なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

YouTubeで見るマイダン革命の映画 その2 『ウクライナ・オン・ファイアー』(後編)

time 2023/01/08

YouTubeで見るマイダン革命の映画 その2 『ウクライナ・オン・ファイアー』(後編)

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亀仙人2

YouTubeで見るマイダン革命の映画 その2 『ウクライナ・オン・ファイアー』(後編)

2013年11月から始まったマイダン革命は、2014年2月18日から23日にかけてキエフで100名以上の死者を出す大規模な騒乱となりました。

この騒乱でウクライナのヤヌーコヴィチ大統領はロシアに逃亡し、議会はヤヌコビッチを解任して 、暫定政府を設置しました。

その後ロシアがクリミア半島を併合し、ルハンスク州南部とドネツク州東南部では親露は勢力により、「ルガンスク人民共和国」と「ドネツク人民共和国」が一方的に独立を宣言する事態となりました。

序章

2014年1月26日バチカンでは、サンピエトロ広場な集まった人々を前にフランシスコ教皇がウクライナのために祈りました。

祈禱後2羽の白い鳩が放たれましたが、すぐにカラスとカモメに襲われる画面が入ります。

映画よりキャプチャー (56分付近)

映画ではウクライナの位未来を暗示しているような感じを受けましたが、同じ日のフランシスコ教皇が祈祷しているYouTubeの動画では、鳩がカラスを撃退している様子が映っていました。

この動画の最後の方に、窓に止まっていたハトが、襲おうとしてやってきたカラスを撃退する様子が映っています。

この時の教皇のお言葉はこちらに出ています ↓

教皇フランシスコの2014年1月26日の「お告げの祈り」のことば わたしについて来なさい

出典 カトリック中央協議会

 

2014年2月20日

バチカンでの出来事の後、映画では2月20日に起きた警察による発砲で人々が死んだ画面になっていますが、事の起こりは2月18日に2万人のデモ隊がウクライナ国会議事堂に向かったことから起きています。

ウクライナでは1996年6月28日に制定されたウクライナ憲法が使用されていましたが、この憲法は2004年12月(オレンジ革命の時)に改正されました。

新しい憲法と1996年に制定され憲法では、大統領が首相を任命して議会の承認を得る形でしたが、2004年の憲法ではウクライナ最高議会議長が首相を指名する形に変わりました。これは大統領権限を減らし議会の力を増す目的でしたが、大統領が属する政党(又は政治ブロック)が過半数を割った場合、議会が推した首相との対立が激しくなり政権運用が難しくなる欠点がありました。

オレンジ革命で大統領に当選したユシチェンコが失敗したのは、2006年3月の最高会議選挙それまで野党であった地域党(党首ヤヌーコヴィチ)が第一党になり、第一党に躍り出た地域党(186名)はウクライナ共産党(65名)、ウクライナ社会党(22名)と連合を組むことで多数派(273名/450名)を形成してヤヌーコヴィチが首相に就任し、ユシチェンコ大統領と対立したことが原因でした。

2010年2月25日、ヤヌーコヴィチは大統領決戦選挙でユリア・ティモシェンコに勝ち、第4代ウクライナ大統領に就任しました。

2010年3月11日与党連合「安定と改革」が組織され、地域党を中心に与党がウクライナ最高議会で過半数を占めるようになりました(450議席中235議席)。

2010年4月21日、クリミア半島にあるロシア黒海艦隊の基地セバストポリ軍港の借用期間(本来ロシアは2017年で軍港を明け渡すことになっていました)を25年延長し2042年としました。その見返りにウクライナは、ロシアからのガス料金を30%ほど下げることに合意しました(ハリコフ合意)。

2010年10月、ヤヌコーヴィチ大統領の下で、ウクライナ憲法裁判所は2004年に改憲された憲法を違憲として1996年の憲法を復活させました。

 

大統領選挙時の対立候補である、ユリア・ティモシェンコに対する迫害

2010年12月2日、大統領選挙で争ったユリアティモシェンコに対して、2008年の首相時代京都議定書に基づいてウクライナの余剰排出枠を売却した際の代金(炭酸ガス削減のための植林をするお金)を、年金基金に流用したとして逮捕されました。さらに2011年1月27日には、ユリア・ティモシェンコは2009年に地域医療のために購入した自動車(オペルコンボ)1000台に対して不正があったとして、告訴されました。

この事件に対して2014年 8 月 7 日、 国庫局長Tetyana Slyuzは、ティモシェンコ政権が「京都マネー」を使ったことはなく、それは特別会計にあり、2010 年にヤヌコーヴィチ政権に移管されたことを確認した。 Opel-Combo車 の購入に関して、Covington & Burlingt(アメリカの法律事務所) と BDO USA(アメリカの監査会社) は、すべての取引が完全に合法で透明であることを確立しました。

詳しくはこちら

引用 Wikipedia

 

2011年10月11日、キエフのペチェールスク地方裁判所は、ユリア・ティモシェンコに2009年1月19日ロシアとのガス供給契約の締結において、ロシア側に有利な条件で結びウクライナに損害を与えたとして、職権乱用で有罪と認め7年間の懲役と 15 億 1600万グリブナ (1 億 8950 万米ドル) の補償を命じました。

これに対してティモシェンコ・ブロックと、野党は有力政治家に対する迫害であるとして、ヤヌーコビッチ大統領を非難しました。

ロシアのプーチン大統領もこの判決は不当であるとの声明を出しています。

詳しくはこちら ↓

プーチン大統領:ティモシェンコの評決は不当 KYIV POST

 

