第2次世界大戦開戦のきっかけとなったのは、ヒトラーがチェコに対して行った、ズデーデン地方割譲の要求でした。2022年2月から行ったプーチン大統領のウクライナ侵攻は、この時の状況とよく似ています。
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亀仙人2ヒトラーの領土拡大
第一次四カ年計画
1933年1月30日ドイツ首相に就任したヒトラーは、偉大なるドイツの再建を目指し第一次四カ年計画を始めます。
第一次四カ年計画は、当時600万人にも上る失業者救済の目的もありましたが、それよりもヒトラーが狙っていたのは国家レベルでの自給自足経済(アウタルキー、ドイツ語Autarkie)の実現と、再軍備の準備でした。
第一次四カ年計画の目玉となったアウトバーンの建設に当たっては建設用重機を使用せず、あえて人力によって作業を行うことでより多くの雇用を作り出し、作業員を宿舎に入れて共同生活をさせ、将来の軍隊生活の基礎を作りました。
またアウトバーンも将来軍用機の離発着に備え、舗装面の厚さを通常の倍になる75㎝にしました。
アウトバーン脇の森林に隠された軍用機
当時の映像
第1次世界大戦では戦いの途中でドイツ軍は食糧不足に悩むことになり、そのため食料の自給を目指し、農家に対して穀物価格安定法を制定し農作物の暴落を防ぐとともに、多額の借金を背負った農家に対して世襲農場法を制定し農業を続けようとする農家に対して、農家は「債務償却銀行」に毎年支払い可能な金額を振り込めば、残りの金額は「債務償却銀行」が立て替え払いしてくれるという制度を作ります。また人手不足に対しては国家労働奉仕団から青年を農家な派遣して農作業に従事させ、農産物の増産をはかりました。
国家労働奉仕団 銃の代わりにシャベルを持って行進
映画 「意志の勝利」より
大企業の下請けとなる中小企業の税率を下げ保護し、代わりに政府の受注を受けることになる大企業の税率を上げました。大企業では、どうせ税金に取られるのならと利益の大半を研究開発費や新たに工場を作ることに充て、第2次世界大戦で新兵器や優秀な兵器の生産に寄与することになりました。
第1次世界大戦でドイツは多くの死傷者を出し人口が激減したうえ、1929年の大恐慌後には結婚する人数も減り、少子化による人口減少が進みました。1933年6月1日、ナチス政権は女性に結婚して子供を産み、出生率を上げるために、「結婚資金貸付法」を制定しました。
これは結婚したくてもお金のない若い人に対して、1000マルク(日本円にして200万円相当)を無利子で貸し付けるものでした。返済は月10マルク(平均的労働者の日給2日分)を8年にかけて返せばよく、さらに子供を1人産むたびに返済額の25%が免除され、4人産めば全額免除となります。
また4人以上子供を産んだ母親には、補助金が支給され、「母親十字章」が授与されました。
またこの1000マルクは現金ではなく、「需要喚起券」という証書で支払われ、特定の商店で結婚に必要な家財道具と引き換えることが出来ました。
これにより第一次四カ年計画が字視された翌年の1934年には、出生率が20%も増えました。これは職場で働く女性を家庭に戻し、その分の雇用を増やす働きもありました。
1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領が在任中に死去しました。ヒトラーは直ちに「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を発効させ、国家元首である大統領の職務を首相の職務と合体させ、ヒトラー自身は「指導者(ドイツ語フューラー)兼ライヒ首相アドルフ・ヒトラー」という称号を使用することになりました。
続いて8月19日、ヒトラーが大統領と首相の権限を兼ねることの是非を問う国民投票が行われ、投票率95.7%のうち89.9%の賛成票を得て認められました。
これ以後ヒトラーは国家を導く指導者(フューラー日本語訳「総統」)となります。
1935年3月16日ヒトラーはベルサイユ条約の破棄し、ドイツの再軍備を宣言しました。
ヴェルサイユ条約によるドイツの軍備制限
ドイツはヴェルサイユ条約によって、莫大な賠償金、フランス、ポーランド等への領土割譲、ライン河以西の非武装化、国内への国際軍備監視団の受け入れ、更に下記の軍事制限等を受けていた。
陸軍兵力を10万人に制限 騎兵師団3個 歩兵師団7個(戦前の平時には78個師団を擁していた)
戦争画策の本拠として陸軍参謀本部を廃止
戦車の保有禁止
義務兵役制度の廃止
海軍も沿岸警備以外は禁止、潜水艦・航空母艦の保有禁止、艦艇の備砲と排水量の制限
軍用機の開発・保有禁止引用 ウィキペディア
第一次四カ年計画の成果
第一次四カ年計画が終わる1936年には、計画開始前年の1932年に比べて、国民総生産が50%増加し、国民所得も42%、工商業各指数生産指数が88%、財・サービスへの公共支出が130%、民間消費指数が16%増加しました。
最大の目標であった失業者対策も前年の1935年3月16日に再軍備が開始され、88万人が徴兵制により吸収されたことで完全雇用が達成されました。
この反面自営農民を保護する政策はかえって農業の合理化を妨げ、農産物の増産につながりませんでした。
このためナチス・ドイツは増え続ける人口を養うために、農業の盛んな東欧に新たな領地を求めて進出することになります(東方生存圏)。
第二次四カ年計画
1936年9月9日ヒトラーは第二次四カ年計画の実施を発表しました。
この計画の目的は
- 「経済の課題はドイツ民族が自己主張できるようにすること」
- 「ドイツ経済は以降4年間のうちに戦争に耐えうる経済になっていなければならない」
