なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

第1次世界大戦 1915年

time 2017/10/03

第1次世界大戦 1915年

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西部戦線 1915年

1915年

工業力と技術力

1914年夏に始まった第1次世界大戦は、”クリスマスには帰れる”との予想に反し長期戦の様相を見せ始めた。

第1次世界大戦で使われ始めた機関銃はかなり強力な武器で、一丁あれば1000人の歩兵を相手に出来た。こうなると機関銃の前に総攻撃をかけるのは、集団で自殺するのと同じことになります。

マルヌの戦いの後作られた塹壕は、地面に掘られた溝で直立すると上半身が晒される程度の深さしかなかった。その後西部戦線で作られドイツ軍の塹壕は、占領地を守るために鉄とコンクリートで作られ陣地化したのに反し、英仏軍の塹壕は1次的に使用つもりであったため、掘っただけか木材で補強したぐらいでした。

左がイギリス、右がドイツ軍の塹壕。ドイツ軍の塹壕はかなり複雑な形をしている

塹壕を攻撃する歩兵を助けるため、事前砲撃を行い鉄条網や機関銃を破壊しますが、大量の砲弾が必要となります。ところが短期で終わると思っていた各国は、砲弾の備蓄が十分でなく、軍需工業が発達したドイツを除き、英仏軍は1915年の2月で、フランス軍の使える砲弾は1日8発、イギリスでも1日12発、巨砲で1日1発になってしまいました。

また戦争に必要な無煙火薬を作るのに必要な硝酸エステルは硝石を使いますが、英仏ではこの硝石は輸入に頼っていたのに対し、ドイツでは空気中の窒素から作る技術を発明し、1913年に工業化に成功して大量に無煙火薬を作ることができました。

砲弾に必要な信管(砲弾の中の火薬を爆発させるための装置。これがないため昔の大砲は鉄の球を発射していた。)は50もの精密な部品を使いますが、イギリスやフランスはこの部品も自国で作れず、ドイツから輸入していました。英仏軍が自国で十分な砲弾を作れるようになるのは、1916年になってからです。

これからどうしよう(東部戦線とガリポリの戦い)

西部戦線に作られた塹壕は、敵陣の横を回り込んで攻撃することを不可能にしました。各国は新たに徴兵した兵士が前線にやってくるようになり、兵力に余裕が出てきます。この兵力を西部戦線に回すことは、さらなる兵の損耗を増やすことになり、各国が目を付けたのが東部戦線でした。

イギリス・フランス軍はトルコのダーダネル海峡とポスボラス海峡を通って黒海に出、ロシアと地中海とを結ぶためトルコのガリポリ半島に上陸します。

ガリポリの戦いはこちら ↓

第1次世界大戦、海軍大臣だったチャーチルが立てた作戦 ガリポリの戦い

ドイツ軍も同じくロシア軍に向かって攻撃します。1915年2月8日東プロイセンのマズーリ湖地帯に居座っていたロシア第10軍に向け砲撃を開始しました。

1915年東部戦線

対するロシア軍は、対抗するにも十分な砲弾がなく10万の戦死者を出し敗退しました。

5月2日新たに編成されたドイツ第11軍は、ゴルリッツでロシア軍に対して12時間砲撃し、砲弾75万発を打ち込み攻撃を開始した。この猛攻撃にロシア軍は耐えきれず3日目には後退し、プジェミスル要塞を明け渡した。

7月下旬、ドイツ軍は北と南からワルシャワ突出部を包囲するように進軍しました。ロシア軍総司令官ニコライ大帝はこの危機に突出部からの全面撤退を決め、9月末までに撤退を完了した。ドイツ軍はさらにロシア軍を追い詰め、リガからチェルノヴィッチまでのほぼ一直線上の前線で停止しました。

この戦闘でロシア軍は100万を超す死傷者を出し、国民の間に戦争に反対する気風が発生しましたが、皇帝のニコライ2世は連合国との約束を守り、戦争を継続することを決定しました。しかし国民の戦争継続に対する不満は消えることはなく、2年後のロシア革命に発展します。

イタリア戦線

攻めあぐんでいた連合国側に朗報が届きます。1915年5月23日、それまで中立の立場をとっていたイタリアが連合国側につき、オーストリア=ハンガリー帝国に宣戦布告しました。

イタリア戦線の説明はこちら ↓

第1次世界大戦 イタリア

西部戦線

西部戦線では連合国側が幾度かドイツ軍に攻撃をかけましたが、すべて弾き返され前線は膠着したままでした。また両軍とも、はじめて毒ガスによる攻撃を行いましたが、どちらも準備不足でたいした成果は上げられませんでした。

詳しい説明はこちら ↓

西部戦線 1915年

 

 

 

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