マイダン革命後の2014年4月14日、ウクライナ最高裁判所は

「今日、最高裁判所のすべての法廷の合同会議で、最高裁判所の 48 人の裁判官のうち 42 人が、偽造された「ガス事件」を却下し、ユリア・ティモシェンコの行動は犯罪を構成するものでさえないことが立証された」
引用 Джерело: fakty.ictv.ua

として裁判を終了させ、ユリア・ティモシェンコの「ガス」事件は終了しました。

この様なことが有った為、2013年11月から始まったマイダン革命では、ヤヌーコビッチ大統領の退陣と共に、2004年の憲法の復活を要求することになりました。

 

2014年2月18日

ウクライナ最高議会議員で2004年憲法復活の協議が行われることとなり、2万人を超える人々がウクライナ最高議会会議場に向かってデモ行進を行いました。

2014年2月18日のデモ隊のコース(白い線)

朝8時半独立広場を出発したデモ隊は、マリンスキー公園の手前で警察隊と衝突しました。

デモ隊は、ウクライナ国会議事堂への道を塞いでいる警察の車を排除して先に進もうとしました。それに対して対して警察隊はスタングレネード(音響閃光弾)やゴム弾、催涙弾を使用して、阻止しようとしました。

近くの建物の屋上からデモ隊を狙う政府の狙撃兵。2014年2 月18 日

出典 ウィキペディア

デモ隊側も投石や火炎びんなどで押収したため、双方に多数の死者やけが人が出ました。この時近くにあった地域党本部も、窓から火炎瓶を投げ込まれ火事になってしまいました。

この日のデモ隊と警察隊との衝突後の様子を写した動画がありました。↓

午後4時までには、デモ隊は元の独立広場に押し戻され、バリケードを築きそれに火をつけて、警察隊の侵入を防ぎました。

キーウの独立広場にて、政府軍と抗議者との争乱(2014年2月18日)

出典 ウィキペディア

2月18日午後10時ごろ、独立広場に隣接する労働組合ビルで火災が発生しました。同ビルには警察隊との衝突で怪我をした負傷者約100名がが運びこまれており、41名が助けられましたが自力で動けない患者40名~50名が犠牲になりました。

この火災について、ペトロ・ポロシェンコはベルクトが抗議者を会館から追い出すために火をつけたと言っています。 ↓

ペトロ・ポロシェンコによると、労働組合院は本部の抵抗を奪うために「ベルクト」に火を放った。

「6階では、治安部隊が火炎瓶を注ぎ、自衛隊の代表者が火を消すことを許さなかった」とポロシェンコは言った。

引用 24tv.ua

火災によって焼けた労働組合会館ビル。2014年2月19日16時21分撮影。

建物は、2014 年 2月 18日のユーロマイダンの衝突の最中に警官によって放火されたと伝えられています。

出典 Wikipedia

2014年2月19日

午前4時ごろから治安部隊の攻撃が始まり、独立広場にあったテントのいくつかに火がつけられました

2月18日と2月19日朝の時点で、25名(うち警官が10名)の死者が出ていました。

19日に当局はマイダン地区の騒動でおきる危険を避けるため、道路での検問所の設置や、地下鉄の駅の閉鎖、学校の休校など非常事態宣言に近い処置をとりました。

この日ザハルシェンコ内務大臣は、デモ隊に対して実弾の使用許可する法律に署名したと、発表しました。

事態解決のため、ヤヌーコビッチ大統領と野党代表の間で交渉が行われましたが、ヤヌーコヴィチ大統領はデモ隊が広場から撤退することを求め、それに応じない野党党首を逮捕すると脅していました。

ヴィクトル・ヤヌコビッチ大統領は、野党指導者に対して刑事訴訟を起こすと脅迫している。

これは、「Batkivshchyna」Arseniy Yatsenyukのリーダーに言及して、ジャーナリストのSvyatoslav Tsegolkoによって報告されています。

「ヤツェニュク:ヤヌコビッチの交渉は何の結果ももたらさなかった。彼は軍隊を撤退させる準備ができていない。野党議員は、テーブルですべての野党指導者を起訴するという脅迫があったと言っている。ヤヌコビッチは野党が合意を守っていないと信じている」と彼は書いた.彼のフェイスブックページ。

ご存知のように、火曜日から水曜日まで一晩行われた野党指導者とヤヌコビッチとの会談は、何の結果ももたらさなかっ た – 大統領はデモ参加者に家に帰るよう要求した。

Svyatoslav Tsegolkoによる投稿。

引用 ウクライナ プラウダ

2月20日

ヤヌーコビッチ大統領と野党党首との協議は続き、2月20日午前0時30分ヤヌーコヴィチは2月20日を抗議により亡くなった人々を悼む日であることを宣言し、一時的な休戦に同意しました。

午前4時、広場に面した建っている音楽院のコンサートホール2階から、広場の反対側にある10月宮殿付近に居た警察隊に向かって何者かが発砲する事件が起きました。

映画よりキャプチャー (57分45秒付近)

 

2月20日午前4時、右側のコンサートホール2階から左側の十月宮殿前に居た警察隊に向かって起きた発砲事件が原因で、暴動が起きました。真ん中の高い建物はウクライナホテル。

コンサートホールからの狙撃を受けましたが、警察隊はマイダン広場や政府庁舎などから自発的に撤退しました。これは、双方とも一時的な休戦で合意したことを、実践したためと思われます。

BBC(イギリスの公共放送)が、音楽院からマイダン広場に向かって発砲した人物にインタビューした動画がありました。↓

これによると彼(狙撃者)はマイダン広場にあったデモ隊のキャンプ場の端で銃を渡され、警察官と抗議のデモ参加者両方を射撃した後、車に乗せられ広場から離れたところまで連れていかれて、家に帰るよう下ろされたと話しています。

