なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

解説「カンブレーの戦い」 戦車を使用してヒンデンブルク(ジークフリート)線の突破に成功した戦い

time 2018/07/19

解説「カンブレーの戦い」 戦車を使用してヒンデンブルク(ジークフリート)線の突破に成功した戦い

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亀仙人2

カンプレーの戦い

1917年11月20日から12月7日にかけて行われた、イギリス軍が攻勢をかけた戦いです。この戦いでイギリス軍は戦車を使用してヒンデンブルク線を破ったのに対して、ドイツは浸透作戦でイギリス軍陣地を破り反撃しました。しかし、ドイツ軍は「浸透戦術」で反撃しました。

ヒンデンブルク線

ヒンデンブルク線 出典 http://www.kaizenww1.com

1917年3月、ドイツ軍はフランスのレンスからランスにかけて西部戦線で飛び出している部分から、レンス=カンブレー=ランスを直線状に結ぶ強固な防衛線(ヒンデンブルグ線)を構築してここに退却しました。

ヴェルダンの戦いとソンムの戦いで大きく兵力を減らしたドイツ参謀本部のヒンデンブルクとルーデンドルフは、これ以上無駄に兵力を消耗することを防ぐための処置でした。

これにより側方からの攻撃されることが無くなり、戦線を短くすることが出来たため、余った部隊を攻撃に回すことが出来ます。

必要があると思えば、多大な被害を出して占領した地域を放棄できるルーデンドルフの決断力は、大したものです。

カンブレーの戦いのとき、イギリス軍前線の前にあるヒンデンブルグ線は、戦車が越えられないように幅5メートルの塹壕が3本掘られ、塹壕の前には50メートル以上に渡って鉄条網が設置されていました。

イギリス軍の作戦と準備

ソンムの戦い(イギリス軍の死傷者42万人)とパッシェンディールの戦い(イギリスおよびカナダ軍の死傷者45万人)で多くの被害者を出したヘイグは、英国首相ロイド・ジョージにより新たな兵力の補充を差し止められてしまいました。

イギリス海外派遣団の司令官ヘイグは、翌年の戦いのため、年内にドイツ軍に勝てることを証明する勝利を必要としていました。

1917年8月、第9歩兵師団の砲兵指揮官であったヘンリー・ヒュー・チューダー准将は、新しい歩砲連合の戦法を、彼の担当する戦区カンブレーで施行することをヘイグ司令官に提案しました。

カンブレーはヒンデンブルグ線が出来るまで、前線から離れていたため大きな戦闘がありませんでした。そのため地面も砲撃によるクレータがなく荒れていませんでした。

またカンブレーは各地からの鉄道が集まっており、ヒンデンブルグ線の重要な補給地点でもあります。

チューダー准将は、音源標定(複数のマイクを使い、敵の砲位置を発砲音の音量や時間差から推定する技術)の使用と航空機偵察、閃光観測(発射の時に出る先行から方向を推定する技術)を駆使して、ドイツ軍の大砲の位置を割り出し、ドイツ砲兵部隊を攻撃しようと考えました。

しかしこれでは歩兵の前進を妨げる、鉄条網と機関銃、そして塹壕を破壊することが出来ません。

カンブレーでのドイツ軍は50m以上の幅で鉄条網を設けていました。出典 You Tube

砲撃の打撃力とは、実はほとんど爆風と飛散する破片に起因するものです。鉄条網を構成する有刺鉄線は、タダの針金ですから爆風の影響を全くと言ってよいほど受けませんし、砲弾の破片は間をすり抜けてしまいます。

有刺鉄線を支えている杭は倒れるかもしれませんが、杭が倒れても有刺鉄線はそのままに残ってしまいます。

一方、王立戦車軍団の参謀将校であったジョン・フレデリック・チャールズ・フラーは、奇襲部隊として戦車を投入するための場所を探していました。

1917年6月から7月にかけて、イープルの戦いで200両以上の戦車を投入しましたが、ぬかるみや砲弾痕にはまって動きが取れなくなったところを、ドイツ軍の野砲により大きな損害を出してしまいました。そのため、平坦で硬い地面の奇襲攻撃をする場所を探していました。

砲兵部隊のチューダー准将から戦車派遣の要求を受けたフラーは400両の参加を決定しました。

これにより、砲兵隊はドイツ軍の砲兵隊の位置を割り出し、その破壊に全力を尽くします。今まで最大の敵である、敵砲兵の攻撃を避けられた戦車隊は、鉄条網や機関銃陣地など今まで砲兵隊が準備砲撃でやっていた仕事を引き継ぎ、歩兵の前進を助けます。

