させられて、息子のモハンマド・レザー・パフラヴィー(パーレビ国王)が帝位を引き継ぎました。

・イランの石油国有化

1950年、サウジアラビアで石油の採掘に成功したアメリカのアラムコ石油会社は、サウジアラビアのサウド国王と石油から上がる利益を折半する契約を結びました。

イランでは、イギリスの石油会社アングロ・イラニアンが石油の利益を独占していたため、イランは利益折半を求めましたが、拒否されてしまいます。

1951年、民主的な選挙で首相に就任した民族主義者モサデクは、石油国有化法を可決させてアングロ・イラニアン石油会社から石油利権を取り戻し(イギリスのイラン支配の終結)、石油産業を国有化しました。

このことはイギリスとアメリカの反発を受け、国際石油資本(メジャー)によりイラン産石油は国際販売ルートから締め出されました。

1953年石油が販売できなくなったイラン政府は、対抗するためソ連に接近、ソ連・イラン合同委員会をつくって、ソ連と関係を深めていきます。

アメリカはイランがソビエトに近づき石油がソビエトに流れるのを警戒するようになり、アメリカのCIAとイギリスのMI6が協力して内政干渉の秘密工作(エイジャックス作戦)を行い、国王を支持する民衆のデモという形で クーデターをおこし、1953年モサデク政権を倒して、パーレビ国王を復帰させました。

パーレビ国王はこの事件における米国への見返りとして、1954年、イギリス40%、アメリカ40%、フランス6%、オランダ14%の割合でイラン石油利権を分割する国際コンソーシアムの操業を今後25年にわたって認める契約に調印しました。これにより石油の支配権も完全な利益もイランには手に入れることが出来なくなりました。

イラン国民は再び、パーレビ国王の独裁化に置かれるようになりました。

アメリカ主導のイランの石油独占と、民主的な政権を倒したことでイラン国民の反米感情を受けることになります。

・白色革命

パーレビ国王は、独裁体制の強化のため秘密警察サヴァク(SAVAK)を動かして左右の反体制運動を取り締まる一方、国王の指導の下に経済発展を進めるため、1963年イラン国内の改革(白色革命)を進めました。

主な内容は

・国民の識字率の向上 – モハンマド・レザーの即位前は国民の文盲率は95%だったが退位後は50%まで減少した。

・農地改革 – 国土の60%を埋める荒野を外国から技師を招いて緑化しようとした。また大地主の土地を買い上げて農民に分け与えたが農民たちは灌漑に必要な資力を持っていなかったため有効に活用できずやむなく都市部に流れ込みスラムを形成した。そのため農業生産高はかえって減少し食糧は輸入するようになった。

・海外留学 – 富裕層の子弟に海外留学を勧めたが、その一部は留学先で反王制派になった。

・一夫一妻制

・女性参政権 – 女性に選挙権、被選挙権を認めたことから、宗教学者層を中心に非難された。

・ヒジャーブ着用の禁止

引用ウィキペディア 「白色革命」

ソ連と対抗するために、このような政策を支持したアメリカは多額の経済援助を提供して、パーレビ国王を助け親米国家を作り上げます。アメリカの援助は経済のみならず、世界で初めてイラン空軍に最新鋭のジェット戦闘機F-14を納入したり、後に問題になる核開発技術の提供などもあります。

ちょっと一服

世界でただ一国、イラン空軍でF-14戦闘機が生き残っている訳

トム・クルーズ主演の映画「トップ・ガン」で使われていたF-14は、当時最強の戦闘機と言われましたが、アメリカでは就役早々ソビエトが崩壊したため対戦相手がいなくなり、現在ではすべて退役してしまいました。

イランのパーレビ国王は大の飛行機好きで、イラン空軍がジェット戦闘機を購入するときに自らF-14 F-15の操縦桿を握りF-14 に決めたと言われます。

また、パーレビ国王はイラン革命でエジプトに逃亡するときは、ボーイング727に親族や閣僚を乗せ、自分で操縦してイランから脱出しました。

イラク空軍のマークを付けた F-14  出典 乗りものニュース

 