動画では他にウクライナホテルからも射撃があったと言っています。

マイダン革命を指揮し、革命後ににウクライナ最高議会議長に就任したアンドリー・パルビーによると

「20日の射撃は、ロシアから到着し、ロシアに支配されていた狙撃兵によって行われたと確信しています。銃撃犯はマイダンで大虐殺を企てていた。」

と述べています。

詳しくはこちら ↓

マイダン虐殺の秘話

 

映画よりキャプチャー(58分20秒付近)

ロシアのプーチン大統領も、大混乱が起きるとヤヌーコビッチ大統領にとって良いことはないと分かっていました。

2月20日、ロシアではクリミア占領のための特殊作戦を開始したとの記事がありました。詳しくはこちら ↓

「理事会は、ウクライナに対するロシアの軍事侵略の事実を認める」

一週間後の2月27日、クリミア半島でロシア兵とみられる兵士がクリミア最高評議会を占領し、クリミア地方政府は解体され、ロシアの監督下で再構成して5月 25日にクリミアの地位に関する国民投票が行われたことを考えると、先の狙撃者を使ってプーチン大統領がわざと大混乱を引き起こし、ヤヌーコビッチ大統領を外すために裏で糸を引いていたのではないでしょうか。

 

しかし、ヤヌーコビッチ大統領はザハルチェンコ内務大臣とヤキメンコ保安庁長官にマイダンの人々を撃つように命令しました(参考 espreso.tv)。

2月20日午前9時、抗議のデモ隊はウクライナ国会議事堂に向かって移動を開始しました。

それに対して対テロ部隊は、それまで警察隊が使用していた散弾銃(有効射程40~50m)に変わり、アサルトライフル(射程400~500m)や狙撃銃(射程1000m以上)を使用して阻止しようとしました。

マイダン広場の抗議者たちを銃で撃っている治安部隊の動画です ↓

 

午前9時、移動開始時の動画です。↓

マイダン広場を見下ろす丘の上にある十月宮殿前に居た対テロ部隊に向かって、大勢の抗議者が来たため、対テロ部隊も後退し始めました。

その後、ウクライナホテル横のインスティチュツカ通りの様子です。↓

銃撃の続く中、薄い鉄板や木の盾(ライフルの射撃では何の役にも立たない)で、治安部隊に向かって行った人々の勇気には感心します。

 

この戦いで午後5時までには、60名の死亡者が報告されました。

市民の治安部隊との戦いが始まった頃、ポーランドのラドスワフ シコルスキ外相、フランスのローラン ファビウス外相、ドイツのフランク ヴァルター シュタインマイヤー外相は事態収拾のためヤヌコーヴィチ大統領と会談しました。

この会談に先立ち、ヤヌコーヴィチ大統領はロシアのプーチン大統領に電話して特使をウクライナに送ることを要請し、ロシアは特使として(ロシアの)人権オンブズマンであるウラジーミル・ルーキン氏をこの任務に派遣することを決定しました。

2月21日

ヤヌーコビッチ大統領と野党指導者のウクライナのヴィクトル ヤヌコビッチ大統領と欧州連合の3人の外相とロシアのウラジーミル・ルーキン仲介の下で議会野党の指導者との夜を徹しての協議の末、ウクライナにおける政治危機の解決に関する合意が成立しました。

ウクライナにおける政治危機の解決に関する協定のテキスト

ウクライナの政治危機の解決に関する協定に署名。2014 年 2 月 21 日。
ウクライナでの悲劇的な命の喪失を懸念し、

流血を直ちに止める努力の中で、危機の政治的解決への道を開くことを決意し、我々、下に署名した当事者は以下に同意した:

1. この協定の署名後 48 時間以内に、今回までに修正された 2004 年憲法の行動を復活させる特別法が採択、署名、公布される。署名者は、その後 10 日以内に連立を樹立し、統一政府を樹立する意向を宣言します。

2. 大統領、政府、議会の権限のバランスをとる憲法改正が直ちに開始され、2014 年 9 月に完了する。

3. 大統領選挙は、新憲法の採択直後に実施されるが、遅くとも 2014 年 12 月までに実施される。新しい選挙法を採択し、また、中央選挙管理委員会の新しい構成を比例配分ベースで形成する。OSCEおよびヴェネツィア委員会の規則。

4. 最近の暴力行為に関する調査は、当局、野党、および欧州評議会の全体的な監視の下で実施されます。

5.当局は緊急事態を課しません。政府と野党は武力行使を控える。

ウクライナ最高議会は、2014 年 2 月 17 日の法律と同じ犯罪に適用される第 3 条の免除を採用する予定です。

両当事者は、行政や公共の建物を解放し、通り、広場、広場の封鎖を解除することにより、都市や村の生活の正常化に真剣に取り組みます。

違法な武器は、上記の特別法(本協定第 1 節)の発効から 24 時間以内にウクライナ内務省当局に引き渡されなければならない。

この期間の後、武器の不法所持のすべてのケースは、ウクライナの現在の法律に該当します。野党と当局の強さは、対立する立場から遠ざかるでしょう。当局は、建物当局の物理的な保護のためだけに法的強制力を行使します。

6. フランス、ドイツ、ポーランドの外務大臣、およびロシア連邦大統領特別代表は、すべての暴力と対立の即時終結を求めています。

キエフ市、2014 年 2 月 21 日

署名

権力から:ヴィクトル・ヤヌコビッチ

野党から:改革のためのウクライナ民主同盟の指導者 ヴィタリ・クリチコ、全ウクライナ連合「祖国」の指導者 アルセニー・ヤツェニュク、スヴォボダ の指導者オレフ・チャフニボク。

