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映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

なぜロシアはウクライナに侵攻したのか その2 親ロ派のヤヌコーヴィチ大統領とマイダン革命

time 2022/06/06

なぜロシアはウクライナに侵攻したのか その2 親ロ派のヤヌコーヴィチ大統領とマイダン革命

オレンジ革命後に誕生したユシチェンコ政権の後を継いだ親ロ派のヤヌコーヴィチ大統領は経済的な状況から、EU加盟を見送りロシア寄りに政策の方針を変えてしまいました。

直ちに「ウクライナはヨーロッパ」との声があがり、ヤヌコーヴィチ大統領の辞任を求める抗議集会がウクライナ全土に広がりました。

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亀仙人2

ウクライナのEU加盟見送り

第4代ウクライナ大統領ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ

2010年3月2日、ブリュッセルでEUとの共同会見を行ったヴィクトル・ヤヌコーヴィチ第4代大統領は、親ロシア派とされているもののEU加盟については親欧米派であったユシチェンコ前政権と変わりはないことを訴え、ウクライナはNATOに加盟する方針はないものの、「ウクライナにとっては欧州統合が主要優先課題であり、これはまた我々が行おうとしている社会・経済改革戦略にとっての重要な要素でもある」「(同国の優先課題について)EUへの加盟、ロシアとの建設的関係の樹立、それに米国など戦略的パートナーとの友好的関係の構築だ」と述べ、EU加盟を目標としEUとロシアの間の懸け橋となることを目指す方針を示した。

引用ウィキペディア

 

第4代ウクライナ大統領、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ(任期2010年2月25日~2014年2月22日、反政府デモにより任期途中でロシアに亡命)

 

ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ(2011年10月25日撮影)

出典ウィキペディア

ヤヌーコヴィチは1950年7月9日、ウクライナ共和国ドネツィク州イエナーキエヴェ市で、労働者階級の子として生まれた。

1967年12月15日の17歳の時、「ピフノフカ」暴力団の一員として強盗事件に関わったとして、懲役3年の実刑判決を受けるも、模範囚として7カ月で解放されました。

1969年中等教育(日本の高等学校相当)を終えると、生計を立てるべく地域の輸送部門で働く傍らドネツク工業大学で学び始める。

1980年機械工学の学位をとると同時に、輸送部門全体の総責任者に昇進する。同年にウクライナ共産党に入党。以降、20年間に亘って同地域の輸送部門責任者として地域の経済・政治活動に関わり続けました。

1996年8月、政府からドネツィク州国家行政府副長官に任命され、1997年5月には長官に就任します。

2002年11月12日、クチマ大統領から首相に任命され、2003年地域党の党首になりました。

2004年の大統領選挙にクチマ派の候補として出馬しましたが、野党候補のヴィクトル・ユシチェンコ元首相に決選投票の末、敗れました(オレンジ革命)。

2010年の大統領選挙

2010年1月17日に行わホれた第1回の投票では、前首相で地域党の党首であるヴィクトル・ヤヌコーヴィチが35.32%で1位となりましたが過半数に達しないため、2位で現職首相のユーリヤ・ティモシェンコ(25.02%)との決選投票となりました。同年2月7日に行われた決選投票の結果、ヤヌコーヴィチが48.95%、ティモシェンコに45.47%となりヤヌコーヴィチが勝利しました。

2009年にウクライナのティモシェンコ首相とプーチンの間で結ばれた契約で、ロシアからのガス価格は天然ガスの2010年以降はヨーロッパと同じ価格を支払う(2009年はヨーロッパ価格の20%引き)ことになっていました。

2010年4月21日、ヤヌコーヴィチ大統領はロシアのメドヴェージェフ大統領とハリコフで協議して、ロシア黒海艦隊のセウォストポリ軍港の使用を25年延長(2042年まで)する代わりに、ロシアがウクライナの提供する天然ガスの価格を30%引き下げることで合意した協定に署名しました(ハリコフ合意)。

2010年4月27日、この協定はウクライナ議会で賛成多数により批准されました。この時ティモシェンコ・ブロックと「我らのウクライナ」の議員は欠席を決めましたが、ティモシェンコ・ブロックから9人の議員、「我らのウクライナ」から7人の議員が賛成票を投じ、450人中236人が賛成となりました。

