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亀仙人2日本、地中海へ艦隊派遣
1917年1月11日、イギリス海軍から輸送船団の護衛のため、駆逐艦を地中海に派遣するよう、要請が来ました。
遠い地中海に艦隊を派遣しても、何の利益を生まないことに渋っていた日本政府も、青島攻撃後の「対華21ヶ条の要求」における日本への批判をかわすことと、新たに確保した南洋諸島の権益を確かなものとするため、1917年2月3個艦隊を編成して、イギリスの勢力圏に派遣しました。
第1特務艦隊は、ケープタウンとシンガポールに派遣されインド洋から南シナ海までの、警護に当たります。
第2特務艦隊は地中海のマルタ島に派遣して、エジプトのアレクサンドリアとヨーロッパを結ぶ艦隊を警護します。
第3特務艦隊は、ANZAC連絡航路の護衛を担当するため、シドニーに派遣されました。
この時地中海に派遣されたのは巡洋艦「明石」(後に「出雲」と交代)駆逐艦8隻で、第1次世界大戦が終了するまでの1年半で、護衛に出動した回数は348回、護送した軍艦・輸送船は788隻、護送人員は約75万人になりました。
第2特務艦隊旗艦の巡洋艦「明石」
出典ウィキペディア
特筆すべき活躍
1917年5月3日、マルセイユからアレクサンドリアへ行く英兵輸送船「トランシルバニア号」の護衛を受けた時でした。
翌5月4日午前10時20分ごろ、トランシルバニア号後方に魚雷が命中して、左側に傾きながら停止してしまいました。
そばにいた駆逐艦「榊(さかき)」と「松」が急行し、艦を横付けして乗員の救助に当たります。ちょうどその時、「松」をかすめるようにして、2発目の魚雷がトランシルバニア号に命中しました。
至近距離にいて800名の乗員を助け出していた、「松」は爆発の影響を受け、浸水し、負傷者も出たため輸送船を離れ、敵潜水艦の攻撃に入りました。
救助に入った「榊」はわずか5分の間に1000名の乗員を乗り移し、駆け付けたイタリアの駆逐艦や漁船と合わせて、3266名中3000名を助け出し被害を最小限に収めました。
駆逐艦「榊」の被雷
1917年6月11日、駆逐艦「榊」はオーストリア・ハンガリー海軍Uボートの攻撃を受けて大破し、59名の戦死者を出してしまいました。
第二特務艦隊 第11駆逐隊 「榊」 『日本海軍艦艇写真集 駆逐艦』より
6月9日、第二特務艦隊の駆逐艦「松」と「榊」はエーゲ海の奥、ギリシャ領サロニカまでの護衛を終え、根拠地マルタへの帰路につきます。護衛する船舶はなく2隻のみの航行でした。2隻は途中、ミュドロス島とミロス島に寄港し、11日10時30分(「榊」機関部戦時日誌や別史料では11時35分)ミロス島を出港。潜水艦出没警報の出ていたギリシャとクレタ島間の海峡を通過してマルタ島に帰還する航路をとります。駆逐艦「榊」はここで潜水艦の攻撃を受ける事となります。当時の天候は晴れ、北の風で波が立つが航行に支障は無く、もやが立ち視界は良くなかったようです。
両艦の間隔は300m(史料により600m)、両艦は「松」右で「榊」が左に並んだ隊形で周囲の警戒をしつつ航行していました。途中、12時30分に英駆逐艦「リブル Ribble」がギリシャからクレタに向かって両艦の前方を横切っていった以外は変わったことも無く、彼らの警戒も緩んでいたかもしれません。
13時32分、北緯35度15分・東経23度50分、「榊」は隊形外側200m(史料により180m)から突然魚雷による攻撃を受けます。攻撃を行ったのはオーストリアの潜水艦U-27とされています。機関部には突然全速が発令され、同時に取り舵(右回頭)が行われます。次の瞬間、艦全体には大きな衝撃が走りました。
「榊」艦橋にいた乗員の証言が残されていないので、その時「榊」艦橋で何があったかの詳細は不明です。他の記録などを併せて判断すると「榊」は接近する魚雷を発見、直ちに右回頭をして魚雷を避けようとしたのですが、距離が近かったためどうしようもなかったようです。