目撃者:
欧州連合から: 連邦外務大臣 フランク ヴァルター スタインマイヤー、下院シコルスキー元帥 、フランス共和国外務大臣エリック フルニエの大陸ヨーロッパ局長。

引用 Wikipedia

ただし、ロシアのウラジミール・ルーキンは合意への署名を拒否しました。

 

しかしマイダン広場に集まった抗議参加者の中の過激派は、12月の大統領選挙でなく、ヤヌーコビッチ大統領の即時辞任を求め、22日午前10時までに辞任しない場合再び抗議活動を行うと宣言しました。

2月22日

22日朝までに、ヤヌーコビッチ大統領やザハルチェンコ内務大臣を含め、ほとんどの閣僚がキエフを離れ、行方不明になりました。

22日には、ヤヌーコヴィチ大統領側近の地域党のメンバー、ヴォロディミル・リバクがウクライナ最高議会議長を辞任しため、野党第一党である全ウクライナ連合「祖国」のオレクサンドル・トゥルチノフが議会議長に就任し、翌2月23日に5月25日に行われる大統領選挙までの大統領代行を務めることになりました。

オレクサンドル・トゥルチノフ

出典 ウィキペディア

2月22日午後、ウクライナ議会はヤヌーコビッチ大統領を大規模な人権侵害と職務放棄で328票の賛成を得て解任し、新たに5月25日に新たな大統領を選ぶための選挙を行うことを決めました

これに対して、ヤヌーコビッチ大統領は

 

 

 

ここまで映画よりキャプチャー(1時間3分40秒~1時間4分付近)

328票の賛成票では10票不足している為、弾劾は不当だと主張しています。

実際はどうだったのでしょう

映画よりキャプチャー(1時間4分5秒)

議会に設置された投票結果を表すボードでは

賛成 328票、反対 6票、総数 334票となっており、出席した議員の数が本来の議員定数450票に比べてはるかに少ないです。

これはヤヌーコビッチ大統領の支持政党である地域党の議員の約8割が、首都キエフから逃げたりして欠席し、また連立を組んでいたウクライナ共産党の議員達も全員が欠席したためです。

また、ロシアのプーチン大統領はマイダン革命によってネオナチや極右の民族主義者によつて、ウクライナ議会が乗っ取られたと主張しましたが、ヤヌーコビッチ大統領時代の親ロ派政党である地域党やウクライナ共産党の議員がいなくなったため、それまで野党であった欧米派(反ロ派)やウクライナ民族主義の政党が主流になった為です。この状態は2014年10月26日に実施されたウクライナ議会選挙まで続きました。

 

ヤヌーコビッチ大統領が解任された後、抗議者たちは改めて政府庁舎やヤヌーコビッチ大統領の私邸に押しかけて占拠しました。

ヤヌーコビッチ大統領の私邸(メスィヒーリャ邸)に押しかけた武装???集団。

しゃべっているのは、プーチン大統領です。

映画よりキャプチャー(1時間2分付近)

22日には、3年間にわたり監禁されていたユリア・ティモシェンコが釈放され、車椅子に乗ってマイダン広場で演説しました。

ユーロマイダンで演説するユリア・ティモシェンコ。キエフ、ウクライナ。

2014年 2月 22日の出来事。

出典 ウィキペディア

2月23日、ウクライナ議会はウクライナ語を唯一の公用語とする法案を成立させました。これはヤヌーコビッチ大統領が2012年 年 8月 8 日に署名した「人口の 10%を超えるウクライナの地域で、裁判所、学校、その他の政府機関で少数民族の言語を使用することを許可した法律(国語政策の原則に関する法律)を廃止するものでした。

ちょっと古いですが、ウクライナ国内でロシア語を母国語として使用している人の割合を調査した表があります。

これによるとクリミア半島で77.0%、ドネツク州で74.9%、ルハンシク州で68.8%の人がロシア語を母国語として使用していることが分かります。これらの人のうち約3割の人が、ウクライナ語を話せませんでした。

2022年現在のウクライナ大統領のウォロディミル・ゼレンスキーも、ロシア語話者であって大統領になるためにウクライナ語の猛特訓を受け、公の場ではウクライナ語を話しています。彼が大統領になるきっかけのTVドラマ『国民の僕(しもべ)』では、ロシア語を使用しています。

 

2001年国勢調査による、ウクライナにおけるロシア語を母国語としている人の割合。

出典 ウィキペディア

2022年現在のウクライナ大統領のウォロディミル・ゼレンスキーも、ロシア語話者であって大統領になるためにウクライナ語の猛特訓を受け、公の場ではウクライナ語を話しています。彼が大統領になるきっかけのドラマ『国民の僕(しもべ)』では、ロシア語を使用しています。

この法律は2月28日暫定大統領のオレクサンドル・トゥルチノフが署名を拒否したため成立しませんでした。

しかし、この法律が議会で可決されたことで、ロシア語話者の多いクリミア半島、ドネツク州、ルハンシク州の3州でマイダン革命に反対する勢力が出てきます。

クリミア半島併合

2月26日

クリミアでは数百人のデモ隊がクリミア自治区の首都シンフェロポリにある国会議事堂を占拠し、議員たちにウクライナ暫定政府に従わないように要求しました。(ロシア・トゥデイ)

2月27日

ウクライナ最高議会は 371票で 全ウクライナ連合「祖国」の指導者アルセニー・ヤツェニュクをウクライナ首相に任命することに「賛成」しました。

クリミアでは現地時間の 午前4時20分に、60人の親ロシア派武装集団がクリミアの国会 議事堂と閣僚会議の建物を押収しました。

映画よりキャプチャー(1時間6分5秒付近)