2011年4月、検察庁は、2009年1月19日のロシアとの「ガス」契約の締結中に、職権乱用と公的資金を悪用した容疑でユリア・ティモシェンコに対して刑事訴訟を起こしました。

2011年10月11日、裁判の結果ユリア・ティモシェンコは権力の乱用および公的権限の濫用について有罪となり、懲役7年の刑となりました。

この判決はウクライナのEU(欧州連合)加盟に影響を与えました。

2011年12月21日、ウクライナとEUは連合協定の締結協議を終了したものの、ユリア・ティモシェンコの有罪の判決は、ヤヌコーヴィチ大統領の政敵に対する弾圧であり民主主義後退の証であるとの見方が出て、欧州連合との調印は先送りされてしまいました。

2012年3月30日、ヤヌコーヴィチ大統領はEU加盟の仮調印を行い、2013年11月に行われる本調印まで、EU側はユリア・ティモシェンコの拘留停止に対する要望の対応と、2012年10月に行われるウクライナ最高議会選挙の結果を待つことにしました。

2012年10月28日のウクライナ最高議会選挙

2012年10月28日に行われたウクライナ最高議会選挙でヤヌコーヴィチ大統領の地域党は得票率30.03%議席数186名を確保し第1党となりましたが、4位のウクライナ共産党(13.18%、32名)と合わせても218名/450名中となり過半数を取れませんでした。

親欧米派では、2位のユリア・ティモシェンコを中心とする連合「祖国」(25.51%、104名)。3位は元プロボクサーのビタリ・クリチコ(2022年のキーウ市長)を党首とし、汚職撲滅を訴えていた「ウクライナ民主改革連合(UDAR)」(13.94%、40名)、5位は反共産主義の全ウクライナ連合「自由」(10.44%、37名)が健闘しました。そのほか無所属・諸派の議員51名がいます。

2012年12月10日EU外務評議会はウクライナに対して、2013年11月29日にビリニュスで開催される東方パートナーシップサミットまでにウクライナが連合協定(AA )に沿うような「選挙・司法・憲法の改革」が必要であると勧告しました。

2013年2月22日ウクライナ議会の450の内315人が、2012年12月10に受けた勧告を確実に実施すること表明する決議を承認しました。

2013年9月18日、、ウクライナの内閣は全会一致で連合協定草案を承認しました。

2013年9月25日、ウクライナ議会のボロディマー・ライバック議長は、ウクライナ共産党を除いてEU加盟に必要なすべての法律を通過させる見込みが確実であることを表明しました。

しかし。ここで大きな問題が起きてきました。それはウクライナのEU加盟に対してロシアが干渉してきたのでした。

2013年ウクライナの経済危機とロシア

ウクライナでは鉄鋼の輸出が全体の30%を占める(ちなみに農産物の輸出は9%ほど)大きな産業となっていました。

ウクライナは国内に鉄鋼石の鉱山と、豊富な炭田がありソ連時代から鉄鋼の生産が盛んにおこなわれていました。また製鉄所の多くが黒海に面していることから、船舶により低コストで輸送できるのも、輸出に有利になります。

1990年代終わりに入ると、ロシアが石油や天然ガスの開発により経済が持ち直し、ロシア向けの鉄鋼の輸出が増えました。ロシア向けの鉄鋼輸出が増えたことで、ウクライナは2000年に独立後初めてGDPプラス成長(6.0%)を達成し,以降6年連続のプラス成長を記録した。

さらに中国が開放経済をとり入れたことにより、インフラ設備や工場やビルなど建設で鉄鋼の需要が増え、2000年代半ばにかけて中国向けの輸出が増え、ウクライナの経済は発展し続けていました。

ところが2010年が近づくにつれ、中国の建設ラッシュに陰りが見え、中国国内で作られた製鉄所の生産が過剰となり、余った分が輸出に回されることになりました。

中国の製鉄技術は転炉連続鋳造などの最新設備を使用しているのに反して、ウクライナではソ連時代に作られ生産性やエネルギー効率で劣り、今では世界に残っていない平炉による製鉄が20%を占めるなどで価格面での優位が落ち、輸出量が大きく減ってしまいました。