- 「ドイツ国防軍は四年間で戦場に投入可能なレベルになっていなければならない」
としています。
この計画の責任者は、経済の専門家ヒャルマル・シャハトからナチ党および政府のNo.2であるヘルマン・ゲーリングに変わりました。
これにより新たに軍需産業が興り、これまで以上に労働者、食糧、戦争に必要な良質な鉄鉱石、石油などを求めて軍事力によるドイツの領土拡大を進め、占領地からの物資の略奪を目的にするようになりました。。
第2次世界大戦開戦までの、ヒトラーによる領土拡大と各国の反応
1936年3月7日、ラインラント進駐
ラインラントとは
ラインラントとは、ドイツ西部を流れるライン川沿岸の地方を指します。ルール地方の炭田を中心に、エッセン、デュッセルドルフ、ケルン、マインツなどの工業都市や商業都市がありドイツ経済の中心地でもあります。
第1次世界大戦後の1919年6月に結ばれたヴェルサイユ条約で「ライン川西岸(左岸)は15年間連合国軍(フランス軍など)が占領(保障占領)、ライン川東岸(右岸)の50kmは武装禁止(非武装地帯)」とされました。
非武装地帯には、ドイツはいかなる軍隊もおいてはならず、軍事演習を行うことも許されなかった。
さらに1925年には地域的集団安全保障条約であるロカルノ条約で、国境の不可侵が保証され、ドイツ、フランス、ベルギーは互いに国境を侵犯し、または攻撃しないことを約束した。これにより翌1926年にはドイツの国際連盟の加盟が認められ、1930年にはライン川西岸を占領していた連合国軍が撤退して、ラインラントは、いかなる軍隊もいない軍事的に空白地帯となりました。
1923年ルール占領とミュンヘン一揆
ヴェルサイユ条約により、ドイツはフランスとベルギーに対して戦争で破壊した炭鉱対する補償として、フランスには10年間にわたり毎年700万トン、ベルギーには10年間にわたり毎年800万トンの石炭を無償で提供することが決められました。
しかし、ドイツでも大戦後の混乱や19202年3月に起きたルール蜂起によるゼネストによる最短能力の低下により、賠償金や石炭の無償提供などが困難になりました。
1923年1月4日、対独強硬派のフランスのポアンカレ首相はルール占領を表明して、1月11日フランス5個師団、ベルギー2個師団が出動してルール地方を占領しました。
これに対してドイツ政府は炭坑や工場、鉄道、などの労働者にストライキを命じて、占領に抵抗した。なおストライキに参加した労働者には、ドイツ政府が代わって給料を支払いました(受動的抵抗)。
これに対してフランスやベルギーは自国の労働者やスイスからの労働者を派遣して、石炭の採掘を続けました。
ドイツではストライキに参加した労働者の給料の建て替えや、フランスに持って行かれた石炭を輸入するための代金などに充てるため、大量の紙幣を増刷したことから、ハイパーインフレが起こりました。
上の図は封書を出すときのドイツの切手代ですが、1922年7月に2マルクが3マルクになり、1923年の7月に起きたハイパーインフレ後に急激に上がり、4ヶ月後の1923年の11月には1千億マルクになってしまいました。
1923年8月11日、社会民主党、中央党、民主党、ドイツ人民党による連立内閣が成立し、グスタフ・シュトレーゼマンが首相となりました。9月26日シュトレーゼマンは受動的抵抗運動の終了を宣言しました。
1923年11月8日、かねてよりルール地方を占領したフランス・ベルギーに対して強い態度を示していないドイツ政府に反対していたヒトラーは、第一次世界大戦で参謀総長であったルーデンドルフと彼の率いる退役軍人らと共にベルリンに進駐して軍事独裁政権の樹立を目指し、当時同じく政府に反対していた右翼のバイエルン政府に対してクーデターを起こしました(ミュンヘン一揆)。
しかしこのクーデターは失敗し、ヒトラーは逮捕され「国家反逆罪(場合によっては死刑もありうる)」に問われることになりました。翌年1924年2月26日に行われた裁判で、ヒトラーは政府の弱腰を批判するとともに「ドイツの土地を奪った泥棒から、土地を取り返そうとしてなぜ悪い」との趣旨の演説を3時間も続け、裁判官らの同情を集め5年間の実刑判決となりました。しかし、9か月後にヒトラーは釈放となり、獄中で執筆していた「我が闘争」も出版されました。
この裁判の模様はドイツ全国で報じられ、ヒトラーの名前が土゜いつの民衆に知られることになりました。
プーチン大統領もクリミアハンと会併合に対して、かってロシアの領土で在ったクリミア半島をウクライナから取り返しただけだ、と主張しています。
1935年3月1日、ナチス=ドイツによるザール編入
フランスとドイツの国旗用地帯にあるザール地方は、ヨーロッパ有数のザール炭田があり工業地帯として発展していました。普仏戦争でフランスが負けたことにより、ザール地方はドイツの領土となりました。この時点で住民の90%はドイツ人が占めていました。
ザール地方の位置(赤色の部分)
出典 ウィキペディア
第1次世界大戦後フランスはこの地の併合を望みましたが、英米の反対により炭鉱の採掘権をを得ただけ(第1次世界大戦でドイツがフランスの炭坑を破壊した賠償のため)で、ベルサイユ条約により国際連盟の監督下に置かれる自治地域となり、15年後に仏独のどちらに属するか、住民投票で決めることにとました。
1935年1月13日に行われた住民投票(投票率98%)の結果、ドイツ帰属が90.73%、フランス帰属が0.4%、となり、1月17日ドイツへの帰属が国際連盟に認められ、3月1日正式にドイツ領となりました。
ザール炭田を得たことで、ドイツの工業力は大きく成長するきっかけとなりました。
