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亀仙人2フライボーイズ
2006年 アメリカ
第1次世界大戦で、いろいろな事情により、フランス外人部隊に志願したアメリカ人達によって、「ラファイエット飛行団(Lafayette Flying Corps)」が作られました。
この映画は、この飛行団の元になった、ラファイエット飛行中隊(Lafayette Escadrille)の話です。
アイキャッチの画像は、この航空隊の部隊マークです。
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監督
トニー・ビル
脚本
デヴィッド・S・ウォード
製作
マーク・フライドマン
ディーン・デブリン
製作総指揮
デビッド・ブラウン
ジェームズ・クレイトン
フィリップ・M・ゴールドファーブ
ダンカン・リード
出演者
ジェイムズ・フランコ
ジャン・レノ
製作会社
スカイダンス・プロダクションズ
あらすじ
この映画の主人公であるブレイン・ローリングスは両親の死がきっかけで、長年続けていた牧場を銀行に差し押さえられてしまいます。そのため銀行家と大喧嘩をして、顔面骨折のけがを負わせ、逮捕状が出てしまいました。
映画を見ているところを刑事に見つかり、30分の猶予をもらい町から出ることになりました。この時見ていた映画で、フランス軍の中にアメリカ人の志願兵による航空隊が創設されたことを知り、自分もそれに加わるため、フランスに渡りました。
ウィリアム・ジェンセンは代々軍人の家系で、手柄を立てるため、フランスに行きます。
ユージン・スキナー。フランスで活躍していた黒人ボクサー。奴隷の子であった自分に、活躍の場を与えてくれたフランスに恩返しをするため、ラファイエット戦闘機隊に志願します。
ブリッグス・ロウリー、ニューヨークの大富豪の息子。父の言う通り生きてきたが、ハーバード退学を中退するなど、父の期待を裏切ってばかりいました。そこで戦場で手柄を立てるため、フランスに送られました。
後に彼自身が語ったところでは、彼の父は家名を汚さないように、最も死亡率の高い航空隊に彼を入れ、名誉の戦死をさせたかったそうです。
エディー・ビーグル、気が強く生意気ですが、射撃に関しては仲間から「的を外して撃て、そうすれば当たる」と、言われるぐらい下手です。ドイツ系のためスパイと疑われましたが、アメリカで銀行強盗に失敗して、フランスに逃げて来たことが分かり、疑いが晴れました。
普通空軍のパイロットは、貴族の子弟とか、軍の士官学校出身者で占められていますが、この航空団はフランス国籍を持たない者で構成された「フランス外人部隊」(5年勤務すればフランスの国籍を得られる)の中に作られました。そのため部隊の中には義勇兵として志願した者の他、罪を犯して本国から逃げて来た者や、迫害されて国を捨てて来た者等が参加していました。
ローリングス達新兵6名は、ヴェルダン近くのラファイエット飛行中隊のある基地に配属されます。
フランス軍の場合「飛行中隊」とは、6機の飛行機で構成された部隊です。
基地に到着したローリング達は、早速隊のエースであるキャシディ中尉から
「パイロットの寿命は3週間から6週間だ。その時は、葬式に出てやるからありがたく思え」
と言われ、現実の厳しさを知ります。
訓練中ローリングスは、ビーグルと飛行中にガス欠を起こし墜落した時に助けてくれた、地元の女性ルシエンヌと恋仲になりました。ルシエンヌは、ドイツ軍の爆撃で死んだ兄夫婦の残した3人の子供の面倒を見ながら暮らしていました。
約2か月の訓練期間が終わり、初出撃の前に隊長のキャシディ中尉は新隊員たちにトンカチと拳銃を配って回りました。
トンカチは機関銃が弾詰まりを起こした時に、叩いて直すために使い、拳銃は飛行機が炎に包まれた時、落ちながら焼け死ぬより、楽に死ぬためです。
彼等の初陣は、敵の弾薬庫を爆撃する爆撃機の護衛でしたが、味方の爆撃機に逢う前にドイツ軍の飛行隊に襲われ、何もできないまま、3名の犠牲者か出てしまいました。特にナンは不時着に成功して一旦は助かりましか゛、地上にいるところを敵の黒い三葉機(黒いタカ)に撃たれ死んでしまいました。
基地に戻り、その話を聞いた隊長のキャシディは、再び飛行機に乗り、仇をとるために飛んで行きました。それまで数多くの部下たちが「黒いタカ」の餌食になっていたのです。