セルゲイ・アクショーノフはクリミア自治共和国の首相になる前は、クリミア議会(定数100人)に3人の議員を持つ「ロシア統一党」の一人でした。

アクショーノフが首相に決まった時の様子を、英語版のウィキペディアではこう述べています。

ウクライナ革命に続いて、 2 月 27 日、クリミア議会がロシア軍に占領されている間に、記章なしで緊急会議が開かれました。[3]ドアを封印し、すべての携帯電話を没収した後、アクショノフに招待されて建物に入った MP は、カラシニコフアサルト ライフルとロケット ランチャーで武装したガンマンの前で動議を可決した。[3] [17] [29] [30]その結果、64 票中 55 票で Aksyonov 首相が選出された。[31]

引用 Wikipedia

 

2月28日

早朝に国籍マークを外した兵士たちがベルベク空軍基地に到着し、滑走路を封鎖した、同時にシンフェロポリにある空港も武装集団に占拠された。

シンフェローポリ国際空港を占拠した。徽章が無い武装兵(リトル・グリーンメン) (2014年2月28日)。

出典ウィキペディア

この武装集団に対してヤヌーコビッチ元大統領は

 

セバストポリに居たロシア兵であることを明かしました。

映画よりキャプチャー(1時間8分30秒付近)

ヤヌーコビッチ大統領が罷免されると同時にクリミア半島にロシア兵を動員して、クリミア自治共和国の政府施設を占拠するなど、プーチン大統領はかなり前からクリミア半島を奪い取るつもりで計画を練っていたのかもしれません。

3月1日

クリミア自治共和国首相セルゲイ・アクショーノフは、プーチン大統領に平和維持のための支援を要請しました。

プーチン大統領は連邦会議にウクライナにロシア軍を派遣できるように求め、連邦会議は満場一致でロシア軍の派遣を容認しました。

シンフェロポリのロシア領事は、ウクライナ国民に対してロシアのパスポートの交付を始めました。

3月7日

クリミア議会は、ウクライナからの分離とロシアへの編入を求める決議を採択し、ロシア連邦編入の是非を問う住民投票を3月16日に実施することを決めました。

3月16日

ウクライナのクリミア自治共和国ならびセバストポリ特別市で行われた、ロシア連邦編入の是非を問う住民投票で、クリミア自治共和国で97.47%、セバストポリ特別市で95.60%の賛成票が得られました。

3月17日

クリミア最高会議は住民投票で賛成票が多数を占めたことから、ウクライナからの独立と、ロシアへの編入を決議しました。

この決議を受けロシアのプーチン大統領はクリミアを国家承認しました。

3月18日

ロシア、クリミア、セヴァストポリの3者でクリミアとセヴァストポリがロシアに編入される条約の調印が行われました。

これに関して、プーチン大統領はこう述べています。

映画よりキャプチャー(1時間7分45秒付近)

プーチン大統領は、住民投票で90%以上の人がロシアとの併合に賛成したことで、クリミアのロシア併合は正当だとしています。

 

しかし、この方法は1938年3月12日ナチス・ドイツがオーストリアを併合した出来事(アンシュルス)と非常に良く似ています。

この時はオーストリアは住民投票で、97%以上の人がナチス・ドイツへの編入に賛成していました。

詳しくはこちらを見てください ↓

なぜ、ヒトラーは、ドイツ国民から熱狂的な支持を受けることが出来たのか? その3

この後、ヒトラーはチェコ国内に居るドイツ人の保護を理由にチェコを併合し、第1次世界大戦後ポーランドの領土となったポーランド回廊を取り戻すためにポーランドに侵入したことがきっかけで、第2次世界大戦が始まりました。

この時はヒトラーはポーランドに侵入しても、イギリスやフランスは第1次世界大戦のようにドイツと戦うことを恐れて、介入してこないと思っていました。

2022年2月24日ロシアはウクライナに侵攻しましたが、西側諸国はプーチン大統領と正面から戦うのを避けています。このままだとウクライナは、かってのドイツのように東西に分かれてしまうのでしょうか。

プーチン大統領は盛んにウクライナの現政権を「ネオナチ」と呼んでいますが、クリミア半島を併合した方法は、ヒトラーがオーストリアを併合した仕方とそっくりです。

ドネツク人民共和国とルハンシク人民共和国

ウクライナ東部のドンバスと言われるルハンシク州とドネツク州は、ヤヌーコビッチ大統領の出身地であり選挙基盤でもありました。そのためウクライナ政府からの補助金等が優先的に流れていました。

また両州ともロシアと国境を接していることもあり、歴史的にも経済的にもロシアとの繋がりが深くこの地方の都市部にすむ人々のなかには、ドンバス地方の鉱山や工場で働くためにロシアから移ってきた人が多く住んでいました。そのためこの地方では昔からロシア語が日常的に使用されていました。

ドンバス地方、上がルハンシク州、下がドネツク州

映画よりキャプチャー(1時間11分20秒付近)

ウクライナ語の学校教育が始まったのが1991年のウクライナ独立後であり、古い人の中にはまるっきりウクライナ語を話せない人が多くいました(人口の3割程度)。ヤヌーコビッチ大統領はこのため第2公用語としてロシア語の使用を認めましたが、マイダン革命後ウクライナ暫定議会はこの法律の廃止を決議しました(この決議は暫定大統領のトゥルチノフが署名を拒否した為、成立しませんでした)。これによりマイダン革命を支持する人たちと、反対する人たちの間で衝突が起きるようにになりました。

ドネツク州

1914年3月1日

ロシアが主導したとされる1万~1万5千人の親露派武装勢力か集まりドネツク州庁舎を占拠し、ドネツク州行政長官のアンドレイ・シシャツキーに変わって、ドネツク人民民兵のリーダー、パベル・グバレフをドネツク人民共和国人民総督に選びました。