こうして砲兵隊、戦車部隊、歩兵隊の兵科連合作戦が計画されました。

また、今までの榴弾砲撃では前線をクレータだらけにして、戦車や歩兵の進撃を困難にしてしまいます。そこで新しく作られたNo. 106榴弾信管(近接信管)を使い、敵の上空で爆発させる曳火(えいか)砲撃を行いました。

曳火砲撃と近接信管

曳火砲撃とは、近接信管や時限信管を用いて砲弾を空中で爆発させ、歩兵など非装甲の目標に大きな損害を与えるものです。

下に自衛隊による曳火砲撃の実習の動画があります。

 

出典You Tub

一般的な砲撃との相違点

一般的な砲撃
・地面に激突した衝撃で爆発する。
地面で炸裂するため、水平より下面の破片や爆発力は地面に吸収されてしまう。そのため、目標に直撃した場合の威力は高い反面、広範囲に破片を撒き散らし非装甲目標を殺傷するという目的には適さない。
・また、上方への破片は宙を舞うだけなので、殺傷に有効なのは水平やや上方への破片に限られる。
・周囲に撒き散らされた破片も上方の角度で飛んで行くため、目標が低姿勢をとっていたり穴に潜っていると損害を与えにくい(実際には地面にめり込んだり、周囲に遮蔽物があったりするので殺傷能力はさらに減る)。
曳火砲撃
・砲弾が空中で炸裂し、大量の破片が地面に吸収されることなく目標範囲に降り注ぐ。
・水平より下面への破片すべてが有効な破片となりうる。ただし、榴散弾の弾子は砲弾の進行方向に放出される。
・空中で炸裂するため、敵の頭上から破片を降らせる形になり、姿勢を低くしたり穴(塹壕など)に潜った敵にも損害を与えやすい。

引用 ウィキペディア

榴散弾とは

曳火砲撃には、一般に榴弾(砲弾が爆発し、その破片で被害を与える)が使われますが、第1次世界大戦では鉄の玉(弾子)をまき散らす榴散弾という砲弾が使われていました。

 

榴散弾 1:少量の炸薬、シェルケースから前方に弾丸を発射する。 2:破片弾(ボール) 3:時限信管 4:信管から炸薬を起爆するための導爆管 5:破片弾を保持するための樹脂、砲弾が爆発するときに煙を出して燃える。 6:薄い鋼で出来た砲弾の外殻 7:薬莢 8:推進薬、コルダイトやニトロセルロースなど   出典ウィキペディア

 

第1次世界大戦では、空中で爆発させるため時限信管が使われていましたが、これでは発射ごとに信管の作動する時間を、セットしなければなりませんでした。

新たに開発された、No. 106榴弾信管は、地面に近づいたら自動的に爆発するように作られた信管です。

 

カンブレーの戦い

イギリス軍の進撃

戦いが始まる前、イギリス砲兵隊はドイツの砲撃に反撃せず、音源標定による敵砲兵隊の位置を割り出すことに専念していました。

戦いの準備は秘密裏に行われましたが、機密はドイツ軍に漏れていて、11月20にフランダース地域に攻撃があることを知ったドイツ軍はロシア戦前から1個師団を移動し、前線の兵士たちを戦闘配置につけ待ち、構えていました。

1917年11月20日午前6時、陸軍航空隊の攻撃と共に、1003門の大砲があらかじめ位置を割り出していたドイツ砲兵陣地に対して、直接砲撃を開始しました。

同日6時20分、前進を開始した戦車隊の速度に合わせて、常に前方300メートルの距離になるよう煙幕弾による移動弾幕を張りました。正確な砲撃と煙幕弾により、ドイツ軍の砲兵は大きな混乱に陥ります。

このため戦車隊は、幅の広い鉄条網を踏みつぶしながら、大した被害もなく敵の塹壕に達します。

カンブレーに向かう、粗朶束を積んだマークⅣ戦車。 出典 Think Defence

幅の広い塹壕に対しては、かねてから用意していた粗朶束(細い木や枝を束ねたもの)を投げ入れ、これを超えました。

かくて戦車は順調に進み、後からは大勢の歩兵が続きました。

カンブレーの地図 黒線が11月20日作戦開始のイギリス軍の位置 赤線が11月30日のイギリス軍の位置 青線が12月7日ドイツ軍が反撃で進んだ位置

ただ南部のマスニエールでは、運河に架かる橋が戦車の重みに耐えかねて崩落したため、戦車の進行はここでストップしてしまいます。

戦車の重みで壊れたマスニエールの橋 出典 Wikipedia

北部では、カンブレーを見下ろす位置にあるブルロンの丘に、迫りつつありました。

中央部のフレスキエールでは、丘に上に残った第51師団の第108砲兵連隊は、6門の野砲を駆使して、下を通る戦車39両を撃破しました。特にテオドア・クリューカー軍曹はイギリス軍の攻撃で仲間を失い、自身も片腕を失いましたが一人で弾を込め、5両の戦車を破壊し、9両の撃破に貢献したといわれます。