F-14 はイラン空軍に79機納入され、イラン-イラク戦争ではイラク空軍機を159機撃墜して大活躍しました。

ただイラン革命後はアメリカと仲が悪くなり、補修部品などが入らなくなり稼働率が下がりましたが、イランはのちに部品やミサイルの国産化や技術開発をすすめ、F-14を独自に改造・改良し自分たちのモノにすることに成功。その結果、最大の見積もりで推定40機機程度のF-14が現在も生き残っているとされています。

改造されたイラン空軍のF-14はトム・キャットをもじって「ペルシャ猫」と呼ばれています。

最近では、ISISの爆撃に向かうソ連の爆撃機を護衛したりしています。

 

パーレビ国王によるこれらの改革は、オイルショック後の原油安による経済の破綻や、格差の拡大、急激な欧米化によるイスラム教徒の反発などで、1970年後半には国民の支持を失っていきます。

パーレビ国王にアメリカが武器援助をしたのを受けて、ソビエトはイラクのフセイン大統領に大量の武器を援助しました。

・イラン革命

パーレビ国王の急激な改革に対して、16世紀以来のイランの国教であったイスラーム教のイランのシーア派(十二イマーム派)の信仰に立ち返ることを求める民衆の反発が強まりました。皇帝政治を批判して1964年から国外追放になったシーア派最高指導者のホメイニ師は、国外(当時はフランスにいました)から反政府活動を指導し、活発に活動していました。

1978年ホメイニ師を誹謗する新聞記事が掲載されると、それは政府の陰謀であるとして全国的に民衆の暴動がおこり、収拾がつかなくなったパーレビ国王は1979年1月16日エジプトに亡命して、イランの王政は終了しました。

1979年2月1日、ホメイニ氏はイランに帰国しさらに革命を進め、4月1日イランは国民投票により「イラン・イスラム共和国」の樹立を宣言して、ホメイニ氏を終身任期の最高指導者(国家元首)として「法学者による国家統治」に基づく体制を築き上げました。

また国際コンソーシアムの所有する石油設備をすべて国有化したため、欧米諸国の反感を買いました。

・アメリカ大使館占拠事件

パーレビ元国王とその家族、側近らは一旦はエジプトのカイロに亡命した後、モロッコ、バハマ、メキシコを転々としていました。その後パーレビ元国王は「癌の治療」のためという名目でアメリカへの入国(事実上の亡命)を求め、アメリカ政府に接触しました。

アメリカのカーター大統領ははじめこれを拒否していましたが、パーレビ元国王と親しかったヘンリー・キッシンジャー元国務長官らの働きかけを受け10月22日アメリカに入国しました。

10月22日からアメリカが元国王を受け入れたことに抗議するデモ隊がイランのアメリカ大使館に殺到していました。

11月4日、一部の学生が大使館の塀を乗り越えて内部に侵入し、アメリカ人外交官や海兵隊員とその家族の計52人を人質に、元国王のイラン政府への身柄引き渡しを要求しました。以後444日に渡り学生たちはアメリカ大使館を占拠し続けます。

イランのアメリカ大使館占拠事件に関する映画 ↓

映画 『アルゴ』イラン革命のときCIAがとった奇想天外な作戦とは? 

 

イラン・イラク戦争 1980年~1988年

・なぜ、イランとイラクは戦ったのか。

イラク国内を流れる、チグリス川とユーフラテス川は合流してシャットゥルアラブ川と名を変えて、ペルシャ湾までの200キロを流れています。

下の地図を見てもらうと分かりますが、クウェートとイランに挟まれ、ペルシャ湾に狭い海岸線しか持たないイラクにとって海岸から55キロの地点にあるバスラは重要な石油積出港となっております。

シャットゥルアラブ川 出典 SPECIAL WARFARE NET

バスラより少し下流でシャットゥルアラブ川はイランと接するようになり、両国の国境となっている。

イラン国内のシャットゥルアラブ川とカールーン川が合流する地点には、イラン領のホラムシャハル、アーバーダーンなどの港湾都市があり、イランにとっても大切な石油積出港になっています。

このため、この地域はかねてから領土問題でイラクとイランで争っていましたが、イラクのフセイン大統領はイラン革命の混乱に乗じてこの地域に侵入しました。

・戦争の経緯

1980年9月22日未明、イラク空軍機がイランの10の空軍基地を爆撃して、イラン・イラク戦争が始まった。ただ空爆を行ったイラクのミグ21は航続距離が短かったため、基地は破壊しましたが、肝心の戦闘機は奥地に逃げて破壊に失敗しました。