これと同じようにプーチン大統領も、クリミア半島の併合の時に住民投票を行い、住民の9割以上の賛成を得たとしてその正当性を主張しています。
ザール併合から2週間後の1935年3月16日、ヒトラーのナチスドイツはヴェルサイユ条約を破棄し、ドイツの再軍備の開始を宣言しました。
1936年3月7日、ラインラント進駐
1936年3月7日、ヒトラーは軍事的空白地帯である独仏国境沿いのラインラントに軍を進め、フランス国境沿いのアーヘン、トリーア、ザールブリュッケンに兵営を設けて駐留を開始させました。
この時点で、フランスは将来ドイツ軍が侵攻することに対する防御として、1930年からライン川に沿ってマジノ線と呼ばれる要塞線を設置し、100個師団以上の軍隊を持っていました。
これに対してドイツは1935年の4月に再軍備宣言を出し、軍の再編を始めたばかりで、70万人と言われる兵士の大部分は、11月7日に第1期生として徴収された59万6千人がほとんどを占め、訓練が満足に住んでいませんでした。これはヴェルサイユ条約で陸軍の兵力が10万人に制限されていたためです。
このためドイツ軍軍部は、フランスが反撃してきたら勝ち目がないとして、反対しました。
第1次世界大戦後のドイツ
緑色の丸で囲まれた部分が1935年にドイツ領となったザール地方
出典 山武の世界史
それに対してヒトラーは、フランスは反撃に出ないと予想していました。それはドイツが再軍備宣言を出すとすぐにフランスは、ソ連と「仏ソ相互援助条約」を結びドイツの侵攻に備えました。しかえし、第1次世界大戦の時と違い、ドイツのソ連の間にはポーランドとチェコスロバキアがあり、直接軍事援助を行うことが難しいためフランスは躊躇すると考えていました。
さらにフランスがソ連に近づいたため1935年6月に社会党・共産党・急進社会党により結成されたフランス人民戦線が力をつけ、1936年4月から5月かけて行われる総選挙に向けて選挙戦を繰り広げていました。このためヒトラーはラインラントに進駐しても、すぐには反撃しないと、予想しました。
フランスに続き自国も共産主義が力を持つことに恐れたイギリスは、反共主義を掲げるヒトラーに近づき、英独海軍協定を締結してドイツの再軍備を容認する立場をとりました。英独海軍協定は1935年6月18日にイギリスとドイツの間で結ばれた協定で、ドイツ海軍の総トン数をイギリス海軍の35%にするように決めました。この範囲内であればヴェルサイユ条約で禁止された1万トン以上戦艦や、航空母艦、潜水艦の建造も可能となります。これによりフランスとイギリスの間にヒビが入りイギリスはフランスに対して、すくには援助しないとヒトラーは考えました。
1936年3月7日(この日は土曜日で在り、次の日曜に続いて、フランスの官公庁が休みの日でした)、ヒトラーは19個の歩兵大隊約3万人をラインラントに進め占領しました。ただ用心のためフランスに近いライン川左岸には3千人の兵士しか入れず、もしフランス軍が反撃したらすぐ撤退するよう命じました。
しかしヒトラーの予想通り、フランス軍は国境まで軍を進めましたが、ドイツとの戦争を恐れて反撃を見合わせてしまいました。
この時の様子を
第二次世界大戦後、フランス軍に尋問されたドイツ軍のハインツ・グデーリアン将軍は、「もし、1936年にフランス軍がラインラントに進軍すれば、我々は敗北し、ヒトラーは失脚していただろう。」と答えた。またヒトラーも、フランスが動かないという確信を持っていたわけではないと後年、以下のように述懐している。
「ラインラントへ兵を進めた後の48時間は私の人生で最も不安なときであった。 もし、フランス軍がラインラントに進軍してきたら、貧弱な軍備のドイツ軍部隊は、反撃できずに、尻尾を巻いて逃げ出さなければいけなかった。」
引用ウィキペディア
としています。
もしこの時フランスが強い態度で、ドイツのラインライト進駐を阻止していたらヒトラーに対するドイツ国民の支持が落ち、第二次世界大戦を防ぐことが出来たかもしれません。
フランスは第1次世界大戦の勝利国となりましたが、ドイツとの戦いで大きな犠牲を払っており、ヒトラーと戦うことになると戦争は長期化が予想され、勝っても負けても悲惨なことになると考え、総選挙も近いこともあり、元ドイツ領であるラテンラントにヒトラーの軍が進駐することを黙認しました。
フランスから助けを求められたイギリスも、第1次世界大戦で大きな犠牲を払っており、海を隔てた他国のフランスのためにドイツと戦う気はありませんでした。
2022年2月24日から始まったプーチン大統領によるウクライナ侵攻に対して各国が協力した阻止できなければ、この様子を見ている中国も台湾進攻を開始して、世界中を巻き込む大戦争に発展する可能性があります。
ラインラント侵攻後の3月29日、ヒトラーはラインラント進駐の是非を問う国民投票を実施し、98.8%の支持を受けその地位を不動のものとしました。
ホスバッハ覚書
1935年に編入したザールや地方や1396年に軍を進駐させたライン・ラントもドイツの領土であり、フランスやベルギーをはじめとする連合国によって占領や管理されていた地域であり、ドイツは大事世界大戦で失った領土を取り返しただけで、他の国の領土になった分を奪ったのではありませんでした。
1937年11月5日、ベルリンの首相官邸でヒトラー主催の秘密会議が行われました。参加者は首相のヒトラー、軍事大臣のブロンベルク陸軍元帥、外務大臣ノイラート、陸軍総司令官フリッチュ陸軍大将、海軍総司令官レーダー海軍大将、空軍総司令官ゲーリング空軍大将、その他にヒトラーの副官であるホスバッハ陸軍大佐の七名でした。