これについてイギリスのヘイグ司令官は日記にこう書いています。

「フレスキエールにおいて、われらの戦車が被った損害の多くは、たった一人になっても持ち場を離れず、片手で砲を操作し続けた一人の砲手によって、もたらされた。

彼の働きは、すべての将兵に、感嘆の念を呼び起こした。」

しかし、善戦むなしくフレスキエールの丘に取り残されたドイツ軍は、全員夜のうちに撤退しました。

戦闘初日に破壊された65両の戦車の大部分が、この戦いで生じたものです。そのほかに71両が故障、43両が溝に落ちたりして行動不能になりました。

しかし、長らく懸念であったヒンデンブルク線の突破に成功し、1日で最大8kmも進軍して、4200名の捕虜と、100門の大砲を鹵獲しました。

長らく勝利に飢えていたイギリスは、国中の教会の鐘を鳴らし、これを祝福しました。

イギリス軍は11月28日には11キロも前進し、ブルロンの丘も確保しましたが、ここで戦力が尽きてしまい、占領地域を確保するため塹壕を掘り、陣地を構築しました。

 

ドイツ軍の反撃

1917年11月20日から始まったイギリス軍の停滞を見たドイツ軍は、11月30日から反撃を開始しました。イギリス軍はブルロンの丘に主力を回していたため、手薄な南部において浸透戦術を使い、攻撃をかけます。

 

浸透戦術とは

1916年のヴェルダンの戦いで、熟練の古参兵で構成する少人数の斥候歩兵が突撃し、彼らは火炎放射器や機関銃などの重装備でフランス軍前線の脆弱なところに突破口をあけます。

そのあと第2陣の歩兵が突撃して敵の後部に回り込み、後方と連絡を断たれた前線部隊に対して攻撃をかけてこれを殲滅しました。

この攻撃をフランス軍は「浸透戦術」と呼びました。

1917年ドイツ軍の東部戦線司令官オスカー・フォン・ユティエは、前年のブルシーロフ攻勢から塹壕戦を打破すべく新戦術を編み出しました。

オスカー・フォン・ユティエ(1920年) 出典 ウィキペディア

 

それまでの戦術は、砲兵による入念な準備射撃の後、大勢の歩兵が戦線全体で攻勢に出る方式であり、得るものが少ない割には多大な犠牲が出ていた。これに対しフーチェルは以下の手順を採用した。

  1. 準備砲撃を少なくし、重砲の榴弾と毒ガス弾による短いものに限り、敵前線を沈黙させる。ただし敵陣地を破壊はしない。
  2. 少数精鋭の突撃隊が移動弾幕射撃の支援の下前進し、敵陣の弱点を探って浸透する。その際戦闘は極力避け、敵司令部や砲兵陣地に攻撃を指向してこれを確保あるいは破壊する。
  3. 突撃隊の任務が完了した後、機関銃や臼砲、火焔放射器で重武装した後続部隊を前進させ、突撃部隊が攻撃を避けた敵陣地を沈黙させる。
  4. 残る歩兵が全力を挙げて攻撃し、残った敵軍を排除する。

1917年9月、フーチェルの第8軍は新戦術を用いて攻めあぐんでいたリガを攻略した(リガ攻勢)。続くバルト海での上陸作戦(アルビオン作戦)は第一次世界大戦で唯一の成功した上陸戦となった。

フーチェルの戦術は中央同盟軍でひろく採用され、オーストリア=ハンガリー帝国軍はカポレットの戦いでイタリア軍に対して浸透戦術を使い大勝利を収めた。またイギリス軍にカンブレーの戦いの際に奪われた土地を奪還する作戦でも使用され成功を収めた。

引用 ウィキペディア

 

11月30日午前7時、なんの舞うブレもなくイギリス軍陣地にガス弾が撃ち込まれ、混乱に乗じてドイツ突撃部隊が前線後方に進撃しました。

ドイツ軍の進撃速度はイギリス軍の想像を超えていたため、南部を守っていたイギリス第2個師団は、師団長以下司令部の幹部全員が、捕虜となってしまいました。

北部のブルロンではイギリス軍は頑強な抵抗を続け、ドイツ軍に多大な犠牲者を出しました。しかし、11月3日にブルロンの丘をドイツ軍が占領に成功したため、イギリス軍は撤退を開始して、11月7日、開戦前の位置に戻ったところで、戦闘は終了しました。

この戦いの損害はイギリス軍44000名、ドイツ軍34000名とイギリス側が多かったものの、イぎリス軍は領土を少し拡張しました。

イギリス軍の戦車による塹壕突破と、ドイツ軍の浸透戦術による塹壕突破の戦いは、翌1918年ドイツ軍の春季攻勢の戦いに持ち越されました。

 

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