翌9月23日、イラク地上軍が侵入してアーバーダーンやホラムシャハルを包囲しました。

親米家のパーレビ国王が追放され、アメリカ大使館を占拠されたアメリカや、アフガニスタンのイスラム教徒の影響を恐れたソ連(当時アフガニスタンに侵攻していました)、イラクのシーア派の勢力拡大を恐れたサウジアラビアなどのアラブ諸国がイラク(イラクではシーア派が多数を占めていましたが、フセイン政権のバアス党はスンニ派)を支援しました。

フセイン大統領は、これらの国からの援助でアメリカ・ソ連・フランス・中国から大量の武器を輸入し、アラブ随一の軍事大国になりました。ただ、後でこの代金を払うことが出来ず、クウェートに侵略して湾岸戦争のきっかけをつくることになります。

イランは、革命で多くの軍事指導者を粛正したため、指揮系統が崩壊し、また前パーレビ国王が親米家であったため、イラン軍の武器はほとんどアメリカ製で、これらを取り扱う技術者もアメリカ人であったため革命の際に全員が国外退去となり、兵器の整備や部品調達が難しくなって兵器の稼働率が落ちていました。

ここでイスラエルが助けの手を差し伸べます。隣国イラクが軍事大国となるのを恐れたイスラエルは、イランが必要とする兵器の補修部品をアメリカから輸入して、イランに渡しました。後に明らかになったイランコントラ事件でアメリカも兵器の部品や、ミサイル等を秘密裏に売却していました。

これによりイラン空軍は息を吹き返し、たちまちに制空権を確保してイラク軍の戦車に対してAH-1アパッチヘリコプターで攻撃できるようになりました。戦車は全面と側面の装甲はしっかりしていますが、後部と上部は装甲が薄いため攻撃ヘリで空から攻撃されるとひとたまりもありません。ただ地上攻撃用のヘリは戦闘機に対する防御が弱いため、制空権を確保する必要があります。

またアラブ諸国と異なり国家元首のアサド一族をはじめ少数派のシーア派が政権を握るシリアと、反欧米を掲げるリビアもイランに味方しました。

1981年6月7日、イスラエル空軍機がヨルダン、サウジアラビア領空を侵犯しイラク領に侵入、フランスの技術で建造中の原子力発電所(未稼働)を空爆、破壊(イラク原子炉爆撃事件)しました。これによりイラクは核開発を中止することになります。

1982年4月、シリア経由のパイプラインが止められたため、イラクは石油の輸出が出来なくなり、経済的に困窮します。イラクは当時多くの企業が国営であったのですが、それらを民営化することで政府が支出するお金を減らそうとするなど政府支出を減らそうと四苦八苦することになります。

戦争を早く終わらせたいイラクは、ペルシャ湾を航行するタンカー船を危機にさらすことで、石油の供給を守りたいアメリカの介入を促しました。
これにより,石油利権を守りたいアメリカとイランからの脅威をイラクに対処させたい湾岸諸国は、イラクにより多くのの資金と兵器をつぎ込むことになりました。

結局双方とも相手に決定的なダメージを与えることが出来ず、1988年8月20日に国際連合安全保障理事会の決議を受け入れる形で停戦することになりました。

イラン革命後、イラン国内がどう変化したかわかる映画があります。↓

アニメ 「ペルセポリス」イラン革命からイラン・イラク戦争を生き抜いてきた少女の物語です。 

イランコントラ事件

アメリカ合衆国のロナルド・レーガン政権が、イランへの武器売却代金をニカラグアの反共ゲリラ「コントラ」の援助に流用していた事件。1986年に発覚し、アメリカ国内はおろか世界を巻き込む政治的大スキャンダルに発展した事件である。(引用ウィキペディア イラン・コントラ事件)

イランイラク戦争が始まったとき、アメリカはイランとは交渉せず、武器の輸出もしないことを国際的に宣言しており、ほかの国にもこれを守るよう要請していました。

アメリカがイランに武器を輸出した理由は2つあります。

アメリカ軍の兵士らがレバノン(内戦中)での活動中、イスラム教シーア派系過激派であるヒズボラに拘束され、人質となってしまった。彼らを救出する為、アメリカ政府はヒズボラの後ろ盾であるイランと接触し、イラン・イラク戦争でイラクと戦うイランに対し、極秘裏に武器を輸出する事を約束しました。