この会議の記録はホスバッハ大佐が書き留めていたメモから、11月5日に軍事省内で覚書として作成されました。しかし、秘密会議のため公開されず第二次世界大戦後のニュルンベルク軍事裁判で証拠として提出されるまで秘密とされました。
この会議でヒトラーはオーストリアとチェコスロバキア獲得を明らかにしました。
理由は第一次四カ年計画で工業は発展しましたが、農業部門では失敗しています。
ヒトラーの構想する大ドイツ(第三帝国)を実現するためには、この食糧問題を回避する訳にはいきません。海外からの輸入に対しても、第一次世界大戦の時と同じように有事の際にはイギリスの海上封鎖により途絶える恐れがあります。このためドイツの陸続きの農業国ハンガリーやチェコから輸入するしかありません。
ところが第二次四カ年計画で軍事拡張を始めたヒトラーには、輸入に必要な外貨がありませんでした。食料獲得のために軍事費を削ってその分を食料輸入に回すか、軍を動員して占領するかの選択がありましたが、ヒトラーにとっては軍による占領しかありませんでした。
さらに第二次四カ年計画が始まり軍需産業を強化し始めた1933年と1334年にかけてて天候不順となり、食糧不足の問題が実際に起こりました。
そのためヒトラーはこの会議で、ハンガリーに接しているオーストリアとチェコの侵略計画を明らかにしました。
この計画に対して軍事大臣のブロンベルクと陸軍曹司令官フリッチュはオーストリアとチェコに侵攻計画はフランスとイギリスの介入を招く恐れがあり、現在のドイツ陸軍には、この両国と戦うには軍備が不足していると反対しました。
1938年1月25日、ヒトラーは軍事大臣ブロンベルクをスキャンダルを理由に罷免し、陸軍総司令官フリッチュが同性愛者の疑いがあるとして無期休暇にしました。これによりヒトラーは首相と陸軍大臣を兼ねて統帥権を握り、ドイツ軍全体の最高司令官となりました。ブロンベルクのスキャンダルは彼の妻がモデルをしていた時代に、ユダヤ人の写真家にヌードの撮影をさせていたことと、フリッチュの同性愛者の疑いがあることの情報は、ドイツ軍における権力拡大を狙うゲーリングによってヒトラーにもたらされました。ヒトラーが軍事大臣になったことでゲーリングの目論見は外れましたが、1940年7月に大ドイツ国国家元帥になりました。
1938年3月ヒトラーはオーストリア国境に軍隊を集結させてオーストリア政府を威圧し、オーストリアの併合を実現しました。
第一次世界大戦終戦からヒトラーによるオーストリア併合までの流れ
ドイツ=オーストリア共和国
第一次世界大戦終戦(1918年11月11日)の前後にかけて、オーストリア=ハンガリー帝国の属していた諸民族が一斉に独立を宣言しました。
10月28日チェコスロバキア、11月11日ポーランド、11月16日ハンガリー、12月1日セルブ=クロアート=スロヴェーン(セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国、後のユーゴスラビア王国)が独立しました。このように独立が続く間、オーストリア=ハンガリー帝国は11月3日イタリア王国との間で停戦協定(ヴィラ・ジュスティ休戦協定)が結ばれ、皇帝カール1世は退位してスイスに亡命したことでハプスブルク帝国は終わりを告げ、11月12日カール・レンナーを首班とする社会民主党とキリスト教社会党などの挙国一致的な臨時連立政府によるドイツ=オーストリア共和国が成立しました(オーストリア革命)。
オーストリア共和国
ドイツ=オーストリア共和国臨時政府はかつて支配下においていた諸地域が独立して領土が激減したことから、ドイツ人が居住するオーストリア地域のみで一国を形成することは困難であるとして、同じく敗戦により共和政(ヴァイマル共和国)が発足した隣国ドイツとの合邦(アンシュルス)をめざす構想を持っていました。
ドイツが再び強大な力を持つことを恐れた連合国側は、1919年10月のサン=ジェルマン講和条約でオーストリアとドイツの併合を禁止し、独立を宣言していたハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランド、セルブ=クロアート=スロヴェーン(ユーゴスラビア王国)の独立を承認しました。
ドイツとの併合が禁止されたことで、ドイツ=オーストリア共和国はオーストリア共和国に名称が変わりました。
1938年のオーストリア(赤)
出典 ウィキペディア
政権発足当時、労働評議会運動の高まりを背景に社会主義的な政策を行ってきた社会民主党でしたが、保守派の政権与党であるキリスト教社会党との対立が激しくなり1920年10月社会民主党は政権から離脱しました。
オーストリア連邦共和国
1922年オーストリアは新憲法を制定し、上部オーストリア・下部オーストリア・ウィーン市・シュタイアマルク・フルゲンラント・ケルンテン・ザルツブルク・ティロル・フォアアールベルクの9のそれぞれ議会をもつ州からなる連邦共和国と規定されま国名も「オーストリア連邦共和国」となりました。
新しい連邦共和国の政権は保守派のキリスト教社会党が握り、イグナーツ=ザイペル首相が国内統一維持、通貨の安定、外国との借款交渉などの課題に取り組んだ。
1922年10月4日、オーストリアは国際連盟の元でイギリス、フランス、イタリア、チェコスロバキアとの間の国家条約を結び、20年間で6億5000万の金クラウンの国際連盟の融資を受けました。この融資の見返りとして、オーストリアはドイツとの併合を避け、独立を保つことが決められました(ジュネーブ議定書)。
戦後発足したオーストリア共和国ですが、激しいインフレーションで苦しめられたていたため、この融資で1925年から経済は回復の兆しが見えてきました。