3月3日には、親ロシア派のデモ隊が、新たにドネツク地方州政府ビルを占拠し、新たな議長としてアンドレイ・シシャツキーを選び、ドネツクの分離に関して国民投票を行うことを選びました。また、パベル・グバレフは人民知事を名乗りました。

ここまではクリミア半島の分離独立と同じ道筋でした。しかし、この時のドンバスには、クリミアのように地元の武装勢力に扮したロシア兵が居ませんでした。

3月6日にウクライナ保安庁が警察を使いドネツク地方州政府ビルから親露派武装勢力を追い出し、自称知事のパベル・グバレフは逮捕され「国家の領土保全と独立」を損なう行いをしたとして、起訴されました。

その後も親露派とマイダン派の衝突が続き、3月13日両派の衝突が起き、親マイダン派の約30名が警察隊のマイクロバスに逃げ込んだところ、親露派の暴徒に囲まれ袋叩きにされ、1名が死亡する事件が起きました。

この時の様子を写した動画があります。↓

 

4月6日(日)、2000人の親ロシア派抗議者がドネツクで集会を開き、独立に関する国民投票を求めました。集会後分離主義者の2つのグループ200人ほどがドネツク地方州政府ビルを襲撃し、再びここを占拠しました。この日は日曜日のため、内部には僅かな守衛が居るだけでした。

4月7日、州庁舎を占拠した分離主義者は、「ドネツク人民共和国」の主権を宣言(建国宣言)しました。また、ドネツィク州のロシア連邦への併合に関する国民投票を遅くとも2014年5月11日までに実施すると発表した。

更に分離主義者は平和維持のため、ロシア軍をドネツクに送るようプーチン大統領に要請しました。

2014年4月7日、建国宣言が出された時のドネツク州庁舎前の様子。

出典 Wikipedia

4月12日、防弾チョッキや野戦服、カラシニコフ自動小銃を備えてマスクをした武装勢力がスロヴヤンシクの執行委員会建物とウクライナ保安庁事務所を占拠した。

スロヴヤンシク市議会を占拠した武装勢力

出典 Wikipedia

ドネツク市、クラマトルスク、ドルシキフカ、ホルリフカ、マリウポリ、イェナキエベなど、ドネツク州の他の都市でも同じような武装勢力による政府庁舎の占拠が起こり、クライナの暫定大統領オレクサンドル・トゥルチノフは本格的な「対テロ作戦」の実施を命じました。しかし、この作戦はうまくいきませんでした。原因は鎮圧に向かった兵士たちが、親露派と言え非武装のウクライナ人に対しての攻撃をためらったためと言われています。

スロビアンスク近くでウクライナ軍をブロックした親露派住民たち。

車両は拿捕されてスロビアンスクに送られ、乗っていた兵士たちはバスで、もとの部隊に送り返されました。

武装集団が前面に出てきたら、別でしょうですけどね。

出典 Wikipedia

これに対してヤヌーコビッチ元大統領はこう言っています。

ヤヌーコビッチ元大統領の言う通り、一般市民たちに対しての流血の惨事はありませんでした。

流血の惨事が起こるのは、ロシアが戦車や大砲、装甲車などの重火器をドンバスに運び込んでからのことです。

映画よりキャプチャー(1時間15分15秒付近)

 

5月11日、ドネツクの分離独立を問う国民投票が行われ、投票者の89.07%が独立に賛成の票を投じました。

5月12日、前日の投票結果を受けて分離主義者たちは「ドネツク人民共和国」の独立を宣言しました。

ルハンシク州

2014年3月1日

マイダン革命後の暫定政府の発足に反対する集会がルハンシクで行われ、約1万人の人が参加しました。

この時のルハンシク地域評議会の構成は、124議席のうち地域党が106議席を占め、ウクライナ共産党が13議席を獲得していました。議長は地域党のヴァレリー・ゴレンカが勤めていました。

この日ルハンシク地域評議会は、マイダン革命後の暫定政府を非合法として新たな国民投票と、ロシア語を第2公用語として復活させるよう議決して、この結果をウクライナ最高議会に送りました。

もともと親露派が多く占める地域でしたが、キエフ国際社会学研究所が2014年の2月8日から18日にかけて行った世論調査ではルハンシク州では、住民の約24%がロシアとの国境が開かれ、ピザや関税が無い自由な往来を望んでいますが、ルハンシク州がウクライナと分離してロシアに編入することには51%が反対していました。

3月30日

ルハンシク市では、大規模な親露派による集会が行われ約1万人が集まりむー、ルハンシク州の独立と、ロシアへの併合を訴えました。

4月5日

ルハンシク州のウクライナ保安庁は「この地域で権力を掌握することを計画した」として、親露派の活動家15人の逮捕を発表しました。

4月6日

前日の逮捕に反対する抗議者約1000名がウクライナ保安庁の建物に押しかけ、ここを占拠しました。

 

占拠されたルハンシクにあるウクライナ保安庁のビル。2014年4月16日

出典 Wikipedia

4月21日

ルハーンシク市の地域国家管理局(RSA)の建物の外で、数千人の抗議者による「人民集会」が行われました。

抗議者たちは、「人民政府」の創設を要求し、ウクライナの連邦化またはルハーンシクのロシア連邦への編入を要求した。彼らは、武装グループのリーダー、ヴァレリー・ボロトフをルハーンシク州の「人民総督」に選出した。