もう一つは、イラン革命で人質になったアメリカ大使館員の身代金の代わりに、武器を輸出することでした。

はじめアメリカは、イランにこっそり武器を輸出していたイスラエルを通して武器を渡していましたが、国際世論の反発を恐れたイスラエルが断ったため、アメリカが直接イランに武器を輸出することになりました。

さらに国家安全保障担当補佐官のジョン・ポインデクスターと、国家安全保障会議軍政部次長でアメリカ海兵隊のオリバー・ノース中佐らを通して、イランに武器を売却した収益を、左傾化が進むニカラグアで反政府戦争(コントラ戦争)を行う反共ゲリラ「コントラ」に資金援助していました。

この時イランとコントラの双方の交渉窓口は当時副大統領だったジョージ・H・W・ブッシュ(後の大統領)であったとされています。

このことは、民主党が多数を占める議会でアメリカとの関係が悪化していたイランへの武器販売、および反共ゲリラに過ぎないコントラへの資金提供に反対していた議決に反することでした。

イラクを支援していたアメリカが、裏でイランに武器を輸出していることを知ったフセイン大統領は、これ以後アメリカを信用しなくなりました。

湾岸戦争

・フセインがクウェートに侵攻したわけ

1988年8月20日に、イラン・イラク戦争が停戦を迎えた。

戦争が終わるとイラクは各国から武器援助(援助と言ってもタダではありません)を受けていた関係で600億ドルとも900億ドルともいわれる負債を背負い込みます。

産油国のイラクは石油を売って払おうとしましたが、お隣のクウェートがOPECで決められた産油量の取り決めを破り、大量に石油を増産したため原油の値段が大幅に下がってしまいました。イラクはクウェートに産油量の減産を申し込みましたが言うことを聞いてくれませんでした。

同じようにOPECの決めた量よりも多くの石油を産出していたサウジ・アラビアとアラブ首長国連合は、イラクの申し込みを受け入れ減産しました。

更にクウェートはイラクとの国境にあるルメイラ油田で採掘をはじめ、イラクはクウェートが傾斜掘りという方法でイラク側の原油を盗掘していると怒ります。

1990年7月25日、イラク駐在大使グラスピーがフセイン大統領に「米国はイラクの行動には関心がない」と話し、ジョン・ケリー国務次官補も「クウェートが攻撃されても米国にはクウェートを助ける責任がない」と公言したことを受け、サダム・フセインはクウェートに侵攻してもアメリカは介入しないと信じ、行動を起こします。

1990年8月2日、イラク軍はクウェートに侵入し、8月8日クウェートを併合しました。

イラクがクウェートに侵攻した同日、国際連合安全保障理事会は即時無条件撤退を求めましたが、8月12日にイラクは「20年以上イスラエルのパレスチナ侵略を認めていながら、今回のクウェート併合を非難するのはおかしい」と主張(リンケージ論)して、イスラエルのパレスチナ退去を条件に撤退すると発表しました。

8月7日、アメリカのブッシュ大統領は、石油の過剰輸出の件でイラクと対立していたこともあり、クウェートに続いて自国も侵略される事を恐れていたサウジアラビアに「イラクによる攻撃もあり得る」と説得して、アメリカ軍駐留を認めさせ、軍のサウジアラビア派遣を決定しました。

この時、アルカイダを率いていたウサマ・ビンラディンはイスラム教の聖地であるメッカやメディナがあるサウジアラビアに異教徒のアメリカ軍の基地を認めたサウード王家と対立し、後に国外退去させられます。

クウェート侵攻の翌日、モスクワ訪問中のアメリカのベーカー国務長官と、ソ連のシェワルナゼ外相は共同声明を出して、イラクの侵攻を激しく非難しました。これは冷戦時代には考えられないことです。

湾岸戦争とプロパガンダ

アメリカ下院議会の人権委員会公聴会でナイラという少女がイラク兵がいかに残虐な行為をしたか、証言をしています。

『私は病院でボランティアとして働いていましたが、銃を持ったイラクの兵隊たちが病室に入ってきました。そこには保育器の中に入った赤ん坊たちがいましたが、兵士たちは赤ん坊を保育器の中から取り出し、保育器を奪って行きました。保育器の中にいた赤ん坊たちは、冷たいフロアに置き去りにされ、死んで行きました』