しかし、1930年の世界恐慌の影響で1931年オーストリア最大のクレディタンシュタルト(オーストリア銀行)ヨーロッパで最初に倒産しました。これによりオーストリアの金融機構全体がマヒし、ウィーンには国際連盟の財務官が常駐する事態となりました。
オーストリアのファシズム(オーストロファシズム)
1933年世界経済状態が混乱する中、ドイツではヒトラーが首相に任命され政権を獲得するとオーストリア国内で、ナチズムに共鳴しナチス・ドイツとの合邦を求める声が保守派を中心に高まるようになり、共和国は内側からの危機に苦しむこととなりました。
1932年5月20日に首相に就任したキリスト教社会党出身のドルフスは、この危機に対して野党の妨害を排除するため、独裁体制の強化を始めます。ただドルフスの独裁政治は、ヒトラーのような自国の勢力拡大のためではなく、ヒトラー・ナチスの勢力が自国に拡大して、ドイツとの併合を防ぐためのものでした。
1年後の1933年3月4日ドルフスは、議会を停止し、5月20日ドルフスの支持基盤であるキリスト教社会党、農民同盟、護国団(キリスト教社会党の準軍事組織)を中心に祖国戦線(ドイツ語:Vaterländische Front)を組織して、独裁体制を作りました。
5月26日にはオーストリア共産党、6月19日にオーストリア・ナチスを非合法として活動を禁止しました。
2月内乱(オーストリア内戦)
1934年2月12日、かねてよりドルフスのファシスト的な独裁に反対であった社会民主党は、リンツにあった事務所が警察による捜索を受けたことで反乱を起こし、この反乱は瞬く間にオーストリア全土の都市部に広がりました(2月内乱)。
この内乱はドルフスが政府軍を派遣して、2月16日に収まりました。
出典 ウィキペディア
この事件後、ドルフスは社会民主党とその準軍事組織「共和国保護同盟(Schutzbund)」の活動を禁止し、幹部九名を処刑しました。
1934年5月政府は新憲法を制定し、イタリアのムッソリーニを手本とした独裁体制を作りました(オーストロファシズム)。
1934年7月25日、オーストリア陸軍の制服を着た10人のオーストリア・ナチス第89連隊の党員が首相官邸に押し入って、ドルフスを射殺しました。
この知らせを聞いたムッソリーニは、4個師団をオーストリアとの国境地帯に派遣し、同時にオーストリアの独立性をイタリアが保証すると宣言しました。
イタリアの強硬姿勢に驚いたヒトラーは、事件の関与を否定し、オーストリア・ナチス党員のドイツ入国を禁止しました。
1934年7月29日事件終結後、教育大臣のクルト・シュシュニックがドルフースの後継として新首相に就任しました。
シュシュニックもドレフスと同じくオーストリアの独立を守るため、反ナチス政策をとっていました。ところが、オーストリアのドイツ併合に反対していたイタリアのムッソリーニが、エチオピア侵攻(第二次エチオピア戦争)を行ったことで国際的に孤立しヒトラーに近づき、イタリアのエチオピア併合を認めさせる見返りとしてオーストリアとチェコスロバキアなどの併合を容認するようになりました。
これにより、オーストリア国内でのオーストリア・ナチスの活動が活発となりました。
1936年7月11日、シュシュニックはヒトラーと会見してオーストリアの独立と内政干渉をしないことを認めさせました。しかしその代償としてオーストリア・ナチス党員のエドムント・グライズ=ホルシュテナウ、グイド・シュミットを無任所大臣、外務大臣として入閣させました。
1936年11月25日、日独伊防共協定が結ばれたことでオーストリアはイタリアの支持を失ってしまいました。イギリスも英独海軍協定でドイツ寄りの政策をとり、フランスもラインライト侵攻からドイツとの争いは避けるようになっており、オーストリアは孤立状態になってしまいました。これに伴いドイツとの併合を求める、オーストリア・ナチス党は勢力を拡大していきます。
1938年2月12日、ヒトラーは、別荘があるバイエルン州のベルヒテスガーデンでシュシュニックと会談を行い、オーストリア・ナチスの合法化と、指導者のザイス=インクヴァルトを内務大臣に任命し、警察権を委譲することを要求しました。またヒトラーはこの要求を飲まないときは、ドイツ軍がオーストリアに侵攻すると脅しました。
2月18日、シュシュニックはこの要求をのみ、ザイス=インクヴァルトを内務大臣に任命しました。
1938年3月9日、シュシュニックは3月13日に国民投票を行い、オーストリアのドイツ併合を認めるかどうか決めることを発表しました。1934年のドルフス暗殺でオーストリア・ナチスへの反感を持つ国民が多く、この選挙に勝つ見込みは十分にありました。
国民投票を呼び掛けるシュシュニックと祖国戦線(1938年3月10日)
出典 ウィキペディア
慌てたヒトラーは急ぎオーストリア国境に軍を集め、翌10日シュシュニックに国民投票の中止と、首相辞任を迫りました。
1938年3月11日午前2時、ドイツとの国境にドイツ国防軍が集結していることを知ったシュシュニックはドイツとオーストリアに住むドイツ人同士が戦うことは道義的にも軍事的にも無理があると考えてドイツ政府の要求を呑むことを決めました。同日午後7時にシュシュニックは首相を辞任することを決め、オーストリア軍に侵攻してくるドイツ軍に抵抗しないように命令しました。
シュシュニックが午後7時に行った辞任演説は、ラジオでオーストリア全土に流されました。
ドイツ政府は今日(1938年3月11日)、ミクラス大統領に最後通牒を手渡し、時間の制限を付けて、ドイツ政府によって指定された人物(ザイス=インクヴァルト)を首相に任命するように命じました…そうしないと、ドイツ軍がオーストリアに侵入するというのであります。
