なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

映画 「ゾラの生涯」無実の罪で流刑に処されたユダヤ人将校ドルフュスの疑惑を晴らすため戦った、小説家エミール・ゾラの話です。

time 2020/06/03

映画 「ゾラの生涯」無実の罪で流刑に処されたユダヤ人将校ドルフュスの疑惑を晴らすため戦った、小説家エミール・ゾラの話です。

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亀仙人2

映画 『ゾラの生涯』

1937年アメリカ

貧しい人々の苦しみや、政府や軍部の腐敗や不正を暴く小説を書き続けてきたエミール・ゾラが、スパイ容疑で無実の罪を着せられたユダヤ人将校ドレフュス大尉を助けようと、執筆で世論に訴え、ドレフュスの無罪を勝ち取ったことを扱った映画です。

ドレフュス大尉が濡れ衣で有罪となった事件(ドレフュス事件)から、ユダヤ人国家の建設を求める運動(シオニズム)が起こり、イスラエル建国とつながります。

 

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監督 ウィリアム・ディターレ
脚本 ノーマン・ライリー・レイン
ハインツ・ヘラルド
ゲザ・ハーゼック
原案 ヘインツ・ヘラルド
ゲザ・ハーゼック
製作総指揮 ハル・B・ウォリス(クレジット無し)
ジャック・ワーナー(クレジット無し)
出演者 ポール・ムニ (エミール・ゾラ)
ジョセフ・シルドクラウト (アルフレッド・ドレフュス)
ゲイル・ソンダガード (アレクサンドリーヌ(ゾラ夫人))
音楽 マックス・スタイナー
撮影 トニー・ゴーディオ
編集 ウォーレン・ロウ

 

あらすじ(例によってネタバレいっぱい)と解説

映画はパリのみすぼらしいアトリエで、割れたガラス窓の隙間にぼろ布を詰めて寒さを防ごうとしているゾラと、そば自画像を描いている画家のセザンヌから始まります。このセザンヌの自画像は、後でもう一度出てきます。

映画の1場面

近代絵画の父と言われるポール・セザンヌ

若い時(1861年頃)のセザンヌ

出典(上下とも)ウィキベテア

ゾラとセザンヌは、南仏のエクスにある中等学校時代からの親友で、ゾラは一足先に卒業してエクス大学の法学部に通っているセザンヌを中退させ、それぞれ小説家と画家としてパリで同居生活をしていました。

ゾラは、貧しい生活を心配した母親のおかげで出版社アシェット書店に就職でき、アレクサンドリーヌと結婚します。

小説『クロードの告白』を出版したところ、「社会に悪影響を与える」とのことで警察から警告を受けました。書店の主人から暴露的な本を執筆するのを止め、仕事に選任するように言われたゾラは、辞職して作家として生きることにしました。

※「クロードの告白」は、ゾラと同居生活していたセザンヌをモデルとして、作られた小説です。「クロードの告白」のあらすじはこちらにあります。

ゾラは、警官に追われて逃げてきた娼婦「ナナ」をかくまったことから、彼女の身の上話を聞き、それをもとに小説「ナナ」を発表しました。

この「ナナ」と、彼女の母親を描いた小説「居酒屋」(ともにゾラの代表作)が大ヒット作となり、パリ郊外のメダンに別荘を買い、優雅に暮らせるようになりました。

※「ナナ」のあらすじはこちら

※「居酒屋」のあらすじはこちら

メダンにあるエミールゾラの別荘

出典Wikipedia

娼婦ナナと、彼女の身の上話を聞くゾラ、手前で彼女をスケッチしているセザンヌ

映画の1場面

普仏戦争

1970年7月19日、フランスがプロイセンに対して宣戦布告を行い普仏戦争が始まりました。

しかし、開戦からわずか1か月半の9月2日セダンの戦いでフランス軍は包囲され、ナポレオン三世は10万の将兵と共に投降して、捕虜になってしまいます。

これに怒ったフランス市民たちは、9月4日ナポレオン三世の廃位を宣言し、国を守るために臨時政府を作り、戦いを続けます。

1971年1月18日プロイセン軍は、パリのヴェルサイユ宮殿を占領して、そこでドイツ諸侯を統一したドイツ帝国の皇帝戴冠式を行いました。

1971年2月26日フランス臨時政府は、50億フランの賠償金と、アルザス=ロレーヌを割譲する条件で講和しました。ちなみにこの賠償金をフラカス政府に代わって支払ったのは、フランス・ロスチャイルド家でした。