基地にサイレンが鳴り響き、ドイツ軍によって操車場が爆撃されている、との知らせが入ります。ローリングス達はすぐ出撃してドイツの爆撃機に追いついて、護衛の戦闘機と空中戦になります。
ローリングスは、ドイツのゴータ爆撃機を撃墜した後、もう一機撃墜し3機目を追いかけている途中で、機関銃が弾詰まりを起こし射撃できなくなりました。追いかけていたドイツ機は、ローリングスと並んで機関銃が故障していることを見ると、敬礼をして去っていきました。
中隊長のキャシディ中尉によると、この機のパイロットはドイツの撃墜王フランツ・ウェルフェルトで部下の「黒いタカ」がナンを殺したお詫びに見逃したのだということです。
この戦いでは、聖書ばかり読んでいる信心深いポーターも一機撃墜しました。しかし、ワファイエット中隊でも、ヒギンスが撃たれ空中爆発を起こし死んでしまいました。
初戦果を上げたことで、パイロットたちの集まる酒場で、他の隊のパイロットから祝福を受け、一人前の戦士として認められます。
この戦いで英雄になるべく参加したジェンセンは、仲間が戦死したうえ自身も首に弾丸を受けたため恐怖心に襲われ、飛行することにおびえるようになり、隊長のキャシディ中尉から飛行停止を言い渡されてしまいました。
戦いの合間を縫ってローリングスは、ルシエンヌのもとに通い詰めていました。英語を理解できなかった彼女も、片言の会話が出来るようになってきました。
アメリカで銀行強盗に失敗してフランスに逃げて来たビーグルも、次の出撃で撃ち落とされ、命は助かりましたが左手を切断する怪を負ってしまいます。また、ロウリーも命を助けてくれた黒人のスキナーに、自分が黒人に偏見を持っていたことを謝り、仲直りします。
隊長のキャシディ中尉も、長年の宿敵である撃墜王のウォルフェルトを撃墜しました。
ある晩、ドイツ軍がムーズ川を越え、ルシエンヌのいる村に侵入してきました。それを知ったローリングスは無断で飛び立ち、ルシエンヌと子供たちを助けました。
隊に無断で出撃したことについて罪に問われましたが、指揮官のジョルジュ・セノール大尉は、戦場から4人の民間人を救ったことでローリングスに勲章を申請し、これが認められ罪は相殺されました。
ツェッペリン飛行船がパリを爆撃に向かっているとの知らせが入り、ローリングスは仲間と共に向かいました。
ポーターは飛行船を銃撃中撃墜され、隊長のキャシディ中尉もドイツの「黒いタカ」と戦闘中に、被弾してしまいました。死を覚悟したキャシディ中尉自ら飛行船に突っ込み、飛行船もろとも爆死してしまいます。
ローリングスはキャシディ中尉の後を継いで、ラファイエット飛行中隊の隊長になりました。
1917年4月6日、アメリカがドイツに対して宣戦布告をし、参戦してきました。アメリカ軍の担当地域は、中隊の基地があるベルダンを含む西部戦線南部です。
新しく中隊の隊長となったローリングスは、メッツにある敵の弾薬庫を爆撃する爆撃機の護衛に着きました。
片手を失ったビーグルも義手を付け、戦闘に参加して初めて敵機を撃墜しました。
ロウリーは「黒いタカ」に撃たれ火災を起こし、拳銃で頭を撃ち、自殺します。
ローリングス達の助けで爆撃は成功しました。
基地に帰ったローリングスは、友の仇を撃つため再び出撃しました。
ローリングスは「黒いタカ」との戦いの最中に別の機に撃たれ、機銃が壊れてしまいます。3機の敵機に追われ、絶体絶命の状態になったとき、仲間の飛行機が飛んできて助けてくれました。その中には飛行恐怖症になり、飛べなくなったジェンセンもいて、彼はさっそく1機撃墜します。
「黒いタカ」に追われていたローリングスは、敵機のすきをついて真横に並び、故キャシディ中尉から渡されたピストルで、「黒いタカ」の頭を撃ち抜き、仇討に成功しました。
映画はここで終わりますが、恋人のルシエンヌとは再び会うことはできませんでした。
解説
この映画の元になった「ラファイエット飛行中隊」の隊員について、調べてみました。
この映画はラファイエット飛行中隊の実話をもとにして作られている為、それぞれの役者にも、実際に活躍したモデルが居ました。
ブレイン・ローリングス
主役のブレイン・ローリングスのモデルになったのは、別名「アリゾナの気球キラー」と呼ばれた、フランク・ルーク・ジュニア(1897年5月19日– 1918年9月29日)です。