労働者による暴動が起こり、血の河が流れ、オーストリア政府の手では制御出来ない事態が生じたという、ドイツで伝播された報道は一から十まで虚偽である事を、私は世界に向かって言明します。ミクラス大統領は、我々は力に屈服した、我々はこの恐ろしい時期に際してすら血を流す用意がなかったからだ、ということをオーストリア国民に告げるように私に求めました。我々は軍隊に対して抵抗しないように命じることを決定しました。
そういうわけで、私は心の心底から出るドイツ語の告別の言葉をもって、オーストリア国民にお別れを告げます。
神よ、オーストリアを守り給え!引用 ウィキペディア
シュシュニックの後を継いで首相となったザイス=インクヴァルトは、ドイツに対して派兵要請の電報を打ち、3月12日午前8時ドイツ軍のオーストリア進駐が開始されました。
オーストリアに入ったドイツ軍は各地で歓迎され、1938年3月13日、ザイス=インクヴァルトはウィーンに迎えたヒトラーの目の前でオーストリアを新たなドイツの州・オーストリア州(Land Österreich)とする法案「ドイツ国とオーストリア共和国の再統合に関する法律」を起草して署名を行いオーストリアは新たな州としてドイツに併合されてしまいました。
1938年4月10日、ヒトラーはドイツ国内と、オーストリアでオーストリア併合の是非を問う国民投票を行い、ドイツ国内で99%、オーストリアで97.73%の賛成票を獲得しました。
しかし、併合の是非を問う国民投票は併合する前に行うべきであり、武力によって併合した後で行っても意味がないと思うのは私だけでしょうか。
もし、シュシュニックの狙い通り国民投票が行われていたら、併合に反対する人の方が多くヒトラーのオーストリア併合は行えなかったでしょう。ヒトラーはそれを恐れてドイツ軍を送り、国民投票を中止させ、軍事力で無理矢理オーストリアを併合したのです。
これはロシアのプーチン大統領も、クリミア半島の併合や、ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国の独立についても同じ手を使っており、住民投票で賛成多数を得て合法としています。
ヒトラーが恐れていたイギリスとフランスの軍事介入は、ドイツとの争いを恐れてオーストリア国民の大部分がドイツ人であることから、民族自決の範囲内であるとして見送られました。これはヒトラーにとって大事なことでした。たとえ外国での領土であってもドイツ人の住む地域をドイツの領土に編入しても、フランスとイギリスは手を出さないことが分かったからです。
2022年2月24日、ロシアノプーチン大統領は、ウクライナ国内で迫害されているロシア人を救うためと称して、ウクライナに侵攻しました。
これに対してウクライナのゼレンスキー大統領は、首都キーウに留まり、SNSでウクライナ国民に徹底抗戦を呼びかけました。
軍事力世界第2位のロシアとの戦いで簡単に負けると思われていたウクライナですが、西側諸国からの援助を受け1年たった今(2023年3月)でも、ロシアと戦い続けています。
ナチスのチェコスロバキア侵略とミュンヘン会議
第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国の解体によりチェコスロバキア共和国が誕生しました。
チェコスロバキアがドイツと接するズデーデン地方は、北部に大炭田と鉄と銅の鉱山があり古くから工業が発展していました。そのため中世以来多くのドイツ人が入植し、1930年の時点でチェコスロバキアの人口は1472万9536人で、そのうちドイツ系住民は331万8445人(全国民の22.53%)となり、そのほとんどがズデーデン地方に住んでいました。また中央部の平地では農業が盛んでした。
このような条件が整って入れば、東方生存圏の獲得を狙っているヒトラーが放っておくはずがありません。
ちょうど、2014年のウクライナ東部のドンバス地方に似ています。
ドイツに割譲されたズデーテン地方
出典 世界史の窓
1933年チェコでドイツ系のコンラート・ヘンラインが「ズデーテン・ドイツ郷土戦線」を立ち上げドイツ系住民の権利を守るために働きました。1935年同組織は「ズデーテン・ドイツ人党」と名を変え、1937年からは「一つの民族、一つの国家、一つの指導者」をスローガンにドイツとの統一を目指して活動しました。
1938年3月に起きたオーストリア併合を見て、1938年4月24日ズデーデン・ドイツ人党党首のヘンラインは、ズデーデン地方でのドイツ人の自治と地位向上を求めました。5月7日にはイギリスとフランスの公使はチェコスロバキア政府に対して、ヘンラインの要求を受け入れるように求めました。
これを好機とみたヒトラーは、軍にチェコスロバキア侵攻作戦の作成を命じ、5月20日作戦計画『緑作戦』が完成したことで、10月2日までにチェコスロバキアとの戦争準備を終えるよう命令しました。ドイツ軍の動きに応じてチェコスロバキアは動員令を発動して、ドイツ軍の侵攻に備えました。
チェコスロバキアは、1924年1月25日にフランスと相互防衛援助条約を結んでおり、さらに1935年5月16日にもソビエト連邦と同じ相互防衛援助を結んでいました。そしてフランスとソビエト連邦は、1935年5月2日仏ソ相互援助条約を結んでおり、どちらかが侵略を受けた場合援助することになっていました。
このままいけばドイツとの戦争になることを恐れたフランスの首相ダラディエは、英独海軍協定を結びドイツと近いイギリスの首相チェンバレンにヒトラーとの三者会談を提案しました。
1938年9月15日、チェンバレンはヒトラーと単独会見を行い、ドイツ系住民が5割を超える地域のドイツ編入を認め、次の首脳会談までにフランスを納得させる代わりに、チェコスロバキアへの侵攻を中止するように約束させました。