ゾラは、普仏戦争でプロイセンに対して戦争を仕掛け、多くの国民を苦しめ、敗戦した軍部の責任を追及する小説「壊滅」を発表し、軍部から危険人物とみなされるようになります。

※「壊滅」のあらすじはこちら

その後も政府や軍の不正や汚職、金儲けに走る資本家たちを題材とする小説を次々と発行し、大金持ちとなりました。

裕福になったゾラにセザンヌはこう言います。

「君は富も名誉も手に入れた。金は必要だ。僕も何度か誘惑に・・・。エミール、芸術家は貧しくあるべきだ。満ち足りると創造力は細り、腹だけが膨れる。」

長い親友だったセザンヌは、ゾラと別れてプロヴァンスに帰って行きました。

ドレフュス事件

アルフレド・ドレフュス

出典ウィキペディア

ドレフュスは1859年1月9日、織物業を営むユダヤ人の父の元、フランスアルザス地方のミュルーズで生まれました。11歳の時普仏戦争が勃発してアルザス地方がドイツ領となってしまいます。

1871年陸軍学校に入学し、1893年陸軍大学を卒業、直ちに陸軍司令部付きの士官に任命されました。

1892年、ドレフュスは参謀になる試験を受けましたが、ユダヤ人嫌いの審査員ボーンフォン将軍が、わざと点数を低くした報告書を作成したため、不合格になってしまいました。

アルザス生まれのドレフュスは、故郷アルザスを奪いとられたため、ドイツに対する敵愾心は人一倍強く軍人としてはとても優秀な人物でした。

 

事件の発端は、エステラジー少佐がドイツ大使館の武官シュワルツコッペン中佐に宛に出した、1通の手紙から始まります。

この手紙は1894年9月参謀本部のアンリ少佐の手に渡ります。手紙の内容は、現金と引き換えに、手渡す用意のある秘密情報の一覧表(明細書)であったことから、犯人探しが始まりました。

ドレフュス事件を引き起こした「明細書」

出典Wikipedia

映画ではこの文書は棚から盗み出したことになっていましたが、実際はフランスのスパイでドイツ大使館で掃除婦を務めていたマリー・バスティアンが、屑籠から6つに破られていた怪しいメモを発見したのが、始まりでした。

アンリ少佐はユダヤ人嫌いであったことから、参謀部付きのユダヤ人砲兵大尉のドレフュス犯人と決めつけました。

手紙の筆跡が似ている以外具体的な証拠がなかったため、この事件は公表されませんでしたが、反ユダヤ系の新聞『ラ・リブル・パロール』がすっぱ抜き、ユダヤ人は祖国を裏切る売国奴であり、その売国奴を軍部が庇っていると論じて、軍部の優柔不断を糾弾しました。

ドリフュスは軍法会議にかけられ、有罪になってしまいます。

官位剥奪式で剣を折られるドレフュス=左側

出典ウィキペディア

ドリフュスは公開の式典で、官位を剥奪され、南米の仏領ギアナにある「悪魔(デビルズ)島」に流刑されてしまいます。

余談ですが、15年かけて「悪魔島」からの脱獄に成功したスティーブ・マックウィーン主演の映画、『パピヨン』があります。

この式典を見ていた作家アナトール・フランスは、ゾラにドリフュスを助けるように言いましたが、ゾラは動きませんでした。

 

1896年情報部長に着任した、ピカール中佐は、問題の「明細書」の筆跡がエステルアジ少佐と一致したことを付きとめ、新たにドイツ大使館武官シュワルツコッペン中佐とエステルアジ少佐で交わされたメモも入手して、真犯人はエステルアジ少佐であることを突き止めました。