1918年9月19日、フランク・ルーク・ジュニア中尉と彼の愛機SPADS.XIII。
出典 Wikipedia
彼は1897年5月19日、ドイツからアメリカに移住してきた父の下で5番目の子として(8人の子供の5番目)アリゾナ州のフェニックスで誕生しました。
アメリカ参戦後の1917年9月25日にアメリカ陸軍信号隊の航空部隊に入隊し、ここでパイロットの訓練を受けます。1918年3月に少尉に任命され、7月フランスにある第27航空隊に配属されました。
9月12日の初出撃でドイツの観測気球を撃墜してから、9月29日に地上から機関銃で撃たれて死ぬまでの僅か12日間で、14個の気球と4機の飛行機を撃墜し、第一次世界大戦中26機を撃墜したエディ・リッケンバッカー大尉に次ぐ米国陸軍航空部パイロットの中で2番目にランクされました。
彼は死ぬ前日、15個目の気球を撃墜した後、基地に帰らずフランスのシゴグネスにある飛行場に着陸し、一晩過ごしました。翌日基地に帰った彼は、勝手に休んだことで軍から逮捕状が出ているのを無視して出撃し、3個の気球を破壊したのち、地上から機関銃で撃たれ死亡してしまいました。
ローリングスが、ルシエンヌと3人の子供を助けるため、勝手に飛行機を飛ばしたのは、この話がもとになっています。
キャシディ中尉
ラファイエット飛行中隊の隊長を務めたキャシディ中尉のモデルとなったのは、ジェルヴェ・ラウル・ヴィクター・ラフベリー、『Gervais Raoul Victor Lufbery(1885-1918)』です。
1918年のラウル・ラフベリー
出典 Wikipedia
ラウル・ラフベリーは、1885年3月21日パリのチョコレート工場で働いていたアメリカ人の父と、フランス人の母の下で生まれました。
彼が一歳の時母が亡くなり、父はアメリカのコネチカット州に戻り、彼は母方の祖母によって育てられました。
ラフベリーは1906年にアメリカに渡り、1907年からフィリピンでアメリカ陸軍に入隊し、1910年のまで勤めてアメリカの国籍を得ました。
除隊後、インド、中国、日本を旅して、1912年サイゴンで飛行機の巡業に来ていたマーク・プールに出会い、彼の飛行機の整備士になり、一緒に北アフリカからインドシナまで各地を巡業して回りました。
マーク・プール
フランスで航空機の創成期から第1次世界大戦にかけて活躍した、有名パイロットです。
マーク・プール
出典 En Envor
1911年8月27日、フランスのブローニュからイギリスのドーバーまでのイギリス海峡を往復して、有名になりました。
なおルイ・ブレリオが初めてドーバー海峡を横断飛行したのは、1909年7月25日です。
この時使用されたブレリオ単葉機の前に立つ、マーク・プール
この後彼は、各地で飛行大会や展示飛行などして、ヨーロッパからアジアにまたがって旅をしていました。
1914年1月2日から1月12日に開かれたエジプトの飛行大会で、カイロからスーダンのハルツールまでの往復飛行(約4500㌔)を成功させ、航空便の開設に成功しました。
カイロ、ハルツーム間の飛行成功を伝えるエクシオール誌の記事
出典 Gallica
第1次世界大戦が始まるとマーク・プールはパイロットとしてフランス空軍に入隊します。この時ラフベリーも整備士として一緒に入隊しています。
194年12月2日、プールは偵察飛行中にソンム上空で墜落して死亡しました。
プールが死んだ後、ラフベリーはパイロットの免許を取り、爆撃機の操縦士となります。
彼は1916年5月24日、アメリカ国籍を持っている為ラファイエット航空中隊に配属され、1916年10月12日5機目の敵機を撃墜し、エース・パイロットになりました。
映画に出てくるライオンで、大きい方はパリにいる時彼がペットとして買い、ウイスキーを舐めるのが好きなため「ウィスキー」と名付けられました。小さい方は雄ライオンの「ウィスキー」のため、仲間から送られた雌の子ライオンで、こちらは「ソーダ」と名付けられました。
ラフベリーと2匹のライオン、「ウイスキー」は酔っぱらうとトラになってしまうのかな。
ラフベリーの死後、2匹のライオンはフランスの動物園に引き取られました。
アメリカ参戦後、ラフベリーはアメリカ陸軍航空隊に移り、教官として後輩の指導に当たりました。その中にはアメリカの撃墜王となった、エドワード・リッケンバッカーが居ました。