上の動画で語っている通り、この証言は真っ赤なウソでした。これをあばいたのはニューヨークタイムズのマッカーサー記者でした。

マッカーサー記者によると、クウェート政府は『自由クウェートのための市民運動』という名の偽装した市民運動を通じて、大手広告会社ヒル・アンド・ノウルトンにアメリカが軍事介入するよう世論を誘導してほしいと頼みました。

ヒル・アンド・ノウルトンは調査の結果、イラク兵の残虐性をアピールすることにして、在米クウェート大使の娘、ナイラを使いアメリカ下院議会人権委員会公聴会でうその証言をさせました。

この証言から3ヶ月後、アメリカは湾岸戦争を起こし、イラクをクウェートから撤退させました。

ヒル・アンド・ノウルトン社はこのキャンペーンで1200万ドル(14億円)の報酬を受け取りました。

もう一つが「油にまみれた水鳥」の写真です。

当時サダム・フセインがフセインがわざと油田の油を海に「放出」していると報道され、環境は破壊され、海の生物が犠牲になっている「環境テロ」と話題になりました。

出典 stavangersquares.org

しかし、この映像はアメリカ軍が誘導爆弾にてゲッティ・オイル・カンパニーの原油貯蔵施設から流出させたため起こったことが明らかになっています。

新聞やテレビなどのマスメディアの報道が、常に真実であると言えないということです。

湾岸戦争

その後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日、国連安保理は翌1991年1月15日を撤退期限とした決議678(対イラク武力行使容認決議、早い話が「言うことを聞かないと武力に訴えるぞ」ということ)を採択しました。

1991年1月12日にはアメリカの上下両院から大統領の軍事力行使認可決議も採択されます。

・砂漠の盾作戦

クウェート侵攻の後、45万人と見られるイラク軍がサウジ・アラビア国境近くに展開し、サウジ・アラビアまで侵攻する恐れが出た為、アメリカとその同盟軍の軍用機がサウジ・アラビア国内に配備されました。

また、ソビエトがアフガニスタン戦争から撤退して、崩壊寸前だったため、アメリカはヨーロッパに展開している陸軍最強の機甲軍団、第7軍団を西ドイツから呼び寄せました。これは重戦車師団2個、機械化師団1個からなる強力な軍団で、さらに戦時に本土から送られるはずだった補助部隊、第一機械化歩兵師団(第一機械化歩兵師団は第一大戦以来の歴史を持つ師団で、いわゆるBig red oneの通称で知られる精鋭部隊)が追加される事になります。この第7軍団の規模は、人員14万6千人、各種車両約5万台、主力のM1A1戦車1500台で、今まで戦闘に投入された部隊としては最大の規模を持ってます。

アメリカの「有志を募る」という多国籍軍編成の呼びかけに応じ、クウェートと関係の深いイギリスをはじめ、同盟国のフランスもこれに加わります。またエジプト、サウジ・アラビア、バーレーン、カタール、オマーン、アラブ首長国連邦もこれに加わり、アラブ多国籍軍を編成しました。

また用意された航空機は、固定翼機が2400機、ヘリコプターなどが1400機という具合であった。この中には、アメリカ空軍機の他、紅海とペルシャ湾で待機する計6隻の空母にある航空機、イラク周辺諸国に元々あり臨時体制になった航空機が含まれます。

このためイラク空軍は最初から戦うのを諦め、戦闘機を他国に避難させるなどして空軍の温存を計りました。

・砂漠の嵐作戦

砂漠の嵐作戦でアメリカの狙いは、クウェートからイラク軍を追い出すことではなく、イラク軍の主力を叩き潰すことにありました。ただ追い出しただけでは、いつ何時再び戦いを挑んでくるか分かりませんから。

この主力部隊と見られていたのがイラク共和国防衛隊(Republican gurd)でした。 全部で8個師団あり、2個の装甲師団と5個の機械化師団、そして1個の空挺特殊部隊師団からなる精鋭部隊であり、湾岸戦争中はそのうち5個師団がクウェート北部、1個師団が西部の国境地帯に配備され、不利な状態になったらすぐイラク国内に撤退できるようにしてありました。