9月19日イギリスとフランスは協議の上、プラハ駐在のイギリスとフランスの公使にチェコスロバキア大統領エドヴァルド・ベネシュにズデーテン地方のドイツへの割譲を勧告させました。ベネッシュ大統領は最初これを拒否したものの、フランスが軍事協約の破棄を通告したため、9月21日チェコスロバキアは勧告を受諾を受け入れました。
この成果を得て9月22日イギリス首相チェンバレンはヒトラーと第2回目の会談を行いましたが、ヒトラーがズデーデン地方全域の即時併合を主張したため物別れとなりました。
9月23日、チェコスロバキア政府は総動員令を発動して臨戦態勢に入りました。
9月24日、フランスはチェコスロバキアとの条約に従って14個師団の増員を開始しました。
9月25日から26日にかけてイギリスとフランスは首脳会談を行い、フランスがドイツと戦った場合イギリスはフランスを支援することを決めました。
9月27日ヒトラーは、9月28日午後2時までに領土引き渡しが行われない場合、チェコに侵攻する意思を英仏に伝え、英仏がそれに対して介入を行うと警告しても「それでは我々は皆、来週には戦争に入るだろう!」と恫喝し交渉は暗礁に乗り上げた。
後に、ヒトラーはイギリスとフランスの介入はないと予想していたので、そのときの心境を
『薄氷を踏んで深淵を渡る心地だ。だが、深淵は越えねばならない。』
引用 ウィキペディア
と述べています。
ミュンヘン会談
9月28日午前10時、イタリアのムッソリーニ首相が、イギリスのチェンバレン首相、フランスのダラディエ首相、イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒトラーが集まり会談を行う提案を行い、翌9月29日、上記4カ国の首脳を集めてズデーデン問題解決のための会談がミュンヘンで始まりました。
ミュンヘンに集まった英仏独伊の首脳。左からチェンバレン(英)、 ダラディエ(仏)、ヒトラー(独)、ムッソリーニ(伊)、チャーノ伊外相
出典 ウィキペディア
この会談で司会を務めたイタリアのムッソリーニは、イタリア語と英語の他、若い頃スイスで遍歴していた経験からドイツ語とフランス語(スイスではフランスと接している西部ではフランス語、ドイツと接している北部ではドイツ語、イタリアと接している南部ではイタリア語が使用されている)も堪能であることから、各国間の意見の調整を行うのにぴったりでした。
ただ当事者のチェコスロバキアは、参加を許されませんでした。
9月30日の午前1時30分に会談は終了し、4カ国によってミュンヘン協定が締結されました。
協定の結果、ズデーテン地方は1938年10月1日から動産もろともナチス・ドイツに即時割譲すること、加えてその他のドイツ人が優勢を占める地域は国際委員会の裁定により、人民投票によって所属を決定する事が定められた。
引用 ウィキペディア
ミュンヘン協定がこのようにヒトラーに大幅な譲歩した結果になったのは、ヒトラーの要求を飲んで戦争を回避しようとする宥和政策をとるイギリス、チェンバレン首相の意見が大きかったことです。
ミュンヘン会談後、イギリスに帰国したチェンバレンは戦争を回避したとして、空港で大歓迎を受けました。
アイキャッチの画像は、ヒトラーの署名が入った書類を見せ、国民の歓迎に応えているチェンバレン首相です。
フランスのダラディエ首相は、ヒトラーとの戦争を避けるためチェコスロバキアとの相互防衛援助条約を破り、チェコスロバキアを見捨てたことで国民の怒りを予想していました。しかし空港に着いた途端、チェンバレンと同じように歓迎されたことに驚き「なんと馬鹿な国民だ」と呟きました。
またチェコスロバキアのベネッシュ大統領は国土をドイツに割譲した責任をとって辞任し、ロンドンに亡命しました。後任にはエミール・ハーハが大統領になりました。ズデーデン地方を割譲したことで政府に対する失望感が高まり、国内各地で民族運動が活発になりました。
ミュンヘン会談後のチェコスロバキア
ヒトラーがチェコスロバキアにズデーデン地方の割譲を要求した1938年9月22日、ハンガリーも旧領土であるスロバキア南部と東部のカルパティア・ルテニアを、ポーランドは第一次世界大戦後チェコスロバキア領となったテッシェンの割譲を求めました。
1920年6月4日のトリアノン条約によりハンガリーが割譲した地域(二重帝国時代にハンガリー王国の領域になかった地域を含む)
紺色:チェコスロバキア共和国領
茶色:ルーマニア王国領
赤色:オーストリア共和国領
灰色:セルブ・クロアート・スロヴェーン王国領
ピンク色:ポーランド共和国領
緑色:イタリア王国領
紺色の部分が今回割譲を要求した地域
出典 ウィキペディア
第一次世界大戦後、中央を流れるオルザ川によって分けられたテッシェンの街
写真の左側がポーランド領、右側がチェコスロバキア領になった。
出典 ウィキペディア
わがままで欲張りで自己中心的な人とは、絶対妥協してはいけない例がヒトラーです。
ヒトラーの領土欲には際限がなく、ミュンヘン会談の結果、他国を侵略してもイギリスとフランスは介入してこないという自己中心的の考えの基、領土拡大を続けていきます。
1938年10月1日、ヒトラーは併合を認められたズデーデン地方に軍を進めドイツ軍を進駐させました。10月10日ミュンヘン協定の定めたところにより、ズデーデン地方のチェコスロバキア軍と官吏は退去を完了し、ズデーデン地方はドイツに併合されました。
またポーランドとハンガリーが主張していたチェコスロバキア内の領土の割譲は、3ヶ月以内に行われる住民投票によって決定することになりました。ポーランドはこの決定に従い住民投票(住民の70%がポーランド系)を行い、12月1日テッシェンを併合しました。