1918年5月19日、彼は戦闘中、背面飛行に入ったところで、操縦席から投げ出され、亡くなりました。
彼はラファイエット飛行中隊で16機、アメリカ航空隊で1機の撃墜数を記録してアメリカ人パイロットで、撃墜数3位にランクインしています。
ユージン・スキナー
フランスでボクサーをしていた黒人黒人パイロット、ユージン・スキナーのモデルは、ユージン・バラードです。こちらも隊長のラウル・ラフベリーに負けない、波乱万丈の人生を送っています。
第一次世界大戦中のバラード
(1895年10月9日– 1961年10月12日)
出典 Wikipedia
ユージン・バラードは黒人奴隷の息子である父ウィリアム・ブラードと、ネイティブアメリカの女性であるジョセフィン・トーマスの間に生まれた10人の子供のうちの7人目でした。
彼が12歳の時、父親が白人の上司を殴ったことで。地元の白人たちのリンチに逢う直前、家を逃げ出し、騎手、理髪店、レンガ造りなどをしながら、南部を回り生活していました。
1912年、バージニア州ノーフォークからハンブルク行きのドイツ船マルタ・ラスで、スコットランドのアバディーンまで密航しました。これはかねてから父に
「イギリスやフランスには、人種差別がない」
と聞かされ、憧れていたためです。
そこから彼はロンドンに行き、そこで彼はアフリカ系アメリカ人の娯楽団であるベルデイビスのフリードマンピカニニーで、ボクサーやドタバタ劇の芸人、ジャズバンドの奏者として働きました。
1913年、劇団のフランス巡業の時、本格的にボクサーとなるため、当時有名なボクサーのディキシーキッドの下に入り練習を始めました。
ボクサー時代のユージン・バラード
1914年、バラードは順調に勝ち続け、A級ライセンスに入ったところで、第1次世界大戦が始まってしまいました。
1914年10月、19才になった彼は外人部隊に歩兵として加わり、ソンム、アルトワリッジ、ヴェルダン等で戦いました。
1916年3月、ヴェルダンの戦いで砲弾の破片を受け、左腿が裂ける大怪我をし、歩行が困難となりました。リヨンの病院で療養中、ブラードはヴェルダンで負傷した兵士を助けた彼の英雄的功績により、最初の勲章クロワ・ド・ゲール(戦争の十字架)章を受け取りました。
1916年10月2日、歩行困難になっても戦うことを諦めない彼は、飛行機の機関銃手に志願し、フランスのカゾーにある空中銃手学校で訓練を受け資格を取りました。その後シャトールーとアヴォールで飛行訓練を受け、パイロットの免許№6950受け取りました。
飛行訓練中の時のユージン・バラード。胸にクロワ・ド・ゲール勲章を付けています。
出典 アメリカ空軍国立博物館
パイロットのなったバラードは、黒人にもかかわらずラファイエット飛行団に加わった208人のパイロットの1人になりました。この中には、第1回アカデミー作品賞をとった映画「つばさ」の監督ウィリアム・A・ウェルマンも在籍していました。
第1回アカデミー作品賞をとった映画「つばさ」の解説はこちら ↓
バラードは20回から27回出撃して、公認1機、非公認でもう1機撃墜しています。
ここで終わっても良いのですが、この後がすごいので、もう少しお付き合いください。
アメリカ参戦後、米国陸軍航空部は、アメリカ遠征軍の航空部隊のためにラファイエット飛行隊に勤務するアメリカ人を募集しましたが、バラードは黒人のため、アメリカ人の飛行免許をもらえず、採用されませんでした。
戦後はナイトクラブでジャズドラマーとして働き、支配人となり、最終的に自分のナイトクラブ「レスカドリル(連隊)」とアスレチッククラブを持つようになりました。
バラードのアスレチッククラブのポスター
彼のナイトクラブは人気のジャズ会場としてジョセフィン・ベーカー、ルイ・アームストロング、ラングストン・ヒューズ、フランスの撃墜王、シャルル・ナンジェサーなどが訪れています。
彼はまた、トレーナーとして世界チャンピオンになったパナマ・アルブラウンとヤング・ペレスを育て上げました。
左:「パナマ」アルブラウン
右:ビクトル「ヤング」ペレス
1939年9月1日ドイツがポーランドに侵攻して第2次世界大戦が近始まりました。パリの警察は、ドイツ人が出入りしているバラードの店に目を付け、ドイツの動向を探ってくれるよう頼みました。