魚雷は艦首12cm砲の直下に命中、おそらく搭載していた砲弾も誘爆したため艦首が吹き飛びます。船体の約3分の1を失った「榊」は取り舵のままゆっくりと右回頭、ほぼ反対の方向を向いた状態で自然に停止しました。
「榊」の被雷を目撃した駆逐艦「松」はただちに総缶点火、接近する「榊」を避けて右回頭を行い、その後ろを回って魚雷が発射されたとおぼしき地点に爆雷を投下します。日本海軍がはじめて爆雷を実戦使用した瞬間となります。「松」はその後「榊」から約1000mの距離をおいて不規則に周回、潜水艦からの次の攻撃を警戒しました。
一方、被雷した「榊」は艦橋を失ったために操艦能力を失いますが、後部にいて助かった吉田庸光大尉は機関停止を指示、次いで後進を指示。「榊」をゆっくりと後退させます。吉田大尉は無事だった後部8cm砲を指揮して周囲への威嚇射撃を行わせます。「榊」は威嚇射撃を1時間にわたって行い、搭載していた砲弾のほとんどを消耗して14時34分に砲撃を停止しました。
「榊」の被害は、当時艦橋にいた士官のうち、艦長上原太一中佐は爆発で吹き飛ばされ戦死認定、機関長竹垣純信機関中佐は重傷となって後に死亡。艦橋当直士官庄司大尉は重傷。
死者は上記士官2名のほか、准士官2名と下士官28名、水兵および機関兵その他27名が犠牲になっています。准士官と下士官で30名と、死者の半数以上を占めるのは、魚雷命中箇所の直後に准士官室があり、そこにいた全員が死亡したためです。
「松」から発信された救難信号SOSを受信した連合国艦船は、直ちに「榊」遭難現場に急行します。真っ先に到着したのが、「榊」被雷前に進路上を通過した英駆逐艦「リブル」で、14時50分現場到着。危険海域にもかかわらず、「榊」横に停止、直ちに短艇を降ろし、士官と水兵を「榊」に乗船させようとします。「榊」ではこれを見て15時05分機関を停止。直ちに乗船した英士官は、「榊」後部で指揮をとっていた吉田大尉に、「艦の損害甚大と判断するので、生存者全員を移乗させて、艦を放棄しよう」と提案します。これを聞いた吉田大尉は、戦闘旗(軍艦旗を後部マストに掲げていたのか?)を指差して、「ノー」と拒否。本艦は未だ戦闘旗を掲げており、放棄しないという意志を示します。
このあたりは、世界最大の海軍力を誇る英国海軍と、新興国日本海軍の意識の違いが現れて面白いです。英士官は「これだけ損害を受けた駆逐艦は放棄して新しい駆逐艦を作った方が合理的」と考えたのでしょうが、日本人としては「まだ浮いている艦を放棄するなんてとんでもない。これは俺たちの駆逐艦なんだ」と思ったのでしょう。英士官は吉田大尉の意図を理解し、まず短艇で負傷者を「リブル」に収容した後、「榊」の曳航(えいこう)準備を開始します。その作業手順は日本側から見て極めて手際がよく、全ての日本側文献で賞賛されています。
曳航準備が完了し、曳航が開始されたのは15時34分。この頃になると別の船団を護衛していた護衛艦も現場に到着し、「リブル」に曳航される「榊」を護衛する体勢をとります。
途中17時40分と20時00分に曳航索が切断しますが、「リブル」はその都度曳航索を取り付けなおし、23時30分、無事スーダに到着しました。 (以上、引用 週刊ジャーニー)
被害を受けた「榊」は、ギリシャのピレエフスで艦首部分を切り取り、新たに作り替える工事を受けます。
修理を開始してから約10か月後の1918年4月、回航支援の駆逐艦「柏」と共に、マルタ島に戻りました。
修理を終えた「榊」は2度の交戦した後、第1次世界大戦終了と共に日本に戻りました。
マルタ島にある戦没者慰霊碑
マルタ島にあるカルカーラ英連邦墓墓碑地(旧英海軍墓地)には、駆逐艦「榊」の被害者59名を含む、地中海遠征でなくなった73名の遺骨が納められた第二特務艦隊戦死者の墓碑が建っています。