しかし、ハンガリーはこの決定を不満とし、10月13日ハンガリー軍を国境地帯に動員してチェコスロバキア政府に即時割譲を求めました。困ったチェコスロバキア政府はミュンヘン会議の出席した英、仏、独、伊の4カ国に調停を依頼し、チェコスロバキアとハンガリーはその裁定に従うことにしました。このうちイギリスとフランスはチェコスロバキアの依頼を断り、残ったドイツとイタリアとの4カ国が参加してウィーンで会議が行われました。
11月2日、この会議の結果スロバキア南部とカルパティア・ルテニア南部のハンガリーへの割譲が決定されました。
チェコスロバキアの係争地域。1はドイツ要求地域であるズデーテン地方。2はポーランド要求地域のテッシェン、3はウィーン裁定でハンガリー領になる南部スロバキアと南部カルパティア・ルテニア、4はカルパティア・ルテニア、5はチェコ、6はスロバキア
出典 ウィキペディア
領土を奪われることになったスロバキア地方とカルパティア・ルテニア地方では民族運動が激化し、11月9日両地方で自治政府が樹立しました。このためハンガリーへの割譲は滞ってしまいました。
ナチスドイツによる、チェコスロバキア解体
1939年3月13日、ヒトラーはスロバキア自治政府の首班ヨゼフ・ティソをベルリンに招き、ティソにスロバキア独立の宣言とドイツによる保護国化を要求し、拒否すればドイツ軍の介入を招くと威嚇しました。
3月14日、帰国したティソはヒトラーの要求通りスロバキアの独立を宣言し、ティソハ新しくできたスロバキア共和国の首相となりました。
同じ3月14日、カルパティア・ルテニアも独立を宣言し、カルパト・ウクライナ共和国が成立しました。しかし、かねてからカルパト・ルテニアの併合を狙っていたハンガリーが、カルパト・ウクライナに侵攻しました。
3月15日急転した事態にチェコスロバキアのハーハ大統領はドイツに支援してもらうために、ベルリンにあるヒトラー総統の官邸を訪れました。
しかしヒトラーから渡されたのは、チェコスロバキアからドイツへの併合を要請する文書であり、ヒトラーはこの文書に署名することを求め、もし拒否したら直ちに侵攻すると脅しました。
ハーハは仕方なくチェコをドイツの保護領とする文書に署名して、チェコはドイツに併合されることとなり、チェコスロバキア共和国は消滅してしまいました。
3月15日ヒトラーはチェコスロバキアにドイツ軍を進駐させ、翌3月16日にはスロバキア共和国とカルパト・ウクライナ共和国に軍を進駐し、ハンガリーが要求していたスロバキア南部とカルパと・ルテニアの併合を認めさせました。これによりカルパト・ウクライナ共和国はハンガリーに併合され、建国3日で消滅しました。
1939年3月16日、プラハ市街を見下ろすヒトラー
出典 ウィキペディア
3月17日、ヒトラーがドイツ人が多数を占める地域以外のチェこを併合したことで、イギリスの首相チェンバレンは
「我が国は戦争は無分別なものであると信じるが、かかる挑戦に対しても無気力であると想像するのは激しい間違いである」
と強く抗議しましたが、実力行使には出ませんでした。
このことがかえってヒトラーが他国を侵略しても、イギリスやフランスは介入してこないとの確信を持たせることとなり、1939年9月1日、ヒトラーはポーランドに侵攻しました。
1939年9月3日、イギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告を行い、第二次世界大戦が始まってしまいました。
もっと早く、ヒトラーの企みを潰しておけば、第二次世界大戦の悲劇は避けられたかもしれません。
プーチン大統領のウクライナ侵攻
2014年3月、ウクライナで起きたマイダン革命の直後、ロシアはほとんど無抵抗でクリミア半島の併合に成功しました。
やや遅れてロシアはウクライナ東部のドネツク州とルハンシク州の親露派活動家を陰で支え、「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」を成立させ「ドンバス戦争」を起こしました。
2022年2月24日、ロシアのプーチン大統領はウクライナの軍事侵攻を開始しました。
理由は、ウクライナ政府から迫害されているロシア系住民を救うためでした。
これはヒトラーがチェコスロバキア政府化に迫害されてる、ズデーデン地方のドイツ人を救うためとして、ズデーデン地方を併合したのと同じです。
ただプーチン大統領がヒトラーと違ったのは、ウクライナ全体の占領を狙ってウクライナの首都キーウを攻撃したことです。個個は反ロシア派住民の本拠みたいなところですので、この作戦は失敗してしまいました。
その後ロシアはロシア系住民の多いウクライナ東部と南部を中心に戦い、2022年9月30日絵くらいな東部と南部のドネツク州、ルガンスク州、ザポリージャ州、ヘルソン州の併合を発表しました。プーチン大統領はこの4州の住民にロシア国籍を与え、ロシア化を進めています。その後戦線は膠着状態となりましたが、最初にロシアがウクライナの首都キーウを攻撃したことで明らかなように、プーチン大統領はウクライナ全体の占領を狙っており、ウクライナのゼレンスキー大統領が言うとおり最低でも、2014年以降ロシアにとられた地域を取り返し、野望を挫く必要があると思います。
もしロシアがウクラテな占領に成功した場合、次にジョージアとバルト3国を加え、ロシアに近い旧ソビエト連邦に加わっていた東欧諸国、トルコ、ギリシャなどにも手を出してくるでしょう。
そうなれば第三次世界大戦が起きるのは確実となり、世界は破滅に向かっていくことになります。