最新型の転炉では30分で200~300tの処理能力がありますが、平炉では4~5時間で150~200t(最大のもので400t)になります。

2013年8月14日、これに追い打ちをかけるように、ロシアはEU加盟を望むウクライナからすべての輸入を停止しました。2013年上半期、ウクライナのロシア向けの輸出は輸出全体の23.7%を占めていました。

更にロシア産の天然ガスの料金が急騰(2013年6月には1000立方メートル485.⒌ドル)しました。

このままでは、ウクライナの経済が崩壊してしまいます。

始めウクライナ政府は、国際通貨基金(IMF)に経済支援を頼みました。

2013年11月21日、ウクライナの ミコラ・アザロフ首相によると国際通貨基金(IMF)が提示した40億ドルの融資の条件は、国家予算の大幅な削減(これには公務員給与の引き下げの他、年金や医療などの社会福祉関係、教育費などの削減が含まれています)と低所得者層を除くガス料金の40%の引き上げでした。

これを受けてヤヌコーヴィチ大統領は、ロシアとのより緊密な経済関係を模索するため、EUとの提携協定への署名を撤回することを表明しました。

しかし、ウクライナの経済悪化は1923年6月ごろから顕著になっており、EUの連合協定署名直前にIMFに経済援助を求めたのはいかにも不自然です。

ヤヌコーヴィチ大統領は大統領選挙の時から、EU加盟をあげており、これまで着々と準備を進めてきて、11月29日に行われるEU連合協定の署名は確実だと思われていました。

しかし署名直前の中止の知らせは、多くのウクライナ国民の失望と怒りを呼び起こすことになり、抗議運動(マイダン革命)が始まります。

マイダン革命(ユーロマイダン)

2013年11月21日、ウクライナ議会で最大の野党、連合「祖国」の党首アルセニー・ヤツェニュクは(代表のユリア・ティモシェンコは拘留されていた)はキーウの独立広場(ユーロマイダン)で抗議のための集会を呼びかけました。翌22日の夜には、約2000人の人が抗議のため独立広場に集まりました。

2013年11月29日、ヤヌコビッチ大統領は、11月28〜29日にビリニュスで開催されたEUサミットに出席しましたが、連合協定への本調印は見送られました。

翌11月30日夜、本調印見送りに反対する参加者に対して、警棒、スタングレネード、催涙ガスで武装したベルクト (ウクライナ警察特殊部隊)が攻撃を仕掛けて抗議者全員を独立広場から追い払いました。

12月1日、これに抗議して10万人以上の人が集まり、一時はキーウの市庁舎を占拠しました。

12月6日、ヤヌコビッチ大統領とロシアのウラジーミル・プーチン大統領の間で予定外の会談がロシア南部の都市ソチで開催された。この会談で、12月17日に大統領がモスクワを訪問し、そこで「主要合意」が署名される予定だと報道記者たちに伝えられました。

2013年12月10日、キャサリン・アシュトンEU外相はウクライナに赴きヤヌコーヴィチ大統領の他、クラフチュク、クチマ、ユシチェンコ、3人の元大統領と会議を開きました。

2013年12月11日、ウクライナのミコラ・アザロフ首相はEUに対して200億ユーロ(270億ドル)の融資と財政援助を要求しました。これに対してEU側は、6億1000万ユーロ(8億3800万ドル)の融資を提供する用意があり、代わりにウクライナの規制と法律の大幅な変更を要求しました。

2013年12月17日、ヤヌコーヴィチ大統領はモスクワに行き、この状態を解決するためにプーチン大統領と協議しました。

その結果、ロシアはウクライナが発行する150億ドルのユーロ債を購入し、ウクライナ向けの天然ガスの値段を1000立方メートルあたり268ドルに引き下げることに同意しました(2013年12月17日ロシアとウクライナの行動計画)。また2013年8月中旬以前に存在していたウクライナからの輸入に関する関税規制の回復も約束しました。