バラードはレジスタントとなり、ドイツ語が分からないふりをして(バラードは英語、フランス語、ドイツ語の3か国語を話せます)店に来たドイツ市民やドイツ軍の将兵に給仕しながら、有利な情報を聞き出し、スパイとして働きました。
開戦からから半年たった1940年5月1日、ドイツがフランスの侵攻を開始すると、バラードは機銃手として戦場に立ち、1940年6月15日(ナチスドイツがパリに無血入城したのが6月14日)、パリ近郊のオルレアンの防御戦で大けがを負い、レジスタンスに助けられて中立国のスペインから赤十字船に乗り、ニューヨークに帰りました。
ニューヨークに戻った彼は、フランスの英雄にもかかわらず、一人の黒人として扱われ、警備員や荷役作業員、香水のセールスマンなどをして暮らしていました。
しかし、フランスは第1次世界大戦から第2次世界大戦にかけて14個の勲章をもらっている彼のことを、忘れませんでした。
第2次世界大戦後、フランス政府からパリに残してきた彼のナイトクラブの賠償金を受け取り、そのお金でニューヨークのハーレムにアパートを買い、死ぬまでそこに住んでいました。
1954年フランス政府の招きによりフランスに渡り、第1次世界大戦40周年の記念に、バリの凱旋門の下にある無名戦士の墓に花をささげる3人の英雄の一人に選ばれました。
パリの無名戦士の墓で花をささげるバラード、1954年
出典 Wikipedia
1959年年10月9日、彼はニューヨーク市のフランス領事館に招待され、レジオンドヌール勲章(フランスの最高位勲章)とシュヴァリエ(ナイト・騎士)の称号を授けられました。
1959年12月22日、バラードはギャロウェイがキャスターを務めるNBCのトーク番組「today」に出演しました。
NBCのテレビ番組「today」に出演した時のバラード。キャスターのギャロウェイが手にしているのは、フランスから彼に送られた勲章。
バラードが着ているのは、ロックフェラーセンターのエレベーターボーイの制服です。
この時、バラードはロックフェラーセンターでエレベーターボーイをしていました。同じロックフェラーセンターに入っているNBCのスタッフがバラードが胸に付けている勲章に気が付き、話を聞いたことから出演が決まったそうです。
1961年10月12日、バラードは胃がんのため、66才でなくなりました。
1994年、コリン・パウエル将軍の要請により、米空軍はユージン・バラードを少尉として任命しました。
アメリカ空軍国立博物館内に展示されているバラードのコーナー
出典 Wikipedia
ブリッグス・ロウリー
大富豪の息子ながら、父親に言われるままに入ったハーバード大学を中途退学するなど、何一つまともにできなかったロウリーのモデルのなったのが、ノーマン・プリンス(Norman Prince)です。
ノーマン・プリンス(1887年8月31日-1916年10月15日)
出典 Wikipedia
彼はマサチューセッツ州ウィンチェスターの金融家フレデリック・ヘンリー・プリンスの息子として生まれました。
ハーバード大学を卒業後ハーバードロ―スクール(ハーバード法科学院)を1911年卒業しました。その後シカゴで弁護士として開業しました。
彼はライト兄弟に刺激を受け、「ジョージマナー」の偽名を使いアメリカで55人目のパイロットの資格を取ります。
1910年、ノーマン一家はフランスのポーに邸宅を購入して移りました。
ポーには、1909年ライト兄弟が開いた飛行学校があり、フランス人パイロットの他、上に書いたラウル・ラフベリーを始め、ビクター・チャップマン、ウィリアムタウ2世、ジェームズ・ロジャース・マコーネルなど、初期のラファイエット飛行団(Lafayette Flying Corps)に加わった、アメリカ人パイロットが居ました。
1914年、ノーマン・プリンスはパイロットのウィリアムタウ2世、エリオットC.カウディン、の3人は、1906年にパリ・アメリカン・ホスピタルを設立し、1914年からはアメリカ人ボランティアによる救急車の運用サービス( the American Ambulance Field Service 後のAFS Intercultural Programs)を組織したエドモンド・グロス博士と共にフランス政府を説得して、1916年3月21日、ボランティアのアメリカ人パイロットによるエスカドリル・アメリカーヌ(アメリカ航空隊)を設立しました。