作戦の大まかな筋として、アメリカ海軍海兵隊とアラブ多国籍軍がクウェートに進軍して、イラク共和国防衛隊がそちらに気を取られている隙に、砂漠を大回りした最強の第7軍団が背後から襲い掛かり、殲滅させる予定でした。

イラクがクウェートから撤退する期限を過ぎて2日後の1月17日(この日は新月で月明かりがなく、真っ暗でした)に「砂漠の嵐作戦」は開始されました。F117がバグダットを空爆して司令部や無線局などの主な軍事施設を破壊します。

アメリカ軍の作戦本部はCNNニュースの現地速報で、作戦が無事実行されたことを知ったと言われます。

その後アメリカ海軍の各艦艇から24時間にわたって、100発のトマホーク巡航ミサイルが(1発2億5千万円します)大統領官邸、電話局、発電所、変電所を破壊します。

イラク国内の電力が失われたことで、レーダーや通信設備が使えなくなりました。

砂漠の嵐作戦地図 出典http://majo44.sakura.ne.jp

こののち、20万人と言われる多国籍軍が、海からイラクとサウジ・アラビア最奥の国境沿い(約400㌔あります)に配備完了するまでの約1か月間、空から攻撃を続けました。

この巨大な軍を支える補給基地も、軍と一緒に基地ごと砂漠を進軍するという凄まじいことをやっています。

・「砂漠の剣」作戦

空爆開始から約1か月後の2月24日、配備が終了した地上軍が進軍し始めます。

始めは地上戦開始の前日2月23日、クウェート沖の艦船から艦砲射撃が始まり、海兵隊が上陸の準備を始めます。クウェートにいたイラク軍は海からの上陸に注意を向けました。

その隙をついて2月24日午前4時、アメリカ海兵隊の本隊とアラブ多国籍軍がクウェートにやって来て、クウェートシティに向かって進軍しました。

この進撃の速度があまりにも早かったため、海からやってくるとばかり思っていたイラク軍は反撃の準備もできず、撤退してしまいます。

約1日遅れの2月25日午前5時30分に進軍予定だったアメリカ第7軍団は、イラク軍が予想より早く撤退したため、2月24日午後3時にイラク軍の共和国防衛隊を包囲殲滅するため進軍を開始します。

この後、第7軍団は大きな間違いを犯します。24日深夜から25日朝にかけて進軍を停止してしまったのです。

この間にイラク共和国防衛軍は、一番サウジ・アラビアに近い所にいた一個師団を除き大部分が撤退を完了してしまいました。

このため最初の目的であったイラク軍の精鋭部隊、共和国防衛軍は殲滅を免れ戦力を温存することが出来ました。

2月26日撤退中のイラク軍に対してアメリカ空軍は猛爆を開始して、2本の幹線道路は死のハイウェイとなりました。

2月27日アラブ多国籍軍がクウェートシティを開放し、2月28日の朝、戦闘は終了しました。

・湾岸戦争後のイラク

湾岸戦争後、イスラム教のシーア派や北部クルド人による反政府活動が活発になり、イラク18州のうち14州を支配しました。彼らはアメリカの支援を期待しましたが、アメリカは何の行動も起こしませんでした。

アメリカが介入しないと見たサダム・フセインは、生き残った共和国防衛軍と大統領親衛隊で反乱を鎮圧し、多数の反政府国民を殺害しました。

結局アメリカは、サダム・フセインと、彼に反抗する市民双方から憎まれるようになりました。

湾岸戦争始めのバクダッド空爆を生中継したCNNのお話 ↓

映画 「ライブ・フロム・バグダット」なぜ全世界でCNNの報道陣だけが、湾岸戦争初戦のバグダット空爆を実況中継出来たのか? 

湾岸戦争後参加した兵士たちは謎の病気に苦しめられました ↓

映画「ガルフ・ウォー」湾岸戦争に出兵した兵士のうち帰国後に頭痛や倦怠感、果ては癌などの症状を訴える者が続出しました。

 

ウサマ・ビンラディンについてはこちらをご覧ください ↓

なぜ、アメリカの援助を受けていたウサマ・ビンラディンが敵となったのか

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