4月27日

占拠した地域国家管理局前の広場で行われた集会で、「ルハンシク人民共和国」の建国が宣言されました。

4月末から5月初めにかけて、親露派の武装集団はルハンシク州の政府庁舎を次々と襲い、勢力を拡大させました。

5月11日

「ルハンシク人民共和国」の独立と、ロシアへの編入を問う国民投票が行われ96.2%の賛成票が得られました。

5月12日

投票の結果を受け、「人民総督」のヴァレリー・ボロトフは、「ルハンシク人民共和国」の独立を宣言しました。

「ルハンシク人民共和国」の独立を宣言するヴァレリー・ボロトフ。

出典 Wikipedia

この後、ロシアは両共和国に軍隊を派遣して、ドンバス戦争が起こり、現在(2022年)に至っています。

オデッサの悲劇

2014年5月2日、クリコボ広場にある労働会館前には、親ロシア派の活動家がテント村を作っていました。

そこに親マイダン派のデモ隊が襲い掛かり、親ロシア派の活動家が逃げ込んだ労働組合会館に火炎瓶を投げ、労働組合会館は火災になり、死者48名負傷者200名に及ぶ大惨事が起きてしまいました。

火事になった労働組合会館の位置(中央下の赤丸の部分)

右上のツェトラルニー・チョルノモレル・スタジアムは、当日午後5時からウクライナ・サッカー選手権が開かれる予定でした。

火災に遭った労働組合会館は、オデッサ中央駅の隣にあるクリコボ広場にあり、サッカーの応援団は一旦この広場に集まり、そこからスタジアムに向かいました。

悲劇の舞台となった労働組合会館と、その前に作られた親ロシア派のテント村。

映画よりキャプチャー(1時間16分10秒付近)

2014年1月16日の抗議取締法が議会で可決された以後、キエフだけではなくウクライナの地方都市でも地方行政局の占拠などが行われるようになりました。

これを受けて1月25日地方行政長官のニコライ・スコーニクはオデッサ市民に対して行政の建物に来て、「外国人、奇妙な凶悪犯、武装勢力」から街を守るように求めました。

これは法執行機関が公の秩序を維持することができないことを認めることであり、武力行使に関する国家の独占に違反しています。

そして、2014年1月19日、地方行政事務所前で警備にあたっていた一般人が数百人の武装した集団に襲われる事件が発生しました。この集団は、政府の援助を受けた「ティトゥシキ(叔父)」と見られています。

この事件により、オデッサの法執行官は市民の安全を確保することを行わないことがはっきりしました。この日はキエフでマイダン革命が活発となり、ベルクトによるデモ隊への実弾の使用や、労働会館ビルの火災により、数十人もの死者が出ています。

マイダン革命最初の犠牲者、セルゲイ・ニゴヤンが亡くなったのも、この日です。

 

ロシア語話者の多いオデッサでは、マイダン革命に反対する勢力も多くいましたが、彼らは2014年1月末、駅に隣接しているクリコボ広場にある労働組合会館前にテント村を設置しました。ここでは定期的に集会やパンフレットの配布、寄付金の受け取りなど活動の拠点として機能していました。

しかし、マイダン革命が終わり支持者からの寄付金が少なくなり、テント村の維持が難しくなっていました。

そこで1週間後の5月9日、クリコボ広場で軍事パレードが開かれるのに合わせて、5月2日の夕方からテント村を撤収することになっていました。

5月2日の夕方が選ばれたのは、サッカーの大試合が行われる時間で広場の人通りが少なくなるとの理由でした。

5月2日

教の午後5時から始まるサッカーの試合は、地元オデッサの「Chernomorets(チェルノモレツ)」とハリコフの「Metallist(メタリスト)」で争うため、午前中からハリコフからの臨時列車が何本も駅に到着していました。両チームのサポーターはあらかじめクリコボ広場で待機して、午後3時ころから両チーム揃って「ウクライナの統一」を唱えながら、オデッサの町中をスタジアムまで行進することになっていました。

この行進には、親ロシア派と親マイダン派の活動家も一緒をに参加することになっていました。

赤い腕章を付けた謎の団体

しかし、午後1時半ごろになると腕に赤いテープを巻き付け、覆面を着け棍棒を持った一団がやって来ました。

投稿 руппа 2 Мая(5月2日グループ)

この動画を投降したのは「руппа 2 Мая(5月2日グループ)」という団体で、オデッサの惨劇を再現するため多くの市民から5月2日に撮影した動画を集めて時系列で並べ、惨劇がどのように起きたか再現しようとしました。

赤い腕章を付けた謎の団体もオデッサ市内をサポーターたちと一緒に行進することなく、警察隊によって囲まれ、サポータ達と一本離れた隣の通り行進しました。

しかし、街の中でサッカーのサポーターに向かって暴れ始めます。

街の中で暴れている赤い腕章を付けた人たち ↓

警察隊は、腕を組んでサッカーのサポーターの方に行かないようにしましたが、突破されてしまいます。

 

さらに、この赤い腕章を付けた人たちは、サッカーのサポータ達に向かって、拳銃やライフル銃で攻撃しました。

建物の上から拳銃で通りに居る人を撃つ、赤い腕章を付けた男。

YouTubeからキャプチャー

白丸の人がライフルでサッカーのサポーターを撃ったことで、投石から身を守ろうとする警察隊と一緒にいる赤い腕章を付けた男たち。

怖いのは、目の前で非武装の一般人に向かってライフルでの射撃をしていても、一緒にいる警官の誰一人止めようとしていないことです。

この射撃でサポーターの一人が死んでいます。

YouTubeからキャプチャー

 

もとになった動画はこちら ↓

下の動画は、クリコボ広場にある新ロシア派のテント村が襲撃され、労働組合会館が火炎瓶で燃やされるまでの動画ですが、参加者の中に赤い腕章を付けた人が見当たりませんでした。↓