1915年12月23日、エリオットクリストファーカウディン2世(左)、ノーマンプリンス(中央)、ウィリアムタウ2世(右)
出典 Wikipedia
エドモンド・グロス博士
エドモンド・グロス博士はラファイエット飛行隊に設立に協力しましたが、黒人に偏見を持っていて、黒人のユージン・バラードがアメリカ陸軍航空隊に入るのに反対しました。
エスカドリル・アメリカーヌ(アメリカ航空隊)は中立国のアメリカが戦争に参加している(アメリカが参戦したのは1917年4月から)とのドイツの抗議で、ラファイエット・エスカドリルと名前を変えました。
ラファイエットとは、アメリカ独立戦争(1775~1783年)でアメリカ軍を指揮して共に戦った、ラファイエット侯爵にちなんで名付けられました。
1791年のラファイエット中将
出典ウィキペディア
こうしてできたラファイエット飛行中隊は、1916年5月31日からヴェルダンの戦いに参戦し、5日後にはキフィンロックウェルが部隊として最初の撃墜記録を作りました。6月23日には、ヴィクター・チャップマンがデュオモンに撃墜され、部隊最初の戦死者となります。
ヴェルダンの戦いの後、部隊は西部戦線に沿って移動しながら戦い続け、1918年2月8日、部隊は解散し、アメリカ陸軍航空部に移りました。
ノーマン・プリンスは122回出撃して、公認5機と非公認4機の撃墜を記録しました。
1916年10月12日、着陸しようとして高圧線に引っかかり墜落して大怪我を負い、3日後の1916年10月15日に亡くなりました。
エディー・ビーグル
アメリカで銀行強盗に失敗して、フランスに逃げて来たエディー・ビークルのモデルになったのが、バート・ホール(Bert Hall)です。
バートホールとニューポール11
出典 Wikipedia
Weston Birch “Bert” Hall(1885年11月7日-1848年12月6日)は、ミズリー州ヒギンズビルで生まれました。
彼は10代で家を出た後、水夫、メカニック、オートレーサーなどを経て、1910年、フランスのビュク(ベルサイユのそばにある町)で飛行機の操縦を学び、後にノーム60馬力のエンジンを付けた改良型ブレリオ単葉機を手に入れました。
1913年2月16日、バルカン戦争でブルガリアと戦っているトルコのスルタンであるアクドゥルハミドに1日100ドルで雇われ、偵察や着弾観測で働きました。
1913年3月-トルコ-ブルガリア戦争中の偵察任務での初期の軍事飛行バートホールと彼の後期モデルのブレリオ単葉機
しかし2か月もすると、スルタンからの支払いがまともに貰えなくなったため、ルーマニアでも同じ仕事をして(ただしお金は前金で100ドル貰いました)、その後各地で曲技飛行の巡業をしながら、フランスに戻りましたが、フランスのピレーネ山脈のふもとにある町タルブ(Tarbes)近くで墜落して壊れてしまいます。
1914年8月、第2次世界大戦が勃発するとすぐに、フランス外人部隊に歩兵として入隊しました。
1914年12月14日、バート・ホールは、ビル・ソー、ジミー・バッハともにフランス陸軍航空隊に移りました。
バート・ホールとビル・ソーはラファイエット飛行中隊の最初のメンバーになります。ジミー・バッハはドイツ軍の捕虜となった為、入隊できませんでした。
ラファイエット飛行中隊初めのころの写真。アメリカ人パイロット7名とフランス人士官2名で構成されていました。
撮影1916年3月16日。バート・ホールは左から3人目
映画「フライボーイズ」はこの時の部隊構成をもとにしています。
この後志願者が増え、登録されたアメリカ人パイロットは延べ224名と7人のフランス軍士官からなるラファイエット飛行団(Lafayette Flying Corps)に発展しました。
出典 Wikipedia
バート・ホールは、この中隊で4機撃墜して副官になりましたが、名門大学出や大富豪の息子などの多い中で、成り上がり者とみられ、さらに人付き合いの悪さや、強欲でずる賢い性格(彼はいかさまポーカーの名手で、隊員から金を巻き上げていました)がたたり、1917年、中隊から追い出されてしまいます。