ピカール中佐。彼が上級陸軍大学の講師を務めている時の学生に、ドレフュスが在籍していました。

出典Wikipedia

しかし、シャルル・シャノワーヌ陸軍大臣が、軍の権威失墜を恐れて再審に反対したため、もみ消しを計り、ピカール中佐は口留めのためアフリカに左遷されてしまいました。

1898年1月10日、エステルアジ少佐は簡単な軍事裁判の結果、無罪となり釈放されました。その後、1898年8月12日に彼はイギリスに亡命し、1899年になって自分がドイツのスパイであったこと、「明細書」は自分が書いたことを告白します。

エステルアジ中佐

出典Wikipedia

 

ドレフュスの無実を晴らすため、妻のリュシー・ドレフュスはゾラの元を訪れ、ピカール中佐から送られてきた書類を提供しました。

エステルアジ中佐の裁判から3日後の、1898年1月13日、ドレフュスの無罪を確信したゾラは、後にフランス大統領になるクレマンソーが主幹を務める新聞「オーロール」紙に、軍部の不正と虚偽を告発する「私は弾劾する」というフェリックス・フォール仏大統領宛の公開質問状を渡しました。

新聞社内で公開質問状を読み上げるゾラ(中央)。右は主幹のクレマンソー、左は弁護士のラボリ。

映画の1場面

クレマンソーは、この記事を新聞の第1面に掲載しました。

公開状が掲載されたオーロール紙の第1面

出典ウィキペディア

公開から2週間後、ゾラは名誉棄損罪で告発されます。

裁判では、ゾラがエステラジーを無罪とした軍事裁判を誹謗中傷した、名誉棄損罪一本に絞りたい検察側と、ドリフュスの有罪を決定づける証拠の開示を求める、弁護側に戦いになりました。

もし、ドリフュスの有罪を決定する有力な証拠が出れば、無罪を主張して告発したゾラ側の負けになるにもかかわらず、ドリフュスを有罪とした軍部の証人喚問や、関係する証拠の提出は、機密事項として却下されてしまいます。

このあたりの駆け引きは、この映画最大の見所です。

この裁判でドリフュス事件はフランス中に知れ渡り、ユダヤ人やそれを支援する人達への暴動が各地で発生しました。

ドレフュス事件をめぐって二分する世論を風刺した漫画。上のコマには「Surtout! ne parlons pas de l’affaire Dreyfus!」(特に!ドレフュス事件については議論しないように!)、下のコマには「…ils en ont parlé…」(議論してしまったようだ…)とキャプションされている。カラン・ダッシュ作

出典ウィキペディア

1898年2月23日、この裁判でゾラは有罪となり、禁固1年、罰金3000フランを言い渡されました。

1898年8月12日ゾラは、クレマンソーの勧めによりイギリスに亡命して「truth is still on the march(真実は前進する)」を書き戦いを続けます。

1898年8月30日、陸軍大臣カヴァイニャックの追及によって、アンリ大佐はドレフュス有罪の証拠を偽造したことを自白しました、同日参謀総長ボアデフルも辞職します。翌31日には、アンリ大佐が独房で自殺しているのが発見されました。

1899年7月18日、ピカール大佐はパリの新聞『ル・マタン』紙に、ドレフュス事件の証拠となったメモの筆者がエステルアジであることを発表しました。

更に、イギリスに亡命していたエステルアジ中佐も、ドレフュス事件の元となった「明細書」は、自分が書いたと告白します。

1899年2がつ、新しく大統領に就任したエミール・ルーベは、ドレフュスを流刑地が呼び戻し、8月7日レンヌで再び軍事裁判を開きました。

1899年9月9日、ドレフュスは再び有罪となり10年の禁固刑を言い渡されましたが、9月19日大統領エミール、ルーペの特赦により、刑の執行を免除されました。

1902年9月29日、エミール・ゾラは一酸化中毒により死亡しました。

1906年7月12日、ドレフュスは軍事委員間によって正式に無罪となりました。翌日彼は少佐に昇進して、軍に再入隊します。

1906年10月15日、レジオンドヌール勲章を受章し、サンドニで砲兵部隊の司令官となります。映画ではゾラはこの式典の前日に亡くなったことになっていますが、前に書いた通り死亡したのは4年前のことです。

 

1906年10月25日、クレマンソーが首相に就任し、同じ日にかって情報部長であったピカール中佐も陸軍大臣になりました。

 

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