オデッサで起きた騒動の動画を色々見ているうちに、この赤い腕章を付けた男たちが気になりました。

映画の中でプーチン大統領は何も言っていませんけれど、オデッサの騒動の原因は、この赤い腕章を付けた男たちが、サッカーのウルトラスフリーガンと呼ばれる熱狂的なサポーター達をわざと挑発して、起こしたように思います。

 

下の動画は、火災を起こした労働会館ビルの中に居て助かった、親ロシア派の指導者オルガ・ムジカ氏の話です。日本語の字幕が付いています。↓

それにしても警察は市民を攻撃している人は守るけど、労働組合会館ビルの中にいる人を守ろうともしていませんでした。

近くに消防署があったにもかかわらず、消防車が来たのは火事が起こってから30分以上も経ったあとでした。

私もそう思います。

この赤い腕章を付けた人たちは、映画の中には全然出てきません。

映画よりキャプチャー(1時間19分から20分付近)

 

この事件に関する怖い話

 

ここから先は私の推測ですが、オデッサの惨劇の9日後の5月11日、ドネツク州とルハンシク州の親ロ派占領地域で、独立の是非を問う住民投票が行われ、絶対的多数で独立賛成の票が集まりました。

この投票結果により、5月12日ドネツク人民共和国とルハンシク人民共和国はウクライナからの独立を宣言しました。

5月2日のオデッサの悲劇は、両州の住民に対してマイダン派が勢力を握ったら親ロ派住民が迫害されるのではないかとの恐怖を与えました。

これが、独立を問う住民投票に影響を与えたことは、否定できないと思います。

元KGB(ソ連国家保安委員会)のスパイであったプーチン大統領がこのことを狙って、わざと暴動を起こさせ、オデッサの親ロ派を死に追いやったのではないでしょうか。

そう考えると、オデッサの警察や消防署の対応がまずいことや、サッカーの試合でウルトラスフリーガンと呼ばれる過激なサポータ達が集まる5月2日に、テント村の撤去を決めたことも腑に落ちます。

もしかして、5月9日にクリコボ広場で行われる予定の軍事パレードも、この計画の一環かもしれません。

もし、ロシアのプーチン大統領がマイダン革命の混乱を利用して、クリミア半島を取り戻し、親ロシア派の多いウクライナ東部のドンバス地方をウクライナから分離独立させてロシアの支配下に置こうと計画していたならば、それは成功したと言えます。

マレーシア航空17便撃墜

2014年7月17日、オランダのアムステルダムからマレーシアのクアラルンプールに向かって飛行中のマレーシア航空17便が、ウクライナのドネツク州上空を飛行中突然消息を絶ち、同機の残骸がロシアとの国境から40kmのドネツィク州グラボベ近郊に落下しました。

この事件で乗客283名と乗務員15名の全員が死亡し、そのうち193名がオランダ人でした。

墜落した場所がウクライナからの独立を主張している親ロシア派が支配している地域で、ウクライナ政府との紛争地帯であったため、遺体や残骸の回収に手間取り、調査が難航しました。

2015年10月、オランダ主導の国際合同捜査チームは、ウクライナ東部の親ロシア派が支配している地域から発射されたロシア製の地対空ミサイル「ブーク」により、撃墜されたと結論付けました。

オランダ安全委員会により制作されたミサイル爆発の再構成映像

出典 ウィキペディア

 

ここまでのに詳しい経緯は、こちらの動画を見てください ↓

 

2019年6月19日、JIT(国際合同捜査チーム)は、イーゴリ・ギルキン(ロシア連邦保安局元大佐)、セルゲイ・ドゥビンスキー(Сергей Дубинский、ロシア参謀本部情報総局職員)、オレグ・プラトフ(Олег Пулатов、ロシア参謀本部情報総局特別部隊元兵士)、レオニド・ハルチェンコ(Леонид Харченко、ウクライナ人、反政府戦闘部隊指揮官)らを殺人罪で起訴すると発表した。

引用 ウィキペディア

2022年11月17日オランダの裁判所は、2014年7月に起きたマレーシア航空17便が撃墜された事件に対して、起訴された4人のうち元ロシア諜報員のイゴーリ・ギルキンとセルゲイ・ドゥビンスキー、ウクライナ人分離派指導者のレオニド・ハルチェンコの3被告に対して終身刑の有罪判決を出しました。無罪となったのはロシア参謀本部情報総局特別部隊元兵士オレグ・プラトフです。

しかし、この事件に関して起訴された4人はロシア政府が匿っており、身柄の引き渡しを拒否している為、刑が実行される見通しは立っていません。

マレーシア航空機墜落の初めからからロシア政府は、この事件への関与と責任を否定し続けています。

 

最後に

映画の終わりの方で、プーチン大統領は核戦争勃発の危機を盛んに訴えていますが、裏返すとこれはウクライナがNATOに加盟しウクライナ国内に、アメリカの核ミサイルが持ち込まれることにプーチン大統領が恐怖を感じていることです。

この恐怖が高じて、ウクライナからロシアに向けて核ミサイルが発射されるという妄想に取りつかれ、そうなる前にウクライナをロシアに統合しようとしたのが、マイダン革命からドンバス戦争に続き、現代のウクライナ侵攻まで一連の原因だと思っています。

この映画はロシアのウクライナ侵攻後YouTubeから削除されましたが、オリバー・ストーンがアメリカの無料動画サイトrumbleに投稿したため、再び視聴できるようになりました。

このためこのブログでは著作権を放棄したとみて、映画からのキャプチャーを多数使用してました。

マイダン革命後のウクライナに対して西側諸国からの情報が多く入っていますがその反面ロシア側の情報が少なすぎるため、ロシアがどう見ているかを知るための良い材料だと思います。

 

 

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亀仙人2

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