バート・ホールはロシアにあるフランス軍部隊の航空隊に戻り、ルーマニアとロシアの間を、行ったり来たりしていました。このため、彼は第1次世界大戦で西部戦線と東部戦線の両方で戦った、唯一のアメリカ人パイロットとなります。
彼はペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)に戻ったとき、ロシア革命に巻き込まれ、仕方なくシベリア経由でアメリカに戻りました。このためフランス空軍からは、脱走兵として記録されました。
第1次世界大戦が終わるまでに、彼は20機の撃墜を記録しています。
1918年これまでの経験をもとにして「En L’air(“空へ”フラン語)」を書き、ハリウッドでこの本をもとにした映画「A Romance of the Air」を撮り、バート・ホール自身が主役を務めました。
1920年代後半に中国に渡り、当時の国民党政府にアメリカで余っていた戦闘機を買って航空隊を作る案を、持ちかけました。しかし、国務省から武器の輸出許可を得られず、逆に中国政府から銀で1万ドル搾取したとして、上海のアメリカ連邦裁判所に訴えられ、有罪となってしまいます。
バート・ホールは中国にいる間、彼の2作目の本となる「One Man’s War:The Story of the Lafayette Escadrille」を書きました。この本はペンシルバニア州立図書館でWeb公開されています。興味ある人はこちらからダウンロード出来ます。
1936年5月、2年半の刑期を終えマクニール島連邦刑務所から釈放されました。
実は、1937年7月7日に起きた盧溝橋事件から日中戦争(支那事変)がはじまり、日本軍の攻撃に対して、アメリカは国民党軍の資金で「戦闘機100機とパイロット100名、200名の地上要員」の派遣を決め、義勇兵による飛行隊「フライイングタイガース」を組織しました。
もう少しバートが遅かったか、うまく立ち回れたら、中国でも英雄となったかもしれません。
釈放された後ハリウッド゛働いていましたが、1944年オハイオ州カスタリアにおもちゃ工場を作り、そこで定住しました。
1948年12月6日、バート・ホールは車を運転中に心臓発作て亡くなりました。
ジョルジュ・セノール
ラファイエット戦闘機隊の指揮官を務めたフランス軍大尉のジョルジュ・セノール( Georges Thenault)は、実名で出ています。
ジョルジュ・セノール大尉
彼は1887年12月15日、フランス、ヴィエンヌのセルレヴェスコーで生まれました。
1909年にサンシール陸軍士官学校を卒業し少尉となり、第1次世界大戦が始まった1914年8月からエスカドリルC.11で、偵察機の偵察員として第一次世界大戦の軍務を開始しました。
1915年1月12日、彼はアボードの陸軍士官学校に申請してパイロットの訓練を受け、免許を習得しました。
訓練後の1915年3月25日、彼はエスカドリルC.34に配属され、5月には大尉に昇進します。
1915年7月31日、彼は指揮官としてエスカドリルC.42のロレーヌデラメに再配置されました。この部隊にはラファイエットエスカドリルの設立を支援したウィリアムソー中尉が居ました。
1916年4月9日、7人のアメリカ人パイロットと、二人のフランス軍士官で構成されたフランス軍外人部隊の航空隊エスカドリルN.124の指揮官になりました。
エスカドリルN.124(後のラファイエット飛行中隊)の写真
左から、ビクター・チャップマン、エリオット・C・カウディン、バート・ホール、ウィリアム・ソー、指揮官ジョルジュ・セノール大尉(フランス)、副官ラージュ・ド・ミュー中尉(フランス)、ノーマン・プリンス、キフィン・ロックウェル、ジェームズ・マコーネル
1918年2月18日、アメリカ参戦により、ラファイエット飛行中隊がアメリカ陸軍航空隊に吸収された後、フランスのポーにある飛行学校(ノーマン・プリンスがフランスの操縦士免許を取ったところ)で教官として勤めました。
第1次世界大戦後の1920年から1933年まで、ワシントンDC のフランス大使館で駐在武官を務めました。
その後中佐に昇任して、フランス空軍で兵役を続けました。
1940年第2次世界大戦でフランスがドイツに占領されると、彼は妻と二人の子供をスペイン経由でアメリカに逃がし、自分はパルチザンとして戦いました。
1928年12月19日パリ郊外で狩猟中、心臓発作を起こし、死亡しました。