翌12月18日、アザロフ首相はロシアとの協定がなければ「破産と社会崩壊がウクライナを待っていただろう」と述べました。

ロシアによる150億ドルの経済援助は、IMFと違い何の制限もありませんでした。逆に言えばヤヌコーヴィチ大統領の好きに使ってもよく、その返還はウクライナ国民の税金が当てられます。早く言えばロシアはEU加盟を拒否したヤヌコーヴィチ大統領に対して、巨額な賄賂を贈ったことになります。

 

しかしウクライナ国民は、賄賂と汚職にまみれた政府の回復よりも、民主主義的な政府を求めていたのでした。

これがもとで抗議活動はさらに活発化し、12月22日の日曜日には10万人を超える人々がキーウに集まりました。

2014年1月16日、ウクライナ議会で与党の地域党、ウクライナ共産党、及び多数の無所属議員により、抗議集会を取り締まるための法律「抗議取締法」が可決成立しました。

同法律は政府庁舎の封鎖に対して懲役10年を導入した。他にもフェイスマスクやヘルメットを着用した抗議者に対して高額の罰金と懲役刑、公共の場所におけるテント、舞台、増幅器といった設備機器の無許可設置に対する罰金と懲役刑、5台以上の車による車両縦隊(縦列駐車のバリケード)を作る人たちに対して運転禁止などが導入された。また、国会議員の罷免を容易にする法案も承認された。他にも海外の政府や財団から資金提供を受けた非政府組織のメンバーを「海外工作員」として特定し、ソーシャルメディアを通じて誹謗中傷を広める行為に対して懲役2年、政府当局者への誹謗中傷に対して1年収監の更生労働、インターネット接続可能なメディアやプリペイド式携帯電話サービスの購入者登録義務などが承認された。

引用ウィキペディア

抗議集会に参加した人たちは、このような法律を作らない民主的な政府を望んでいるのに、ヤヌコーヴィチ大統領はわざわざ火に油を注ぐようなことをしてしまいました。

これ以後抗議集会は暴動と化し、火炎瓶を手に警察隊に襲い掛かるようになり、警察隊はゴム弾の代わりに実弾を使用するようになり、双方に多くの死傷者が出てしまいました。

 

ウクライナ、キーウでの衝突。2014年2月18日

主催者側の発表では、死者100名、行方不明者166名、負傷者1,100 名、逮捕者77名となっています。

出典ウィキペディア

 

2014年2月21日、ヤヌコーヴィチ大統領は事態収拾のため野党の指導者との間で暫定統一政府の形成と、大統領選挙の早期実施で合意し署名しました。

しかし、この合意はデモ参加者に受け入れられず、デモ隊はあくまで大統領の辞任を要求しました。

翌2月22日早朝、ヤヌコーヴィチ大統領はキーウを脱出してロシアに亡命(2月27日)しました。同じ22日、ウクライナ最高議会は、328票の賛成票でヤヌコーヴィチ大統領の解任を決定しました。また、ユリア・ティモシェンコは刑務所から釈放され、独立広場に集まった数千人のデモ隊に向かって演説しました。

2014年2月22日午後9時、ユーロマイダンで演説するユリア・ティモシェンコ。彼女髪の毛の色が変ですが、元の自毛は黒色です。

出典 ウィキペディア・コモンズ

2014年2月23日、ウクライナ最高議会議長オレクサンドル・トゥルチノフが大統領代行に選ばれました。

2月25日、ヤヌコーヴィチ大統領はマイダン革命で起こった人道に対する罪で国際刑事裁判所に訴えられ、同日国際指名手配されました。

2015年1月12日、国際刑事警察機構(ICPO)はヤヌコーヴィチ元大統領は公金横領などの容疑で国際手配され。2019年1月にウクライナの裁判所はヤヌコーヴィチに対し欠席裁判で国家反逆罪等を認定して禁錮13年判決を言い渡した。

クライナの検事総長はヤヌコーヴィチが国家財政に1000億ドル(約10兆円)規模の損害を与えていた可能性があると述べています。

 

下の動画は、事件後に公開され公園となったヤヌコーヴィチの私邸(メスィヒリャー邸)の動画です。

 

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